古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

四天王寺創建説話と白膠木のこと

2024年10月04日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 崇峻前紀に、物部守屋を攻め滅ぼす戦の場面がある。厩戸皇子は白膠木を四天王像に作って戦勝祈願をしている。これが四天王寺発願のこととされて今日でも議論の対象となっている。

 の時に、厩戸皇子うまやとのみこ束髪於額ひさごはなにして、いにしへひと年少児わらはの、年十五六とをあまりいつつむつの間は、束髪於額にし、十七八とをあまりななつやつの間は、分けて角子あげまきにす。今亦しかり。いくさうしろしたがへり。みづか忖度はかりてのたまはく、「はた、敗らるること無からむや。ちかひことあらずは成しがたけむ」とのたまふ。乃ち白膠木ぬりでり取りて、四天王してんわうみかたに作りて、頂髪たきふさに置きて、ちかひててのたまはく、白膠木、此には農利泥ぬりでといふ。「今し我をしてあたに勝たしめたまはば、必ず護世四王ごせしわう奉為みために、寺塔てら起立てむ」とのたまふ。蘇我馬子そがのうまこの大臣おほおみ、又誓を発ててはく、「おほよ諸天王しよてんわう大神王だいじんわうたち、我を助けまもりて、利益つことしめたまはば、願はくはまさに諸天と大神王との奉為に、寺塔を起立てて、三宝さむぽう流通つたへむ」といふ。ちかをはりて種々くさぐさいくさよそひて、進みて討伐つ。……みだれしづめてのちに、摂津国つのくににして、四天王寺してんわうじを造る。(是時、厩戸皇子、束髪於額、古俗、年少児、年十五六間、束髪於額、十七八間、分為角子。今亦為之。而随軍後。自忖度曰、将無見敗。非願難成。乃斮取白膠木、疾作四天皇像、置於頂髪、而発誓言、白膠木、此云農利泥。今若使我勝敵、必当奉為護世四王、起立寺塔。蘇我馬子大臣、又発誓言、凡諸天王・大神王等、助衛於我、使獲利益、願当奉為諸天与大神王、起立寺塔、流通三宝。誓已厳種々兵、而進討伐。……平乱之後、於摂津国、造四天王寺。)(崇峻前紀)

 この記述については、前後の文章と筆法が異なると指摘され、日本書紀の編纂の最終段階で挿入されたと考えられることがある。ただし、所詮は推測に過ぎず、根拠は薄弱である(注1)。日本書紀を編纂している人たちは、史上ほぼ初めて自分たちが使っている言葉を文字に書き起こしている。使っていた言葉とはヤマトコトバである。話し言葉としてあって上手に話していた。それを中国語に訳そうと漢文風に書いたのではなく、試しに漢文調で書いてみて、ヤマトコトバで理解できるように工夫している。ヤマトの人たちの間で通じればいいのであり、倭習と呼ばれる書き方は間違いではない。だからこそ、今日の我々でも理解できる。
 森2002.は、㋑「今亦然。」、㋺「成。」、㋩「蘇我馬子大臣発誓言、」、㋥「助衛我使獲利益、」、㋭「誓已種種、而進討伐○○。」が倭習、筆癖、潤色箇所であると指摘している。㋭は、小島1962.が、金光明最勝王経・護国品の「、発向彼国、欲為討伐○○。」によるものであろう(467頁)と推測する箇所である。
 金光明最勝王経の義浄訳は703年に成ったから、それ以降に書かれたもの、つまり、この文章全体はすべて後から付け足されたものと決めつけている。しかし、清書する前の段階であれば何段階でも書き足すことは可能であり、この文章がまるごといっときに追加されたものなのかわからない。もとより、金光明最勝王経に依った文飾と、「又」は「亦」でなければならないとチェックする採点とでは次元を異にする。可能性の問題として、㋑〜㋥は日本書紀の種本となる「天皇記すめらみことのふみ国記くにつふみ」(皇極紀四年六月)にそう書いてあったからそのまま引き写し、㋭に関してのみ後に潤色したということも考えられる。日本書紀は、すべからく日本書紀区分論を反映して書かれていなければならないと考えるのは本末転倒な研究姿勢である。
 それ以上に困ったことに、文章の印象から後に加えられたものであるとする議論がある。榊原2024.は、「その内容は、物語性が強く、不自然で、いかにも説話的であり、創作されたものであろう。当時の人々の間で自然に発生した伝承ではないと思われる。これまでの研究においても、崇峻即位前紀七月条……の[四天王寺]創建説話に記された内容は、歴史的な事実とは考えられず、創作された説話だとする見解が繰り返し提示されてきた。」(311~312頁)としている。
 断っておきたいのは、日本書紀に書いてあることをもって四天王寺の創建説話ととることは、日本書紀の本意ではない点である。日本書紀に書いてあることは、崇峻前紀であれば崇峻天皇が即位する前にどんなことがあったかということである。四天王寺が自らの創建を日本書紀に求めることはかまわないが、その逆ではない。また、榊原氏の言う「物語性」、「不自然」、「説話的」、「創作されたもの」という位置づけにおいて、それはいわゆる「歴史的な事実」とは相容れないものとして低い評価しか与えられていない。その底流には近代の価値観があるのだが、それで上代の文献を切り取ろうとしても豊かな成果は得られないだろう。なにしろ、日本書紀に書いてあることはヤマトコトバであり、話し言葉である。当時伝えられていた言葉は話し言葉として伝わっている。物語的、説話的、創作的であることのほうが自然である(注2)
 義浄訳金光明最勝王経に依っているとする説では、「護世四王」と「白膠」という文字面を気にしている。「護世四王」という言い方は他の仏典にも見えるが、「白膠」は義浄訳金光明最勝王経を待たなければ現れず、厩戸皇子の所作と祈願はその渡来以降に創られた話なのだとされている。「白膠木で四天王像を作ったという記述も、[仏教伝来記事]同様に『金光明最勝王経』の思想と用語に基づいて記述されたものとしてよいだろう。」(吉田2012.101頁)という。
 この議論はおかしい。義浄訳金光明最勝王経に出てくる「白膠」は、洗浴の法として香薬を三十二味を取れと言っている中の一つである。「牛黄」、「松脂」、「沈香」、「栴檀」、「丁子」、「鬱金」などに混じり、「白膠 〈薩折羅婆〉」とある。西大寺本金光明最勝王経においては、「膠」字にカウと白点(平安初期点)が付けられいる(巻七・金光明最勝王経大弁財天女品第十五、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1885585/1/72)。つまり、この「白膠」はビャクカウのように読まれるものである。
 白膠は、鹿の角などから得られる香材である(注3)

 白膠 味甘平、温無毒。主傷中労絶、腰痛、羸瘦、補中益気、婦人血閉無子、止痛安胎。療、吐血下血、崩中不止、四肢酸疼、多汗淋露、折跌傷損。久服軽身延年。一名鹿角膠。生雲中、煮鹿角作之。得火良、畏大黃。/今人少復煮作、惟合角弓、猶言用此膠爾。方薬用亦稀、道家時又須之。作白膠法、先以米瀋汁、漬七日令軟、然後煮煎之、如作阿膠法爾。又一法、即細剉角、与一片乾牛皮、角即消爛矣、不爾相厭、百年無一熟也。(陶弘景・本草経集注)
 白膠 一名鹿角膠。和名加乃都乃々爾加波かのつののにかは(本草和名)

 金光明最勝王経の「白膠」は、植物のヌルデ(白膠木)とは無関係である。字面として「白膠」が義浄訳の金光明最勝王経に見えるからと言って、それをもとにヌルデの木のことを崇峻前紀で「白膠木」と書いたとは決められない。すでに本草経集注にも見えている(注4)
 ヌルデの木のことは、新撰字鏡に、「檡 舒赤・徒格二反。正善也、梬棗也。奴利天ぬりで木也。」、和名抄に、「㯉 陸詞切韻に云はく、㯉〈勅居反、本草に沼天ぬでと云ふ〉は悪しき木なりといふ。弁色立成に白膠木と云ふ。〈和名は上に同じ〉」とある。「㯉」は「樗」の異体字である。医心方には、「樗鷄 和名奴天乃支乃牟之ぬでのきのむし」とある。ヌルデの木についた虫こぶが、鶏冠のような形状を示していたからこのように書かれたものと推測される(注5)
ヌルデの虫こぶ
 ヌルデの木を材として仏像彫刻とした例は知られない。ウルシ科の落葉高木で、樹液は白く、塗料や接着剤に活用が可能であった。塗る材料の意を表してヌリデと称したというのは合っていると思われる。わざわざ皮膚がかぶれかねないウルシ科の木材を使って彫像することはない。そんなヌルデ(古名ヌリデ)を漢字表記するのに、樹液が白くて膠のような性質を帯びているからということで「白膠木」と記すことに特段の不思議はない。筆者は、厩戸皇子は、ヌルデの虫こぶが膨らんでいるのを四天王像に見立てたものと考えている(注6)。ヌルデの木に注目が行って実用としているのは、医心方にあるとおりその虫こぶであったと考えられる。虫こぶからは付子ふし(五倍子)が取れ、薬用のほか、黒色の染料として用いられた。太子はヌルデの虫こぶを斮り取って彫像しつつ付子によって髪の毛の薄いのを誤魔化すことをしていた。最終的に摂津の国に四天王寺を建立することになったのは、付子はお歯黒に用いられたからで、口の中にはがいっぱいだから、ふさわしいのはツの国だということに相成ったのだろう。ヤマトの人は母語であるヤマトコトバでものを考えている。
 崇峻前紀に記されている「白膠木ぬりで」は話の素材として欠かせないものである。話し言葉のヤマトコトバにとてもよくマッチした話(咄・噺・譚)に仕上がっている。現代の歴史研究者は、古代の人のものの考え方に近寄ろうとしてせず、独りよがりな議論を展開して学と成している。

(注)
(注1)文字(漢字)の使用法をもってすべてがわかるほど、書かれた文章が言葉の多くを占めているわけではない。また、程度の問題としても、書いてあることからわかることは、書くことに慣れた近現代人よりもずっとわずかなことしか理解されないことを悟らなければならない。
(注2)「歴史」は書き言葉、文字によって作られた。ヘロドトス『歴史』、司馬遷『史記』のようにである。日本書紀は言い伝え、すなわち、話し言葉を基礎とする言葉を文字に落とし込もうとして、漢籍の字面を応用している。出典研究が行われて久しいが、典拠として新たに物語ろうとして創作された文章は必ずしも多くはない。なぜなら、書き残そうとしていることはヤマトの昔のことで、中国の思想的背景は脈絡に合わなくなるからである。それらは近代の価値観に基づく歴史的事実ではないかもしれないが、話(咄・噺・譚)として一話完結で成り立っていて、当時の人々の間で自然に発生した伝承である可能性がきわめて高いと考えられる。おもしろくなければ誰も語り継ごうとしないものである。
(注3)満久1977.によれば、中国や日本にはインドボダイジュやウドンゲノキがないから、日本の真言宗ではヌルデが護摩木に代用されたという。白い汁が出る木をもって代えて使うようにと仏典に指示があるという(139頁)。ヌルデは香木というわけではなく、和名抄に「悪木」扱いされているから、吉田2012.が推測するように霊木であったとも考えられない。新修本草にある楓香脂の一名に白膠香ビャクキョウコウとあるが、フウの樹脂を基原とするという(木下2017.307頁)。
(注4)久米邦武・上宮太子実録に、「四天王像の原料白膠木・・・は、倭名ヌリテ、異名を勝軍木という、香脂にして木材にはあらず。本草綱目に楓香脂、一 ハ白膠香とあり、李時珍の註に、 ニ香楓、金光明 ニ其香須薩折羅婆香、即此木謂漆也とある、脂といひ、にへといひ、漆といふ、今ならばゴム質といふべき物なり。其香膠にて作りたる小き像によりて、四天王寺の大伽藍を起せりとは一笑談なれど、勝軍木にちなみたる落想なるべし。釈日本紀に、白膠木(ぬりての木)私記曰、大政殿下 テ曰、白膠木之意如何、 シ云、師説不たしか其後問 ノ有識、或 フ白膠者甚有霊之木也、故修法之壇、取此木乳而塗用也、或 ニ仏之心[]入 ハ此木、取 ルニ_霊、及不朽乎、 ハ華山僧 ノ諸儀軌之文説とあれば、亦有霊の意にも取たるなり。要するに白膠は仏像に塗る用にして、仏像を刻むべき原料にあらず。俗に赤旃壇シヤクセンダンの霊木と称ふるも、此楓香脂を誤認したるにてあるべし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/780770/1/74、漢字の旧字体は改めた)とあり、これを受けて村田1966.は、「勝軍木または呪薬香だから用いたことが察せられる。」とし、「白膠については北涼曇無讖訳『金光明経』になく、隋釈宝貴の「合部金光明経大弁天品第十二「一切悪障悉得除滅……是故我説呪薬之法……白膠香」とあり、義浄訳『金光明最勝王経』大弁才天女品第十五 「如是諸悪為障難者、悉令除滅……当取香薬三十二味、所謂…白膠〈薩折羅婆〉 」とある。」(76頁)と註している。
(注5)いずれも我が国独自の用字であるという。木下2017.150頁参照。
(注6)「乃斮‐取白膠木四天皇像、」とあり、すぐにできあがっている。拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について 其の一」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/bc11138c06bb67c231004b41fc7222bc参照。そこではヌルデの虫こぶ一つを四面の像とも仮定したが、虫こぶは鈴なりに成ることがあるから、一枝に四つできた虫こぶを「四天王」だと洒落て見立てたということかもしれない。戦にあっては、あまりの緊張から萎縮することがある。それを除くためには適度のリラックスが必要であり、厩戸皇子は自らおどけながら仏法による加護が得られることを期待してみせて、軍勢に対して安心感を与えつつ鼓舞することにも成功している、そういう話であると考える。

(引用・参考文献)
春日1969. 春日政治『西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究』勉誠社、昭和44年。
木下2017. 木下武司『和漢古典植物名精解』和泉書院、2017年。
小島1962. 小島憲之『上代日本文学と中国文学 上─出典論を中心とする比較文学的考察─』塙書房、昭和37年。
榊原2024. 榊原史子「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建─「厩戸皇子」像の検討─」小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』雄山閣、令和6年。
本草経集注 陶弘景校注『本草経集注』南大阪印刷センター、昭和47年。
満久1977. 満久崇麿『仏典の植物』八坂書房、1977年。
村田1966. 村田治郎「四天王寺創立史の諸問題」『聖徳太子研究』第2号、昭和41年5月。
森2005. 森博達「聖徳太子伝説と用明・崇峻紀の成立過程─日本書紀劄紀・その一─」『東アジアの古代文化』122号、2005年2月。
吉田2012. 吉田一彦『仏教伝来の研究』吉川弘文館、2012年。

龍(たつ)という語について

2024年09月23日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 中国から伝わった龍(竜)は、なぜかタツと訓まれることがある。地名「龍田たつた」に当てられることも多い。空想上の生き物としてのタツは万葉集の例(注1)が名高く、日本書紀にも「龍」は見える。

  して来書らいしよかたじけなみ、つぶさ芳旨ほうしうけたまはる。たちまち隔漢かくかんの恋を成し、また抱梁はうりやうこころを傷ましむ。ただねがはくは、去留きよりうつつみ無く、遂に披雲ひうんを待たまくのみ。〔伏辱来書具承芳旨忽成隔漢之戀復傷抱梁之意唯羨去留無恙遂待披雲耳〕(中略)
 たつも 今も得てしか あをによし 奈良の都に きてむため〔多都能馬母伊麻勿愛弖之可阿遠尓与志奈良乃美夜古尓由吉帝己牟丹米〕(万806)(中略)
 龍の馬を あれは求めむ あをによし 奈良の都に む人のたに〔多都乃麻乎阿礼波毛等米牟阿遠尓与志奈良乃美夜古邇許牟比等乃多仁〕(万808)(後略)
 豊玉姫とよたまびめみざかりこうまむときにたつ化為りぬ。(神代紀第十段本文)(注2)
 大将軍紀小弓宿禰、たつのごとくあがり、とらのごとくて、あまね八維やもる。(雄略紀九年五月)
 其の馬、時に濩略もこよかにして、たつのごとくにぶ。(雄略紀九年七月)
 さかりいたりておほとりのごとくのぼり、たつのごとくひひり、ともがらことたむらえたり。(欽明紀七年七月)
 大鷦鷯帝おほさざきのみかどの時、龍馬りゆうめ西に見ゆ。(白雉元年二月)(注3)
 ……空中おほぞらのなかにしてたつに乗れる者有り。……西に向ひて馳せぬ。(斉明紀元年五月)

 想像上の動物である「龍」は中国で考えられていたものである。日本で昔ながらのものとしてヤマタノヲロチや、ヤヒロワニ、クラオカミ、クラミツハは龍に似ていると思われているが、「龍」字を当てることも、○○タツと呼ばれることもない。万葉歌や雄略紀、斉明紀の例に見られるタツは、空を飛び駆ける馬のような存在として認識されている。トヨタマビメがお産のときに変じていたという「龍」については、古事記や紀一書第一・第三ではヤヒロワニになっていたとされている。
 「龍」は天駆ける馬であり、それをヤマトコトバでタツと造語している。どうしてそう命名したか、ながらく疑問とされている。説として、身を立てて天にのぼるところからタツ(立・起)と言ったのだろうという説が古くから行われている。瀬間2024.は説文、玉篇、易経、管子などを渉猟し、龍に「身を立つ」に相当する記述はないと指摘し、漢字の一部を取って訓としたという説を提示している。「龍(竜)」字のなかに「立」字があるからタツと命名した字形訓であるという(注4)
 この説は興味深いものだが、なかなかにあり得ない。なぜなら、その字を知らない人にとっては何を言っているのかわからないからである。
 虎についても日本には生息していないが、話に頭が大きくて揺らしながら歩くネコのような生き物だと伝えられた。毛皮を見せながら説明されたのだろう。それをコと言っても誰にも通じないから、頭を揺らしては時折大声を張り上げる生態の生き物のことを連想している。酔っ払いである。彼らは「とらかせる」状態にあるから、トラと命名している。酔っぱらいのことを指してオオトラというのは、tiger に先んじて考えられていた言葉ということである。
 龍という生き物は天駆ける馬のことだと考えている。もちろん、天駆けるような horse がいて駿馬だとありがたがられていても、実際に天駆ける horse というものはいない。つまり、龍は龍であり、馬は馬である。天上を駆けるのと地上を駆けるのとで種類は別である。
 この間の事情を物語る逸話を紹介する。
 列仙伝の馬師皇に次のようにあり、賛が付いている(注5)

 馬師皇者、黄帝時馬医也。知馬形気生死之診、治之輒愈。後有龍下向之、垂耳張口。皇曰、此龍有病、知我能治。乃鍼其唇下口中、以甘草湯飲之而愈。後数数有疾龍出其波、告而求治之。一且龍負皇而去。
  師皇典馬 厩無残駟 精感群龍 術兼殊類 霊虬報徳 弭鱗御轡 振躍天漢 粲有遺蔚

 黄帝の時に名獣医がいた。その馬師皇に診てもらった馬は必ず良くなった。そうしているうちに、龍が空から下ってきた。皇は龍が病気だと言い、鍼治療をし薬を与えた。口コミで龍がたくさん訪れるようになり、治してやっていた。ある日、龍は皇を背に乗せてどこかへ行ってしまった。そういう話である。
 賛の部分をいま仮に訓む。

 師皇 馬をつかさどるに、うまやに残れるくるま無し。群れる龍をくはしくるに、すべ兼ねてたぐひつ。くすしきみづち いきほひこたへ、いろこととのくつわらしむ。 天漢あまのがはおどりて、しらげてのこせるよもぎ有り(注6)
馬師皇(王世貞撰・有象列仙全傳、京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ(公開)https://www.archives.kyoto.jp/websearchpe/detail?cls=152_old_books_catalog&pkey=0000002438、1-28をトリミング)
 馬を診るのと龍を診るのとでは種類が違うのだから、馬医ではなく龍医でなくてはならないはずである。もちろん、龍は空想上の動物であり、龍医という職業はない。たぐいまれな馬医であった師皇の医術は、馬にも龍にも通じ兼ねたものであって、種類の分け隔てを断つものであった。
 この逸話がどれほどヤマトの人に知られていたかは定かではない。ただ、「たつの馬」と歌にいきなり歌われるぐらいだから、龍とは馬と近類だと考えられていたことは確かである。筆者が列仙伝のこの賛に注目したのは、「つ」というヤマトコトバゆえである。「殊儛たつづのまひ」という舞がある。大系本日本書紀は、「タツヅはタツイヅの約であろうか。立つのと、進むのとを合わせいう語か。殊は断(たつ)の意があるために、立つに通用させたものか。」(111頁)と注している。

 小楯をだてかたりて曰はく、「可怜おもしろし。願はくはまた聞かむ」といふ。天皇、遂に殊儛たづつのまひ〈殊儛、古に立出儛たつづのまひと謂ふ。立出、此には陀豆豆たつづと云ふ。かたちは、あるいはち乍いはて儛ふなり。〉たまふ。たけびてのたまはく、
 やまとは そそ茅原ちはら浅茅原あさちはら 弟日おとひやつこらま。
 小楯、是に由りて深く奇異あやしぶ。更にはしむ。天皇、誥びて曰はく、
 石上いそのかみ ふる神榲かむすぎ〈榲、此には須擬すぎと云ふ。〉もとり すゑおしはらひ、〈伐本截末、此には謨登岐利もときり須衛於茲婆羅比すゑおしはらひと云ふ。〉市辺宮いちのへのみやに 天下あめのしたしらしし、天万あめよろづ国万くによろづ押磐尊おしはのみこと御裔みあなすゑやつこらま。(顕宗前紀)

 「殊儛たづつのまひ」は龍の舞をイメージしているのであろう。「殊」という字をあえて用いているのは、ふだんの舞い方と類を異にしているのに一類に入れて「舞(儛)」であると言っていることを込めている言葉であることを示そうとしているからであろう。現在の市川團十郎(十三代)が高校在籍中、授業のダンスがうまくできず、「先生、舞えません」と訴えていたという。ダンスは舞ではない。長崎くんちの龍踊に見られるように、龍は日本舞踊のように腰を低くし続けるものとは違い、竿を使って上下動をくり返す踊りである。
 以上、「龍」は、言葉の範疇として、馬と近縁性を持ちつつ類を殊にすることをもってうまいこと立つことを示すようにヤマトコトバにうつしとられ、タツと呼ばれるようになったのではないかと考えられることを述べた。むろん、了解されるという次元のことであり、語源を正したというものではない。

(注)
(注1)拙稿「万葉集の「龍の馬(たつのま)」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/d8777a3302a4f3fb5bf68d8b6fab7396参照。
(注2)他書では八尋わになどに変じている。ここで龍を登場させた理由は不明であるが、お産の苦しみにおいて腹這ひもがくようにではなく、踊るようにもがいていたと表したかったからかもしれない。
(注3)この例では中国の祥瑞記事に倣い、音読みされる。
(注4)161〜163頁。宮崎1929.に、「糴」をイリヨネ、「莣」をワスレグサ、「禾(芒)」をノギと訓む例をあげている。それと同様に考えようというのであるが、ノギははたしてノという片仮名が生まれた後、はじめて使われた語なのだろうか。古事記には「頃者このころ赤海鯽魚たひのみどのぎありて、物を食はずとうれへ言へり。」(記上)とある。
(注5)国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/300051310(12 of 58)参照。日本国見在書目録の雑伝の最後に「列仙伝三巻〈劉向撰〉」 と記載されている。
(注6)「天漢」は万806番歌の題詞にある「隔漢之恋」と通じている。天の川は、空中をも水中をも進む龍を表すのにうってつけの舞台である。

(引用・参考文献)
瀬間2024. 瀬間正之「漢字が変えた日本語─別訓流用・字注訓・字形訓の観点から─」『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。(『日本語学』第41巻第2号、2022年夏。)
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(三)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
宮崎1929. 宮崎道三郎「漢字の別訓流用と古代に於ける我邦制度上の用語」『宮崎先生法制史論集』岩波書店、昭和4年。

応神二十八年条の高句麗上表文について─「教」(ヲシフ)字を中心に─

2024年09月16日 | 古事記・日本書紀・万葉集
応神二十八年条の高句麗上表文について─「教」(ヲシフ)字を中心に─

 

 日本書紀に、高麗から朝貢の使節がやってきたが、そのときに持ってきた文書を読んで、菟道稚郎子は礼儀知らずと言って怒り、破り捨ててしまったという話が載る。
 はじめに問題とする日本書紀の箇所を示す。

 廿八年秋九月、高麗王遣使朝貢。因以上表。其表曰、高麗王教日本國也。時太子菟道稚郎子讀其表、怒之責高麗之使、以表狀無禮、則破其表。(応神紀二十八年九月)

 これを古訓に従いながら次のように訓んでいる(注1)

 二十八年の秋九月ながつきに、高麗こまこきし使つかひまだして朝貢みつきたてまつる。りてふみたてまつれり。其の表にまをさく、「高麗の王、日本国やまとのくにをしふ」とまをす。時に太子ひつぎのみこ菟道稚郎子うぢのわきいらつこ、其の表を読みて、いかりて、高麗の使をむるに、表のかたちゐやきことを以てして、すなはち其の表をやりすつ。(応神紀二十八年九月)

 何が問題となるかというと、本当にそのようなことはあったのかということと、「教」という字をヲシフと訓むのが正しいのかということである。
 当時の東アジア情勢をかんがみた時、本当にそのようなことがあったのか疑問視されている。「五世紀前半の高句麗は好太王・長寿王父子の治政で、日本とは常に敵対関係にあり、日本に対する朝貢や上表の事実があったとは考えられない。」(大系本日本書紀215頁)、「五世紀前半のこととするならば、『三国史記』によれば、高句麗は広開土王(三九二~四一三)・長寿王(四一三~四九一)父子の治政で、日本への朝貢や上表は疑問。」(新編全集本日本書紀492頁)、「「教日本国」との表文が問題になったという話が中心記事であり、目的は太子菟道稚郎子の識見を称讃するにある。表文に日本国などとある筈がなく、高麗使の来朝も史実と見做し難い。撰者の造作と見る外はない。」(三品1962.253頁)などとある。
 撰者の造作であるとして、ならばどうしてそのような造作が行われているのかが次の課題として浮かび上がる。字が読めたら偉いのか、称讃に値するものなのか、筆者は年々疑問に思うことが増えている。この応神紀の文章も、菟道稚郎子が上表文を読んで高麗の使者に無礼であると叱責して破り捨てたというだけである。称讃の話と捉えることはできない。
 そこで関わってくるのが、もうひとつの疑問、「教」をヲシフと訓むので正しいのかという点である。
 菟道稚郎子が上表文を読んでいることは疑い得ない。読んで意味がわかるということは、まずまず日本語として読んでいるということになる。本居宣長・漢字三音考に、「彼皇子ノサバカリ ク了達シタマヒテ。同御世ニ高麗国王ヨリ使ヲ奉遣マダセシ時ニ。其表ヲ読タマフニ。無礼ナル詞ノアリシニヨリテ。其使ヲセメタマヒシヿナドモ見エタレバ。当時ソノカミ既二此方ニテ読ベキ音モ訓モ定マレリシナリ。 シ音訓ナクバ。イカデカ ク読テ其表文ノ無礼ナルヲ弁へ リタマフバカリニハ了解サトリタマハム。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200002911/16?ln=ja)とある。どこが「無礼」なのかといえば、「高麗王教日本國也」としか書いてないから「教」字によるのだろうと思われている。
 伝本の「教」字付近には、熱田本、北野本、兼右本、内閣文庫本、徳久邇文庫本、寛文版本の傍訓に「ヲシフト云」とある。仮名日本紀、谷川士清・日本書紀通証、河村秀根・書紀集解もヲシフとしている。飯田武郷・日本書紀通釈では、別の箇所の古訓から「ノル」と訓むのがよいと述べている(注2)。瀬間2001.は「ミコトノル」がよいとしている。瀬間氏は多方面から考察し、論拠を確かにしようと努めている。まず、中国周辺諸国での「教」字の意味合いについての検討があり、朝鮮半島やベトナムなどでは「詔」字は中国皇帝以外に認められていないから用いられておらず、それに代えて「教」字を使用していると考証する。次いで日本書紀での「教」字の例について調査している。そのなかに、ミコトノリ、ミコトという古訓が見られるから、当該応神紀二十八年条はミコトノルと訓むべきであろうと述べている(注3)
 瀬間氏は、述作者が「教」字の半島での使い方をよく知っていて、それをここに当て嵌めて詔勅を下している表現とし、そのことに菟道稚郎子が気づいたから「無礼」であると言っているのだとしているようである(注4)。高麗の王様が日本国に対して詔ることをしているとなると、高麗王は日本国をも支配しているということになり、国のメンツを潰そうとしていることになるから親善外交とは言えないというわけである。
 とはいえ、そう訓んだところで完全には疑問は解消しない。高麗王は日本国に何とミコトノってきているのかわからない。王様が話をすることをヤマトコトバにミコトノルというだけのことではないのか。日本国の庶民はミコトノルことをしないが、天皇は妻子にひそひそ話をする場合もミコトノルと言っていて、日本書紀では中国皇帝が使うように平気で「詔」字を使っている。高麗王が喋りたいのであればいくらでもミコトノってくれてかまわないような気もするし、確実にミコトノルと訓ませたいのなら、「高麗王日本國也」と書けばいいだろう。日本書紀述作者は朝鮮半島での文字使用をよく心得ていたから「教」字を用いているのだと言えばそのとおりなのだが、そんなことを言わんがために、当時、没交渉ともいえる高麗を持ち出している理由はどこにあるのだろうか。
 また、ヲシフという訓み方であっても、立場的に上位者が下位者に対してすることに当たる(注5)。白川1995.に、「ことに対処する方法を告げ知らせる。また誤りを正して指導し、あるいは知識や技芸を人に伝えることをいう。……いくらか強制の意を含むものであるから、「をさむ」との関係などが考えられよう。」(821頁)とある。たとえ知識や技芸の上だけであったとしても、そこに相手を見下している意識がないかといえばやはり存在する。そして、「教」字は「勅」や「詔」と互換可能であることを知っていて適用されたのだとも考えられはする。とはいえ、上下の分別を欠いているから菟道稚郎子は怒ったのだとしても、そんなことを言うために史実にないことをでっちあげ、フェイクニュースを流した動機は奈辺にあるのだろうか。

