大原神社について
大原神社とその周辺
産屋の利用
■産屋の役割
そもそもなぜ家ではなく
わざわざ産屋で出産するようになったのでしょうか。
まず一つの説として
日本で室町時代後期より民間に広まり
その後庶民の女性観、出産観に影響を与えた
『血盆経(けつぼんきょう)』の影響があるといわれています。
血盆経とは、出産で流れる大量の血が地の神を汚し
また水も汚すので、女性はその罪によって死後
『血の池地獄』に落ちると説かれた
いわゆるインドではなく中国でつくられた偽経です。
残念なことに、特に江戸時代までには
随分とこの偽経が各地に広まったようで
一般的にお産はケガレであり
ケガレのない日常からは隔離しなければならない
とされたようです。
今の世の中の考えからすれば
とんでもない教えですが
昔の人からの聞き取りの言葉からすると
田舎ほど後々までこの考えが残っていたようです。
これらの考えからすると
産屋は大原神社の聖域を血で穢さないようにするため
造られたようにありますが
そう一方向のものではないようです。
確かに姑や舅(しゅうと)に
『出産でケガレたので産屋にいって休んでこい』
『こもりに行かんなんでよ』
と言われたと残るように
血盆経の影響はあるでしょうが
実際に産屋にいった人からの感覚からすれば
大原神社の加護のもと『泊まる』や『休みに行く』
といった意識が強かったようです。
それに産屋のある場所からしても
入り口から大原神社が望め
大原神社からも産屋を見る事が出来ることから
とても聖域の外に産屋があるようには思えません。
都会から嫁いで来た若い人が
この産屋の話を聞いて、非生理的な馬鹿げた習慣だと
怖がられていましたが、やがて自分もそこへ行くと
『こんないい所なら、わたしずっと居たいわ・・・』
と誰しもが言ったとあります。
これは、普段の仕事から完全に解放されたからです。
昔この丹波地域一帯は養蚕が盛んでした。
大原の地でもそれは変わりなく、忙しく人手が必要でした。
福知山市の養蚕地帯の話によると
ずいぶん無理をして早産をする人も有り
姑が一家の実権を握っていたので
産前産後の休養などと理解のある人は少なかったとあります。
出産を控えるからといって
生活にそれほど余裕のない田舎では
働かなければいけませんでした。
そういった中、産後の休息という意味では
当時の人にとってみれば産屋は大きな役割をもっていたようです。
他の地域では家で出産していたが
町垣内の人たちは大原さんに遠慮して産屋にいった
というのが昔の人からの聞き取りに残る様に
大原神社に遠慮する心と大原神社の加護の中にありたいと言う思いが
ない交ぜになったところに大原の産屋はあるのではないかと思われます。
昔を語る様子。
”村の人々が朝起きて
川向いの産屋から煙の立っているのを見て
『ははあ・・・夕べは何処かの子供が出来たらしい』
と思った。すると女子供が産屋へそれぞれ見舞いに行った。
時によって二家が一ときになるようなことがあった。”
その時の村の賑わいと言ったらなかった”
大原神社とその周辺
産屋の利用
■産屋の役割
そもそもなぜ家ではなく
わざわざ産屋で出産するようになったのでしょうか。
まず一つの説として
日本で室町時代後期より民間に広まり
その後庶民の女性観、出産観に影響を与えた
『血盆経(けつぼんきょう)』の影響があるといわれています。
血盆経とは、出産で流れる大量の血が地の神を汚し
また水も汚すので、女性はその罪によって死後
『血の池地獄』に落ちると説かれた
いわゆるインドではなく中国でつくられた偽経です。
残念なことに、特に江戸時代までには
随分とこの偽経が各地に広まったようで
一般的にお産はケガレであり
ケガレのない日常からは隔離しなければならない
とされたようです。
今の世の中の考えからすれば
とんでもない教えですが
昔の人からの聞き取りの言葉からすると
田舎ほど後々までこの考えが残っていたようです。
これらの考えからすると
産屋は大原神社の聖域を血で穢さないようにするため
造られたようにありますが
そう一方向のものではないようです。
確かに姑や舅(しゅうと)に
『出産でケガレたので産屋にいって休んでこい』
『こもりに行かんなんでよ』
と言われたと残るように
血盆経の影響はあるでしょうが
実際に産屋にいった人からの感覚からすれば
大原神社の加護のもと『泊まる』や『休みに行く』
といった意識が強かったようです。
それに産屋のある場所からしても
入り口から大原神社が望め
大原神社からも産屋を見る事が出来ることから
とても聖域の外に産屋があるようには思えません。
都会から嫁いで来た若い人が
この産屋の話を聞いて、非生理的な馬鹿げた習慣だと
怖がられていましたが、やがて自分もそこへ行くと
『こんないい所なら、わたしずっと居たいわ・・・』
と誰しもが言ったとあります。
これは、普段の仕事から完全に解放されたからです。
昔この丹波地域一帯は養蚕が盛んでした。
大原の地でもそれは変わりなく、忙しく人手が必要でした。
福知山市の養蚕地帯の話によると
ずいぶん無理をして早産をする人も有り
姑が一家の実権を握っていたので
産前産後の休養などと理解のある人は少なかったとあります。
出産を控えるからといって
生活にそれほど余裕のない田舎では
働かなければいけませんでした。
そういった中、産後の休息という意味では
当時の人にとってみれば産屋は大きな役割をもっていたようです。
他の地域では家で出産していたが
町垣内の人たちは大原さんに遠慮して産屋にいった
というのが昔の人からの聞き取りに残る様に
大原神社に遠慮する心と大原神社の加護の中にありたいと言う思いが
ない交ぜになったところに大原の産屋はあるのではないかと思われます。
昔を語る様子。
”村の人々が朝起きて
川向いの産屋から煙の立っているのを見て
『ははあ・・・夕べは何処かの子供が出来たらしい』
と思った。すると女子供が産屋へそれぞれ見舞いに行った。
時によって二家が一ときになるようなことがあった。”
その時の村の賑わいと言ったらなかった”