梅日和 umebiyori

心が動くとき、言葉にします。テーマは、多岐にわたります。

話は、それからだ。

2021-11-21 07:20:23 | エッセイ おや、おや。ー北九州物語ー

マコちゃんに援助してもらい、予備校へ通い始めると、ひとりの教師との出会いが待っていた。英語のチューターだった。彼は、「自分が伝えたいことを英訳するように」と言い、そのノートを毎日チェックしてくれた。成績は驚くほど伸びていった。講師は、英訳が芳しくないと、「今良いフレーズが浮かばないので、もう少し時間をちょうだい」と赤いボールペンでメッセージを書いていた。1970年代後半のことである。当時の私学は、3教科の受験。英語の成績が急激に伸びたことによって、わずか半年程度で、国内の私学文系であればすべて合格という模試結果を安定して得ていた。去年の苦い経験はどこへやら。さあて、そうなると、有頂天ぶりが、また、頭をもたげてくる。学びたい分野は決まっているため、関西、関東の私学へと関心が広がる。

初めての一人暮らしや学生生活、想像は際限なく続く。晩御飯を食べながら、治療室をのぞきながら。娘の妄想めいたおしゃべりが、何日も続いた。

「ほぉ」「そうね」マコちゃんもスーちゃんも、根気強く話を聴いていた。しかし、しばらくして、こう言った。

「合格通知を持ってきなさい、話はそれからだ」。

実効性の薄い話や言葉だけが飛び交う会話をマコちゃんは嫌った。イエスは、イエス。ノーは、ノー。会話自体が極めてシンプルだったように思う。前言撤回がほぼ、ないからだ。東洋医学に取り組む者として、曖昧な話は極力避けていたように思える。まして、見立てについては、必ず曖昧な点を明示して、わかりやすく患者さんに伝えていた。寡黙なひとだったが、その言葉にはちからがあり、重みがあった。また、よく勉強していた。治療室に遅くまで残り、点字をなぞり、弱い視力で書籍を読み続けていた。痛みを訴えるひとのための行動であり、信頼や納得、安心を得てもらうための言葉だったことを考えれば当然ではある。

伝えたいこと、伝えたい相手、どんな言葉をどういう順番で使うか、どういうタイミングで渡すか、渡すときにそのまま渡してよいものか、条件付きで渡すべきものか。考えてみると、娘は、ふたりのおかげで通えた予備校と治療室で、ずいぶんと言葉や会話について学んでいる。

翻ってみると、なんとTVで放映される為政者たちの言葉は軽やかなことか、曖昧なことか。5W2Hがないのである。


失敗祝い

2021-11-20 06:08:05 | エッセイ おや、おや。ー北九州物語ー

幼少の頃より娘は利発で学校で習うお勉強は、そこそこできた。なんといってもマコちゃんとスーちゃんにやりたいことをやると言い、実現したらお小遣いの額を上げてもらうというニンジン付き。

自発的にのびのびと得意分野を伸ばせる環境にあったわけだ。幾多の通知表(成績表)を持ち帰ったが、マコちゃんは評価点が低い科目については「くやしいか?」と聞くだけ。くやしいと思えば、自身でなんとかすればよい。くやしいとは思えないならそれはそれでよいのではないか。一貫して、マコちゃんはこういう人であった。やや選択肢があった高校選びも「無理をして一番手を選ぶより、二番手でのびのびと好きな美術をやりたい」となんなく済ませて、精神的にはストレスもなく、時は過ぎた。容姿の問題など個々の悩みはあるもののおおむね自尊心、自己肯定感たっぷりの娘は、いつしか自惚れる。

 

ところが、そうそううまくはいかない。当時の模試結果では、合格確実だとされていた大学から不合格通知が届いた。2校も。娘は、そんな馬鹿な!と、事実を認めない。3日間、部屋に閉じこもり、泣き続けた。

3日目に、マコちゃんがふらりと様子を見に来た。そして言った。

「君に行きたい学校があるのなら一年かけて準備をして、もう一度受験すればいい。予備校に行きたいなら行けばいい。今のマコちゃんとスーちゃんには、君に再トライしてもらうだけの経済的余裕があるよ。よく考えてみなさい」。泣きじゃくる娘の顔を一瞥して、さらにマコちゃんは言った。

