かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

あなたへ・・・難聴だから確かにご迷惑をおかけしています

2018-11-30 18:31:39 | ブログ記事

という上のタイトルは昨年の今日、前のブログに書いたものです。

過去記事=>「あなたへ・・・難聴だから確かにご迷惑をおかけしています

昨年から変わっていないなあと思います。


それにしても、なぜこんなに人の記事に干渉する人がいるんでしょうね

2018-11-30 15:45:05 | ブログ記事
道徳観は人それぞれでございます。

また、あえて道徳観に反して記事を書く場合もございます。

それは書かずにいられないという内部から湧きおこった感情が書かせるのです。

私のブログも、私が書いていますが、
私自身、何者かに突き動かされて書いている部分もございます。

それがブログの面白さだと思っています。

小説なども、そうでございますね。

たとえば、瀬戸内寂聴さんの書かれたものなどに道徳をもってきましたら、
たちまち問題小説になります。

が、道徳的に見れば問題があるけれど、しかし、読むに堪えない小説ではございませんね。

文章とは、そういうものだと思います。

むしろ、道徳通りのことを書いたがために退屈で、読むに堪えない文章は多いと思います。

それより、人間の表には見えない真実を書いたもののほうが面白いと思います。

以上は、私の持論でございますが、
そうでない考え方をお持ちの方も世間にはたくさんいらっしゃると思います。

世間には、残念ながら、そういう退屈な人のほうが多いかもしれません。

以上、コメントくださった品行方正な方々に、お読みいただけると幸いでございます。


お昼前に投稿した記事は取り下げました

2018-11-30 15:25:41 | ブログ記事
私は、私の現在の心模様を描いた記事でしたので、
なんら恥じることも臆することもありませんが、
二人の方から批判めいたコメントをいただきましたので、いったん取り下げました。

私とすれば、心外なことですけれども、平和を保つために。

またアップするかもしれませんが、とりあえず。

昨日は、確かに、ブログやめるかもとも書きました。

記事の最後のほうに独り言のように・・・。

が、

その後、「ブログを止めないで」というコメントをくださった方々がいらしたので、
その記事の最後部分は消しました。そして、またご期待通りに?書いております。

ですから、その消した部分への余計なコメントは要りません。

通りすがりさんは、黙って通り過ぎてくださいませ。

その私の消した部分をことさら持ち出してコメントなさるということは、
私にブログをやめろと仰せでございますか?

もしやめるとしましても、コメントくださった方の干渉を受けてやめるのではございません。

私のブログでございますので、消した部分に対してのコメントは控えてくださいませ。

が、まあなんだかんだいっても、私のブログですので、基本的には自分の書きたいように
書きます。

私の書くものが嫌いな方は、どうぞ読みに来られないでくださいませ。

私は、こんな出来損ないの人間です。

それが面白いと思ってくださる方にお読みいただくことで満足でございます。

以上記事の取り下げのお詫びとコメントくださったお二方へのコメント返しの代わりに
させていただきます。

慎みて。


*

コメントを承認制にしますと、アップするのに手間がかかりまして嫌でございますが、
また、いったん承認制にいたします。

三食の食事作りも感謝されれば喜んでできる

2018-11-30 11:21:19 | ブログ記事
が、当たり前のような態度をされたり、

作っているのに、
食べずに出ていかれたり、作って待っているのに他の人と食べて帰ってこられたりされたら空しい。

それを言うと、「それじゃ作らなくていい、外で食べる」という。

確かに、現代は、比較的安価に外食できる。

奥さんなんかいなくてもいいと思っても不思議はない。

が、食事をするのという行為は単に空腹を満たすという目的だけでするものではないだろう。

セックスも同様である。

ただ性欲を満たすだけが目的ではないだろう。

これを履き違えている人は多いと思う。

食事も同様である。

出来上がったものを食べるだけなら、外食でもいいかもしれない。

が、食事には、家族の絆を深める役目もある。

特に、子育てなどではそうだ。

共働きでお金があるからと言って、
外食ばかりしていたら、子供の精神衛生上よくないと私は思う。

子供が外から帰ってきたら、おいしそうなにおいが家中に漂っているということが
子供の気持ちを落ち着かせ、情操教育にもなると思う。

子供が巣立って、夫婦二人だけの暮らしになっても、
日々の食事を大切にしていたら夫婦の絆は切れない。

「あなた作る人、私食べる人」という立場も、たまには交代してみるのもいいかもしれない。

料理は、してみれば、大変さもわかるが、面白さもわかる。

だから、たまには、交代して作るのがいいと思う。

仕事をしている人でも、暇な時間を見つけてやれば、趣味のように楽しめると思う。

いつも上げ膳、据え膳では、いつまでも奥さんの気持ちを理解することができないと思うが、
どうだろう?

