中国での銅鏡は紀元前2000年頃の斉家文化のときには小型で薄いものが多く、姿見ではなく呪術的な用途で使われていたかもしれないそうです。
出現期の銅鏡は太陽を表すような文様が多く、太陽信仰と関係していたかもしれません。
戦国時代後期に急速に普及が進んだ銅鏡は、大型の姿見と小型の魔除け鏡の使い分けがあった様子。
そして玉璧の代用品として副葬されてきたといいます。
倭人は鏡をどうやって使っていたのでしょうか。
太陽信仰に関わる呪術的な使い方であれば、中国では魔除けに使われたらしい小型鏡のほうが向いているように感じます。
中国のものが朝鮮半島を通じて伝わったのなら、中国での使われ方に準じていてもよさそうなのに、倭では逆に大型の鏡を祭祀に用いていたのでしょうか。
もし単に玉璧の代用品・副葬のための品であれば破鏡の意味が解りませんし。
鏡だけでなく銅鐸もそうです。
たとえ起源が朝鮮式の鈴だったとしても、銅鐸は最初から朝鮮式の鈴とは「別物」ですよね。
武器型青銅器にしたって、鉄器普及より前に祭器化しています。
倭人は中国や朝鮮半島のものを取り入れるにしても、そのままの使い方をするつもりは更々ないように感じます。
串間市の王の山古墳から紀元前2世紀に漢王朝の工房で作られたと思しき玉璧が出土しています。
直径33.3センチの優品で、そっくりの璧が中国の南越王墓から40枚以上発見されているそうです。
交易でこのような王侯クラスの宝物を入手するのは不可能に近く、亡命した王などが倭に持参したと考えられています。
串間市から出土するということは、玉璧の持ち主はそこで暮らし亡くなったのでしょうか。
亡命者ゆえにひっそりと暮らしていた?
王侯クラスの人物であっても、倭において大きな権力を手にしたようにはみえないのですが。
倭人というのは中国や朝鮮半島とは違った価値観を持っていたように思えてなりません。
倭人の首長層が渡来系の人びとだったとは私にはどうしても思えません。