古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「始馭天下之天皇」(神武紀)はハツクニシラススメラミコトか?

2025年02月23日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 古代において、ハツクニシラススメラミコトは二人いたとされている。神武天皇(神日本磐余彦天皇、神倭伊波礼毘古命)と崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖天皇、御真木入日子印恵命)(注1)である。神武紀の古訓にある「始馭天下之天皇はつくにしらすすめらみこと(注2)は「はじめて天下あめのしたをさめたまひし天皇すめらみこと」と訓むのが本来の姿であろうと指摘されている。ハツクニシラスノスメラミコトという訓みは、二次的な理由から起こったとも考えられる。記に、該当する命名由来譚が載らず、紀の本文を読む限り「天下」はアメノシタとばかり訓まれている。
 本稿では、神武紀の訓みにおいて、「始馭天下之天皇」を何と訓んだらいいのかについて、筆録者の視点、工夫を顧慮しながら検証を試みる。同じ名前の人が二人いるのは矛盾であるとの現代人の先入観を排除し、最終的に上代の人のものの考え方に辿り着くべく、結論を先に提示せずに回りくどい議論を行っている。その回りくどさは実は記述自体にもともと内包されていると言えるものだから、回りくどさまでも正しく理解することが求められると考える。
神武天皇(大蘇芳年・大日本名将鑑、東京都立図書館デジタルアーカイブhttps://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000003-00009550)
 神武紀元年条の原文には次のようにある。

辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮、是歳為天皇元年。尊正妃為皇后、生皇子神八井命・神渟名川耳尊。故古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。初、天皇草創天基之日也、大伴氏之遠祖道臣命、帥大来目部、奉承密策、能以諷歌倒語、掃蕩妖気。倒語之用、始起乎茲。(神武紀元年正月)

 これをいかに訓むか、特に、「故」以降の、「古語称之曰」がどこまでを指すのか、定まっているわけではない。

 ゆゑ古語ふることほめまうしてまうさく、「うね橿原かしはらに、宮柱みやはしら底磐したついはふとしきたて、高天原たかまのはら搏風ちぎたかりて、始馭天下之はつくにしらす天皇すめらみことを、なづけたてまつりてかむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみことまうす」。(大系本日本書紀240頁、兼右本に準ずる)
 かれ古語ふることたたへてまをさく、「うね橿原かしはらに、底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天たかまはら搏風ちぎ峻峙たかしりて、始馭天下之はつくにしらす天皇すめらみこと」とまをし、なづけたてまつりてかむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみことまをす。(新編全集本日本書紀233頁)

 「故」で始まる文章である。前の文章を理由としてそういうことにした、と叙述している構文ととれる。前にある文章で、天皇は橿原宮に即位して皇后を立て、皇子が生まれたと言っている。だからそれゆえ、古語で称えて次のように言った、と捉えられている。古語とあるのは、慣用的な表現が古くから行われていたことを物語っている。よく似た表現は、記に二例見える。

 「……おれ、大国主神おほくにぬしのかみり、また宇都志うつし国玉神くにたまのかみと為りて、其のむすめ須勢理毘売すせりびめ適妻むかひめて、宇迦能うかのやま山本やまもとに、底津そこつ石根いはね宮柱みやばしらふとしり、高天原たかあまのはら氷椽ひぎたかしりてれ。是のやつこや」といひき。(記上)
 「……ただやつかれ住所すみかのみは、あまかみ御子みこ天津あまつ日継ひつぎ知らすとだるあめ御巣みすごとくして、底津そこつ石根いはね宮柱みやばしらふとしり、高天原たかあまのはら氷木ひぎたかしりておさたまはば、僕はももらず八十やそ坰手くまでかくりてはべらむ。……」と如此かくまをして、……。(記上)

 第一例は、大穴牟遅神おほあなむぢのかみ黄泉よもつひら坂から逃げ帰り脱出したときに、須佐之男大神すさのをのおほかみから投げかけられている。葦原中国に建てた建物の、千木ちぎをあたかも高天原に届くがごとく高く突き立てよ、と言っている。第二例は、大国主神の国譲りの記事であり、やはり葦原中国の安住する立派な建物を作ってくれたらそこに隠居しようと言っている。どちらも建物は葦原中国にある。ただし、これらは会話文中の言葉であり、負けを認めたときの捨て台詞として用いられている。この点は注意が必要である。
千木のある家形埴輪(高槻市立今城塚古代歴史館展示品)
 建物の建て方として同じような記述である。それになぞらえて語られているから、「古語称之曰」と表現されているのだろう。場所は、葦原中国の畝傍の橿原である。そこに立派な宮殿を造営して即位した。実際にどのようなものが造られたか記述はなく、しかも会話文の中に出てくる言葉である。実状としては、「規-摹大壮」、「披払山林、経-営宮室」、「可治之」との注意があり、「命有司、経-始帝宅」、「即-帝-位於橿原宮」と抽象的に説明されているだけである。

 ……のりごとを下してのたまはく、「……誠に帝都みやこひらひろめて、大壮おほとのはかつくるべし。しかるを……。巣に棲み穴に住みて、習俗しわざこれ常となりたり。……。且当まさやまはやしひらき払ひ、宮室おほみや経営をさめつくりて、つつしみて宝位たかみくらのぞみて、元元おほみたからしづむべし。……。しかうして後に、六合くにのうちを兼ねて都を開き、八紘あめのしたおほひていへにせむこと、亦からずや。れば、畝傍山うねびやま 畝傍山、此には宇禰縻夜摩うねびやまと云ふ。東南たつみのすみの橿原のところは、けだし国の墺区もなかのくしらか。みやこつくるべし」とのたまふ。是の月に、即ち有司つかさみことおほせて、帝宅みやこつくはじむ。(神武前紀己未年三月)

 だから、古語を用いて称賛しているように呼んでいることになっている。ここまでを考えるなら、「古語称之曰」がかかるのは、大系本、新編全集本とも違い、「於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原」までと考えられる。そういうふうに「古語」を使って言っておいて、そして、「而始馭天下之天皇」のを、「号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」とした(注3)。そういう見方が妥当だろう。建物を建てたことが求められるのは、「天下あめのした」を統治していることを既成事実化したいからとみられる(注4)
 「古語称之曰」が後にくる「而始馭天下之天皇」という語までかかると考えるには、神武紀以前からそのような言い方があることが条件となる。「天下あめのした」の用法としては三貴子の分治の話などがある。

 すでにして、伊弉諾尊いざなきのみことみはしらみこ勅任ことよさしてのたまはく、「天照大神あまてらすおほみかみは、高天原たかまのはらしらすべし。月読尊つくよみのみことは、以て滄海原あをうなはらしほ八百重やほへを治すべし。素戔嗚尊すさのをのみことは、以て天下あめのしたを治すべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第六)
 一書あるふみはく、伊弉諾尊、三の子に勅任して曰はく、「天照大神は、高天之原たかまのはらしらすべし。月夜見尊つくよみのみことは、日にならべてあめの事を知らすべし。素戔嗚尊は、蒼海之原あをうなはらを御すべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第十一)
 此の時に、いざなきのみことおほきに歓喜よろこびてのりたまはく、「あれは子をみ生みて、生みへにみはしらたふとき子を得つ」とのりたまひて、即ち其の御頸珠みくびたまの玉の、もゆらに取りゆらかして、天照大御神あまてらすおほみかみたまひて、詔はく、「みことは、高天原を知らせ」とことして賜ふぞ。かれ、其の御頸珠の名は、御倉みくら板挙之たなのかみと謂ふ。次に月読命に詔はく、「汝が命は、夜之よるの食国をすくにを知らせ」と事依すぞ。次に建速須佐之男命たけすさのをのみことに詔はく、「汝が命は、海原うなはらを知らせ」と事依すぞ。(記上)

 「天下あめのした」などを「治」、「御」、「知」するように書いてある。「馭」も同義である(注5)。神代紀第五段一書第六「治天下」と同じ意味で、神武紀元年の「馭天下」もあると考えられる。天皇は天照大神の末裔ではあるが、天孫降臨以降、高天原ではなくて地上を治めることになっている。そして、「天下あめのした」を治めることを始めた天皇について、「号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」とすると言っていると考えられる。
 