たまに作って奥さんを喜ばせれば、奥さんは、また頑張ろうという元気が湧く。

ここらあたりも、セックスと同じだと思うが、どうだろう?

とにかく相手がいることを忘れないことが肝要だと思う。

*

それでも、規則的に食べてくれるのは、まだいい。

私のように、その連れ合いと別居していて、ときどき帰ってこられて、
急に食事が必要というのが一番困る。

材料がそろわないと急には作れない。

そう思って材料を揃えておくと、まったく帰ってこなかったりしたら、材料が傷む。

こういうことは、定期的に作るより、もっとストレスになる。

相手に思いやりがあれば、または自分が食事作りの苦労を知れば、
こういう相手を困らせるようなことはできなくなるはずだと私は思う。

五輪貧乏、万博貧乏にならないように

2018-11-30 06:15:23 | ブログ記事
万博を誘致できた大阪が

大風呂敷を広げたが、これから資金集めが大変とか。

私は、それ見たことかと思う。

資金は、手前の持ち合わせでするべきでないか。

お恵みを乞うのは乞食根性である。

資金が乏しいなら、乏しい資金でやればいい。

それは東京都の五輪もそうである。

最初の予算より、どんどん事業費が膨らんでいるのは、

間で儲けようとする輩が絡んでいるからである。

現在進行形の五輪も、これから始まる万博も、それらの金食い虫の排除が肝要である。

だいたい、一般家庭でも、何かの行事は自分たちの収入に応じた規模でやる。

結婚式にしても、葬式にしても・・・。

誰も人に寄付を募って結婚式を挙げたりはしない。

日本も、かつてのバブルのころの国力は失せているのだから、

ここは見栄など捨てて執り行うべきである。

どこかの国の五輪は、非常に乏しい資金でやり遂げたと聞く。

日本も、そうすべきである。もう遅いかもしれないが、今からでも。

とにかく、終わって借金の残らない五輪、万博にするべきである。

そうでなくても、現在は、税金にしても何にしても、庶民に皺寄せが行き過ぎている。

川西市を大阪都に

2018-11-30 04:23:47 | ブログ記事
昨日も神戸に行って思ったのだが、

川西市から兵庫県都、神戸市に行くのは1時間かかる。

が、大阪梅田には自宅から30分でいける。

しかも神戸には、JRでも私鉄でも必ず乗り換えしていかなければならない。

が、JR大阪駅、または阪急梅田駅には乗り換えなしで行ける。

当然、大阪に出る機会のほうが多くなる。

なのに、川西市が兵庫県であることは不自然である。

川西市や猪名川町の北部の、というか奥の能勢町が大阪府であることから鑑みても。

これは、宝塚市民、伊丹市民、尼崎市民も感じていることだと思う。

歴史的に見ても、

昔は、これらの地域は摂津という国で、浪花と呼ばれた大阪と同じ国であった。

それを言えば、神戸市なども摂津国であったが・・・。

とにかく、

私は元に戻してほしいと思う。

大阪府が大阪都にしようと画策している今、強く要望をしておきたいと思う。

それから、これは要望ではないが、兵庫県について。

現在、県都は神戸市になっているが、

しかし、兵庫県全体からしたら、これも不自然ではないかと思う。

兵庫県は広い。

城崎温泉のある豊岡市なども兵庫県である。

豊岡市の人たちは神戸市が県都であるのは不便ではなかろうか。

昔の播磨の国の中心であった姫路市などに県都を移したらどうだろう。

そうして、旧播磨の国全体、その奥の丹波、丹後の国々を活性化させるのだ。

これは今月半ばに姫路で乗り換えて丹波の神河町に行ったときに感じた感想だ。

私は、全兵庫県民の利便性のよい地域に県都を移したらと思うが、
まあこれは「大きなお世話」と言われるかもしれない。

孫の誕生祝を届けたついでに兵庫城祉へ

2018-11-29 17:12:30 | ブログ記事


今日は急に思い立って神戸の次男の子の誕生日のプレゼントを届けに行きました。

このプレゼントは、誕生会用に注文したのに間に合わなかった積み木。

が、実は、間に合っていたのです。最初に配達されたのは誕生会当日の朝でした。

朝10時過ぎに配達があったのに、私が例によってインターホンを聞き逃して、
せっかく間に合って配達されていたのに、当日渡すことができませんでした。

それで、できるだけ早く持っていってやりたかったのですが、
先週の水曜日は申し込んであった琵琶湖紅葉巡りのツアーに行ったのと、
日曜日は耳の会の行事で箕面の紅葉を見に行ったので、行けませんでした。

