電気通信の源流 東北大学 3.東北大学の誕生
東北大学は明治40年に設立された。発展が遅れていた仙台に東京、京都に続く三番目の帝国大学が設立されたのには、足尾銅山の公害問題で世間から糾弾されていた古河財閥が、時に内務大臣を務めていた原敬(敬称は省略、以下も同様)からの助言に従い、世の批判を和らげるべく行った高額の寄付(約百万円)が財源になったからのようだ。九州帝大も同じく古河財閥の寄付を財源として設立されている。
東北帝大はとりあえず、札幌農学校を農科大学として発足した。理学部(当初は理科大学)が開設したのはその四年後の明治44年で、工学部の開設は大正8年になる。
通常、文部省は、学生が卒業後すぐ役に立つ法科や医科、工科を優遇し、基礎学問である理科には冷たかった。明治30年に二番目の帝大として創設された京都大学でも、やはり理科大学は冷遇されていた。東北帝大に続いて創設された九州帝大でも、最初に設立されたのは工科大学である。
これに対し東北大学では工科大学が理科大学より約八年遅れたのは、仙台の周辺に工業が存在せず、工科の必要度が低かったためで、設備に金のかからない理科大学を先行させたのだという。大正末期の仙台は人口わずか12万という田舎町であった。仙台で初めて上水道が引かれたのが大正12年である。
仙台は「杜の都」と呼ばれるくらい、緑の多い町である。市の中央部を、河原の広い広瀬川が蛇行しながら流れている。河原から近い米ケ袋と呼ばれる地域には、維新前は藩士の屋敷が多くあった。維新後、多くの空き家ができたところに、東北帝大理科大学が創られた。閑静で、緑に囲まれた、研究にも勉学にも勝れた環境の地である。
東北大学の設立にあたって、初代総長の沢柳政太郎は画期的な方針を打ち出した。それは、
「専門学校卒業生への門戸開放」
である。それまで帝国大学は、高等学校卒業者以外の者を入学させなかった。それに対して東北帝大は文部省の反対を押し切って、専門学校卒業生に受験の機会を与えたのである。
これによって東北大は全国の専門学校卒業生の希望の星となり、狭き門を目指して俊秀が集まった。後に彼らの中から茅誠司(物理学、東大総長)、赤堀四郎(化学、阪大総長)、岡部金治郎(電子工学、阪大教授)など四人の文化勲章受章者や、松前重義(東海大学総長)などの逸材が輩出することになる。
沢柳が掲げたもう一つの方針は、「研究第一方針」であった。教官たちは総長の方針を聞いて、奮起をした。「仙台を日本のゲッチンゲンにしよう」というのが、研究者たちの合言葉になった。ゲッチンゲンは、科学研究のメッカとして知られたドイツの緑豊かな都市である。
<2.勉強開始