 神代紀において「天下」は上述の例を含めて六例ある。すべてアメノシタと訓んでいる。

 われすで大八洲国おほやしまのくに及び山川やまかは草木くさきめり。いかに天下あめのした主者きみたるものを生まざらむ。(吾已生大八洲国及山川草木。何不生天下之主者歟。)(神代紀第五段本文)
 是の時に、素戔嗚尊、とし已にいたり。また八握やつか鬚髯ひげ生ひたり。然れども天下あめのしたしらさずして、常にいさ恚恨ふつくむ。(是時素戔嗚尊、年已長矣。復生八握鬚髯、雖然不治天下、常以啼泣恚恨。)(神代紀第五段一書第六)
 大己貴命おほあなむちのみことと、少彦名命すくなびこなのみことと、力をあはせ心をひとつにして、天下あめのした経営つくる。(夫大己貴命与少彦名命、戮力一心、経営天下。)(神代紀第八段一書第六)
 今此の国ををさむるは、ただわれ一身ひとりのみなり。其れ吾と共に天下あめのしたを理むべきものけだし有りや。(今理此国、唯吾一身而巳。其可与吾共理天下者、蓋有之乎。)(神代紀第八段一書第六)
 次に狭野尊さののみこと。亦は神日本磐余彦尊かむやまといはれびこのみことまをす。狭野と所称まをすは、これみとしわかくまします時のみななり。後に天下あめのしたはらたひらげて、八洲やしま奄有しろしめす。故、また号をくはへて、神日本磐余彦尊とまをす。(次狭野尊。亦号神日本磐余彦尊。所称狭野者、是年少時之号也。後撥平天下奄有八洲。故復加号曰神日本磐余彦尊。)(神代紀第十一段一書第一)

 以上のことから、問題の部分は次のように訓むのが正統的かと思われる。途中にある「而」字の前で区切った。(後述のとおり、この訓みは正されるべきである。)

 かれ古語ふることたたへてまをさく、「うね橿原かしはらに、底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天之原たかまのはら搏風ちぎ峻峙たかしる」とまをす。しかして、はじめて天下あめのしたしらしし天皇すめらみことなづけてまをさく、かむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこととまをす。(故、古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原。而始馭天下之天皇号曰、神日本磐余彦火火出見天皇焉。)

 すでに述べたとおり、「底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天之原たかまのはら搏風ちぎ峻峙たかしる」なる言い方は、「古語」において、負けを認めたときの捨て台詞であり、此畜生こんちくしょう的な意味合いを帯びたものである点は留意されなければならない。すなわち、「称之曰」として何ら橿原宮を賛美するものでないのである。不思議に思われるかもしれないが、天皇の名の話の後に続く文を見れば疑念は氷解する。

 はじめて、天皇すめらみこと天基あまつひつぎ草創はじめたまふ日に、大伴氏おほとものうぢ遠祖とほつおや道臣命みちのおみのみこと大来目おほくめひきゐて、しのびみこと奉承けて、諷歌そへうた倒語さかしまごとを以て、妖気わざはひはらとらかせり。倒語の用ゐらるるは、始めてここおこれり。(神武紀元年正月)

 即位式典の日に、「奉-承密策、能以諷歌倒語、掃-蕩妖気。」なる不可思議なことが行われている。「倒語之用、始起乎茲。」と、最初の出来事だと言っている。少しもハッピーな雰囲気ではない。内々でしか通じない暗号文を交わし、意味が表に立たないような歌を歌ったり、意味が反対になる言葉を発している。単純、単細胞な輩には通じないような言葉の使い方、修辞法における高等テクニックを用いることで、事態が悪い方へ傾かないように努めている。言葉の意味を反対にして使ったのはこのときが最初であるとしている。
 すなわち、負け惜しみの捨て台詞で此畜生的な文言、「底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天之原たかまのはら搏風ちぎ峻峙たかしる」を使っているのは、虚仮威しのためのものなのである。実際の宮殿は大したことない建物なのであるが、財政的にも軍事的にも、敵方やそうなる可能性のある相手に対し、強いと受け取られるべく画策している。嘘称え、フェイクプレイズ(fake praise)である。なぜか。東征の途中、兄猾えうかし弟猾おとうかし兄磯城えしき弟磯城おとしき長髄彦ながすねびこなど、ずるがしこい奴らと戦ってきた。そして、相手以上にずるがしこくたちまわって勝ってきたのであった。情報戦を制するものが実戦を制する。だから、勝って兜の緒を締めるように、残党として必ずいるであろう周囲の仮想敵に対して油断しないようにしている。相手をだますような情報を流しているのであり、時にはそれ以前に味方からだまして難を逃れようとしている。本当は大したことはないのであるがすごいものであるように、また、内心はもう少し立派なものを建てる余裕が欲しいのであるが、そのことも了解している人の間でなら通じるように、古くからの形容表現としての「古語」を用いている。「諷歌倒語」の精神とは、わかる人にはわかるように、わからない人にはそのままに伝えるレトリックを用いることである。それによって、賊勢を排除しながら自らの党派の結束力、求心力を高めている。「妖気」を掃って溶かしている。
 ものすごい宮室が建てられているわけではない。都としても立派とは言えない。人がたくさん集まっているとまでは言えない。しかし、それがばれると、周囲に潜在する敵から攻撃を受ける。そうならないために、「古語」を使って「称」した。と同時に、天皇の名前も相手を怖がらせるようにしておいた。「しかして、はじめて天下あめのしたしらしし天皇すめらみことなづけてまをさく、かむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこととまをす。」(注6)と訓むと仮定できる。人はあまりいないけれど、あたかも大勢いるようにアピールするには、天皇の名を大仰にして脅かしておけばよい。「かむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこと」である。「始馭天下」すことをしたから、こと(葉)としてもそれに合わせて「号曰」したということである。それは、ひるがえって、「号曰」したから「馭天下」できているともいえるのである。それが、言霊信仰の本質(注7)、言=事であることによる既成事実化である。
 「神日本磐余彦火火出見天皇」は「かむ」と付いていて神々しい。「日本やまと」とついていてヤマト地域の首長らしい。「磐余いはれ」と付いているのには、その謂われ譚におぼしく、たくさんの人、特に軍勢が集まっていることを言っている。強そうに聞こえるではないか(注8)

 また兄磯城えしきいくさ有りて、磐余邑いはれのむらいはめり。磯、此にはと云ふ。賊虜あたる所は、皆これ要害ぬみところなり。(神武前紀戊午年九月)
 我が皇師みいくさあたを破るにいたりて、大軍いくさびとどもつどひて其の地にいはめり。因りて改めてなづけて磐余いはれとす。(神武前紀己未年二月)
 是の時に、磯城しき八十やそ梟帥たける彼処そこ屯聚いはたり。屯聚居、此には怡波瀰萎いはみゐと云ふ。……故、なづけて磐余邑いはれのむらと曰ふ。(神武前紀己未年二月)

 「磐余」の謂われ譚が述べられている。ということは、それも冒頭から検討している「古語」に当たるのではないか。そう言われてみればそういうことになる、ということである。無意識化下に沈静していた言葉の内実を呼び起こしているから、それは深層の「古語」ということになる。すると、「古語称之曰」は、「号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」までかかる可能性が出てきており、改めて考え直さなければならない。追究してみると、途中の「而始馭天下之天皇」も「古語」となるはずである。ここに、ハツクニシラススメラミコトという紀の傍訓の正しさが再発見される。
 ハツクニは初国の意と考えられる。

 「くもつ出雲の国は、狭布さの稚国わかくになるかも。初国はつくにさく作らせり。かれつくはな」(出雲風土記・意宇郡)(注9)

 「初国はつくに」の確例である。ヤマト朝廷の中央の人々にこの話が知られていたか不明ながら、「初国」という使い方があったことは想定される。「初国」は大系本風土記に「初めに作った国。」(100頁)、岩波古語辞典に「はじめて作った国。」(1069頁)と説明されている。
 そして、とても興味深いことに、神武天皇の幼名は、「狭野尊さののみこと(最初のノは甲類)」であった。「狭布さの(ノは甲類)」に同じである。すなわち、ヤマトの国の首長として君臨することになった神武天皇の版図は、後に大和国と呼ばれる一行政単位に当たるところ、それもその中心部分にすぎない。出雲風土記では、機織りした布地は狭いものだから、それを縫い合わせて服を作ろうということを比喩にしていて、いわゆる国引き伝承を伝えている。国引きの結果、島根半島は固まったというのである。同様に、狭野尊が統治した場所は、とても狭い範囲であったことを物語っている。幼名が「狭野尊」であり、長じて「神日本磐余彦尊」という名が「加」わっただけで、変わったわけではない。
 以上のことから、「故古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」は、大系本日本書紀の括弧の取り方が正しかったことが理解された。ただし、大系本日本書紀の補注にある解説は当たらない。

 
植村清二[『神武天皇─日本の建国─』]のいうように、元来、大和朝廷が成立して、かなり時代が降れば、その建設者・始祖という観念が生ずるのは自然であり、ハツクニシラススメラミコトとは、単にそうした観念を示す呼称に過ぎず、かかる具体的な物語の持主である[神武・崇神]両天皇に、共に与えられたもので、ある個人の特定の呼称が他の個人に移されたものではなく、またこの呼称の成立もさほど古いものではないと見るのがよいか。孝徳[紀大化]三年四月条に「始治国皇祖(はつくにしらししすめみおや)」とあるのを参照。(405頁)