お婆さんの私には連日の外出は無理ですから。

それで土曜日か日曜日にもっていってやろうと思っていましたが、
しかし、共働きの次男夫婦は土日は予定があるかもしれません。

それで、平日の今日もっていってやることにしました。

朝7時頃の電車に乗れば、向こうに8時くらいに着くと思うので、
7時前の電車に乗りました。

が、電車で行くことに馴れないので、向こうに到着したときは8時15分くらいでした。

いなければ、ドアノブに吊り下げて帰ろうと思って行ったら、
玄関から出てきたお嫁さんと孫に鉢合わせしました。

お嫁さんが、「今日は遅くなったので、お母さん失礼します」というので、
そのまま追いかけました。

お嫁さんは駅前でタクシーを拾いました。

それに私も便乗させてもらって、孫の保育園まで行きました。

1歳になったばかりの孫は泣きもせず、きょとんとした顔で保母さんに抱き取られました。

幼すぎて、まだ事情が呑み込めないのでしょう。それが余計かわいそうな気もしましたが。

★一歳になりしばかりの幼子は泣くことすらもせずに保母へと

お嫁さんは、そのまま急いで職場に向かいました。

★病院の薬剤師する母親は子を預ければ職場に足を

★母親は離れるときに子に笑みて手を振りあとは振り返らざりき

★仕事もつ人の強さと思ひつつ眺めるわれは子離れが下手

★わたくしの次男は幼きときわれと離れるときは大泣きをせし

★お迎えに行くまで大泣きし続けし次男を今日は思ひだしたり

私は、そのまま帰るのも勿体ないので、
数日前にテレビのローカル番組でやっていた兵庫城祉を見に行くことにしました。

兵庫城は和田岬というところにあると言っていたので、行ってみました。

現在、兵庫城祉はイオンモールにになっていました。

イオンモールの店舗は、まだ開いていませんでしたが、
イオンモールの通路にあった案内板を撮影。

ガラスが反射して、よく見えないですね。

でも感じだけでもわかってもらえたら。

こちらも、あまり見やすくはないけれど、なんとなく読めるかな。


イオンの前は新川という運河で、船着き場がありました。


近くには、他にも、いろいろな説明板がありました。

↓この地図の赤いところが現在のイオンモールで、
かつての兵庫城祉であり、かつての県庁所在地です。


伊藤博文が兵庫県知事だった時代には、県庁所在地だったそうですから、
その頃も神戸の中心地だったのですね。

上の地図に近づいて写しました。↓


新川を渡ろうとすると、こんな平清盛のマスコット人形が。


新川運河の歴史を書いた説明板もありました。


運河周辺の史跡の説明も。


兵庫城祉の石碑の裏側から新川運河を撮影。向こう側はイオンモールです。


運河のことを書いた石碑もありました。↓


当時の地図も描かれてあったから撮影。↓ずいぶん今とは違っていますね。


こちらは明治時代の地図のようですね。明治時代は城址が兵庫県庁になっているんですね。


その後、住吉神社の横にある清盛像も見に行きました。


住吉神社の歴史が書かれてありました。↓


清盛像に近づきました。


清盛塚です。


大輪田橋を渡ろうと来ましたが、工事中だったので、回れ右をして引返しました。


歩き疲れたので、イオンモールの中にあった喫茶店で一休みしてから


地下鉄、神戸海岸線に乗って三宮まで帰ってきました。

現在は、三宮が賑わっていますが、昔は、兵庫城のあたりが中心だったんですね。

よい勉強になりました。

★清盛が都を築き博文が県庁つくりし大輪田の地

★大輪田の岬を訪れわれは知る和田岬こそ大輪田岬

★兵庫城その兵庫の名いただきて兵庫県なる県名は成る

★兵庫県初代の知事になりたるが伊藤博文とはしらざりき

往きは阪急電車で、帰りはJRで帰ってきましたが、
神戸線は、どちらの線も風光明媚で、道中の車窓の紅葉、黄葉を楽しめました。

