■『君に読む物語』
最近の映画評はあまり信じていない。別に裏切られたとか、そういう経験はないんだけど、「今年最高の感動!」「この映画を待っていた!」「感動! 生きててよかった」…、有名評論家たちが繰り広げるこんな寒いレビューにそそられるほど、私たちはヤワではないだろう。特にお○ぎ、映画広告に並べられた最近のあなたのコメントはひどいよ。さすがの私でも、配給会社から何かもらってる?と疑いたくなる。「今年最高の感動!」はないよね。もっとあなたの頭にある言葉で教えてよ。
さてさて、「君に読む物語」です、今日の作品は。なんで今ごろ、この作品のレビュー? そう思う人もあるでしょうが、実はさっき、ようやくDVDを観たんです。
最初、新聞の広告の
「想い出が少しずつ きみからこぼれてゆく
だから、きみが想い出すまで 僕は読む――」
というコピーを読んで、観たい!と思って(結局、気の利いた言葉に弱い)、でもなんだか仕事に追われて映画館に行けず(言い訳)、先週の土曜にレンタルショップでDVDを見つけ、この一週間はメチャクチャ忙しくて映画鑑賞は叶わず…、それでやっと、さっき部屋の掃除を終え、執念の鑑賞にこぎつけた、というわけ。
こんなに思いを寄せてしまうと、たいていは「ん、うーん…」という感じになって、でも長い間の恋心を否定するのも悔しくて、いや怖くて?、観なかったことにしちゃうとか、会わなかったことにしちゃうとか(あ、これは人間相手の恋心の場合ね)。そういうことってあるでしょ?
でも、この作品、むしろ最初私が抱いたイメージを心地よく裏切ってくれた感じで、今とても満たされています。
裏切ってくれた、というのは、若い二人が恋におちて夢中になっていくさま、激しい思い、夏の日の輝くばかりの情景がふんだんに明るく描かれている、ということ。ノア(ライアン・ゴズリング)とアリー(レイチェル・マクダグラス)のまぶしいくらいの表情と動きで、この映画は青春映画なの?なんて思わせる。だから、年老いて認知症になった妻と、彼女が一瞬でも彼女に戻る瞬間が恋しくて毎日本を読む夫の姿が、残酷な人生の結末を思わせる。
どんなに美辞麗句を並べても、老いは悲しい。とくに愛する人が、生涯愛し続けた人が自分を忘れてしまったという現実は、ごまかしようがなく救いがたい。それでも夫は子どもたちの反対を押し切って、施設にいる妻のもので暮らす。ここは、彼が若いとき、引き裂かれたアニーとの約束を果たすために一人で改築をした建物だ。きっと、ここで子どもを育て、長い年月を一緒に生き、最後に認知症になった妻のために介護施設としての設備を整え、多くの入居者やスタッフの中で妻と生きることを決心したのだろう。
最後には残酷な老いがやってくる。そしていつかは死がしのびよる。それは誰にも訪れる「時のなれの果て」だ。それでも、もしそのときに、自分が確かに愛した存在を思い出せるなら、たとえ目の前にはすでにいなくても、人はそれでよし、と思えるのだろうか。
私にはまだわからないけれど、でも、老いたアリーが夫をほんの数分間思い出したあと、再びわからなくなってパニックになって興奮しているのを見て、夫が流した涙のせつなさは想像できる。どんなに戻ってきてほしいと思っているかはわかる。
ノアが読む二人の愛の物語は、じつはアリーがかつて書いたもの。それを読んでもらいながら、アリーは「いい話ね、次はどうなるの」と、無表情で先をうながす。夫はそれを見て、「今日が奇跡の日かもしれない」と期待する。
愛は永遠、なんてお手軽にごまかしたくはないけれど、愛という言葉を真正面から語ることは実はかっこ悪いことじゃないんだ、なんて信じる気にさせてくれる…、そういう作品です。