 

 漢字ばかりで書かれている日本書紀の巻第十に55文字紛れ込ませている。日本書紀述作者は何がしたいのか。
 高麗との外交文書記事には興味深いやりとりがある。敏達紀に、高麗からの外交文書を王辰爾だけが読み解いたという話が載っている。

 丙辰に、天皇、高麗こま表䟽ふみを執りたまひて、大臣に授けたまふ。諸のふひとを召しつどへて読み解かしむ。是の時に、諸の史、三日みかの内に皆読むこと能はず。爰に船史ふねのふひとおや王辰爾わうじんに有りて、能く読み釈きつかへまつる。是に由りて、天皇と大臣と倶に為讃美めたまひて曰はく、「いそしきかな辰爾、きかな辰爾。いまし、若しまなぶことをこのまざらましかば、誰か能く読み解かまし。今より始めて、殿のうち近侍はべれ」とのたまふ。既にして、東西やまとかふちの諸の史に詔して曰はく、「汝等、習へるわざ、何故からざる。汝等おほしと雖も、辰爾にかず」とのたまふ。又、高麗のたてまつれる表䟽ふみ、烏のに書けり。、羽の黒きままに、既にひと無し。辰爾、乃ち羽をいひに蒸して、ねりきぬを以て羽にし、ことごとくに其の字を写す。朝庭みかどのうちふつくあやしがる。(敏達紀元年五月)

 この話が史実によるものかここでは問わない。文の前半は、高麗(高句麗)の表䟽を諸史に読み解かせたが、三日経っても誰も読むことができず、船史の祖である王辰爾のみ能く読み釈いた。天皇と大臣はともに讃めて、お前が学ぶことをしていなかったら誰も読み解けなかっただろう、今後は殿中に近侍せよ、と言い、他方、東西の諸史に対しては、お前たちが習っているワザはどうして身についていないのか、多数いても王辰爾一人に負けているではないか、と言っている。
 文の後半は、高句麗の表䟽は烏の羽に書いてあり、文字は羽の黒さにまぎれて識別できる者がいなかった。王辰爾は、羽を飯炊きの蒸気にあてて布帛を羽に押し当て、ものの見事に写し取った。朝庭の人たちは皆あやしがった、と言っている(注6)
 これらの不思議な話は、高麗の表䟽ふみに関してのもので、同様の事象がすでに応神紀のふみの記事に示されているということらしい。敏達紀の表䟽は手紙であり、草書で書かれるのが大陸の習慣となっていた。楷書や隷書ばかりに慣れ親しんでいた東西諸史には判読できなかったが、王辰爾は読むことができた。草書を読むためにはその書き方の癖のようなものを知らないといけないから、王辰爾はすでに草書を目にしていた、あるいは隷書を自分で速書きしていたのであろう。王辰爾は「学」んでいたが、東西諸史は「習」うことしかしていなかったと日本書紀は語っている。両者の違いを表す示唆深い話をしている。この箇所でも大陸の表䟽ふみの手法を知っていて話が作られている。応神紀で大陸での「教」という字の使用法を知っていたというのと同様の作りになっている。
 すなわち、烏の羽に字を書いたという記事と、この菟道稚郎子がゐや無しと思った記事とはモチーフとして通じるところがあるということである。史実としてではなく、述作者の話術としてである。
 烏の羽が持ち出されているのは、それが鳥だからと考えられる。書いてあるはずなのはフミである。ヤマトコトバに文字のことをフミという理由については、早く釈日本紀・巻第十六・秘訓一に解釈が載る。「○問。書字乃訓於不美フミ読。其由如何。○答。師説。昔新羅所上之表。其言詞太不敬。仍怒擲地而踏。自其後訓云不美フミ也。今案。蒼頡見鳥踏地而所往之跡文字不美フミ云訓依此而起歟。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/379)である。鳥の足跡説の、踏むからフミであるという説が広まっていたとすれば、上書きして文字の読み取れない黒い対象物にふさわしいものとして烏の羽は捉えられたと考えられる。「烏」字と「鳥」字とを違えた理由は、全身黒いカラスに目を入れずに表したものという説はよく知られている。
 何と書いてあるのかよくわからないとは、どう言っているのかよくわからないということである。「ひ」(ヒは甲類)がわかるために「いひ」(ヒは甲類)の気を用いて対処している。口にするもの、口にすることをイヒ(飯・言)と言っていて、両語は同根の語と考えられている。相手が「烏」なのだから「枯らす」ことが問題だと知って蒸気によって湿らせている。目には目を、歯には歯を、で知るところとなっている。そのワザは「写す」ことである。文字は書き写すことをもって伝えられるものであった。白川1995.は、「しやはもと寫に作り、べんせきとに従う。宀は廟屋、舃は儀礼のときに用いるくつでその象形字。〔説文〕七下に「物を置くなり」とし、形声とする。〔玉篇〕に「盡く」「除く」の訓がある。履をぬぐので除の訓があり、すべてものを他の器に移すことを寫という。」(154~155頁)と解説する。すなわち、写したら鳥の足の形そのものではないが、ゲソ痕がバレて犯人の名(「」)はわかるのである。
 説文はまた、「吐 寫なり。口に从ひ土声」ともする。吐瀉の意である。ヤマトコトバにハクである。shoes もなぜか知らないが、ハク(履)ものである。取調室で吐いた言葉が自供である。「いひ」と「ひ」とが同根であるように、口から出すもの、出すこととしてハクという語もこじつけて考えられたらしい。ハク(吐)とハク(履)とに通じるところがあるという意味である。ハク(吐)ことが「寫(写)」だと舶来の権威ある字書に定義されているのを参考にして、ハク(履)ものだと推定して行ったわけである。もたらされた「表䟽ふみ」は「高麗こま」からのものである。「高麗こま」は「こまこま)」と同音であったと考える。「こま」は子馬こうまの約である。「表䟽ふみ」は「み」と同音で、関連づけられて思われていた(注7)。馬が足に履くものは、馬の草鞋わらじである。草を編んで作る。したがって、コマのフミは草なのである。草書体で書かれていたことの裏が取れた。
 これらはヤマトコトバにおいてのみ理解可能な頓智、なぞなぞである。ヤマトコトバ的思考のなせるワザである。菟道稚郎子の時の上表についても同じように捻られていると予想される。

 

 「高麗王教日本國也」の「教」はミコトノリの意味ではあるが、そう訓んでは身も蓋もない。「教」はヲシフと訓んではじめてヤマトコトバとして意味が通じる。ヲシフとはどういうことか考え及んでいるのである。ヲシフのヲシはヲシカハ(韋)のヲシである。

 酒君さかのきみ、則ちをしかはあしをを其の足にけ、小鈴こすずを以て其の尾に著けて、ただむきの上にゑて、天皇すめらみことたてまつる。(仁徳紀四十三年九月)
 韋 唐韻に云はく、韋〈音は闈、乎之賀波をしかは〉は柔皮なりといふ。(和名抄)
 滑革 ナメシ(運歩色葉集)
 Namexi.l,Namexigaua.ナメシ.または,ナメシガワ(鞣.または,鞣革) なめした革(日葡辞書)
 ……さなかづらの根を舂き、其の汁のなめを取りて、其の船の中の簀椅すばしに塗り、むにたふるべく設けて、……(応神記)(注8)
 今、大倭国やまとのくに山辺郡やまのへのこほり額田邑ぬかたのむら熟皮かはをしの高麗こまは、是其び後なり。(仁賢紀六年是歳)

 「熟皮をしかは」という名前に使われているヲシは動詞ヲス(なめらかにする)の連用形と思われている。応神紀の話では高麗は朝貢したことになっている。高麗からの献納品として有名なものに、虎の毛皮がある。フ(斑)のあるヲシカハ(韋)のことが念頭にあってヲシフと器用に述作されている。
 生きている獣を捕獲し、解体処理して皮を取り、腐らないように加工する。付いている肉や毛をとってきれいにしてから、揉んだり乾かしをくり返したり、脳漿に和えたりする方法がとられていた(注9)なめしの技法である。だからヲシカハ(韋)のことはナメシガハ(鞣革)とも、ただナメシ(滑)とも言う。刷毛に着いた液を皮に塗ることを、まるで唾液の着いた舌で(嘗)めるようなものだと譬え見たのかもしれない。そのナメシと同じ音に、ナメシ(無礼)という言葉がある。宣命の例にあるとおり、「無礼ゐやなし」は「なめし」とほぼ同じ意味である。今日でも「なめんなよ」と使っている。

 仮令たとひ後にみかどと立ちて在る人い、立ちの後にいましのために無礼ゐやなくして従はず、なめく在らむ人をば帝の位に置くことは得ずあれ。〔仮令後在人、立乃多米仁无礼之天不従、奈米久乎方許止方不得。〕(続紀・淳仁天皇・天平宝字八年十月、29詔)
 倭道やまとぢは 雲がくりたり 然れども わが振る袖を 無礼なめしとふな〔無礼登母布奈〕(万966)
 何の故か二つの国のこきしみづから来り集ひて天皇のみことのりを受けずして、なめく使をまだせる。(継体紀二十三年四月)

 高麗が「をしふ」と言ってきたことがナメシ(無礼)だとして菟道稚郎子は怒っている理由が明らかになった。もちろん、立場の上下を弁えていないことから正そうとしたものではあるが、それを「いかり」にして表すには及ばない。イカリとして表したのは、イカ(烏賊)がスルメイカとして朝廷に献上されていて菟道稚郎子も食べていたであろうからである。菟道稚郎子は太子であり、国を治める人として嘱望されていた。国をヲス(食)人が食べるの尊敬語、ヲスものとしてスルメイカはあった。スルメイカの様態はヲシカハ(韋)ととてもよく似ている。為政者の立場にある人が、朝貢とともに上表された文章のなかにヲシ(フ)とあったから、イカ(リ)を発するに至っている。
人工皮革で作ったスルメイカ
 ナメシ(韋、鞣、滑)の話になっているのには、上表を寄こしたのが高麗こまだからでもある。こまこま)をもたらした国であり、たくさんの馬が生産された。死ぬと皮はことごとく鞣されて活用された。馬とその使用法、ならびにその生産方法ばかりか、死後の活用法も同時に高麗から移入された(こととして理解されていた)。馬の脳を使って馬の皮を鞣した(注10)。ヤマトの人は、奥深い知恵をヤマトコトバが抱え込んでいることをよく知っていたのである。言葉、いわゆる和訓を造る際、意味を重ね塗り込めていた。それがヤマトコトバであった。それによって書き表された「高麗王教日本國也」の八文字は、簡にして要を得た端的な物言いで、上代語表現のミクロコスモスの感をなしている(注11)
 応神紀で「教」という字を用いたのは、大陸でのその文字の使用法を知りつつ、ヤマトコトバでヲシフという言葉が表す深い意味、頓智を深く理解していたからである。だから、イカリ(怒)の文脈で滞りなく披露している。敏達紀で、大陸で表䟽の書体が草書体であることを知りつつ、ヤマトコトバでイヒやハクという言葉が表す深い意味、頓智を披露していたのと同じである。日本書紀述作者は、ヤマトコトバに通暁した人たちであった(注12)

(注)
(注1)「王」はキミ、「曰」はイハク、「破」はヤブリツ、ヤブリスツなどとも読まれている。
(注2)国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115832/1/321参照。
(注3)日本書紀の他の例に見られる「教」字では、岩崎本平安後期点(10~11世紀)として、「(ウチ)ツノリ」(推古紀元年)、「(ホトケの)ミノリ」(推古紀三年五月)、「トホ(の)ミノリ」(推古紀十四年五月)、「所教ヲシヘ」(皇極紀元年七月)、「周孔之ノリ」(皇極紀三年正月)、前田本(11世紀写)に「脩教マツリコトセシム」(継体紀元年三月)、書陵部本(12世紀写)に「ヲシフ」(清寧前紀)、鴨脚本(嘉禎二年(1236)写)に「勅教ノ□フコト」(神代紀第九段一書第二)、兼方本(弘安九年(1286)写)・兼夏本(嘉元元年(1303)写)に「ウケタマハリミコトノリ(を)」(神代紀第六段本文)などと見える。
 なお、ミコトノリスの形の古訓が行われたことはあるが、ミコトノルと動詞に訓んだ例は見出されていない。
(注4)瀬間氏の論文では当初の問題提起、「菟道稚郎子は何故怒ったのか」から議論が逸れて行っていて、断言はされていない。
(注5)日本書紀通証や書紀集解は、「表」と「教」字について釈名を引いている。「下言於上  也。」、「教 倣也下所法倣一 スル也」とあり、ベクトルは反対ながら上下の関係にあることを示している。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1917894/1/20、https://dl.ndl.go.jp/pid/1157899/1/215参照。
(注6)以下、拙稿「烏の羽に書いた文字を読んだ王辰爾」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/d1a27454f4649223cff842e690462c69で述べたことである。参照されたい。
(注7)フミはカミ(紙)が kan(簡)に i が付いてニがミに交替した形と同じく、フミ(文)は fun(文)に i が付いて交替したものと考えられている。そのばあい、ミは甲類である可能性が高い。
(注8)和名抄に、「㿃 釈名に云はく、痢の赤白を㿃〈音は帯、赤痢は知久曽ちくそ、白痢は奈女なめ〉と曰ふといふ。滞りて出で難きなるを言ふ。葛氏方に云はく、重下〈俗に之利於毛しりおもと云ふ〉は今の所謂、赤白痢なりといふ。下部をして疼き重からしむ故に以て之を名づくと言ふ。」とある。このナメは血を含まない下痢便を指している。皮を鞣すときに使う、馬・鹿・牛などの脳を一年ほど熟成させた脳漿とよく似ていて、白痢のことをナメと言って正しいと思われたと考えられる。
(注9)延喜式・内蔵寮の造皮功条に次のように記されている。

 牛の皮一張〈長さ六尺五寸、広さ五尺五寸〉、毛をおろすに一人、膚肉たなししを除すに一人、水にひた潤釈くたすに一人、さらし踏みやはらぐるに四人。皺文ひきはだを染むる革一張〈長さ広さは上に同じくせよ〉、かしの皮を採るに一人、麹・塩を合せちて染め造るに四人。
 鹿の皮一張〈長さ四尺五寸、広さ三尺〉、毛を除し、曝し涼すに一人、膚宍たなししを除し、浸し釈すに一人、削り曝し、なづきを和ちてり乾かすに一人半。
 くりに染むる革一張〈長さ広さは上に同じくせよ〉、焼き柔げ熏烟ふすぶるに一人、染め造るに二人。(原漢文)

 ヲシカハ(韋)の製造法とヲシフ(教)との間には、イメージに似通ったところがある。何かを教える時、そのまま現物を持ってくることは、持って来られるようなものであればそれが最善であるが、その場合、教え教えられの関係にあるのではなく、見て直感しているだけである。本邦に棲息しない虎を教えるのに、その毛皮を見せることで教えることは、教えることの本来の意味に当たるだろう。抽象的な概念でも、鞣しの方法のように、本質を抽出し、相手にわかるように揉みくだいでわからせるようにしている。どうしたらわかってもらえるか脳を使っていて、時にはアレンジを加えながら、どこへ行っても決して腐ることなく説明を続けている。言葉の普及活動は布教活動のようである。それがヲシフ(教)という言葉の眼目である。
(注10)厩牧令・官馬牛条に、「凡そ官の馬牛死なば、おのおの皮、なづき、角、れ。若し牛黄ごわう得ば、ことたてまつれ。」とある。
(注11)無文字時代のヤマトコトバの最大の特徴としてかねがね指摘しているところであるが、ひとつの言葉が当該言葉(音)をもって自己循環的に定義し直されながら、そのことにより言葉自体の正しさを証明しつつ言明が進行していっている。この応神紀の55文字からなる挿話では、一つの言葉のなかにある深い知恵について賢明で名高い菟道稚郎子に語らせていて、物語の精度をあげている。
(注12)ヤマトコトバのあり様、上代の人たちの言葉の使い方が問われなければならない。文字時代の今日の言語とは異なる使用法がとられていた。肝心なところを等閑視して進められてきたこれまでの研究は、靴の上から足を掻くようなもの、蹄鉄を外さずに蹄の治療をするようなものである。

(引用・参考文献)
川村1953. 川村亮『皮のなめし方』天然社、昭和28年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
瀬間2021. 瀬間正之「菟道幼稚郎子は何故怒ったのか─応神二十八年高句麗上表文の「教」字の用法を中心に─」『古事記年報』六十三、令和3年3月。(『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。)
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1995年。
三品1962. 三品彰英『日本書紀朝鮮関係記事考証 上巻』吉川弘文館、昭和37年。(天山舎、平成14年。)

※本稿は、2023年7月稿の誤りを訂正し、2024年9月に新稿としたものである。

欽明紀の「鐃字未詳」について

2024年09月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 日本書紀には字注を入れることがあり、「未詳」と記すことがある。

 にはかにして儵忽之際たちまちに、鼓吹つづみふえおとを聞く。余昌よしやう乃ちおほきに驚きて、鼓を打ちてあひこたふ。通夜よもすがら固く守る。凌晨ほのぐらきに起きて曠野ひろのの中を見れば、おほへること青山あをむれの如くにして、旌旗はた充満いはめり。会明あけぼの頸鎧あかのへのよろひひと一騎ひとうまくすびせる者〈鐃の、未だつばひらかならず。〉二騎ふたうま豹尾なかつかみのをせる者二騎、あはせ五騎いつうま有りて、連轡うちととのひて到来いたりて問ひて曰はく、……〔俄而儵忽之際、聞鼓吹之声。余昌乃大驚、打鼓相応。通夜固守。凌晨起見曠野之中、覆如青山、旌旗充満。会明有着頸鎧者一騎、挿鐃者〈鐃字未詳。〉二騎、珥豹尾者二騎、并五騎、連轡到来問曰、……〕(欽明紀十四年十月)

 この「未詳」との注釈は、日本書紀の筆録者がよくわからないから注として入れたものだとされている。書き写す際に正しいのかどうかわからないということで入れたのだろうと思われている。けれども、雄略紀の例にあるとおり、筆録者が意図的に入れたもの、考え落ちを示すところと捉えたほうがいいだろう(注1)。彼らは筆録者というよりも述作者であり、作文をしているのだから、書きながら意味がわからないと注することは態度としてむしろ不自然である。
 日本書紀について、出典論を重んじ、その書き方手本をもとに再構成しようとする立場の人は、元ネタの漢籍をよく理解しないままに誤ったものであると強引に押しつけてしまう。
 「鐃」とは何か。クスビ、クスミと訓まれている。

 鐃 小鉦也。軍法、卒長執鐃。从金堯声。(説文)
 鐃 似鈴無舌、軍中所用也。(玉篇)
 鉦者、似鈴柄中上下通也。饒者、如鈴無舌有柄、執鳴之而止皷也。(令義解・喪葬令)

 これらの説明を読めば、鐃は二枚合わせて音を出すシンバルや空也上人が首から下げる円形の鉦ではなく、鐸の中に舌のないもので、上に向けて下に柄をさしこんでその柄を持ち、槌で敲いて音を出すものであったと理解されるだろう。現在残るのは銅製部分だけであるが、木製の柄をつけ、それを腰帯なり着物の合わせなりへ挿し込んでいたと考えられる(注2)
 ところが、むしゃこうじ氏は「翹」の誤写説を提唱している。そして、次のような文献をあげている。

 花、以猛獣皮・若鷲鳥羽之、置杠上。若所謂豹尾者、今人謂之面槍。将軍花、不物名、其数或多或少、其義未詳。鈴、行路置駄馬上、或云鐸。(三国史記・巻四十・志・職官下・武官)

 欽明紀の原史料は、猛獣皮のものを「豹尾」としたのに対して鷲羽のものを「翹」 とした可能性があるとし、その「翹」を「鐃」とどこかの段階で誤ってわからなくなり、「饒字未詳」と書き込んでいるのではないかというのである。

 瀬間氏はさらに、推古紀や旧唐書を追加し、梁職貢図の復元模型を補足資料として呈示している(瀬間2024.364頁)。髻花として豹尾と鳥尾が見られ、その鳥尾が「翹」だというのである。

 十九年夏五月五日……是日、諸臣服色、皆随冠色。各著髻花。則大徳小徳並用金。大仁小仁用豹尾。大礼以下用鳥尾。(推古紀十九年五月)
 高麗官之貴者、則青羅為冠、次以緋羅、挿二鳥羽及金銀飾。(旧唐書・巻一百九十九上・列伝第一百四十九上・東夷)

 鐃を軍令を伝える小鉦とした場合、「挿」はおかしいから日本書紀編述者(あるいは養老の講書のときの学者(むしゃこうじ1973.228頁))は不審の念を抱いて「鐃字未詳」と表示したものと見ている。そして、「編述者は、高句麗・新羅・倭国の風習を知らなかったが故に未詳とのみ記述するに留まったと考えられる。東夷諸国の風習を知っていれば、雄略紀459割注「擬字未詳。 蓋是槻乎。」のように「鐃字未詳。蓋是翹乎。」とすることが可能だったはずである。」(365頁)と我田引水の議論に進んでいる。
 しかし、記事は百済と高麗(高句麗)とが陣を向かい合わせている戦時のものである。「鐃」ではなくて「翹」であると強く言えるものではない。夜間に高麗側の「鼓吹之声」が聞こえたから、百済側は「打鼓」して応じて守りを固めている。「鼓」を叩くのを止めさせる合図に「鐃」を打った。撤退の合図かもしれない(注3)
 瀬間氏はこの部分、編述者が大幅な潤色を施していると見ている。編述者に中国系渡来人を想定するに至っているが、大幅な潤色が施せるぐらいなら、言葉について鋭敏でよく理解していたことは確かであろう。そして、「鐃」字には古訓としてクスビという訓みが伝えられている。下に図版としてあげたもののことをヤマトコトバとしてクスビと呼んでいたのである。
 「鐃」字は「金」と「堯」から成っている。「堯」は高いという意味である。説文に「堯 高也。从垚在兀上、高遠也。」とある。高い金ならタカガネ、約してタガネとなっておかしくない言葉である。だが、タガネには鏨の意味がある。対して「鐃」をクスビと言っている。クスビはクサビ(楔)とよく似た音である。クサビ(楔)とタガネ(鏨)はともにV字型の打ち込み部分があり形がよく似ている。一体で柄を有するのはタガネ(鏨)であり、刃を鋭利にして木の柄をつけたらノミ(鑿)になる。クサビ(楔)、タガネ(鏨)、ノミ(鑿)の先は一枚で尖っているが、クスビ(鐃)では分れて空洞となっている。ただし、横顔、シルエットとしては皆よく似ており、木の柄をつけたものとしてはノミ(鑿)とクスビ(鐃)は相対していることになる。
左:青銅 獣面文鐃(せいどうじゅうめんもんどう)(商時代、前16~前11世紀、高18.2・15.7・13.7㎝、和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアムhttps://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/005/0050035000.htmlをトリミング)、右:タガネ(鏨)とノミ(鑿)(堺市鉄砲鍛冶屋敷展示品)
 だから、「鐃」という文「字」は、ちょっとどうしてそういう字なのかわからず、クスビという「」はちょっとどうしてそういう名なのかわからないと思い、「鐃字未詳。」と言っているのである。
 この日本書紀編述者=筆録者=述作者は、ヤマトコトバと併せて漢字の形を考えている。「挿鐃」ことに何の疑問も抱いていない。言葉を理解しすぎるほどに理解していて、余裕をもって割注を入れて洒落を飛ばしている。今日までの出典論や日本書紀区分論などは、それ自体としてはともかく、日本書紀をきちんと読むための根拠とするにはおよそナンセンスであり、履き違えた結論を導いている。日本書紀はヤマトコトバを書き表したものであり、対外的に流伝させるために作られたものではない。ヤマトの国の自己満足の史書?であった。

(注)
(注1)拙稿「雄略即位前紀の分注「𣝅字未詳。蓋是槻乎。」の「𣝅」は、ウドである論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/ceb99a8b6b28f3929182489b7d106226、拙稿「雄略前紀の分注「称妻為妹、蓋古之俗乎。」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/81ace50151a5056610d603c79b5a6609参照。
(注2)林1976.の插図9-7(180頁)は「鉦」であるが、その小型のものを「鐃」と呼んだとする。下に示した久保惣記念美術館蔵品も令義解の説明どおり、銅の柄の部分(甬)は中空で舌のない鈴部へ筒抜けになっている。「正面を打ったときと側面を打ったときと、1つのどうで2音、この組み合わせでも6音の音階をもったことになる。宮殿や廟だけでなく、軍征行旅のとき、狩猟の際にも携行して打ち鳴らされたものであろう。林巳奈夫氏によってしょうと呼ぶのが正しいと考証されているが、いまは旧称のままにした。」(和泉市久保惣記念美術館2004.50頁)と解説されている。
(注3)周礼・地官・鼓人の「以金鐃止鼓」の鄭玄注に、「鐃、如鈴、無舌有秉、執而鳴之、以止擊鼓。」とあり、賈公彦疏に、「是進軍之時擊鼓、退軍之時鳴鐃。」などと見える。
鐃(鉦)と桴を持つ騎乗の人(成都青杠坡三号墓画像磚模写、後漢時代末期)

(引用・参考文献)
和泉市久保惣記念美術館2001. 『第三次久保惣コレクション─江口治郎コレクション─ 図版編』和泉市久保惣記念美術館、平成13年。
和泉市久保惣記念美術館2004. 『第三次久保惣コレクション─江口治郎コレクション─ 解説編』和泉市久保惣記念美術館、平成16年。
瀬間2024. 瀬間正之「欽明紀の編述」『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。
林1976. 林巳奈夫編『漢代の文物』京都大学人文科学研究所、昭和51年。
むしゃこうじ1973. むしゃこうじ・みのる「『日本書紀』のいくさがたり─「欽明紀」を例として─」『日本書紀研究 第七冊』塙書房、昭和48年。
劉東昇・袁荃猷編著、明木茂夫監修・翻訳『中国音楽史図鑑』科学出版社東京、2016年。

タカヒカル・タカテラスについて

2024年09月02日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集に「高光」と「高照」という語があり、ともに「日」にかかる枕詞とされている。
 両者の違いについて議論されている。検討するにあたっては、これらは言葉であることが基本である。タカヒカルでもタカテラスでも「日」にかかることは想像がつく(注1)。ヒカルとテラスの語義の違いが意味の違いになっていると考えるのが順当だろう。ヒカル(光)はぴかっと光線を発したり、反射したりすることをいい、テル(照)は光を放って周りが明るくなることをいう。上代音ではヒが今日のピに当たることはよく知られる。ピカル(✨)のがヒカルである。蛍や稲光はヒカルことはあってもテルことはない。このような二つの動詞のニュアンスの違いが、タカヒカル、タカテラスが単に「日」にかかるということにとどまらず、下に続く文意に影響を及ぼしている、ないしは、全体の文意からタカヒカル、タカテラスと使い分けている、というのが筆者の考えである(注2)。古事記歌謡にタカヒカルが仮名書きで5例(「多迦比迦流」(記28・72)、「多加比加流」(記100・101・102))見られ、それにより「高光」はタカヒカルと訓むものと考えられる。

「高光」
 たかひかる わが日の皇子みこの 万代よろづよに 国らさまし 島の宮はも〔高光我日皇子乃萬代尓國所知麻之嶋宮波母〕(万171、舎人)
 高光る わが日の皇子の いましせば 島のかどは 荒れずあらましを〔高光吾日皇子乃伊座世者嶋御門者不荒有益乎〕(万173、舎人)
 やすみしし わご大君 高光る 日の皇子 ひさかたの あまつ宮に かむながら かみといませば そこをしも あやにかしこみ ひるはも 日のことごと よるはも のことごと 嘆けど 飽きらぬかも〔安見知之吾王高光日之皇子久堅乃天宮尓神随神等座者其乎霜文尓恐美晝波毛日之盡夜羽毛夜之盡臥居雖嘆飽不足香裳〕(万204、置始おきそのあづまひと
 やすみしし わご大君 高光る わが日の皇子の 馬めて り立たせる 弱薦わかこもを かり小野をのに 猪鹿ししこそば いをろがめ うづらこそ い匍ひもとほれ 猪鹿ししじもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻り かしこみと 仕へ奉りて ひさかたの あめ見るごとく まそ鏡 あふぎて見れど 春草の いやめづらしき わご大君かも〔八隅知之吾大王高光吾日乃皇子乃馬並而三獦立流弱薦乎獦路乃小野尓十六社者伊波比拜目鶉己曽伊波比廻礼四時自物伊波比拜鶉成伊波比毛等保理恐等仕奉而久堅乃天見如久真十鏡仰而雖見春草之益目頬四寸吾於富吉美可聞〕(万239、柿本人麻呂)
 かみより 言ひらく そらみつ やまとの国は 皇神すめかみの いつくしき国 言霊ことだまの さきはふ国と 語りぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷みかど 神ながら での盛りに あめの下 まをしたまひし 家の子と えらひたまひて 勅旨おほみことかへして云ふ、おほみこと〉 いただき持ちて もろこしの 遠き境に つかはされ まかりいませ 海原うなはらの にも沖にも かむづまり うしはきいます もろもろの おほかみたち 船舳ふなのへに〈反して云ふ、ふなのへに〉 導きまをし 天地あめつちの 大御神たち やまとの 大国おほくにたま ひさかたの あまそらゆ 天翔あまかけり 見渡したまひ 事をはり 還らむ日には またさらに 大御神たち 船舳に 御手みてうち掛けて 墨縄すみなはを へたるごとく あぢかをし 値嘉ちかさきより 大伴おほともの 御津みつの浜びに ただてに ふねは泊てむ つつみく さきくいまして はや帰りませ〔神代欲理云傳久良久虚見通倭國者皇神能伊都久志吉國言霊能佐吉播布國等加多利継伊比都賀比計理今世能人母許等期等目前尓見在知在人佐播尓満弖播阿礼等母高光日御朝庭神奈我良愛能盛尓天下奏多麻比志家子等撰多麻比天勅旨〈反云大命〉戴持弖唐能遠境尓都加播佐礼麻加利伊麻勢宇奈原能邊尓母奥尓母神豆麻利宇志播吉伊麻須諸能大御神等船舳尓〈反云布奈能閇尓〉道引麻遠志天地能大御神等倭大國霊久堅能阿麻能見虚喩阿麻賀氣利見渡多麻比事畢還日者又更大御神等船舳尓御手打掛弖墨縄遠播倍多留期等久阿遅可遠志智可能岫欲利大伴御津濱備尓多太泊尓美船播将泊都々美無久佐伎久伊麻志弖速歸坐勢〕(万894、山上憶良)

