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■冤罪 田中角栄とロッキード事件の真相 「この事件には陰謀が絡まっている。底が深すぎるし、奇々怪々だ」 産経ニュース 2016/7/25 石井一

2022-05-27 05:43:34 | 日記

 

■冤罪 田中角栄とロッキード事件の真相

「この事件には陰謀が絡まっている。底が深すぎるし、奇々怪々だ」

産経ニュース 2016/7/25 石井一

https://www.sankei.com/premium/news/160723/prm1607230016-n1.html


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--昭和51年7月27日、田中氏はロッキード事件で逮捕されたが

「その年の2月から米国のチャーチ委員会(上院外交委員会多国籍企業小委員会)で、事件が取り上げられ、日本でも捜査が進められていたが、私も含めて田中の周辺ではだれも逮捕まで踏み切るとは思っていなかった。それに対して、東京地検は金権政治の象徴である田中を逮捕することが正義だというおごりのもとに、前の首相を、それも最初は外為法違反という容疑で逮捕するという暴挙に突っ込んだ。これは歴史的に糾弾されるべきことだと思っている」

 

--その後の裁判をどう見たか

「田中は終始一貫、無罪を信じて切っていたし、やましいという様子を全く見せなかった。そこで、私は事件に疑問を持つようになり、弁護団らと話をしているうちに、田中は本当に無罪ではないかと思って、自分でも調査することにした。田中派だからとかそういうことよりも、政治家として捜査や裁判が行き過ぎたり、曲がったりしたときは追及していくのは使命ではないかという思いが強かった」

 

--58年1月26日、検察側は田中氏に対し、懲役5年、追徴金5億円を求刑した

「その時、私は『検察側のストーリーをつぶすには、日本国内の法廷闘争だけでは勝てない。米国で調査を進めて真相に迫らなければならない』と思い、渡米を繰り返した。協力してくれる政治専門の優秀な弁護士はいないかと考え、スタンフォード大学大学院時代からの友人に相談したところ、その年の2月にリチャード・ベンベニステという弁護士に会うことができた。ニクソン大統領を辞任に追い込んだウォーターゲート事件で主任弁護士を務めた凄腕の持ち主だった。私が事件の関連資料を渡し、田中の弁護を依頼したところ、10日ほどして『引き受けましょう』という返事がきた。改めて渡米した私に、彼は『この事件には絶対、陰謀が絡まっている。底が深すぎるし、奇々怪々だ』と語った。そして、事件発覚の経緯や田中側への5億円の資金提供を認めた嘱託尋問調書を日本政府が要求して裁判所が証拠として採用したことなどの点をしてきた。そのうえで『事件を証言したロッキード社(元副会長)のコーチャンは日本で刑事免責を受けているが、自分が米国内で彼を訴追することは可能だ』とも語った」

 

--その後のベンベニステ氏との調査は

「彼は3月14日、同僚や秘書など総勢10人で来日した。私が手配して高輪プリンスホテル(現グランドプリンスホテル新高輪)の最上階をフロアごと借り切り、急ピッチで本格的な調査を始めた。10日ほどが過ぎ、代理人を依頼するため、田中にどう会わせようかと思案していたところ、田中から突然、東京・目白の私邸に呼ばれた。田中は『いろいろ苦労をかけているようだな。だが、大変申し訳ないが、アメリカの弁護士は断ることにした』と言われた。私は『そんな話がありますか。せっかくすごいのを連れてきたのに』と言ったが、田中は「分かっとる。分かっとる。が、すまん、許してくれ」とわびた。さらに私は『このままだと有罪になりますよ』とも言ったのだが、田中は『いや有罪にはならない』と譲らなかった。私はすぐにベンベニステにこのことを伝えた。彼は『田中の気持ちは理解できる。すぐに帰国するよ』と受け入れてくれた」

 

--田中氏はなぜ依頼を断ったと思うか

「ひとつは『米国から仕掛けられたワナから逃れるのに米国人の手を借りたくない』という日本人としての意地とプライドがあったと思う。もうひとつは田中が無罪を固く信じていたということだ。それで米国人の弁護士まで頼む必要はないと思ったのだろう」

 

--58年10月12日の1審判決を前に、調査の結果を小冊子にまとめ、田中氏らに渡したということだが

「事件と裁判には多くの問題があるのに、田中が有罪になることには納得がいかなかったので、自分なりの調査の結果を手書きの小冊子にまとめた。最初はみんなに配って公開しようと思ったが、世論の状況を考えると逆に反発を受けるのではないかと思い、田中とその周辺の5人にだけ渡した。内容は事件の発端への疑問や嘱託尋問調書が採用されたことの問題点、田中への請託の有無や金銭授受の不確かさなど指摘し、『有罪とするのは困難と見ざるをえない』という見解を示したものだった」

