隼人は、古代の九州南部の人をいい、朝廷で隼人舞や警護の任についた。隼人(はや(ひ)と)の名義については、これまでに多くの説が唱えられてきた。中村1993.の研究史整理をもとにした原口2018.の分類をあげる。
どうしてハヤヒトと呼ばれていたかを問うことはあまり生産的なことではない(注2)。言葉の語源を正すことは、歴史的に、すなわち、文献的に証明されるもの、例えば近代に生まれた翻訳語のように証明されるものならともかく、なぜ spring のことをヰ(井)というのかを考えても始まらないものである(注3)。地名のうちのかなりのものも、所与のものとしてあり、それを後からこじつけて何を表しているのか考えているだけである(注4)。このハヤヒトの場合も、由来を辿って行き着くところがあったとしても、それを証明と呼ぶことはできない。その点を承知のうえで筆者なりの意見を述べるなら、海人族として海に潜っていたことと関係があるかと考える。素潜りだから長く息を止める。ナガ(長)+イキ(息)、約してナゲキ(嘆)である。ナゲク(嘆)様子は助詞のハヤに表される。だからハヤヒト(隼人)である。文字によらない口語的世界、ブリコラージュとしての言葉遊びのなかで輝いて聞こえる言葉である。
終助詞のハヤは、感動、感嘆、哀惜など、歌謡の例にあるように口に出して発話する言葉として用いられる。崇神紀十年九月条に、「御間城入彦はや」とあり、何かを言っているのではなくただ歌っているだけであるという。景行記に、「あづまはや」とあり、倭建命が東征からの帰路で溜息まじりにつぶやいている。同じく「その大刀はや」ともあり、自分から離れてしまったことに言葉が続かなくなっている。雄略紀十二年十月条に、「いひし工匠はや あたら工匠はや」とあり、処刑されそうな大工を惜しんでいる。允恭紀四十二年十一月条に、「うねめはや、みみはや」とあり、朝貢した新羅人が畝傍山と耳成山を嘆き讃えた声が訛っていて、朝廷側は采女と姦通したのではないかと疑うことになっている。
海人族のナガ(長)+イキ(息)からナゲキ(嘆)の声、ハヤを冠する族名となっている。海人族は他にも多いから、他の地域の海人もハヤヒトと呼ばれておかしくないが、南九州の人のみそう呼ばれている。どうしてそう落ち着いたのかは不明であるが、翻って、ハヤヒトと呼ばれたことを出発点として議論は始まることになる。「隼人の名に負ふ」(万2497)とはどういうことか組み立てて行っている。史料や木簡などには「隼人」という用字が常用されている。当時の人たちの共通認識として、そう宛てがうのがふさわしいと感じられたからであろう。先にハヤヒトという言葉があり、それに漢字を当てている。もし「隼人」という漢字が先にあって律令制のもとに初めて定められたとするなら、音読みしてシュンジンなどと名づけられていたのではないか(注5)。上代の人はハヤヒトとあることについて疑問を持つことなく、否定することはまったくなく、その名に値する行動をとるように集合意識として求めていくことになっている。
凡そ元日・即位及び蕃客入朝等の儀は、官人二人・史生二人、大衣二人・番上の隼人二十人・今来の隼人二十人・白丁の隼人一百三十二人を率て、分れて応天門外の左右に陣し蕃客入朝に、天皇、臨軒せざれば陣せず、群官初めて入らば胡床より起ち、今来の隼人、吠声を発すること三節蕃客入朝は、吠の限りに在らず。(延喜式・隼人司)
凡そ遠従の駕行には、官人二人・史生二人、大衣二人・番上の隼人四人及び今来の隼人十人を率て供奉せよ。番上已上は、並横刀を帯び馬に騎れ。但し大衣已下は木綿鬘を著けよ。今来は緋の肩巾・木綿鬘を著け、横刀を帯び、槍を執りて歩行せよ。其の駕、国界及び山川道路の曲を経るときは、今来の隼人、吠を為せよ。(延喜式・隼人司)
凡そ行幸の宿を経むには、隼人、吠を発せよ。但し近き幸は吠せざれ。(延喜式・隼人司)
凡そ今来の隼人、大衣に吠を習はしめよ。左は本声を発し、右は末声を発せよ。惣て大声十遍、小声一遍。訖らば一人、更に細声を発すること二遍。(延喜式・隼人司)
朱に云はく、凡そ此の隼人は良人なりと。古辞に云はく、薩摩・大隅等の国人、初め捍き、後に服ふなりと。諾ふに請ひて云はく、已に犬と為り、人君に奉仕らば、此れ則ち隼人と名くるのみと。(令集解・巻五)
歌儛教習せむこと。……穴に云はく、隼人の職は是なりと。朱に云はく、歌儛を教習せむとは、隼人の中に師有るべきことを謂ふなりと。其の歌儛は常人の歌儛に在らず。別つべきなり。(令集解・巻五)
養老令や延喜式にみられる隼人の任務としては、①朝廷における儀式への参加、②吠声を発すること、③竹器の製作にあたること、の三つに大別される(注6)。延喜式では、宮廷に仕える隼人は、元日即位の日や外国使節の入城、践祚大嘗祭に、応天門の外に異様ないでたちで立ち、赤い模様に飾られた楯と槍を持ち、吠声を発する決まりになっている。また、行幸に際しても、同行して国境や曲がり角で吠声を発することになっている。ハヤヒトという名から役割が整えられていっており、ハヤヒトという名ゆえに言い伝えにも反映したものとなっている(注7)。海幸山幸の話のなかで、最後に相手が屈服して仕えると誓ったとき、それを「隼人」の祖であるとし、「狗」とし、「俳優」としている。「隼人」、「狗」、「俳優」がヤマトコトバのなかで同一にカテゴライズされて納得が行っているのである。
是を以て火酢芹命の苗裔、諸の隼人等、今に至るまで天皇の宮墻の傍を離れずして、代に吠ゆる狗にして奉事る者なり。世人、失せたる針を債らざるは、此、其の縁なり。(神代紀第十段一書第二)
火照命 此は、隼人の阿多君が祖ぞ。(記上)
火闌降命は、即ち吾田君小橋等が本祖なり。(紀本文)
[火酢芹命ノ曰サク]「吾已に誤てり。今より以往は、吾が子孫の八十連属に、恒に汝の俳人と為らむ。一に云はく、狗人といふ。請はくは哀びたまへ」とまをす。(神代紀第十段一書第二)
[火酢芹命ノ曰サク]「……願はくは救ひたまへ。若し我を活けたまへらば、吾が生児の八十連属に、汝の垣辺を離れずして、俳優の民たらむ」とまをす。(同第四)
[火照命ノ]頓首きて白ししく、「僕は、今より以後、汝命の昼夜の守護人と為て仕へ奉らむ」とまをしき。故、今に至るまで其の溺れし時の種々の態絶えずして、仕へ奉るぞ。(記上)
