sisters (2008年7月11日 at パルコ劇場)
疲れた…。ふっとわれに返ったら、全身が硬くなっているのに気づいてため息。
映画で言えば、「ディアハンター」か「カッコーの巣の上で」を観たあとの感じ(テーマはまったく異なるんだけど)、舞台で言えば、最近ならやっぱり「LAST SHOW」だろうか。これも長塚さんだけど(「悪魔の唄」で衝撃を受けて、それから1年余りあとの「LAST SHOW」(再演希望!!!)で完全に長塚マジックにやられた経験あり)。
今回こんなに疲れたんだから、私にとってはOKな一夜だったわけで…。
私の場合、芝居を観たあとって2つのパターンがある。これはどちらも「おもしろかった~」が条件ではあるんだけど(つまんなかったときはここにも書かないし、静かに潜行してしまいます)。
1つは、ただただ満足で、別に誰かにあえて説明したりとか、あそこはどういう意味だったんだろうと考えるとか、そういうことは頭に浮かばない場合。別にコメディーだから、というわけじゃない。コメディーでもいろいろ深く語りたくなっちゃうこともあるし、シリアスものでも観て感動しておしまい!ってこともある。
もう1つは、こうやって書いてみようかなと思うときにどこから書いていいやら迷うくらいにいろんなことが浮かんできてしまう場合。誰かにおもしろさを説明したいんだけど自分の能力のなさがイヤになってしまう。
今回はまさに後者のパターン。伝えたいことはたくさんあるけど、私の鈍い思考回路はうまく働かないし、ボキャ不足は甚だしい。
で、結局カンタンにあっさりとまとめるしかないんだなと、今あきらめてるとこ、なのだ。
仕事とはいえ、レビューとか劇評とか、限られた字数でまとめちゃうのはスゴイなあと私に感心されても、プロはうれしくも困りもしないだろうけど。
●不気味な部屋
いろいろあった場所を思わせる死臭さえ漂いそうな古いホテルの一室が、主人公馨の宿泊する部屋になったり、長く逗留する美鳥と父親の部屋になったり、馨の幼い頃の部屋になったり…。照明の使い方や、光のうつろいでそれをかすかに変化させる。
別に新しい演出方法ではないけれど、その一つの場面で二つの物語が同時進行するところは不思議な感覚。
天井から人が急に降ってきて(?)、その気がふれたような高らかな金属的な笑い声と、そのあとの耐えられない時間の流れでは、椅子からずり落ちそうだった私です。長塚演出の妙味かもしれない。悪趣味だけど、逃れられない…。
この部屋の使い方、雰囲気が、そのままこの芝居の匂いを象徴している。
●私たちに振られたもの
大きな意味で、家族の物語なのだろう。それも、他の追従を許さないような「濃密な」とでも言っていいような。
希薄な気軽な刹那的な関係でいたほうがいいに決まっているはずの(と私は思っているけど)家族が、どこかで行き違って疎遠になったり、反対に糸が複雑にからんだまま解きほぐせなかったり解きほぐさなかったりすると、こうやって家族の負の部分が巨大に成長していく。それは人の心を微妙に冒し、年月を越えて影響を及ぼし続ける。
幼い頃の自分と妹と父親との普通でない(と言っていいのか)つながりから、どこかで時間を止めてしまった馨は、同じ境遇にいて、もっと過酷な現実をつきつけられている(父親の子どもをみごもっている)美鳥を救おうとやっきになる。
勝ち気で奔放で賢い美鳥の中に大きくなりつつある不安を察知する馨に、美鳥は抵抗をする。自分はあんたの妹じゃない、かってに投影させるな。
そしてその父親も言う(反吐がでるほど勝手な父親だが、その知的で弱くてあたまでっかちなようすを演じて、吉田鋼太郎はいつもながら見事です。ホント、反吐がでるほどヤだったけど)、あんたとあんたの親父とわれわれは違う。私たちは出会ったのだ。親と娘としてではあるが、誰よりも愛せる相手として「出会った」のだ、と。その父親に言わせれば、不幸な結果になった馨たちは「出会わなかった」んだということになるんだけど。
