■「メゾン・ド・ヒミコ」(犬童一心監督、2005年作品)
正月休みに、前から見たかった「メゾン・ド・ヒミコ」(蛇足ですが、このHPがとてもいいです。必見です)のDVDをレンタルして見ました。オダギリ ジョーと西島秀俊が出演している、というだけで、どんな駄作だって見る価値はあるだろう(笑)という私ですから。そりゃ、もう…。
それが駄作どころか、なんとも味わいのある映画だったわけで。
●この存在感はなに?
主人公の沙織(柴咲コウ。ノーメークに近い感じ?と思っていたら、じつはそばかすをかいたりして「メイクアップ」ならぬ「メイクダウン」だったとか。それでも目の力がすごいね)と母親を捨ててゲイバーのママになり、その後湘南にゲイのための老人ホームを創設し、今はガンにおかされて限りある日を生きている…、そのヒミコを演じたのが舞踊家・田中民(サンズイがつく)。プロフィールはここを見ていただきたいのですが、この人の圧倒的な存在感って何?
動いて具体的に何かを表現するというわけではなく、少ない、それも短いセリフだけで、ヒミコの生きてきた道筋や重さを伝えてくる。無表情なんだけど、でもものすごく情感の豊かな人なんだろうということも伝わってくる。柔らかい威圧感とでもいったらいいのかなあ。すごい…。
みんなと食事をするシーンでも、長いテーブルの奥に座り、横に若い恋人をしたがえ、それだけで絵になる。そうまさに「絵になる」! やつれた老いた病人なんだけど、カサカサしていなくて、過去にどんなことを経験してきたの?と問いたくなるようなセクシーな人。
この人がいなかったら、この映画は成り立たなかっただろう、なんて生意気に思わせてくれる、そういう人でした。
●ただただ美しい、そして悲しい…
ヒミコの若い恋人で、献身的に世話をしながら、メゾン・ド・ヒミコをやりくりしている春彦を演じるのが、オダギリ ジョー様(笑)。
実はファンといっても、実際にちゃんと見たのはNHKの大河ドラマ「新撰組!」の斎藤一のときだけ(もうこれが最高でした。ニヒルで、45分の間にセリフが一度もなかったこともありましたから。いいのか?)。最近はテレビのCMでコミカルな演技をしていて(「どーする、俺?」って)、それもいいんだけど、やっぱりね、美しいオダギリ ジョーは価値があるよなあ。
ヒミコへの愛は本物なんだろうけど、うちに秘めた欲望のはけ口をみつけられずに悶々とする激しさも抱え、ホームの経営のために老いぼれたスポンサーに抱かれることもいとわない(静かなすごみのある老いたゲイのスポンサーに誘われて出かけるときのしぐさが、いかにも悲しげで、でも反面したたかさも感じさせる)。
ただただ美しい男が優しさも残酷さも両方示しながら生きていく「ステキさ」をオダギリ ジョーが見せてくれたと思います。
蛇足ですが、オダギリ ジョーがノーマルな女たらしの西島秀俊を軽く誘うシーン(冗談か、案外マジなのかは微妙だけど、ひかれていたことは事実だろうね)は、どっちも好きですから、勝手にドキドキしてしまいました。(笑)。
●胸に残ったシーンの数々
役者のことだけ書きなぐりましたが、とにかくホームのゲイたちが生き生きとしていてステキだ。ゲイだというだけで差別も理不尽なことも受けてきただろうし、またカミングアウトせずに生きてきた人もいるだろう。流され挫折した時代もあったかもしれないけれど、誰かにすがりつかずに凛と生きてきた末の笑顔であり、口の悪さであり、強さの中の優しさなんだろう。
○男装?したゲイのかっこよさと、はじけるクラブのシーン
女装癖のある元教師の山崎は部屋にたくさんのドレスを持っていて、でも結局それを着て出かけるなんてことは今までなかったのだろう。沙織は彼に最高のおしゃれをさせ、自分はバスガイドの制服を着て、そしてほかの仲間を誘う。外で待っている二人の前に現れたのは、正装をしたゲイの仲間たち。白いスーツの春彦をはじめ、みんな颯爽として色っぽくてかっこいい! 山崎をみんなでエスコートして、クラブに乗り出すのだ。
そこで山崎は昔の部下に会い、ひどい言葉を投げかけられ、それに対して沙織が必死に抗議するシーンもいい。父親に捨てられた恨みからゲイを毛嫌いしていたはずの沙織に、彼らへの深い気持ちが芽生えていたというわけだ。