★海沿ひを走る電車の窓をいま赤や黄色に紅葉づる木々が




従順すぎるほど従順だった私

2018-11-29 04:16:24 | ブログ記事
私は子供のころから従順すぎる子であった。

親にも従順であったが、学校の先生などにもそうであった。

そのためか、私は小学校時代、先生に贔屓されているといじめられることがあった。

先生からしても、従順な生徒であった私は可愛い生徒であったのだろう。

また当時、私の母が洋裁に凝っていて、取り換えひっかえ新しい服を着せられていたことも
いじめられる原因になった。

当時は、まだ物の乏しいころだったから、たいがいの子は着た切り雀だったから。

親にも従順で、これは私が結婚するまで続いた。

いや、結婚してからも続いていたと思う。

母は、私のことは何でも決めて従わせた。

その様子を見ていた母の友人の一人が

「びこちゃんは親が死ねと言えば死ぬかもしれないくらい親の言うことを聞く」

と他の母の友人達に言っていたらしい。

まあ、親の言うことだから、聞いていて間違いはなかったが、

それでも、進学も就職も結婚さえも母が決めたようなものだったのは、度が過ぎていたかもしれない。

母は、私の夫のことはすぐに気に入った。

母は世間体をいう人だったから、夫の学歴、見た目のよさにほれ込んだのだった。

それで、とんとん拍子に話は進んだ。

実際、夫は、私には過ぎた結婚相手だったかもしれない。

友人達にも羨ましがられながら結婚式を挙げた。

が、その後の苦労は、いつも書いている通りだ。

結婚してからは、私は、今度は嫁ぎ先の親に従順だった。

また従順でないといけないような姑だったことも理由にあった。

夫は優しかったが、しかし、結婚当初から従順を強いるようなところはあった。

私も、従順にしていることには馴れていたから問題はなかった。

子育て中も、夫は自分の楽しみを優先した。

私は、生活費を稼ぐのは夫だから、仕方ないと思っていた。

それに私は子育てという任務があったから、それに邁進した。

子育てが終わってからは、親の介護の真似事もさせてもらった。

それもいよいよ終わって、夫と向き合うようになった。

夫は、定年後は、自分で会社を興して仕事するようになった。

私にも手伝えと言ったが、私は手伝わなかった。

ここらあたりから歯車がかみ合わなくなったかもしれない。

が、私は毎日のご飯づくりでせいいっぱいであったし、
自分の時間も持ちたかった。

それに私は、銀行に勤めていたとはいっても、計算とかは好きじゃない。

夫は、近所に住む義弟の同級生だった主婦を雇った。

が、その女性のお母さんが認知症になり、その世話をしないといけなくなり辞めた。

その次は就職浪人だった青年を雇った。

が、仕事を教えるのに忙しく、一人でしているよりも返って仕事が増えたのと、
そのころ、ちょうど仕事も途切れていたので、辞めてもらった。

その後、夫は目が明いている時間は仕事というくらい仕事をした。

当然、怒りっぽくなって、私に怒鳴ったり、ときには殴ったり。

それでも、テニスとか自分の楽しみには出かける。

同窓会なども、ほとんど出席する。

そうして昔の交友を温める。

私は、それは仕事して稼いでいる夫の当然の権利だと認めている。

が、シニアカレッジに通うようになって、
他の女性と一緒に出掛けるために、私の作った昼食を後目に飛び出したり、
夕食を作って待っていても帰らずに、その女性と夕食を食べてきたりしたから、
私は怒った。

それを私がブログに書いたから、今度は夫が怒った。

それから、よくケンカするようになった。

今年6月にイギリスに行ったときも、大ゲンカした。

夫は、帰国後、次男たちが住んでいた大阪のマンションが空いたので、一人で引っ越した。

それが、今も続いている。

これは、人一倍従順だった私が従順でなくなった報いなのだろうか?

