まず例をあげよう。
ある女子高校に勤める教師が生徒から浮きあがってしまった。
彼は女性と接するのがこわいのである。
女生徒をさける。
あたりさわりのない話しかできない。
彼は小・中・高を通して「まじめな山田君」と評されてきた。
それゆえまわりの人間のイメージをこわさないためにも、「まじめ人間」であろうと努力してきた。
そしていつしか自分でも自分のことを「まじめ人間」と思い込んでしまった。
ところが、青年期以降、人なみに性感情が高まってきた。
彼としてはそういう自分を認めることは、「まじめ人間」という自己イメージをこわすことになる。
そこでイメージをこわすまいとして、性感情をもっている自分を拒否する。
つまり、思い込みの自分とあるがままの自分が対立している。
この緊張に耐えられなくなったのである。
要は自分も人並みの人間であることを認め、そういう自分になりきればよいのである。
それをしないから生徒に欺瞞性を見破られ、相手にされなくなったのである。
ふれあいをもつためには、あるがままの自分を、自分がまず許容することである。
あるがままの自分を認められない人のことを自己嫌悪の人という。
自己嫌悪の人は他者をも嫌悪するのがふつうである。
つまり人の好き嫌いの激しい人は、概して自己嫌悪の人である。
例の高校教師についていえば、性感情をもつ自分を嫌悪するがゆえに、性の対象を回避するのである。
たとえていえば、自分の顔が気にくわない人ほど人の顔がよいとかわるいとかを話題にする、あるいは黒人である自分を嫌っている黒人ほど仲間の黒人をバカにする、また、女性である自分を嫌悪している女性ほど、女っぽい女性を嫌悪する、といった具合である。