昨年の12月は2度も帰省した。
12月6日に例月の帰省をして、
12月28日には「
朝一番の高速バスで帰省することに」なって帰省している。
そして年が明けた
1月9日も帰省して、
11日早朝に母は私の隣のベッドで亡くなったのだった。
ほんの昨日のように思うが、もう一年になる。
母が生きている間は、いつ帰省してもいいように心の準備が必要だった。
が、それが私の生きる生きがいにもなっていた。
亡くなられて帰省する義務はなくなったが、
待ってくれる人のいなくなった寂しさは身に沁みる。
もっと優しくしてあげればよかったと、そればかりが思われて後悔もする。
が、仕方なかったのだ。
私以外に母を叱れる人はいなかったのだから。
最後の最後まで、母は母であった。
決しておとなしい年寄りにはならなかった。
老いても子や孫に従うことはなかった。
だから、叱らなければならないことも多くあった。
母は最期まで父の長兄の家との境のことを悔やんだ。
実家が建て直しをするとき、隣の父の長兄が家の境でいちゃもんをつけてきて、
もともと細長い敷地だったのに、結局、実家は半間ほど父の長兄に譲り渡すような恰好で
家を建てた。
狭い間口の、そのたった半間が、あとあと母を悔しがらせた。
私は同情してあげればよかったが、
「そのとき言わないで後で言っても土地は返ってこないのだから」と母に言った。
そして「今さら言うだけ無駄」とも。
が、もっと母の気持ちを汲んでやったらよかった。たとえ土地は返ってこなくても。
その境界線の土地をとられたことは、母の痛恨の出来事だったのだから。
が、私は、それをしてやらなかった。まだ死ぬとは思っていなかったから?
人が見たら些細なことでも、本人にとっては、忘れがたい記憶はあるものだから、
もっと理解してやればよかった。
私も、若いころのことを繰り返し言うものだから、夫はもちろん、子供たちにも
「もういつまでもそのことを言って」と言われてしまうが、
私にすれば、若いころの辛かったことは忘れることはできない。
そんなものだ。人というものは。
*
★もう少し母の気持ちに寄り添ひて話を聞いてやればよかつた
★年取りてことさら昔のことを言ふ母を叱りしことを後悔
★わたくしも昔のことを繰り返し言ふ老人になりてゆくらむ
★母叱りゐしわたくしが母に似て繰り言を言ふ人になりゆく
★遺伝子はこんなところに現れてわれは老いたる母になりゆく
★壮年で死にし亡父は年下になりて久しく弟のごと
★楽しみは早く彼の世に逝き父や母に会ふこと此の世を離れ