犬がおるので。

老犬から子犬まで。犬の面倒をみる暮らし。

犬を待つ。

2016年05月18日 | おせわがかり日誌


犬と暮らそうと思うようになるまでは時間がかかった。
猫との暮らしに比べると、何かとハードルが高く、自信がなかったからだ。
それまで(当時は)仕事が忙しくて、寝る暇もないほどだった。




どんなに重要な用事があっても「寝坊しちゃったからお散歩なしね!」なんてことはだめなわけだし。
泊まりにきた友達とは違うから「ごはんも適当に食べといて!」っていうわけにもいかない。




それが「犬がいたほうがいいかも」って思うようになったのは、
震災があったからだし、これからこのままの生き方で終わるのはどうなのかな?って、
立ち止まって考えたときに「それはいやだな」という答えが出たからだ。




考えては思いとどまり、見送ってきた機会の数々。
ところが犬が来てみたらどうだ。そんな日々を忘れるくらい、毎日が忙しく、面白く、濃い。



初めは預かりボランティアとして関わるつもりだったけど、
元来がどうぶつ好きだし、たった一度のボランティア活動で、
まんまと情が通ってしまった子(オレコのことだけど)を、
「じゃあね」といって手放すのはやはり無理だった。
悩んでいても仕方ないので、オファーが来る前にさっさと決心し、
オレコをもらい受けることにしたのが、5年前。




「次」は思いがけずやってきた。
心の準備などまったくなかったが、ミグノンさんで募集していた、
年末年始の(短期)一時預かりボランティアに、立候補しようかなと思って、夫と相談していた。
「もうひとりいたらどうだろうね」
「オレコはだめじゃない?性格的に。嫉妬して不安定になるんじゃないかな」
「そうだよねえ。短期だっていうんだけど、それならどうだろう」
「オレコはまったくフレンドリーじゃないからねえ、年末年始だし、双方が体調崩しても」
「・・・そうかー」
そんなことを話していたのに、あの日あのときあの場所で『こん』に出会ってしまった。
正直、知らんぷりしそうだった。心の闇が、あっという間にすべて飲み込むだろうと思っていた。
ところが体が正反対の動きをして、いつのまにか抱きかかえ、保護してしまった。
そこから先はもう語る必要ないだろうけど。



心に隙があった。
もうひとりくらいなら面倒みられる。
どこかで絶対そんな風に考えていた。



今はもう、これでいい。
家族として完成したと思っている。
またもうひとり、なんて思っていない、これっぽっちも。
それは Over capacity というものだ。
私の限られた能力を超えている。



犬と暮らすことに躊躇していたのは、しつけの問題もあった。
猫は(あきらめが肝心で)彼らの好きにさせておけばいいけれど、犬はそうもいかない。
人との接点が多い分、ある程度のしつけはしないといけないし、問題行動があればなんとかしなければならない。



手っ取り早くしつけ教室に送り込んで、戻ってきたら、こちらも教わったとおりにやってみる、
ていうのもありだし、究極のところはそうするしかないわけなんだが、大橋歩さんの本を読んだり、
犬のプロ的な友人知人に聞いたりすると、犬によっては、そういうの、向かない子もいるという。



で、オレコはなにしろ、ミグノンさんを3日でクビになるほどの実力で、重度の人間不信。
譲渡会でも、散歩でも、2本のリードを食いちぎり、脱走しようとした子なのである。
ほかの犬やどうぶつたちとの共同生活、大勢の人が出入りする環境が向いてなかったのだ。
どう考えても『しつけ教室向いてない』に、3000点、倍率ドン、さらに倍、なのだ。
どんなにいいしつけ教室を選んでも(具合が悪くなってしまったダルマーちゃんのように)、
「やめておけばよかった」っていう結果に、なってしまうかもしれない。
訓練中に脱走しようとして事故に遭うとか、悲惨なことになりそうだった。
来たばかりのオレコは少なくともそういう危険をはらんでいた。
今となっては信じられないが、おとうさんが怖くて、隠れていたのである。
まずは環境に慣れること、おうちは、家族は大丈夫なんだと安心できること。
そこからだった。



それにオレコは幸い問題行動があるわけでなかった。
賢く、おとなしく、信頼した人に対しては愛情(嫉妬)深く、育てやすい子だった。
細かいことは、家族として暮らす日々のなかで、徐々になんとかしていこう。
今ではそうしてよかったと思っている。(犬の性質によって飼い主が決めればいいと思う)
ちなみにこんちゃんは今更しつけ教室に行っても楽しくないだろうし、
犬にも人にも緊張するタチだから、もう頑張らなくていいかな。







そうは言ってるけど、こんちゃんがもし、神様に呼ばれていなくなったら、
こんちゃんみたいな子を、捜してしまうかもしれない。そういうことは、あると思う。




犬と暮らせる(ちゃんと最後まで面倒を見るという意味で)のは多分、あと20年くらい。
それまで何匹と一緒に暮らせるかわからないけど、多分、次の子もどこかから譲り受けることになるだろう。
義理の両親(のどちらか)に何かあれば、たろうちゃん(2歳)の面倒を見るつもりもあるし、
またどんな出会いがあるかはわからない。子犬を引き受けることだってもしかしたらあるだろう。
「なにがなんでも施設にいる犬にすべきだ」と思っているわけではない。
こんちゃんだって師走の森の迷子だった。まあ保護したのが自分ってだけで、保護犬ではあるのかな。
きっと、出会うべくして出会ったんだろう。少なくとも私の心には隙というか準備があった。




椅子取りゲームじゃないけれど、椅子が足りなくて立っている子に、ちゃんと席を用意する。
『余る子をなくす』これが私のしたいことだ。




自分が面倒を見ることができるのは10頭にも満たないから、間接的に。
寄付したり、ミグノンからフードを買うとかという直接的なのもひとつだけど、
さっきの「犬は買わない」という考えもそうだし、こんちゃんがいかにかわいいか、
オレコが奥ゆかしくて嫉妬深くて食いしんぼうか、ということを自慢することや、
こういう「普段考えていること」をつれづれなるままブログで書いたりすることも、
椅子が足りなくて立っている子を思いながら、である。早く椅子が見つかるように。
安心して座れる、その子だけの椅子が、見つかるように。そう願いながら書いている。



このブログがネットの波を漂い、まったく関心のなかった人の心の網にかかり、
きっかけになったりすることも、ないとはいえないし。




一緒に暮らす基準はシンプル。雌雄は関係ないし、年齢も関係ない。
ただ大きさは関係があって、自分の年齢や能力、住まい(の規則)に合った子。
毎日のお世話を考えると、私にはきっとオレコより大きな子は手に負えない。




具合が悪くなったときに、抱き上げて移動し、病院へ連れて行くことができ、
シャンプーなどの世話も可能で、寝たきりになっても、問題なくお世話ができることが基準になる。




いつだか、どういうご縁かはわからないが、来るべき子がきっと来るんだろう。
そういうつもりでいる。残念だが、今から数年先までは、めいいっぱいで、空きがない。
けれど、やがて、その時が来たら。待っている。わたしは犬を待っている。