 万171・173番歌は「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」のうちの二首で日並皇子尊が亡くなった時の歌、万204番歌は「弓削皇子、薨時置始東人作歌一首〈并短歌〉」で弓削皇子が亡くなった時の歌である。殯の時に故人を偲んで歌われている。殯をしている今、この瞬間を歌にしている。万239番歌は「長皇子遊獦路池之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉」で長皇子が狩りへ行った時の歌である。反歌一首を伴うが、夜、月の出ているその時の光景を詠んでいる。万894番歌は「好去好来歌一首〈反歌二首〉」で遣唐大使丹比広成へ贈った歌である。第五回遣唐使を選んだのは時の天皇、聖武である。代々のことを言っているのではなく、その時のことに限って言っている。ピカッと光ったその瞬間のことしか言っていないことになる。

「高照」
 やすみしし わご大君 たからす 日の皇子 神ながら 神さびせすと ふとかす 都を置きて 隠口こもりくの はつの山は 真木まき立つ 荒きやまを いはが根 さへ押しなべ 坂鳥さかどりの 朝越えまして たまかぎる 夕去り来れば み雪降る 安騎あきの大野に 旗すすき 小竹しのを押しなべ 草枕 旅宿たびやどりせす いにしへ思ひて〔八隅知之吾大王高照日之皇子神長柄神佐備世須等太敷為京乎置而隠口乃泊瀬山者真木立荒山道乎石根禁樹押靡坂鳥乃朝越座而玉限夕去来者三雪落阿騎乃大野尓旗須為寸四能乎押靡草枕多日夜取世須古昔念而〕(万45、柿本人麻呂)
 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 荒栲あらたへの 藤原ふぢはらうへに す国を したまはむと 都宮みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も りてあれこそ いはばしる 淡海あふみの国の 衣手ころもでの 田上山たなかみやまの 真木さく つまを もののふの 八十やそ氏川うぢかはに たまなす 浮かべ流せれ を取ると さわたみも 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮きて わが作る 日の御門に 知らぬ国 巨勢道こせぢより わが国は とこにならむ ふみへる くすしき亀も 新代あらたよと 泉の河に 持ち越せる 真木の嬬手を ももらず いかだに作り のぼすらむ いそはく見れば かむからにあらし〔八隅知之吾大王高照日乃皇子荒妙乃藤原我宇倍尓食國乎賣之賜牟登都宮者高所知武等神長柄所念奈戸二天地毛縁而有許曽磐走淡海乃國之衣手能田上山之真木佐苦檜乃嬬手乎物乃布能八十氏河尓玉藻成浮倍流礼其乎取登散和久御民毛家忘身毛多奈不知鴨自物水尓浮居而吾作日之御門尓不知國依巨勢道従我國者常世尓成牟圖負留神龜毛新代登泉乃河尓持越流真木乃都麻手乎百不足五十日太尓作泝須良牟伊蘇波久見者神随尓有之〕(万50、藤原宮役民)
 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 荒栲の ふぢが原に おほかど 始めたまひて 埴安はにやすの つつみの上に あり立たし したまへば 日本やまとの あを香具かぐやまは 日のたての 大き御門に 春山と みさび立てり うねの この瑞山みつやまは 日のよこの 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳成みみなしの 青菅山あをすがやまは 背面そともの 大き御門に よろしなへ かむさび立てり 名くはし 吉野の山は 影面かげともの 大き御門ゆ くもにそ 遠くありける 高知るや あめかげ あめ知るや 日の御蔭の 水こそば とこしへにあらめ 御井みゐ清水ましみづ〔八隅知之和期大王高照日之皇子麁妙乃藤井我原尓大御門始賜而埴安乃堤上尓在立之見之賜者日本乃青香具山者日経乃大御門尓春山跡之美佐備立有畝火乃此美豆山者日緯能大御門尓弥豆山跡山佐備伊座耳為之青菅山者背友乃大御門尓宣名倍神佐備立有名細吉野乃山者影友乃大御門従雲居尓曽遠久有家留高知也天之御蔭天知也日之御影乃水許曽婆常尓有米御井之清水〕(万52)
 明日香あすかの きよはらの宮に あめの下 知らしめしし やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 いかさまに おぼほしめせか 神風かむかぜの 伊勢の国は 沖つ藻も みたる波に しほのみ かをれる国に うまり あやにともしき 高照らす 日の皇子〔明日香能清御原乃宮尓天下所知食之八隅知之吾大王高照日之皇子何方尓所念食可神風乃伊勢能國者奥津藻毛靡足波尓塩氣能味香乎礼流國尓味凝文尓乏寸高照日之御子〕(万162、持統天皇)
 天地の 初めの時 ひさかたの あま河原かはらに 八百やほよろづ 千万神ちよろづかみの 神集かむつどひ 集ひいまして 神分かむはかり はかりし時に 天照らす ひるみこと〈一に云ふ、さしのぼる 日女の命〉 あめをば 知らしめすと 葦原あしはらの みづの国を 天地の 寄り合ひのきはみ 知らしめす 神のみことと 天雲あまくもの 八重やへかきけて〈一に云ふ、天雲の 八重やへくも別けて〉 神下かむくだし いませまつりし 高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の きよみの宮に 神ながら 太敷きまして 天皇すめろきの 敷きます国と あまの原 いはを開き 神上かむあがり あがりいましぬ〈一に云ふ、神登かむのぼり いましにしかば〉 わご大君 皇子みこみことの 天の下 知らしめしせば 春花はるはなの たふとからむと 望月もちづきの たたはしけむと 天の下〈一に云ふ、食す国〉 四方よもの人の 大船おほふねの 思ひ頼みて あまつ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき ゆみの岡に みやばしら 太敷きいまし 御殿みあらかを 高知りまして 朝言あさことに こと問はさぬ つきの 数多まねくなりぬれ そこゆゑに 皇子の宮人みやひと ゆく知らずも 〈一に云ふ、さす竹の 皇子の宮人 行方知らにす〉〔天地之初時久堅之天河原尓八百萬千萬神之神集々座而神分々之時尓天照日女之命〈一云指上日女之命〉天乎婆所知食登葦原乃水穂之國乎天地之依相之極所知行神之命等天雲之八重掻別而〈一云天雲之八重雲別而〉神下座奉之高照日之皇子波飛鳥之浄之宮尓神随太布座而天皇之敷座國等天原石門乎開神上々座奴〈一云神登座尓之可婆〉吾王皇子之命乃天下所知食世者春花之貴在等望月乃満波之計武跡天下〈一云食國〉四方之人乃大船之思憑而天水仰而待尓何方尓御念食可由縁母無真弓乃岡尓宮柱太布座御在香乎高知座而明言尓御言不御問日月之數多成塗其故皇子之宮人行方不知毛〈一云刺竹之皇子宮人歸邊不知尓為〉(万167、柿本人麻呂)
 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子の こしす 御食みけつ国 神風かむかぜの 伊勢の国は 国見ればしも 山見れば 高くたふとし 川見れば さやけくきよし みななす 海も広し 見渡す 島もたかし ここをしも まぐはしみかも かけまくも あやにかしこき 山辺やまのへの 五十の原に うち日さす 大宮つかへ 朝日なす まぐはしも 夕日なす うらぐはしも 春山の しなひ栄えて 秋山の 色なつかしき ももしきの 大宮人は 天地あめつち 日月と共に 万代よろづよにもが〔八隅知之和期大皇高照日之皇子之聞食御食都國神風之伊勢乃國者國見者之毛山見者高貴之河見者左夜氣久清之水門成海毛廣之見渡嶋名高之己許乎志毛間細美香母挂巻毛文尓恐山邊乃五十師乃原尓内日刺大宮都可倍朝日奈須目細毛暮日奈須浦細毛春山之四名比盛而秋山之色名付思吉百礒城之大宮人者天地与日月共万代尓母我〕(万3234)

 万45番歌は「軽皇子宿于安騎野時、柿本朝臣人麻呂作歌」で軽皇子が泊りがけで狩りへ行った時の歌である。長歌では朝から夕までの時間経過が歌われている。つづく短歌四首では夜から日が出てきてだんだん明るくなっていくところを詠んでいる。「日」によって周りが明るくなることを言いたいからテラスと表現していてふさわしい。万50番歌は「藤原宮之役民作歌」で藤原宮の建設作業員の歌である。かなりの日数を拘束されて作業している。当然、造営した藤原宮は一瞬だけあってすぐに捨てられお終いというものではなく、何年、何十年、何百年と栄えあるところであってほしい。万52番歌は「藤原宮御井歌」で最後にその井戸のことに触れた藤原宮賦とでも呼ぶべき歌である。二つの藤原宮の歌とも継続的な様子を表し、永続することを期待しているからテラスというのがふさわしい。万162番歌は「天皇崩之後八年九月九日、奉御斎会之夜、夢裏習賜御歌一首〈古歌集中出〉」で天武天皇が亡くなったために御斎会、すなわち僧侶が読経供養する行事の日の夜に、妻の持統天皇が夢に見たことを歌にしたものである。「夢裏習賜御歌」の「習」はくり返し唱えることを指す。御斎会だから読経が流れ、くり返しくり返し経文が唱えられていた記憶から、夢のなかでもくり返し念仏のように歌を唱えたということである。事跡として持統は天武と長年苦楽を共にしてきたわけだから、くり返し夢で唱えたことは事理一致の趣きを呈している。長い年月くり返すことといえば、日が出ては沈むをくり返すことが代表である。その「日」は一瞬またたくものではなく、周囲を明るくするものである。万167番歌は「日並皇子尊殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉」で万171・173番歌同様、日並皇子尊の殯の時に歌われたものだが、長々と天照大神以来、天孫降臨のことなどを使って説き起こして系譜上に日並皇子尊を据えている。長い長い時間の経過を歌に詠み込むには、「日」はテラスものとしてあるものである(注3)。万3234番歌では伊勢の地を褒め称える歌のために一般論を唱えている。「御食つ国」としてある伊勢の国とは、代々天皇に献上する国であるということである。そのことはこれまでもこれからも続く。「日」が出ては沈むをくり返しながら周りを明るくテラスことで食料は育つのである。
 このように、その時、その場のことではなく、時間的に永続するさまを表したい場合、「高照らす」という形になっていると帰納される。
 例外的に存する「高輝」については、歌意から推し測り、タカテラスと訓むのが正解であると演繹される。

  柿本朝臣人麻呂の新田部皇子に献れる歌一首〈并せて短歌〉〔柿本朝臣人麻呂獻新田部皇子歌一首〈并短歌〉〕
 やすみしし わご大王 高輝たかてらす 日の御子 しきいます 大殿おほとのうへに ひさかたの あま伝ひ来る 白雪ゆきじもの きかよひつつ いやとこまで〔八隅知之吾大王高輝日之皇子茂座大殿於久方天傳来白雪仕物徃来乍益乃常世〕(万261)
  反歌一首〔反歌一首〕
 釣山つりやま だちも見えず 降りまがふ 雪のさわける あしたたのしも〔矢釣山木立不見落乱雪驟朝樂毛〕(万262)

 歌意のとり方が問題なのである(注4)。まだ子供である新田部皇子に対して、人麻呂はユキ(雪、靫)の歌を献じている。ゆきのなかゆきを背負いながら駿馬を駆って海幸・山幸の話のように時間的に一気に行くことを想定している。あなたの名前はニヒタベで、ニヒタ(新田)を作ることは、ひたひたとニ(荷)に迫られること、借りたものは定めに従って返すものである(定めに従わずに受け取らないのもいけない)という言葉の「定義」の歌であった(注5)。一瞬のこと、例えば殯の晩に限ったことではなく、死ぬまで背負い続けるのが名前である。

(注)
(注1)「日」、「月」が主語となって動詞ヒカルをいう例は見られないから、タカヒカルは「日」にかかっているのではなく「日の皇子」にかかっているとする説が宮本1986.にある。「赤玉は緒さへ光れど」(記7)、「夜光る玉といふとも」(万346)、「あしひきの山さへ光り」(万477)、「松浦川川の瀬光り」(万855)、「天雲に近く光りて鳴る神の」(万1369)、「あしひきの山下光る黄葉の」(万3700)、「内にも外にも光るまで降れる白雪」(万3926)、「わが妻離る光る神鳴はた少女」(万4236)と用例をあげていて本旨にも参考になる。ピカル(✨)時に用いられ、周りが明るい時には使われない。
(注2)タカヒカルからタカテラスへと推移したのには思想上の変化が背後にあったとする説が桜井1966.に見られ、稲岡1985.橋本2000.もタカテラスを君臨を表す語としている。タカテラスの「ス」を敬語と見て扱いに違いを見出すことは不可能ではないが、天皇の威光が大きく臣下を覆って君臨していることを強調する言葉がタカテラスであるとは考えられない。なぜなら、タカテラスは「日」を導く枕詞だからである。タカヒカルと聞けば、高く光っている、ああ、お日さまのことだ、タカテラスと聞けば、高く照らして周囲を明るくしている、ああ、お日さまのことだ、と思う。それを修辞句化して枕詞にしている。テラスは他動詞である。
 今日通説化しているように、「やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子」が常套句となっているのは、全体として天皇支配を翼賛する文句であって万葉の歌はおおむね政権側のアジテーションなのだと捉えようとしても、タカテラスが枕詞であることを忘れることはできない。声に出して歌われる時、聞き手は次は何と言ってくるかなと聞き耳を立てて待っている。全体を聞き流しているのではなく、発せられた言葉と次に来る言葉とに、その瞬間その瞬間に、その都度ごとに意識を集中させていると考えられる。
(注3)「高照らす日の皇子」という言い方が、天皇の直系継嗣と関係があるかのようにまことしやかに語られている。戦前の日本で「君が代」を歌う時のようなものと考えられているらしい。論評に値しない。
(注4)漢字「輝」の中国での字義から訓みが決定すると短絡してはならない。名義抄には、「輝 ヒカル」(僧下九九)、「煇 睴輝三正音渾又喗又暈又瑰 ヒカリ、フスフ、テル」(仏下末四四)と両用に訓まれている。日本語(ヤマトコトバ)を表すために漢字を使い、国字まで編み出している。
 歌は音声によって発せられ、その場で聞き取られるものである。その条件下に縛られずに議論のための議論に堕してはいけない。歌は祝詞ではない。大仰な文句をもって天皇やその継承者に対する讃辞、資格表現であると捉えると本質を見失う。タカヒカルやタカテラスは「」にかかり、アマテラスは「ひるみこと」にかかっている。一つ一つ別の言葉として個別具体的にあってそれぞれに使用されている。言語の意味とはその使用なのだから、そのことを無視して言葉を弄して勝手な思い込みを仮構しても、それは虚構にすぎない。
(注5)拙稿「「献新田部皇子歌」について」参照。

(引用・参考文献)
稲岡1973. 稲岡耕二「人麻呂「反歌」「短歌」の論─人麻呂長歌制作年次攷序説─」五味智英・小島憲之編『萬葉集研究 第二集』塙書房、昭和48年。
稲岡1985. 稲岡耕二『王朝の歌人1 柿本人麻呂』集英社、1985年。
門倉1989. 門倉浩「「獻新田部皇子歌」と表現主体」身﨑壽編『万葉集 人麻呂と人麻呂歌集』有精堂、1989年。(「「獻新田部皇子歌」と表現主体」『古代研究』第13号、昭和56年6月。)
門倉1999. 門倉浩「新田部皇子への献呈歌」『セミナー万葉の歌人と作品 第二巻 柿本人麻呂(一)』和泉書院、1999年。
姜1997. 姜容慈「新田部皇子への献歌」『古典と民俗学論集─櫻井満先生追悼─』おうふう、平成9年。
桜井1966. 桜井満『万葉びとの憧憬』桜楓社、昭和41年。
橋本2000. 橋本達雄「タカヒカル・タカテラス考」『万葉集の時空』笠間書院、2000年。(「タカヒカル・タカテラス考」『萬葉』第142号、平成4年4月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/1992)
宮本1986. 宮本陽子「万葉集に於けるタカヒカル・タカテラス」『駒沢大学大学院国文学会論輯』14、昭和61年2月。
吉田1986. 吉田義孝『柿本人麻呂とその時代』桜楓社、昭和61年。

万葉集の「そがひ」について

2024年08月28日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集に十二例見える「そがひ」という語は難解とされている。「うしろの方」の意であると単純に思われていたが、用例に適さないものがあり、「斜めうしろの方」という意などいろいろ使い分けられていると解されていた。しかし、万葉集以降見られなく語に複数の義があるのは不自然と思われ、一義的に理解されることが求められた。「遥か彼方」説(山崎氏)、「遥か遠く」説(池上氏)、「遠く離れてゆくイメージ」説(小野氏)、「漢語「背向」の翻訳語」説(吉井氏)、「正面から外れる方向の、向こうに離れて」説(西宮氏)などが提唱されている。諸説とも、そう思おうと思えばそう受け取れないことはないが、どれも歌によってはしっくり来ない点が残るものばかりである。
 筆者は、「そがひ」という言葉について、単語の語義しか考えていないところに不足を感じる。必ず助詞「に」を伴って動作の状態を表している(注1)と受けとれる点からして、複雑な含意を表すために用いられている語である可能性を予感させるし、万葉集中の言葉の使い方のなかには、言葉遊びともとれる修辞を駆使した言い回しが数多く見られるからである。
 検討のため用法別に列挙する。

「そがひに見つつ」
 武庫むこの浦を 漕ぎぶね 粟島あはしまを そがひに見つつ〔背尓見乍〕 ともしき小舟(万358、山部赤人)
 …… 佐保さほかはを 朝川あさかは渡り 春日かすがを そがひに見つつ〔背向尓見乍〕 あしひきの やまを指して ……(万460、大伴坂上郎女)
 …… あまさがる ひなくにに ただ向かふ あはを過ぎ 粟島あはしまを そがひに見つつ〔背尓見管〕 朝なぎに 水手かこの声呼び 夕凪に かぢの音しつつ ……(万509、丹比真人笠麻呂)
 …… とのぐもり 雨の降る日を がりすと 名のみをりて しまを そがひに見つつ 二上ふたがみの 山飛び越えて 雲がくり かけにきと 帰り来て ……(万4011、大伴家持)
 大君おほきみの みことかしこみ 於保おほの浦を そがひに見つつ〔曽我比尓美都々〕 都へのぼる(万4472、安宿奈杼麻呂)

「そがひに見ゆる」
 なはの浦ゆ そがひに見ゆる〔背向尓所見〕 沖つ島 漕ぎる舟は つりしすらしも(万357、山部赤人)
 やすみしし わご大君の 常宮とこみやと 仕へ奉れる さひ賀野がのゆ 背向そがひに見ゆる〔背匕尓所見〕 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波さわき ……(万917、山部赤人)
 此間ここにして そがひに見ゆる〔曽我比尓所見〕 わが背子せこが かきの谷に 明けされば はりのさ枝に 夕されば 藤のしげみに ……(万4207、大伴家持)
 朝日さし そがひに見ゆる〔曽我比尓見由流〕 かむながら 御名みなばせる 白雲の 千重ちへを押し別け あまそそり 高き立山たちやま 冬夏と くこともなく 白栲しろたへに 雪は降り置きて ……(万4003、大伴池主)
 つく波嶺ばねに そがひに見ゆる〔曽我比尓美由流〕 あしやま しかるとがも さね見えなくに(万3391、東歌)

「そがひにしく」
 わが背子を いづ行かめと さき竹の そがひにしく〔背向尓宿之久〕 今しくやしも(万1412)
 いとし妹を いづ行かめと 山菅やますげの そがひに寝しく〔曽我比尓宿思久〕 今し悔しも(万3577、防人歌)

 ソガヒはソ(背)+ムカヒ(向)の約とする考えは説得力があり、それが原義であろう(注2)。そこから、背中合わせ、後ろの方の意であると捉えられていた。ところが、「そがひに見つつ」の場合はそれで意が通っても、「そがひに見ゆる」や「そがひに寝しく」の例では文意に合わないと感じられた。そこで、三種の用法を包括する意として、遠く離れた、といった類の意とする説が提出されたのである。近年の用語解説でも、「そがひ」はもともと「背を向けて」の意であったが、物理的な意味から心理的意味合いへと拡張し、さらに物理的、心理的距離感を表すようになったとする説(大浦氏)へとまとめられている。
 ソ(背)+ムカヒ(向)の約であるとする考えはわかりやすい。ところが、その語釈からどんどん離れて行き、ときには否定してしまうところまで展開してしまっている。吉井氏が翻訳語説を提唱するに至ったのも、収束する一点を見出そうとした試みなのだろう。諸説は皆、検討の前提段階で陥穽におちいっている。「そがひ」の語義を一義に収めるために、それぞれの歌の解釈は既定のもので正しいとして出発している。しかし、どうか。「そがひ」の用例は少ない。つまりは、当時の人にとってもあまり馴染みある言葉ではなかっただろう。そんななか、「そがひに見つつ」と「そがひに見ゆる」といったわずかな言い違いで語義が定まりにくくなることはない。かと言って、珍しい「そがひ」という言葉が、遠く離れた、のような語義であっては語構成を辿ることができず、初耳の万葉人は理解できないだろう。無文字時代の人が言葉を使うときには音だけが頼りなのだから、音から言葉の意味を直接、肌感覚として理解できなければならない。理解できなければ伝わらず、それはすなわち、言葉として成り立っていないということである。けれども、「そがひ」という言葉は現に使われていた。
 山部赤人の連作のなかに二つのタイプの「そがひ」が現れる。

 なはの浦ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 漕ぎる舟は つりしすらしも(万357)
 武庫むこの浦を 漕ぎぶね 粟島あはしまを そがひに見つつ ともしき小舟(万358)

 現代の研究者は、二例目は武庫の浦で粟島を後ろに見ながら小舟が進むことを表してわかるとしつつ、一例目で縄の浦から沖つ島を漕いで回っている舟を見たら方向としては後ろに当たらないと思い、議論の俎上にあげている。同じ時に歌われた歌のなかの同じ言葉は、ほぼ同じ意味で使われていると思われるからである。だが、今日の議論は、歌の解釈を含めて誤っている。現在通行している釈として、多田2009.の現代語訳を引用する。

 縄の浦から対向に見える沖の島、そこを漕ぎめぐっている舟は釣りをしているらしいことだ。(万357)
 武庫の浦を漕ぎめぐっていく小舟。妻に逢うという粟島を背に見ながら、うらやましくも漕いでいく小舟よ。(万358)(293頁)

 「遥か彼方」と訳し変えてみてもかまわないのだが、それで歌意は汲めているだろうか。
 「そがひ」が背後に見るという意味で問題なく通じる万358番歌においても、「小舟」を故郷の大和の方向へと漕いでいく船とする説と、地元の漁船とする説とに分かれている(注3)。「粟島あはしま」は妻に「ふ」ことへの連想を指摘する説は根強くあるが、それはおかしい。
 アハシマはアハとあるのだから、アハズ(逢はず)の意に通じると見るべきである。万358番歌に「小舟」は二度も出て来ている。直前の万357番歌の「舟」と同じで、地元の漁船のことを言っている。万357番歌の様子からしても、赤人が都の妻に逢うかどうかという意を差し挟んでいる歌とは考えがたい。漁民の仕事と「そがひ」という言葉をモチーフにして詠まれた歌であると定位される。
 万358番歌の、「武庫むこの浦を漕ぎ廻る小舟」とは、同音のムコ(婿、コは甲類)(注4)が通い婚で毎日のように夜這いに来ていることを表し、「粟島あはしま」という逢わないことと関係する島と無関係であることを言っている。毎日のように通いに来ることができて羨ましいなあ、というのである。「粟島あはしま」を背にしたまま、決して目指すことも近づくこともなく、ムコ(婿)であることを続けたいがために武庫の浦で漕ぎ廻っていると見立てている。ラブラブですね、ごちそうさま、と言っている。
 万357番歌でも同様の譬喩が行われている。「沖つ島漕ぎ廻る舟はつりしすらしも」と「なはの浦」とは無関係であり、背反したことが行われていると言っている。沖合にある島のまわりを漕いで廻っている舟では船釣りがされているらしいと推量している。一方の「なはの浦」で行われているであろうことといえば、縄を引く地引網漁であろう。両者の関係は、同じく魚を捕ることでありながら正反対のことである。だから、背中合わせを意味する「そがひ」という言葉が使われている。「そがひ」という言葉を使うことで、どこが背中合わせの背反事項なのか、聞く人の興味を誘っている。謎掛けがおもしろいから歌として作られ、知的好奇心を満足させている。赤人の歌は叙景歌ではなく頓知歌である(注5)
左:地引網図、右:船釣り図(広重・六十余州名所図会・上総・矢さしか浦通名九十九里、嘉永6年、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1308321、同・土佐・海上松魚釣、安政2年、同https://dl.ndl.go.jp/pid/1308360をそれぞれトリミング)
 「そがひ」という言葉の意味はすでに明らかとなっている。原義としては、ソ(背)+ムカヒ(向)の約と考えて間違いない。ただし、それを二者の物理的、心理的方向の関係を指す語とのみ捉えるのは浅はかである。背を向けるとは対象が背後になることばかりでなく、全体の状況として、背反し裏腹な関係になることでもある(注6)。そこまで表しているのが「そがひ」という言葉である。歌の高度な修辞法に巧みに採り入れられている。
 裏腹感を強調した用法は、「そがひに寝しく」がよく表している。

 わが背子を いづ行かめと さき竹の そがひにしく 今しくやしも(万1412)
 いとし妹を いづ行かめと 山菅やますげの そがひに寝しく 今し悔しも(万3577)

 万1412・万3577番歌は挽歌である。後者は、いとしい妻は他の男のところへなど行くことはないだろうと安心して、慢心して、背を向けたまま夜を過ごした。ところが、あれよあれよという間にあの世へ逝ってしまった。その女歌バージョンが前者である。「さき竹の」や「山菅の」が「そがひ」の枕詞となっている(注7)。山菅はスゲの仲間のうちで丈高く伸びるもの、細工物にする材料のスゲを指したのであろう。用途として真っ先に思いつくのは菅笠である(注8)。編まれた大きな菅笠は、頭部ばかりでなく体全体を覆うことができた。すなわち、日差しも雨も防ぐことができ、晴雨両用に用いられた。どう転んでもうまくいくだろうと思って背を向けて寝たのであった。ところが、起きてみると天気は晴れでも雨でもなく、曇りだった(注9)。笠は役目を果たさず背負い持って行くこととなった。荷物が増えてしまった。愚の骨頂である。思惑とは状況が違背していた。想定していたのとは裏腹な天気だったのである。よって、「そがひ」を導き出すのに用いられている。「さき竹」の用途も笠であろう。竹を細く削り割いたものだから、網代に編んで笠にした。「さき竹」は樋に使うような「割り竹」ではない。
左:笠のイメージ(角坊)、右:笠を背負う僧(一遍聖絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591578/1/13をトリミング)
 それら枕詞のおかげで「そがひに寝しく」という句は際立ってくる。二人は仲良しであった。仲良しだったがその晩は仲良しをしなかった。背を向けて寝たけれど仲違いしてなどいない。気持ちとは裏腹なことであった。「そがひに寝しく」という言葉のなかに、「そがひ」という語の意味を自己循環的に二重に込めた使い方をし、結果的に笠に期待していたことが外れるという裏腹な事態に陥っていることを表している。高度なレトリックである。

 大君おほきみの みことかしこみ 於保おほの浦を そがひに見つつ 都へのぼる(万4472)

 万4472番歌は、「八日に、讃岐守さぬきのかみ安宿王あすかべのおほきみたちの、出雲掾いづものじよう安宿あすかべの奈杼麻呂などまろの家に集ひて宴せる歌二首」の最初の歌である。出雲に赴任していた安宿奈杼麻呂が帰ってきたので宴を開き、その場で歌われたものとされる。出雲国に「於保おほの浦」というところがあったようである。勅命で於保の浦を背にして都へ上ると言っている。言葉を逐語的に考えるなら、オホ・・キミの命令は本来、オホ・・ノウラへ行け、居ろ、というもののはずである。ウラ(浦)という言葉はウラ(心)と同音だから、「大君おほきみみこと」の心意は、オホのウラでなくてどうすると一瞬思った。だけれども、背を向けて帰ることは言葉の上で裏腹な状況になるのだから、「そがひ」の一語にまとめ上げることができる。なるほど天皇の命令は「かしこ」いことだ、と頓知解釈を披露している(注10)

 つく波嶺ばねに そがひに見ゆる あしやま しかるとがも さね見えなくに(万3391)

 万3391番歌は東歌で、地名の語呂に基づいた頓智の歌である。ツクバネとは羽根突きのこと、通常、身体の前で羽根を突くものである。背面で操作することは、バドミントンでさえよほどの上達者以外には見られない。この歌では体の後ろ、背中側で羽根を突くことが思考実験され、言葉遊びをしている。ふつう硬い板を使って羽根を突くところ、アシホという名の示す葦の穂のような柔らかなもので突くことなんて、まるで体の後ろ側で羽根突きをするのと同じことだと譬えているのである。何か悪いことをしたわけでもないのにハンディを負った罰ゲームを強いられているが、その理由は見られないのに、と嘆いている。譬喩で体の後ろ側のことにしているが、それはまた、ちゃんと羽根突きをしようと思っている相手に対して違背する状況でもある。ちゃんと対峙してよ、アシホヤマさん、ということである。その二つの意味を重ね合わせて「そがひ」という言葉で表している。
 以上、「そがひ」という言葉の使われ方について、短歌六例に限り瞥見した。見てきたように、「そがひ」は二者の関係を言う言葉でありながら、「そがひに」は二者の関係を言いながら全体状況に対する譬喩表現を担うことになっている。論理学に長けた人たちの使う高等言語であり、語義を平板に定めて歌意(文意)を理解しようと努めても解決には至らない。現代では行われることのない言葉づかいが上代に行われており、多くの論者がさまざまな語義説をくり出しても釈然としないところが必ず残るのはその所為である。巧みな修辞術のアイテムとして機能している言葉であり、万葉時代のものの考え方を深く知る上でこの上ない素材である。他の六例はみな長歌である。「そがひ」という言葉がそれらの歌全体の意味合いを左右する肝となっているものと思われ、個々の歌を詳しく検討する必要がある。それぞれの文脈のなかでどのように状況が裏腹になっているかが課題である。後考を俟つ。

