今年も白花夕顔と赤花夕顔が咲く頃になりました(*^-^*)
昨日、父ちゃんの4回目のワクチン接種券が送られてきて
3回目は副反応(モデルナ)でしんどかったからな、次はどうでしょう
本人は副反応が重いほどワクチンが良く効いているんだ!と言いますけどね( ̄∇ ̄)
かかりつけ医では9月初旬まで予約が一杯で集団接種を検討中です(どこもモデルナらしい)
もう、ちょっとどころじゃない、急激に増えてる
ワタシが暮す地域も最多更新しつつある(一昨日は約3,000人、昨日はもうちょっと少なかった)
このまま行けば、お盆頃には5,000人台半ばに達すると予測されてるらしい(゚_゚;)
身近に迫って来てると感じたのは
息子の会社の外回りの人がコロナになり、息子も同僚達も検査したんだそう(大丈夫でした)
20歳代で若い人の罹患
熱とかそんな症状は一切無いのに、とにかく腰が痛くて痛くて立っていられないと
見聞きするコロナの症状と違うけど、こんなケースもあるんだと驚いた所です
※長文です。他人のフシアワセになんか興味ないょ~って方はスルーしてくださいね(-.-)
さて
ワタシは最近、昔のことをよく思い出すようになりました
孫を通して、その年の頃の自分を重ね、考える事もあります
自分自身の事は
自分で考え決める事ができた人生で、誰のせいでも無く、後悔はありませんが
家族の事として捉えると心を痛める事が多くあります
もうどうにもならない事なのに・・・年をとったからでしょうか( ̄∇ ̄)
4年前、生家で兄家族と祖母と暮していた母が急逝した
いつも、夕方の忙しい時間帯に長電話をしてきて、一方的に喋り倒す母からの着信
まぁ、いいっか。
今、忙しいから後からかけ直そう。。そのまま忘れる。。。
2日後にかけたけれど、母は出ませんでした
その3日後には母の日がある
ネット注文して届いた紫陽花を届けに行くから、その時でいいよね
まぁ、いいっか。
ワタシが思った
まぁ、いいっか。
は、生涯悔いる事になり、その母の日は母の葬式になった
鑑識の見解
1度目はロープが切れ失敗、自宅に戻り再び準備した上で覚悟しての行為
生家の山で変わり果てた母の姿
兄は「よぉそんな勇気があったもんだ。鬱だったそうな」と言い放った
兄嫁は「桜子さん、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。」と絶叫していた
たまにしか行かないワタシに生家の人達は皆うまく取り繕う
母:祖母も、母:兄も、母:兄嫁も、ワタシはいつも中立の立場で聞いていた
そこまで悪化していたと、兄嫁の悪意、家庭不和に気付けていなかった
『〇〇ちゃんだけが悪いんじゃないょ』
そう声掛けし、兄嫁を抱きしめた自分の行動を悔やんでも悔やんでも悔やみきれない
一旦帰り次に会った時の彼女は
泣き叫びながら過呼吸になりながら謝った事すら無かった事のように振る舞っていた
2人姉妹の姉が嫁に行き自分が家を継ぐ事になった
親が決めたから。親の言う通りにしたら間違いない。。と、この世代の人はよくそう言う
母が自分の命をかけてまで守りたかったのは
先祖から継いだ家の為、家督のため、12代目である自分の代で終える事だけはしたくない
自分がいなくなれば解決すると思ったのだろうか
何時代の話なんだろう
兄嫁が溺愛していた3番目の子も自立し巣立った喪失感、兄夫婦と母と祖母の暮らしになる
結婚してる3人の子供の家を転々と移動しながら暮すのが夢だった兄嫁
母を悪者にし兄と揉めさせて夫婦で家を出る口実が欲しかった
自分の夢だけを叶える為に
自分が悪者にならないように陰湿なことを重ねていく
親も兄弟も居ない、単身の叔父と暮す17歳の高校生だった嫁を妊娠させたのは兄
1人で家事育児が出来ないと同居を望んだのは彼女の方だった
ご飯すら炊けない、挨拶すらしない、驚くほど何も出来ない人だった
子離れできない兄嫁は50歳を過ぎただろう、そんなくだらない事で母は死に急いだ
あの時電話に出て話を聞いてやっていたら・・・
最悪の事態にはならなかったかもしれない
ワタシにも、何か出来る事があったんじゃないか・・・と
その時も、今でも、今からも、そう思い続けると思う
父も先月亡くなった
最後に会ったのは母が亡くなった時で、電話で話したのは3年前
電話が繋がらなくなり(痴呆症になり施設や病院にいた)家も嫁さんの連絡先さえわからず
代わりに嫁の長男が連絡して来た頃にはコロナの世の中になり
生前の父に会う事は難しく、久しぶりに顔を見たのが棺の中
親が2人とも亡くなり、1つの時代が終わったように感じて
自分の人生を振り返り考える事も増えました
皆さんも親御さんを亡くされた時、そんな想いになったのでしょうか
母の実母である祖母は大正7年生まれの104歳で健在です(同い年の祖父は75歳で死去)
最後に会ったのは3年前
平日は生家からディサービスに通い、認知機能の衰えはあっても元気そうでした
先月だったか、体調を崩して入院したと弟から聞きました
祖母は長寿でしゃんしゃんした人なので、私自身も親の老いに疎かったのだと思います