黙って文句を言わずに従っていればよかったのか

2018-11-28 22:01:43 | ブログ記事
が、最近の私はそうしなくなった。

おかしいと思うときはおかしいというし、怒りもする。

以前は、何も言わずに従っていた。

義母、義妹にも言われっぱなしであった。

難聴であるから仕方ないと思っていたから。

子育てのさなかに離婚したくなかったから。

それで、うまくいっていたのだろう。

が、最近は、夫の勝手な行動をなじる。

だけじゃなく、ブログを始めてからはそれを書く。

義妹との付き合いも拒否する。

だから夫は我慢できないのだろう。

が、私にも人権はある。

今まで黙って従っていたことのほうが普通じゃなかった。

そうすると夫は、今までしてくれていたフォローをしてくれなくなった。

だけじゃなく、一人で暮らすべく家を出て行った。

耳の聞こえない私は家に取り残された。

昔の言葉でいえば「かたわ」の私は文句を言う権利はなかったのだろう。

私の母が、私が肩身の狭い思いをしないように、働いて働いて援助してくれても、
それは私の助けにならなかったということなのだろう。

悔しいことではあるけれども・・・。


*

★わたくしが黙して文句言はざれば波は立たずに平和なりしや

★かたわなるわれにもものを言ふ権利あると思へば落ち葉が落ちる

ゆるキャラのバカバカしさ

2018-11-28 16:43:59 | ブログ記事
我が家は産経新聞を購読していて、

私は毎週水曜日に掲載される曽野綾子さんの「透明な歳月の光」を楽しみにしている。

今日も膝を打つようなことを書かれてあった。

タイトルにした「ゆるキャラのバカバカしさ」について、

「いい大人が無邪気に喜ぶべきか」と言われているが、まったく同感である。

まあ就学前の子供たちが喜ぶのはわかる。

が、大の大人が喜ぶものではない。

それなのに、観光地などに行くと、うれしそうに一緒にカメラに収まったりしている。

恥ずかしくて見ていられない。

本当はvサインをしてカメラに収まろうとしている人たちが恥ずかしがるべきことなのだが、

その人たちが恥ずかしがらないから、見ている私が恥ずかしくなるのである。

そもそも私は、歴史ある景観に、あのゆるキャラ群はふさわしくないと思う。

いったい全体、いつから日本人は、こんなに愚かになったのだろう?

これじゃ、どんどん途上国に追い越されていくのは仕方ない。

私が、ゆるキャラがあまり好きでないのには、もう一つ理由があって、
夏など、あの「ゆるキャラ」を被ると、内側に猛烈な汗の臭いが籠もるらしいから。

そんな話を聞けば、ゆるキャラが可愛いなどとは思えなくなってくる。

ゆるキャラではないが、真夏にディズニーランドなどで、
人気キャラクターを被ったアルバイトがしばしば熱中症になり救急車で運ばれると聞けば、
恐怖さえ覚えてしまう。

子供たちの夢かもしれないが、
ああいう被り物はやめて、他のものに置き換えるようにしたほうがいいのではないか。

羽振りがよくなる

2018-11-28 05:01:46 | ブログ記事
私の夫は現在、羽振りがよくなっているのかもしれない。

サラリーマンの時代には少ない給料でやりくりして子供を育てた糟糠の妻は関係なく。

だから、現在は、私と半分別居をして、大阪のマンションで一人暮らしをしているのだろう。

そのほうが何をするにも自由でいいから。

食事も気の合った仲間と外食するほうが楽しくていいのだろう。

夫の稼ぎがよくなることは、妻にもいいことであるはずだが、そうはならない。

夫は、私にも、「もっと出かけて遊べ」と言ってくれる。

しかし、長年、専業主婦で生きてきて、外に出て遊ぶ遊びを知らなければ、
「遊びに出よ」と言われても、どこに遊びに出かけていいかわからない。

基本、夫に連れ出してもらわないと出かけられない箱入り奥さんなのである。

以前はよく誘ってくれていた学生時代の友人達も、
最近は皆、定年退職した連れ合いと一緒に出掛けたり過ごしたりしているからお誘いもない。

結局、私は家に取り残されて、一人で本を読んだり、ブログを書いたりして遊ぶしかない。

家の掃除もしないといけないが、家族のいない家の掃除は勢が出ない。

それに年取ってくると、手伝ってもらわないとできないことも多くなってくる。

それらもできないまま、私は独りで老いていくのだろうか。

夫が元気でいてくれることも、稼いでくれることも有難いが
難聴で身体の弱い老妻には必ずしも還元されないとも思う。

これを世間では卒婚というのだろうか。

*

★卒婚は妻を捨て去ることなのか一人家出て暮らし始めて

★かすがいひの子がいなくなり滓となる妻かもしれずわれはその妻

★長生きの母が亡くなりわたくしの生きる甲斐などなくなる此の世

★死ぬことがしばし頭をかすめたり一人で起きて一人で食べて

★未亡人こんな気持ちでゐるのかと体験してゐるやうなこの朝

★年取つてからの夫婦と常言ひし叔母はその夫(つま)置きて死ににき

★わたくしが死ねば夫は喜ぶか遊びの邪魔をする者消えて

★子を三人(みたり)孫を四人(よつたり)残せるがわれの残せる歴史であるよ

★父が死に兄死に母が死にたればわれも死ぬのが怖くなくなる

★四人(よつたり)の家族でありしときは過ぎいまこの私のみ残りて此の世

難聴のせいで年々偏屈になっていく私?