 後代の人たちが「初国」の小ささを顕彰する理由は思いつかない。風土記は日本書紀と同じ頃に成ったと考えられている。
 また、神武と崇神を別けようとするあまり、不思議な解釈を試みることもいただけない。新編全集本日本書紀は、「初めて(最初に)国を治められた天皇。ハツ+国知ラスの形で、「馭」は「御」に同じく、使いこなす、おさめる意。崇神天皇もハツクニシラス天皇と呼ばれるが、崇神記に「所初国之…」、崇神紀には「御肇国天皇」……とあるように、ハツクニ+知ラスの語形ゆえ、国の初めを治めたということで、必ずしも初代を意味しない。その点に差異がある。」(233頁)(注10)とし、新釈全訳日本書紀は、「始めて天下を治めた天皇。国の中心に都を置き、正妃を立て帝位に就いたことをもっていう。神武紀冒頭の「恢弘大業、光宅天下」せんとしたことがいまここに実現され、東征の完了となる。」(339頁)、「[神武の]「始馭天下之天皇」が初めて天下を治めた天皇の意であるのに対し、[崇神の]「御肇国天皇」は祭祀・税制が確立しかたちをととのえた国家を治めた天皇の意。」(401頁)としている。ハツクニは「初国」であり、初めに作った国であることに変わらない。それを治めたのである。「初雁はつかり」、「初垂はつたり」、「初子はつね」、「初花はつはな」、「初春はつはる」、「初穂はつほ」といった例しか見られない中、副詞のように考えた「ハツ+国知ラス」の形を認めることには無理がある。
 「称之曰」については、紀にある他の三例ですべてコトアゲシテと訓んでいる。「故古語称之曰、……」の場合もそう訓まれるべきであろう(注11)。以下に示す紀の例では「うけひ」に対照する箇所に用いられており、言葉を発することでそのようになることを期待して大声をあげたものと考えられている。万葉集の例は、無理やり大声を上げて唱えることを言っている。

 則ちことあげしてのたまはく、「正哉まさかわれちぬ」とのたまふ。かれりてなづけて、勝速日天忍穂耳尊かちはやひあまのおしほみみのみことまをす。(神代紀第六段一書第三)
 すでにして其の用ゐるべきものを定む。乃ちことあげしてのたまはく、「杉及び櫲樟くす、此のふたつは、以て浮宝うくたからとすべし。ひのきは以て瑞宮みつのみやつくにすべし。まきは以て顕見蒼生うつしきあをひとくさ奥津棄戸おきつすたへさむそなへにすべし。くらうべき八十木種やそこだね、皆能くほどこう」とのたまふ。(神代紀第八段一書第五)
 しかうして後に、いろは吾田鹿葦津姫あたかしつひめ火燼ほたくひの中より出来でて、きてことあげしてはく、「が生めるみこ及び妾が身、おのづからに火のわざはひへども、少しもそこなふ所無し。天孫あめみまあにみそなはしつや」といふ。(神代紀第九段一書第五)
 葦原あしはらの 瑞穂みづほの国は かむながら 言挙ことあげせぬ国 しかれども 言挙ことあげがする 言幸ことさきく 真幸まさきせと つつみなく さきいまさば 荒磯波ありそなみ ありても見むと 百重波ももへなみ 千重ちへなみしきに 言挙すわれは 言挙すわれは(万3253)
 りし 雨は降りぬ かくしあらば 言挙げせずとも 年は栄えむ(万4124)

 したがって、課題の文章は次のように訓むべきことが結論される。

 かれ古語ふることことあげしてまをさく、「うね橿原かしはらに、底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天之原たかまのはら搏風ちぎ峻峙たかしりて、始馭天下之はつくにしらす天皇すめらみことなづけてかむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみことまをす」とまをす。(故古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。)

 この訓みに対する傍証として、祝詞の形式、「まをたまはく……たまへと称辞たたへごとまつらくとまをす」があげられる。すなわち、この箇所は、神武元年正月一日の賀で寿いだ物言いなのである。祝詞風に朗誦することほどふさわしいものはない。無文字時代のヤマトコトバ文化圏にはことことであるとする言霊信仰が行きわたっており、括弧内の言葉を言うことで、言葉=事柄たらしめんと定義している。だから、「~とまをす」と言っているのである。
 「古語」を使いながら祝詞のようにコトアゲして、どこから攻撃を受けるかわからない状況のなかで、何とか好ましい方向へと導こうと知恵を絞っている様子がうまく活写されている。そもそも、ヤマトという国は、原則、武力で制圧して成った国ではない。「こと和平やは」(景行記)した末に統合を勝ち取っている。言葉の力によって従わせたということであるが、ヤマトコトバの巧みな使い方をもってヤマトコトバ語族を平定したということであろう。各地に住まう人々が一つにまとまっている状態を何と言うか。クニである。クニがハッと現れ出た最初の瞬間、それがハツクニである(注12)
 神武天皇時代、苦労した東征が終わり、凶賊を誅滅して都を置くまでに安定を勝ち取ったとき、クニなるものがハッと現れている(注13)。崇神天皇時代、長引いた疫病がようやく鎮まり、四道将軍が遣わされて天下太平となり、租税徴収が可能となったとき、クニなるものがハッと現れている。天皇が領有するから初めて一つにまとまってクニとなるという洒落を掛けている。そんな御代の天皇のことを、ハツクニシラススメラミコトと呼んだ、つまりは名をもって体となしているのであった(注14)。忠実にことことであるようにめぐらされ使われている。ヤマトコトバの真髄の表れと言える(注15)

(注)
(注1)崇神紀に、「始めて人民を校へて、更調役を科す。此を男の弭調、女の手末調と謂ふ。是を以て、天神地祇、 共に和享にこみて、風雨時にしたがひ、百穀もものたなつものて成りぬ。いへいへひとびと足りて、天下あめのした大きにたひらかなり。故、ほめまをして御肇国天皇とまをす。」(十二年九月)とあり、崇神記に、「爾くして、天下あめのしたおほきにたひらぎ、人民おほみたから富み栄えき。是に、初めてをとこ弓端ゆはず調つきをみな手末たなすゑの調を貢らしめき。故、其の御世みよたたへて、初国はつくに知らす御真木天皇みまきのすめらみことと謂ふぞ。」(崇神記)に対応するから「御肇国天皇」をハツクニシラススメラミコトと訓んでいる。
(注2)紀の古訓にハツクニシラススメラミコトとあり、日本書紀私記甲本にハツクニシロシメスタカラノ爪ヘラノミコト(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100247543/14?ln=ja)ともあることなどによっている。矢嶋1989.は「タカラ」は「スメラ」の誤写と推定している。
(注3)神代紀第十一段一書第一にある「復加号曰神日本磐余彦尊。」記事は、「後撥平天下奄有八洲。」の「故」であるとしている。広いところを治めることになったのだから、「狭野尊」という名に「加」えて「号」したといっている。これを昔、そう言われたからというので神武紀の記述の「古語称之曰」と絡めて考えるのは適当ではない。新たな名前が「加」えているだけだからである。幼少時の「狭野尊」という呼び名が抹消されたわけではない。
(注4)文脈上の読解が問題であって、実際にいかなる版図まで統治しているのかという史学についてはかかわらない。
(注5)紀の文中に、「馭」字が音仮名以外で用いられている例は、次のとおりである。「治」、「御」、「知」と同義である。「馭大亀」は、馬を御す、制御するに同じである。

 故、其の父母かぞいろはみことのりしてのたまはく、「仮使たとひいまし此の国をらば、必ずそこなやぶる所多けむとおもふ。故、汝は、以て極めて遠き根国ねのくにしらすべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第二)
 来到いたりて即ち顕国玉うつしくにたま女子むすめ下照姫したでるひめ 亦の名は高姫たかひめ、亦の名は稚国玉わかくにたまりて、因りて留住とどまりて曰はく、「われ亦、葦原中国をらむとおもふ」といひて、遂に復命かへりことまをさず。(神代紀第九段本文)
 いらか未だふきあへぬに、豊玉姫、自ら大亀にりて、女弟いろど玉依姫たまよりびめひきゐて、海をてらして来到きたる。(神代記第十段一書第三)
 則ち田村皇子を召して謂りて曰はく、「天位たかみくらに昇りて鴻基あまつひつぎをさととのへ、万機よろづのまつりごとしらして黎元おほみたから亭育やしなふことは、本よりたやすく言ふものに非ず。恒に重みする所なり。故、いまし慎みてあきらかにせよ。かるがるしく言ふべからず」とのたまふ。(推古紀三十六年三月)

