隠れ家-かけらの世界-

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優しい国とは言えないけど~NHK教育テレビ「ETVワイド ともに生きる」より

2006年12月03日 13時58分17秒 | プチエッセイ
ETVワイド ともに生きる」 NHK教育テレビ 12月2日(土)19:00~22:00

■鼻息男性と、筋ジストロフィー患者の呼吸器の音
 本音で言いましょう、進行役の男性が何度か、そううながしていた。往々にして、健常者がきれいごとを言ってしまうことが多いかもしれない。障害があるんだもの、しかたないじゃない。私たちが我慢しなくちゃ。そんなふうに。でも、それでいいんだろうか。それはひょっとすると、「ともに生きる」ことにはならないのかもしれない。
 番組にはさまざまな障害をもつ人たちと、健常者が参加していた。その中の筋ジストロフィーのために呼吸器を装着している男性がある経験談を話していた。
 彼はクラシックコンサートに行ったとき、この呼吸器から出る音がうるさい、という観客の苦情によって、係員に会場からの退出を要請されてそれに応じたことがある、と言う。「僕にとってはこの呼吸器は生きるために必要なものであって、そういうことを理解してほしい」と発言した。それをテーマに尋ねられた健常者の大学生は、ボランティアとして障害者に関わるようになって理解が深まったから(こういう表現ではなかったかもしれない)、その場にいたら「我慢する」というより、受け入れられるだろうと発言した。
 それに対して、司会者は「ホント? それは本音? だってクラシックコンサートといえばチケットも高いし、キミは音楽を聴きたくて来たんだよ。それなのに隣から音が聞こえてきて、それで平気?」と突っ込んだ問いかけをしていた。
 「出ていってください、とは言えないけど、でもやっぱり、あ~あ、せっかく楽しみにしてたのにな、と思ってしまうかもしれない」そう正直な思いを吐露した出席者もいた。脳性マヒの女性が言っていたけど、あらかじめチケットの購入時に申し出ていれば、適当な場所のシートを用意してくれていたかもしれないが。
 これを聞いて、私ならどうだろう、と考えてみた。実はこの10月に「白野」を観劇したとき、隣の30代くらいの男性の鼻息が非常に大きくて、静寂の場面などで気が散って少しイライラした経験があるのだ。でもそれは生理的なことだし、文句を言うわけにもいかないし。だけど心の中では正直少し怒っていた。そのうち舞台に引き込まれていくうちに全然気にはならなくなったんだけど。
 あれがもし隣の席にいる障害者の呼吸器の音だったら、私はどんな反応をしただろう。たぶん「あ~あ、よりによってこんな席になっちゃって、運が悪いなあ」と最初にふっと思って、そんなふうに感じたことを恥ずかしく思ってしまうかもしれない。鼻息男性に抱いたような感情はむりやり封じ込めるような気がするんだ。それって優しさではなく、ある意味障害者をすでに差別しているのかもしれない。
 こうやって、ただいい子ぶって我慢してても、何も解決はしない。むしろそれじゃ、障害者も健常者も気持ちよくコンサートで音楽を聴くにはどうしたらいい?と問題提起をするほうがずっといいだろう。
 多少の我慢はお互いにしなくては生きてはいけないけど、でも主張もちゃんとしないと、状況は変わってはいかないということだ。
 そして、「障害があるんだからしかたないとあきらめること=障害者への優しさ」という式は成り立たないということなんだな。そうやっていたら、結局は障害者は「やっかいな人」というおかしなカテゴリーにくくられてしまうだけだ。人間はたいした存在ではないのだから、我慢がいい状態で長続きするわけないのだし。
 そういうことをふまえたうえで、それじゃあ「ともに生きる」ってことはどういうことなんだろう。優しさとか思いやりとか、そういう言葉で都合よく片づけない議論も必要なんだろう。 