海幸山幸の話の末尾で、ホノスセリが屈服した様子を「狗」に喩えている(注8)。狩りにおいては獣が捕獲されるが、その時、本来なら獣側にいるはずのイヌが人間側に立って働いている。人間に屈服し、恭順し、今後はずっと人間の役に立つようにすると誓っている。命じられるがままに地べたに腹をつけた「伏せ」の姿勢をとり、屈服を表明していると見受けられる。そして、儀式や行幸の際には、隼人が犬の吠声をたて、あるいは辟邪を司ったとされている。
…… 犬じもの 道に伏してや 命過ぎなむ一に云ふ、我が世過ぎなむ(万886、山上憶良)
……其の大県主、懼ぢ畏み、稽首きて白さく、「奴にし有れば、奴随ら覚らずして、過ち作れるは甚畏し。故、のみの御幣物を献らむ」とまをして、布を白き犬に縶け、鈴を著けて、己が族、名は腰佩と謂ふ人に、犬の縄を取らしめて献上りき。(雄略記)
冬十月の壬午の朔にして乙酉に、詔したまはく、「犬・馬・器翫、献上ること得じ」とのたまふ。(清寧紀三年十月)
新羅の王の献物は、馬二疋・犬三頭・鸚鵡二隻・鵲二隻及び種々物あり。(天武十四年五月)
雄略記の例のように、犬を献上することで、犬のように屈服、恭順していることを表明することがあった。鷹狩り用の犬も献上されていた(注9)。飼主の言いつけに従わない犬というのはいない。人に噛みついたり、狂犬病の犬は殺された。雑令に規定されるほか、厩庫律・幖幟羈絆条(逸文)に、「凡畜産及噬犬、有レ觚二蹹齧人、而幖幟羈絆不レ如レ法、若狂犬不レ殺者、笞卅、以レ故殺二傷人一者、以二過失一論、若故放令レ殺二‐傷人一者、減二闘殺傷一等一、即被レ雇療二畜産一、被レ倩者、同二過失法一及無レ故触レ之而被二殺傷一者、畜主不レ坐」とある。
この要件は、犬的な人である隼人にも当てはまる。履中即位前紀に、住吉仲皇子の「近く習へまつる隼人」が、ひそかに瑞歯別皇子から褒美をあげるといわれて主人を暗殺し、挙げ句の果て、自分の主君を殺すのはけしからんということで殺されている。主人や鷹を傷つけた犬は即刻殺されるということである。飼い犬に手をかまれるとの諺になっている。記では、「墨江中皇子に近く習へたる隼人、名は曾婆加理」といい、紀には、「近く習へまつる隼人有り。刺領巾と曰ふ。」と指定されている。
犬の躾には、他にも「お座り」、「お手」などいろいろあり、狩猟の際には野性をよみがえらせて吠えたり果敢に飛び跳ねてアタックしたりする(注10)。意のままに動くさまを舞と見立てたのが隼人舞である。
舞にはお囃子が付き物である。うまい具合に、ハヤヒトという名から囃すことが期待されている。お囃子をつかさどって、隼人は「俳優・俳人」となっている。お囃子がそうであるように、あちらからもこちらからも声があがるよう、元日や即位の際の儀式において左右に分かれて位置して「吠声」を発している。延喜式・隼人式に、「分陣二応天門外之左右一二、……今来隼人発二吠声一三節」とあるとおりである。そんな掛け合いがなされるのはまるで山にいるオオカミの遠吠えの掛け合いのようであり、猟犬、番犬である飼犬もつられて呼応したのだろう。まことにうまい形容であると認められよう。ヨバフ声を発していたわけである。
ヨバフは、ヨブ(喚)に反復、継続の動詞語尾フのついた形である。その際、聞かせるべき相手は必ずどこかにいる。くり返し大きな声をあげて相手に向って注意を向けさせようとしていたり、見えないけれど必ずいるはずの答えてくれるべき相手を探すように声をあげている。よく通る声でなければならない。崇峻前紀では、捕鳥部万が犬のように地に伏し、誰かまっとうに話のできる相手はいないかとヨバフことをしている。この話には万の飼っていた犬の話などがエピローグとして付いている(注11)。「犬(狗)」について深く考えられている。
隼人の 名に負ふ夜声 いちしろく 吾が名は告りつ 妻と恃ませ(万2497)
垣越しに 犬呼び越して 鳥狩する君 青山の 繁き山辺に 馬休め君(万1289)
隼人、多に来て方物を貢る。是の日に、大隅隼人と阿多隼人と、朝廷に相撲とる。大隅隼人勝つ。(天武紀十一年七月)
五月丁未の朔にして己未に、隼人大隅に饗へたまふ。丁卯に、隼人の相撲とるを西の槻の下に観る。(持統紀九年五月)
万2497番歌では原文に「早人」とあり、ハヤト、ハヤヒトという名に負うのが大きな夜声であるとしている。令集解・職員令にも、「已為レ犬、奉二‐仕人君一者、此則名二隼人一耳。」とある。隼人舞や犬の吠え声から囃す人のこと、敏捷で動作が速い、隼人舞のテンポの速いこととする説などがあげられている。しかし、犬の本義に近づいていない。猟犬として使うのは鷹狩においてである。鷹狩に使う隼は、猟犬同様、飼い主に忠実である。狩りで捕まえたのだから自分で食べてしまえばいいのに食べずにいる。感嘆に値するし、食べてしまったらお仕置きが怖いから食べられず彼らは嘆息しているように見える。嘆く時に使う助詞はハヤである。鷹狩には鷹、隼、鷲など猛禽類が使われるが、そのなかで隼は最も人に馴れやすく、ペット化しやすい。犬と同等である。
鷹狩に使う鷹(隼)を調教する際(「振替」)にも、ホッ、ホッと静かに、そして通るように鷹を呼ぶ。ワンワン(bow-wow)言ったら近づいてこない。ホォー(howl)と遠吠えする声のことを言っている。
番犬として考えた場合、ドーベルマンのように警護の役に就くことに整合性がある。警護のために使う道具は楯である。平城宮跡から隼人の楯は出土している。犬という存在は、主人の楯となって主人を守る楯の役割を果たす。猟犬の記憶、さらにはオオカミの記憶としては、主人以外の人に対して敵対行動をとり、飼犬が楯となって守るのである。その際、誰をご主人様と思うかによって拒絶する相手は変わってくる。延喜式・隼人司に、「凡元日即位及蕃客朝等儀、……」、「凡践祚大嘗日、……」、「凡遠従駕行者、……」、「凡行幸経宿者、……」などとある各条は、すべて天皇を主人として隼人が振る舞うために定められた条項である。
盾持ち人形埴輪(時塚1号墳出土、向日市文化資料館『発掘された京都の歴史2024』展展示品。盾、犬のような耳、入れ墨の特徴を持つ)
門番と考えるならそれは仁王に値する。大隅隼人と阿多隼人との二地域をあげたのは、左右(東西)に配置させるためで、力自慢の力士による天覧相撲が開かれている。九州南部の人の身長は低かったとされており、大相撲ではなく、犬相撲、闘犬に近い。ガードマンは通せん坊をする。入って来ようとするのを「否ぶ」ことをする。嫌がり拒むことは、古語で「拒ふ」ともいうから、「相撲」を取っている(注12)。
