シアワセ、時々、フシアワセ

人生の折り返しをとうに過ぎた
ワタシの喜怒哀楽

あの頃の 懐かしいグラス

2024-02-17 | セピア色の記憶

昭和レトロなグラス

 

ミキサーに、バナナ、缶詰のみかん、お汁少々、牛乳、お砂糖、氷、を入れる

スイッチを押す

やかましい音を立て出来上がるのは《ミックスジュース》

母はジュースをこのグラスに注ぎストローをさし出してくれる

時には無水鍋でホットケーキ、蒸しパン、焼き芋、プリン、べっこう飴

母が手作りするおやつをワクワクして待っていた子供時代

いつも使っていた無水鍋だってワタシには想い出深く

兄嫁がその場を離れ大焦がしして火事になる寸前、再起不能に

使えなくなっても母は戸棚の高い所に大事にしまってたのをワタシは知っていた

 

ミックスジュースの味はもちろんだけど

ずっしりと重くてキラキラしてるこのグラスの方が印象深く忘れられなかった

ワタシが幼少期の頃、母は家で内職をしていて

当時の集合住宅の2畳ほどの玄関内にゴザを敷いて、そこが仕事スペース

大袋に入った裸の割箸、札束の様にくくられた大量の箸袋、いつものお兄さんが持って来る

仕事内容は小学生でもできる単純な作業

箸袋の中に箸を入れ100本単位にまとめる、それだけ

内職の手伝いをすると1本1円の報酬が即金w(小学生時代(4.5.6年)の小遣いは月3,000円だった)

近所の友人達を連れてきて皆で手伝う事もあったと記憶してる

母が業者からもらう単価は覚えてない、現代では、いとも簡単に機械がこなす

 

割箸より単価が良く長く続けてたのが

電気の線(赤や青や黄などの細い線)を縒ったりハンダ付をする電子部品の内職

同じ色の線の束から1本ずつ数本をまとめ机に付けた機械に挟みハンドルを回して縒る(ねじる)

短い物から長いものまで色々あって、当時のビニール臭を鮮明に覚えている

10㎝ほどの小さな電気コンロに小さな鍋をかけ

アルミのインゴットを溶かし

縒った線の先を浸け1本に固める作業

危なくない手伝いとしては、数を数えて束にするのがワタシの役割だったような…

弟が幼稚園児の頃だったか

足にコードを引っ掛け、熱されドロドロになった液体が太股にかかり火傷を負った

その事で父が激怒して辞めてしまえ!と怒鳴り母が泣いていた

当時の男の子って、すごい短い短パンをはいてるのが普通の時代でむき出しの足

太股の付け根付近に2㎝位のケロイド

あと数㎝でチンチンでしたから…ね、今でも痕が残ってると思います

 

まぁ、そもそもね

近所のお母さん達、まだ少数でしたが外で働く方が増え始めた時代

日中はワタシも弟も学校に行くので子育てが少し落着く頃

高度成長期の大阪では郊外(主に富田林地域)にどんどん建売が建ち、大工の父は仕事には困らない

母が外で働くことは絶対にダメだと、大反対だった父

だから、内職をしていた

当時、憧れだった、首に鍵をぶら下げてた同級生

うちら姉弟は鍵っ子にはなれない

高給取りの父のお陰で周りの家に比べたら裕福だったので感謝ですが

子供が学校から帰った時に母親には家に居てあげて欲しい・・・から?

今思えば、そんな子供を思う父親では全くなくて

仕事中に家に寄った時に母が在宅してるのが当り前であり

気まぐれで手弁当を家で食べたい時に母が居ないと不機嫌になる

自分の支配下に置いておきたいだけの事だったと思います

そういう時代なのか

父が特別変わってたのか

わかりません

大人達の事情で長男(1つ上の兄)を田舎に残してるので祖父母には相当な額の仕送りをしていて

母は内職を頑張って、少しでも父の負担を軽減したいだけだったのに

破天荒な父の行いと異常なまでの束縛

それらが原因の親の揉め事に振り回されてきた私達子供

母がやっと条件付きでパートに出だしたのはワタシが中学生になった頃

その条件ってゆーのが(大人になってから知ったけど)女性ばかりの職場

その一択のみ

そんなに大事な嫁なら、もっと大切にしてあげたら良かったのにと

長い年月が過ぎた頃、父と母がたどり着いた先に思ったことです

 