 

--田中氏の受け止めは

「小冊子を読み込み、いつも枕元に置いて大切にしてくれていたそうだ。その後、判決が出て、私もその年の12月18日に行われた衆院選で落選した。その10日後、田中周辺からの誘いで、目白の私邸を訪ねた。田中は新潟料理をふるまって、『君を落としたのは本当に残念だ』と慰めてくれたのだが、その後、私が渡した小冊子の話になった。田中が『君一人が書いたのか。どうしてこんなことが分かるのか』と訪ねたので、私は『事件は完全にでっち上げられたものだと思っています。ただ、感情的に言っても仕方ありませんから、事実を並べて論理的に書いたのです。時を経て、世間が冷静さを取り戻せば、いつか真実が明らかになる日がくると思います』と答えた。田中は深く、深くうなずいていた」

 

--1審での懲役4年、追徴金5億円という有罪判決を田中はどう受け止めたのか

「田中は判決に向かうとき、無罪だと信じていた。しかし、有罪判決が出て司法に対する憤りに満ちていた。裁判所から帰ってくると、自宅事務所の会議室に駆け付けた国会議員だけを入れ、『総理大臣経験者としての私が、このような罪を、このような形で受けることは、国民に申し開きのしようがなく、名誉にかけて許せない』と演説をした。その後の田中は派閥をどんどん大きくして、自民党を完全に支配した。その異常なまでの執念の背景には、首相というポストを傷つけてしまったという反省と、自分の無実をかならず晴らすという意地があったのだと思う」

 

--事件をめぐっては日米政府の陰謀説もある

「米国の政権は自分の思い通りになると思っていた日本を、日中国交正常化や資源外交などで独自の道に進めようとした田中を追い落とそうとした。田中は『(当時国務長官だった)キッシンジャーにやられた』ということを私にも言っていた。一方、日本側では事件当時の首相の三木武夫が、自分の政権基盤を強化しようとして、事件を機に田中を葬り去ろうとした。それに歩調を合わせて裁判所や検察という司法が、異常な執念と思い上がりから、首相経験者を仕留めようとした。そこへマスコミが追い打ちをかけ、世論は田中を罰することが日本の民主主義を救うことになるというムードになってしまった。これは歴史的に検証されなければならないことだと思う」

 

--田中氏は平成5年12月に刑事被告人のまま、75歳で死去した

「ものすごく悔しかったと思う。昭和60年に脳梗塞で倒れ、障害が残ってから亡くなるまでの間は筆舌に尽くしがたい苦悩があっただろう。無実でありながら、罪を晴らせないままこの世を去ったことはまさに悲劇だ」

 

--田中氏を政治家としてどう評価しているか

「政治家として並外れた能力の持ち主だった。予算の数字から政策の中身を知り尽くし、議員立法もたくさんやった。その意味で政党政治家の模範といえる存在だった。一方で『カネ』のイメージが強かった。ただ、それは自分の力で作ったもので、反省面ではあるが、希有な政治家だったと言えるのではないか。ただ、紛れもない愛国者であり、庶民の目線を持っていた。ロッキード事件がなく、田中の能力が発揮されていたら、日本の国は北方領土問題をはじめ、いまだに残っている問題もとっくに解決できていただろう。田中がどれほど大きな功績を上げることことができたかと考えると残念だ」

 

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冤罪 田中角栄とロッキード事件の真相
「この事件には陰謀が絡まっている。底が深すぎるし、奇々怪々だ」
産経ニュース 2016/7/25 石井一


■田中角栄はアメリカにハメられた…今明かされる「ロッキード事件」の真相 現代ビジネス 2020.11.15 春名幹男 国際ジャーナリスト

2022-05-27 05:43:14 | 日記

 

 

