電気通信の源流 東北大学 4.東北大学物理学科
東北帝大創設が決まった直後、東京帝大理科大学物理学科教授の長岡半太郎は、自分が仙台理科大学初代学長として転じるつもりで、明治43年にヨーロッパ各地の大学を視察し、物理の実験設備を購入したりしていた。長岡は明治20年に東大物理学科を卒業したのち、明治36年に土星型原子模型を発表して、世界の物理学会で名を知られていた。
当時ヨーロッパの物理学会では、アインシュタインが発表した相対性理論がようやく理解され始めた。またプランクが発表した量子論が革命性を持っていることが広く知られてきた。長岡はヨーロッパにきて、物理学に革命が進行しつつあることを知ったのだった。
長岡は、日本が立ち遅れていることを認識せざるを得なかった。そして、今回の革命には力を発揮できなくても、仙台にできる新しい理科大学において「次回の革命」を担う物理学者を育てる決意を強くした。
しかし時の東大総長は、世界に知られる物理学者の長岡を東大から失いたくなかった。総長の執拗な説得により、長岡は彼の愛弟子たちに自分の夢を託すことにした。
東北帝大理科大学物理学科の初代教授にはKS鋼で有名な本多光太郎(明治30年東大物理学科卒)、日下部四郎太(明治33年卒)、愛知敬一(明治36年卒)の三人で、石原純(明治39年卒)が助教授になった。
彼らは開校後まもなくから、目を見張るような仕事をやり始めた。日下部の「岩石の弾性の研究」、本多の「鉄の研究」は学士院賞を、石原の「相対性原理、万有引力論及び量子論」は恩賜賞を受賞した。
中でも本多が大正5年に発明したKS鋼は、従来の強力磁石鋼に比べて三倍強い磁力を持つことで、世界でも画期的な磁石鋼であった。なおKS鋼という名称は、2万円の研究資金を寄付してくれた住友財閥の当主、住友吉左エ門の名をとって付けられたという。
本多はKS鋼の特許をすべて住友財閥に寄付した。その見返りとして、住友財閥は新たに30万円の寄付をした。本多はそれを元手にして、大正8年に金属材料研究所を創設した。今日、同研究所前には本多光太郎の胸像が建てられている。
東北大学 金属材料研究所
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