隠れ家-かけらの世界-

今日感じたこと、出会った人のこと、好きなこと、忘れたくないこと…。気ままに残していけたらいい。

日常を越えて~『あわれ 彼女は娼婦』

2006年07月30日 13時56分53秒 | ライブリポート(演劇など)
 7月28日、『あわれ 彼女は娼婦』(シアターコクーン)観てきました。実はちょっと苦手な蜷川演出。それでもだいぶ前に先行予約でチケットをとってしまったのは、近親相姦というテーマと、三上博史(特に好きというわけでもないけど、ストイックな活動のしかたや軽いテレビドラマでも役に入り込んでいる姿にちょっと違和感を感じつつ、気になる存在ではありました)、深津絵里(テレビドラマの自然な無農薬野菜風な演技が好き)の主役二人の存在が大きかったかも。

★ちょっと苦手な蜷川演出
 原作はシェークスピア同時代の作品、そして蜷川演出ということを考えれば、テーマの普遍性や宗教性はともかく、熱いスピード感あふれる舞台になるんだろうな、という予想は裏切られることなく…、という感じだったな。
 最初のステージですでに、三上ジョバンニは妹アナベラへの苦悩の愛を狂おしく激しく吐露していたし、兄妹をとりまく状況、アナベラを取り巻く男たちの絵模様なんぞがまたたくまに明らかになる。そのあたりはたぶん観客が乗り切れないことなんか、もうおかまいなしに、どんどん先へ先へと走り、たたみこまれる台詞の一つ一つを確認しながら(あるいは確認する余裕もないまま?)、流れに乗っていければ、しめたもの。
 でも、どこかの雑誌で「最近は笑いを求めて芝居を観にくる人が増えているなか、あえて笑いの手を借りずに舞台をつくる」みたいなことを蜷川氏が語っていて、そのあたりはちょっと反省もありつつ、じゃ、観てやろうじゃないのよ(笑)という心境にもなったのです。
 別に悪いことではないと思うけれど、十代の頃って、ふざけたヤツではあったんだけど、でも反面妙に生真面目なとこもあって、本や芝居や映画を不必要に(!)深く考えようとしてたような。ま、一時期そんな時代があっても悪くはないでしょ?
 でもいつの頃からか、「重いものはもう結構。おなかいっぱいだし」みたいなのが自分の中に芽生えてきて、なんでも軽く受け止めちゃうことが多くなったような。それも悪いことではないけどね。生きていかなくちゃいえkないんだし。
 と、そんなときに蜷川氏に久しぶりに再会です。相変わらず、何か重いものをひっさげてやっているんだな。スピード感はあって勘違いしちゃうけど、でも軽々と駆け抜けていく舞台じゃないしね。そんな、あまり内容とは関係ないこともありつつ、です。
 
★日常からは離れて
 でもテレビや映画とは違って、舞台には普段私たちが見聞きし味わっている日常にはないものを求めるとしたら、やっぱり蜷川演出は正統派だと思う。リアルであることより、そういうものを軽く飛び越えた次元が目の前いに繰り広げられ、舞台上の人に感情移入はできないけれど、不可思議な浮遊感を味わえるのだから。
 「愛」とか「苦しみ」とか「君」などという名詞を彩る形容詞の飽和感(こんな日本語ないけど)、「愛する」「会う」「死ぬ」という動詞を飾る副詞がこの世の中にこんなにあったなんてという驚き。そうです、私たちはあまりに安易に感情を表現しすぎます。「あったまにきた!」「メッチャうれしい」「泣ける~」、もちろん私もそう。でもたぶん心の中にはこれよりは多少は多めの単語が生まれたり消えたりしているはずなんですよね。それをたまにはオモテに出していいかな、なんて、またまた芝居とは関係ないことを考えてしまったのです。


★テーマの重さ? 実は重くないの?
 「近親相姦」は家族という単位が世界のおおもとにあるならばたぶん普遍的なテーマで、なんできょうだいじゃダメなの?という素朴な疑問は無宗教な日本人にはただ「倫理観?」という曖昧模糊としたところに押し込めて、明確な回答なんか出てこないものなのです。倫理観…って、今のなんでもOKな時代に。ねえ?
 それでもつまりは「男と女のラブストリー」であることは確かなわけで、その中で苦しむ若い兄と妹の物語なわけです。アナベラを追いまわす求婚者を狂言回しだと思えば、ギリシャ悲劇やシェークスピア悲劇や、日本の歌舞伎にも当たり前の「フォーマルな芝居」ってことなんだろうな。

★僭越ながら「すばらしい」
  これ言いたくて、このレポを書き始めました。主役二人の台詞のすばらしさ。三上博史はその口跡に兄の苦悩を乗り映させていたし、それを小手先のテクニックで味付けしなかったことに拍手を。そして身のこなしのキレのよさも印象的でした。
 そして、深津絵里のハイトーンに伸びる声の美しさ。野田秀樹の芝居など出演作は全くみていないので知らなかったのだが、テレビの自然な演技(これはこれで見事で大好き)とは違って、丹念に誠実に役を作り、それを痛々しいまでに表現していたことに感動しました。
 谷原章介の台詞はところどころ聞き取りにくいところもあったけれど、それを補ってあまりある、まっすぐな演技がよかったと。すみません、私にはNHK大河ドラマ『新撰組』で、山南敬介の切腹のあと、呆然と座る近藤勇と土方歳三のうしろで場違いに(無神経に?)歌なんか詠んで、「あなたに何がわかるんだっ!!!」と近藤に怒鳴られてすごすごと引っ込む伊東甲子太郎のイメージが、というかあの名場面の印象が強すぎて、谷原が何を演じてもあそこに戻ってしまうんですよね。もう卒業させてあげなくちゃ(笑)。
 石田太郎、そして梅沢昌代も印象的でした。正直言うと、今回の梅沢さん、観ているときは気づかなくて、これを書くためにHPを見て、ああ、そうだったのかー、と。『箱根強羅ホテル』(井上ひさし)以来かな。いつもどこかに柔らかい色気を感じさせる女優さんだな、と昔から思っています。『太鼓たたいて 笛ふいて』の林芙美子(大竹しのぶ)の母親役も巧みだったなあ。

■そうそう、舞台装置がよかったです。たくさんの窓のカーテンの勢いのある開け閉めで、舞台上の設定や場面がかわる、というのが見事でした。サーッとカーテンがいっせいにはためくと、こっちの気持ちまでいったんリセットされるという感じかな。
 

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