2018-11-28 00:59:56 | ブログ記事
昔はいつもにこにこしているびこちゃんと言われていた。

が、最近は、めったに笑わない。

外を歩く時も無表情だ。

見知った人を見ても、にこにこすることはあまりない、
というより、こちらに来たのは60歳前だったから、今でも知り合いはほとんどいないし、
作ろうともしていない。

知り合いができても、スムーズに会話ができないから。

そんな私だから、
昔のように笑わないのは、自分が笑いたくないという気持ちがあることと、
うっかり笑いかけて、話しかけてこられたら困るという気持ちもあるからだと思う。

話しかけられても、スムーズに聞き取れればいいが、
聞き取りにくい声の人とか、話し方の人だったら、何度も聞き直しをしないといけなくなる。

それで、無意識に人を避けているのだと思う。

難聴者の会に行くと、やはり、私と同じように無表情な人が多いが、

なかには、難聴であっても、いつもにこにこしている人もいる。

現在会長をしてくれている60歳くらいの人もそうだが、

前の会長をしてくれていた40歳過ぎの人もそうだった。

前の会長をしてくれていた若い人は、
車の運転もするし、聴覚障害がどんな障碍であるかという説明も上手にする有能な人だ。

が、二人目の子がダウン症だったため、忙しくなり、会長職は降りた。

この人はご主人も聴覚障害者で、
以前は夫婦で川西難聴者の会である「耳の会」の運営をしてくれていた。

毎月いろんな企画を立ててくれて、参加すれば、何らかの得るものがあるという
充実した運営ぶりであった。

ご主人は、平日はお勤めをされているから、土日だけの協力になるが、
それでも子供さんのお守りなどされて、非常に協力的だった。

現在も行事には家族で参加されるから、お会いするが、夫婦としても模範的なご夫婦だ。

子育ても立派にされている。

難聴であっても、ああいうふうに明るく生きていけたらと思う。

親御さんが、どんな育てられ方をされたのかとまで思ってしまう。

私は年々笑いが少なくなって、偏屈になってきているが、
いつも、
どうすれば、難聴であっても、ああいうふうに明るく生きていけるのだろうと思いながら
拝見している。

水道の民営化って怖くない?

2018-11-27 19:38:48 | ブログ記事
たしか7月ごろ、水道の民営化が問題になっていたと記憶していますが、

最近は、あまり聞かないのですが、その後どうなったのでしょうか?

水道が民営化されるって怖くないですか?

だって水って命そのものだもの。

人間の身体も、ほとんど水で、できているでしょ?

その水の値段が高騰したら、貧乏人は生きていけなくなるのでは?

また、民営化されて、儲け主体になると、安全面で問題が出てきたりはしないかしら?

民営化されてよかったのは電電公社くらいだと私的には思うのですが、どうなんでしょ?

郵政省の民営化も、私には失敗だったような気がするし。

国鉄がJRになって、赤字体質が改善されたところはあると思うけれど、

しかし、儲け主義に走った結果、

福知山線脱線事故は起こりましたね。

それと同じような構造的な事故が起こるのではないかと私は危惧します。

列車の脱線事故は、被害に遭う人は乗っていた人に限られますが、

水の事故は、そうはいきません。

被害に遭う人は天文学的数字になるかもしれません。

が、水は飲まないわけにはいきませんから、逃れようがありませんね。

この水の問題は、もっと大騒ぎしないといけない問題ではないでしょうか?

万博が誘致できたなどと喜んでいる場合じゃないように私には思えるのですが、
なぜ、あまり騒がれないのかしら?

*

★水のみち民営化する悪政を見やうとしない民衆われら

★民営化されてそののち騒いでも後の祭りとならむ水道(みづみち)

★人間の源なりし水なれば民営されるは怖き水道

★万博が誘致できたと喜びてゐるまに値上がりする水道は

★民営化されて五倍になりし国あると知りたり水道代が

★民営で水質悪化せしといふニュースを聞けば危惧するわれは


*

いまニュースを見ると、「入管法改正案、衆院法務委で可決」とか。

なんか日本の大事がどんどん勝手に決められていっているように感じるのは私だけでしょうか?