結局、その父親は娘の妊娠を受け入れることなんかできずに、動揺してこれまでの持論はあとかたもなく崩れ去り、最後は娘と心中することで解決したのか。
長塚氏がどこでどう語っているのかは知らないけど、結局このテーマは私たちに振られたんだろう。馨の背負ってきたものの重さや悲惨さを思うと、あってはならないことという作者の意図が伝わるけれど、父親の「人はみんな違うんだ。俺たちは特別なんだ」という熱弁がずるく醜くきこえるときと、いや、たしかに選ばれた特別な二人だったのかもしれないと一瞬でも思えるときがあったなら、あとは私たちは自分でその感情を処理し、受けとめていくしかないのかもなあ、と。
ま、芝居にかぎらず小説だってそうなんだろうけど。でも目の前で突きつけられたテーマはちょっと重すぎるかな、私には。
夫の最後の言葉「帰ろう、わが家に」に、馨は澄んだきれいな声で、幼子のように「はい」と答えるのだけれど、あれをどう受けとめたらいいんだろう。
美鳥と父親のなきがらにすがって「お父さん」と悲痛に呼びかける馨への夫の「帰ろう」には、二つの意味があるのかな。単に「こんなホテルから早くボクたちの家に帰ろう」というのと、幼い頃の父親と妹との日々にとらわれ続けている妻に、今のボクらの現実の世界をこれからは生きていこう、という…。
そしてそうだったとしても、馨は今を生きていけるんだろうか。過去を過去として切り離せるんだろうか。
●見事…
松たか子の馨。あやうくて、繊細すぎて、壊れそうで、気高くて、哀れで、弱くて…。その一つ一つをセリフにこめて、松たか子は見事でした。
美鳥やその父親への言葉から、馨がいかに自分の父親を憎み恨み続けてきたのかと思っていたけれど、最後の場面の「お父さん、なんで私じゃなくナツキなの?」という悲しい問いかけから、彼女がどんなに父親を愛し求めていたか、悲しい異常な愛を育ててしまったのかが鮮明に見えてきて、それはそれでやるせなかった。
不安定で、いつ壊れてもおかしくないような馨の一つ一つの言葉や動作が舞台の上で躍っていたように見えた。それは松たか子という役者の華と力だと思う。
美鳥の鈴木杏もすばらしかったです。いちずで、でも不安で、幸せで、でも不幸で、そういう若い女性の心理と鎧をまとった傲慢さと平静さが揺れ動くさまが見えました。セリフもとてもはっきりしていてきれいだったな。
いつもながらのうまさは、吉田鋼太郎だけでなく梅沢昌代も。精神のバランスを崩した従業員の言葉の端々に物事の真理が語られていて、彼女が演ずると「しまる」感じがする。「太鼓たたいて笛ふいて」がわすれられない。
ずるがしこいホテルのオーナー役の中村まことは、ホントに殺したいくらいヤなやつだった(笑)。
そして、馨の夫役の田中哲司がただ一人「普通の人」を演じていて、もうそこに救われた思い。彼は「ビューティー・クイーン・オブ・リナーン」でも、天下の白石加代子と大竹しのぶに翻弄される好青年役を演じていたけど、今回も貴重な「普通さ」だったことにむしろ感謝です。
舌足らずな文章で、ちょっと恥ずかしい。この芝居のおもしろさは半分も書かれていないと思っていただいてけっこうです、ホント。
昨夜は仕事で昼食も食べずに入ったので、終演後階下の「蒼龍唐玉堂」で、担々麺と味噌ラーメンと小さな餃子20個食べました。
「疲れた~」と言ってフラフラになって階段を下りていったのに、しっかり食べて梅酒ソーダまで飲んで、「芝居のせいで疲れたんじゃなくて、単に腹が減ってただけだったんじゃないの?」と連れに言われましたが、それは違う!と名誉のために…。
煮干しのダシがきいてて、懐かしい味噌ラーメンでした。