(注)
(注1)次の例では、「しなふ(撓)」の連用形名詞に助詞「に」がつき、姿態のしなやかなさまを萩の木の茂りたわみ靡く様子に譬えている。

 ゆくりなく 今も見がし 秋萩の しなひにあらむ いもが姿を(万2284)

(注2)「ソガヒはソキアヒ(離き合ひ)の縮約形であり、互いが離反する、背反する、対峙する意である」(坂本1980.49頁)とする異説も見られる。ただ、ソク(離、退)は離れる、遠のく、の意の自動詞で、アフ(合)を連接させることは考えにくい。
(注3)解釈史、ならびに万葉集の「小舟」についての詳細な解説は、坂本2008.参照。
(注4)母音交替形の「もこ(婿)」のコは甲類であることが、「聟 毛古もこ、又加太支かたき」(新撰字鏡)から知られている。。
(注5)赤人歌を叙景にすぐれた歌とする理解はいまだ蔓延しているが、例えば、知らない土地の景色を巧みに言い回した歌が披露されたとしても、ツーリズムとは何かさえ知らずに暮らしている人たちの心に響くはずはないだろう。すなわち、アララギ派が赤人歌に見たものとは、端的に言えば、近代ツーリズムに洗脳された理解でしかなかったのである。そしてまた、歌枕的な解釈をもって理解しようとする試みも、平安時代に成立、定着した文学、文芸を前提に据えたもので、時代考証に錯誤がある。中古以降の文学、文芸は、書かれた歌、描かれた絵など、記録物を媒介としている。基本的に無文字の社会に生きた上代人は、視覚に頼ることなく聴覚のみですべてを掌握しようと努めた。ヤマトコトバのシステムである。舶来の新技術もことごとくヤマトコトバに作られ、今となってはどうやって考え出したのだろうと不思議に思う言葉が目白押しになっている。伝来した織物技術として、ハタ(機)、ヒ(梭)、仏教関係でいえば、ホトケ(仏)、テラ(寺)、焼成品なら、カハラ(瓦)、スヱノウツハモノ(陶器)といった言葉が作られている。いわゆる和訓として認められ、ヤマトコトバとしてあたかももとからあるような顔をして使われている。言葉を声に出して言ったとき、それだけで何を言っているのかすべてをわかり合える世界、それが上代の言語空間であった。
(注6)その点、ソムク(背)という語と一脈通じていると言えよう。「素直に考えれば、後ろに見るという行為は、そもそも論理的に成立し得ない。」(永藤2009.134(5)頁)という考え方をしていたら、なぞなぞは一問も解けないだろう。
(注7)藤田2011.は、「さき竹」、「山菅」について自然観察の結果とする説を唱えている。自然科学的観点は、上代の人に行われていたことが皆無であったとは言わないが、多くの人に認められなければ言葉として成り立たない。タケやスゲが倒れていることなど知ったことではないのである。
(注8)ヤマスゲ(山菅)と歌に詠まれるとは、言葉として確固たるものと認められていたということである。クサ(草)から範疇としてヤマスゲを析出したことは、人々にとって意味あるものとして言語化する営みが行われたということである。植物学などない時代、人は利用するために自然を見ている。「ある語の意味とは、言語におけるその語の使用である。(Die Bedeutung eines Wortes ist sein Gebrauch in der Sprache.)」(L.Wittgenstein, Philosophische Untersuchungen §43)という説法(erklären)は箴言のようにいくらでも応用が利く。
(注9)死者を雲に見立てる発想は万葉集中に見られ、死ぬことを「雲隠くもがくる」とも言った。
(注10)このような使い方が行われていることから考えると、言葉の論理学に通じる人たちにとっては、「そがひ」という言葉は興味深いものとして歓迎されていたのではないかと感じられる。万葉歌は、いかにレトリックを駆使するかという側面も有していたから、当時歌を作りたがる人にとっては格好の言葉であったかも知れない。

(引用・参考文献)
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垣見2012. 垣見修司「そがひ追考」『高岡市万葉歴史館紀要』第22号、2012年3月。
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坂本2008. 坂本信幸「山部宿祢赤人が歌六首(巻3・三五七〜三六六)について」萬葉語学文学研究会編『萬葉語文研究』第4集、和泉書院、2008年12月。
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永藤2009. 永藤靖「万葉・「ソガヒに見る」考」『文化継承学論集』第5号、明治大学大学院文学研究科、2009年3月。
中村1989. 中村宗彦「「越中立山縁起」・「そがひに見ゆる」考」『天理大学学報』第160輯、平成元年2月。
藤田2011. 藤田富士夫「万葉集の「そがひ」に関する若干の考察」『人文社会科学研究所年報』第9号、敬和学園大学、2011年5月。敬和学園大学機関リポジトリhttps://keiwa.repo.nii.ac.jp/records/701
藤田2012. 藤田富士夫「万葉集「敬和立山賦」の「そがひ」に関する実景論的考察」『人文社会科学研究所年報』第9号、敬和学園大学、2012年。敬和学園大学機関リポジトリhttps://keiwa.repo.nii.ac.jp/records/720
古舘2007. 古舘綾子「「そがひに見ゆる」考─赤人紀伊国行幸歌を中心に─」『大伴家持 自然詠の生成』笠間書院、2007年。
山崎1972. 山崎良幸「「そがひに見ゆる」考」『万葉歌人の研究』風間書房、昭和47年。
吉井1981. 吉井巌「万葉集「そがひに」試見」『帝塚山学院大学日本文学研究』第12号、昭和56年2月。(『万葉集への視角』和泉書院、1990年。)

万葉集巻十六「半甘」の歌

2024年08月20日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻十六「有由縁并雑歌」には諧謔の歌が多く、そのほとんどは明解を得ていない。次の「戯嗤僧歌」、「法師報歌」の問答も誤解されたままである。

  たはむれにほふしわらふ歌一首〔戯嗤僧歌一首〕
 法師ほふしらが ひげ(注1)剃杭そりくひ 馬つなぎ いたくな引きそ ほふしはにかむ〔法師等之鬢乃剃杭馬繋痛勿引曽僧半甘〕(万3846)
  法師ほふしの報ふる歌一首〔法師報歌一首〕
 檀越だにをちや しかもな言ひそ 里長さとをさが 課役えつきはたらば いましもはにかむ〔檀越也然勿言弖戸等我課伇徴者汝毛半甘〕(万3847)

 二句とも最後の「半甘」の訓みが難解とされてきた。昨今の通釈書では、万3846番歌の結句「僧半甘」を「ほふしかむ」ととるのが一般的で(注2)、「ほふし含羞はにかむ」意とするのは、武田1957.(280~282頁)、稲岡2015.(124頁)程度である。ここは、「含羞はにかむ」と訓むのが正しい。その意味するところを以下に述べる。
 ハニカムは、「𪙁 亦作摣抯二形、則加反、捉也。波尓加牟はにかむ、又伊女久いめく」、「齵 五溝反、齒重生也。波尓加无はにかむ、又久不くふ、又加无かむ」、「𪘮 五佳反、齒不齊皃。波尓加牟はにかむ、又久不くふ」、「齱 側鳩反、齵也、齒偏也。波尓加牟はにかむ、又久不くふ」、「𪗶 士佳反、平、𪘲也、齒不正也。波尓加牟はにかむ、又伊女久いめく」(以上、新撰字鏡)、「眥 如上、又云、波尓加美はにかみ、又云、伊支□美」(霊異記・上・二興福寺本訓注)とあり、霊異記の用例(「の犬の子、家室いへのとじに向ふごとに、期尅いのごにらはにか嘷吠ゆ。」)を参考にして、歯をむき出して怒る意として捉えられてきた(注3)
 しかし、ヤマトコトバのハニカムは、もともとはにむことで、土を口に入れて噛めば、何だこれは? と口をひんまげる動きになるところを指しているものと考えられる。すなわち、両目をひん剥いたり歯を剥き出しにして怒る意ではなく、顔を少し横に向かせ傾け、口角が片方だけ上がるようなさまをいう。何を! と勢い込んでみたものの、虚を突かれていることに気づいて半笑いを浮かべるような恰好のことである。ちょっと恥ずかしいところがあり、現在使う含羞はにかむに通じている。また、苦笑いのことも指すだろう。っっったく〜! といった顔面神経痛的な偏った顔つきになる。それが題詞の「嗤」に表されている。新撰字鏡に、「嗤 亦、蚩に作る。充之・子之二反、戯也。阿佐介留あざける、又曽志留そしる、又和良不わらふ」とある。「戯嗤僧歌」とは、「戯」れに「檀越」が「僧」を笑いものにしたということであるが、虚仮にしているのではない。特定の僧侶について嘲笑ったのではなく、話(咄・噺・譚)に作り上げている。ふだんなら尊敬されるはずの「僧(法師)」に対し、機知あふれる言葉でからかう歌を作り、一本取られたと思わせたということである。それに対して「法師」の方も「檀越」に対してやり返し「報」いている。「僧(法師)」も「檀越」も一般名称である。
 万3847番歌は、四句目原文の「弖戸等我」が難訓箇所であるが、訓めなくてもわかりやすい。檀越よ、そうは言うなよ、里長(?)が租税を無理矢理徴収しにかかったら、お前だって苦笑いするしかないだろう、という意味である。
 「檀越」は寺や僧尼に財物を施す信者、施主である。法師に寄進できるぐらいだったら税金をきちんと納めろと、徴税官に細かな取り立てにかかられたら、参ったなと思って笑うしかないだろうというのである。税務署に変な口実を与えてしまったわけで、口角が片方だけ上がることになる。これが「報歌」である。
 ならばもとの歌、万3846番歌も、同様の頓知をもって歌は構成されていると考えられる。法師らの鬢の剃り残しに馬を繋いでひどく引っぱるな、法師は苦笑いを浮かべる、という意味である(注4)
 「ほふ」は、のりの師のことである。ノリ(法、典)は仏法だけでなく法律や規準のことも言い、ノル(宣、告)という動詞に由来する。ノは乙類で、同音にノル(乗)がある。「法師」はノリの師なのだから身ぎれいにしていなければならないだろう。戒律としても定められている。ひげの剃り後から生え出してきている無精ひげを放置したままでいいはずはない。清潔さを保てないなら、ノリ(乗)の師となるように乗り物の馬をつないでしまえ。ひどくは引っ張らなくていい、ゆるく引っ張ればいい。それがユルシ(緩、許)というものだ、と戯れている。法には適用という側面があることをきちんと伝えている。ノリの師である法師は苦笑いするしかないだろうというわけである。
 「馬繋」と馬が出てくるのは法師がノリの師であるゆえである。「半甘」をハニカム(含羞)と訓むのは苦笑いのさまを表すためである。檀越と法師との間で軽妙なやり取りが行われていたから万葉集に収められている。
 万3847番歌の四句目原文、「弖戸等我」は「里長さとをさが」と訓まれている。それで正しい。この部分を難訓に記している理由は、実際に里長がこの歌を知ったなら、檀越から徴収しに掛かるだろうからである。法師と檀越とは持ちつ持たれつの関係にある。ちょっとからかわれたぐらいで反論を口外していては、自らの実入りがなくなって困る。おそらく、当初「五十戸我」と書いたのを改めたものと思われる。行政上、五十戸を一まとまりにしてさとという支配単位にした。そこに一人の徴税官を配置し、里長と呼んだ。五十はヤマトコトバでイである。現代では馬の鳴く声はヒヒーンと聞きなしているが、上代ではイとしていた。「嘶」字で表されることのあるイナク、イバユのイである。歌に馬が出てきていたのは、それをヒントにしたものかも知れないし、馬が嘶く時には左右どちらかに頸を曲げ傾けて鳴いている。形の上ではハニカム(含羞)のと同じ姿態である。その五十という数は、五と十から成っている。五と十から成っているのにヤマトコトバでは一音である。つまり、五であり十である何かがヤマトコトバで存在しているということである。それは身近にある。手の指である。片手で五、両手で十になる。そこで「五十」を「手」と書き、さらにそのテという音に合わせて「弖」と改めた。
 この書き改めの肝は、五と十とが同等に存在するものを探すことにあった。このヒトシ(等)という語は、一の意のヒトに由来していると考えられる。ヒが甲類、トは乙類である。同音にヒト(人)がある。「弖戸」=「手戸」=「五十戸」であり、「五十戸」に等しい人とはそこに一人だけいる徴税官、「五十戸長」=「里長」ということになる。鹿持雅澄・万葉集古義に「弖(氐)」は「五十」の誤字(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1883823/1/234)、井上通泰・万葉集新考に「等」は「長」の誤字(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1882760/1/123)であるとする説は結果的には正しいことになるが、実際には「戯書」の類に当たる。問答の最初の題詞、「戯嗤僧歌一首」にある「戯」の義はここにも顕れていると言えるのかも知れない(注5)。手の込んだ「有由縁」話(咄・噺・譚)が詠われている。

(注)
(注1)原文に「鬢」とあるからビンと音読みすべきという説が見られる。ホフシ、ダニヲチと字音語があるのだからという。後藤1980.参照。万3835番歌の「鬢」については、梅谷2013.参照。「……麻呂と鉄折かなをりと、鬢髪ひげかみりて沙門ほふしらむとまをす。」(持統紀三年正月)と見え、「鬢」をヒゲと訓むことに疑義を見出し得ない。ヤマトコトバのヒゲを書き表すのに「鬢」字を用いたのであり、その逆ではなく、そうしたからといって咎められる筋合いのものでもない。頭部に生える人毛は、ヤマトの言語体系ではカミとヒゲであった。丸山1981.参照。
(注2)往年は、「ほふしなからかむ」と訓み、引っ張ったら僧侶が半分になってしまうという意に解されていた。
(注3)したがって、武田氏や稲岡氏はハニカムに「含羞」字を当ててはいない。稲岡2015.の訳は次のとおりである。

 坊さんの鬢のそりあとが、のびて杭のようになった所に馬をつないで、ひどく引っぱるなよ。坊さんが歯をむきだして怒るだろうから。(万3846)
 檀越さん。そんなことをおっしゃるな。里長が課役を強制したら、お前さんだって歯をむき出して怒るはずだ。(万3847)(124頁)

(注4)助詞ニが省かれることの少なさを検討したうえで、ウマツナギを薬草の狼牙のこととする説が工藤1977.に見られ、池原2013.も追認する。「ひげ」から「馬繋」への連想が飛躍、誇張が過ぎると思われていた経緯があり、このようなおもしろ味に欠ける解釈に陥っている。
(注5)万葉集の書記法の一つ、「戯書」という名が上代にあったわけではない。ただ、「戯」なのだから書き方も「戯」にしようと考えたとしても不都合なところはない。

(引用・参考文献)
飯泉2013. 飯泉健司「大山を削る─平城京の天皇・僧と民の文学─」『日本文学』第62巻第5号、2013年5月。J-STAGE https://doi.org/10.20620/nihonbungaku.62.5_20
池原2013. 池原陽斉「『萬葉集』巻十六・三八四六番歌の訓読と解釈─「馬繋」と「半甘」を中心に─」『上代文学』第110号、2013年4月。上代文学会ホームページhttps://jodaibungakukai.org/data/110-06.pdf)(「「戯嗤僧歌」の訓読と解釈─「馬繋」と「半甘」を中心に─」『萬葉集訓読の資料と方法』笠間書院、2016年。)
稲岡1976. 稲岡耕二「万葉集における単語の交用表記」『萬葉表記論』塙書房、昭和51年。(「万葉集における単語の交用表記について」『国語学』第70集、昭和42年9月。国立国語研究所・雑誌『国語学』全文データベースhttps://bibdb.ninjal.ac.jp/SJL/view.php?h_id=0700190450)
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梅谷2013. 梅谷記子「萬葉集巻十六・三八三五番歌の解釈─遊仙窟との比較を通して─」『上代文学』第111号、2013年11月。上代文学会ホームページhttps://jodaibungakukai.org/data/111-03.pdf
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丸山1981. 丸山圭三郎『ソシュールの思想』岩波書店、1981年。

額田王の春秋競憐歌、「山乎茂入而毛不取草深執手母不見」の訓みについて

2024年08月15日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 額田王の春秋競憐歌の「山乎茂入而毛不取草深執手母不見」の訓み方について検討する。一般に次のように訓まれている。

 冬ごもり 春さりれば 鳴かざりし 鳥もきぬ かざりし 花も咲けれど 山をみ りても取らず くさふかみ 取りても見ず 秋山あきやまの の葉を見ては 黄葉もみちをば 取りてそしのふ あをきをば きてそなげく そこしうらめし 秋山そあれ(注1)(万16)
  近江大津宮御宇天皇代〈天命開別天皇謚曰天智天皇〉
  天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時額田王以歌判之歌
 冬木成春去来者不喧有之鳥毛来鳴奴不開有之花毛佐家礼杼山乎茂入而毛不取草深執手母不見秋山乃木葉乎見而者黄葉乎婆取而曽思努布青乎者置而曽歎久曽許之恨之秋山吾者

 問題にあげた部分は、「山をみ りても取らず くさふかみ 取りても見ず」と訓まれることが多い(注2)。中西1978.は、「茂」字について、形容詞「し」のミ語法であるとする。「し」という形容詞は確例に乏しく、万185番歌に「もく咲く道を〔木丘開道乎〕」と「し」の例は確かめられることを根拠にしている(注2)
 だが、そもそもこの議論には見落としがある。「山乎茂……草深……」を「山が茂っているので山に入って取ることもせず、草が深いので手に取って見ることもありません」という意味であると捉えているのだが、前半の「入りても取らず」は「入って取ることもしない」ではなく、「入ったとしても取ることはない」であり、後半の「取りても見ず」は「取って見ることもない」ではなく、「取ったとしても見ることはない」、すなわち、取ったっとて見ないで捨てる、の意と考えるのが適当である。いちいち花のことを気にかけたりしていられないほど深草なところになっている。咲いた花を含めて取っても見ることがないのは、目的が草刈りだからである。草刈り時には、草があまりにも深いので作業に追われ、選別して花を取って愛でている間などなく全部捨てるというのである。
 「山乎茂入而毛不取」は、草刈り時の「深執手母不見」とは異なる状況を表していると考えられる。「入りても取らず」は、入ったとしても取らない、の意である。その前に「山乎茂」がある。「茂」字を形容詞のシシ、モシと解する限りにおいて、山が茂っているという意味になる。近現代には山が茂るという言い方は馴染んでいる。山にはたくさん木が生えていて、その木が茂っていることをもって比喩的に、山が茂ると言うことができている。植林に精を出したおかげである。古代にも山に木はたくさん生えていたとは思うが、生えていない山もあっただろう。「畝傍山うねびやま 木立こたちうすしと ……」(舒明前紀、紀105)といった例が見える。山が茂るという言い方で木々が生い茂っていることを表すことはなかっただろう。「し」、「し」は、草木やその枝葉が繁茂していることをいう。「山」を形容していることにならない(注4)
 他の考え方をするなら、「乎茂」を借字と捉え、「山しみ」と訓む説があげられる(注5)。「山が惜しいので、入っても花を取ることはしない」という意味である。後続の「草深み 取りても見ず」は草ぼうぼうの中の花の様子を表していた。春が押し詰まって夏も近づいた晩春のことを言っている。それに対して早春の、枝先に花が咲き始めた頃、いまだ葉の出ていない時に花を取ってしまったら、冬山のように見る影もなくなってしまうから、もったいなくて花を取ることはしないというのである。

 冬ごもり 春さりれば 鳴かざりし 鳥もきぬ かざりし 花も咲けれど 山しみ りても取らず くさふかみ 取りても見ず 秋山あきやまの の葉を見ては 黄葉もみちをば 取りてそしのふ あをきをば きてそなげく そこしうらめし 秋山そあれは(万16)

 つまり、春の山の魅力に花はあげられるけれど、春の早い時期も、遅い時期も、花を手に取って愛でることは実際のところしていないのだ、という主張が行われている。それに対して秋の山は、紅葉狩りと呼ぶのに値するように紅葉した枝を手に取っているというのである。その比較により額田王は「判之歌」を成している。
 このように捉えた時、「茂」字をシミと訓んでいることになる。現在、形容詞のシシという語は存在が疑われている。そんななか、字余りとならないようにシミと訓みそうな例が一例、また、副詞のシミニ、シミミニの例で「繁」字を用いた表記も見られる(注6)

 うら若み 花咲きがたき 梅を植ゑて 人のことしみ〔人之事重三〕 思ひそがする(万788)
 忘れ草 かきもしみみに〔垣毛繁森〕 植ゑたれど しこ醜草しこくさ なほ恋ひにけり(万3062)

 また、「敷」、「布」、「及」、「如」で表されることの多いシクという動詞は多義に用いられ、「茂」字を用いたものも見られる。

 やすみしし わご大王おほきみ たからす 日の皇子みこ しきいます〔茂座〕 大殿おほとのの上に ひさかたの 天伝あまつたひ来る 白雪ゆきじもの きかよひつつ いや常世とこよまで(万261)

 一面に広がり及んでゆくことを表す動詞としてシクという語があり、その形容詞形としてシシという語があったとして不自然さはない(注7)。それらの語に「茂」という字を当てることについては訓義からも肯定され、戯書的用法としても首肯される。草がぼうぼうに生えているところには、シシ(獣)が隠れているではないか。

(注)
(注1)新大系文庫本66頁。
(注2)旧訓では字余りを厭わず「山をしげみ」と訓まれていた。
(注3)池原2016.は「茂」字をシシという形容詞で訓むことへの批判としてこの説を追認し、北原2011.がク活用形容詞の語幹末がイ列音になることは古代語では基本的にないと指摘している点をあげている。ただし、北原氏は例外として、キビシ、ヒキシがあるとし、ク活用形容詞かと疑われるものとして、サキク、マサキクがあるとしている。
 なお、「茂」をシムという四段動詞の連用形のミ語法とする説もある。
(注4)山が連なって何重にもなっていることを表そうとしたかもしれないが、その形容に「し」、「し」は使われないだろう。
(注5)ミ語法は、AヲBミの形をとるが、「草深み」のように格助詞ヲが省かれることも多い。

 …… 名告藻なのりその おのが名惜しみ 間使まつかひも らずてわれは けりともなし(万946)
 防人さきもりに 立ちし朝明あさけの 金門出かなとでに 手離たばなれ惜しみ 泣きしらばも (万3569)

(注6)武田1956.に、シミ、シキ、シジ、シミミなどを「綜合して考えれば、繁茂を意味する古語シが考へられそうでもある。」(112頁)との指摘がある。
(注7)シシという形容詞の活用形がク活用かシク活用か、見極めるに足る用例数がない。キビシはキブシという異形があって後にシク活用に転じており、ヒキシは中古にヒキナリという形容動詞形で使われ後にヒクシという語形に転じている。シシにはシゲシという異形があり後には使われなくなっている点からして、ク活用であったと推定することは可能である。

(引用・参考文献)
池原2016. 池原陽斉「「献新田部皇子歌」訓読試論─「茂座」借訓説をめぐって─」『萬葉集訓読の資料と方法』笠間書院、2016年。(「「献新田部皇子歌」訓読試論─「茂座」借訓説をめぐって─」『美夫君志』第87号、2013年11月。)
北原2010. 北原保雄「形容詞の語音構造」『日本語の形容詞』大修館書店、2010年。(「形容詞の語音構造」『中田祝夫博士功績記念国語学論集』勉誠社、1979年。)
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 三』角川書店、昭和31年。
中西1986. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。

枕詞「おしてる」「おしてるや」について

2024年08月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 枕詞「おしてる」「おしてるや」は「難波なには」に掛かるが、掛かり方は未詳とされている。説としては、難波に宮があり、朝日・夕日のただ射す宮だからと褒めたたえる意であるとする説、おしなべて光る浪の華の意であるとする説、岬が突堤のように押し出しているとする説、襲い立てるように浪速なみはやだから、などいろいろ理由づけている(注1)が、いずれも決定打に欠けている。枕詞以外の動詞「おし照る」等を含めて上代の例をあげる。

 おしてる〔於辞氐屡〕 難波の崎の ならび浜 並べむとこそ その子は有りけめ(紀48、仁徳紀二十二年正月)
 …… 大君おほきみの みことかしこみ おしてる〔押光〕 難波の国に あらたまの 年るまでに ……(万443、大伴三中)
 おしてる〔押照〕 難波のすげの ねもころに 君がきこして 年深く 長くし言へば ……(万619、大伴坂上郎女)
 おしてる〔忍照〕 難波の国は 葦垣あしかきの りにしさとと 人皆の 思ひ休みて ……(万928、笠金村)
 天地あめつちの 遠きが如く 日月ひつきの 長きが如く おしてる〔臨照〕 難波の宮に わご大君 国知らすらし ……(万933、山部赤人)
 おしてる〔忍照〕 難波を過ぎて うちなびく 草香くさかの山を 夕暮に が越え来れば ……(万1428)
 おしてる〔押照〕 難波堀江の 葦辺あしへには かり寝たるかも 霜の降らくに(万2135)
 おしてる〔臨照〕 難波菅笠すがかさ 置きふるし 後はが着む 笠ならなくに(万2819)
 おしてる〔忍照〕 難波の崎に 引きのぼる あけのそほ舟 そほ船に 綱取りけ ……(万3300)
 そらみつ 大和やまとの国 あをによし 平城ならの都ゆ おしてる〔忍照〕 難波にくだり 住吉すみのえの 御津みつ船乗ふなのり ……(万4245)
 皇祖すめろきの 遠き御代みよにも おしてる〔於之弖流〕 難波の国に あめの下 知らしめしきと 今のに 絶えず言ひつつ ……(万4360、大伴家持)

 おしてるや〔淤志弖流夜〕 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島あはしま 淤能碁呂おのごろしま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ さけつ島見ゆ(記53、仁徳記)
 直越ただこえの この道にして おしてるや〔押照哉〕 難波の海と 名付けけらしも(万977、神社かむこその老麻呂おゆまろ
 おしてるや〔忍照八〕 難波の小江をえに いほ作り なまりてる 葦蟹あしがにを 大君すと …… さひづるや 唐臼からうすき 庭に立つ 手臼てうすに舂き おしてるや〔忍光八〕 難波の小江の 初垂はつたりを からく垂れ来て 陶人すゑひとの 作れるかめを ……(万3886、乞食者ほかひびと
 おしてるや〔於之弖流夜〕 難波の津ゆり 船装ふなよそひ あれは漕ぎぬと 妹に告ぎこそ(万4365、物部道足)

 春日山かすがやま おして照らせる〔押而照有〕 この月は 妹が庭にも さやけかりけり(万1074)
 我が屋戸やどに 月おし照れり〔月押照有〕 霍公鳥ほととぎす 心あれ今夜こよひ 来鳴きとよもせ(万1480、大伴書持)
 窓越しに 月おし照りて〔月臨照而〕 あしひきの 下風あらし吹くは 君をしそ思ふ(万2679)
 桜花さくらばな 今盛りなり 難波の海 おし照る宮に〔於之弖流宮尓〕 きこしめすなへ(万4361、大伴家持)

 動詞の用例では、月が照り輝いて夜なのに明るいことを示そうとしている。万1480番歌では、鳥目のホトトギスでも今夜、来て鳴いてくれと歌っている。そんな「おしてる」が「難波」にかかっており、当たり前のつながりであると感じられて枕詞となっている。強烈な太陽光線がナニハという言葉にかかって然るべきとする考えは、難波の平野部に展開された水田が干上がって畑になっていることをもって成り立つ。むろん、実景を述べるものではない。ナニハという地名が先にあり、そのナニハという言葉(音)が、ナ(菜)+ニハ(庭)を意味し、畑を表すからである。光が押し照るから全部畑になってしまったようなところ、それがナニハだ、と笑っている(注2)。文字を持たなかったヤマトコトバが言葉の音を頼りにしながら戯れていた言語遊戯である。不思議な言語ゲームをくり広げており、書契以後の我々とは言葉に対する向き合い方が異なっている。ものの考え方が稚拙であるというものではないが、我々の現代的な思考法のなかに何かをもたらすかといえば、下手な暗号のようなもので、ほぼ何ももたらさないと言えるだろう。

(注)
(注1)時代別国語大辞典は、万977番歌をとりあげ、生駒山から難波の海に日が照っているのを見て言っているのを、この枕詞に対する万葉人の一つの解釈を示すものとしている(149頁)。作者、神社老麻呂は、ただとぼけたことを言っているものと筆者は考える。真面目に言っているとしたら、歌として聞く人は窮屈なことを歌っていると思い、ブーイングを発したことだろう。
(注2)似たような枕詞に、「しなてる」がある。「かた」に掛かるが、掛かり方は未詳とされている。

 しなてる〔斯那提流〕 片岡山かたをかやまに いひて こやせる その田人たひとあはれ 親無しに なれりけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て 臥せる その田人あはれ(紀104)
 しなてる〔級照〕 片足羽川かたしはかはの さ塗りの 大橋の上ゆ くれなゐの 赤裳あかもすそ引き 山藍やまあゐもち れるきぬ着て ただ独り い渡らすは 若草の つまかあるらむ 橿かしの実の 独りからむ 問はまくの 欲しき吾妹わぎもが 家の知らなく(万1742)

 シナは坂の意である。登る坂があってそこへ照りつけていたら、峠を越えて反対側で降りる坂のほうには照りつけていない。片方にしか照らないから、シナテルはカタ(片)に掛かるのであろう。

(参考文献)
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。

万葉集巻十七冒頭「傔従等」の歌について

2024年08月02日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻十七の冒頭に、「悲傷羇旅」の歌が載る。「羇旅」は旅の道行きのことであるが、畿外へ出ることを指すとする考えもある。だが、後代のようにこの語が部立として用いられているわけではなく、キリョという漢語が意識されていたとは考えられず、ヤマトコトバのタビを書き表すのに恰好をつけて記しているにすぎない。タビという言葉は、遠近にかかわらず他所へ寝泊りすることと考えられている。
 題詞に記されている状況説明が問題視されている。大宰帥として赴任していた大伴旅人が大納言に任ぜられて平城京へ戻った。その旅路に従者を伴っている。そして、「傔従等別取海路京」した時、「悲-傷羇旅各陳所心作歌」が十首あげられている。「傔従」ないし「傔従等」とはどういう人たちか、「羇旅」を「悲傷」するとはどういうことなのか、明解が得られていない(注1)。ここでは専論である関谷2021.が載せる現代語訳を併せて掲げる(注2)

