道元の著作の中でもっとも読まれているのが『正法眼蔵』であり、中でもひときわ人気があるのが『現成公案』の巻です。ご紹介した「三行」は、よく引用される有名な一節です。ご存じの方も多いと思います。
私は、「作務」において感じた“一瞬”が、道元のいう“自己を忘れる”と同じだというつもりはありません。ただ感動的な歓びをともなった作務の後に、あの一節を諳んじることができたことを幸せに感じたということです。この『現成公案』や『正法眼蔵』については、別の機会に触れてみたいと思います。
ともあれ無事に≪作務≫を終えた後は、10時からの≪坐禅≫であり、11時からの≪日中(にっちゅう)≫そして、正午ちょうどの≪中食(ちゅうじき)≫でした。「日中」とは、「日中諷経(にっちゅうふぎん)」を略称したようです。主に「読経」です。「中食」は言うまでもなく「昼食」となります。
午後は13時の≪作務≫に始まり、14時の≪坐禅≫、16時の≪晩課(ばんか)≫そして17時の≪薬石(やくせき)≫と続きます。「晩課」とは夜の勤行、すなわち「読経」中心のものであり、「薬石」とは「夕食」のことです。
一日の“締め括り”は、19時の≪夜坐(やざ)≫でした。「夜の坐禅」となるわけですが、この時間ともなるとさすがに疲労もピークを迎えていたのでしょう。21時の≪開枕(かいちん)≫すなわち「就寝」の合図とともに、誰もが“爆睡”状態に入っていました。
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以上が「一般参禅」(1997年5月と8月)の日程でした。結局、この「一般参禅」での一日の「坐禅回数」は、3時50分からの「暁天坐禅」、10時と14時からの「坐禅」、そして19時からの「夜坐」の4回でした。
「坐禅」のとき「線香」が焚かれます。その本来の理由は時間を計るためにあったのでしょう。一本の線香が燃え尽きる時間を「一チュウ(いっちゅう)」といい、およそ40分から45分ぐらいです。「チュウ」の字は「火偏(ひへん)」に「主」と綴ります。永平寺では、この「一チュウ」すなわち一回当たりの坐禅時間が、40分と決まっていたようです。
「坐禅」を開始しようとするとき、まず「予鈴」として鐘がなります。つまりは、これから坐禅をしますよ。そのための準備に入ってくださいというわけです。「単」に座って、座禅をするために脚を組み、全身を伸ばしたり、揺すったりしながら、身も心も“坐禅の態勢”を整えます。その数分後に「本鈴」が鳴って正式な坐禅が始まります。
雲水のみなさんと共にした12月と翌年2月の「摂心」については、手元にその当時の日程表はありませんが、一日に「十三チュウ」つまり「十三回の坐禅」があったように記憶しています。まさしく“坐禅三昧”そのものでした。
この「摂心」のとき、「坐禅」と「坐禅」の間を何度か「経行(きんひん)」という所作でつないだような気がします。経行とは足の痺(しび)れを解(ほぐ)すために、坐禅者相互が並んで歩くことをいいます。歩くと言っても亀の歩みのごとく、実にのろのろとしたものです。1分間に数十センチ程度しか進まなかったように想います。坐禅をしている時と同じように息を整えて歩くことから“歩く坐禅”とも呼ばれています。
初めて「経行」を体験したときのことです。それは1987年12月の「臘八摂心」のときでした。
私は直前までの「坐禅」による“脚”の“痺れ”がとれず、単から“立ちあがる”ことすらできませんでした。それでも何とか立ちあがって「経行の歩み」に加わったものの、座禅による脚の痛みと痺れと疲れのためか、何度も全身が崩れ落ちそうになりました。
何とか周りの人々に支えてもらったのですが、全身が自分のものではないような気がして仕方ありませんでした。
しかし、この二、三回後の坐禅で、私は“時間を超えた自己”ともいうべき“存在”に気付くことになるのです。(続く)