(注6)ホホデミについては、拙稿「二人の彦火火出見について」参照。
(注7)拙稿「上代語「言霊」と言霊信仰の真意について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/a1f84d8258d12f94ccbfa54b1183b530参照。
(注8)神代紀第十一段一書第一に、「後撥-平天下-有八洲。」したから、それ「故」に、「復加号曰神日本磐余彦尊。」とあった。「神」や「日本」と冠することに不思議はないが、「磐余」が付く点は謂われは、その語自体に秘められていると考えて然りである。
(注9)りごととして語られている。なお、沖森・佐藤・矢嶋2016.は、「くも出雲国いづものくには、ぬのつもれるくにるかも。初国はつくにちひさくつくれり。かれつくはむ」(101頁)と訓んでいる。
(注10)矢嶋1989.は、「天下」はクニとは訓めないとし、語構成が「始馭天下之天皇」(神武紀)と「御肇国天皇」(崇神紀)とでは異なるから、「始馭天下之天皇」はハジメテアメノシタシラシシ(シラシメシシ、[ヲ]サメタマヒシ)スメラミコトと訓むべきとしている。筆者の当初案において採ったが、「はじめて天下あめのしたしらしし天皇すめらみこと」を「かむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこと」と名づけたというのは、命名法としておかしなところがある。名前は、何かに由来して名づけられるものだろう。この例で言えば、「はじめびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこと」などとなければ何を言っているのかわからない。
(注11)紀では、「称之曰」はコトアゲシテイハク、コトアゲシテノタマハクが通例である。祝詞の「称辞」はタタヘゴトと訓まれるが、実際には当初、貧相な建物しか建てられていないのだから、「称」を賞讃の意味をもってタタヘテと訓むのは皮肉になってしまい不適切である。言葉を躍らせてそうなるようにと強弁している。
(注12)ハツ(初)という語が擬態語に由来するであろう点については、拙稿「古事記本文冒頭「天地初発之時」について─アメツチ、ハッ(💡)ノトキニと訓む説─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/417311a243b4108b1fc20b9eed9c8db1参照。
(注13)矢嶋1989.は、「天下」という字面はクニとは訓み難いとしている。しかし、逆に、「国家」と書いてアメノシタと訓む例は見える(憲法十七条の四)。「天神地祇」でアマツカミクニツカミとなり、クニとは「地」のこと、「地」は「天」の「下」にあるものとの認識は間違ってはいないだろう。そして、「始治国はつくにしらしし皇祖すめみおや」(孝徳紀大化三年四月)と訓まれ、慣わされている。ハツクニシラスというひとまとまりの言葉が通行していたと考えられる。
 神代紀、記上の三貴士分治の記事で、「国」という字は「根国ねのくに」(神代紀第五段本文、同一書第一)、「夜之食国よるのをすくに」(記上)と使われている。記では、スサノヲが成人してもなお啼きわめき、命じられた「夜之食国よるのをすくに」を治めずに「ははが国の根之ねの堅州国かたすくに」へ行きたいと言ったので、イザナキは大いに怒り、「此の国」に住んでいてはいけないと追い払っている。「国」字はこのように使われていた。神武天皇が治めるところは天上の高天原でも根国ねのくに夜之食国よるのをすくにでもない。話が現実的になって急に注目を浴びている地上世界に関して、ある部分を区切って統治することを言おうとしている。オホアナムチとスクナビコナがつくった天下あめのしたについてばかりが問われる御代になったということである。統治することはシル(知、領)でその尊敬語がシラスであって、その対象として地上世界があげられている。もはや「根国ねのくに」や「夜之食国よるのをすくに」は問題とされない。新しくカテゴライズされた言葉、クニが出現したのである。意訳して記した形が「始馭天下之天皇」である。古事記本文冒頭の「天地初発」と同様の状況、「ハッ(💡)クニ」であると認められる。(注12)の参照論文に詳述している。
(注14)倉野1978.は本居宣長説に即しつつ、神武紀にいうハツクニシラススメラミコトは人皇第一代の意、崇神記にいうハツクニシラススメラミコトは人の国家の開始を物語るものとしている。そのような講釈調の言葉づかいが上代に行われていたとは考えられない。聞いた相手が直観的にわかるものでなければ話にならない。書記としても、当時のリテラシーとして、「始馭天下之天皇」と書いてあってハッ(💡)と気づかないとは思っていなかったから、訓注など付けずにそう記したものと考える。
(注15)語構成の違いは表記法の問題である。音声言語として爛熟したヤマトコトバの後に位置づけられる。言葉を交わすだけで互いに通じて社会が成り立っていたのだから、書き方の工夫はヤマトコトバ研究において二の次のことである。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
沖森・佐藤・矢嶋2016. 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編著『風土記 常陸国・出雲国・播磨国・豊後国・肥前国』山川出版社、2016年。
倉野1978. 倉野憲司『古事記全註釈 第五巻 中巻篇(上)』三省堂、昭和53年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
瀬間2024. 瀬間正之『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。(「『日本書紀』β群の編述順序─神武紀・景行紀の比較から─」『國學院雑誌』第121巻第11号、2020年11月、國學院大学学術情報リポジトリhttps://doi.org/10.57529/00000609)
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
大系本風土記 秋本吉郎校注『風土記』岩波書店、1958年。
谷口2006. 谷口雅博「神武天皇と崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)」『国文学 解釈と教材の研究』第51巻1号、平成18年1月。
矢嶋1989. 矢嶋泉「ハツクニシラススメラミコト」『青山語文』19号、平成元年3月。

※本稿は、2020年5月稿を2025年2月に加筆改訂したものである。

二人の彦火火出見について

2025年02月13日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 日本書紀において、別人物(あるいは別神格)に、彦火火出見ひこほほでみという名がつけられている。山幸こと彦火火出見尊ひこほほでみのみことと神武天皇のただのみな彦火火出見ひこほほでみである(注1)。紀の本文に、皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊あまつひこひこほのににぎのみことが降臨し、鹿葦津姫かしつひめ木花之開耶姫このはなのさくやひめ)と結婚、火闌降命ほのすそりのみこと、彦火火出見尊、火明命ほのあかりのみことが生まれたという彦火火出見と、その子、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊ひこなぎさたけうがやふきあへずのみことの子である神武天皇として知られる彦火火出見である。
 この点については従前より議論されている。

 神武天皇をここ[第二の一書]に神日本磐余彦火火出見尊という。第三の一書も同じであり、さかのぼって第八段の第六の一書……に神日本磐余彦火火出見天皇といい、くだって神武紀でもそのはじめに、諱は彦火火出見、同元年正月条……には神日本磐余彦火火出見天皇とある。神武天皇をまた彦火火出見尊という理由について、記伝は簡単に、彦火火出見尊の名は「天津日嗣に由ある稲穂を以て、美称奉れる御号なる故に、又伝賜へりしなり」とし、通釈も、ただ彦火火出見尊とだけ書いたのでは祖父の彦火火出見尊とまがうので、神日本磐余彦の六字を加えて区別したという。これらは神武天皇と瓊瓊杵尊の子の彦火火出見尊はもとより別人だが、ともに彦火火出見尊といったと頭からきめてかかった上での解釈である。しかし津田左右吉[『日本古典の研究』]は、神代史の元の形では、瓊瓊杵尊の子の彦火火出見尊が東征の主人公とされていたが、後になって物語の筋が改作され、彦火火出見尊に海幸山幸の話が付会されたり……、豊玉姫や玉依姫の話が加わったり、鸕鷀草葺不合尊が作られたりした。また他方では東征の主人公としてあらたにイワレビコが現われたのだとする。その際、元の話が全く捨てられなかったために神日本磐余彦火火出見尊(天皇)という名が記録されたり、神武の諱は彦火火出見であるという記載が生じたのだという。(大系本日本書紀197頁)
 神武即位前紀に、諱ただのみなとして「彦火火出見」……、元年正月条に「神日本磐余彦火火出見天皇」……とみえる。 これについて諸説がある。一つは、神武天皇と彦火火出見尊(祖父に当る)とは別人だが、同名で紛らわしいので「神日本磐余彦」を冠して区別したとする説。また、元来彦火火出見尊が東征説話の主人公であったが、後に海幸・山幸の話や豊玉姫・玉依姫の話が付加され、鸕鷀草葺不合尊が創作された。そこで神武天皇の諱が彦火火出見となったり、神日本磐余彦火火出見尊(天皇)となったりしたものとする説もある。前説は襲名の慣習を認める観点に立つものであり、後説は同名の箇所に不自然さを認め、合理的な説明を試みようとする観点に立つものである。しかし、いずれも正当性を証明する手だてはない。(新編全集本日本書紀189頁)
 神武紀冒頭に「神日本磐余彦天皇、諱彦火火出見」とあり、元年正月条に「神日本磐余彦火火出見天皇」とする。これについて『纂疏』は「彦火火出見の名、祖の号を犯せるは、孫は王父の尸為(タ)るが故なり」という。「王父」は祖父の尊称。「尸」は祭祀の際死者に代わって祭りを受ける役……。『礼記』曲礼上に「礼に曰く、君子は孫を抱き、子を抱かずと。此れ孫は以て王父の尸為るべく、子は以て父の尸為るべからざるを言ふなり」。鄭玄注に「孫と祖と昭穆を同じくするを以てなり」。「昭穆」は宗廟における配列の順。中央の太祖に向かい偶数代を右に配し(昭)、奇数代を左に配す(穆)。(新釈全訳日本書紀289頁)