人がいちばん嘆くのは大切な人が亡くなった葬儀の時である。亡くなることは古語で「往ぬ」という(注13)。死ぬことは、姿が見えなくなることだから、婉曲的に死ぬことをイヌ(去・往)(万1809)と言い、人は死ぬとき横になって眠るような姿態をとる。だから、イヌという言葉が両方の意味を表していてわかりやすい。なにしろ、動詞イヌ(寝・去・往)を名詞のイヌ(犬)が体現している。イヌ(犬)がイヌ(去)ことをしたという例(桜井田部連膽渟の例、崇峻前紀用明二年七月)もある。まるで、辞書の用例として載っている一連の例文をもって一つの話にまとめられたかのようである。語学的にとても丁寧な解説となっている。ヤマトコトバはヤマトコトバをもってして、言葉を了解的に循環説明し、納得の域に達せしめている。わかりやすくておもしろくてためになる。そんな話(咄・噺・譚)が披露されている。何のための話なのかといった問いは、もはやナンセンスである。この件は辞書的説明が説話の形を整えたものである。イヌ(犬・寝・往)という言葉の本意を伝えるために話が成っている。
犬であるハヤヒトにも活躍の場が設けられている。隼人は殯に参列し、番犬の役割として警備に当たる。ゆえに守護人となって隼人司は衛門府に属している。忠犬よろしく殉死することもあったように描かれる(注14)。
三輪君逆、隼人をして殯庭を相距かしむ。(敏達紀十四年八月)
冬十月の癸巳の朔にして辛丑に、大泊瀬天皇を丹比高鷲原陵に葬りまつる。時に隼人、昼夜陵の側に哀号び、食を与へども喫はず、七日にして死ぬ。有司、墓を陵の北に造り、礼を以て葬す。(清寧元年十月)
犬は飼い主に忠実であるが、ホォー(howl)と遠吠えする声は何を言っているのかわからず、ただ嘆いているばかりに聞こえる。今日でも、愛犬が救急車のサイレンに反応して遠吠えを始めたら、飼い主は何が起こっているのか戸惑うばかりで、大丈夫だよと声をかけてなだめている。九州南部出身者の方言は、外国語に勝るとも劣らぬほどわからなかったといわれ、まるで犬の声のようであったというのは話のオチのようなことであるが、そこから翻って彼らをハヤヒトと名づけたかどうかはわからない。
止まり木上の鷹と沓脱板でお座り姿勢の犬(春日権現験記写、板橋貫雄模、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287498/1/7をトリミング)
以上のことごとを解釈する際、隼人の人たちがヤマトに恭順したことを記録するものであるとか、時代的に言っていつのことに当たるのか、ハヤヒトがいつからそう呼ばれ定められていったかについては問うことができない(注14)。ヤマト朝廷に服属していく仕方は他の周縁の民と同様であろう。たまたまハヤヒトという名を持っていたから、役回りとして上のようなことを担うように要請されたということだろう。それが語学的証明である。今日的な概念規定、例えば「服属儀礼」、「華夷思想」、「呪力」といった術語で考察しようとしても的外れである。
(注)
(注1)宮島1999.は彼らが海人族で、「執檝者」に速い人とする説を唱えている。
(注2)『鹿児島市史Ⅰ』が「いくらその語のもつ意味を正確にとらえたところで、大した意義はないように思う。」(100頁)、『鹿児島県史第一巻』が「ハヤに特種の意味を持たせる事は果して適当であらうか。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1261640/1/49、漢字の旧字体は改めた)という言い方に、中村氏は反発している。
(注3)幸田露伴の音幻論など、見るべきものがないわけではない。
(注4)樟葉の地名の由来について古事記は語っている。「皆迫め窘めらえて、屎出で、褌に懸る。故、其地を号けて屎褌と謂ふ。今は久須婆と謂ふ。」(崇神記)。
(注5)文字によらずにハヤヒトという言葉があるということは、歴史のない文化を発祥とするということであり、名義の始期を問うことは筋違いである。今日、歴史学では、天武朝からハヤヒトと呼ばれたとし、記紀の説話は後付けで創作された文飾であると考えられるに至っている。文献を歴史学的視座からしか見ていないとそうなる。記紀に書いてあることは話(咄・噺・譚)である。文字を持たずに言葉を操っていた話の時代があり、その話の言葉を文字に書き写して残そうとしたものである。言=事でなければ収拾がつかなくなるから、必ず言=事になるように話(咄・噺・譚)とした。嘘をつくことは固く戒められ、ありもしないことをでっちあげることは慎まれた。火のないところに煙が立つようなデマは伝えられることなくかき消されたであろう。情報化社会とは真逆で、基本的に人の口から口へ、一人から一人へしか伝達の術はなかったからである。その間の誰か一人でも覚えることをしなかったら、伝わることはないのである。積極的に相手に覚えさせようとするおもしろさこそが話(咄・噺・譚)を支えた命であった。
(注6)➂の竹器製作の理由については、拙稿「捕鳥部万と犬の物語について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/19cfc757c1bd6945f14dd710ed63dc08参照。
(注7)言い伝えが先か、条文が先かを問うことに関心が向かっているが、見当違いである。言葉として言い当てた時からすべては始まる。話としても法としても創られていく。
(注8)官憲の犬と言われるのは、昔は盗人として活躍していたが火付盗賊改に捕縛されて御用を聞くようになった者である。令集解に「朱云、凡此隼人者良人也。」とあるとおりである。
(注9)「貢上犬壱拾伍頭、起六月一日尽九月廿九日、并一百四十七日、単弐仟弐伯伍頭、食稲肆伯肆拾壱束、犬別二把」(正倉院文書・天平十年筑後国正税帳)と見える。
なかには貴族邸で完全に愛玩用に飼われていた犬もいたようである。『平成29年度平城宮跡資料館新春ミニ展示「平城京の戌」リーフレット』独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所https://sitereports.nabunken.go.jp/21939参照。
(注10)犬の動作については、それが飼犬である限りにおいて、人によって決められている。基本的な躾に従った動きが求められる。柳亭種彦・足薪翁記に「犬のさんた」のことが記されている。