■田中角栄はアメリカにハメられた…今明かされる「ロッキード事件」の真相

現代ビジネス 2020.11.15

春名幹男 国際ジャーナリスト

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/77216


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・ロッキード事件は「復讐劇」か


どんな陰謀も「動機」なしに企むことはない。

動機があるから企みを実行する。

動機はしばしば、「怒り」から生じる。怒りは突発的なものであり、時とともに鎮まって、忘れてしまえば、雲散霧消することもあり得る。

だが、怒りは度重なると「憎しみ」となり、さらに「復讐」の動機を生む。

復讐のための陰謀を企むと、「純粋性」を失い、さまざまな計略を考える。

哲学者の三木清は、そんな人間の業を教えてくれる。

ロッキード事件をめぐって、数々の陰謀論が流布している。

しかし、これまでに浮上したどの陰謀説も、動機を立証できていない。

『ロッキード疑獄』は第一部で、田中角栄を葬った実行行為を特定し、法執行機関による捜査、刑事的決着までを描いた。

だが、田中角栄はなぜ葬られたのか。

ここでその理由を解明しなければならない。

長年にわたる取材で、実は田中角栄は、日中国交正常化以後、首相在任中の外交課題で繰り返しキッシンジャーらの激しい怒りの対象になっていたことが分かった。

怒りは雲散霧消することなく、憎しみに深化していったとみられる。

キッシンジャーが、田中の外交に復讐していたことも分かった。

その事実は、今に至るも、日本の外務省にもまったく知られていない。

 

・アメリカ国務長官の恐ろしい謀略


ロッキード事件は、国際政治スキャンダルでもあった。

英語ではこの事件は「スキャンダル」とも呼ばれている。

ここでは、「事件」と「スキャンダル」を分けて考えてみたい。

「事件」の方の動機、例えば贈賄の動機は立証済みであり、ここでは追及しない。

ここで探るのは、政治家としての田中を葬った、国際的な「スキャンダル」の動機である。

田中が“被害者”となったスキャンダルに、殺人事件の捜査手法を当てはめてみたい。

殺人事件の捜査なら、(1)殺害の凶器、(2)殺害の方法、(3)動機について、証拠を認定することが必要不可欠となる。

(1)田中を葬った凶器とは、「Tanaka」もしくは「PM(首相)」などと明記した証拠文書である。

(2)方法とは、その文書を日本側に引き渡し、刑事捜査を可能にした手続き。つまり、「キッシンジャー意見書」と日米司法当局間の文書引き渡し協定だ。文書は、意見書に基づき、米証券取引委員会(SEC)に渡され、日米協定に従い、最終的に東京地検に渡った。

その結果、東京地検による贈収賄罪事件の捜査が可能になった。

キッシンジャーはその際、自ら実行行為に参画したわけではなく、補助的な役割を演じただけだった。

しかし、スキャンダルも、(3)動機が証拠付けられなければ成り立たない。

その動機は、刑事事件の動機ではなく、田中を政治的に葬るという動機である。

既述の通り、(1)を含む文書を(2)が示す方向で、最終的に東京地検に届くよう導く役割を演じたキーマンは、事件発覚時の米国務長官ヘンリー・キッシンジャーだった。

残された課題は、キッシンジャーにどんな「動機」があったのか、なかったのかを確認することである。

 

・「田中外交」への嫌悪感


私とほぼ同じ時期に、米国政府文書を取材していた朝日新聞の奥山俊宏も、キッシンジャーが田中に対して「痛烈な皮肉の言葉を浴びせた」ことを文書で読んでいた。

しかし、発見した文書の数が少なかったせいか、キッシンジャーが田中を嫌った真の理由には到達しなかったようだ。

「キッシンジャーの田中への軽蔑の念が少なからず影響した」あるいは「キッシンジャーは、政策ではなく、その人格の側面から田中を蛇蝎のごとく嫌って……」などと、個人的な感情の問題に帰してしまっている。

確かに、キッシンジャー発言には感情的な言葉が多々見られる。

しかし、2人は公人同士であり、政策や外交戦略に絡む対立が出発点で、それに個人的葛藤が付随したのだ。

田中を葬ることにつながる、キッシンジャーの「動機」を示す文書記録は多数残されていた。

対立は「日中国交正常化」から、日本の「中東政策」、「日ソ関係」などの外交分野に広がっていた。


・眠っていた極秘資料


筆者は、ロッキード事件の取材を15年前、まさに「動機」を突き止める作業から始めた。

ある刺激的な秘密文書の存在を、長年の畏友が教えてくれたのがきっかけだった。

「国家安全保障文書館(ナシヨナル・セキユリテイ・アーカイブ)」という、民間調査機関の上級アナリストを務めるウィリアム・バー。2005年10月のことだ。

その前年に、彼のドキュメンタリーがABCテレビ番組「機密解除・ニクソンの中国訪問」で放映され、エミー賞ニュース・ドキュメンタリー調査部門賞を受賞していた。

彼が日本を訪れ、赤坂で食事をした際に、「驚くべき文書を発見した」と明かしてくれた。

その機密文書は翌2006年5月、国家安全保障文書館のホームページにアップされた。

テーマは「ニクソン―フォード政権時代の秘密外交を詳述する2100件のキッシンジャー『会談録』文書」の一つだった。

今も、ネット上の同じページに掲載されている。

筆者をロッキード事件取材に駆り立てたこの文書は、1972年8月31日付で、「トップシークレット/センシティブ/特定アイズオンリー」と指定された「会談録」だ。

「アイズオンリー」とは、配布後に回収される文書で、機密度が非常に高い。

 