いったん移民を受け入れてしまうと、後戻りできないことは肝に銘じておく必要があると思います。


さらに大叔母の思い出

2018-11-27 14:53:40 | ブログ記事
こうして書くことが大叔母への供養になると思うし、

私の子供たちも読んでくれているのなら、
私の大叔母がどんな人だったか知ってもらえると思うから、書いておこうと思う。

私の娘は、この大叔母の養女さんと3年ほど前に東京で会っているから、話も分かりやすいと思う。

大叔母は何度も書いているが、私の母方の祖母の妹である。

二人の顔立ちはそっくりというくらい似ているが、

次女で実質的に長女であった祖母は真面目で、この大叔母は末っ子でお茶目で愛らしい性格をしていたから、
会ったときの印象はかなり違う。

祖母も大叔母も決して美人ではなかったが、しかし、大叔母のほうは男性にモテたようだ。

というのが、あの時代、恋愛結婚で遠方の人と結婚していることからもわかるし、

その結婚した旧家の跡取り息子だった大叔父さんに愛されていたから。

大叔父さんは紳士であった。

亡くなる時も、大叔母に対して「世話になったのう」と言って亡くなったという。

大叔母はその時、「あっ」と思ったらしい。

その直後に亡くなったというから、最後まで礼儀正しいというか、思いやりがあるというか。

大叔母の養女さんも、この大叔父さんのことは義父ながら、心から尊敬していた。

養女さんも、こんな人柄のよい義父の元にもらわれてきたのは運がよかったかもしれない。

まあ、そんな紳士である大叔父さんに見初められて結婚した大叔母だから、
美人ではなかったが、男性から見て魅力があったのだろう。

この大叔母は確か95歳くらいで亡くなったと記憶しているが、

大叔母が90歳くらいのときの話である。

ある日、養女さんのところに大叔母から結婚したい人がいると電話がかかってきたと。

養女さんは、まさか90歳のお婆さんがそんなことを言いだすなんて思っていなかったから、
びっくりしたらしい。

それで事情を聴いてみると、

入院中に仲良くなった年下の男性がいて、その人に求婚されていると。

その男性は、郵便局長をされていた人で、奥さんを失くしているから大叔母と再婚して、
大叔母の世話をさせてほしいと言ったそうな。

驚いた養女さんは、「何考えているのよっ」と大叔母を叱ったらしい。

そりゃあ、そうでしょう。90歳って言ったら、もう死んでいてもいいような年齢なのに、
それから再婚するなんて。

困った養女さんが、私の母に相談してきたから、私の耳にも入ることとなった。

聴いた私も驚いたが、しかし、あの大叔母ならありそうな感じもした。

病院にお見舞いに行っても、いつもいっぱいの人に取り囲まれて人気者だったから。

それで、その奥さんを亡くして鰥夫になっている男性も、歳を忘れて求婚したのだろう。

笑い話のような本当の話である。

それからも何度かお見舞いに行ったが、大叔母の周囲はいつも人が集まっていた。

気前もいい大叔母だったから、老若男女を問わず好かれた。

その気前のよすぎるのが身内には困ることもあったが・・・。

しかし、

最後まで認知症にはならなかったが、やはり寄る年波には勝てず、ある日亡くなったという連絡が入った。

大叔母の一生は、自分の子供は生めなかったが、優しい夫に恵まれ、美人の養女を育て上げ、
幸せだったのではなかろうか。

が、大叔母も、私と同じように、婚家では、けっこう大変な思いもしたと聞いたような気はするが、
しかし、あんな人柄のいい男性(大叔父さん)と結婚できただけでも大儲けだったのではなかろうか。

ん、私も?(笑)

私と大叔母の違いは、私はペシミストだが、大叔母は根っからの楽天家ということである。

大叔母も苦労がなかったわけではないと思うが、根が陽性なのである。

そういえば、大叔母の養女さんも明るい。

まあ実家で大事にされ、嫁ぎ先で大事にされだったから、暗くなりようがないが、
しかし、
実の親を知らないということは、この養女さんにとって大きな負なのかもしれない。

