電気通信の源流 東北大学 2.勉強開始
一週間ほどのち、昼食をとりながら二時間ほど吉村先生から話を伺った。すでに92歳というご高齢にもかかわらず、相変わらずの鋭い舌鋒に驚かされた。
当日、先生から著書
「政策研究への地平へ GRIPSの挑戦」(平成20年12月発行)
「GRIPSへの歩み」(令和4年3月発行)
を頂いた。今日に至るまで大変な苦労があったことが記述されている。これを見て、東北大学が昭和の初期から松前重義など優秀な技術者を輩出した理由を考えたいという先生の心情が理解できたような気がした。
日を置かずして、佐藤氏から松前氏自身の著書や同氏に関する書籍などをWEB検索し、また図書館で調べた結果をメールで教示して頂いた。筆者は、その中で、
松尾博志書「電子立国日本を育てた男~八木秀次と独創者たち」
を一番に選んだ。書店にはすでに新書はなく、古書を購入するしかなかったが、調べたいとしていた課題に関し詳細に記述されており、たいへん参考になった。これから述べようとする拙文は、同書から得られた知識を引用し、それらについて名簿やWEBから補足したものであることを、ここにあらかじめお断りしたい。
なお筆者は、早稲田大学の先輩である北原安定氏から「電気通信の研究は東北大学が早かった。次いで大阪大学が早い。私学では早稲田が早かった」と聞かされたことがある。
東北大学と併せて調べたところ、早稲田大学に「通信」を専門に学ぶ部門ができたのは百年近い前の大正末期に遡る。大正一四年、電気工学科に通信専攻部(第二分科)が設置され、その後、昭和17年に電気通信学科として独立した。電電公社の技術委員会理事や電気通信学会の会長を務めたりして、電電公社の技術系社員にはなじみ深い平山博教授は昭和19年、電気通信学科の第一回卒業生である。
早大電気工学科を大正5年(1916年)に卒業した黒川兼三郎という教授が居られた。富士通研究所副社長をされた黒川兼行氏の父君で、電電公社技師長の現役で夭折された黒川廣二氏の叔父にあたる方である。
黒川兼三郎氏は卒業後すぐに早大助教授に就任した。大正7年から米国に二年半留学、音響学について学んだ。早大大隈講堂は日本で初めて科学的な音響理論に基づき設計されたホールとして有名であるが、その設計者が黒川教授である。
電気通信学科が電気学科から独立したとき、黒川教授はその教務主任を務めたが、通信専攻部の創設も同教授に負うところが多いかもしれない。昭和23年に亡くなられたので、筆者などはお顔を存じ上げず、過度現象論などの著書で名前を知るのみである
<1.序言