 「総て上代は、神また人名に、同しきさまなるもあまた見えたれと、近き御祖父の御名を、さなから負給はむこと、あるましきことなり。」(飯田武郷・日本書紀通釈、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115817/1/207、漢字の旧字体と句読点は改めた)、「帝皇日嗣の僅か一世を隔てた前と後とに於いて同じ名のが二代ある、といふことは、甚だ解し難い話である」(津田1963.552頁)と捉えるのは、考え方として疑問である。中臣なかとみの烏賊津使主いかつのおみという人物は、仲哀紀九年二月条、神功前紀仲哀九年三月条、允恭紀七年十二月条に現れ、前二者と最後の人とは別人と目されている。幡梭はたびの皇女ひめみこは、仁徳紀二年三月条、履中紀元年七月条にあるが別人である。今日でも同姓同名の人は数多い。そして、古代において、名は、名づけられてそう呼ばれることをもって成り立っている。人がそう呼ばれることとは、その特徴からそう呼ばれる。いわゆる綽名こそ名の本質をついている。したがって、ヒコホホデミという名を負った登場人物が二人いたとしたら、その両者に共通する特徴があり、ともにそのように呼ばれたと考えるのが本筋である。
 神武天皇のことをいう「彦火火出見」については、神武紀冒頭に、「神日本磐余彦天皇かむやまといはれびこのすめらみことただのみなは彦火火出見。」、すなわち、実名であると記されている。明記されていることを疑っていては虚無を生むばかりである。神武天皇の名の表記としては、「神日本磐余彦尊」(神代紀第十一段本文・一書第一)、「磐余彦尊」(同一書第二)、「神日本磐余彦火火出見尊」(同一書第二・第三)、「磐余彦火火出見尊」(同一書第四)、「神日本磐余彦火火出見天皇」(第八段一書第六)ともある。神代紀を筆録した人がそれと知りながら、二人のことを同じ名で呼んで憚っていない。名は呼ばれるものであると認識していたからだろう。
 神武天皇の彦火火出見という名は、系譜上、その祖父に当たる彦火火出見尊と同じ名である。名は体を表す。別人でありながら、人物像、事績に共通項が見出されたようである。ヒコホホデミは、ヒコ(彦、男性の称)+ホホデ+ミ(霊)の意と解釈される。ホホデについては、穂穂出、火火出の意が掛け合わされているとされている(注2)。しかし、神武天皇の人物像や事績に、穂や火の意を直截に見出すことはできない。違う視点が必要である。
 山幸こと彦火火出見尊と神武天皇のただのみなの彦火火出見は、両者とも、敵対者に対して呪詛をよくしている(注3)

 時に彦火火出見尊ひこほほでみのみことたまとを受けて、本宮もとつみやに帰りでます。ある海神わたつみをしへまにまに、先づ其の鉤を以てこのかみに与へたまふ。兄いかりて受けず。故、おとのみこと潮溢瓊しほみちのたまいだせば、潮大きにちて、兄みづか没溺おぼほる。因りてひてまをさく、「われまさいましみことつかへまつりて奴僕やつこらむ。願はくは垂救活けたまへ」とまをす。おとのみこと潮涸瓊しほひのたまを出せば、潮おのづからにて、このかみ還りて平復たひらぎぬ。すでにして、兄、さきことを改めて曰はく、「吾はこれいましみことの兄なり。如何いかにぞ人の兄としておととに事へむや」といふ。弟、時に潮溢瓊を出したまふ。兄、見て高山たかやまげ登る。則ち潮、亦、山をる。兄、高樹たかきのぼる。則ち潮、亦、る。兄、既に窮途せまりて、去る所無し。乃ち伏罪したがひてまをさく、「吾已にあやまてり。今より以往ゆくさきは、やつかれ子孫うみのこ八十やそ連属つづきに、つねいましみこと俳人わざひとらむ。あるに云はく、狗人いぬひとといふ。ふ、かなしびたまへ」とまをす。弟還りて涸瓊を出したまへば、潮自づからにぬ。(神代紀第十段一書第二)
 是夜こよひみみづかうけひてみねませり。みいめ天神あまつかみしてをしへまつりてのたまはく、「天香山あまのかぐやまやしろの中のはにを取りて、香山、此には介遇夜摩かぐやまと云ふ。天平瓮あまのひらか八十枚やそちを造り、平瓮、此には毗邏介ひらかと云ふ。あはせて厳瓮いつへを造りて天神あまつやしろ地祇くにつやしろゐやまひ祭れ。厳瓮、此には怡途背いつへと云ふ。亦、厳呪詛いつのかしりをせよ。如此かくのごとくせば、あたおのづからにしたがひなむ」とのたまふ。厳呪詛、此には怡途能伽辞離いつのかしりと云ふ。天皇すめらみことつつしみて夢のをしへうけたまはりたまひて、依りて将におこなひたまはむとす。(神武前紀戊午年九月)
 是に、天皇すめらみことにへさよろこびたまひて、乃ち此のはにつちを以て、八十やそ平瓮ひらか天手抉あまのたくじり八十枚やそち 手抉、此には多衢餌離たくじりと云ふ。厳瓮いつへ造作つくりて、丹生にふ川上かはかみのぼりて、天神あまつかみ地祇くにつかみいはひまつりたまふ。則ち菟田うだがは朝原あさはらにして、たとへば水沫みなはの如くして、かしけること有り。(神武前紀戊午年九月)

 ふつう、神に祈りを捧げることは、自分たちに良いことがあるように願うものである。それに対して、「とごふ」や「かしる」は、憎む相手に悪いことがあるように願うことであり、本来の祈り方とは真逆のことをやっている。祈りが裏返った形をしている。
 神に祈る際、我々は柏手かしわでを打つ。二回とも四回ともされるが、その拍手はくしゅのことをカシハデと呼んでいる(注4)。小さな我が手を叩いているのを、大きな木の葉の柏になぞらえて有難がろうとするものであろうか(注5)。柏の葉は大きくて、しかも、冬枯れしても離層を作らず、翌春新しい葉が芽生えるまで落葉しないことが多い。その特徴は、ユズリハのように「葉守りの神」が宿ると考えられ、縁起の良い木とされるに至っている。
 同じようにとても大きな葉を、カシワ同様、輪生するかのようにつける木に、朴木ほおのきがある。古語にホホである。和名抄に、「厚朴〈重皮付〉 本草に云はく、厚朴は一名に厚皮〈楊氏漢語抄に厚木は保々加之波乃岐ほほかしはのきと云ふ。〉といふ。釈薬性に云はく、重皮〈保々乃可波ほほのかは〉は厚朴の皮の名なりといふ。」とある。すなわち、ホホデは、カシハデと対比された表現ととることができる。季語にあるとおり朴の葉は落葉する。しかも、表を下にして落ちていることが多い。葉の縁が内側に巻くことによるのであるが、確かに裏が現れることとは、占いに未来を予言するとき良からぬことが思った通りに起こることを表しているといえる。
左:カシワ(ズーラシア)、右:落葉しないで越冬するカシワ(民家)
左:ホオノキ、右:朴落葉
 以上のことから、山幸も、神武天皇こと神日本磐余彦も、呪詛がうまくいったという観点から、ホホデ(朴手)的にしてその霊性を有する男性であると知られ、そのように名づけられていると理解できる。よって、両者とも、ヒコホホデミ(彦火火出見)なる名を負っている。名は呼ばれるものであり、そう呼ばれていた。それが確かなことである。その呼ばれるものがひとり歩きして二人が紛れるといったことは、少なくとも名が名として機能していた上代にはなかった。文字を持たないヤマトコトバに生きていた上代において、人の名とは呼ばれることが肝心なのであり、己がアイデンティティとして主張されるものではなかった。自分が好きな名をキラキラネームで名乗ってみても、共通認識が得られなければ伝えられることはなく、知られないまま消えてなくなったことだろう。人が存在するのは名づけられることをもって現実化するのであり、その対偶にあたる、名づけられることがなければその人は存在しなかったかのように残されないものであった。「青人草あをひとくさ」(記上)、「名をもらせり。」(紀)として終わる(注6)。それで一向に構わない。それが無文字時代の言葉と名の関係である。
 近世の国学者と近代の史学者の誤った説に惑わされない正しい考え方を示した。

