2023年9月25日になりました・・・
前回から、約二週間位過ぎてしまったので、もう一度前回を読み直して
※ 私の部屋ではなくて・・・いつも行く ”美容院” の風景です。
ステキな写真集とか、デザインに関する本が並べてあります。
無造作に置いてあるようで、計算されて置いてあります
私は、運がよくて・・・念願の既製服業界に、入社しました。
(株)34の、М・М課には、企画室・営業部・生産課がありましたが、
私は、企画室のデザイナー (名前ばかりで、何も出来ませんでした・・・)の一員になった訳ですが、
生地をあてがわれるわけでもなく、
先輩の、アッシー的な存在 (当時はそんな言葉なんてなく、使い走りのような❔❓)
生地をあてがわれるという事は・・・
量産する生地はMDが手配し、それぞれのデザイナーに
「この生地に会うデザイン画を描いて、自分に提出するように・・・いついつまでに・・」と、
生地を渡すシステムです。
多く採用されて、多く売れるデザインを起こすことが、デザイナーとして評価されます。
たまに、デザイン画が採用されても、パターンは各自自分で起こす決まりです
デザイナーでも、サンプル商品 (量産化される前の商品のこと) のパターンは
自分で作らなければいけないのです・・・
立体裁断なんて経験ないので、かと言って先輩たちに時間をさいて教えてもらう訳にもいきません
※ “ソウル ・ライター” というカメラマン・・・美容室に写真集で知りました。
印象的なカメラマンですね・・・
朝早く出社して、先輩の組んでいったボディを眺めて
「ああ~~こういう風に、すれば出来るのかな」
あとは、それを平面化してパターンにすればいいのか・・・
全くいい加減なパターンでしたが、一応被服科卒業なので、
パターンを作り、サンプル工場にだしていました・・・
でも、見よう見まねで・・・会社に行って、仕事らしき事、していましたね
今では、恥ずかしくて、机の下に隠れたいくらい
※ 机の下のオブジェ❓ 枝ものがさり気なく置いてありますが、良い雰囲気
そんなある日、父からだったか❔ 母からだったか ❓ 電話が入りました・・・
母の体が良くないから、大きな病院で検査をして、手術するかもしれないと・・・
そして、手術後に、
逸る気持ちで、病院に向かいました・・・
結局、母は入院して手術室に入ったもの、
手遅れで、切開後閉じてしまったと 連絡を受けました。(2月でした・・・)
そして・・・
余命半年・・・
手術には、父と伯母 (後に養母になります。) 大学生だった妹が立ち会ったそうです。
母の手術した病院は、自宅から離れた場所にあるため、妹は
母のベットの下に布団を敷いて看病していました・・・
そういう連絡を受けて、私は即、母の入院先へ・・・
母には病状を伝えてないから、くれぐれも涙を見せないようにと言われていました。
待合室のテレビで、『赤軍派の浅間山荘事件』が放映されていた日でした。
私:「お母さん手術に立ち会えなくて、ごめんね
」(必死でも、涙声だったと思います)
母:「ええよ あんたの念願だった会社を、大切にしたらええよ~~・・・」
母:「お母さんは、大丈夫じゃけ~~ 退院するまで、N江に付き添ってもらうけ~ね。」
そう言われて、私は病院から再び東京へ・・・
私を応援してくれる母・・・
(当時はそんなに深く感謝していなかったけれども・・・)
頑張らなきゃ と、山口を後にしました。
※ 現在の新山口駅
当時とは全く違います・・・なにせ、50年も過ぎていますから・・・
パターンの出来ない私でしたが、
(株)34 は、素晴らしい会社でした。
会社の社長は二代目の方でしたが、パターン技術に重点を置く方で
当時としては、珍しいくらい、人を大切にする会社でした。
デザイナーと、パタンナーは
1年に二回、ニューヨークから帰国する【大野順之助】さんの講習を受けさせてもらえるのです。
しかも、就業時間に・・・・
当時の大野先生・・・まだ若くて、シーチングをボディに当ててハサミで形にする姿
すごくてね
自分でも人並みに努力はしましたが、(株)34に入社出来たことが
この後の仕事人生を大きく変えてくれました・・・
そして、(株)34に、感謝しています。
※ 母と一緒の写真・・・二人とも幸せそうな雰囲気です。
妹が撮ったのだと思うけれども、ピンボケ
今日は、母の51回目の命日です。