下の画像は店頭です。
疲れた…。ふっとわれに返ったら、全身が硬くなっているのに気づいてため息。
映画で言えば、「ディアハンター」か「カッコーの巣の上で」を観たあとの感じ(テーマはまったく異なるんだけど)、舞台で言えば、最近ならやっぱり「LAST SHOW」だろうか。これも長塚さんだけど(「悪魔の唄」で衝撃を受けて、それから1年余りあとの「LAST SHOW」(再演希望!!!)で完全に長塚マジックにやられた経験あり)。
今回こんなに疲れたんだから、私にとってはOKな一夜だったわけで…。
私の場合、芝居を観たあとって2つのパターンがある。これはどちらも「おもしろかった~」が条件ではあるんだけど(つまんなかったときはここにも書かないし、静かに潜行してしまいます)。
1つは、ただただ満足で、別に誰かにあえて説明したりとか、あそこはどういう意味だったんだろうと考えるとか、そういうことは頭に浮かばない場合。別にコメディーだから、というわけじゃない。コメディーでもいろいろ深く語りたくなっちゃうこともあるし、シリアスものでも観て感動しておしまい!ってこともある。
もう1つは、こうやって書いてみようかなと思うときにどこから書いていいやら迷うくらいにいろんなことが浮かんできてしまう場合。誰かにおもしろさを説明したいんだけど自分の能力のなさがイヤになってしまう。
今回はまさに後者のパターン。伝えたいことはたくさんあるけど、私の鈍い思考回路はうまく働かないし、ボキャ不足は甚だしい。
で、結局カンタンにあっさりとまとめるしかないんだなと、今あきらめてるとこ、なのだ。
仕事とはいえ、レビューとか劇評とか、限られた字数でまとめちゃうのはスゴイなあと私に感心されても、プロはうれしくも困りもしないだろうけど。
●不気味な部屋
いろいろあった場所を思わせる死臭さえ漂いそうな古いホテルの一室が、主人公馨の宿泊する部屋になったり、長く逗留する美鳥と父親の部屋になったり、馨の幼い頃の部屋になったり…。照明の使い方や、光のうつろいでそれをかすかに変化させる。
別に新しい演出方法ではないけれど、その一つの場面で二つの物語が同時進行するところは不思議な感覚。
天井から人が急に降ってきて(?)、その気がふれたような高らかな金属的な笑い声と、そのあとの耐えられない時間の流れでは、椅子からずり落ちそうだった私です。長塚演出の妙味かもしれない。悪趣味だけど、逃れられない…。
この部屋の使い方、雰囲気が、そのままこの芝居の匂いを象徴している。
●私たちに振られたもの
大きな意味で、家族の物語なのだろう。それも、他の追従を許さないような「濃密な」とでも言っていいような。
希薄な気軽な刹那的な関係でいたほうがいいに決まっているはずの(と私は思っているけど)家族が、どこかで行き違って疎遠になったり、反対に糸が複雑にからんだまま解きほぐせなかったり解きほぐさなかったりすると、こうやって家族の負の部分が巨大に成長していく。それは人の心を微妙に冒し、年月を越えて影響を及ぼし続ける。
幼い頃の自分と妹と父親との普通でない(と言っていいのか)つながりから、どこかで時間を止めてしまった馨は、同じ境遇にいて、もっと過酷な現実をつきつけられている(父親の子どもをみごもっている)美鳥を救おうとやっきになる。
勝ち気で奔放で賢い美鳥の中に大きくなりつつある不安を察知する馨に、美鳥は抵抗をする。自分はあんたの妹じゃない、かってに投影させるな。
そしてその父親も言う(反吐がでるほど勝手な父親だが、その知的で弱くてあたまでっかちなようすを演じて、吉田鋼太郎はいつもながら見事です。ホント、反吐がでるほどヤだったけど)、あんたとあんたの親父とわれわれは違う。私たちは出会ったのだ。親と娘としてではあるが、誰よりも愛せる相手として「出会った」のだ、と。その父親に言わせれば、不幸な結果になった馨たちは「出会わなかった」んだということになるんだけど。
