隠れ家-かけらの世界-

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共通用語「責任」~『夢のかさぶた』と欽ちゃん

2006年07月22日 17時23分30秒 | ライブリポート(演劇など)
●「幸楽」のオヤジさすが!(笑)
 7月18日、国立小劇場で『夢のかさぶた』(井上ひさし作、栗山民也演出)を観てきました。ご存知の方も多いと思いますが、これは井上氏の「夢」の三部作(『夢の裂け目』『夢の泪』に続く)の最終作。このシリーズはどれも第二次世界大戦後、東京裁判が行われている頃を舞台に、「風化させてはならない戦日本の記憶」(パンフより)を庶民の目でみつめた作品ばかり。テーマは重いけれど、歌あり踊りありの喜劇仕立てで、笑っているうちにいつのまにか、心の中に簡単には消えていかないものが残る…、そういえばいいのかな。表すのがちょっと難しい。ミュージカルとはちがうし。
 私は最初の『夢の裂け目』は見逃したけど、第2作芽の『夢の泪』は見て、今回が締め、ということ。出演者はほぼ同じ。シリーズのための小さな劇団、ということなんだろう。
どシロウトの私にも、役者がみんな魅力的。角野卓造は舞台人って知ってますよね。「渡る世間は鬼ばかり」で気弱で酔っ払うと始末に終えないオヤジを演じてるけど、舞台でみると「さすが!」って思っちゃう。決して美形ではないけど、よく言う「華がある」というのかな、そういうことなんだろう。陸軍大佐というからかなり身分の高い軍人で、御前会議の末席にいたというくらいの人物。でも生き長らえて骨董品の目利きなんぞやっている。軍人くさくない男で、たぶん精神的にもいい加減な要素多々ありな人なんだけど、そういう役をやるとうまいなあ(そういえば、「幸楽」のオヤジもそんなヤツか。笑)。
 そして、ちょっと憧れ、三田和代。独身のお堅い国語教師、という線はお得意路線なんだろうけど、真面目にコミカルな面をだしている。この「真面目にコミカル」というのが本当の「おかしさ」を教えてくれるんだな、といつも思わせてくれる。
さてさて、今回もキムラ緑子(最近テレビでは、『純情きらり』で、桜子の高校の教師役をやっていました)がマジでマジで魅力的。奔放なモデル役なんだけど(額縁ショーとかでヌードにもなっちゃう、というから、当時としては「飛んでる(飛びすぎてる?)女」ということになるのかなあ)この人にぴったり。明るくて、ハチャメチャで、肉感的で、でもどこか毅然としている…。熊谷真美とともに体をクネクネさせて、色気をふりまいていました。

●死語になりそうな単語?「責任」
 最近、欽ちゃんの球団「ゴールデンゴールズ」の解散が話題になっているでしょ。例の芸人の不始末のために。欽ちゃんは「○○だけが責任をとればいいってことでもないし」と芸人の名前をあげて言い、「解散。ごめんな」と目をうるませていました。
 あの責任の取り方、テレビではいろいろ言われているらしいです。早まった決断、とか、ファンや選手のことを考えれば解散はちょっと…、とか。でも、そういう理屈じゃなくて、ああやって、グダグダ言わずに代表者が自ら責任をとって、いちばんキツイのは例の芸人かもね、とちょっと思った。自分のしたことは自分だけが「すみません」と言ってすむような問題じゃなかったんだ、って感じたと思うよ。まともな人なら、吉本から「クビだ!!」といわれるより重いものを感じるはず。きっと球団は継続していけると思うけど。
 ま、ちょっと話題は違うんだけど(違いすぎるかも)、今回の芝居のテーマは「戦争の責任は誰がとったの?」ということかもしれない、と思ったわけです。東京裁判でA級戦犯からC級戦犯まで裁かれたわけだけど、それでA級戦犯が絞首刑になったからといって、それが責任のとり方とは思えない。結局誰も責任をとらずに、国民にも、侵略した東南アジアの国々へも謝罪しないまま、いつのまにか「戦後は終わった」なんて言う政治家が現れて、ああ、そうか、「戦争どころか戦後さえも終わっちゃったんだ」とみんな思って、戦争の記憶を風化させてしまったわけです。そのところてんの歴史のような今の日本を作り出したのは、「誰も責任をとらなかったあの戦争」ってことになるんだろうな。
 芝居の中で、戦争で恋人をなくした国語教師が、予行演習中の天皇に向かって、「一言、すまん、とおっしゃってください。そうすれば、私を含め、戦争で大切な人をなくした大勢の国民の心が少しは晴れるというものです。そして、責任ととって、ご退位を決心なさってください」と言うシーンがある。あれは圧巻でした。私はもちろん戦争の「せ」の字も知らない世代だから、あの時代の人がどんなふうに悲しみや恨むを抱きながら生きてきたのか想像するしかないけど。国語教師は別の場面で、こうも言っていました。「上の人間が責任をとれば、その下、そのまた下の人間も、それぞれに自分の責任を考えるというものです」。
 ああ、重たい言葉だな、と思った。そして、そういうことが今まったく忘れられてしまっているんだ、とも思いました。きちんと対処しないままに、日本人は生きてきちゃったわけです。ナチスを抱えたドイツが、何十年もかけて自分たちの国の非を追及して自己批判してきたのとは対照的に。
 最初に述べた欽ちゃんの行動を、この芝居を観た次の日のニュースで知ったので、規模も意味も違うけれど、「責任」という共通用語で何かを感じてしまったというわけです。

●「私は」はいらない
 三田和代演じる国語教師は「日本語の文法」と結婚しちゃったような人で、その文法について、とうとうと述べるシーンがいくつかある。その中で、「日本語には主語がない」はおもしろかった。「日本語には主語がない」というか、「主語を必要としない」ことはみんな気づいているとおもうんだけど(私も仕事でよく翻訳家の下訳(これをもとに、ちゃんとした日本文にするわけです)をみるんだけど、忠実に生真面目に外国語を訳した下訳には全部に主語が入っていて、イライラします)。
 主語がないのは、言語としては魅力的だと思うんだけど、でも国の行く末や人の生き方を考えると、「ヤバイ」んだろう。主語がうやむやになったり、いつのまにか入れ替わったりするおそれだってあるんだよ、そういうことを言いたいのかな。


 ところで、今後の課題だな。『夢の裂け目』『夢の泪』『夢のかさぶた』は、それぞれ、何を表しているんだろう。

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