  天平二年庚午の冬十一月に、大宰帥だざいのそち大伴卿おほとものまへつきみだいごんけらえ〈帥を兼ぬることもとの如し〉、みやこに上りし時に、傔従等けんじゅうらこと海路うみつぢを取りて京に入る。是に羇旅たび悲傷かなしびておのもおのも所心おもひべて作る歌十首〔天平二年庚午冬十一月大宰帥大伴卿被任大納言〈兼帥如舊〉上京之時傔従等別取海路入京於是悲傷羇旅各陳所心作歌十首〕
 背子せこを 安我あが松原まつばらよ 見渡せば 海人あま娘子をとめども たま刈る見ゆ〔和我勢兒乎安我松原欲見度婆安麻乎等女登母多麻藻可流美由〕(万3890)
  私の愛しいあの人を、私が(再会を待つ)松原から見渡すと、海人娘子たちが玉藻を刈っているのが見える。
   右の一首はののむらじ石守いそもりの作。〔右一首三野連石守作〕
 あらの海 しほしほち 時はあれど いづれの時か が恋ひざらむ〔荒津乃海之保悲思保美知時波安礼登伊頭礼乃時加吾孤悲射良牟〕(万3891)
  荒津の海には干潮や満潮の時が決まっているが、私は今後いつでも、恋しく思わないことがあろうか。
 いそごとに 海人あま釣船つりぶね てにけり 我が船泊てむ 磯の知らなく〔伊蘇其登尓海夫乃釣船波氐尓家里我船波氐牟伊蘇乃之良奈久〕(万3892)
  海人の釣り船たちもそれぞれの磯に戻ってしまった。私たちの船を泊める磯はまだ決まっていないのに。
 昨日きのふこそ ふなはせしか いさなとり 比治奇ひぢきなだを 今日けふ見つるかも〔昨日許曽敷奈〓(人偏に弖)婆勢之可伊佐魚取比治奇乃奈太乎今日見都流香母〕(万3893)
  つい昨日、船出をしたのに。(いさなとり)比治奇の灘を今日見ることだ(もうこんな所に来てしまった)。
 あはしま 渡る船の かぢにも われは忘れず いへをしそ思ふ〔淡路嶋刀和多流船乃可治麻尓毛吾波和須礼受伊弊乎之曽於毛布〕(万3894)
  淡路島の瀬戸を渡る船の、一漕ぎの間にも、私は忘れず(後にして来た)「家」のことをひたすら思う。
 大船おほぶねの 上にしれば 天雲あまくもの たどきも知らず 歌乞我が背〔大船乃宇倍尓之居婆安麻久毛乃多度伎毛思良受歌乞和我世〕(万3898)
  大船の上に揺られているので、天雲のようにやるせない。歌をお願いします、私の愛しいあなた。
 海人あま娘子をとめ いざり焚く火の おぼほしく 都努つの松原まつばら 思ほゆるかも〔海未通女伊射里多久火能於煩保之久都努乃松原於母保由流可問〕(万3899)
  海人娘子が焚くいざり火のように、ぼんやりと角の松原のことが思われる。
 たまはやす 武庫むこわたりに 天伝あまづたふ 日の暮れけば 家をしそ思ふ〔多麻波夜須武庫能和多里尓天傳日能久礼由氣婆家乎之曽於毛布〕(万3895)
  (たまはやす)武庫の渡しにて、(天伝ふ)日が暮れて行くので、(後にして来た)「家」のことをひたすら思う。
 家にても たゆたふいのち 波のうへに 浮きてしれば おく知らずも〔家尓底母多由多敷命浪乃宇倍尓宇伎氐之乎礼八於久香之良受母〕(万3896)
  「家」にいても不安定にただよう命であるが、波の上に浮かんで揺られていると、物思いが果てしない。
 大海おほうみの おくも知らず 行くわれを 何時いつ来まさむと 問ひしらはも〔大海乃於久可母之良受由久和礼乎何時伎麻佐武等問之兒良波母〕(万3897)
  大海のように果てしなく遠く出て行く私を、「何時お帰りなのですか」と尋ねた、あああの子よ。
   右の九首は、作者の姓名をつばひらかにせず。〔右九首作者不審姓名〕

 「傔従等」とある「等」は、「傔従」とは呼ばれない人のことを指すと考えられ、それは一首目の作者として名のある三野石守が該当する。三野石守が傔従を統率して船を進めた。どうして主人である大伴卿、大伴旅人と「別」なのか。延喜式・民部省下に、「凡そ山陽・南海・西海道等の府国、新任の官人、任に赴く者は、皆海路を取れ。仍りて縁海の国をして例に依りて食を給はしめよ。〈但に西海道の国司、府に到らば、即ち伝馬に乗れ〉。其の大弐已上は乃ち陸路を取れ。」とある。この条に関連する記述としては、続紀・神亀三年八月三十日条がある(注3)。虎尾2007.は、当該万葉歌でも、傔従等は別に海路で、大伴旅人は陸路を取って上京していると読むのが自然であろうとしている。長官は交通上の安全や、各地の巡察を兼ねながら陸路で行き、家来は効率を重視し、荷物運搬の都合上、船を使ったと考えられるのではないか。
 両者が別行動をとり、到着した奈良の都に合流した時、旅すがらでの思いについて歌を詠むように促し、傔従等が作った十首を採っている。すなわち、旅自体はすでに終わっており、旅装は解いて寛ぎながら、その間のこと、また、旅を総括するような思いをそれぞれ歌にしている。「悲傷」、「所心」とあっても、「羇旅」はすでに完了しているから、旅の最中まっただ中のつらさを吐露したものではない。
 「悲傷」した理由について、大伴卿と別行動だからというので「悲傷」したという説があるが、道中ご主人様の尊顔を拝することができなくて寂しかったと、現在目の前にしながら歌を詠むとは思われない。主従の関係にあることと同性愛的な恋情は直結するものではなく、職務を執行しているところへ私情を差し挟んで公にするとも考えにくい。「傔従」は筑紫で現地任官された人たちで、都まで随従しなければならなかった点をもって「悲傷」の主因と考えるのが妥当であろう。故郷から離れて寂しいという気持ちは容易に想像できる。九州で採用された人をわざわざ都に向かわせる状況を想定しづらいとする考え方もある(注4)が、「傔従」という立場の人は、大宰府の役人、地方公務員ではなく、大伴旅人に仕える従者、資人や舎人に当たる人を雇ったということであろう(注5)。下働きに働く人たちは、主人の旅人が引っ越すならその引っ越しに携わらなければならず、海路に就いたなら当然ながら船を漕ぐ水夫の役割を担っていただろう。
 すなわち、最初の一首、三野石守の作のみが官吏、残り九首を作った作者不明の人が「傔従」である。それらは彼らが水夫として働いていた時の歌ということになる。

 背子せこを 安我あが松原まつばらよ 見渡せば 海人あま娘子をとめども たま刈る見ゆ(万3890)
   右の一首はののむらじ石守いそもりの作。

 「我が背子」は、三野石守が大伴旅人に対して呼びかけたものである。アガマツバラという地名があったとする説と、「松原」を「待つ」と掛けるための序詞とする説がある。尤も、アガマツバラという地名であっても「待つ」と掛けていることに変わりはない。所在は不明であるが、「傔従等」の「等」に当たる三野石守は大伴旅人とは別行動で、海路をたどって先に畿内まで来ていて、主人の到着を待っていたものと思われる。今か今かと松原から望んでいると、海人の乙女たちが玉藻を刈っているのが見えた。この歌に趣意があるとするなら(注6)、有名な麻続王をみのおほきみの玉藻の歌になぞらえた、広義の典故となる歌ということになるだろう。麻続王をみのおほきみは島流しの刑にあっていた。大伴旅人は太宰帥という体のいい島流しから帰ってきている。

 あらの海 しほしほち 時はあれど いづれの時か が恋ひざらむ(万3891)

 この歌は、アラツという地名のツ(津)、船の停泊場に適したところがあり、それに引っ掛けて歌を作っている。潮の干満の時間は月の運行に合わせて起こる。干潮の時、満潮の時がある。一般に、「いすれの時か」とあるのを、干潮の時、満潮の時といったこととは無関係にいつでも、と解されているが誤りである(注6)。津が津として船の停泊にかなうのは、当時の大型船である準構造船の停泊形態として、潮が引いた時に干潟に乗り上げる形で逗まるものだったからである。アラツ(荒津)というだけのことがあって潮の干満の水位差が大きかったのであろう。停泊するのに確かで、停泊させたつもりなのにどこからか水があふれてきて船が流されるというようなことはなかった。すなわち、大型船を停泊させたり出航させたりするのに一日のうちで「時」は限られているけれど、干潮の時、満潮の時のどちらかが恋しいと思わないことがあろうか、いやいやそのようなことはなく、両方とも恋しいのだ、と歌っている(注8)

 いそごとに 海人あま釣船つりぶね てにけり 我が船泊てむ 磯の知らなく(万3892)

 この歌は、大型船で出航してから途中でどこかへ停泊させて休もうと思っていた時、海岸沿いは岩場のあるところばかりで、漁船は磯に近づいて漁民がさっさと陸にあがっているのを見て詠んだものであろう。漁船は小型船で、丸木舟だったかもしれない。ボートを泊めるには磯に近づけてロープでくくりつけておけば済むのだが、大型船の場合、船体を岩場に当てると壊れる恐れがある。砂浜に乗り上げたく、なかでもラグーンのような波の静かなところが求められた。さて、どこに停泊させたらいいというのか、接岸させるのに適した場所があるのか知らない、と嘆いている。

 昨日きのふこそ ふなはせしか いさなとり 比治奇ひぢきなだを 今日けふ見つるかも(万3893)

 ヒヂキの灘というところは未詳である。昨日、出帆し、今日目にするのはヒヂキの灘だと言っている。ヒヂキとして知られる言葉は建築用語の肘木である。建築の組物を構成してますけたを支える横木のことであり、うでともいう。和名抄に、「枅 唐韻に云はく、枅〈音は鶏、漢語抄に比知岐ひぢきと云ひ、功程式に肱木と云ふ〉は衡を承くる木なりといふ。」とある。直線的にしか受けない肘木のことを特に船肘木と言っている。「傔従等」が「別取海路京」と題詞にあり、船を使ったことを言わんとしているから、出航した時に船として海に浮かべていたものが、都に入ってみると宮殿や寺院には建築部材に転換していることを歌っているのだろう。人が水上での乗物だと思っていたものが頭の上にあって安定して桁を受け、上層部を支えている。「陳所心作歌」として、「今日」、「みやこ」で詠まれている。
船肘木のある建物(相国寺庫裏)

 あはしま 渡る船の かぢにも われは忘れず いへをしそ思ふ(万3894)

 アハヂという語については、諺の「虻蜂取らず」の訛った形の頓知と考えられていたと推測される。Abu+fati→afadi である。虻蜂取らずとは、どっちつかずや中途半端なことの譬えに用いられている。自ら張った巣の中央に蜘蛛がおり、巣の対角線上に虻と蜂とが同時にかかった。両者とも蜘蛛にとっては獲物として大物で魅力的だが力も強い。どちらを捕ろうかと迷っているうちに、どちらも捕れないまま逃げられてしまう。すなわち、畿内にある朝廷は、西方からの侵入者に対し、明石、鳴門の両海峡を防ごうとして、淡路島の真ん中に城を一つ構えて守ろうとしたが叶わなかった。それを虻蜂取らずの淡路島と洒落て呼んでいるのだと見立てていた(注9)
 淡路島の、すなわち海峡には、二つの海峡があるとの思いが強かった。オールを使って水を掻き漕ぎ、楫を返すときには空中にあげて戻す。その空中にある時間のことを、「かぢ」と呼んでいると一般に考えられている。「」を時間的な意味で捉えているわけだが、空間的な意味に用いる例も見られる。その場合、「かぢ」は楫と楫との間、ふなばた(船端)のことと捉えることもできる。すなわち、ここで使っている「かぢ」という言葉は、その二つの意味を掛けて使っていると考えたほうが適当だろう。船のハタ(端)には右舷、左舷の二つがあり、淡路島の両側にがあることと対応している。淡路島の海峡を渡る船には明石海峡、鳴門海峡を通過するものがあるが、そこは流れが速くなることがあるから必ず舷側の両側に楫を備えた船でなければならない。
左:櫂で漕いだと思われる船(須恵質船形土器、陶邑窯群栂232号窯出土、古墳時代、4~5世紀、大阪府教育委員会蔵、堺市博物館展示品)、右:櫓で漕ぐ船(一遍聖絵模本、鈴木久治写、大正2~3年、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591584をトリミング)
 この様子を上代語で表現する場合、ハタ……ヤ、ハタ……ヤ、という形で表すことがあった。ハタは「将」字で表すことも多い。また、「はたや」、「はたやはた」といった展開形になることもある。

 いましはた我に先だちて行かむ、はた我や汝に先だちて行かむ。(神代紀第九段一書第一)
 ここ勢臣せのおみ王子せしむくゑいに問ひて曰はく、「為当はた此間ここに留まらむとや、為当本郷もとつくになむとやおもふ」といふ。(欽明紀十六年二月)
 かむさぶと いなとにはあらね はたやはた かくしてのちに さぶしけむかも(万762)
 す痩すも けらばあらむを はたやはた むなぎを捕ると 川に流るな(万3854)

 すなわち、「あはしま 渡る船の かぢ」では、ハタ……ヤ、ハタ……ヤと、いずれの場合であれヤと疑問を表す助詞を伴うことになっている。右舷であろうが左舷であろうが、明石海峡であろうが鳴門海峡であろうが、つまりは、船のはたであれ、島のはたであれ、ハタは必ずヤで承けることになっている。ヤという言葉(音)にはの意味があり、家の建物のことをいう。いへという言葉でも、家屋のことを指して使われている。

 いへに来て を見れば 玉床たまどこの よそに向きけり いも木枕こまくら(万216)
 ゆふづく日 さすやかはに つくる屋の かたよろしみ うべよさえけり(万3820)
 小林をばやしに われ引入ひきれて し人の おもても知らず いへも知らずも(紀111)
 玉敷ける 家も何せむ 八重やへむぐら おほへる小屋をやも 妹としらば(万2825)

 というわけだから、必ず家のことを思うに決まっているのである。この作者はヤマトコトバの言葉遊びに長けていて、巧妙なジョークを歌にして開陳し、大伴卿の耳にもその頓智がよく通じたということである(注10)

 大船おほぶねの 上にしれば 天雲あまくもの たどきも知らず 歌ふ我が背〔歌乞和我世〕(万3898)

 この歌の五句目は難訓とされていた。筆者は、この歌群が、上京の途中で別行動をとっていた傔従等に対して、都に着いてから道中の思いを歌にしてごらんと大伴旅人が促し、その時に作られて歌われたものと考えている。「歌乞和我世」の「我が背」は旅人のことを指していると考えて間違いないから、旅人が歌を作って披露するようにと傔従たちに求めたことを言っていると理解できる(注11)。唐突に指名されて歌を歌えと言われて困っている。そこで、どうしたらいいかわからないという気持ちを、船中にいた時の、ふだんとは勝手が違ってどうしたらいいかわからなかったことと重ねることで一首を成している。大船の上に揺られていて、天雲がどちらへ向かっているのかわかるすべがない状況でした。今、ご主人様が歌を作れと乞うてくるのと同じようなものでした、と言っている。

 海人あま娘子をとめ いざり焚く火の おぼほしく 都努つの松原まつばら 思ほゆるかも(万3899)

 ツノノマツバラは万279番歌(「角松原」)にもあり、現在、兵庫県西宮市の津門つとの海岸を指すとされている。その地の風光が問題ではなく、そのように呼ばれていることをどう理解したらいいかに関心が向いている。海岸線に松原が広がっていたのであろうが、船が寄港するツ(津)でありつつ水がかりが悪いノ(野、ノは甲類)であるという。この矛盾した地名に対し、奇妙で間抜けな命名であると直感が働いている。そして、その謎解きをしようとして歌にしている。
 「いざり焚く火」とは松明たいまつのことであろう。脂分の多い松の枝を伐ったものが重宝され、明り取りのために火をつけた。盆栽のように芽を摘んだものではなく、自然に徒長した枝を乾燥させて使う。松葉が茂り伸びて行っているのが燃え、枝分かれしているところが鹿の角のように思われる。鹿がいるのはノ(野)であり、ツノ(角)があるから、白砂青松の海岸の名にしてかまわないし、集魚灯がぼやぼやっと光っているぐらいにぼやぼやっと理解できることだと述べている。ツノノマツバラの地名譚の歌を作っている。
 この観点は、「おぼほし」という形容詞で表現している点から検証される(注12)。オボホシには、視覚的、聴覚的にぼんやりして明らかでないさま、心が晴れなく不安であるさま、間抜けでおろかであるさま、の語意があるが、それらの意をかねて使われている。

 ぬばたまの ぎりの立ちて おぼほしく 照れるつくの 見れば悲しさ(万982)
 朝日照る 島のかどに おぼほしく ひともせねば まうらがなしも(万189)
 しきやし おきなの歌に おぼほしき ここのらや かまけてらむ(万3794)

 松明の集魚灯は少し明るいだけで集まって来るからぼんやりしている。ツノという語義撞着はどうにも間が抜けている。鹿の角の形をした松明から命名された地名かといえば、すっかり明らかになったとは自信が持てるものではない。三つの意をかねて歌に表現している。

 たまはやす 武庫むこわたりに 天伝あまづたふ 日の暮れけば 家をしそ思ふ(万3895)

 ムコという言葉には婿(聟)がある。和名抄に、「婿 爾雅に云はく、子の夫を婿〈音は細、字は亦、聟に作る。和名は無古むこ〉とといふ。」とある。娘のところへ渡り通ってくる婿殿がいて、日が天を伝うように毎日、暮れになると通い婚にやって来ていた。そんなことを武庫というところへ来て思い出し、家のことを案じている。

 家にても たゆたふいのち 波のうへに 浮きてしれば おく知らずも(万3896)

 タユタフ(猶預)という言葉とオクカ(奥処)という言葉に、それぞれ二つの意味を掛けて使っている。家にいても落ち着かずに不安で生きた心地もしなかったが、波の上に浮いているとまったくゆらゆら揺れ動いて生死をさまよっている気がする。すなわち、この男はやきもち焼きなのである。家にいても女房が近所の男とちょっと話していたりしたら気が気でなかったが、旅人の帰京に同行させられて船で荷物を運び、都へ単身赴任することになってしまった。家に置いてきた妻は浮気をしているのではないかと際限のない不安に駆られている。オクカ(奥処)は、海の果てのどこだか知れないところへ船出していることと、夫婦が将来どうなるかわからないこととを掛けている。オク(奥)はオキ(沖)と同根の語である。空間的に入口から深く入った所、人の行かない神秘的な所、心理的に大切にする心の底、また、時間に転用してこれからの行く先、将来のことも言った。

 大海おほうみの おくも知らず 行くわれを 何時いつ来まさむと 問ひしらはも(万3897)

 大海の果てがどこなのか、そんなわからないところまで行く自分に対して、今度はいつ来られますかといとしいあの子は問うている。大宰府から沖ノ島へ行くなら明日にもまた逢えようが、海は海でもあなたの知らない海の果てなのだよ。なかなか帰ることは難しいし、ひょっとすると将来に渡りもう逢えないかもしれないよ、というのである。「おく」という言葉は効いている。空間的な場所ばかりでなく時間的な将来のことを言っている。この歌では題詞の「悲傷」が直截的な意味合いになっており、一連の歌を締めくくるのにふさわしい。

 以上、万葉集巻十七の巻頭にある傔従等の歌を解釈した。これまでの通説では、歌に対する評価としては取り立てて言うほどもないもの、構成としては大宰府から平城京まで、傔従等の上京絵巻であるかのように海路を辿るように詠まれていると考えられていた。本稿では、入京後に、傔従等が道中でこみ上げた思いについて大伴旅人が歌にするように求め、各々が作った歌を集めたものであると捉え直した。題詞にもそう記されている。そして、歌のなかに地名が登場していても、その地の実景を写したものでも、歌枕的な地誌があったわけでもなく、言葉(音)としていかに解されるか、頓智、駄洒落を肝要とした歌であることが明らかとなった。当時は基本的に無文字社会であり、非情報化社会であった。言葉を口伝てに伝える以外に伝達の手段を持たなかったのである。「安我あが松原まつばら」、「あら」、「比治奇ひぢきなだ」、「あはしま」、「武庫むこわたり」、「都努つの松原まつばら」という地名を耳にしても、実際に訪れた者以外にはその地の様子を思い浮かべることはできない。行動を別にしていた主人、大伴旅人の知らない場所を歌の文句に取り入れて、風景を思い浮かべさせようとしたりはしないだろうし、その場には他の客人も招かれていたかもしれない。知られていないことを披露しても場が白けるばかりである。歌は一回性の芸術で一度きりしか口にせず、当然、相手に通じることしか歌わない。低評価と判断して憚らない近代的な思考の枠組みとはまったく異なる切り口、言葉(音)のみで伝え得る最大限の情報量を盛り込んだ駄洒落の歌がこの十首の歌である。書契の時代以降に暮らしている人とはものの考え方が根本的に違う、異文化の作品であった。この点を知ること以上に万葉集を学ぶ理由も価値も存するものではない。

(注)
(注1)平舘1998.は、題詞の「悲傷」は他の万葉歌の題詞では、挽歌の類に見られると指摘し、文選の「羇旅」という語に流浪、軍旅、望郷などの憂いを感じるところから「悲-傷羇旅」と題していると考えている。しかし、文選の賦を成すような博識にして筆の立つ文士が歌を作っているわけではなく、「傔従等」が「各陳所心作」した歌十首が一連の歌群として構成されている。身分が低く教養も乏しい従者たちの「所心」に憂いがあるかどうかよりも、そのような人たちが作った歌を採録するに足りていることが重要である。天平二年十一月の時点で大伴卿が聞いて歌として体を成していると認め、よって記し残され、後に万葉集に採られている。「作者不姓名」の歌九首は、おそらく九人の「傔従」がそれぞれ一首ずつ作ったものであろう。「傔従等」の憂いの気持ちなど、大伴卿にとってもその他の人にとってもどうでもかまわないことである。表現としてうまくできていることが注目され、褒めるに値すると認めたということである。言葉づかいの技巧を評価した歌と捉えるのが正しい接近法である。
(注2)158~159頁。寛文版本に従う校本万葉集の歌の配列で歌番号(国歌大観)は付されているが、現在信頼が置かれている西本願寺本や元暦校本とは違っている。
(注3)「太政官処分すらく、『新任の国司、任に向ふ日、伊賀・伊勢・近江・丹波・播磨・紀伊等六国にはじきを給せず。志摩・尾張・若狭・美濃・参川・越前・丹後・但馬・美作・備前・備中・淡路等十二国は並食を給はず、自外の諸国くにぐにには、皆伝符を給へ。但し、大宰府并せて部下の諸国の五位以上には伝符を給ふべし。自外は使に随ひて船にらば、縁路の諸国、ためしに依りて供給せよ。史生も亦此になずらへよ』といふ。」(原漢文)とある。新大系本続日本紀(一の417頁、二の520頁)では、和銅五年五月十六日格を参照しながら、万446~450番歌の「天平二年庚午の冬十二月に、大宰帥大伴卿のみやこに向ひて上道みちだちせし時に作る歌五首〔天平二年庚午冬十二月大宰帥大伴卿向京上道之時作謌五首〕」は、「鞆の浦」や「敏馬の崎」を詠んでいて、海路をとったことを表すとされているが、陸路の可能性もあると指摘している。筆者は、大伴旅人が進んだのが陸路か海路かはともかく、万3890~3899番歌では「傔従等別取海路京」と、傔従等とは別行動だったから、都で合流した時に道中の様子を歌にせよと乞われ作られたものと考えている。そして、自ずと「悲-傷羇旅」の「所心」を述べることになったのがこの歌群だったのだろう。
(注4)関谷2021.161頁。「傔従」が単なる身辺警備のSPではなく、身の回りの世話をする舎人的性格を有しているとすると、都へ戻って新規採用してまた一から教え込み慣れ親しませなければならないことを考えれば、付き従わせることに何の不思議もない。
(注5)かん1988.は、続紀・和銅元年三月二十二日条、「みことのりして、大宰府の帥・大弐、并せて三関と尾張守等とに、始めてけんぢゃうを給ふ。其のかず、帥に八人、大弐と尾張守とに四人、三関の国守に二人。其の考選・事力と公廨くげでんとは、並に史生に准へしむ。」(原漢文)を挙げ、「傔従」を「傔杖」、武器をとって高官を護衛する従者の意と関連づけて捉え、また、続紀・大宝二年三月三十日条、「大宰府にもはらに所部の国の掾已下と郡司等とを銓擬することをゆるす。」(原漢文)を挙げ、現地採用したものであると捉えている。そして、特に万3891・3896・3897番歌は、そのような従者が離郷の心情を歌っているものとするのが自然であるとしている。神野1993.では歌の解釈の面から同様の内容をも発表している。にもかかわらず、「傔従」が現地採用の官人で、旅人に従って都へ出てきたとする見方に疑問を投げかける向きが絶えないのは、歌の解釈が覚束なかったためである。本稿の歌の解釈、ヤマトコトバ言語ゲーム論は、神野氏の主張を支持する形となっている。
(注6)なかろうはずはない。もしないのなら多くの人に広めても誰も理解することはない。伝えるに値しなければ伝えることはなく、伝わることはない。伝わっていなければ、万葉集に載せられて今日その存在を知ることもない。
(注7)Aの時があり、Bの時がある、その「いづれの時か」と言うとき、AかBかの二者択一を示すと考えられる。「いずれの時」と反語のヤで承けるのであれば、Aか、いやいやAではない、Bか、いやいやそうではない、私がいとおしく思わないだろう時はAとかBとかいうことではない、すべての時において、いつもいとおしく思うだろう、という意味になる。この場所は「荒津」であり、潮の満ち干が激しい。大船は干潟に乗り上げる形で停泊させるから、満潮時に船は停泊や出航が可能で、干潮時に下船や乗船が可能になる。「潮干」の時も「潮満ち」の時も恋しく思わないことはないだろう。しかし、その間の中途半端な水位の時には、船員は何もすることがなく手持ち無沙汰となり、いわば船員でなくなる時であって全然恋しくない時ということになる。
 「荒津」というのだから、船を動かせる満潮の時間帯も、乗客を乗り降りさせる干潮の時間帯も十分に長く確保される場所であったのだろう。思うように仕事に勤しめたから歌にしている。ひょっとすると、難波津の停泊があまりうまくいかなかったことを暗に指しているのかもしれない。
(注8)これまでの解釈では、「恋ふ」という語について、異性の誰かに気持ちが引かれるという意に解し、残してきた人に対する恋心など、人を相手とする恋であるとする解釈が行われてきた。しかし、「恋ふ」には比喩的に、慕う、なつかしむ、の意がある。

 いにしへに 恋ふる鳥かも 霍公鳥ほととぎす づるの 御井みゐの上より 鳴き渡り行く(万111)

 あくまでも「海路」のことを歌っているのだから、引き潮の時、満ち潮の時のいずれの時も「津」としての機能を発揮するからいとおしいのであり、だからこそ「荒津」を歌っているのである。
(注9)拙稿「蜻蛉・秋津島・ヤマトの説話について─国生み説話の多重比喩表現を中心に─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/11778e097320217e614b879e71fd97ba参照。当時の常識として通行していたと考える。
(注10)現代語訳に誤りとする点はないが、「淡路島」をとりたててモチーフにしている理由について省みられたことはなかった。
(注11)状況が定まらないながらも、ウタコヘワガセ、ウタコハムワガセ、ウタへコソワガセ、ウタヒコソワガセなどと訓まれてきている。
(注12)「おぼほし」という語については、清濁に移行があったかとも考えられており、オホホシ、オボボシという形も想定されている。挙例中の歌でも仮名書きからオホホシとするべきものがあるが、ここでは一律にオボホシとした。

(引用・参考文献)
阿蘇2013. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 九』笠間書院、2013年。
伊藤1998. 伊藤博『萬葉集釈注 九』集英社、1998年。
神野1988. 神野富一「大宰帥大伴旅人の傔従等」『水門─言葉と歴史─』第16号、1988年12月。
神野1993. 神野富一「大宰帥大伴旅人の傔従等の歌」『美夫君志』第47号、平成5年11月。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(四)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
関谷2021. 関谷由一『万葉集羇旅歌論』北海道大学出版会、2021年。
多田2010. 多田一臣『万葉集全解6』筑摩書房、2010年。
虎尾2007. 虎尾俊哉『訳注日本史料 延喜式 中』集英社、2007年。
橋本1985. 橋本達雄『萬葉集全注 巻第十七』有斐閣、昭和60年。
平舘1998. 平舘英子『万葉歌の主題と意匠』塙書房、1989年。

八代女王の献歌(万626)について

2024年07月30日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻四の相聞の部立に八代女王やしろのおほきみの献歌がある。
 八代女王については情報が限られている。万葉集にこの一首、続日本紀に位階についての記述が二か所あるだけである(注1)

  八代女王やしろのおほきみの、天皇すめらみことたてまつる歌一首〔八代女王獻天皇歌一首〕
 君により ことしげきを 故郷ふるさとの 明日香あすかの川に みそぎしに行く〈一尾に云はく、たつ越え 三津みつはまに 禊ぎしに行く〉〔君尓因言之繁乎古郷之明日香乃河尓潔身為尓去〈一尾云龍田超三津之濱邊尓潔身四二由久〉〕(万626)
 二月戊午、天皇、でうに臨みたまふ。従四位下栗林王に従四位上を授く。無位三使王・八釣王にならびに従五位下。従四位上橘宿禰佐為に正四位下。従五位上藤原朝臣豊成に正五位上。正六位上多治比真人家主、外従五位下佐伯宿禰浄麻呂・阿倍朝臣豊継・下道朝臣真備に並に従五位下。正六位上三使連人麻呂に外従五位下。四品水主内親王・長谷部内親王・多紀内親王に並に三品を授く。夫人无位藤原朝臣の二人〈名をけり。〉に並に正三位。正五位下県犬養宿禰広刀自・无位橘宿禰古那可智に並に従三位。従四位上多伎女王に正四位下。従四位下檜前王に従四位上。无位矢代王やしろのおほきみに正五位上。従五位下住吉王に従五位上。无位忍海王に従五位下。従四位下大神朝臣豊嶋に従四位上。従五位上河上忌寸妙観・大宅朝臣諸姉に並に正五位下。従五位下曾禰連五十日虫・大春日朝臣家主に並に従五位上。无位藤原朝臣吉日に従五位下。正六位上大田部君若子・従六位上黄文連許志・従七位上丈部直刀自・正七位上朝倉君時・従七位下尾張宿禰小倉・正八位下小槻山君広虫・无位盧郡君に並に外従五位下。(続紀・天平九年(737)二月)
 十二月丙午、坂東の騎兵・鎮兵・役夫と夷俘等を徴しおこして、桃生城・小勝柵を造らしむ。五道倶に入りて並に功役に就く。従四位下矢代女王やしろのおほきみ位記ゐきこほつ。先帝せんていかうせられてこころざしあらたむるをもちてなり。(続紀・天平宝字二年(758)十二月)