結局、その父親は娘の妊娠を受け入れることなんかできずに、動揺してこれまでの持論はあとかたもなく崩れ去り、最後は娘と心中することで解決したのか。
長塚氏がどこでどう語っているのかは知らないけど、結局このテーマは私たちに振られたんだろう。馨の背負ってきたものの重さや悲惨さを思うと、あってはならないことという作者の意図が伝わるけれど、父親の「人はみんな違うんだ。俺たちは特別なんだ」という熱弁がずるく醜くきこえるときと、いや、たしかに選ばれた特別な二人だったのかもしれないと一瞬でも思えるときがあったなら、あとは私たちは自分でその感情を処理し、受けとめていくしかないのかもなあ、と。
ま、芝居にかぎらず小説だってそうなんだろうけど。でも目の前で突きつけられたテーマはちょっと重すぎるかな、私には。
夫の最後の言葉「帰ろう、わが家に」に、馨は澄んだきれいな声で、幼子のように「はい」と答えるのだけれど、あれをどう受けとめたらいいんだろう。
美鳥と父親のなきがらにすがって「お父さん」と悲痛に呼びかける馨への夫の「帰ろう」には、二つの意味があるのかな。単に「こんなホテルから早くボクたちの家に帰ろう」というのと、幼い頃の父親と妹との日々にとらわれ続けている妻に、今のボクらの現実の世界をこれからは生きていこう、という…。
そしてそうだったとしても、馨は今を生きていけるんだろうか。過去を過去として切り離せるんだろうか。
●見事…
松たか子の馨。あやうくて、繊細すぎて、壊れそうで、気高くて、哀れで、弱くて…。その一つ一つをセリフにこめて、松たか子は見事でした。
美鳥やその父親への言葉から、馨がいかに自分の父親を憎み恨み続けてきたのかと思っていたけれど、最後の場面の「お父さん、なんで私じゃなくナツキなの?」という悲しい問いかけから、彼女がどんなに父親を愛し求めていたか、悲しい異常な愛を育ててしまったのかが鮮明に見えてきて、それはそれでやるせなかった。
不安定で、いつ壊れてもおかしくないような馨の一つ一つの言葉や動作が舞台の上で躍っていたように見えた。それは松たか子という役者の華と力だと思う。
美鳥の鈴木杏もすばらしかったです。いちずで、でも不安で、幸せで、でも不幸で、そういう若い女性の心理と鎧をまとった傲慢さと平静さが揺れ動くさまが見えました。セリフもとてもはっきりしていてきれいだったな。
いつもながらのうまさは、吉田鋼太郎だけでなく梅沢昌代も。精神のバランスを崩した従業員の言葉の端々に物事の真理が語られていて、彼女が演ずると「しまる」感じがする。「太鼓たたいて笛ふいて」がわすれられない。
ずるがしこいホテルのオーナー役の中村まことは、ホントに殺したいくらいヤなやつだった(笑)。
そして、馨の夫役の田中哲司がただ一人「普通の人」を演じていて、もうそこに救われた思い。彼は「ビューティー・クイーン・オブ・リナーン」でも、天下の白石加代子と大竹しのぶに翻弄される好青年役を演じていたけど、今回も貴重な「普通さ」だったことにむしろ感謝です。
舌足らずな文章で、ちょっと恥ずかしい。この芝居のおもしろさは半分も書かれていないと思っていただいてけっこうです、ホント。
昨夜は仕事で昼食も食べずに入ったので、終演後階下の「蒼龍唐玉堂」で、担々麺と味噌ラーメンと小さな餃子20個食べました。
「疲れた~」と言ってフラフラになって階段を下りていったのに、しっかり食べて梅酒ソーダまで飲んで、「芝居のせいで疲れたんじゃなくて、単に腹が減ってただけだったんじゃないの?」と連れに言われましたが、それは違う!と名誉のために…。
煮干しのダシがきいてて、懐かしい味噌ラーメンでした。
下の画像は店頭です。