ダンスのシーンは楽しくてステキ。白いスーツの春彦とバスガイドの沙織の気持ちが微妙にからまりあっていく、その過程なのだろうが、きらびやかでコミカルで、見ているほうも心が弾んでくる感じ。全然意味も雰囲気も違うけど、「ディア・ハンター」の前半のパーティーのシーンを思い出した。後半の壮絶な展開があるからこそ、あの楽しさがよけい際立っていて、私の大好きなシーンなんだけど。
○ゲイの父と母のつながり
残された母と娘は二人きりで貧しさの中で生き、娘は母が病に倒れたときには親戚から借金をして看病してきた。沙織は父を憎み、母もそうであったと当たり前のように信じていたのに、1枚の写真から、そうではなかったことを知る。
母は貧しい生活の中で、定期的に「最高のおしゃれ」をして父のゲイバーを訪れていたのだ。「お母さんはきれいだった」と父は言う。
娘にしたら、それは受け入れられないことだし、きっと許せない事実だったにちがいない。同志のはずだった母が父を許していた?
でも、たとえゲイだとカミングアウトして家を出た夫であっても、妻の中には人にはわからない感情が続いていたということなのだろう。それがどういうものなのか、想像するしかないけど。
私はあなたに捨てられても、こうやってちゃんと女として生きている、という意地か。あるいはもっと自然に、ゲイなんていうことは関係なく、自分を愛してくれたときには、夫は誰よりもすてきな男だったということか。あるいは男女を越えた感情なのか。
でもそれだけ、このヒミコが深く人をひきつける存在だったということが、よくわかるシーンだ。
○ゲイ予備軍?
悪がき中学生三人組がホームの塀に落書きをしたり、老人たちを愚弄したりする。あるとき春彦が怒りにまかせて、その中の一人につかみかかり、「今度やったら殺すぞ」と低い声で言う。
そのとき、たぶんその中学生の身体に電気が走ったのだろう(これも陳腐な表現だけど)。結局その子はその後ホームを訪れるようになり、一緒に食事をしたり仕事を手伝ったりするようになる。でもそれまでの罪償いでもボランティアでもないんだな。結局、春彦に惹かれてしまったわけだ。美しい年上の男の人に心を奪われてしまったわけだ。
この少年の初恋ということになるのかもしれない。そして、その後彼はふつうに女の子を恋するようになるかもしれないし、そのままゲイの自分に気づくことになるかもしれない。人はそれぞれだ。男を愛する男もいるし、女を愛する男もいる。もちろん女性もいろいろだ。相手がどんな人であれ、愛する気持ちがあれば、そう、人を愛したという事実があれば、それでいいじゃん。そういうことじゃないですか? ひょっとして、これもこの映画のテーマ?
○最後のシーンが秀逸です
父親がなくなり、その後いさかいから、沙織はホームへ行かなくなる。ある日、いつものように塗装会社で鬱々と仕事をしていた沙織に、ホームから仕事の依頼が入る。塀の落書きを消してほしい、というわけだ。
沙織が作業員らをつれてホームに向かうと、そこにはホームの仲間たちが派手に書いた「さおりちゃんに会いたい!」という文字(すいません、これは正確な言葉ではありません。DVDをみてから日がたってしまい、覚えていないけど、こんな内容の落書きだったと思います)。沙織に会いたい彼らが思いついたいたずらだったのでしょう。
にぎやかな笑い声とともに出てくるホームの人たち。まだしかめ面の沙織。
マスクをした佐織に「キスする?」と春彦。仏頂面の沙織の顔が崩れて、二人は大笑いをする。「だめ!」と沙織。
きっと彼女はこれからも、仕事をしながらこのホームに通い、ゲイの老人たちの世話をし、心ひかれているものの恋人同士にはなれない春彦に少し複雑な思いを抱きつつ暮らしていくのだろう…、そういうことを自然に想像させ、ココロを温かくしてくれる幕切れだったのです。
人として、甘えてばかりではなく「きちんと」生きるとはどういうことか、そういうことを今考えています。
正月休みに、前から見たかった「メゾン・ド・ヒミコ」(蛇足ですが、このHPがとてもいいです。必見です)のDVDをレンタルして見ました。オダギリ ジョーと西島秀俊が出演している、というだけで、どんな駄作だって見る価値はあるだろう(笑)という私ですから。そりゃ、もう…。
それが駄作どころか、なんとも味わいのある映画だったわけで。
●この存在感はなに?