話しが逸れましたね( ̄。 ̄;)

 

社交的だった母の夢は喫茶店をする事だった

書いたように

こんな父と一緒にいる以上到底無理な話で、同窓会すら行かせてもらえなかったし

そんな中でもね

行きつけの喫茶店でグラスとかを譲ってもらい、家に来た人に今で言う《おうちカフェ》

冷コー(アイスコーヒー)は足付きのグラスに紙包装のストローを縦にくっつけ出す(グラスの水滴で)

コーヒーの液体クリームは銀色の小さいカップ、フレッシュって言ってたかな

カゴに入ったおしぼりは夏は冷し冬は温める

喫茶店の様なおもてなしをして(無償提供です)、グラス類も食器類にも拘ってた母

うちには何故か当時流行ったインベーダーゲームのテーブルがあったりして

知人友人たち、大人もだけど

近所の不良のお姉ちゃん達も悩み相談に来るような来客が多い家になり

狭い家で居場所がなくなるので自分自身はあまり嬉しくなかった記憶です

そう言えばこんな事も

寒い時期以外は玄関戸を開けたまま内職してた母の元に業者の人が内職を持って来てて

母のおうちカフェ、コーヒー出してお喋りしてた所に父が帰宅

楽しそうに見えたのか?いきなり業者の人(母より少し若い人)を殴った

父は短気で喧嘩っ早く、自分勝手な性格は変わらないまま、次の家庭で77歳の生涯を終えました

 

母亡き後

兄家族と暮らす生家に1日おきに遺品整理(自室のみ)に通ったワタシ

生まれた家とは言え、暮らした日々は少なく敷居が高い家

兄嫁や子供達は無情にも早々に母の物を現金化する事ばかりを企んでいた

兄嫁に見つけたら譲って欲しいと再々お願いしたけれど、のらりくらり

渡されたのは高校の卒業証書と小学時代に作った自分の工作の作品だけ

ずっと昔から

滞在時は食材を買って行く、甥達へのお土産とか、気を使う帰省で手ぶらでは行けない場所

ワタシや弟の子供にお菓子1つでもくれた事がない、元々ケチな兄嫁ですから

ただのグラスなのに、ワタシが欲しがったから悪意が芽生えたんだろう

甥がフリマで売ったらしい

子供が勝手にやった。〇〇がそうしろと言ったから。誰かのせいにするのは彼女の常套手段

ただのグラスだけど、ワタシには想い出多き物

厳しく恐い母が、楽しそうで嬉しそうで優しい時間が流れる時のグラス

 

兄嫁に無水鍋を形見に欲しいとお願いすると

『まだ使ってるからーごめんねー』だってw貴女がダメにしたんでしょうに

戸棚の1番高い所にしまってたのは、兄嫁が150㎝もない身長で手が届かないと思ってだったのかと

当時100歳でもピンピンしてた祖母に言って持帰り、再生しようと修理業者を探してみたけど見つからなくて保管中

コゲが落ちず持ち手が変形、反りが出て密着できず;お鍋の病院って無いですかね?

 

少し前に用事があって、電話で兄と話して、ふと思い出したあのグラス

メルカリで探すと・・・見つけました

最近は昭和レトロな物が人気でしょう♪探したタイミングが良かったみたいです^^

シールが付いた未使用品

母のグラスではないけれど、幼少期に憧れたこのグラスを手に入れた

あの日から丸6年、今は母の写真の横に飾っています

午前中の時間帯、太陽の光がグラスに当たるとキラキラと輝いて

幼かった自分の事も思い出されます

 

他人にとっては何でも無い物でも、自分にとっては想い出深い大切な物にもなる

物の価値感ってそれぞれですもんね

今日もありがとうございました

 

今日は良いお天気ですよ~( ^o^)ノ

 

 

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