 新大系本続日本紀に、「以先帝而改志也。」とは、「かつて聖武の寵愛をうけながら、その後志を変え、他の男性と関係をもった、の意か。」(295頁)という。
 この歌の解釈については、大きく二つの潮流がある。一つは、天皇の寵愛を受けた八代女王が、周囲からの噂が嫉妬や中傷の域にまで達してやりきれないので禊ぎに行こうと歌ったものとする考えであり(注2)、もう一つは、互いの親密な間柄のもとで、甘えかかったり恋心に苦しむ思いを託したとする考えである(注3)。後者の考えでは、続紀の「毀従四位下矢代女王位記」の記事は歌とは無関係であるとしている。
 近年、影山2017.が、後者の立場から展開した見解を提出している。その際、献呈歌でありながら異伝を伴うことへの不審を語っている。相聞贈答に異伝を伴うことはそもそも不自然で、ましてや天皇への献歌において歌詞が彫琢しきれていないというのはおかしいという。
 筆者はそうは考えない。異伝は「一尾云」の形で示されている。「尾」などと記す類例は「尾句」といった例はあるものの他に見られない。ここで、「一尾云」として五句目までをすべて記し、「一尾云、龍田超三津之濱邊尓潔身四二由久」と書いてある。変えているのは三・四句目だけだから、「一云、龍田超三津之濱邊尓」と書くだけでよいのに念を入れて書いている。このことは、その部分が「」であるとの意識のなせるわざであろう。上代語の「」は、鳥や魚の尻から伸びた先の毛や鰭のこと、また、山の裾のことを表していた。すなわち、三句目以降は尾鰭であって、本体はその前の「君によりことしげきを」で尽きている。そこまで言えれば歌の主旨は十分放たれていることを伝えている。
 「ことしげき」とはどのようなことか。「こと」=「こと」である(はずである)から、人が言うことが事実であるということになる。その場合、それを現代語でいう「噂」の意であると思って逐語的に訳すと誤謬が生じる。

 人言ひとごとの〔人言之〕 よこしを聞きて 玉桙たまほこの 道にも逢はじと 言へりしわぎ(万2871)

 この例では、「人言ひとごと」がどのような性質のものか述べられている。「よこし」な「人言ひとごと」、誹謗中傷である。逆に言えば、ただ「人言ひとごと」としかない場合、人がいろいろと言っていることそのことを指している。それがどのような評価を得たものなのかいまだ判断していない、あるいは判断できないものである。ましてや「こと」(「人言ひとごと」)が「しげし」なとき、数多く言われているから、讃頌しているのか、中傷しているのか、いろいろだから決めつけられない。人々の話題にのぼっているということ、ただそのことを指すのが「こと」(「人言ひとごと」)である。慣用表現になっていて、「ことしげき」、「ことしげけく」、「ことしげく」、「ことしげき」、「人言ひとごとしげし」、「人言ひとごとしげく」、「人言ひとごとしげく」、「人言ひとごとしげき」、「人言ひとごとしげみ」などと使われている。「しげし」は草木が繁茂することを指す言葉である。草がわんさか生えてくること、それは何か特定の栽培品種を一律に生えさせた様子ではなく、多種多様な草がそれぞれに丈を伸ばし、蔓を絡ませ、根をはびこらせて繁茂するさまを指している。雑多な生長が見られるのだが、統一的な条件がある。一定の気温になっていることと一定の雨量が得られていることである。遅霜で枯れたり、大雨で水浸しになったり表土が流されてはならない。そのようなときにしか使えない「しげし」という言葉を「こと」(「人言ひとごと」)に当てはめて使っている。すなわち、「人言ひとごとしげし」などと使う場合、その「こと」(「人言ひとごと」)とは、歌を歌う人が男女関係ができた当事者となっていて、そのことについて周りからキャーキャー言われていることを表している。あの人とあの子とができてるんだって、ヒューヒュー、といった噂である。国家転覆を謀っているという噂、汚職贈収賄の噂、大麻等薬物使用の噂などは含まれない。それら犯罪にまつわるような噂は、雑草が繁るように種々にあれこれ向きを違えて立つことはなく、また、誰もが関心を持つことも当事者が属している世間全体に広まるものでもない。
 すなわち、「しげし」となる「こと」(「人言ひとごと」)とは、誰かさんと誰かさんが麦畑、チュッチュチュッチュしている、ということ以上のものではない。当人たちが「こと」(「人言ひとごと」)を煙たいと思うのは、いきなり写真週刊誌に報じられて世間から注目され、面食らうからである。
 念のために万葉集に使われている「こと」(「人言ひとごと」等を含む)に「しげし」(「しげみ」等を含む)が絡んで使われる例を確認しておこう。40例ある。

 心には 忘るる日無く おもへども 人のことこそ しげき君にあれ〔人之事社繁君尓阿礼〕(万647)
 はむ夜は 何時いつもあらむを 何すとか そのよひ逢ひて ことしげきも〔事之繁裳〕(万730)
 ことしげき〔事繁〕 里に住まずは 今朝けさ鳴きし かりたぐひて 行かましものを(万1515)
 いはそそく 岸のうらに 寄する波 来寄きよらばか ことしげけむ〔言之将繁〕(万1388)
 黄葉もみちばに 置く白露の いろにも 出でじと念へば ことしげけく〔事之繁家口〕(万2307)
 しましくも 見ねばほしき わぎ妹子もこを に来れば ことしげけく〔事繁〕(万2397)
 近江あふみの海 沖つ島山 おくまけて 吾がふ妹が ことしげけく〔事繁〕(万2439)
 人言ひとごとの しげりて〔人事之繁間守而〕 逢ふともや なほ吾がうへに ことしげけむ〔事之将繁〕(万2561)
 すりころも りといめに見つ うつつには いづれの人の ことしげけむ〔言可将繁〕(万2621)
 淡海あふみの海 沖つ島山 奥まへて 我がふ妹が ことしげけく〔言繁苦〕(万2728)
 ただに逢はず あるはうべなり いめにだに 何しか人の ことしげけむ〔事繁〕 (万2848)
 波のむた 靡く玉藻の 片思かたもひに 吾がふ人の ことしげけく〔言乃繁家口〕(万3078)
 年きはる 世までと定め たのみたる 君によりてし ことしげけく〔事繁〕(万2398)
 ことしげみ〔事繁〕 君は来まさず 霍公鳥ほととぎす なれだに鳴け あさ開かむ(万1499)
 旅にすら ひも解くものを ことしげみ〔事繁三〕 まろがする 長きこの夜を(万2305)
 人言ひとごとを しげ言痛こちたみ〔人事乎繁美許知痛美〕 おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る(万116)
 人言ひとごとの しげきこのころ〔人言之繁比日〕 玉ならば 手に巻き持ちて 恋ひずあらましを(万436)
 人言ひとごとを しげ言痛こちたみ〔他辞乎繁言痛〕 逢はずありき 心あるごと な思ひ背子せこ(万538)
 吾が背子し げむと言はば 人言ひとごとは しげくありとも〔人事者繁有登毛〕 でて逢はましを(万539)
 現世このよには 人言ひとごとしげし〔人事繁〕 む世にも 逢はむ吾が背子 今ならずとも(万541)
 初花はつはなの 散るべきものを 人言ひとごとの しげきによりて〔人事乃繁尓因而〕 よどむころかも(万630)
 あらかじめ 人言ひとごとしげし〔人事繁〕 かくしあらば しゑや吾が背子 奥もいかにあらめ(万659)
 人言ひとごとを しげみか君が〔人事繁哉君之〕 二鞘ふたさやの 家をへだてて 恋ひつつまさむ(万685)
 人言ひとごとは なつの草の しげくとも〔人言者夏野乃草之繁友〕 いもわれとし たづさはりば(万1983)
 人言ひとごとを しげみと君に〔人事茂君〕 玉梓たまづさの 使つかひらず 忘ると思ふな(万2586)
 人言ひとごとの しげると〔人事茂間守跡〕 逢はずあらば つひにや子らが おも忘れなむ(万2591)
 人言ひとごとを しげみと君を〔人事乎繁跡君乎〕 うづら鳴く 人のふるに 語らひてりつ(万2799)
 人言ひとごとの しげき時には〔人言繁時〕 わぎ妹子もこし ころもにありせば 下に着ましを(万2852)
 逢はなくも しと思へば いやしに 人言ひとごとしげく〔人言繁〕 聞こえ来るかも(万2872)
 人言ひとごとを しげ言痛こちたみ〔人言乎繁三言痛三〕 わぎ妹子もこに にし月より いまだ逢はぬかも(万2895)
 ただ今日けふも 君には逢はめど 人言ひとごとを しげみ逢はずて〔人言乎繁不相而〕 恋ひ渡るかも(万2923)
 人言ひとごとを しげ言痛こちたみ〔人言乎繁三毛人髪三〕 我が兄子せこを 目には見れども 逢ふよしもなし(万2938)
 人言ひとごとを しげみと妹に〔人言繁跡妹〕 逢はずして こころのうちに 恋ふるこのころ(万2944)
 ねもころに 思ふわぎを 人言ひとごとの しげきによりて〔人言之繁尓因而〕 よどむころかも(万3109)
 人言ひとごとの しげくしあらば〔人言之繁思有者〕 君も吾も 絶えむと言ひて 逢ひしものかも(万3110)
 人言ひとごとの しげきによりて〔比登其登乃之氣吉尓余里弖〕 まをごもの 同じ枕は はまかじやも(万3464)
 潮船しほぶねの 置かればかなし さ寝つれば 人言ひとごとしげし〔比登其等思氣志〕 かもむ(万3556)
 うら若み 花咲き難き 梅をゑて 人のことしげみ〔人之事重三〕 おもひそがする(万788)
 きはまりて われも逢はむと 思へども 人のことこそ しげき君にあれ〔人之言社繁君尓有〕(万3114)
  五年正月四日に、治部少輔石上朝臣宅嗣の家にして宴せる歌三首
 ことしげみ〔辞繁〕 あひ問はなくに 梅の花 雪にしをれて うつろはむかも(万4282)
  右一首、主人石上朝臣宅嗣

 これらの例にある「こと」、「人言ひとごと」は、男女の間に関係ができたことに関する噂である。最後の万4282番歌のみ、梅の花に言葉をかけることのようなものとして用いられているが、これは、恋愛関係にある男女の間についての周囲の噂のことを、あたかも梅を恋人であるかのように擬して利用したもので、宴の席での戯歌である。興味深いことに、「こと」(「人言ひとごと」等を含む)と「しげし」(「しげみ」等を含む)とが絡んで慣用句的に使われた例はほぼ巻十二までであり、その後は巻十四の万3464番歌、そして巻十九の万4282番歌に見られるのみである。歌の表現として飽きられたからなのか、鄙の歌を採集する時には人口が少なくて噂で持ちきりになるようなことがなかったからか、社会変化のために恋愛事情が変わって行ったからか、「人言ひとごと」が「他人事ひとごと」になったといった意識の変化があったからか、定かではない。
 「しげし」を伴わなくても、「こと」(「人言ひとごと」)だけで男女の誰かと誰かが付き合っている、どこまで行ったか、といった噂のこととして捉えられる例も見られる。

 かきなす 人言ひとごと聞きて〔人辞聞而〕 吾が背子が こころたゆたひ 逢はぬこのころ(万713)
 恋ひ死なむ そこも同じそ 何せむに ひと他言ひとごと 言痛こちたがせむ〔人目他言辞痛吾将為〕(万748)
 人言ひとごとは〔人事〕 しましそわぎ つな引く 海ゆまさりて 深くしそおもふ(万2438)
 人言ひとごとの〔人言之〕 よこしを聞きて 玉桙たまほこの 道にも逢はじと 言へりし吾妹(万2871)
 人言ひとごとは まこと言痛こちたく〔他言者真言痛〕 なりぬとも そこにさはらむ われにあらなくに(万2886)
 まかなしみ ればこと さなへば 心のろに 乗りてかなしも(万3466)

 以上のように、「ことしげき」とは男女の間に関係ができたと周囲の人が噂を立てて騒ぐことであり、その噂のなかに好意や悪意があるかどうかとは無関係で、評価は中立的である。
 八代女王の歌にある「ことしげきを」についても、天皇と八代女王との間に男女関係ができたという噂であって、そこにやっかみや嫉妬などがあるかどうかについては述べていない。
 では、なぜ八代女王は噂が立っていることを嫌がって、あるいは、汚らわしく思って、禊ぎに行くと言っているのか。
 簡単なことである。
 男女関係ができているというのは、両性の合意により成っているのが基本である。ところが、歌のなかで八代女王は「君により」と言っている。聖武天皇一人が言い寄ってきているために噂が立っていると言っている。これだけを聞けばわかることである。八代女王のほうに天皇への気持ちはない。
 八代女王が聖武天皇から寵愛を受けていたのは確かであろう。彼女がどういう思いであったか時系列で追うことはできないが、二人はできていると人の噂になっているのを嫌だと思ったから、万626番歌のような歌を声に出して言い放った。一・二句目だけで、ああ、そういうことか、と周知に至る内容である。
 筆者の推測にすぎないが、絶対的な権力を握っている天皇からお召しがあれば、初めのうちは疑うことなく参内して相手になっていたことだろう。その時、別段、恋愛感情を意識するようなことはなかった。ところが、天皇からはたびたび御召しがあるようになった。寵愛を受けているということである。周りから嫉妬の目で見られたか、中傷されたり、陰口をたたかれていたか、それはわからないし、その点を八代女王は問題にしていない。問題はそこにはない。例えば彼女自身に他に意中の男性がいたとしたら、ただ天皇の寵愛を受けているという噂が立つことだけでも嫌なことである。そうでなくても若い女性が、中年おやじのパワハラ的なセクハラに対して、キモイ、けがらわしい、と思うことはあって当然なことである。天皇からの誘いを今後一切断る方法として、啖呵をきった歌を献上した。それが万626番歌である。歌とは大きな声をあげて「こと」を伝えることだから、周囲にバレバレになって事は解決するのである。

 君により ことしげきを 故郷ふるさとの 明日香あすかの川に みそぎしに行く(万626)
 聖武天皇、あなたによってまるで愛し合っているかのような噂が立っています。私は自分の身が穢れたように感じています。明日香の川に禊ぎをしに行きます。

 若い八代女王にとって冗談ではないのである。どうして天皇の遊び女にならなければならないのか。無位だったのがなぜか年頃になったら位を授けてくれていたけれど、そういう魂胆だったのね、けがらわしい。私は嫌、さようなら。それが言いたくて歌を歌っている。後は付け足し、尾鰭である。実際に明日香や三津へ出掛けていって禊ぎをしたかどうかなどどうでもいいことである。要するに、権力を笠に着て忍従させられ弄ばれる関係から逃れたく、振りほどいて、断ち切ってしまいたいのである。だから、フルを被る「故郷ふるさとの」と歌い、タツを被る「たつ越え」と歌っている。
 次の例では白波の立つ、と龍田山のタツとを掛けている。

 わたの底 おき白波しらなみ たつやま 何時いつか越えなむ いもがあたり見む(万83)

 音を地口的に遊ぶために言葉を用いることは万葉集の常態であった。地名を導き出すために序詞を設けているばかりでなく、その反対の、言葉を訴えたいために地名を設定することも行われた。すなわち、万626番歌では、禊ぎの場所としてどこへ出掛けるかは問題ではなく、どういう音(言葉)が歌の主旨にかなうかによって詠まれている。その部分は「尾」鰭である。相聞贈歌に異伝を持つことは異例であったとしても、訴えたいことをきちんと伝えるため異例なことをしてわざわざ交換可能な「尾」鰭をつけて歌っている(注4)。禊ぎの場所は別のところでも一向にかまわない。関係をキルを言いたければ、「霧が峰 たるふちに 禊ぎしに行く」なども候補であろう。
 以上、八代女王の献歌について検討した。古代の言葉づかいは端的で、必要十分な最小限を記録することで事の真相を表明することとなっている。だからこそ三十一文字(音)で済む。現代的な感覚で解釈しようとしても本質理解には至らないことがよくわかる例である。

(注)
(注1)影山2017.は、「作歌事情の詳細を伝えない詠への接近は宿命的に動揺する」としつつ、「天平宝字二年の記事と当該歌との短絡が不当であることは確認しておくべき」であるとする。「短絡」はいけないが、確かに論証されるのであれば両者は関係する事項として認めざるを得ない。なぜなら、ほかに事跡のない人物の情報が、よりによって歌に一首、事立てた記事に一か所あれば、その人はそのことでのみ記録されていると考えられるからである。記録する側にモチベーションが働いている。同様の例に、麻続王をみのおほきみの例がある。天武紀四年四月条に流罪になったとする記事が載る。万23・24番歌の左注に紀を引用しているように、関係づけて考えることに不自然なところはない。
(注2)阿蘇2006.に、「「君により」とあるので、女王の恋情のせいではなく、天皇の寵愛のせいで人々に嫉まれ中傷され辛い立場にあることを訴えようとしたものであろう。……聖武天皇の寵愛がかなり目立ち、周囲の反発をかうほどであったことを示している。」(633~634頁)とある。
(注3)伊藤1996.に、「神祭りか何かで明日香へ旅することがあった時、恋の噂を払うために行くとことさら大げさにうたうことで、日頃、恋心に苦しんでいるという思いを託したものか。「献歌」には作品を奉ずるという傾向がある。これも恋を主題にしたもので、こんな歌ができましたという次第で献じたものであろう。」(545頁)とある。
(注4)影山2017.に、「ごくふつうに考えて相聞贈答に異伝を伴うこと自体がまず不自然であり、加えてそれが天皇への献歌であるとしたときに抱かれる不審感は小さくない。献呈に際して詠作者がどれほど心を砕いてことばを紡ぎ、表現を練り、より高い純度の完成形を目指そうとしたか、が容易に想像できるからだ。」(61頁)とあって、迷宮入りしている。「常識的に見て寵愛を受けることは歓迎すべき状態であり、それを迷惑と嫌悪したり、ましてや穢れとして忌避したりする慣習は、ふつうは成立するはずがない。」(66頁)ともいう。歌が心情を表していけないとでもいうのであろうか。基本的姿勢としていただけない。

(引用文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第2巻』笠間書院、2006年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
影山2017. 影山尚之『歌のおこない─萬葉集と古代の韻文─』和泉書院、2017年。(「八代女王の禊ぎ」『武庫川国文』第78号、2014年11月。武庫川女子大学リポジトリhttps://doi.org/10.14993/00000579)
新大系本続日本紀 青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『続日本紀 三』岩波書店、1992年。

※本稿は、2023年8月稿の誤りを2024年7月に正し、大幅に改稿したものである。

佐伯宿禰東人と妻の相聞歌

2024年07月24日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻四の「相聞」の歌である。

  西海道さいかいだうせつ度使どし判官じょう佐伯さへきの宿すく東人あづまひとつまの君に贈る歌一首〔西海道節度使判官佐伯宿祢東人妻贈夫君歌一首〕
 あひだなく ふれにかあらむ 草枕 旅なる君が いめにし見ゆる〔無間戀尓可有牟草枕客有公之夢尓之所見〕(万621)
  佐伯宿禰東人のこたふる歌一首〔佐伯宿祢東人和歌一首〕
 草枕 旅に久しく なりぬれば をこそ思へ な恋ひそわぎ〔草枕客尓久成宿者汝乎社念莫戀吾妹〕(万622)

 現在の一般的な解釈を多田2009.の訳出で確認する。

  西海道の節度使の判官佐伯宿禰東人の妻が夫の君に贈った歌一首
 絶え間なく恋しく思っているからなのか、草を枕の旅にあるあなたが夢に見えることだ。
  佐伯宿禰東人が答えた歌一首
 草を枕の旅にも久しくなったので、お前のことをこそ思っている。そんなに恋に苦しまないでくれ。わが妻よ。(95~96頁)

 これでは意が通じない。少しもおもしろくない(注1)
 佐伯宿禰東人あづまひとが西海道の節度使の判官として単身赴任していた時の歌のやりとりである。アヅマヒトという名の人の妻が、アヅマヒトのことを思うとなると東国の人のことを思うことになる。しかし、当の佐伯東人は今、西海道にいる。妻の夢に出て見えたというのは、ひょっとして東国にいる人のことで、自分のことではないかもしれない。妻は寂しさにかまけて浮気をしかねない様子である。そんなことは嫌だという思いを歌に作って、機知あふれる和歌としたのが万622番歌である。こういう歌を返してもらったら、何言ってんだか、あの人、とにやにやしながらまんざらでもなく思うものだろう。

 「をこそ思へ」、君のことを私のほうが思うことはあっても、「な恋ひそわぎ」、決して恋い焦がれてくれるな、と言っている。彼の名はアヅマヒトである。ヤマトタケルは東方遠征の帰り道、足柄の坂で「づまはや」と妻を偲んで三度歎いたものだった(注2)。この話はよく知られ、上代の人たちの通念としてあっただろう。だから、男の自分のほうが妻の不在を歎くのが正しいのである。そして、もし「」がアヅマヒト、アヅマヒトと恋してしまったら、きっと本当のアヅマヒト、普通名詞の「」であるアヅマヒト、東国の人に巡り合って恋に落ちてしまい、気持ちは自分から移ってしまうであろうというのである。
 「の君」である西海道節度使判官佐伯宿禰東人は落ち着かない。最愛の妻が東国の人に取られかねない。セの君なのであるが、妻の言ってきた歌を「」と肯定できる状況ではない。だから、「な恋ひそわぎ」と禁止、否定してかかっている。禁止を表す「」が「」を湧出させることも懸けて作っている。
 歌に題詞が付いている。わざわざ書いてあるのは、歌がどういう舞台設定で歌われているのか、きちんと示すためである。すなわち、アヅマヒトという名の人が関わらないのであれば、このような歌は少しもおもしろくない歌、ひいては歌として体を成していないもの、歌とは呼べない代物ということになる。題詞とからめて味わうことで、初めて本当の歌の姿、言語ゲームとしての歌意が伝わる。これまでの解釈はハズレであった。
 
(注)
(注1)多田氏は講釈を加えている。何をか言わんや。
▷恋と魂逢いと夢─相手との直接の出逢いが妨げられた時、相手の魂との逢会ほうかいを求めて魂が遊離する状態が恋。魂の遊離は主体の統御を超える作用だから、恋は受動的である。魂逢いが実現すれば、互いに夢を見る。六二一歌では、妻が自分の恋によって、夫を夢見たとうたっている。一方、反対に相手が恋したので、相手が夢に現れたとうたった例もある。→六三九。魂逢いによる夢は、どちらにも及ぶ相互作用だったことがわかる。魂は生命力の本質でもあるから、魂の遊離は持ち主にとっては危険な状態を引き起こしかねない。そこで、六二二歌では、「な恋ひそ我妹」と相手を気遣うことになる。(95~96頁)

(注2)拙稿「ヤマトタケルの「あづまはや」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/07b383a718f7e70925f7b5be16a45c5b参照。
 題詞の「西海道節度使判官佐伯宿祢東人妻」の「妻」を「め」と訓む釈が目につく。新大系文庫本では「つま」とありながら「くん」とルビが付いている。「づまはや」の逸話に近づけておらず、上代の人の心に届いていない。

(引用・参考文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店、2013年。
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解 2』筑摩書房、2009年。

留京歌(万40~44)について

2024年07月22日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 持統六年三月、天皇は伊勢へ行幸した。中納言三輪朝臣高市麻呂は時期が悪いから延期するように諫言したが天皇は強行した。その時に歌われた歌が万葉集巻一の万40〜44番歌である。最初の三首は柿本人麻呂の歌で、当麻たぎまのひと麻呂まろの妻、石上大臣いそのかみのおほおみが一首ずつ加えている。  

  勢国せのくにいでます時に、みやことどむる柿本朝臣人麻呂の作る歌〔幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麻呂作歌〕
 嗚呼見あみの浦に ふなりすらむ 娘子をとめらが たますそに しほ満つらむか〔鳴呼見乃浦尓船乗為良武𡢳嬬等之珠裳乃須十二四寳三都良武香〕(万40)
 くしろく たふさきに 今日けふもかも 大宮人おほみやひとの たま刈るらむ〔釼著手節乃埼二今日毛可母大宮人之玉藻苅良武〕(万41)
 潮騒しほさゐに 伊良虞いらごしま 漕ぐ船に いも乗るらむか 荒きしまを〔潮左為二五十等兒乃嶋邊榜船荷妹乗良六鹿荒嶋廻乎〕(万42)
  当麻たぎまのひと麻呂まろの作る歌〔當麻真人麻呂妻作歌〕
 背子せこは いづくくらむ 沖つ藻の ばりの山を 今日けふか越ゆらむ〔吾勢枯波何所行良武己津物隠乃山乎今日香越等六〕(万43)
  石上大臣いそのかみのおほまへつきみ従駕おほみともなりて作る歌〔石上大臣従駕作歌〕
 わぎ妹子もこを いざ見の山を 高みかも 大和やまとの見えぬ 国とほみかも〔吾妹子乎去来見乃山乎高三香裳日本能不所見國遠見可聞〕(万44)
  右は、日本紀に曰はく、「朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔にして戊辰に、浄広じやうくわう広瀬王ひろせのおほきみ等を以て留守官とどまりまもるつかさと為す。是にちうごんわの朝臣高市あそみたけち麻呂まろ、其の冠位かがふりきてみかど擎上ささげ、重ねていさめてまをさく、『農作なりはひさきに、車駕みくるま、未だ以て動くべからず』とまをす。辛未に、天皇、諌めに従ひたまはず。遂に伊勢に幸す。五月乙丑の朔にして庚午に、胡行宮ごのかりみやいでます」といふ。〔右日本紀曰朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰以浄廣肆廣瀬王等為留守官於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位擎上於朝重諌曰農作之前車駕未可以動辛未天皇不従諌遂幸伊勢五月乙丑朔庚午御阿胡行宮〕

 これらの歌はいわゆる行幸従駕歌と見られている(注1)がそうではない。四首目まで行幸時に京を守るために残された側から歌われている。この時の行幸では、三輪高市麻呂が反対し、冠位を捨てる覚悟で諫言している。なぜ天皇は行幸を決行したのか、なぜ三輪高市麻呂は猛烈に反対したのか、その理由等については、これまでにも諸説あげられてきたが、なお要を得た回答は得られていない。
 ただ言えるであろうことは、都に留まる側から行幸する人への思いを歌った歌が冒頭から四首も続いているのだから、三輪高市麻呂の立場と同じ思いを歌っている可能性が高いという点である。この歌を万葉集に採録した人はそのことを理解していて、適切に左注を施したのだろう。
 三輪高市麻呂は、諫める理由に「農作なりはひ」をあげている。憲法十七条の第十六条に、「十六に曰はく、おほみたからを使ふに時を以てするは、古の良きのりなり。かれ、冬の月にいとま有らば、以て民を使ふべし。春より秋に至るまでに、農桑なりはひこかひときなり。民を使ふべからず。其れなりはひせずは何をかくらはむ、こかひせずは何をかむ。」(推古十二年四月)とある。季節的にも「春三月」なら田植えの時期に近い農繁期に当たり、人民は多忙を極めていたことであろう。農作業に支障が出ては農本主義は成り立たない。当然の主張である。一連の歌のなかでは、万43番歌が農作業にかかわらせて歌を詠んだものと思しい。

 背子せこは いづくくらむ 沖つ藻の ばりの山を 今日けふか越ゆらむ(万43)

 人麻呂の三首に続いて当麻たぎまのひと麻呂まろの妻が歌を作っている。タギマノマヒトマロのことを思ってのことであろう。どうして登場しているのか。タギマという音が、タク(動詞)+ウマ(馬)のこと、馬の手綱をたくし上げるように操ることと関係していると思ったからであり、思わせたいからであろう。春の農作業、田作りをとりあげている。馬を使う作業としては、田起しや田均しがある。馬に馬鍬を引かせて代掻きをした。「農作之前」にすることである。なのに、当麻真人麻呂は従駕させられ、あろうことか農耕に使うべき馬に乗って出かけてしまった。田作りは疎かになってしまっている。我が夫はどこを進んでいるのだろう、藻が流れていってどこへ行ったかわからないように隠れてしまうという、そのナバリの山を今日あたり越えているのだろう、いい気なものだ、とぼやいている。伊勢への行幸だから、海にまつわることを持ち出すために「沖つ藻の」という枕詞を登場させ、ナバリという地名を歌っている。流れ流れてどこへ行ったものか、代掻きもしないで、という意味である。そのとき、ナバリには、ツナ(綱)+ハリ(張)の意を込めていたのだろう。条里制の田で一気に代掻きをするために、嫌がる馬を泥田へと手綱を張って引き入れて馬鍬を引かせていた。

 わぎ妹子もこを いざ見の山を 高みかも 大和やまとの見えぬ 国とほみかも(万44)

 さらに石上大臣いそのかみのおほおみの歌が載っている。彼はイソノカミという名を負っている。いそいそと勇んで見ようとしている。従駕しているから、大和の方を見るために振り返っている。ちょうどイザミという山のあるところを通過している。さあ、見ようというのだが、イザミの山が高いからか、大和国が遠いからか、大和は見えない。進みながら振り返って見ようとすることは、振り返りつつ離れて行っている。上代では「振りけ見る」という。そういう行為に石上大臣いそのかみのおほおみは適任である。なぜなら、イソノカミという音は、イシノカメという音の転訛したものと思われるからである(注2)。石のかめ(メは乙類)は酒を入れておく容器である。石を穿って作ったものではなく、石のような風合いの須恵器のことを指している。「さけ」(ケは乙類)は「け」(ケは乙類)と同音である。どんなに勇んで見ようとしても、それにふさわしい名を負っている私が見ても、大和を目にすることはできない。早く帰ろうよ、と歌っている。
 人麻呂作の三首も、同じように諫言の気持ちをもって歌われたものと考えられる。伊勢(志摩を含む(注3))地方の地名を詠み込みながらなじるような歌になっている。

