四道将軍は崇神天皇10年に地方の敵を帰順させるために派遣されたと日本書紀には書かれています。
北陸に大彦命を、東海に武淳川別命を、西道に吉備津彦を、丹波に丹波道主命をそれぞれ派遣しています。
わたくし、この四道将軍の派遣に疑問を持っています。
外来土器から考えるに東海は纏向遺跡を造る=初期ヤマト王権を主導した地域なのではないでしょうか。
前方後円墳の在り方から吉備は纏向で主導権を握っていたのではないかと考えられています。
纏向に集まった各地の首長たちを逆に纏向から各地に派遣した てい にした話が四道将軍なのではないかと疑っています。
吉備から纏向にやってきたのが吉備津彦、丹波から纏向にやってきたのが丹波道主なのでは。
武淳川別命は大彦命の子とされます。
もし大彦命がもともと北陸の首長であったなら、大彦命の勢力は纏向以前に北陸から東海へと進出していたのでしょうか。
名前の「○○わけ」は○○の子供という意でよく使われるようです。
この使われ方にあてはめると武淳川(タケヌナカワ)別はタケヌナカワの子供。
大彦命=タケヌナカワということになります。
もし纏向に集まった各地の首長たちを逆に纏向から各地に派遣した てい にして話をつくっていたならば、
俄然気になってくるのがモモソヒメの出自です。
モモソヒメも逆に讃岐から纏向にやってきた人だったりしませんか?
纏向古墳群内で最古級と考えられている纏向石塚古墳などは、吉備・讃岐・阿波・播磨などの特徴を併せ持つともいわれています。
讃岐も纏向に大きく関わっていたのではないでしょうか。
モモソヒメと吉備津彦が姉弟だとされるのは讃岐と吉備が同盟関係にあったということなのでは。
讃岐からモモソヒメが纏向へ赴いたのであれば、何をしに?
私は邪馬台国畿内論者ではありませんが、箸墓の主とされるモモソヒメが讃岐から纏向に巫女王としてやって来たのであれば、モモソヒメが卑弥呼なのかもしれないとちょっと思ったりします。
竹取の翁が讃岐造であることさえも、私の妄想をかきたてます。