・キッシンジャーの激しい「怒り」


キッシンジャー大統領補佐官は、その中で、田中角栄とみられる日本人らを烈火の如く「ジャップは上前をはねやがった」と罵っている。

キッシンジャーはなぜ、そんなに怒っていたのか。

「上前をはねた」とは、一体どういう意味なのか。疑問が募った。

この文書こそ、まさにキッシンジャーの激しい「怒り」を示した文書だったのだ。

しかも、田中による日中国交正常化を厳しく非難した言葉だった。

この文書からスタートして、米国立公文書館やニクソン大統領図書館、フォード大統領図書館などで、田中首相在任中の米国の文書を渉猟した。

長年の取材で分かったのは、キッシンジャーとニクソン大統領が、政治家田中の外交政策を嫌悪していたことだった。

「日中国交正常化」だけではなかった。

第四次中東戦争に伴う石油ショックで、田中は日本外交の軸を「アラブ寄り」に転換し、さらに独自の日ソ外交を進めた。

日ソ外交で、田中は今も知られていない復讐をされていた。

興味深いのは、田中自身を含めて、日本政府側は当時も今も、こうした米側の思考と外交をほとんど認識していないことだ。

ただ、日本の「アラブ寄り外交」への転換について、田中とキッシンジャーは激論を闘わせており、田中も米側の意向を十分理解したに違いない。

三木清ではないが、キッシンジャーの怒りは度重なり、「復讐心」を持つほどのレベルに達していったのである。


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田中角栄はアメリカにハメられた…今明かされる「ロッキード事件」の真相
現代ビジネス 2020.11.15
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/77216


■ロッキード事件の「真の巨悪」は田中角栄ではなかった 米高官・CIAを後ろ盾に暗躍した「元戦犯容疑者」たちを徹底究明 クーリエ・ジャポン(講談社) 2020.10.31

2022-05-27 05:42:53 | 日記

 

■ロッキード事件の「真の巨悪」は田中角栄ではなかった

米高官・CIAを後ろ盾に暗躍した「元戦犯容疑者」たちを徹底究明

クーリエ・ジャポン(講談社) 2020.10.31

https://courrier.jp/news/archives/216989/


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日本人の心に、強烈な印象を残した田中角栄。

ロッキード事件で、逮捕・起訴され、一、二審で実刑判決を受けて政治生命を絶たれ、病にも倒れて、鬼籍に入った。

しかし、この事件には、未解明の重大な疑問が残されている。

当時、ほとんどの日本人は田中が現職の首相時代に犯した犯罪だから、田中が「巨悪」だと受け止めていた。

だが、本当の巨悪は他にいて、断罪されないままになっているのだ。

田中訴追に直接関係する証拠は米国司法省から東京地検特捜部に引き渡され、法の裁きを受けた。

しかし、巨悪解明につながる証拠は提供されなかった。

アメリカは、なおその証拠を秘匿している。

戦後最悪の国際的疑獄となった、この事件。

昭和から平成、さらに令和の時代を迎えた今も、真相を紡げないまま、歴史のかなたに葬ってしまっていいのか、と痛切に感じる。

田中角栄の逮捕から40年たった2016年、田中に関する書籍や記事、テレビ番組が相次ぎ、角栄ブームにもなった。

かつての政敵の一人、石原慎太郎(いしはらしんたろう)が著した小説『天才』(幻冬舎)やNHKスペシャルなど、ドキュメンタリー番組も話題になった。

その中で、朝日新聞編集委員の奥山俊宏(おくやまとしひろ)が書いた『秘密解除 ロッキード事件』(岩波書店)は、新しい取材に挑戦し、米国の公開文書を系統的に点検していた(1)。

この本が出版された時、私はひやっとした。

奥山は、ロッキード事件に関する米国政府機密文書を発見して、2010年から朝日新聞に何度かスクープ記事を書き、本と同じタイトルの特集記事もまとめていた。

正直に打ち明けると、私は同じテーマで、彼に先駆けて、2005年から取材を開始し、関係文書を大量に入手していた。

その中には、奥山に先に報道された文書もある。

だが、まだ私の取材は全部終わっていなかった。

先に出版されてしまえば、それまでの長年にわたる取材が無に帰してしまう、と恐れていた。

案の定、彼の本が先に出版された。親切にも彼は著書を贈ってくれたので、慌てて読んだ。
意外にも、私の心配は杞憂(きゆう)だった。

 