犬にさんたせよ\/といへば、前足をあげとびつく事のありしが、他国はしらず。江戸にてさる戯をする者を見ず。手をくれといふが此餘波ともいはん歟。三太はでつち又小僧などいふ下童の通称なれば、かのでつちの狂ひまはるまなびをせよと云事なるべし。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2553925/1/63、漢字の旧字体は改めた)
(注11)拙稿「捕鳥部万と犬の物語について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/19cfc757c1bd6945f14dd710ed63dc08参照。物部守屋の「資人」という立場であるが、「犬」という言葉をよく写したものになっている。
(注12)佐佐木2007.は、「印南・否び・隠び・犬」は音が似通っていて、イメージとして連想される言葉であると指摘する。もちろん、実際の使用においては文脈に依存する。
(注13)寝ることは「寝ぬ」(下二段動詞)、死ぬことも「往ぬ」(ナ変動詞)である。
大原の 古りにし郷に 妹を置きて 吾寝ねかねつ 夢に見えこそ(万2587)
夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寐宿ねにけらしも(万1511)
…… 隠沼の 下延へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば ……(万1809)
後れ居て 吾はや恋ひむ 稲見野の 秋萩見つつ 去なむ子ゆゑに(万1772)
明日よりは 印南の川の 出でて去なば 留れる吾は 恋ひつつやあらむ(万3198)
固に当に遠く根国に適ね。(神代紀第五段本文)
(注14)殉死が盛んだった中国殷代の様子を白川2000.にみると、殷代の殉葬には、(a)身分関係の如何を問わず、王との親近関係によって、王の歿後においても、なおその側近にあることを要求される親信貴戚・武人・輿馬侍衛・包丁膳宰・𠬝・妾の類と、(b)専らその墓域を修祓潔斎する目的を以て、犬や牛羊とともに埋死された女子小人・閹寺、あるいは同様の目的を以て殉殺される羌・南等の外族犠牲の二種があるという。清寧紀元年十月条の記事は、犬牲の色彩を強くにじませた内容となっている。
(注15)文字言語のもとにある文明ではなく、無文字時代の口頭言語の文化の産物である。無文字文化に「歴史」はない。記憶と記録の違いである。(注5)参照。
なお、隼人が人間として従ったのではなく、犬の立場に立つ形で仕えたということから、南九州地方に古墳がないことを説明できるかもしれない。埴輪は殉死の代わりとして供えられたという考えが垂仁紀二十八・三十二年条に表れている。今日の歴史学では時代的に合わないこと、殉死の風はヤマトに顕著とは言えず実態を伴わないこと、埴輪の発祥は吉備の特殊器台から転じた円筒埴輪に求められ、形象埴輪を語る記述はあやしいことから、その記述は否定的にばかり見られている。しかし、埴輪とはすなわち古墳を造ることであると据えてみれば、古墳を造ることは殉死の代わりになることと定位することができる。隼人=犬を埋葬するのに、犬の墓に犠牲の犬を求めることは辻褄が合わないから、ヤマト朝廷は南九州の勢力には古墳を作らせることがなかったと理解できるのではないか。日本書紀の記述について、まだまだ感覚として読めていないところがあると感じさせられる。
(引用・参考文献)
伊藤2016. 伊藤循『古代天皇制と辺境』同成社、2016年。
『鹿児島県史第一巻』 『鹿児島県史第一巻』鹿児島県、昭和14年。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1261640)
『鹿児島市史Ⅰ』 鹿児島市史編さん委員会編『鹿児島市史Ⅰ』昭和44年。
熊谷2019. 熊谷公男「蝦夷・隼人と王権─隼人の奉仕形態を中心にして─」仁藤敦史編『古代王権の史実と虚構』竹林舎、2019年。
佐佐木2007. 佐佐木隆『日本の神話・伝説を読む』岩波書店(岩波新書)、2007年。
白川2000. 白川静「殷代の殉葬と奴隷制」『白川静著作集4』平凡社、2000年。
高林1977. 高林實結樹「隼人狗吠考」横田健一編『日本書紀研究 第十冊』塙書房、昭和52年。
中村1993. 中村明蔵『隼人と律令国家』名著出版、1993年。
中村1998. 中村明蔵『古代隼人社会の構造と展開』岩田書院、1998年。
永山2009. 永山修一『隼人と古代日本』同成社、2009年。
原口2018. 原口耕一郎『隼人と日本書紀』同成社、2018年。
前川1986. 前川明久「隼人狗吠伝承の成立」『日本古代氏族と王権の研究』法政大学出版局、1986年。
松井1995. 松井章「古代史のなかの犬」『文化財論叢Ⅱ』同朋舎出版、平成7年。
宮島1999. 宮島正人『海神宮訪問神話の研究─阿曇王権神話論─』和泉書院、1999年。
守屋1973. 守屋俊彦「隼人舞と犬吠え」『記紀神話論考』雄山閣、昭和48年。
※本稿は、2012年2月稿「隼人(はやと・はやひと)の名義は、助詞のハヤによく表れている」を大幅に書き改めたものである。
(1)性行説
隼人の名義がその性質・性格・行動・しぐさによるとする説。
○敏捷・猛勇な隼人の性行が、古語でハヤシなどということにもとづくとする説(本居宣長)。
○「凶暴な人」を意味するチハヤビトにもとづくとする説(内田銀蔵)(注1)。
(2)地名説
○『新唐書』にみえる「波邪」という地名にもとづくとする説(喜田貞吉)。
(3)方位説
○マリアナ語では南を「ハヤ」といい、南風を意味する「ハエ」と同様に「ハヤ」が南方をさすとする説(松岡静雄など)。
○四神思想で南方を意味する朱雀は、漢籍では「鳥隼」と関係があるとされる場合もあり、隼人の名義がここから採用されたとする説(駒井和愛・中村明蔵・原口耕一郎)。
○隼人・熊襲・蝦夷の名義は、天・陸・水という宇宙三界を表象するという説(大林太良)。
(4)職掌説
隼人の朝廷における職掌によるものとする説。
○ハヤシビト(囃し人)にもとづくとする説(清原貞雄)。
○隼人の歌舞のテンポが他の歌舞よりも早かったことによるとする説(井上辰雄)。