「良かったね。これで、人の心の痛みがわかったろう?」。

かくして、大学受験失敗は、我が家ではお祝い事のごとく歓迎されることとなった。スーちゃんも娘もケーキを準備するのではないかと思えるほど微笑んでいた。当の本人は、なかなか素直になれず、「ものごとは、舐めてかかると、ろくなことにはならない」と学習し、1年間楽しく、いや、懸命に近所の予備校へ通うことになった。

実は、不合格通知が届いてすぐに、国内脱出も考えた。9月入学の海外大学ならまだ間に合う、と。マコちゃん、これは即決で、却下した。

「そりゃぁ、逃げだろう?君が1年前に海外の話をしてたなら、それも有りよ。しかし、逃げるのだけは許せんな」。

おっしゃる通りであった。


なにが?どう、悪い?

2021-11-19 06:50:49 | エッセイ おや、おや。ー北九州物語ー

小学生の頃、よく虐められた。たいがいは、ガキ大将一派に「めくら[1]の子」とはやされ、囲まれていた。怖いことは、怖い。なにせひとり対5人だったり、娘ふたり対6人だったり。しかも、男の子たちである。

ところが、娘には、理解できない。確かに、両親は視覚障害者である。しかし、なんといっても家に帰れば、あちこちに笑い声が響き、患者さんは一様に笑顔で帰っていく。そして、笑顔でやってくる。このどこがどうマズいのか。めくらだから、どうだというのか。いっこうに納得できない。

下校途中に囲まれると、逆に仁王立ちになって「どこがどう悪いのか、言って」と応じていた。虐めっ子たちがどう答えたか、残念ながら記憶にない。記憶にないくらい影響を受けていない。また、親の顔色を見てマコちゃんやスーちゃんに言わずにおくということがなく、虐められたこと、応戦したことをよく話していた。隠す気持ちがないためか、ますます記憶に暗い側面がない。

今なお虐めはなくならず、子どもから大人まで被害の報道が後を絶たない。そして、大人たちの嘘や隠ぺいの報道も後を絶たない。

虐めはなくならない。競争を是として、優劣や上下を物差しの最上位におくような社会では、ますます、増えていく可能性もある。人を押しのけることで生き残れと大人たちが教えているからだ。人とともに生きるということを教えていないからだ。

ネガティブなニュースに遭遇する。その時、ふと思うのである。虐めに耐え、跳ね飛ばすだけの充足感を暮らしのどこか一部分ででも持てていただろうか、と。なにより、誰かと話ができて、ただただ聴いてくれる人は居ただろうか。

抗議も批判もそれなりに必要で、事態への注意喚起を行うという意味では価値があるのだろう。とはいえ、虐めの背後にある人が生み出す物差しにもっと目を向けたい。命に上下はなく、優劣もない。この単純で、難しい事実をどれくらいのひとが素直に肯定できるだろうか。

なお、個人的には、日常の虐めには、努めて優しさでお返しすることにしている。3倍返しくらいだろうか。虐めたことがあほらしくなるほど、優しくするのがよろしいのではないかと思っている。もっとも近年は、虐められた、という自覚さえ持てず、良い意味で愚鈍になっている。気づかないまま、逆になっているケースはないか。これは、気をつけたい。

 

[1] 「めくら」差別的な言葉として、放送自粛用語とされています。


偉い人も貧しい人も、痛いは痛い。

2021-11-18 05:16:49 | エッセイ おや、おや。ー北九州物語ー

マコちゃんもスーちゃんも相手によって対応や態度を変えるといったことはしなかった。職業や役職にかかわらず、痛いものは痛いのである。治療室は、さながら痛みを共通言語とするコミュニティで、その人の職業やら役職やらなんの関係もなかった。某上場企業の役員、商店街のラーメン屋さんの奥さん、中学校の教師、、さまざまな仕事をする患者さんが、治療室で談笑し、仲良く過ごしていた。ずいぶんと偉そうな物言いをする人も治療費のことばかりを心配していた人も、痛みを抱えている点では同じだった。そしてなんとか緩和したいと治療室へ集まっていることも同じだ。ふたりは、へつらうでもなく、ただただ、人として人を大切にした。そして、笑いが絶えなかった。高飛車な物言いをしていたおじさんもいつのまにやら優しいおじさんに変身し、おさいふを気にしていたひともなんだか穏やかになっていった。最小限の出費で済むように、的確に施術をしていたのだろう。