・キッシンジャーが角栄を嫌った理由を突き止めた


彼が、アメリカの公文書を取材した意義は大きい。

しかし、多くの未解明の疑問に対する答えを出していなかった。

この著書の副題「田中角栄はなぜアメリカに嫌われたのか」という問いは、疑問符のまま残されている。

「キッシンジャーは、政策ではなく、その人格の側面から田中を蛇蝎(だかつ)のごとく嫌っており、その意味で田中は米国の『虎の尾』を踏んでいたと言える」と奥山は書いている。

しかし、真相はそんなことではなかった。

田中がアメリカに嫌われた真の理由、それを初めて明らかにする。

ロッキード事件は、第一段階で田中首相在任時の日米関係、第二段階で事件発覚から捜査、裁判に至る経緯、と二つの段階から成り立っている。

これまで、二つの段階の間に重大な因果関係があったことを解き明かした著作はなかった。
それを解明することによって、初めて事件の真相が見えた。

つまり、田中が政治的に葬られた理由は彼の外交にあったのだ。

 

・Tanaka文書の経緯を逐一追う

 

次々と出版された類書から大幅に遅れながら、あえて拙著『ロッキード疑獄』を上梓(じょうし)したのは、ロッキード事件の新しい歴史を刻むことができたと考えたからだ。

事件解明の最大の壁は、事件が「アメリカ発」であり、米国政府から捜査資料を入手しなければ、捜査は不可能という現実だった。

捜査資料とは、全部で5万2000ページ以上、ロッキード社が保管していた秘密文書のことだ。

最終的に、東京地検特捜部が入手したのは、そのうち2860ページだった。

本書では、これらの文書が辿った複雑な道のりと関連の動きを、逐一、丹念に追うことによって真相を追究する手法を取った。

田中の運命を決したこれらの文書は、どのような経緯で東京地検特捜部にたどり着いたのか。

文書の中には、確かに「Tanaka」ないしは「PM」(Prime Minister=首相=の略)と明記した文書があった。

特捜部の捜査をリードした堀田力(ほったつとむ)も、そのことを認めている。

これらの文書は、田中や丸紅、全日空両社の首脳らの逮捕、起訴、裁判の過程で、活用された。

 

・巨悪の正体

 

しかし、アメリカは田中関係の文書とは対照的に、「巨悪」に関する情報の公開を阻んでいる。

「巨悪」は訴追を免れたが、その全体像は、ロッキード事件の三年後に発覚したダグラス・グラマン事件も含めた取材で、浮かび上がった。

その正体とは、どんな人たちなのか。

日本では、おぞましい人たちが姿を現した。

戦前・戦中は軍国主義を突き進み、終戦直後に「戦犯容疑者」として連合国軍総司令部(GHQ)に逮捕され、巣鴨(すがも)拘置所に勾留されたものの、起訴を免れ、釈放された「紳士」たちだ。

アメリカでは、彼らを生き返らせて、表舞台に復帰させた「フィクサー」らが暗躍した。

その後ろ盾に、米国の軍部と軍需産業から成る軍産複合体が控えていた。

東西冷戦の激化で、アメリカは日本を「反共の砦」として、経済的に繁栄させるため、これらの元戦犯容疑者たちを復活させた。

日米安全保障体制を強化するため、アメリカは1950年代以降、自衛隊に高価な米国製の武器・装備を導入させた。

その「利権」を分け合った日米の黒いネットワークが露呈したのが、ダグラス・グラマン事件であり、ロッキード事件だったのだ。

事件の主役は、日米安保関係の根幹に巣くう人脈であり、彼らを「巨悪」として訴追すれば、安保体制は大きく揺らぐところだった。

事件を表面化させたアメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ小委)のジェローム・レビンソン首席顧問は、事件が「インテリジェンスの分野に入ってしまったので、チャーチ小委の調査も終わってしまった」と筆者に語った。

この証言は、日米安保関係の秘密の部分に調査のメスを入れることができなかった事情を雄弁に語っている。

「巨悪」のグループには、米国の軍産複合体のほか、米中央情報局(CIA)も含まれている。

日本の元戦犯容疑者たちは、CIAの協力者としても暗躍したのである。

 

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■ロッキード事件の「真の巨悪」は田中角栄ではなかった
米高官・CIAを後ろ盾に暗躍した「元戦犯容疑者」たちを徹底究明
クーリエ・ジャポン(講談社) 2020.10.31
https://courrier.jp/news/archives/216989/