○隼人の狗吠/吠声から「吠人(はいと)」とされたことによるとする説(高橋富雄・菊池達也)。(原口2018.73~74頁に原口氏説を加えた)
隼人の名義がその性質・性格・行動・しぐさによるとする説。
○敏捷・猛勇な隼人の性行が、古語でハヤシなどということにもとづくとする説(本居宣長)。
○「凶暴な人」を意味するチハヤビトにもとづくとする説(内田銀蔵)(注1)。
(2)地名説
○『新唐書』にみえる「波邪」という地名にもとづくとする説(喜田貞吉)。
(3)方位説
○マリアナ語では南を「ハヤ」といい、南風を意味する「ハエ」と同様に「ハヤ」が南方をさすとする説(松岡静雄など)。
○四神思想で南方を意味する朱雀は、漢籍では「鳥隼」と関係があるとされる場合もあり、隼人の名義がここから採用されたとする説(駒井和愛・中村明蔵・原口耕一郎)。
○隼人・熊襲・蝦夷の名義は、天・陸・水という宇宙三界を表象するという説(大林太良)。
(4)職掌説
隼人の朝廷における職掌によるものとする説。
○ハヤシビト(囃し人)にもとづくとする説(清原貞雄)。
○隼人の歌舞のテンポが他の歌舞よりも早かったことによるとする説(井上辰雄)。
○隼人の狗吠/吠声から「吠人(はいと)」とされたことによるとする説(高橋富雄・菊池達也)。(原口2018.73~74頁に原口氏説を加えた)
どうしてハヤヒトと呼ばれていたかを問うことはあまり生産的なことではない(注2)。言葉の語源を正すことは、歴史的に、すなわち、文献的に証明されるもの、例えば近代に生まれた翻訳語のように証明されるものならともかく、なぜ spring のことをヰ(井)というのかを考えても始まらないものである(注3)。地名のうちのかなりのものも、所与のものとしてあり、それを後からこじつけて何を表しているのか考えているだけである(注4)。このハヤヒトの場合も、由来を辿って行き着くところがあったとしても、それを証明と呼ぶことはできない。その点を承知のうえで筆者なりの意見を述べるなら、海人族として海に潜っていたことと関係があるかと考える。素潜りだから長く息を止める。ナガ(長)+イキ(息)、約してナゲキ(嘆)である。ナゲク(嘆)様子は助詞のハヤに表される。だからハヤヒト(隼人)である。文字によらない口語的世界、ブリコラージュとしての言葉遊びのなかで輝いて聞こえる言葉である。
終助詞のハヤは、感動、感嘆、哀惜など、歌謡の例にあるように口に出して発話する言葉として用いられる。崇神紀十年九月条に、「御間城入彦はや」とあり、何かを言っているのではなくただ歌っているだけであるという。景行記に、「あづまはや」とあり、倭建命が東征からの帰路で溜息まじりにつぶやいている。同じく「その大刀はや」ともあり、自分から離れてしまったことに言葉が続かなくなっている。雄略紀十二年十月条に、「いひし工匠はや あたら工匠はや」とあり、処刑されそうな大工を惜しんでいる。允恭紀四十二年十一月条に、「うねめはや、みみはや」とあり、朝貢した新羅人が畝傍山と耳成山を嘆き讃えた声が訛っていて、朝廷側は采女と姦通したのではないかと疑うことになっている。
海人族のナガ(長)+イキ(息)からナゲキ(嘆)の声、ハヤを冠する族名となっている。海人族は他にも多いから、他の地域の海人もハヤヒトと呼ばれておかしくないが、南九州の人のみそう呼ばれている。どうしてそう落ち着いたのかは不明であるが、翻って、ハヤヒトと呼ばれたことを出発点として議論は始まることになる。「隼人の名に負ふ」(万2497)とはどういうことか組み立てて行っている。史料や木簡などには「隼人」という用字が常用されている。当時の人たちの共通認識として、そう宛てがうのがふさわしいと感じられたからであろう。先にハヤヒトという言葉があり、それに漢字を当てている。もし「隼人」という漢字が先にあって律令制のもとに初めて定められたとするなら、音読みしてシュンジンなどと名づけられていたのではないか(注5)。上代の人はハヤヒトとあることについて疑問を持つことなく、否定することはまったくなく、その名に値する行動をとるように集合意識として求めていくことになっている。
凡そ元日・即位及び蕃客入朝等の儀は、官人二人・史生二人、大衣二人・番上の隼人二十人・今来の隼人二十人・白丁の隼人一百三十二人を率て、分れて応天門外の左右に陣し蕃客入朝に、天皇、臨軒せざれば陣せず、群官初めて入らば胡床より起ち、今来の隼人、吠声を発すること三節蕃客入朝は、吠の限りに在らず。(延喜式・隼人司)
凡そ遠従の駕行には、官人二人・史生二人、大衣二人・番上の隼人四人及び今来の隼人十人を率て供奉せよ。番上已上は、並横刀を帯び馬に騎れ。但し大衣已下は木綿鬘を著けよ。今来は緋の肩巾・木綿鬘を著け、横刀を帯び、槍を執りて歩行せよ。其の駕、国界及び山川道路の曲を経るときは、今来の隼人、吠を為せよ。(延喜式・隼人司)
凡そ行幸の宿を経むには、隼人、吠を発せよ。但し近き幸は吠せざれ。(延喜式・隼人司)
凡そ今来の隼人、大衣に吠を習はしめよ。左は本声を発し、右は末声を発せよ。惣て大声十遍、小声一遍。訖らば一人、更に細声を発すること二遍。(延喜式・隼人司)
朱に云はく、凡そ此の隼人は良人なりと。古辞に云はく、薩摩・大隅等の国人、初め捍き、後に服ふなりと。諾ふに請ひて云はく、已に犬と為り、人君に奉仕らば、此れ則ち隼人と名くるのみと。(令集解・巻五)
歌儛教習せむこと。……穴に云はく、隼人の職は是なりと。朱に云はく、歌儛を教習せむとは、隼人の中に師有るべきことを謂ふなりと。其の歌儛は常人の歌儛に在らず。別つべきなり。(令集解・巻五)
養老令や延喜式にみられる隼人の任務としては、①朝廷における儀式への参加、②吠声を発すること、③竹器の製作にあたること、の三つに大別される(注6)。延喜式では、宮廷に仕える隼人は、元日即位の日や外国使節の入城、践祚大嘗祭に、応天門の外に異様ないでたちで立ち、赤い模様に飾られた楯と槍を持ち、吠声を発する決まりになっている。また、行幸に際しても、同行して国境や曲がり角で吠声を発することになっている。ハヤヒトという名から役割が整えられていっており、ハヤヒトという名ゆえに言い伝えにも反映したものとなっている(注7)。海幸山幸の話のなかで、最後に相手が屈服して仕えると誓ったとき、それを「隼人」の祖であるとし、「狗」とし、「俳優」としている。「隼人」、「狗」、「俳優」がヤマトコトバのなかで同一にカテゴライズされて納得が行っているのである。
