かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

今日は福崎の柳田國男の生家を訪ねました

2019-02-21 22:01:47 | ブログ記事


自分の備忘のために、たくさん写真を写しましたが、
関心ない人には退屈な記事かもしれません。

福崎駅から柳田國男の生家は車で10分と書かれてありましたが、
歩くと、これが遠かったです。

市川という川を越えてからは、あえて昔の道であろうと思うところを歩きました。

これが正解でした。

現在の道路と比べると狭い道ですが、これが昔のメーンの道だったようです。

「銀の馬車道」と名付けられています。

その馬車道の途中で福崎の文化の中心地の辻川地区の地図を見つけたので、撮影しました。


もう少し近づいて写します。


馬車道の説明版もありました。


記録のために全部撮影しました。


これもそうです。松岡映丘というのは柳田國男の弟です。


あとでも紹介しますが、柳田國男の兄弟は5人とも天才です。

もともと國男兄弟は、生まれたのは8人だったようですが、3人は夭折したようです。


これは、福崎の大庄屋だった三木家住宅です。

今日は公開日でなかったので、中を見せてもらうことはできませんでした。

子だくさんで貧しかった松岡家の六男であった國男は一時、この三木家の養子になります。

三木家住宅の間取りの変遷です。

現在、辻川地区に建っている柳田國男の生家は、もとはこの三木家の近くだったそうです。

歩いてきた「銀の馬車道」です。

この写真の塀に貼られてあるものを撮影したのが、下の写真群です。

「銀の馬車道」辻川地区の地図です。


「銀の馬車道」辻川地区の地図もありました。

「銀の馬車道」は日本最初の高速産業道路だったそうです。

ここから少し坂道を登って、柳田國男の生家の建つ辻川地区に到着。

柳田國男が民俗学者になったきっかけになったカッパの池の説明です。


肝心の池は改修中とかで、池の水は抜かれていました。



今日の一番見たかった柳田國男の生家です。

もともとここにあったのでなく、上の写真の三木家住宅の近くだったらしいですが、
こちらに移築されたそうです。

四畳半二間、三畳二間の家です。

國男が幼いころ、この家に7人暮らしていたと言いますから、驚きますね。

両親と長男夫婦と國男と弟2人。

他のお兄さんたちは、すでに他所で暮らしていたようです。

國男の長兄の奥さんは、この家の狭さが原因で離婚したのだそう。

身内だけなら、狭いのも我慢できますが、お嫁さんは我慢ができなかったのでしょうね。

↓國男と、その兄弟の詠んだ短歌です。長男以外、4人の歌が並べられています。

兄弟は、みな立派な仕事を持ち、その上、仕事以外の分野でも秀でた才能を見せています。

↓こちらは國男の歌碑です。

★をさな名を人によばるゝふるさとは 昔にかへるこゝちこそすれ

柳田國男・松岡家記念館です。(松岡家というのは國男の実家)

見せてもらって、國男の兄弟が、いかに優れた人物であったかが、よくわかりました。

さらにその建物の上には、「神崎郡歴史民俗資料館」がありました。

昔の神崎郡の役場だった建物のようです。

こちらも、ていねいに見せてもらいました。

そばに「短歌の森」と書かれた石碑がありました。


社のような建物があったから、これがそれかと拝ませてもらいました。


社の前には、このような万葉集の書かれた石碑が何本か建てられていました。


鈴ノ森神社

「短歌の森」というのは、こちらの神社のことかな?

このあと、昨日も書いた岸上大作の生家を探したのですが、
どうしても見つかりませんでした。

上の写真の地図に、岸上大作の家の場所も描かれてあるので、その近辺を探したのですが、
目印になるものが何もなく、行ったり来たりして探しても見つけることはできませんでした。

松岡家兄弟とは比べ物にならなかったということでしょうか?

確かに、短歌は素晴らしいものを残していますが、
松岡家の兄弟のような社会的な名声がなかったから、町の人も顕彰しないのでしょうか?


せめて岸上大作の生家の近くだと思う橋(布川橋?)から市川を撮影しました。


やっと福崎駅に戻ってきました。

福崎駅周辺は改装中でしたから、次回行ったら見違えていることでしょう。

今日は、ずいぶん歩きました。

疲れたけれど、わざわざ行ってよかったです。

思っていた以上に収穫がありました。


ご参考「福崎ゆかりの人物」←クリックしてご覧ください。

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