 嗚呼の浦に 船乗りすらむ 娘子をとめらが たますそに 潮満つらむか(万40)

 万40番歌では、「たますそに潮満つらむか」と言っている。今は「農作之前」である。尻をからげながら泥田の水に浸かって作業をすべきところである。タヅクリ(田作り)の時、きれいな衣装を身に纏うこと、タヅクリ(手作り)などしない(注4)。「大和やまとの 忍 おし のひろを 渡らむと よひづくり 腰づくらふも」(紀106)とあり、「づくり」は手で衣類の紐を結ぶなどして身づくろいすることをいう。盛装していながら海辺で遊んでいる場合ではないのである。
 この歌で、「らむ」は二つ使われている。現在そうしているだろうと推量しているわけだが、後者のそれは疑問の助詞「か」を伴っている。裳の裾に潮が満ちているだろう、と言っているのではなく、裳の裾に潮が満ちているのだろうか、と疑問を投げかけている。情景を到底見ることなどできない都にいながら、推量に疑問を加えている。意図してそう歌っているとしか考えられない。場所は「嗚呼の浦」である。当時の船の停泊形態としては、大型船の場合、ラグーンのようなところへ乗り入れて潮が引くのを待ち、干潟に乗り上げるようにしていた。出航形態はその逆をたどる。水位が増してきて船が浮かび、初めて航行が可能となる。
 ところが、その場所はアミノウラである。アミ(網)+ノ(助詞)+ウラ(浦)ということは、浦という、海からみて奥まったところに海の水が満ちるのを待たなければならない。船の周りに潮を持って来ることを考えると、桶や盥で汲んできて満たせば何とかなるのだが、網では水を汲もうにも汲むことはできない。だから、いつまで待ってもちっとも船出はできないのではないか。「たますそに潮満つらむ」ことなんてないのではないか、と皮肉を言っているのである。

 くしろく たふさきに 今日けふもかも の たま刈るらむ(万41)

 この歌の原文では、元暦校本などにより「今日」としているが、西本願寺本には「今」とある。「今もかも」と訓む可能性が残されている(注5)。筆者は、歌意を理解するうえで、「今もかも」が正しいと考える。
西本願寺本万葉集(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1242401/1/20~21をトリミング接合)
 万40番歌で歌っていた「たま」を引き継いで、「たま」を歌っている。当たり前の話であるが、たまを刈るのは漁民の仕事であって、大宮人おほみやひとのすることではない。では、宮廷社会の人間がタマモカルことがなかったかといえば、一度事件になったことがある。麻続王をみのおほきみ事件である。麻続王がその子どもを相手に、天皇の冠、中国で皇帝が被るぎょくそうと呼ばれる冠を被せて遊んでいた。天武天皇は激怒し、子どもを含めて流罪にした。天武四年(675)のこの事件のことは万葉集の万23・24番歌にも録されており、17年経過した持統六年(692)でも人々の間に記憶されていたことであろう。ぎょくそうを借りるのとたまを刈るのとを絡めた洒落の歌が歌われた(注6)。すなわち、万41番歌においては、今でも玉藻を借りて遊ぶ輩がいるらしいと皮肉を言っていることになっている。
 この解釈が正しいのは、序詞風に歌われている上の句が証明している。「くしろく たふさきに」の「くしろく」はタフシという地名の頭音、タ(手)を導く枕詞である。くしろというブレスレットは、手に巻くからたまきとも呼ばれる。そんな手の関節、タフシ(手節)のことを表してしまう地名、たふの、さらに先のことを問題にしている。手首の関節よりも先にあるのは指である。古語にオヨビと言った。和名抄に、「指 唐韻に云はく、指〈諸視反、由比ゆび。俗に於与比およびと云ふ〉は手の指なり、指扐〈音は勒、於与比乃万太およびのまた〉は指の間なりといふ。」とある。ヨの甲乙は不明ながら仮に乙類であるとすると、オヨビは動詞オヨブ(及)の連用形と同音である。「及ぶ」とは、至る、達する、の意で、時間的にも、空間的にも使われた。今に至るまでもまだぎょくそうを借りてたまを刈るようなことになっているのだろう、と皮肉っている。
 では、この人麻呂の歌はいつ歌われたのか。実際に行幸へ出掛けてしまってから都で歌われたものが、使者によって伊勢へ届けられたとは考えにくい。題詞を注意深く読むと、「幸于伊勢国時、留京柿本朝臣人麻呂作歌」と書いてある。行幸へ出掛けようとする寸前に、天皇一行がまだ都にいるときに歌われた歌である可能性がある。三輪高市麻呂が諫言したのとほど近い時に歌われたものであると推測される。

 潮騒しほさゐに 伊良虞いらごしま 漕ぐ船に いも乗るらむか 荒きしまを(万42)

 この歌は、「船にいも乗るらむか」とあり、船に彼女は乗船するのだろうか、と疑問を呈している。潮がさわさわと音を立てていて、島のめぐりは荒波が立っている。そんな伊良虞いらごの島のあたりで船に乗ろうとしないのではないか、というのである。行幸へ行っても波が荒くて船に乗りたがらない女性たちがいて、ちっともおもしろくないよ、と言いたいのである。行幸に反対する意を表明している。
 イラゴというからには、イラ(苛・莿)なる性格を有するところだろうと推測している。都から遠く離れたところの実際の地誌については知られていない(注7)。それでもイラゴノシマというところなのだから、イラ(苛・莿)なる島であろうと知恵が働いている。少なくとも歌を歌い、その歌われた歌をその場で聞いた人たちの間では、そのように思われたであろうと考えられる。それ以外にイラゴノシマという地名がとり上げられた理由は見出だせない。
 何がイラ(苛・莿)なのか。島の性質なのだから、磯が多くて岩礁、暗礁がめぐっている島だと感じられよう。だから、やたらと潮騒の音がすることになっている。潮流の激しい時に海鳴りがしているのである。ざわざわと音がするのは、潮の流れが海中の巌にぶつかっているからである。海のなかにあって上からは見えない岩石のことを、上代語でイクリ(海石)と言った。「門中となか海石いくりに」(記74)とある(注8)。時に船が接触して難破する危険性がある。
 そんな海石いくりが「しま」、つまり、島をめぐっている。だから、イラゴノシマはどこを取ってみても「荒きしま」になっている。イクリがメグリにある。ということは、「漕ぐ船」というのは、航行において比較的安定した大型船ではなくて、小さなクリブネであると直感される。クリという音が連想されるからである。遠くを進む刳船を陸上から見ると、波立つところで波に揉まれ、船端は高い波に隠れているに違いない(注9)。ちょうど、海石いくりが海面に隠れて暗礁となっているようにである。刳船には海水が入ってきていつ沈むか知れやしないから、暗礁が周囲にある島であえて船に乗ろうとするだろうか。女官が尻込みするような危険なことを無理強いしてどうなるのか、伊勢行幸は止めたらよいのではないか、というのがこの歌の主張である。
 以上、伊勢行幸時の留京歌(万40〜44)ほかは、三輪高市麻呂と同じく行幸を思い留まらせようとして歌われた歌であった(注10)。題詞の「幸于伊勢国時、留京柿本朝臣人麻呂作歌」にある「留」字は、自動詞トドマルではなく、他動詞トドム(下二段)の連体形と、上二段活用のトドムの連体形を兼ねた表現である。他動詞のトドムは、引き留める意であり、上二段の用例は山上憶良の歌に限られる。「留みかね」の形で使われており、留めておくことができないニュアンスを含んでいたかと思われる。これらの反対意見を排して持統天皇は行幸に出立した。行幸は公式行事である。御用歌人の人麻呂が自発的に留まると言って留まることなどできるはずはなく、随伴しなければならないのだが、減らず口を挟むのなら留まっていなさいと命じられて留まっていたということだろう。

(注)
(注1)これまでの、なぜ左注が記されているのかを無視した解釈や、そこに「農作なりはひ」とまで明示されている点を顧慮しない臆説については、各種注釈書や参考文献を参照されたい。
(注2)拙稿「「石上(いそのかみ) 布留(ふる)」の修飾と「墫(もたひ)」のこと」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/63ce526724ddc00295935ef605f00c7b参照。
(注3)「……及び伊賀いが伊勢いせ志摩しまのくに国造くにのみやつこども冠位かうぶりを賜ひ……」(持統紀六年三月)とあって、この頃に分国したと考えられている。
(注4)タツクリと、共に清音であったかもしれない。紀歌謡原文には「陀豆矩梨」とある。
(注5)中西1978.70頁に適切な注釈が施されている。
(注6)拙稿「玉藻の歌について─万23・24番歌─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/1a892d49d86103f4b75e31d62cff4c78/?cid=defef9518fa2bff0745395aee2ec3fad参照。
(注7)無文字時代に知識の集積体である歌枕的な発想はない。歌をやりとりする上で皆が共有してはじめて歌枕は利用可能となる。万葉集に見られる上代においては、言葉(音)だけが頼りであり、言葉と一体となる事柄だけが求められた。文字が読めない人ばかりの時、そうでなければ通じないからである。本来の意味での言霊とは、言=事なる一致点を強調した考え方による。
(注8)イクリ(海石)という言葉は、「涅 唐韻に云はく、涅〈奴結反、和名は久利くり〉は水中の黒土なりといふ。」と関連がある語と考えられている。「農作」、つまり、田作りの時に行幸を決行しようとする天皇への諫言を助勢する歌である。タツクリ・・と韻を踏んでいる。和名抄にも、「佃 唐韻に云はく、佃〈音は田と同じ、和名は豆久利太つくりた久利〉は作り田なりといふ。」とある。そしてまた、砂浜で見ることができる大きめの貝にハマグリ・・がある。石ころのようなものをクリと呼んでいるわけで、イクリはイソ(磯)+クリ(栗)の約かもしれない。和名抄に、「栗 兼名苑に云はく、栗〈力質反、久利くり〉は一名に撰子といふ。」とある。
(注9)クル(刳)、クリブネ(刳船)という言葉の確例は上代に見られない。ただ、単材式刳船、いわゆる丸木舟は、岩礁の多い海岸の小型漁船として近代まで活躍していた。ぶつかっても全壊することは少なく、重心も低く傾いても復元力を有していた。
(注10)神野志2010.に、澤瀉1957.が「をとめら」→「大宮人」→「妹」と対象を狭めながら歌い進んでいるという指摘(307頁)を推し進め、最終的に公的な立場から離れた私的領域を歌うことになっていて、連作のなかで私的領域までからめるかたちになっているという。そして、「『万葉集』の「歴史」は、私的領域を見出しながら、そこまで組みこんだ世界をあらわしだすのだといってよいであろう。」(215頁)と結論づけている。人麻呂唯我論が始まっているようである。論じてきたように、人麻呂の歌(万40〜42)に続く当麻たぎまのひと麻呂まろの歌(万43)、石上大臣いそのかみのおほまへつきみの歌(万44)は一連の歌であり、左注冒頭の「右」はそれら五首すべてにかかる。当たり前の話だが、人麻呂が宮廷社会の中心にいるわけではないし、歌を中心に世界が回っているわけでもない。

(引用・参考文献)
尾崎2015. 尾崎富義『万葉集の歌と民俗諸相』おうふう、2015年。
澤瀉1957. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第一』中央公論社、昭和32年。
神野志2010. 神野志隆光「私的領域を組み込み、感情を組織して成り立つ世界─泣血哀慟歌から考える─」高岡市万葉歴史館編『生の万葉集』笠間書院、平成22年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、平成19年。
多田2017. 多田一臣『柿本人麻呂』吉川弘文館、2017年。
辻󠄀尾2018. 辻󠄀尾榮市『舟船考古学』ニューサイエンス社、平成30年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
廣岡2021. 廣岡義隆『萬葉風土歌枕考説』和泉書院、2021年。

山部赤人の印南野行幸歌

2024年07月17日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻六の前半に、かさの金村かなむら車持千年くるまもちのちとせ山部赤人やまべのあかひとによる長反歌からなる行幸従駕歌がある。ここでは山部赤人の印南野行幸従駕歌について検討する。

  山部宿やまべのすく赤人あかひとの作る歌一首〈并せて短歌〉〔山部宿祢赤人作謌一首〈并短歌〉〕
 やすみしし わご大君おほきみの かむながら 高所知須 印南いなみのの 大海おほみの原の 荒栲あらたへの ふぢの浦に しび釣ると 海人あまぶねさわき 塩焼くと 人そさはにある 浦をみ うべも釣りはす 浜をみ 諾も塩焼く ありがよひ 御覧母知師 きよ白浜しらはま〔八隅知之吾大王乃神随高所知須稲見野能大海乃原笶荒妙藤井乃浦尓鮪釣等海人船散動塩焼等人曽左波尓有浦乎吉美宇倍毛釣者為濱乎吉美諾毛塩焼蟻徃来御覧母知師清白濱〕(万938)
  反歌三首〔反謌三首〕
 おきつ波 邊波安美 いざりすと ふぢの浦に 船そ騒ける〔奥浪邊波安美射去為登藤江乃浦尓船曽動流〕(万939)
 印南野の あさ押しなべ さの 長くしあれば いへしのはゆ〔不欲見野乃浅茅押靡左宿夜之氣長在者家之小篠生〕(万940)
 あかがた しほの道を 明日あすよりは したましけむ 家近づけば〔明方潮干乃道乎従明日者下咲異六家近附者〕(万941)

 これら赤人の行幸従駕歌は、一般に、土地の讃美をもって王権讃美に代えた作とされ、柿本人麻呂の吉野讃歌の様式に則ったものと捉える見方が主流となっている(注1)。筆者はすでにいわゆる吉野讃歌が王権を讃美するためのものではないことを明らかにしている(注2)。当該長反歌も、土地の讃美や王権の讃美ではない。第一に、釣りをしたり塩焼きをしたりすることを歌うことがどうして土地の讃美になるのか皆目わからない。第二に、万940・941番歌では家に帰りたい気持ちを歌っていて、訪れている印南野に名残惜しさが感じられず、長歌と反歌の関係性が不明である。第三に、これらの歌は行幸時に歌われていると考えられるが、歌を聞く対象は従駕している人たちで、つまりは都から来ている人たち、ふだんから王権を支えている宮廷人たちであり、辺鄙なところで自画自賛しても何も始まらないからである。
 虚心坦懐にこれらの歌を聞いた時、印南野はこんなところです、よく来ましたねぇ、目的は達成されましたから、さあ、そろそろ帰りましょうよ、と歌っているように感じられる。歌は歌である。理屈を並べて陳述してみてもその場で耳で聞く人の心には届かない。人々が共感する内容が歌われたから、歌として成立しているものと考えられる。それ以外のものはわからない歌であり、記憶されず、記録もされなかっただろう。
「高所知須」(元暦校本万葉集、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0002621・E0002621をトリミング結合)
 長歌には訓みに難がある箇所が見られる。「高所知須」、「御覧」、「邊波安美」の訓みが定まっていない。「高所知須」については、「須」字を西本願寺本で「流」とするが、元暦校本では「須」とし、右傍に「流イ」としながら朱で見せ消ちがあって「須」が正しいと認識されていた。讃美の歌だという色眼鏡で見てしまうと、「高所知」を採って訓みを歪曲し、「たか知らせる」と誤って訓みたがってしまう。そして、「御覧」については、「ます」や「さく」などと訓まれている。フラットな気持ちで向き合わなければ本文校訂はできない。
 まず、「神ながら」という言葉の意味を捉え直す必要がある。「神ながら」という言葉は、「神の性質として。神であるままに。」(岩波古語辞典340頁)の意とされ、天皇が神性を有して支配することを表すための語であると考えられてきた。しかし、「神」という言葉は人知を超えたところにあることを強調する。人間が神となるにはある特殊な状況が求められる。死んだら神になる(注3)。今、挽歌を歌っているわけではない。「神ながら」という言葉は、天皇が神さながらにうまく「高所知須」ことをしているということではなく、「神」がいて当たり前に通じていること、人の意向を超越し、予定調和的にうまくかなっていることを表しているものである。歌の文句の「やすみしし わご大君」という枕詞による掛かり方が、神業的に絶妙な言い回し、あやなす巧みな言い方であると追いかけながら形容している言葉、それが「神ながら」である(注4)。「神ながら」が登場する他の歌を見ても、「蜻蛉あきづしま やまとの国」や「葦原あしはらの みづの国」などと常套句が現れている。ただの「わご大君」や「倭の国」や「瑞穂の国」では「神ながら」とは言えない。「やすみしし わご大君」、「蜻蛉島 倭の国」、「葦原の 瑞穂の国」と、形容表現として慣用化していることに対して言葉に神意が顕れているとして、「神ながら」と称しているのである。当たり前に「やすみしし わご大君」という言葉づかいをするように当たり前に「高所知須」ことになっていると言っている。何が当たり前といって、オホキミと呼んだ時点で支配者であることを認めているのだから、どこだって支配するのは当然のことなのである。嫌だ嫌だという意味のいなむと呼ばれているイナミノというところであれ変わりはない。長歌の冒頭、「やすみしし わご大君おほきみの かむながら 高所知須 印南いなみの」の歌意はただそれだけである。
 ここまでの検討で、長歌で何を歌いたいかかなり明らかになっている。印南野に行幸しているが、ここは天皇が支配している。ここへは行幸で来ているのであって、敵地へ遠征に来ているのではない。天皇の支配が確立しているところである。わかりきったことを歌にしている。そんなことを歌って何になるか。それはそもそも長歌というものの性質にかかわる。だらだらと尻取り式に語句を並べ、対句をとり入れながら歌い進めている歌を聞き取ることができるのは、最初から聞き手が歌の内容を理解しているからである。もし何か殊更の主張があったら、聞く人は徐々に疲れてきて聞かなくなってしまうだろう。だからこそ、歌に予定調和的な言葉が配されており、よく似合っているのである。
 もちろん、わかっていることをだらだら漫然と述べて話にオチがないというのではおもしろくない。オチを期待してだらだら続く言葉列を聞いている。この歌のオチは「きよ白浜しらはま」である。歌っているのは赤人である。赤人という名を負っていて、色について論じるのにもってこいの人物である。最後のオチ、シラハマへ向け、収斂するために歌の中の語句は散りばめられている。「高所知須」、「御覧母知師」の訓みはこれにより定まる。 
 「高所知須」については、七音に訓もうとして「たかろしめす」(紀州本)といった案が出されている。しかし、無理に七音に訓む必要はない。「神ながら」が予定調和、慣用句を示しているのだから、その点を強調するためには五音で訓むことに支障はないし、かえって効果的でさえある。すなわち、「たからす」と訓めばよいのである。「やすみしし わご大君おほきみの かむながら たからす 印南いなみの ……」と歌えば、われらが天皇陛下が支配なさるのは当たり前の印南野のことですがね、と前置きをしていることになる。五音で言い切ることで、イナミノが否もうがどうしようが支配するに決まっているじゃないか、と印象づけることに成功している(注5)。歌のオチはシラ・・ハマであり、タカシラ・・スという訓みの正しさが検証されている。シラの音が掛かっている。
 次に「御覧母知師」について考える。「覧」字は万葉集中に他に六例ある。「梅の散るらむ〔梅乃散覧〕」(万1856)、「行くらむわきも〔徃覧別毛〕」(万2536)、「妹待つらむか〔妹待覧蚊〕」(万2631)、「くるらむわきも〔明覧別裳〕」(万2665)、「乳母おももとむらむ〔於毛求覧〕」(万2925)、「今日か越ゆらむ〔今日可越覧〕」(万3194)である。みな助動詞ラムを表している。
 「御覧母知師」は素直にミラムモシルシと訓めばよい。現在の推量を表す。「ありがよひ らむもしるし」、つまり、いつも通ってきて見ることになっているらしい徴候として「きよ白浜しらはま」はあるのだ、と言っている。「しるし」は名詞、助詞モは不確かさを表している。印南野に来るのははじめてで、今後も通ってきて見るように常態化するかどうかは本当のところはわからないため、不確かさを表す助詞モを伴っている。どうしてそのように奥歯に物が挟まったような言い方をしているのか。簡単である。帰りたいのである。また来ればいいじゃないかと思っている。だから、常に通って見るだろうと言い、その証拠に、きれいなシラハマがあることを示している。地名としてはイナミ(否)だけれど、実態としては支配、領有されることを嫌がってなどいない。完全にヤマト朝廷の版図内である。シラハマ(白浜)があるとおりシラス(知・領)ところなのだからいつでも来れますよ、と言っている。ホームシックの気持ちを歌う反歌(万940・941)との整合性もとれている(注6)。行幸に従っている宮廷人たちの間に帰りたい気持ちが募っていたから、その気持ちを代表して歌にして声をあげている。これまで論者が述べていたように万940・941番歌で私情を詠むことの意味を問題にする必要はない。なぜなら、土地褒めも王権讃美もなく、〈公〉と〈私〉の区別もないからである。長歌から一貫して、ねえ帰ろうよと歌っているだけである。頭をひねって何事であるかを議論する対象ではない(注7)
 第一反歌の「邊波安美」の訓みについては、ヘナミヲヤスミ、ヘナミシヅケミ、ヘツナミヤスミ、ヘナミヤスケミなどが案としてあげられている。澤瀉1960.は「波に対して「安し」と云つた例は無」(73頁、漢字の旧字体は改めた)いとし、鈴木2024.は「赤人の作品中、……「を」はすべて「乎」ないし「矣」で表記され、読み添えとなる例はない。」(155~156頁)と指摘して、ヘナミシヅケミと訓む説を主張する。傾向としてはそうかもしれないが、例外を排除するものではない。
 長歌において、「御覧母知師」を「らむもしるし」と訓むことが確認された。将来的な徴候について語っている。すなわち、この反歌でも、将来の見通しについて安心していられること、以後も波が立たずに気兼ねなく漁に出られることを言おうとしているものと考えられる。それを古語にヤスシ(安・易)という(注8)
 漁をするのに船を出す際、気をつけなければならない波には二通りある。船を出すときの海岸での波と、出てからの波浪である(注9)。海岸に打ち寄せる波は受けても命にかかわらないものの、ひどく水が入ったり船が横倒しになったりしてやり直しになることがある。船出した後の波は操舵の自由を奪われたり、魚がおびえて釣果が乏しかったりする。その両方を対比して言おうとしているから、「おきつ波」と「つ波」と形をそろえているものと考えられる(注10)。よって、ヘツナミヤスミと訓み、「つ波やすみ」の意であると捉えるのがふさわしいだろう。「おきつ波」も「つ波」も、今もそうだがこれからも安らかであるだろう、そう言えるのは、「きよ白浜しらはま」が「らむもしるし」としてあるのだから、という理屈である。もちろん、科学的な言説ではなく、言葉づかいのロジックを語っている。声に出して歌って周囲の人に聞いてもらうのが上代の歌だから、その場で通じて聞いただけで楽しめることを言っているのであった。

(注)
(注1)梶川1997.、神野志2001.など。
(注2)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2be68298a70ce0aab17ace7832ecd2e0、「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/b28999093cc2e134e55a0f0751b4602e参照。
(注3)「現人神あらひとがみ」(景行紀四十年是歳)、「現人之神あらひとがみ」(雄略紀三年四月)、「現人神あらひとがみ〔荒人神〕」(万1020・1021)といった例もあるが、人の形となって現れた神という意味合いが強く、神の万能性を述べたものではない。景行紀の例は、蝦夷えみしに対する威圧のための方便としてその子であるとヤマトタケルが言い放った言葉、雄略紀の例は一事主神ひとことぬしのかみが人の姿となって現れて言った言葉として登場している。万1020・1021番歌の例は、「住吉すみのえの 現人神あらひとがみ」とあり、海神である住吉神を指しており、あるいは人の形に作って船霊として祀られていたものかもしれない。
 また、「あきつ神〔明津神〕」(万1050)と歌の冒頭にあって「わご大君」に被さっているのは、「久邇くにあらたしきみやこたたふる歌二首〈并せて短歌〉」のもとに詠まれた歌で、古の神代の言い伝えによりながら遷都していることを歌ったものだから、神が人の形となって現れていると形容するために冠せられているものと考えられる。拙稿「恭仁京遷都について─万葉集から見る聖武天皇の「意」─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/d0d5cf0a4d2b25a651a0ebd895f8f7da参照。
(注4)天皇が支配することを讃美して「神ながら」と形容しているとしたら、一介の下級役人の分際で評論していることになりはなはだ不遜である。拙稿「「言挙げ」の本質にについて」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/7c75b6111e2415c0f4fc7b72704f61d4、「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/61bf39dd1ec35148ebc105c4de9f0abd参照。
(注5)神野志2001.や廣川2023.は、「高知らす」や「高知る」、「高知ります」には、「宮」、「高殿」、「大御門」「御舎みあらか」などの言葉を伴って、建物の高さ、壮大さを表すはずであると指摘している。続紀・神亀三年九月条に、「従四位下門部王・正五位下多治比真人広足・従五位下村国連志我麻呂等一十八人を以て造頓宮司とす。播磨国印南野に幸せむとしたまふ為なり。」なる記事があるものの、「頓宮」は仮殿以上のものではない。印南野には立派な離宮は存在しない。そんなところで「高知らす」と口を滑らせている。破格の五音で歌うことで、豪華な別荘もないところにいつまでも留まることに対する疑問の念を表明としてふさわしい。
(注6)第二・第三反歌は、長歌の主題を受け継ぎ、内容を要約するという一般的な反歌のあり方とは異なっていると考えられ、それが定説化している。そのうえでの辻褄合わせの考えが梶川1987.、伊藤1996.、稲岡2002.、清水2005.、阿蘇2007.、神野志2013.、廣川2023.、鈴木2024.に見られる。みな長歌の意が酌めていない誤読である。「行幸の時の歌であっても、……[私情を社会化して]歌うべきものであったというべきなのであり、私情までをからめてとり込んであることを、『万葉集』の世界の本質として見るべきなのである。」(神野志2013.22頁)、「[万940・941番歌の]「望郷の心」も〈君臣の共感〉に裏打ちされたものであると理解できる。」(廣川2023.38頁)、「プロパガンダ的なパフォーマンスという意味が明らかにな[り、]……有徳の天子として喧伝される必要があった。」(鈴木2024.169頁)などと大風呂敷を広げてみても、歌から離れた空理空論でしかない。
(注7)歌は歌われて周囲の人々に聞かれることで成り立っている。印南野に行幸したご一行の気持ちを表すために「山部宿禰赤人の作る歌一首〈并せて短歌〉」が歌われている。題詞に書いてあること以上/外の事柄、例えば聖武天皇は偉いなあ、といったことは歌われていない。歌詞にないことを読み取ろうとすることは、「こくご」の科目では御法度、零点である。
(注8)ヤスシの意味として、物事のなりゆきに障害や不安がないから安心していられる。その感覚には時間の感覚を含んでいて将来不安がないことをいう。これからも平穏無事だと思えなければヤスシにならず、夜も寝られない。

 たまきはる うちの限りは たひららけく 安くもあらむを 事も無く  も無くもあらむを ……(万897)
 さは 多くあれども ものはず 安く寝る夜は さねなきものを(万3760)

 第一例に「平らけく 安くもあらむ」とあり、当該反歌、万939番歌の用例と合致した使い方である。
(注9)波に風浪とうねりの違いがあることは知られていたであろうが、船を出して「鮪釣」、マグロ釣りをするのに支障があるものとして山部赤人という都会人が考えている。歌の言葉に沖の波と波打ち際の波とを対比させて歌にしている。
 なお、東1935.は、マグロは瀬戸内海にいないから別の魚を候補にあげている。しかし、この歌は忠実に叙景しているとは認められないから、通例のとおりマグロと考えるのが妥当である。「浦をみ」を「うべ」の根拠としている。船を漕ぎ出して沖釣りをする際、魚種を「浦」の様子から想定することはできないではないか。
(注10)「おきつ波」に対して「なみ」のケースが多いものの、「おきつ波」と「つ波」の形も存在する。

 …… わぎ妹子もこや が待つ君は おきつ波 来寄きよ白玉しらたま つ波の する白玉 求むとそ ……(万3318)

(引用・参考文献)
阿蘇2007. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第3巻』笠間書院、2007年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 三』集英社、1996年。
稲岡2002. 稲岡耕二『萬葉集(二)』明治書院、平成14年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
澤瀉1960. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第六』中央公論社、昭和35年。
梶川1997. 梶川信行『万葉史の論 山部赤人』翰林書房、1997年。
神野志2013. 神野志隆光『万葉集』の「歴史」世界─巻六をめぐって─」『萬葉』第214号、平成25年3月。萬葉学会HP https://manyoug.jp/memoir/2013
神野志2001. 神野志幸恵「赤人の印南野行幸歌」坂本信幸・神野志隆光編『セミナー万葉の歌人と作品 第七巻 山部赤人・高橋虫麻呂』和泉書院、2001年。
清水2005. 清水克彦『万葉論集 第二─石見の人麻呂他─』世界思想社、2005年。
鈴木2024. 鈴木崇大『山部赤人論』和泉書院、2024年。(「山部赤人の神亀三年印南野行幸従駕歌」『東京大学国文学論集』第9号、2014年3月。東京大学学術機関リポジトリhttps://doi.org/10.15083/00035090)
東1935. 東光治『万葉動物考』人文書院、昭和10年。
廣川2023. 廣川晶照「山部赤人「播磨国印南野行幸歌」について」『美夫君志』第106号、令和5年4月。

紀伊行幸時の川島皇子と阿閉皇女の歌─題詞のフレーミング機能について─

2024年07月15日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 持統天皇の紀伊行幸時、四年九月に歌われたとされる歌二首である。

