人の話は非審判的に傾聴すべきであるというビリーフは大部分のカウンセラーのビリーフである。
人を批判してはならぬ、非審判的に相手の話を受容すべきである、というのである、というのである。
その結果、自分の喜怒哀楽を出すべきではないと考えるようになる。
俗にいうところの「はぁ、うん、うん、」の応答しかない。
これは私にいわせれば慇懃無礼である。
しからずんば無能ということになる。
人の話をきけば、当然自分のなかになんらかの反応がおこるはずである。
「つまらない話だ」「松葉末節にこだわりすぎている」「この人は正直な人だなあ」「生意気な青年だなあ」など、聴く側にある種の感情がおこってくる。
それをおさえて、無表情・無感動のまま「はぁ、うんうん」と話をきくだけでは、心のふれあいはおこらない。
つまりカウンセラーが人と心のふれあいがもてない人間になるのは、ひとつの職業病である。
カウンセリングの勉強が足りないと、ひとつの原理に忠誠をつくすから、ルールを無視してホンネの自分を相手にぶっつけるだけの勇気が出てこない。
赦し、受容、非審判性、共感性、支持などはよいことで、説教・注意・叱咤・激励はよくないことだと多くのカウンセラーは思っている。
しかし、そんなことはない。
人を教育するには母性原理と父性原理のバランスがとれていなければならない。
プロのカウンセラーのなかには、父性原理の発揮をためらっている人が少なくない。
教師のなかにも管理者のなかにもそういう人がいる。
ところで私のいう父性原理とは現実原則であり、母性原理とは快楽原則のことである。
すなわち父性原理とは人を甘えさせないきびしさであり、母性原理とは責任を追及しないいたわり、やさしさである。
人生の未経験者は口ではえらそうなことをいうが、内心では誰かに頼りたい気持ちをもっている。
是々非々をはっきり示してくれる人を求めている。
仮にその考えが時代おくれのものとしても、自分の考えに自信をもちそれを表明する勇気をもっている人を私たちは信用する傾向がある。
言動に一貫性があるから信用できるのである。
裏切られるのではないかという不信感をもたない。
自分の考えを表明しない人は、いざというときどうなるかわからないので気味がわるい。
安心して自己を表明できない。
もっとも、なんでもウン、ウンと聴いてくれるので話しやすいという場合もある。
それは聴き手が自分なりの識見をもっている場合である。
識見をもった人がウン、ウンをきくのと、識見のない人間ー人の話を聞くためには自分の識見をもつべきではないと思っている人もいるーがウン、ウンときくのとでは大きなちがいがある。
最近私はある青年に会った。
三十五歳というのに定職もなく女房もいない。
対人関係がうまくいかず、今までずっとモラトリアム時代の延長だったという。
ここ十年来、三人のカウンセラーに合計三百回は面接してもらった。
彼がいうのに、キリスト教に影響され、選民思想がある、ゆえに人をみると見下すか説得して彼の思想に同化させたくなる。
そのため友人に好かれない。
ところがどのカウンセラーも「はぁ、ウンウン」聴くばかりであった。
ひとりだけ、それは聖書の解釈がちがっている、といったそうである。
私は聖書の解釈など知らない。
選民思想といっても、むかし社会科で習ったていどの知識である。
しかし、私は私の感情をよく知っていた。
「こんな野郎に説教されてたまるか。こんな奴が選民だなんて、俺は信じられないよ」という不快感があることを知っていた。
そこでこういった。
「君、態度がでかいなあ。俺なんか君のいい方や思想にふれると、むかむかしてくるなあ。これじゃあ、友達なんかできないのは当然じゃないか。もっと人に好かれるキリスト教はないのか。君、誰にそんなことを教わってきたんだ。それは君自身の考えか。誰かの受け売りか。受け売りとは盗作だよなあ。とにかく、今までこの世のなかを、そんないい加減なことでよく生きてこれたなあ」
これがよかったらしい。
今までこんなに正直にいってくれる人がいなかったという。
彼は私を信用し、好いてくれた。
誰かひとりくらいそういってくれてもよいのに、と自分でもうすうす思っていたという。
非宗教人でも、なかなか宗教についてはきついことはいわないものである。
それは、神・仏は親イメージだからである。
親批判は罪障感を呼び起こすからである。
私が正直にものをいったので、彼も正直になった。
ふれあいがおこった。
「実は私もこの思想から解放されたいのです」と自分のメインテーマを語るようになった。