是を以て火酢芹命の苗裔、諸の隼人等、今に至るまで天皇の宮墻の傍を離れずして、代に吠ゆる狗にして奉事る者なり。世人、失せたる針を債らざるは、此、其の縁なり。(神代紀第十段一書第二)
火照命 此は、隼人の阿多君が祖ぞ。(記上)
火闌降命は、即ち吾田君小橋等が本祖なり。(紀本文)
[火酢芹命ノ曰サク]「吾已に誤てり。今より以往は、吾が子孫の八十連属に、恒に汝の俳人と為らむ。一に云はく、狗人といふ。請はくは哀びたまへ」とまをす。(神代紀第十段一書第二)
[火酢芹命ノ曰サク]「……願はくは救ひたまへ。若し我を活けたまへらば、吾が生児の八十連属に、汝の垣辺を離れずして、俳優の民たらむ」とまをす。(同第四)
[火照命ノ]頓首きて白ししく、「僕は、今より以後、汝命の昼夜の守護人と為て仕へ奉らむ」とまをしき。故、今に至るまで其の溺れし時の種々の態絶えずして、仕へ奉るぞ。(記上)
海幸山幸の話の末尾で、ホノスセリが屈服した様子を「狗」に喩えている(注8)。狩りにおいては獣が捕獲されるが、その時、本来なら獣側にいるはずのイヌが人間側に立って働いている。人間に屈服し、恭順し、今後はずっと人間の役に立つようにすると誓っている。命じられるがままに地べたに腹をつけた「伏せ」の姿勢をとり、屈服を表明していると見受けられる。そして、儀式や行幸の際には、隼人が犬の吠声をたて、あるいは辟邪を司ったとされている。
…… 犬じもの 道に伏してや 命過ぎなむ一に云ふ、我が世過ぎなむ(万886、山上憶良)
……其の大県主、懼ぢ畏み、稽首きて白さく、「奴にし有れば、奴随ら覚らずして、過ち作れるは甚畏し。故、のみの御幣物を献らむ」とまをして、布を白き犬に縶け、鈴を著けて、己が族、名は腰佩と謂ふ人に、犬の縄を取らしめて献上りき。(雄略記)
冬十月の壬午の朔にして乙酉に、詔したまはく、「犬・馬・器翫、献上ること得じ」とのたまふ。(清寧紀三年十月)
新羅の王の献物は、馬二疋・犬三頭・鸚鵡二隻・鵲二隻及び種々物あり。(天武十四年五月)
雄略記の例のように、犬を献上することで、犬のように屈服、恭順していることを表明することがあった。鷹狩り用の犬も献上されていた(注9)。飼主の言いつけに従わない犬というのはいない。人に噛みついたり、狂犬病の犬は殺された。雑令に規定されるほか、厩庫律・幖幟羈絆条(逸文)に、「凡畜産及噬犬、有レ觚二蹹齧人、而幖幟羈絆不レ如レ法、若狂犬不レ殺者、笞卅、以レ故殺二傷人一者、以二過失一論、若故放令レ殺二‐傷人一者、減二闘殺傷一等一、即被レ雇療二畜産一、被レ倩者、同二過失法一及無レ故触レ之而被二殺傷一者、畜主不レ坐」とある。
この要件は、犬的な人である隼人にも当てはまる。履中即位前紀に、住吉仲皇子の「近く習へまつる隼人」が、ひそかに瑞歯別皇子から褒美をあげるといわれて主人を暗殺し、挙げ句の果て、自分の主君を殺すのはけしからんということで殺されている。主人や鷹を傷つけた犬は即刻殺されるということである。飼い犬に手をかまれるとの諺になっている。記では、「墨江中皇子に近く習へたる隼人、名は曾婆加理」といい、紀には、「近く習へまつる隼人有り。刺領巾と曰ふ。」と指定されている。
犬の躾には、他にも「お座り」、「お手」などいろいろあり、狩猟の際には野性をよみがえらせて吠えたり果敢に飛び跳ねてアタックしたりする(注10)。意のままに動くさまを舞と見立てたのが隼人舞である。
舞にはお囃子が付き物である。うまい具合に、ハヤヒトという名から囃すことが期待されている。お囃子をつかさどって、隼人は「俳優・俳人」となっている。お囃子がそうであるように、あちらからもこちらからも声があがるよう、元日や即位の際の儀式において左右に分かれて位置して「吠声」を発している。延喜式・隼人式に、「分陣二応天門外之左右一二、……今来隼人発二吠声一三節」とあるとおりである。そんな掛け合いがなされるのはまるで山にいるオオカミの遠吠えの掛け合いのようであり、猟犬、番犬である飼犬もつられて呼応したのだろう。まことにうまい形容であると認められよう。ヨバフ声を発していたわけである。
ヨバフは、ヨブ(喚)に反復、継続の動詞語尾フのついた形である。その際、聞かせるべき相手は必ずどこかにいる。くり返し大きな声をあげて相手に向って注意を向けさせようとしていたり、見えないけれど必ずいるはずの答えてくれるべき相手を探すように声をあげている。よく通る声でなければならない。崇峻前紀では、捕鳥部万が犬のように地に伏し、誰かまっとうに話のできる相手はいないかとヨバフことをしている。この話には万の飼っていた犬の話などがエピローグとして付いている(注11)。「犬(狗)」について深く考えられている。
隼人の 名に負ふ夜声 いちしろく 吾が名は告りつ 妻と恃ませ(万2497)
垣越しに 犬呼び越して 鳥狩する君 青山の 繁き山辺に 馬休め君(万1289)
隼人、多に来て方物を貢る。是の日に、大隅隼人と阿多隼人と、朝廷に相撲とる。大隅隼人勝つ。(天武紀十一年七月)
五月丁未の朔にして己未に、隼人大隅に饗へたまふ。丁卯に、隼人の相撲とるを西の槻の下に観る。(持統紀九年五月)
万2497番歌では原文に「早人」とあり、ハヤト、ハヤヒトという名に負うのが大きな夜声であるとしている。令集解・職員令にも、「已為レ犬、奉二‐仕人君一者、此則名二隼人一耳。」とある。隼人舞や犬の吠え声から囃す人のこと、敏捷で動作が速い、隼人舞のテンポの速いこととする説などがあげられている。しかし、犬の本義に近づいていない。猟犬として使うのは鷹狩においてである。鷹狩に使う隼は、猟犬同様、飼い主に忠実である。狩りで捕まえたのだから自分で食べてしまえばいいのに食べずにいる。感嘆に値するし、食べてしまったらお仕置きが怖いから食べられず彼らは嘆息しているように見える。嘆く時に使う助詞はハヤである。鷹狩には鷹、隼、鷲など猛禽類が使われるが、そのなかで隼は最も人に馴れやすく、ペット化しやすい。犬と同等である。
鷹狩に使う鷹(隼)を調教する際(「振替」)にも、ホッ、ホッと静かに、そして通るように鷹を呼ぶ。ワンワン(bow-wow)言ったら近づいてこない。ホォー(howl)と遠吠えする声のことを言っている。