主人公の沙織(柴咲コウ。ノーメークに近い感じ?と思っていたら、じつはそばかすをかいたりして「メイクアップ」ならぬ「メイクダウン」だったとか。それでも目の力がすごいね)と母親を捨ててゲイバーのママになり、その後湘南にゲイのための老人ホームを創設し、今はガンにおかされて限りある日を生きている…、そのヒミコを演じたのが舞踊家・田中民(サンズイがつく)。プロフィールはここを見ていただきたいのですが、この人の圧倒的な存在感って何?
動いて具体的に何かを表現するというわけではなく、少ない、それも短いセリフだけで、ヒミコの生きてきた道筋や重さを伝えてくる。無表情なんだけど、でもものすごく情感の豊かな人なんだろうということも伝わってくる。柔らかい威圧感とでもいったらいいのかなあ。すごい…。
みんなと食事をするシーンでも、長いテーブルの奥に座り、横に若い恋人をしたがえ、それだけで絵になる。そうまさに「絵になる」! やつれた老いた病人なんだけど、カサカサしていなくて、過去にどんなことを経験してきたの?と問いたくなるようなセクシーな人。
この人がいなかったら、この映画は成り立たなかっただろう、なんて生意気に思わせてくれる、そういう人でした。
●ただただ美しい、そして悲しい…
ヒミコの若い恋人で、献身的に世話をしながら、メゾン・ド・ヒミコをやりくりしている春彦を演じるのが、オダギリ ジョー様(笑)。
実はファンといっても、実際にちゃんと見たのはNHKの大河ドラマ「新撰組!」の斎藤一のときだけ(もうこれが最高でした。ニヒルで、45分の間にセリフが一度もなかったこともありましたから。いいのか?)。最近はテレビのCMでコミカルな演技をしていて(「どーする、俺?」って)、それもいいんだけど、やっぱりね、美しいオダギリ ジョーは価値があるよなあ。
ヒミコへの愛は本物なんだろうけど、うちに秘めた欲望のはけ口をみつけられずに悶々とする激しさも抱え、ホームの経営のために老いぼれたスポンサーに抱かれることもいとわない(静かなすごみのある老いたゲイのスポンサーに誘われて出かけるときのしぐさが、いかにも悲しげで、でも反面したたかさも感じさせる)。
ただただ美しい男が優しさも残酷さも両方示しながら生きていく「ステキさ」をオダギリ ジョーが見せてくれたと思います。
蛇足ですが、オダギリ ジョーがノーマルな女たらしの西島秀俊を軽く誘うシーン(冗談か、案外マジなのかは微妙だけど、ひかれていたことは事実だろうね)は、どっちも好きですから、勝手にドキドキしてしまいました。(笑)。
●胸に残ったシーンの数々
役者のことだけ書きなぐりましたが、とにかくホームのゲイたちが生き生きとしていてステキだ。ゲイだというだけで差別も理不尽なことも受けてきただろうし、またカミングアウトせずに生きてきた人もいるだろう。流され挫折した時代もあったかもしれないけれど、誰かにすがりつかずに凛と生きてきた末の笑顔であり、口の悪さであり、強さの中の優しさなんだろう。
○男装?したゲイのかっこよさと、はじけるクラブのシーン
女装癖のある元教師の山崎は部屋にたくさんのドレスを持っていて、でも結局それを着て出かけるなんてことは今までなかったのだろう。沙織は彼に最高のおしゃれをさせ、自分はバスガイドの制服を着て、そしてほかの仲間を誘う。外で待っている二人の前に現れたのは、正装をしたゲイの仲間たち。白いスーツの春彦をはじめ、みんな颯爽として色っぽくてかっこいい! 山崎をみんなでエスコートして、クラブに乗り出すのだ。
そこで山崎は昔の部下に会い、ひどい言葉を投げかけられ、それに対して沙織が必死に抗議するシーンもいい。父親に捨てられた恨みからゲイを毛嫌いしていたはずの沙織に、彼らへの深い気持ちが芽生えていたというわけだ。
