お墓のある山に登るとき、地元の人には祖父の実家だった家の前の道はなくなったと聞いたのでしたが、お墓の帰り道に昔の記憶をたどりながら降りてくると、祖父の実家のあった集落は無くなっていず、ちゃんとありました。
登り口が、車用に拡張されていたから見間違ったようでした。
昔は人が2,3人が歩ける程度の幅で石畳の道でしたから。
父の従兄が定年退職後に帰ってきて住んでいた家はまだ十分人が住めそうな家だったのに、「とりこわし決定」という張り紙が張られてありました。
祖父の実家だった空き家は、ぼろぼろになりながらも、まだありました。
このあと、ここから下道に降りて、日陰のない田んぼの中の道を駅まで歩くのが苦行でした。
この赤野という地区は何で田んぼは下の平地にあるのに住宅は山にあるのか子供の頃から不思議でしようがなかったのでしたが、東北大震災の津波のニュースに接したりして、この赤野も、大昔の南海地震のとき、津波に遭った過去があったのかもしれないと思い至りました。
親戚の誰にも、そんな話は聞いたことはありませんが、私がそう直感したのです。
やっと赤野駅に。
運良く電車は、すぐ来ました。
田舎では、電車が出た直後だつたりしたら一時間待ちはザラですから、よかったです。
が、このまま高知駅まで直行で行ってしまうと駅前のホテルのチェックイン時刻に早すぎるので、いったん義父の実家のあったごめんまち駅で降りました。
駅の向こうの田んぼの中に我が家のお墓はあるのですが、今日は、もう歩けません。
ここでお墓の方向を拝んでから、また電車に乗って高知駅まで戻ることにします。
と書いたところで、やはり親友に会いたくなり、夫にメールして電話で親友の都合を聞いてもらいました。すると彼女もぜひ会いたいと言っているというので、くろしお鉄道で高知駅に戻ることはやめて、後免町から土佐交通の路面電車で親友の家に行くことにしました。
なぜ親友に会うのにこんな手間がかかるかというと、親友は、現在、ほぼ失明していて、メールのやりとりができないからなのです。
そういうわけで急に行くことに決定して、向こうでは夕飯の時間になるから、南国市のスーパーでお惣菜をいくつか買いました。
本当は後免駅の近くに適当なお店があれば楽だったのですが、後免駅も昔の賑わいはまったくなく、開いているお店すらない状態ですから、仕方なく少し離れたスーパーまで歩いて行きました。
既にお墓参りで疲れ果てていた私は、腰の痛みに耐えながらの歩行でした。
田舎に暮らしていたら、年を取るほど車がより必要になるということがよくわかります。
このあと路面電車に乗って高知市内の親友の家まで行き、積もる話をしました。
ホテルには午後6時チェックインの予約をしてあったから、目は見えなくても耳の聞こえる親友に、ホテルには夜遅く行くことを電話してもらいました。
結局、午後9時までお邪魔してしまいました。それでも話し足りなかった!
親友のご亭主が「なんでホテルの予約をする。うちに泊まってくれたらいいのに…」と怒ったように言ってくれましたが、親友はほぼ全盲だし、そのご亭主はクモ膜下出血の後遺症で障害者なので、泊めてもらうのは遠慮してしまうのです。
ちなみに、この御亭主は私の兄の高校時代の同級生なのです。
そういう事情で気兼ねがいらないから、以前は実家があっても、この親友の家に泊めてもらったりしていましたが…。
しかし、それにしても、高校時代の親友同士、かたや高度難聴で、かたや失明寸前とは、いかなる神の配剤でしょうか。
登り口が、車用に拡張されていたから見間違ったようでした。
昔は人が2,3人が歩ける程度の幅で石畳の道でしたから。
父の従兄が定年退職後に帰ってきて住んでいた家はまだ十分人が住めそうな家だったのに、「とりこわし決定」という張り紙が張られてありました。
祖父の実家だった空き家は、ぼろぼろになりながらも、まだありました。
このあと、ここから下道に降りて、日陰のない田んぼの中の道を駅まで歩くのが苦行でした。
この赤野という地区は何で田んぼは下の平地にあるのに住宅は山にあるのか子供の頃から不思議でしようがなかったのでしたが、東北大震災の津波のニュースに接したりして、この赤野も、大昔の南海地震のとき、津波に遭った過去があったのかもしれないと思い至りました。
親戚の誰にも、そんな話は聞いたことはありませんが、私がそう直感したのです。
やっと赤野駅に。
運良く電車は、すぐ来ました。
田舎では、電車が出た直後だつたりしたら一時間待ちはザラですから、よかったです。
が、このまま高知駅まで直行で行ってしまうと駅前のホテルのチェックイン時刻に早すぎるので、いったん義父の実家のあったごめんまち駅で降りました。
駅の向こうの田んぼの中に我が家のお墓はあるのですが、今日は、もう歩けません。
ここでお墓の方向を拝んでから、また電車に乗って高知駅まで戻ることにします。
と書いたところで、やはり親友に会いたくなり、夫にメールして電話で親友の都合を聞いてもらいました。すると彼女もぜひ会いたいと言っているというので、くろしお鉄道で高知駅に戻ることはやめて、後免町から土佐交通の路面電車で親友の家に行くことにしました。
なぜ親友に会うのにこんな手間がかかるかというと、親友は、現在、ほぼ失明していて、メールのやりとりができないからなのです。
そういうわけで急に行くことに決定して、向こうでは夕飯の時間になるから、南国市のスーパーでお惣菜をいくつか買いました。
本当は後免駅の近くに適当なお店があれば楽だったのですが、後免駅も昔の賑わいはまったくなく、開いているお店すらない状態ですから、仕方なく少し離れたスーパーまで歩いて行きました。
既にお墓参りで疲れ果てていた私は、腰の痛みに耐えながらの歩行でした。
田舎に暮らしていたら、年を取るほど車がより必要になるということがよくわかります。
このあと路面電車に乗って高知市内の親友の家まで行き、積もる話をしました。
ホテルには午後6時チェックインの予約をしてあったから、目は見えなくても耳の聞こえる親友に、ホテルには夜遅く行くことを電話してもらいました。
結局、午後9時までお邪魔してしまいました。それでも話し足りなかった!
親友のご亭主が「なんでホテルの予約をする。うちに泊まってくれたらいいのに…」と怒ったように言ってくれましたが、親友はほぼ全盲だし、そのご亭主はクモ膜下出血の後遺症で障害者なので、泊めてもらうのは遠慮してしまうのです。
ちなみに、この御亭主は私の兄の高校時代の同級生なのです。
そういう事情で気兼ねがいらないから、以前は実家があっても、この親友の家に泊めてもらったりしていましたが…。
しかし、それにしても、高校時代の親友同士、かたや高度難聴で、かたや失明寸前とは、いかなる神の配剤でしょうか。