『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・『山脈をのぼるきもち』:演劇ユニット「」―(中)

2013年11月07日 22時16分31秒 | ●演劇鑑賞

 

  唐突に始まった「男二人」と「」との三人生活。 は一人甲斐甲斐しく掃除機をかけ、部屋を片づけ、そして洗濯機をまわしている。ありふれた日常行為を淡々とこなしていく――。二人の男の食事の世話もしているのだろう。母性や感覚・感性に導かれたと言えなくはない。

  だが事実は、“今ここにある現実を本能的に受け止めよう”とする“の割り切りのよさ”というもの。男二人に対する配慮でもなんでもない。自分が「掃除をしたいから……、洗濯をしたいから……」、ただそれだけにすぎない。何にも束縛されない生き生きとしたの表情であり、の本質が巧みに表現されている。

  もし以上の“甲斐甲斐しさ”をがするとなればどうだろうか。おそらく、『現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である……』など、哲学者然として行動倫理・論理の正当性に浸っているだろう……。

  だが、“の登場”によってもたらされた“紛れもない現実”――。男二人に主導権を握られてしまったかのようだ。が来る前までの、男二人だけの生気や自由は感じられない。

  その一方、は「水蒸気の塊である雲」を、そしてその「雲」がかかる「山脈」を「のぼること」ができるかもしれないと呟くように語る。倫理も論理も価値観云々も何もない。の感覚・感性が、ごく自然にそう受け止めうるのだろう。男二人には到底できそうにもない。

  “山脈をのぼるきもち”……は、このメッセージに何を託そうとしていたのだろうか。『をのぼる』ではなく、『山脈をのぼる』とは……。山稜の連なりという漠たる宙空を「のぼる」。しかも「(のぼる)……きもち」という。男は、「をのぼる」ことはあっても、「山脈をのぼる」ことも「(のぼる)……きもち」になることもない。今回、久しぶりに「タイトル」に感心した。

        ☆

  ……余裕の表情を見せながら働き続ける総てを受け止めうる“大らかさ”とともに、の本質たる“即物性”を遺憾なく発揮し始める。 

  洗濯物を干しながら、それぞれの洗濯物に「名前」を付けようとする。同時には、のパンツにウンチが付いていたことを指摘する(この指摘はあとでも出てくる)。

  といっては、ことさらの身体を案じているわけでもない(無論、その気持がまったくないわけでもないだろうが)。“自分に関わる事実”を“事実”として確認しながら、今一度その意味するものを反芻しようとしているようだ。とはいえ、その“事実”は目の前の“確たる現実”を乗り越えうるものでなければならない。そうでなけば、にとっては何の意味も価値もない。その証拠に、借金まみれの恋人Bに関することは、ただのひとことも出てこない

  ここにも、としての“見切りの俊敏性”が生々しく描かれている。の“即物性”を象徴する台詞そして状況であり、存在感と言えるだろう。そうなると無論、の“居場所”などあるはずもない……。(続く)