(注)
(注1)古事記には、神武天皇にヒコホホデミという名は与えられていない。
(注2)語の理解を助ける解釈についてはいずれも説の域を出ず、証明することはできない。ホホデについてその出生譚から炎出見、ホノホが出る意、また、ホノニニギに見られるように農耕神の性格から穂出見、稲穂が出る意とが掛け合わされていると考えられることが主流である。他説も多くあるだろう。
(注3)呪詛の詳細については、拙稿「呪詛に関するヤマトコトバ序説」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/dc584581029e0581b8b3504f48797274参照。
(注4)「柏手(拍手)」にカシハデと訓の付いている文献は、実は古代には見られない。ただ、神前にて心を整え神妙な面持ちで間隔をあけて手を打つことと、スタンディングオベーションで興奮しながら何十回、何百回と打ち鳴らすことでは、込めている気持ちが違うことは認められよう。
(注5)貞丈雑記・巻十六神仏類之部に、「手をうつ時の手の形、かしはの形に似たる故、かしは手と名付くる由也、」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200005398/1003?ln=ja)とある。
(注6)十訓抄に由来する「虎は死して皮を留め人は死して名を残す」という戒めの言葉があるが、上代における名づけとは位相が異なる。

(引用・参考文献)
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
津田1963. 津田左右吉『日本古典の研究 上 津田左右吉全集第一巻』岩波書店、昭和38年。
日本書紀纂疏 天理図書館善本叢書和書之部編集委員会編『天理図書館善本叢書 和書之部 第二十七巻 日本書紀纂疏・日本書紀抄』天理大学出版部、昭和52年。

※本稿は、2020年5月稿を2025年2月に加筆改訂したものである。

万葉集のウケヒと夢

2025年02月12日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 ウケヒについての現在の通説は次のようなものである。

 ウケヒは、本来、神意を判断する呪術・占いをいう。その動詞形がウケフ。 あらかじめ「Aという事態が生ずれば、神意はaにある。Bが生ずれば、神意はbにある」というように生ずる事態とその判断を条件として定め、得られた結果を神意と見なして、物事の真偽や吉凶、禍福などを占うものである。条件を口に出してから行うため、言葉の力を発揮させる言語呪術と認められる。狩猟を行い、獲物が得られるかどうかで神意を判断する「うけひ狩り」の例も見える。しかし、次第に意味が広く派生して行き、神にかけて誓いを行うことや、神に祈り願うことも表すようになる。(『万葉語誌』66頁、この項、新谷正雄)

 この説明には小さな誤謬がたくさん見られる。ウケヒは古代の占いの一種であるが、神意を求めるものとするのは短絡的である。あらかじめ言葉で言っておいて眼前の事態がどうなるかによって、将来の事態を予測しようと試みている。ヤマトコトバ(の使用)は、ことことであることを公理としていた。言葉と事柄とは相即の関係にあるものとし、使用した言語体系がヤマトコトバである。何でもかんでも言ってしまえばそのとおりになるということではない。「言霊ことだま」という言葉は多く誤解されているが、発した言葉に霊が宿っているのではなく、ヤマトコトバの使い手たちはことことであるように志向しており、言葉が現実の事態となることはあたかも霊が宿っているようだと見立てられて「言霊ことだま」と言われるようになっていただけで、用例としては数が少ない。逆に、前もって言っていたとおりにしない有言不実行をすると、ことことということになり、その人は信用を失う。そのような人がたくさん現れると、誰もが不信感をいだいてコミュニケーションはとれなくなる。言葉によって成り立っている世界の秩序は乱れ、発せられている言葉はもはや奇声にしか聞こえない。言葉が言葉でなくなるのである。社会は成り立たずにカオスに陥る。そうならないよう、ことことであるように努めていた。それが無文字時代のヤマトコトバを支える前提条件であった。
 そのような言語活動のなかで行われた占い法がウケヒである。将来のことでAになるかB(多くは¬A)になるかわからなくて困った時、試しにAになるなら目の前でもαとなり、B(多くは¬A)になるなら目の前でもβ(多くは¬α)になると言っておく。あらかじめ言っておいて実験をする。言っておいたことことなのだから、将来A、Bいずれのことになるかα、βからわかるという考え方である。夢も占いとして活用されたのは、夢のなかでα、βなら実際にA、Bとなることだろうと類推思考が働いたからである。夢のなかに神が現れることがあり、神意を告げることがあるが、夢から覚めて現実世界でどうするかは人間の行いである。人間が行わなければ実際に神意どおりにはならない。神のお告げをこととして、ことが同じになるように努めた当時の人たちの考え方、実践を伴うヤマトコトバ使用こそが占法を支えていたのである。
 万葉集のなかで使われているウケヒの例は次の四例である。みな動詞ウケフの形で使われ、四例中三例が夢と関わる形で詠まれている。

 都路みやこぢを 遠みかいもが このころは うけひて宿れど いめに見えぬ〔都路乎遠哉妹之比来者得飼飯而雖宿夢尒不所見来〕(万767)
 水の上に 数書く如き 吾が命 いもに逢はむと うけひつるかも〔水上如數書吾命妹相受日鶴鴨〕(万2433)
 さねかづら のちも逢はむと いめのみに うけひわたりて 年はにつつ〔核葛後相夢耳受日度年経乍〕(万2479)
 あひ思はず 君はあるらし ぬばたまの いめにも見えず うけひて宿れど〔不相思公者在良思黒玉夢不見受旱宿跡〕(万2589)

 これらの意味合いについて、祈り願う意に拡張されたものと捉えられているが誤解である。
 上に述べたとおり、夢のなかは現実のシミュレーションとなっている。歌の作者は寝る前に思い人に逢えるかどうかウケヒをして占っている。夢の中に現れて見る(α)のであれば現実にも本当に逢えて見ることになる(A)、現れずに見ることがない(β)のであれば現実にも逢えずに見ることはない(B)、これがウケヒの前言に当たる。実際に布団の周辺できちんと言葉にして発する必要はない。夢は当人しか知り得ないことなので、自分の頭のなかで決めているだけで事態は定まる。ウケヒの簡易版が夢占ということになる。
 万767・2589番歌では残念ながら夢に見ることはない。遠距離になって彼女の心も遠くなってしまったからだろうか、相思ではないらしい、と失恋の情を歌っている。
 万2479番歌はもう少し念の入った作り方がされている。現状の解釈は間違っている(注1)

 さねかづら のちも逢はむと いめのみに うけひわたりて 年はにつつ(万2479)
 (訳)(さね葛)後にも逢おうと、夢に見ることを祈誓(うけひ)し続けて年はいたずらに過ぎて行く。(新大系文庫本271頁)

 稲岡1998.は、「「もし後に逢うことを許されるなら、今夜の夢の中でも逢わせ給え。もし後に逢うことが許されぬものなら、今夜の夢の中でも逢わぬようにさせ給え」というようなウケヒをしたものと思われる。……夢の中で逢えても現実に逢えるわけでもなく、いたずらにウケヒを繰り返すばかりでの意味。」(327頁)と解説している。この考え方には矛盾がある。毎晩寝る前に夢に現れてくれ、そうしたら実際にも逢うことができる、とウケヒを続けたというのだろうか。ウケヒという占い法は確立している。夢で逢えたら現実にも逢えなくてはならない。夢で逢えているのに現実に逢えないということは、ことことであることを容認することになる。ヤマトコトバの根本原則から逸脱する。αなのにBだからといって再度ウケヒをくり返すとしたら、それはもはやすでにウケヒの信頼性は失墜している。騙されたとわかっても騙され続けて吉凶のおみくじを引き続ける、ということを歌にしたものではない。もし仮にそうなら、もはやウケヒという言葉など使わないであろう。神のお告げを夢に見たときも実践するのは人間である。ウケヒの占いをして夢に逢ったならば、現実においても待ちの姿勢ではなく、雨が降ろうが槍が降ろうが、どんな支障も乗り越えて逢わなければならない。そうしないと、言=事とする言霊信仰に反し、神やらいにやらわれる存在に堕すことになる。
 二句目の「後も逢はむと」という言い回しは、また逢おうと思いながら、そう言っておきながら、実際には逢わずにいることの表現として使われている。言っていることとやっている事が異なるなら、言=事とする言霊信仰に反するのではないかと思われるであろう。天罰は当たらないかと心配されるかもしれない。そういう時、人はいろいろ言い訳をする。

 …… さねかづら 後も逢はむと 大船の 思ひたのみて 玉かぎる 磐垣淵いはかきふちの こもりのみ 恋ひつつあるに ……(万207)
 ことのみを 後も逢はむと ねもころに 吾を頼めて 逢はざらむかも(万740)
 月草の れる命に ある人を いかに知りてか 後も逢はむとふ(万2756)
 恋ひつつも 後も逢はむと 思へこそ おのが命を 長くりすれ(万2868)
 恋ひ恋ひて 後も逢はむと なぐさもる 心しなくは 生きてあらめやも(万2904)
 ありありて 後も逢はむと ことのみを かため言ひつつ 逢ふとは無しに(万3113)
 …… さな葛 後も逢はむと 慰むる 心を持ちて ま袖持ち とこうち払ひ うつつには 君には逢はね いめにだに 逢ふと見えこそ あま足夜たるよを(万3280)
 …… さな葛 後も逢はむと 大船の 思ひたのめど うつつには 君には逢はず 夢にだに 逢ふと見えこそ 天の足夜に(万3281)
 ありさりて 後も逢はむと 思へこそ 露の命も ぎつつ渡れ(万3933)