番犬として考えた場合、ドーベルマンのように警護の役に就くことに整合性がある。警護のために使う道具は楯である。平城宮跡から隼人の楯は出土している。犬という存在は、主人の楯となって主人を守る楯の役割を果たす。猟犬の記憶、さらにはオオカミの記憶としては、主人以外の人に対して敵対行動をとり、飼犬が楯となって守るのである。その際、誰をご主人様と思うかによって拒絶する相手は変わってくる。延喜式・隼人司に、「凡元日即位及蕃客朝等儀、……」、「凡践祚大嘗日、……」、「凡遠従駕行者、……」、「凡行幸経宿者、……」などとある各条は、すべて天皇を主人として隼人が振る舞うために定められた条項である。
盾持ち人形埴輪(時塚1号墳出土、向日市文化資料館『発掘された京都の歴史2024』展展示品。盾、犬のような耳、入れ墨の特徴を持つ)
門番と考えるならそれは仁王に値する。大隅隼人と阿多隼人との二地域をあげたのは、左右(東西)に配置させるためで、力自慢の力士による天覧相撲が開かれている。九州南部の人の身長は低かったとされており、大相撲ではなく、犬相撲、闘犬に近い。ガードマンは通せん坊をする。入って来ようとするのを「否ぶ」ことをする。嫌がり拒むことは、古語で「拒ふ」ともいうから、「相撲」を取っている(注12)。
人がいちばん嘆くのは大切な人が亡くなった葬儀の時である。亡くなることは古語で「往ぬ」という(注13)。死ぬことは、姿が見えなくなることだから、婉曲的に死ぬことをイヌ(去・往)(万1809)と言い、人は死ぬとき横になって眠るような姿態をとる。だから、イヌという言葉が両方の意味を表していてわかりやすい。なにしろ、動詞イヌ(寝・去・往)を名詞のイヌ(犬)が体現している。イヌ(犬)がイヌ(去)ことをしたという例(桜井田部連膽渟の例、崇峻前紀用明二年七月)もある。まるで、辞書の用例として載っている一連の例文をもって一つの話にまとめられたかのようである。語学的にとても丁寧な解説となっている。ヤマトコトバはヤマトコトバをもってして、言葉を了解的に循環説明し、納得の域に達せしめている。わかりやすくておもしろくてためになる。そんな話(咄・噺・譚)が披露されている。何のための話なのかといった問いは、もはやナンセンスである。この件は辞書的説明が説話の形を整えたものである。イヌ(犬・寝・往)という言葉の本意を伝えるために話が成っている。
犬であるハヤヒトにも活躍の場が設けられている。隼人は殯に参列し、番犬の役割として警備に当たる。ゆえに守護人となって隼人司は衛門府に属している。忠犬よろしく殉死することもあったように描かれる(注14)。
三輪君逆、隼人をして殯庭を相距かしむ。(敏達紀十四年八月)
冬十月の癸巳の朔にして辛丑に、大泊瀬天皇を丹比高鷲原陵に葬りまつる。時に隼人、昼夜陵の側に哀号び、食を与へども喫はず、七日にして死ぬ。有司、墓を陵の北に造り、礼を以て葬す。(清寧元年十月)
犬は飼い主に忠実であるが、ホォー(howl)と遠吠えする声は何を言っているのかわからず、ただ嘆いているばかりに聞こえる。今日でも、愛犬が救急車のサイレンに反応して遠吠えを始めたら、飼い主は何が起こっているのか戸惑うばかりで、大丈夫だよと声をかけてなだめている。九州南部出身者の方言は、外国語に勝るとも劣らぬほどわからなかったといわれ、まるで犬の声のようであったというのは話のオチのようなことであるが、そこから翻って彼らをハヤヒトと名づけたかどうかはわからない。
止まり木上の鷹と沓脱板でお座り姿勢の犬(春日権現験記写、板橋貫雄模、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287498/1/7をトリミング)
以上のことごとを解釈する際、隼人の人たちがヤマトに恭順したことを記録するものであるとか、時代的に言っていつのことに当たるのか、ハヤヒトがいつからそう呼ばれ定められていったかについては問うことができない(注14)。ヤマト朝廷に服属していく仕方は他の周縁の民と同様であろう。たまたまハヤヒトという名を持っていたから、役回りとして上のようなことを担うように要請されたということだろう。それが語学的証明である。今日的な概念規定、例えば「服属儀礼」、「華夷思想」、「呪力」といった術語で考察しようとしても的外れである。
(注)
(注1)宮島1999.は彼らが海人族で、「執檝者」に速い人とする説を唱えている。
(注2)『鹿児島市史Ⅰ』が「いくらその語のもつ意味を正確にとらえたところで、大した意義はないように思う。」(100頁)、『鹿児島県史第一巻』が「ハヤに特種の意味を持たせる事は果して適当であらうか。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1261640/1/49、漢字の旧字体は改めた)という言い方に、中村氏は反発している。
(注3)幸田露伴の音幻論など、見るべきものがないわけではない。
(注4)樟葉の地名の由来について古事記は語っている。「皆迫め窘めらえて、屎出で、褌に懸る。故、其地を号けて屎褌と謂ふ。今は久須婆と謂ふ。」(崇神記)。
(注5)文字によらずにハヤヒトという言葉があるということは、歴史のない文化を発祥とするということであり、名義の始期を問うことは筋違いである。今日、歴史学では、天武朝からハヤヒトと呼ばれたとし、記紀の説話は後付けで創作された文飾であると考えられるに至っている。文献を歴史学的視座からしか見ていないとそうなる。記紀に書いてあることは話(咄・噺・譚)である。文字を持たずに言葉を操っていた話の時代があり、その話の言葉を文字に書き写して残そうとしたものである。言=事でなければ収拾がつかなくなるから、必ず言=事になるように話(咄・噺・譚)とした。嘘をつくことは固く戒められ、ありもしないことをでっちあげることは慎まれた。火のないところに煙が立つようなデマは伝えられることなくかき消されたであろう。情報化社会とは真逆で、基本的に人の口から口へ、一人から一人へしか伝達の術はなかったからである。その間の誰か一人でも覚えることをしなかったら、伝わることはないのである。積極的に相手に覚えさせようとするおもしろさこそが話(咄・噺・譚)を支えた命であった。
(注6)➂の竹器製作の理由については、拙稿「捕鳥部万と犬の物語について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/19cfc757c1bd6945f14dd710ed63dc08参照。
