卑弥呼が魏から下賜された「鉛丹五十斤」はどうなったのでしょうか。
鉛丹は水銀朱やベンガラ朱と並ぶ赤色顔料です。施朱の風習は世界的にみられました。
古墳時代に日本列島で使われたのは水銀朱やベンガラ朱であり、鉛丹の使用例は今のところ見つかっていないそうです。
平原王墓からの出土品は大変立派ですが、撒かれた朱は鉛丹ではありません。
この方形周溝墓から鉛丹が出ていたなら邪馬台国論争に決着がついていたかもしれませんね。
いやぁそれでもつかないかぁ…
昨今、箸墓の年代がどんどん卑弥呼の時代に近づいてきました。
もしも箸墓と平原王墓がさほど変わらない時代に造られたものであれば、その大きさがあまりにも違うことに驚きます。
平原王墓は12メートル×14メートルの方形周溝墓。
かたや箸墓は278メートルの前方後円墳。
たとえ一部であれ北部九州の協力なくしてヤマトの繁栄はないと思うのです。
日本海航路、瀬戸内海航路いずれをとるにせよ、海外からの文物は北部九州のどこかを経由して入ってきたはずです。
…平原王墓は伊都国の王墓なのかな??
鉛丹と封泥が同じ地域から同時に出たら、もう私の邪馬台国は決りでしょう。
それが沖縄であろうと、東北であろうとも。