■障害者だっていろいろ
 私たちの中には、あえて厳しい環境を自力で生き抜くことに生きがいを感じる人もいるし、ある程度守られて生きていきたい、その中で自分らしく努力していけるという人だっている。人それぞれだ。そういうことは障害者にだっていえるだろう。24時間体制で介護の人の手を借りてでも家から出て自立したいと願う人もいれば、そこまでは自分には自信がない、だから施設で暮らす方向を選ぶという人もいるだろう。わかってはいたけど、そこが大事なことなんだということに、改めて気づいた。
 ついつい、この程度まで介護されれば安心だろう、と勝手に線引きをされてしまっているのが今の障害者なのかもしれない。
 福祉の制度にも問題があるだろうし、私たちの見方にも課題はありそうだ。
 ある障害者の方の日常がレポートされていた。24時間体制で介護者の手を借りながら一人暮らしをしている男性は、一日に何時間かだけ一人だけの時間を作って、電動の車椅子で外出する。商店街で買い物をし、行きつけのラーメン屋やカレー屋で食事をする。一人で食事のできない彼に、ラーメン屋の女性店員は上手にラーメンを食べさせていた。最初は怖かったけれど、今では彼にとって誰よりも食べさせ方の上手な人になったという。それでも忙しいときには断られることもあるという。それもまたいいのかもしれない。またカレー屋さんは彼がいつ来てもいいように、入り口には彼の車椅子の車輪をふく雑巾と洗剤が用意されているというし、店内がバリアフリーに改装されたそうだ。
 彼のように一人でも外出したいという人にも、家で親とともに生きる人にも、それぞれにあった福祉の手がさしのべられるためには、どんな制度が必要なんだろうか。
 そうだよね、人間は100人いれば100通りの生き方と望みがあるっていうのに、障害者を一くくりでとらえるなんて、すごく失礼な話だ。

■問題は山積みだけど
 なかには、こっちは仕事もなくて生活していくこと自体が大変なのに、障害がないからなんの援助も得られない、障害があるからというだけで保護されるのには少し違和感を感じるという人だっているだろう。考えたら、障害者に限らず、この国は弱い人にどんどん冷たくなっているしね。
 できることは自分でやる、でもダメなところは福祉の援助に頼る、そういう簡単なことがどんどん難しくなっていることは、障害者支援法の施行で明らかだ。国の経済状態が悪くなると、そうやって表向きにはいい顔でごまかしつつ、弱者への援助を少しずつ削減していく。その繰り返しはどうにかならないんだろうか。
 自治体の腐敗した状況や、政治家の不正のニュースをきくたびに、イヤな国だなあって。美しい国とか、愛国心とか、何言ってんだよっ!って思う人のほうがずっとまともだと思うけど。
 番組では、知的障害のある生徒を積極的に受け入れている大阪府立松原高校が紹介されていた。よくわからないがたぶんADHD(注意欠陥・多動性障害)の少年だと思うのだが、彼を囲むクラスのようすが結構リアルだった。日常的に一緒だから、友人たちは作文に「(彼のことを)苦手です」と書いたりする。
 スタジオには彼とクラスメート3人が来ていたが、ある女子生徒がこう言っていた、「仲良しだけど、でも全部が好きというわけではない。イヤなところもあります。彼も同じだと思う。嫌いな部分もあると思うんです」。
 そういうことなんだな。障害のある友達が仲間にいて、みんながその子にいつも優しく接することがベストではないんだ。ぶつかってイヤになったり、ケンカしたりして、そうやって続いていくことが「普通」ってことなのかもしれない。
 昔、違う高校に通っていた友達が自分のクラスの脳性マヒの友達のことを「あいつ、ちょっとわがままなんだよなあ」と言っているのを聞いてドギマギしたことがあった。障害のある子のことをそんなふうに言っていいの?って。
 でもその子はいつも友達の車椅子を押していたというし、家に遊びに行ったりディズニーランドに行ったり、今でもメールで連絡をとりあったりしている。あれは、友達のことを普通にみんなが言う「勝手なとこあるんだよね、でも、ま、キライじゃないよ」というのと同じようなものだったんだ。
 そういうのが「ともに生きる」ということのヒントになるのかな、と思うと、ちょっと前が見えてくる気がする。
 問題は山積み、わからないことばかりだけど…。

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