 また逢おうねと言っておきながら逢わずにいることは許されるのか。そこには大人の知恵がある。時間を味方につけている。つまり、いずれ逢うのではあるが、今のところはまだ逢っていない、そういう中途半端な状態に今はあると述べている。あげた例では、残念ながらまだ逢うに至っていないと言っている。その場合、傾向として、本当に逢う気でいながらまだ逢っていないと思われる例に万2904・3933番歌があり、逢う気は醒めてしまっているが「後も逢はむ」とかつて言った、あるいは思った都合上の宙ぶらりんの状況にある意を表していると思われる例に万740・3113がある。もちろん、捉え方によってどうとでも取れるところがある。本心か否かは別であって、そういう歌が作られるならいとなっている。歌は言語遊戯の性格を持つ。言葉巧みなマニピュレーターということではなく、誰もがふつうに行う言語活動である。
 万2479番歌の場合は、一応のところまた逢おうねという気持ちは持ち続けていて、寝る前のウケヒの儀式は、あるいは形骸化しているかもしれないが、続けているにもかかわらず夢に見ることがないからそのままあなたと逢わずに年月が経ってしまった、と逢っていないことの言い訳をしていて、それが歌となっている。
 万葉集において夢にウケヒをしている三例で、ウケヒの語義はウケヒ本来の意である。ウケヒという言葉を使っている以上それはウケヒである。単に祈ったり、誓いを立てたりする意なら、イノリテヌレド、チカヒテヌレドなどと直截に歌えばいい。短歌形式の三十一音しかないところで間の抜けた言葉づかいをするべくもない。

(注)
(注1)内田1988.も、「ウケヒワタルとは、夢に相手を期待しつつ、かなわぬままに幾夜をも過すのであろう。ウケヒは、右の二例[万2589・2479]で、一方的に望ましい帰結を願うことへと傾いている。しかし、同様のホクと異なり、その実現への期待はむしろ裏切られるものと予想されている。或いは、それが適ったからといって(夢に相手を見たからといって)、それが逢瀬を約束すると本気で信じているわけでもない。ウケヒは、ここでその少ない可能性への果敢ない期待としてある。」(36頁)とやはり誤解している。
(注2)万2433番歌について拙稿「万葉集2433番歌「如数書吾命」とウケヒについて」参照。

(引用文献)
稲岡1998. 稲岡耕二『萬葉集全注 巻第十一』有斐閣、平成10年。
内田1988. 内田賢徳「ウケヒの論理とその周辺─語彙論的考察─」『萬葉』第128号、昭和63年2月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/1988
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(三)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。

※本稿は、2018年11月稿を2025年2月に改稿したものである。

「家内に養ふ鶏の雄者を殺せ」(雄略紀)の真相

2025年02月03日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 雄略紀の朝鮮半島との関連記事に、これまでの解釈では意味の通じない記述がある。
 
 天皇すめらみことみくらゐかせたまひしより、是歳ことしに至るまでに、新羅国しらきのくにそむいつはりて、苞苴みつきたてまつらざること、今までに八年やとせなり。しかるを大きに中国みかどみこころおそりたてまつりて、よしみ高麗こまをさむ。是に由りて、高麗のこきし精兵ときいくさ一百人ももたりりて新羅を守らしむ。
 しばらく有りて、高麗の軍士いくさびと一人、取仮あからしまに国に帰る。時に新羅人を以て典馬うまかひ 典馬、此には于麻柯比うまかひと云ふ。とす。しかうしてひそかかたりて曰はく、「いましの国は、吾が国の為に破られむことひさに非じ」といふ。一本あるふみに云はく、汝が国、果して吾がくにに成ること久に非じといふ。其の典馬、聞きて、いつはりて其の腹をむまねにして、退まかりて在後おくれぬ。遂に国に逃げ入りて、其のかたらへるを説く。
 ここに新羅のこきしすなはち高麗のいつはまもることを知りて、使つかひつかはしてせて国人くにひとげてはく、「ひと家内いへのうちやしなとり雄者をとりころせ」といふ。国人、こころりて、ことごとく国内くにのうち高麗人こまひところす。ここのこれる高麗こまひと一人有りて、ひまに乗りてまぬかるること得て、其の国に逃げ入りて、皆つぶさ為説ふ。高麗の王、即ち軍兵いくさおこして、……(雄略紀八年二月)

 新羅と高麗(高句麗)との間の攻防についての記述である。新羅は、倭が攻めてくるだろうと恐れ、高麗に精鋭部隊を派遣するように友好条約を結んだ。その時、一人の高麗兵が休暇をとって帰ることがあった。馬の世話をさせた新羅人とともに帰路についていたが、その兵士はいずれ高麗は新羅を滅ぼすだろうとひそひそ話をした。新羅の馬の世話人は、おなかの具合が悪いと言って列から遅れ離れて国へ帰ってその旨を説いた。情報は新羅王のもとに届き、王は高麗との間の条約は偽計であったと悟り、国中の人に対して国内にいる高麗人を殺そうと図った。そのときに用いた布告の言葉が三段落目にある。「人殺家内所養鶏之雄者」である。その結果、「国人知意、尽殺国内所有高麗人」ということになった。それでも一人生き残った高麗人がいて、国へ帰って状況を話した。そこで高麗国は兵をあげ、全面戦争へとつながっている。
 話の肝となる部分が理解されていない。どうして「人殺家内所養鶏之雄者」という言葉が、高麗人一斉殺害の暗号として機能したのか。これまでに検討された見解を三つ示す。

 「水戸公所修史新羅伝曰悉人頭折風形如士人捕二鳥新羅諷告蓋指乎」(河村秀根ほか・書紀集解、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100258449/447?ln=ja)
 「「鶏之雄者」は高句麗の将兵を示唆した表現であることは明らかである。……高句麗人を「鶏之雄者」といったのは、……[軍人の]服飾や標識によったとも考えられる。……[また、]新羅では軍隊の単位をと呼んだ。幢は……「毛thŏrŏk, mo」、現訓は thŏr で、鷄の古訓 tork, tok, tak と通用する。……進駐中の高句麗軍に対して、「鶏の雄者」すなわち tork(鶏→幢・対盧)を謎々的に示唆したものと解し得るのである。話そのものが謎的であるから、むしろこの方の解釈が妥当しよう。」(三品2002.103頁)
 「[三品氏の]いずれの説を採るにせよ、「人殺家内所養鶏之雄者」の表現は、三韓の習俗、言語に精通していなければ為し得ない表現であることに違いない。とすれば、この記事は半島系の原資料に依拠した可能性が高い。」(瀬間2024.23頁) 