ダンスのシーンは楽しくてステキ。白いスーツの春彦とバスガイドの沙織の気持ちが微妙にからまりあっていく、その過程なのだろうが、きらびやかでコミカルで、見ているほうも心が弾んでくる感じ。全然意味も雰囲気も違うけど、「ディア・ハンター」の前半のパーティーのシーンを思い出した。後半の壮絶な展開があるからこそ、あの楽しさがよけい際立っていて、私の大好きなシーンなんだけど。
○ゲイの父と母のつながり
残された母と娘は二人きりで貧しさの中で生き、娘は母が病に倒れたときには親戚から借金をして看病してきた。沙織は父を憎み、母もそうであったと当たり前のように信じていたのに、1枚の写真から、そうではなかったことを知る。
母は貧しい生活の中で、定期的に「最高のおしゃれ」をして父のゲイバーを訪れていたのだ。「お母さんはきれいだった」と父は言う。
娘にしたら、それは受け入れられないことだし、きっと許せない事実だったにちがいない。同志のはずだった母が父を許していた?
でも、たとえゲイだとカミングアウトして家を出た夫であっても、妻の中には人にはわからない感情が続いていたということなのだろう。それがどういうものなのか、想像するしかないけど。
私はあなたに捨てられても、こうやってちゃんと女として生きている、という意地か。あるいはもっと自然に、ゲイなんていうことは関係なく、自分を愛してくれたときには、夫は誰よりもすてきな男だったということか。あるいは男女を越えた感情なのか。
でもそれだけ、このヒミコが深く人をひきつける存在だったということが、よくわかるシーンだ。
○ゲイ予備軍?
悪がき中学生三人組がホームの塀に落書きをしたり、老人たちを愚弄したりする。あるとき春彦が怒りにまかせて、その中の一人につかみかかり、「今度やったら殺すぞ」と低い声で言う。
そのとき、たぶんその中学生の身体に電気が走ったのだろう(これも陳腐な表現だけど)。結局その子はその後ホームを訪れるようになり、一緒に食事をしたり仕事を手伝ったりするようになる。でもそれまでの罪償いでもボランティアでもないんだな。結局、春彦に惹かれてしまったわけだ。美しい年上の男の人に心を奪われてしまったわけだ。
この少年の初恋ということになるのかもしれない。そして、その後彼はふつうに女の子を恋するようになるかもしれないし、そのままゲイの自分に気づくことになるかもしれない。人はそれぞれだ。男を愛する男もいるし、女を愛する男もいる。もちろん女性もいろいろだ。相手がどんな人であれ、愛する気持ちがあれば、そう、人を愛したという事実があれば、それでいいじゃん。そういうことじゃないですか? ひょっとして、これもこの映画のテーマ?
○最後のシーンが秀逸です
父親がなくなり、その後いさかいから、沙織はホームへ行かなくなる。ある日、いつものように塗装会社で鬱々と仕事をしていた沙織に、ホームから仕事の依頼が入る。塀の落書きを消してほしい、というわけだ。
沙織が作業員らをつれてホームに向かうと、そこにはホームの仲間たちが派手に書いた「さおりちゃんに会いたい!」という文字(すいません、これは正確な言葉ではありません。DVDをみてから日がたってしまい、覚えていないけど、こんな内容の落書きだったと思います)。沙織に会いたい彼らが思いついたいたずらだったのでしょう。
にぎやかな笑い声とともに出てくるホームの人たち。まだしかめ面の沙織。
マスクをした佐織に「キスする?」と春彦。仏頂面の沙織の顔が崩れて、二人は大笑いをする。「だめ!」と沙織。
きっと彼女はこれからも、仕事をしながらこのホームに通い、ゲイの老人たちの世話をし、心ひかれているものの恋人同士にはなれない春彦に少し複雑な思いを抱きつつ暮らしていくのだろう…、そういうことを自然に想像させ、ココロを温かくしてくれる幕切れだったのです。
人として、甘えてばかりではなく「きちんと」生きるとはどういうことか、そういうことを今考えています。