母が最期まで言わなかったのは、言わないほうが本人のためになると思ってのことだったのだろう。

どんな親であっても、親を知っているということは幸せなことであるかもしれないと、ふと思った。

*

★幸せの雫のやうな養女なりされど実親しらず死ぬは無念か

★九十になりても求婚されしかばその子でなくても人は呆れる


大叔母も母も最期まで自分で自分の始末をした

2018-11-27 09:12:37 | ブログ記事
今から考えて偉いと思うのは、

昨日から書き続けている大叔母と母のことである。

二人とも、最後の最後まで自分の始末は自分でした。

大叔母も最後のほうは病院に入退院を繰り返していたが、

入院のときも、退院のときも、全部馴染みのタクシーの運転手さんにお願いしていた。

それだけじゃなく、山深い場所に一人暮らしをしているときも、

食べたいものがあると、その運転手さんに来てもらって、街に買い出しに行っていた。

大叔母の生前、私が電話で、「何か食べたいものはない?」と聞くと、

「食べたいものはタクシーを呼んで買いにいっているから何も送ってこないで。
送ってこられたら、冷蔵庫に入らないから」

と言っていた。

実際、そうであったようだ。

山深いところに住んでいたから、買い物は不便だったが、景色は申し分なかった。

前に築山の紅葉のビデオを見せてもらったことがあるが、そこらあたりの観光地顔負けの景色であった。

大叔母は手芸が趣味だったから、その景色の中で日がな一人で手芸をして、

少し寂しくなったら、養女のところとか、私の母のところとか、私の叔母が生きていたころは叔母、
それから私のところに電話をかけてきていた。

祖母の実家は大昔、高知県の郡部の城主であったらしいが、
その家のことを詳しく教えてくれたのは、この大叔母のこのころの電話であった。

いつも長電話であったが、私はいろいろ聞いておけてよかったと思っている。

祖母は早く結婚したこともあり、その親からそんな話を聞かせてもらっていなかったのか、
あまり話してくれなかったが、

大叔母は末っ子だったこともあって、親の話を聞く機会が多かったのだろう。

この大叔母は小学校に入っても、下校したら、そのお母さんの母乳を飲んでいたというから、
どれだけ甘えん坊だったかと驚く。

その分、親とのふれあいも多かったのだろう。

祖母が真面目一方だったのに比して、この大叔母はお茶目で愛らしい性格をしていた。

が、養女さんには子供のころから家事も仕込んで、しっかり育てていたから、
ある意味では、私の祖母より賢かったのかもしれない。

世間では賢いと評判だった私の祖母は、
娘には一切家事はさせずに、お嬢さんに育てたため、母は嫁いでから困ったらしい。

何しろ祖母の自慢は、娘に一度もご飯を炊かせたこともないということだったから。

そのため母は結婚してから、父の兄嫁さんの特訓を受けたらしい。

これが母には苦労だったようだったが。

しかし、若いころから父に経済的な苦労をさせられたので、経済的には自立したし、できた。

それで、年取っても死ぬまで自分で世話をしてくれる人を探して雇って世話をしてもらった。

その世話をしてくれていたおばちゃんは若いころ看護師さんだったらしくて、
母が階段から落ちて首の骨を折ったときも、
退院後の骨を作る薬の注射も、毎日この叔母ちゃんがしてくれていた。

おなかにする注射で、射すのが難しそうなのに、よくしてくれると感心してお兄嫁に言うと、
「おばちゃんは若いころ看護師さんをしていた人だから」と言っていた。

母もいい人を見つけて世話になっていたものだと思う。

このおばちゃんは料理も上手で、
私が帰省したときなどは、私の分までお弁当を作ってもってきてくれていたが、
卵焼きなど玄人はだしであった。


母も食べるものにはうるさかったが、このおばちゃんの作るものはおいしいと言っていた。

お金を払っていたとは言っても、このおばちゃんも最後の最後までよく母につかえてくれた。

私や兄嫁ならできないことまでしてもらったと思っている。

亡くなる前日も、母は入院先の病院に迎えにきてもらって、
おばちゃんに付き添ってもらってパーマまでかけにいっている。

おかげでお棺の中の母の亡きがらの髪はきれいに整っていた。(笑)

この大叔母にしても、私の母にしても、細かいところではいろいろあったが、
ある意味あっぱれな人生であったかもしれない。


人に頼りっきりで生きている私には真似ができそうもない。

*

★大叔母も母も子供に頼らずに他人に頼りその生を終ふ

★たまきはる命の際まで何事も自ら決めし母と大叔母

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それらから比べると、
母方の祖母は、その孫が開業医だったので、
寝たきりになっても死ぬまで自宅で寝ていられたのは幸せだったと思う。