(注7)言い伝えが先か、条文が先かを問うことに関心が向かっているが、見当違いである。言葉として言い当てた時からすべては始まる。話としても法としても創られていく。
(注8)官憲の犬と言われるのは、昔は盗人として活躍していたが火付盗賊改に捕縛されて御用を聞くようになった者である。令集解に「朱云、凡此隼人者良人也。」とあるとおりである。
(注9)「貢上犬壱拾伍頭、起六月一日尽九月廿九日、并一百四十七日、単弐仟弐伯伍頭、食稲肆伯肆拾壱束、犬別二把」(正倉院文書・天平十年筑後国正税帳)と見える。
なかには貴族邸で完全に愛玩用に飼われていた犬もいたようである。『平成29年度平城宮跡資料館新春ミニ展示「平城京の戌」リーフレット』独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所https://sitereports.nabunken.go.jp/21939参照。
(注10)犬の動作については、それが飼犬である限りにおいて、人によって決められている。基本的な躾に従った動きが求められる。柳亭種彦・足薪翁記に「犬のさんた」のことが記されている。
犬にさんたせよ\/といへば、前足をあげとびつく事のありしが、他国はしらず。江戸にてさる戯をする者を見ず。手をくれといふが此餘波ともいはん歟。三太はでつち又小僧などいふ下童の通称なれば、かのでつちの狂ひまはるまなびをせよと云事なるべし。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2553925/1/63、漢字の旧字体は改めた)
(注11)拙稿「捕鳥部万と犬の物語について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/19cfc757c1bd6945f14dd710ed63dc08参照。物部守屋の「資人」という立場であるが、「犬」という言葉をよく写したものになっている。
(注12)佐佐木2007.は、「印南・否び・隠び・犬」は音が似通っていて、イメージとして連想される言葉であると指摘する。もちろん、実際の使用においては文脈に依存する。
(注13)寝ることは「寝ぬ」(下二段動詞)、死ぬことも「往ぬ」(ナ変動詞)である。
大原の 古りにし郷に 妹を置きて 吾寝ねかねつ 夢に見えこそ(万2587)
夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寐宿ねにけらしも(万1511)
…… 隠沼の 下延へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば ……(万1809)
後れ居て 吾はや恋ひむ 稲見野の 秋萩見つつ 去なむ子ゆゑに(万1772)
明日よりは 印南の川の 出でて去なば 留れる吾は 恋ひつつやあらむ(万3198)
固に当に遠く根国に適ね。(神代紀第五段本文)
(注14)殉死が盛んだった中国殷代の様子を白川2000.にみると、殷代の殉葬には、(a)身分関係の如何を問わず、王との親近関係によって、王の歿後においても、なおその側近にあることを要求される親信貴戚・武人・輿馬侍衛・包丁膳宰・𠬝・妾の類と、(b)専らその墓域を修祓潔斎する目的を以て、犬や牛羊とともに埋死された女子小人・閹寺、あるいは同様の目的を以て殉殺される羌・南等の外族犠牲の二種があるという。清寧紀元年十月条の記事は、犬牲の色彩を強くにじませた内容となっている。
(注15)文字言語のもとにある文明ではなく、無文字時代の口頭言語の文化の産物である。無文字文化に「歴史」はない。記憶と記録の違いである。(注5)参照。
なお、隼人が人間として従ったのではなく、犬の立場に立つ形で仕えたということから、南九州地方に古墳がないことを説明できるかもしれない。埴輪は殉死の代わりとして供えられたという考えが垂仁紀二十八・三十二年条に表れている。今日の歴史学では時代的に合わないこと、殉死の風はヤマトに顕著とは言えず実態を伴わないこと、埴輪の発祥は吉備の特殊器台から転じた円筒埴輪に求められ、形象埴輪を語る記述はあやしいことから、その記述は否定的にばかり見られている。しかし、埴輪とはすなわち古墳を造ることであると据えてみれば、古墳を造ることは殉死の代わりになることと定位することができる。隼人=犬を埋葬するのに、犬の墓に犠牲の犬を求めることは辻褄が合わないから、ヤマト朝廷は南九州の勢力には古墳を作らせることがなかったと理解できるのではないか。日本書紀の記述について、まだまだ感覚として読めていないところがあると感じさせられる。
(引用・参考文献)
伊藤2016. 伊藤循『古代天皇制と辺境』同成社、2016年。
『鹿児島県史第一巻』 『鹿児島県史第一巻』鹿児島県、昭和14年。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1261640)
『鹿児島市史Ⅰ』 鹿児島市史編さん委員会編『鹿児島市史Ⅰ』昭和44年。
熊谷2019. 熊谷公男「蝦夷・隼人と王権─隼人の奉仕形態を中心にして─」仁藤敦史編『古代王権の史実と虚構』竹林舎、2019年。
佐佐木2007. 佐佐木隆『日本の神話・伝説を読む』岩波書店(岩波新書)、2007年。
白川2000. 白川静「殷代の殉葬と奴隷制」『白川静著作集4』平凡社、2000年。
高林1977. 高林實結樹「隼人狗吠考」横田健一編『日本書紀研究 第十冊』塙書房、昭和52年。
中村1993. 中村明蔵『隼人と律令国家』名著出版、1993年。
中村1998. 中村明蔵『古代隼人社会の構造と展開』岩田書院、1998年。
永山2009. 永山修一『隼人と古代日本』同成社、2009年。
原口2018. 原口耕一郎『隼人と日本書紀』同成社、2018年。
前川1986. 前川明久「隼人狗吠伝承の成立」『日本古代氏族と王権の研究』法政大学出版局、1986年。
松井1995. 松井章「古代史のなかの犬」『文化財論叢Ⅱ』同朋舎出版、平成7年。
宮島1999. 宮島正人『海神宮訪問神話の研究─阿曇王権神話論─』和泉書院、1999年。
守屋1973. 守屋俊彦「隼人舞と犬吠え」『記紀神話論考』雄山閣、昭和48年。
※本稿は、2012年2月稿「隼人(はやと・はやひと)の名義は、助詞のハヤによく表れている」を大幅に書き改めたものである。