唐突に始まった「男二人」と「女」との三人生活。 女は一人甲斐甲斐しく掃除機をかけ、部屋を片づけ、そして洗濯機をまわしている。ありふれた日常行為を淡々とこなしていく女――。二人の男の食事の世話もしているのだろう。母性や感覚・感性に導かれたと言えなくはない。
だが事実は、“今ここにある現実を本能的に受け止めよう”とする“女の割り切りのよさ”というもの。男二人に対する配慮でもなんでもない。自分が「掃除をしたいから……、洗濯をしたいから……」、ただそれだけにすぎない。何にも束縛されない生き生きとした女の表情であり、女の本質が巧みに表現されている。
もし以上の“甲斐甲斐しさ”を男がするとなればどうだろうか。おそらく、『現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である……』など、哲学者然として行動倫理・論理の正当性に浸っているだろう……。
だが、“女の登場”によってもたらされた“紛れもない現実”――。男二人は女に主導権を握られてしまったかのようだ。女が来る前までの、男二人だけの生気や自由は感じられない。
その一方、女は「水蒸気の塊である雲」を、そしてその「雲」がかかる「山脈」を「のぼること」ができるかもしれないと呟くように語る。倫理も論理も価値観云々も何もない。女の感覚・感性が、ごく自然にそう受け止めうるのだろう。男二人には到底できそうにもない。
“山脈をのぼるきもち”……女は、このメッセージに何を託そうとしていたのだろうか。『山をのぼる』ではなく、『山脈をのぼる』とは……。山稜の連なりという漠たる宙空を「のぼる」。しかも「(のぼる)……きもち」という。男は、「山をのぼる」ことはあっても、「山脈をのぼる」ことも「(のぼる)……きもち」になることもない。今回、久しぶりに「タイトル」に感心した。
☆
……余裕の表情を見せながら働き続ける女。総てを受け止めうる“大らかさ”とともに、女の本質たる“即物性”を遺憾なく発揮し始める。
洗濯物を干しながら、それぞれの洗濯物に「名前」を付けようとする女。同時に女は、Aのパンツにウンチが付いていたことを指摘する(この指摘はあとでも出てくる)。
といって女は、ことさらAの身体を案じているわけでもない(無論、その気持がまったくないわけでもないだろうが)。“自分に関わる事実”を“事実”として確認しながら、今一度その意味するものを反芻しようとしているようだ。とはいえ、その“事実”は目の前の“確たる現実”を乗り越えうるものでなければならない。そうでなけば、女にとっては何の意味も価値もない。その証拠に、借金まみれの恋人Bに関することは、ただのひとことも出てこない。
ここにも、女としての“見切りの俊敏性”が生々しく描かれている。女の“即物性”を象徴する台詞そして状況であり、存在感と言えるだろう。そうなると無論、Bの“居場所”などあるはずもない……。(続く)