いつも学校から帰ると治療室に入りびたり、大人たちの会話を聞いていた。やや乱暴で怖かったおじさんやら自慢話に興じるおばちゃまやらいろんなひとたちの言葉を聴いていた。スーちゃんとマコちゃんが居ることで、不思議に笑顔と笑い声が生まれていた。

後にマコちゃんが逝くとき、実は、お願いがあるのだと小さな紙を渡された。鍼灸院を開くとき借りた土地の借用書だった。大家さんは、鍼灸院を開くことを了承しながら契約完了後に水道を引くことを許さなかったという。この点を法的に明らかにしてほしいとの話だった。時の大家さんはこの世を去り、息子さんが継いでおられた。さらには、60年の時を経て、明らかにできることが何をもたらすのかよく理解ができなかったため、マコちゃんのお願いは保留のままである。

しかし、亡くなった大家さんに、視覚障がい者に対する差別意識があったことは幼いころに実感していた。浅薄な理由で人を区別し、差別をおこなう話は枚挙にいとまがない。その手合いに限って、強いものには従順で弱い者には強く出る。

しかし、だからこそ、強弱にかかわらず、人として人を大切にする。可能な限り区別や差別をしない。なるべく共通項に光を向ける。マコちゃんとスーちゃんが鍼灸院でやっていたことは、差別されたからこそ差別しない、区別されたからこそ区別しないひとの在り方だった。


山盛りお焦げが教えてくれたこと。

2021-11-17 05:38:07 | エッセイ おや、おや。ー北九州物語ー

我が家には、その昔、土間に小さなおくどさんがあり、窯でご飯を炊いていた。娘は、7歳にしてご飯炊きの役を命じられる。或る日、テレビで放映していた漫画に夢中になり、窯に木と新聞紙を入れ火をつけたものの、そのままに。テレビの前に陣取って、画面にくぎ付けになっていた。あたりには、焦げた匂いが充満しはじめる。時すでに遅し。匂いに気づいて治療室から飛んできたスーちゃんは、大激怒。1960年代初頭の話である。スーちゃんは、たぐいまれなくいしんぼうと自負していた。それだけに、食べ物や食べることに関しては執着も強かった。その分、食生活を大切にしていたように思う。美しい丹波の小豆やら大きな大分のどんこしいたけ、分厚い利尻の昆布などなど。スーちゃんの笑顔の思い出には、なにかしらセットでおいしいものがついてくる。

さて、その夜、ちゃぶ台に並んだご飯は、娘の分だけお焦げの大盛だった。4人家族の3人分はなんとか白い。しかし、漫画にうつつをぬかした娘の茶碗は、黒かった。娘が泣こうが喚こうが、スーちゃんは、完全に無視。いつもは笑い声に包まれる食卓もその日ばかりは、静かだった。もうひとりの娘も、なんだか大変な事件が起きているらしい。はしゃいではならないと自重していたらしい。

おそらく我が家で前代未聞の静かな夕飯時ではなかったろうか。そこに、娘の泣き声だけがむなしくこだまする。スーちゃんを仰ぎ見ても、マコちゃんを見ても、もくもくと箸を進めるだけであった。最後まで娘の茶碗が白くなることはなかったという。あくる日、娘は、反省と我慢という言葉を覚えて、おいしいご飯を炊いた。自分でやるといったことをやらない。その結果を自分でしっかりと刻めるように、黒いごはんを大盛でよそわれて、満足に食事ができなかった。お米を無駄にしてしまったこととその理由がしっかりと娘には伝わった。泣いても、叫んでも、事態は変わらない。ただ、黒いお茶碗が鎮座していたのみである。二度とお焦げは作るまいと決心したそうだから、なかなかの教育効果である。

小学校低学年の娘に、ご飯炊きを通じて、食の大切さを体得させたスーちゃん、そしてマコちゃんであった。しかし、当時、家には、お手伝いさんもいた。娘のしつけを兼ねて、意図的に役割を与えていたということか。今となっては、謎である。