日本書紀の出雲国譲りの話の中で、異伝としてオオクニヌシのために「幾重にも革を縫い合わせた白楯を造りましょう」とあります。
革盾とは弥生時代以来の伝統的な木盾と異なり、古墳時代中期に突如出現し副葬品に加わったもので、古墳時代後期には副葬品としての役割を終えるものなのでは?
神庭荒神谷や加茂岩倉に青銅器が埋められたころに革の盾ってあったのでしょうか?
八千矛の神・オオクニヌシはおそらく弥生時代の神ですよね。
オオクニヌシが矛の神なのは深い意味があることなのでしょうか。
山陰では荒神谷を除くと今のところ銅矛の出土はみられないようです。
綾杉状の文様から荒神谷で出土した銅矛は、佐賀平野など北部九州で作られたと考えられています。
青銅器の文化圏については以前とは違った考えが一般的になったものの、銅矛の「本場」は九州なのでは?
古墳時代の革盾は黒漆を塗布したものと、さらにその上に一部赤漆を塗布したものがあるようです。
黒や赤が一般的な中、オオクニヌシが賜った「白楯」とは一体どういうものなのでしょう?
弥生時代の木製盾は厚さ1センチに満たないものが多く、1センチにも満たない間隔で小さなさな孔を整然と穿つために柔らかいモミの木で作られています。
孔に糸や樹皮、革紐などを通して文様を作り、また貴重な水銀朱や黒漆を塗布したものもあるようです。
薄くて柔らかい木材、美しい装飾。
木盾も武具としてではなく、祭祀用であった可能性のほうが高いように思うのですがどうなのでしょう。
高地性集落や環濠集落は絶対にあったし、戦いで死んだ人骨も出土します。
倭国が争いのない国だったとは思えないのに、弥生時代の人びとは武具を祭祀用に転じていく…。
荒神谷に埋められた銅剣や銅矛だって祭祀用だと思われます。戦いに用いた武具ではないでしょう。
出雲の国譲りとは本当はいつ、どんな形で起こった出来事なのでしょうか?