 「人殺家内所養鶏之雄者」→「国人知意、尽殺国内所有高麗人」という流れである。「高麗人」が殺され、生き残った「高麗一人」が生還している。これは、「精兵一百人」のうちの「高麗軍士一人」が休暇で帰り、残りの99人を殺そうと謀ったが、98人は殺したものの1人は生還したということなのだろうか。そうではなく、新羅国王は、民間人を含めて国中にいる「高麗人」を一掃しようとしたということなのではないか。三品氏の前提は誤っていると考える(注1)
 そもそも、朝鮮半島記事だからといって、ヤマトの末裔である日本人がよくわからないのは仕方がないと考えるのは間違いである。なぜなら、日本書紀は、対外的に流布させようと企図して作られたものではなく、ヤマトの人が理解できるように書かれた書物だからである。自己満足の史書であると言っても過言ではない。つまり、読者として想定されているヤマトの人がわかるように暗号文を創作しているはずなのである。朝鮮半島の風習や言語に依拠していてよくわからないというのでは話にならない(注2)
 ヤマトコトバで考えた時、ヲトリとは囮(媒鳥)のこと、すなわち、ヲキ(招)+トリ(鳥)の約であるとされている。鳥をもって鳥を捕まえる猟法である。いざ高麗との間で戦争になれば、派兵されている高麗の精鋭部隊だけでなく新羅国内の親高麗派の人たちも呼応蜂起して混乱に陥れ、新羅は敗れることになるだろうというのである(注3)。国家存続の危機感をいだいて新羅王はお触れを出している。
 「所養鶏」の部分、「やしなふ鶏」と訓まれている。ヤシナフは、やすに複語尾のナフが付いた形で、す~うしなふ、ふ~まひなふ、ぐ~ねぎらふ、と同様の語形変化であるとする説がある。幼児を育て養うことはヒダスといい、また、ハグクムという。ヤシナフは生活全般に及ぶ語で語義が広いとされている(注4)。問題は、鶏を飼うことをヤシナフと言っていることにある。聞いただけで何か変だなと気づくことであろう。「所飼鶏」ではなく「所養鶏」と明示してある。
 鶏はヤシナフという言葉で表されるような対象なのか。家畜として動物を飼う場合、ウカヒ(鵜飼)、タカカヒ(鷹飼)、ウマカヒ(馬飼)などといい、また、コ(蚕)を飼うからカヒコ(蚕)という(注5)。ヤシナフトリとは豪勢なことである。
 鶏の雌鳥は卵を産むから大事にされた。民家の内に鶏を飼う場合、一羽飼うのなら、昼間は家の外へ出していても夜はイタチなどに襲われかねないから家へ入れ、高い止り木に掴まらせて身の安全を確保した。その場合、飼っているのは雌鳥で、卵を取っていた。記事では「雄鶏」と指定されているから数多く飼育していたことになる。多数鶏がいれば、人との同居は収拾がつかなく困難だから別にヤカ(宅、舎)を設けて鶏舎で飼ったと思われる(注6)。一部は孵らせて雛鳥として育てて大きくし、雌鳥ならさらに卵を取ろうと目論んでいる。求められているのはもっぱら雌鶏である。飼育され続けている雄鶏は何をしているのか。卵を取るためでも若鶏の肉を取るためでもなく、動物として本来の寿命、すなわち、繁殖のため、受精のために生かされている。雄鶏一羽で雌鶏五羽の相手ができるそうである。自然界と同じ営みである。ただし、鶏は家畜化された鳥類であり、人間のもとでのみ生を永らえている。しかも雄鶏は、去勢された畜牛馬のように人間のために使役されることもない。それをヤシナフトリと呼んでいる。われているのではなくやしなわれていると言えるのである。
 ヤシナフトリとしての雄鶏は何不自由なく暮らしている。止り木にとまってコケコッコーと鳴き叫んだり、けたたましくせわしなく動き回っている。止り木を備えた鳥小屋が与えられ、その小屋は騒がしく揺れんばかりである。ヤ(屋、舎)+シナフ(撓)ほどなのである。中にいる雄鶏をとりは、をどりでも踊っているように見える。踊るとは、足で弾みをつけてジャンプするような動きをいう。歩きながら小刻みに上体、顔を上下に、また前後に動かしている。足踏みして跳躍する動きをしている(注7)
 飼育動物のなかでそのような動きをするものとしては馬があげられる。馬が驚いて跳びあがるさまは踊っているように見える。単発的な跳躍だけでなく、継続的な跳躍も馬はする。細かな足さばきをしながら軽く走る軽速歩である。この軽速歩を操るためには、騎乗者は馬上で立ったり座ったりして上下の反動を抜く乗り方をする。騎乗者が立ったり座ったりするというのは、立つのはあぶみに着けた足を踏ん張ること、座るのはそれを緩めて鞍に座ることである。馬が踊っているとともに騎乗する人も踊っている。それを細かくくり返す。だから、踊りをする雄鶏とは、馬のことをいうこまのこと、また騎乗している精兵、軍士のことを言っていて、つまりは高麗こまのことを指しているとわかる。植民者として高麗人はすでに存在していた。
 高麗の野心が伺い知れたのも、出張中の高麗精鋭が新羅で雇った典馬うまかひが送っていった時に聞きつけたからであった。馬を飼うこととは、ただその馬に食事を与えたり洗ってあげたりするメンテナンスに限らず、交尾させて繁殖させることも含まれる。馬が年を取って死んでしまったら、典馬は馬飼いでなくなってしまう。産まれてきた仔馬のことは特にこまとも呼ぶ。典馬が高麗軍から聞き出した秘密は信憑性が高いとわかるのである。
 典馬になった新羅人は高麗兵が連れてきた馬の世話をしていただけだと思っていたが、高麗が考えていたのは新羅で高麗人こまを繁殖させて「うまはる」(注8)ことなのだと悟ったのである。駒(仔馬)が来て、牡馬と牝馬に育てば繁殖して数が増える。そこらじゅう駒だらけになって、つまりは高麗人だらけに陥り新羅は滅亡する。そういうシナリオを描いて精鋭部隊を駐屯させている。上げ膳据え膳で養っていては大変なことになる。高麗の陽動作戦に引っ掛かったら国は傾くということである。だから、「家内いへのうちやしなとり雄者をとりころせ」と命じて、皆、殺すようにと言っている。それぞれの家は人間(新羅人)の家よりも鶏舎を大事にしていてはいけない、本末転倒になると警鐘を鳴らしている。

(注)
(注1)高麗から民間人は来ていなかったとする考え方もなくはないが、国境に壁が作られていたわけでもパスポートやビザの制度があったわけでもない。
(注2)三品氏や瀬間氏は朝鮮半島の習俗、言語によった表現であるとし、半島系の原資料に依った表現であると考えているが、そのような資料は見出せていない。
(注3)現今の世界情勢を鑑みても、親ロシア派が住む地域はロシアの占領下に入って行っている。在留ロシア人の保護のために戦うというのがロシア側の言い分である。
(注4)白川1995.766頁。
(注5)「養」字でカフと訓む例もあるが、雄略紀のこの部分、書陵部本、前田本、熱田本ともヤシナフと訓んでいる。
(注6)鶏の飼い方は、宮崎安貞・農業全書に記されている。

  にはとり第二
 には鳥は人家に必ずなくて叶はぬ物なり。鶏犬の二色は田舎に殊に畜ひ置くべし。……
 多く畜はんとする者は、広き園の中にきびしくかき[垣]をし廻し、狐狸犬猫の入らざる様に堅く作り、戸口を小さくしたる小屋を作り、其中にとやを数多く作りて、高下それぞれの心に叶ふべし。尤わらあくたを多く入れ置きて、巣に作らすべし。さて園の一方に粟黍稗を粥に煮てちらし置き、草を多くおほ[覆]へば、やがて虫多くわき出づるを餌とすべし。是時分によりて三日も過ぎずして虫となる。其虫を喰尽すべき時分に、又一方かくのごとく、年中絶えず此餌にて養へば、鶏肥へて卵を多くうむ物なり。園の中を二つにしきりをくべし。又雑穀のしいら[しひな]、其外人牛馬の食物ともならざる物を多く貯へて、[喰]み物常に乏しからざる様にすべし。卵も雛も繁昌する事限なし。甚だ利を得る物なれども、屋敷の広き余地なくては、多く畜ふ事なり難し。凡雄鳥二つ雌鳥四つ五つ程畜ふを中分とすべし。春夏かいわりて廿日程の間はひな[雛]巣を出でざる物なり。飯をかはかして入れ、水をも入れて飼ひ立つべし。
 甚だ多く畜ひ立つるは、人ばかりにては夜昼共に守る事なり難く、狐猫のふせぎならざる故、能よき犬を畜ひ置きてならはし守らすべし(但しかやうにはいへども、農人の家に鶏を多く飼へば、穀物を費し妨げ多し。つねのもの是をわざ[業]としてもすぐしがたし。しかれば多くかふ事は其人の才覚によるべし)。(325〜326頁、漢字の旧字体は改めた)
近世の養鶏場の例(佐藤信季述・培養秘録、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/839587/1/36をトリミング結合)

(注7)踊るように見えない雄鶏は元気がないということで、繁殖用には適さない。
(注8)雄略紀には次のような用例がある。

 是に高麗こま諸将もろもろのいくさのきみこにきしまをしてまをさく、「百済くだら心許こころばへ非常おもひのほかにあやし。やつこ、見るごとに、おもほえず自づからにまとふ。恐るらくは、また蔓生うまはりなむか。こひねがはくは、逐除おひはらはむ」とまをす。(雄略紀二十年冬)

 高麗は百済を滅ぼしたが、残党は飢えに苦しみながらもそのままでいた。これを許してその地に留めたら、再興しようとするに違いないから、この期に一掃してしまってはどうかと進言している。地盤があるところに居続けたら次の選挙の時どうなるかというのと同じである。どぶ板活動をして支持者を増やしていく。それを「蔓生うまはる」という言葉で表している。高麗こまの諸将は、駒が増えていくこととはウマハルことなのだと自覚、認識していたのである。

(引用・参考文献)
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
瀬間2024. 瀬間正之「雄略紀朝鮮半島記事の編述」小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝承』雄山閣、令和6年。
三品2002. 三品彰英『日本書紀朝鮮関連記事考證 下巻』天山舎、2002年。
宮崎安貞・農業全書 宮崎安貞編録、貝原楽軒刪補、土屋喬雄校訂『農業全書』岩波書店(岩波文庫)、昭和11年。