多くを語らない母がどれだけの苦悩を抱えていたのかを知るのは亡き後
もっと大事に想ってあげたら、心に寄り添ってあげたらと、悔やまれます
母は死去後ワタシを金縛りにさせ
何故死んだのか
誰が追い詰めたのか
今、自分がおかれているいる状況を、自分目線で伝えて来たりしてました
そんな多くの不思議な事が3年ほど続きました
他人さんには怖い話かもしれませんが、母の心を鎮める為の努力は惜しまなかったです
何も感じなくなった頃
母の行く先を案じながら、再び訪れた別れに淋しい気持ちになったのを覚えています
今、父の遺骨を預かり帰り手元供養してますが
何も感じません
自分の思うように我を通した思い付きの人生を生きた父
もし思い残す事があるとしたら
溺愛していた血の繋がらない孫である男の子の事
(嫁の娘が夫と死別後に育児放棄し、赤ちゃんの時から父と嫁が預かって育てていた)
ワタシも赤ちゃんの時に会った事がありますが、この前見た時にはもう中学生
その子の事が唯一の気がかりなんじゃないかと、父はそばにいると思います
母は孫(弟の子)と、父はその子を連れて、2人で会ってたりもしてた
よくわからない変な関係ですね
兄は幼少期に跡継ぎだからと生家の祖父母に育てられてた時期があり
5人揃って、3兄弟揃って暮したのは、弟が生まれた当時の半年に満たない
兄が欠けるか・・・、ワタシが欠けるか・・・
父のせいで兄とワタシは生家に預けられた(その後兄はそのまま生家で暮す事になる)
その期間が約2年だった事、赤ちゃんだった弟は父の実家にいた事
口に出したらいけない雰囲気で親にも聞いた事がなかったですが
つい2~3年前、父の妹である叔母に教えてもらいました
そんな、親子兄弟離ればなれの暮しがあったワタシの家族
親の反対を押切り都会に出したのに、父は同郷から愛人を呼寄せ近くに住まわせていた
知った母が子供を置いて飛び出し、困った父が子供を生家に預けに来た
そりゃぁ祖父も怒り心頭でしょう
子供を置いて2年も行方不明だった母もどうかと思うし
親の身勝手で辛い思いをするのはいつも子供達
幼いワタシは母が飛び出した時の光景も、2人が迎えに来た日の事も良く覚えています
先祖代々の家を継いで守って行く為に
先で必ず娘夫婦が戻ってくるように
兄だけは手元に残し手放さなかった祖父(結局兄が高2、私が高1、弟が小6の年にUターンした)
周りにも長男を残し都会で働き仕送りしてた人がいたので珍しい事ではないと
兄を残してまで都会に戻った両親は
その選択が将来ずっと影響し続けるなんて、当時思う事はなかったでしょう
(頑なで世間知らずの兄は自ら羽ばたく事も無く、自分のふがいなさを生い立ちや親のせいにばかりしてましたから)
原因を作った張本人は、兄との関係の修復もしきらないまま出て行った
兄を育てられなかった後悔が他人の子を育てるきっかけになったのか?は分かりませんが
何の因果なんでしょうかね、人生とは不思議なものですね
父は最後の最後まで仕事を求め奔走していて
うちに手伝いに来てもらう事もあり、その時には先払いを頼まれてました
子を育てる為に必死だったようです
歳のせいで大工仕事も見つからず、福祉の世話にはなりたくないと最後まで抵抗し
嫁さんが倒れ入院、父は認知症を発症、共倒れした
生活が立ちゆかなくなり福祉の援助を受け始めると
唯一ワタシに連絡してきていた嫁さんの長男からの電話は途切れた
何も聞かされないまま、何もしてあげられないまま
最期は膵臓癌を患い77歳の人生を終えました
両親の結婚生活は40年、今の嫁さんとは15年位でしょうか
これからのワタシの人生は
母の日の頃が命日の、母を想い
父の日の頃が命日の、父を想う
男の子は大事にされ女の子はいらない(田舎ならではの価値観とゆうか昭和脳ですね)
差別されて育ち15歳で社会に放り出された自分が、今もこうして亡親を心配している
罪作りな親をもったのだとつくづく思うのです
今のワタシの関心事は墓問題
嫁さんが30歳代で死別したご主人は某宗教の墓で眠る
嫁さんもその宗教だけれど再婚したから名字が違うし父と入りたいと言う
父はその宗教とは無関係
本来なら5人兄弟の長男で継ぐべき家があったのに婿養子に入った(次男の叔父が継いでいる)
離婚しても母の姓を名乗ってるので実家の墓にも入れない
そぅ、2人とも墓が無いのです
生活苦で何も残していない父への最後の親孝行は父と嫁さん2人分の終の棲家
ワタシが負担する事になりました
家族関係が複雑になればなるほど色々な問題がある事、現在進行形
親を反面教師に
とにかく普通で平凡な人生を送れるよう、日々努力して生きる事を学んだ気がします
叔母(父の妹)が「手を合わせに行ったら花も無く可哀想だった」と言ってたので
そんな父へ100均の造花で菊の花のお供えアレンジを作りました
高さ50㎝程のフラワーアレンジ、造花でも無いよりはマシでしょうか
埃除けにセロファンでラッピングを施し飾ってもらいましょう
今日はダラダラと、まとまりが無くてすみません
少し重い話になってしまいましたが、お付合い頂きありがとうございましたm(_ _)m