  紀伊きのくにいでましし時に川島皇かはしまのみの作りませるうた〈或に云ふ、山上臣憶良やまのうへのおみおくらの作〉〔幸于紀伊國時川島皇子御作歌〈或云山上臣憶良作〉〕
 白波しらなみの 浜松はままつの 向草むけぐさ 幾代いくまでにか 年のぬらむ〈一に云ふ、年はにけむ〉〔白浪乃濱松之枝乃手向草幾代左右二賀年乃経去良武〈一云年者経尓計武〉〕(万34)
   日本紀に曰はく、朱鳥あかみとり四年庚寅の秋九月、天皇すめらみこと紀伊国に幸すといへり。〔日本紀曰朱鳥四年庚寅秋九月天皇幸紀伊國也〕
  の山を越えし時に閉皇女へのひめみこの作りませる御歌〔越勢能山時阿閇皇女御作歌〕
 これやこの 大和やまとにしては ふる 紀路きぢにありといふ 名にの山〔此也是能倭尓四手者我戀流木路尓有云名二負勢能山〕(万35)

 一首目は、川島皇子が作ったとことになっている歌で、山上憶良が代作したものかもしれないということを題詞が伝えている。諸説に、有間ありまの皇子みこの挽歌との関係が指摘されているが、有間皇子の歌は政争に負けて刑死させられたときのただならぬものである。有間皇子の歌は、斉明天皇の「紀温湯きのゆ」(斉明紀四年十月)への行幸時の歌を元歌にして作られている。また、有間皇子の挽歌に感銘して追和した歌もある。

  中皇命なかつすめらみこと紀温泉きのゆいでましし時の御歌〔中皇命徃于紀温泉之時御歌〕
 君が代も が代も知れや 岩代いはしろの 岡のくさを いざ結びてな〔君之齒母吾代毛所知哉磐代乃岡之草根乎去来結手名〕(万10)
 吾が背子せこは かり作らす 草なくは 小松が下の 草を刈らさね〔吾勢子波借廬作良須草無者小松下乃草乎苅核〕(万11)
 吾がりし しまは見せつ 底深き 阿胡根あごねの浦の たまひりはぬ〈或頭に云ふ、吾が欲りし 子島こしまは見しを〉〔吾欲之野嶋波見世追底深伎阿胡根能浦乃珠曽不拾〈或頭云吾欲子嶋羽見遠〉〕(万12)
   挽歌
  後岡本宮御宇天皇代のちのをかもとのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ天豊あめとよ財重たからいかし日足姫ひたらしひめの天皇すめらみこと譲位じやうゐの後に後岡本宮にあまつひつぎしらしめす〉
  有間皇子の自らいたみて松がを結ぶ歌二首〔挽謌/後岡本宮御宇天皇代〈天豊財重日足姫天皇譲位後即後岡本宮〉/有間皇子自傷結松枝歌二首〕
 磐代いはしろの 浜松がを 引き結ぶ まさきくあらば また帰り見む〔磐白乃濱松之枝乎引結真幸有者亦還見武〕(万141)
 家にあれば に盛るいひを くさまくら 旅にしあれば しひの葉に盛る〔家有者笥尓盛飯乎草枕旅尓之有者椎之葉尓盛〕(万142)
  長忌寸ながのいみき意吉麻呂おきまろの結び松を見てかなしびむせぶ歌二首〔長忌寸意吉麻呂見結松哀咽歌二首〕
 磐代いはしろの 岸の松が枝 結びけむ 人は帰りて また見けむかも〔磐代乃崖之松枝将結人者反而復将見鴨〕(万143)
 磐代の なかに立てる 結び松 こころけず いにしへ思ほゆ〈未だつばひらかならず〉〔磐代之野中尓立有結松情毛不解古所念〈未詳〉〕(万144)
  山上臣憶良やまのうへのおみおくらの追ひてこたふる歌一首〔山上臣憶良追和歌一首〕
 鳥かけり ありがよひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ〔鳥翔成有我欲比管見良目杼母人社不知松者知良武〕(万145)
   右のくだり歌等うたどもは、ひつぎく時に作らえずといふとも、歌のこころ准擬なぞらへるが故以ゆゑに挽歌のたぐひに載す。〔右件謌等雖不挽柩之時所作准擬歌意故以載于挽哥類焉〕

 有間皇子事件は斉明四年(658)のことである。万34番歌、川島皇子の歌は左注によれば朱鳥四年(689)のことである。30年も前の壮絶な事件について、風化とまでは言えないが、単なる過去の記憶へと転化していたことであろう(注1)。持統天皇の行幸で古跡地を通過しているときに、なまなましい記憶を蘇らせようとして歌ったものではなく、座興的に同行者の心をなごませるものであったはずである。
 有間皇子は松の枝を結んでいた。中皇命が草(根)を結んでいたことに対抗した歌い方である。亡くなった有間皇子を悼んで花輪が掛けられることがあったかもしれないが、ひょっとすると草で作った草輪が掛けられたかもしれない。「向草むけぐさ」はふつう、手向けのために置かれた幣のこと、その種類のことをいうからタムケグサと呼ぶと思われている(注2)。実際そうであったのだろうが、タムケグサという言葉がいったんできあがってしまったら、手向けるために雑多なものを用いたとしてもヤマトコトバとしては理にかなう。クサは grass のことも variety のことも表すからである。
 今回の行幸で通過した折、そんな「向草むけぐさ」が浜松の枝に懸かっていて、時間が経過して枯れた状態になっていると思われるものが見えた。「いくまでにか 年のぬらむ〈一に云ふ、年はにけむ〉」と贅言を尽くしているのは、もとは「向草むけぐさ」だったと思われるものが目についたということであろう。それは何か。鳥の巣である。左注にも秋九月とあるから、鳥はみな巣立っており、放置された残骸が残っている(注3)。それを目にしながら川島皇子は歌っている。ほのぼのとした歌である。
左:鳥の巣、右:川の洲
 この歌は、題詞の注にあるように、たとえ山上憶良がネタを考えたとしても川島皇子しか歌うことはできない。彼の名は川島である。川の中にある島は、川の流れに従って姿を変え、まったく姿を消すこともある。それをという。樹上のを歌にしてふさわしく、聞いた人たちがおもしろがることができるのは川島皇子をおいて他にない(注4)

  紀伊きのくにいでましし時に川島皇かはしまのみの作りませるうた〈或に云ふ、山上臣憶良やまのうへのおみおくらの作〉 白波しらなみの 浜松はままつの 向草むけぐさ いくまでにか 年のぬらむ〈一に云ふ、年はにけむ〉(万34)
 白波が寄せては返す浜辺の松の枝にタムケグサとして捧げられたかに思われる草が、どれほど年月を経たのだろうか、打ち棄てられた鳥のになっている。そこでの名の負う私(川島皇子)は呟いてみたよ。どうだね皆さん。

 二首目の歌も、おそらく同じ時に紀伊行幸に同行していた閉皇女へのひめみこ(ヘは乙類)が作っている。都は大和にあって、このたび行幸で都を離れている。都にいる間じゅう、アヘの皇女は、会へ、会へと言われていた。そのヘは乙類だから、アフ(会・逢)の已然形である。誰とすでに会っているのかわからないが、そういう名なのだから呼ばれるたびに会っている、会っていると言われている気がしていた。彼女は女性だから、意中の男性、ダーリンに、つまり、古語で「」に会っているのだと思っていた。ヤマト(トは乙類)でそう言われていた。山とすでに会っている、と言われていたということである。助詞の「と」は乙類である。今、紀伊路の「背の山」と会っている。彼女でしか歌えない歌を時を逃さず歌っている(注5)。頓智の効いた名歌である。

  の山を越えし時に閉皇女へのひめみこの作りませる御歌〔越勢能山時阿閇皇女御作歌〕
 これやこの 大和やまとにしては ふる 紀路きぢにありといふ 名にの山(万35)
 これがかつて聞いていた背の山なのですね。ヤマトにいるとき、会っている、会っていると呼ばれては、恋しいヤマトすでに会っている、と言われているようでした。いま、まさしく山とすでに会っています。あなた、と呼べる名前をもつ、紀伊路の背の山とすでに会っています。おもしろいじゃありませんか。

 万葉集は、基本的に題詞と歌で構成されている。題詞は歌が歌われる場面設定、舞台の説明、歌の枠組みを決めている。その条件下で歌が歌われている。フレームが呈示されているから、歌で何が歌われているか理解することができる。歌の意味、内容が理解できる。題詞に示された額縁を外して中の歌の画面を見ようとしても、どこまでが地で、どこからが図なのかわからない。近代短歌では、いきなり歌だけを取り出して評価することがあるが、それは、近代という枠組み、短歌という枠組みのなかで暗黙の裡に作品として成り立っているからである。万葉歌を歌だけ引き出して内容を理解しようとしても、中途半端なものになり、多くの場合、誤解が生じる。題詞を無視した歌理解は、上代の文芸ばかりでなく、古代史についても誤った見方を与える。近代的な視座を古代に持ちこんで捻じ曲げ歪めることにしかならない。無文字時代に使われていたヤマトコトバには、そもそも物事を抽象化する意図がない。ブリコラージュとして具体的に語っていた。メタメッセージを抽き出して現代の議論の場で論じることは、記紀万葉のテキストから離れてテキストに即さない空理空論を弄することになる。

(補論1)
 これまで行われている万葉歌の英語訳は、日本における研究を反映して万葉歌の醍醐味であるヤマトコトバの地口、頓智、言葉遊びについて無視していることが多い。現状で理解されていないのだから仕方がない。ヤマトコトバ→(古典日本語→)現代日本語→英語へという訳出過程は変わるはずもなく、英語を母語とする万葉集研究者の手による訳で本質に違いが出たりはしない。「万葉和歌の「文学的な」翻訳への道のりはまだまだ遠い」(ワトソン2017.109頁)という発想は、万葉集を既成概念の「文学」であるとする立場に立っている。万葉歌の真の理解から程遠いものである。
 Duthie 2014. の英訳を載せる。原文と対照され、歌部分にはローマ字がルビとして振られている。「濱松pamamatu」と奈良時代当時のハ行音を表しているが、「幾代ikuyo」とヨの乙類であることを示していない。上代特殊仮名遣いでは、「yo」(甲類)と「」(乙類)は別音であった。

34
At the time of an imperial visit
to the Land of Kii, a poem
graciously composed by Prince
Kawashima. Another (text) says it was
composed by Yamanoue no Omi Okura.


On the white-waved
 beach, the pine branch
with a cloth offering
 since then how many ages
how many years have passed?
one says “how many years had passed?”

The “Chronicles of Japan” say that
in the fourth year of Akamitori,
Yang Metal Tiger, in Autumn in the
ninth month, the Heavenly Sovereign
visited the Land of Ki.


35
At the time of crossing over Mt. Se,
a poem graciously composed by
Princess Ahe

This must be that
 which when in Yamato
I long for
 that which is on the road to Ki
Mt. Se that bears the name(p.186)

 日本語訳であるダシー2023.には次のような英訳を載せる。ダシー氏は題詞(headnote)や左注(endnote)の書き方に統一性がないことから『万葉集』の多様性を見、「歌集編成をめぐる対抗関係ポリティクスの徴証と捉えるべきものだと思われる。」(164頁。“Rather, such diversity is evidence of a contested politics of anthologization that takes place within the Man'yōshū itself.” Duthie, 2014, p.180)として論を展開しているにも関わらず、訳本末尾に載る英訳には題詞や左注がない。訳者が付けたものか。anthologization のために headnote や endnote を付けているわけではなく、歌自体の枠組みを示すために当初から付けられたものであることは本論で述べたとおりである。

34
For the offering on the branch of a pine
upon the beach of white waves, for how long
have years been passing by?
 one says, “had years been passsi[ママ]ng by”

35
This must be that, which being in Yamato
I did yearn for, which on the road to Ki
bears the name of Mt. Se.((13)頁)

 Levy 1981. は次のように訳している。

34
Poem by Prince Kawashima at the time of the procession
to the land of Ki
  One book has Yamanoue Okura as
  the author.

How many generations
has the prayer cloth passed
hung from a branch
of the pine on the beach
where white waves break?

  In the Nihonshoki it is written that in
  autumn, the ninth month, of the
  fourth year of Akamitori (690), the
  Empress went on a procession to the
  land of Ki.

35
Poem by Princess Ae when she crossed Se Mountain

Ah, here it is,
the one I loved back in Yamato:
the one they say lies by the road to Ki
bearing his name,
Se Mountain,
“mountain of my husband.”(pp.55-56)

 Cranston 1993.は次のように訳している。

34
A poem composed by Prince Kawashima when the Empress [Jitō] made a progress to the province of Ki (or by Yamanoue no Omi Okura, according to another source)

 Where the white waves splash
Across the branches of the pines
 Along the sandy shore,
How many ages have they passed,
These offerings on the boughs?

Nihongi states: “In the fourth year of Akamitori [689], Metal-Senior / Tiger, in autumn, ninth month, the Empress made a progress to the province of Ki.”(p.185)

35
A poem composed by Princess Ahe when crossing over Senoyama

 Is this then the spot
For which I yearned in Yamato,
 The famous mountain
Said to lie along the road to Ki,
Senoyama, Husband Peak?(p.272)

 Vovin2017.は次のように訳している。

34
A poem composed by Imperial Prince Kapasima at the time when the Empress went to Kïyi province. Some say [it was] a composition by Yamanöupë-nö omî Okura.

The safe passage offerings on the branches of pines at the shore [that is washed] by white waves for how long the years would pass [until they remain]? A variant: the years would have passed [since I tied them]?

The Nihongi says that in the ninth lunar month in the autumn of the fourth year of Akamî töri the Empress went to Kïyi province.(pp.103-104)

35
A poem composed by Imperial Princess Apë at the time when [the imperial excursion to Kïyi province] was crossing Mt. Se.

Is this Mt. Se that bears [this famous] name that is said to be on the road to Kï[yi province], for which I am longing for when [I] am in this Yamatö [province]?(pp.105-106)

 筆者の英試訳を記しておく。題詞や左注は歌の訳に含めてしまった。万葉集はヤマトコトバで歌われてはじめて poem となるものである。駄洒落を他言語に訳すことは、dictionary =字引く書也、のように、双方の言語で語呂合わせが揃わなければならず、困難を極める。

34
The white waves come and go on the beach. Here, it is well known that a famous person died. Since then, people would offer grass to the branches of the pine tree growing on it. After a long time, the grass is withered and looks completely different, like a bird's nest. My name is “Prince Kahasima”. “Kaha” means river and “sima” means island or sandbank. So we know it well that sandbanks appear and disappear, just like the waves come and go and the ground appears and disappears. In early Japanese, river banks and bird's nests were both called “su”.

35
Oh, this is just Mt. “Se”, which is the famous mountain on the road to Ki, that I heard about when I was in Yamato. My name is Ahë. In Yamatö, people called me “Ahë”, which was also the realis form of the verb "to meet". So, Hearing the sound “YamatöAhë” demands a recognition “already met a mountain”. “Yamatö” sounds like “Yama”-“tö”. In early Japanese, “Yama” means mountain, “tö” means “face to face”, and “Ahë” means “already met”. I didn't know what they were saying until now, but I just understand. Now, I confront this mountain, it’s name is “Se”. “Se”, in early Japanese, means my darling. We can say that I already met the mountain, so called my darling.

(補論2)
 ダシー氏は海外の万葉集研究家である。万葉集の歌よりも題詞や左注に注目して、編纂において「帝国のインペリアル」歌集を志向する暗黙知があったと考えている。「律令国家と平安の宮廷文化が徐々に崩壊した結果、『万葉集』は再評価されて、平安時代に確立した作歌修練とは別個に取り扱われたり、研究されたりすべき古代のテクストとして位置づけ直された。これと同様に、二十世紀後半には文化・文学研究において国民という枠組みが崩壊した結果、古典文学が近現代世界と切り離して捉えられるようになって、『万葉集』自体の語るところを読み取ろうとする可能性もそこから開けてきたのだと思われる。」(ダシー2023.181頁。“Just as the gradual breakdown of the ritsuryō state and Heian court culture led to a reevaluation of the Man'yōshū as an archaic text that should be treated and studied independently from the practice of waka poetry established in the Heian period, so perhaps has the breakdown of the national frameworks of cultural and literary scholarship in the late twentieth century and the consequent perception of classical literature as irrelevant to the modern world opened up the possibility of trying to read the Man'yōshū on its own terms.” Duthie, 2014, p.200)という。万葉集をどう捉えるかという枠組み(frame)について再検討を求めている。ところが、万葉集に記されている題詞や左注は、それぞれの歌の枠組み(frame)を個別に定め示すために加えられたものである(注6)。歌だけを取り出すことができないのは、一定の状況の設定において歌が歌われているため、舞台設定を明示する必要があるからである。作者名が記されるのは、名に負う存在として言葉を吐いているものが歌だったからで、他の人が歌ったのでは意味を成さないことも多かった。くり返すが、題詞は編纂過程で新たに付けられたものではない(注7)
 括弧つきの『万葉集』を見て歌を見ず、に陥った議論は今日の研究に散見される。古典文学が近現代のそれとは別物であることはそのとおりであるが、万葉集など上代のテキストは、平安時代以降の古典文学とさえ別物である。なぜなら、古典日本語で作られているのではなく、ヤマトコトバで作られているからである。万葉集の編纂には、ヤマトコトバの用例集作成を志向する傾向があったという側面さえ認められる。言語ゲームの所産であった。
 万葉集というタイトルについて、よろづのことのはの集と考えていた仙覚の説は、万世に伝わるように期待されたものとする捉え方以上のものである。Collection of myriad leaves という逐語訳はある程度正しいと考える。「葉」の原義は植物の葉である。それが言葉のことを表すのは、タラヨウに字を書いたものを葉書(letter)としていたことからも首肯される。歌の備忘のために言葉が書き付けられたたくさんの紙片をひとつに集めたものを万葉集と名づけたのであろう。編纂者の意図が勝つわけではなくて、collect したというよりは gather したという感触が強い。防人歌のうち、「但有拙劣歌十一首不取載之」(万4327左注)と記す理由は、編纂者の判断で取捨することをお許しくださいとの断り書きである。万葉集の編纂者は撰者ではなかった。雑歌、挽歌、相聞といった部立や、おおむね時代順に並べられているのも、そう整理しておいたほうがわかりやすく、歌ごとにいちいち説明をつける必要もなくなるからそうしておき、一つの体裁として整えている。その意味では assenble していたということだろう。
 ダシー氏は、「この[神野志2007.の「複数の古代」という]考え方は、私見では、『万葉集』の歌に施された種々の題詞や注記から窺える多様な歴史的立場、また多様な歴史化の様式にも適用可能だと思われる。この、歴史的枠組みの複数性こそが、テクスト内部に歌集編成のポリティクスを発生させるのだろう。」(同上171頁、“This [what Kōnoshi has called "multiple antiquities" (複数の古代)] is a concept that, in my view, also applies to the converging of different historical perspectives and styles of historicization in the various notes and commentary that surround the poems in the Man'yōshū. It is this multiplicity of historical frames that creates a politics of anthologization within the text.” ibid. p.188)という。題詞や注記は当該歌のために記されたもので、編成のポリティクスを示そうと(無意識的にさえ)意図されたものではない。歴史的枠組みとしてではなく、当該歌の枠組みを示すために存在している。それぞれの歌が主役であり、歌を定位させるために題詞や注記は記されている。
 参考の便宜のため、ダシー氏の主張の根幹部分を引いておく。

 私が『万葉集』を「帝国の」歌集と称するのは、巻ごとに異なる編纂の原理と様式とを通じ、歌の集積を帝国の歴史として、また帝国の空間的表象として、さらには天皇を中心とする詩的表現の広大な世界として構成しようとする傾向を捉えてのことである。……本章で明らかにするように、『万葉集』に表象される〝国体〟は、さまざまな社会階層の人々が共通の生得的感性を通して統合された国などではない。あくまでも古典的な帝国的世界レルムであって、そこでは、歌が媒介となって宮廷の文化的感性を全土に広め、天皇と宮廷を中心とする広大な文明的な感情世界を生み出すとされる。(同上149頁、“The reason I describe the Man'yōshū as “imperial," is that throughout the various different principles and styles of anthologization that each of its volumes exhibits, there is a pervasive commitment to configuring the collection as an imperial history, a spatial representation of the empire, and a universal realm of poetic expression centered on the figure of the sovereign. ……As this chapter will make clear, the "shape of the state" represented in the Man'yōshū is not that of a nation in which various people of different social classes are united by a common native sensibility, but that of a classical imperial realm, in which poetry serves as a vehicle for the cultural sensibility of the court to spread throughout the provinces and create a universal world of civilized feeling centered on the sovereign and the imperial court.” ibid. pp.161-162)
 繰り返すが、『万葉集』が〈帝国のインペリアル〉歌集だということは、天皇のインペリアル命で編纂された──勅撰──という意味ではない。さまざまな構成原理と長期にわたる編纂史にもかかわらず、この歌集の組織には帝国史と帝国世界とを表象しようとする一貫した志向が看取されるという意味である。(同上157頁、“The Man'yōshū may not be an "imperial" anthology in the usual sense of having been imperially commissioned (勅撰), but it is in the sense that among its variety of structural principles and long compilation history one can nevertheless detect a pervasive commitment to organizing the anthology as a representation of imperial history and of the imperial realm.” ibid. p.172)
 改めて言おう。帝国史、帝国世界の空間的表象、大伴氏一族に関する脇筋という三つの側面は、どれも単一の視点からではなく、相互に衝突しがちな複数の立場パースペクティヴを交えて描かれている。『万葉集』が相異なる複数の立場から成り立っているのは、単に、長期にわたる編纂過程を通じて帝国の理念が変質したためではないだろう。むしろこの多様性は、『万葉集』自体の内部に刻み込まれた、歌集編成をめぐる対抗関係ポリティクスの徴証と捉えるべきものだと思われる。(同上164頁、“As I noted earlier, none of these three aspects─the imperial history, the spatial representation of the imperial realm, or the Ōtomo lineage subplot─are represented from a single viewpoint. All of them include multiple perspectives that are often mutually conflicting. The fact that the Man'yōshū is made up of different perspectives is not simply due to imperial ideals changing over time throughout the long process of compilation. Rather, such diversity is evidence of a contested politics of anthologization that takes place within the Man'yōshū itself.” ibid. p.180)

(注)
(注1)2024年の30年前、1994年のトップニュースは自社さ連立村山内閣の発足であるが、今日、村山富市氏の眉毛について知らない人、忘れている人のほうが多いのではないか。
(注2)「手向草」については古くから何を指すか諸説立てられている。

手向草、只手向なり、草は万にそへて云詞にて、……幣を初て、何にても神に物を奉るを云、今は松か枝を結て奉るなるべし、有間皇子の結松の事あれど、昔はさしも忌べからざる歟、(契沖・万葉集代匠記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/874349/1/69、漢字の旧字体は改めた)
手向草とは、古松の枝にかゝる蘿也。……これを手向草と名付るは松が枝に垂たるさま、さかきか枝にしらがつけと詠る如くに垂に似たれば手向草とはいふ也。其色白くして、浜松にかゝりたるは、波のかゝれるとみゆるが故に、白浪の浜松が枝乃手向草とよめる歟。(荷田春満・僻案抄、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/970572/1/62、漢字の旧字体は改めた)
手向草 「タムケグサ」とよむ。……神を祭る為に供ふるをいふ。「草」は「料」字の意にてこゝは何にても手向くる料をいふ。行旅の時人々道々に「ぬさ」をとりて神に手向け往来の恙なからむことを祈たるは古の習俗なり。その「ぬさ」は布帛を主とせり。されば、こゝにも浜の松が枝に白き布などの誰人かの手向けたるまゝに残りてありしを見てよまれしならむ。或る説にこの巻二の有間皇子の磐代の結び松の故事を思ひてよみたまひしかといへれど、行幸の折にさる忌はしき事を古とてもよむべくもあらず。又この手向草を松枝を結びたるなりといふ説あれど、これも松を結びて神に手向けたりといふ事例を知らず。(山田孝雄・萬葉集講義 巻第一、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1880297/1/91~92、漢字の旧字体は改めた)
手向草。「手向」は、神を祭る為に供へる物の総称。「草」は、料の意の語で、手向の物の意。古へは行旅の際、途中の無事を祈る為に、行く先々の神に幣物を供へて祭をするのが風で、その幣物は、主としては布であつたが、木綿ゆふ、糸、紙なども用ゐた。……行幸の供奉をしつつ、途中、浜辺の松の枝に附けてある手向草を見られての感である。「幾代までにか」と云はれてゐるので、比較的長く朽ちない布であつたらうと思はれる。(窪田1951.91頁、漢字の旧字体は改めた)
手向草 タムケグサ。タムケは、行路にあつて、無事であることを願つて神を祭ること。天神を招請して、邪悪の神を拂うのが原義で、ムケは征服の義。コトムケのムケと同語であろう。タは接頭語、手の意がある。それから転じて、道路の悪神に、幣帛を捧げて、災禍を免れようとする思想に移つた。そこで手向として幣帛を献ずる意になるのである。クサは料の義。タムケグサは、手向の祭の材料。幣帛をいうので、実質としては、布、木綿、糸、紙等が数えられる。それらのものが、古くなって松が枝に懸かつているのを見て、いつの代からの物かと疑うのが、この歌の意である。(武田1956.174頁、漢字の旧字体は改めた)

 近年の注釈書では次のようにある。

手向け草─道中の無事を祈って神に捧げる幣帛へいはくの類。木綿ゆうなどを用いた。「草」は、材料の意。松の枝に懸けたり、結んだりしたのだろう。松は土地の霊の宿る神木とされた。この地が岩代いわしろなら、有間皇子事件(六五八年)への意識がある。あるいは、一四三、一四四歌と同時の作か。事件後三十二年。(多田2009.47頁)
「手向くさ」は旅の安全を祈って道の神に捧げた幣帛(へいはく)。作者は、浜松の枝に幣(ぬさ)を掛けようとして、古の旅人が残した古幣を目にして感慨を催した。それは「古(いにしへ)にありけむ人も我がごとか三輪の檜原(ひばら)にかざし折りけむ」(一二八)にも似た懐古の思いであっただろう。(新大系文庫本81頁)

(注3)鳥は巣の素材を選ばない。都市に棲む鳥は、洗濯ハンガーやビニール袋なども使って作っている。幣となっていた布帛であれ何であれ、すなわち、クサと呼ぶに値する名もなき存在を用いる。一般大衆は名もなき存在、「青人草あをひとくさ」(記上)と呼ばれていた。「くさ」と「くさ」はアクセントを異にするから語として起源的に別とされるが、混用する条件は整っている。
(注4)山上憶良の作とする類歌が巻九にある。

 白波しらなみの 浜松はままつの木の 向草むけぐさ いくまでにか 年はぬらむ〔山上歌一首/白那弥乃濱松之木乃手酬草幾世左右二箇年薄経濫/右一首或云川嶋皇子御作歌〕(万1716)

(注5)「背の山〔勢能山〕」について、稲岡2004.は、阿閉皇女にとって亡き夫、草壁皇子への追慕の念があり、雑歌に入れられているが相聞歌に他ならなかったと推測している。注釈書ではその考えが続いている。筆者は、副次的にそういう気持ちが存在していたのか可能性を推し測ることをしない。澤瀉1957.も、「むやみに悲痛な感情をこのお作に汲み取らうとするのは正しくこのお作を会する所以ではない。」(279頁、漢字の旧字体は改めた)と述べている。当該歌が歌われて、周囲で聞いた人に、ああ、旦那さんを亡くされてお気の毒になあ、という感情を惹起させたとは思われない印象の歌である。彼女の名、アヘ(ヘは乙類)と、地名のヤマト(トは乙類)と、山の名のセとを掛け合わせてはじき出されたヤマトコトバの頓智に聞き入って感心し、記憶され、書きとめる者がいて、後にそのジョークをよく理解していた人が万葉集に組み入れたのだろう。当然、雑歌に分類される。
(注6)Goffman 1974. ほか参照。
(注7)万葉集にある標目や題詞を見て、全体の構造ないし構成を考えようとする一派がある。伊藤1974.、市瀬・城﨑・村瀬2014.、村瀬2021.など参照。

(引用・参考文献)
伊藤1974. 伊藤博『萬葉集の構造と成立 上・下』塙書房、1974年。
市瀬・城﨑・村瀬2014. 市瀬雅之・城﨑陽子・村瀬憲夫『万葉集編纂構想論』笠間書院、平成26年。
稲岡2004. 稲岡耕二「大名持神社と人麻呂歌集─人麻呂の工房を探る(其の三)─」『萬葉』第188号、2004年6月。学会誌『萬葉』アーカイブhttps://manyoug.jp/memoir/2004
澤瀉1957. 澤瀉久隆『万葉集注釈 巻第一』中央公論社、昭和32年。
窪田1951. 窪田空穂『万葉集評釈 第1巻』東京堂、昭和26年。
神野志2007. 神野志隆光『複数の「古代」』(講談社(講談社現代新書)、2007年。
阪下2012. 阪下圭八「初期の山上憶良」『和歌史のなかの万葉集』笠間書院、平成24年。(『万葉集を学ぶ』有斐閣、1977年。)
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店、2013年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈三』角川書店、昭和31年
ダシー2023. トークィル・ダシー、品田悦一・北村礼子訳『万葉集と帝国的想像』花鳥社、2023年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
村瀬2005. 村瀬憲夫「妹勢能山詠の諸問題」『萬葉集研究 第27号』塙書房、2005年。近畿大学学術情報リポジトリhttps://kindai.repo.nii.ac.jp/records/1269
村瀬2021. 村瀬憲夫『大伴家持論 作品と編纂』塙書房、2021年。
ワトソン2017. ワトソン・マイケル「万葉集の英訳について」『万葉古代学研究年報』第15号、2017年3月。奈良県立万葉文化館HP https://www.manyo.jp/ancient/report/
Cranston 1993. Edwin A. Cranston. A waka anthology. Vol. 1: translated, with a commentary and notes. California, Stanford University Press. 1993.
Duthie 2014. Torquil Duthie. Man'yōshū and the Imperial Imagination in Early Japan. Leiden, Brill, 2014.
Goffman 1974. Erving Goffman. Frame analysis: an essay on the organization of experience. Massachusetts, Harvard University Press, 1974.
Levy 1981. Ian Hideo Levy. Man'yōshū: A Translation of the Japan’s Premier Anthology of Classical Poetry Volume one. New Jersey, Princeton University Press.1981.
Vovin 2017. Alexander Vovin. Man'yōshū : Book 1: a new English translation containing the original text, Kana transliteration, Romanization, glossing and commentary. Leiden, Brill, 2017.