古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

万葉集の「そがひ」について

2024年08月28日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集に十二例見える「そがひ」という語は難解とされている。「うしろの方」の意であると単純に思われていたが、用例に適さないものがあり、「斜めうしろの方」という意などいろいろ使い分けられていると解されていた。しかし、万葉集以降見られなく語に複数の義があるのは不自然と思われ、一義的に理解されることが求められた。「遥か彼方」説(山崎氏)、「遥か遠く」説(池上氏)、「遠く離れてゆくイメージ」説(小野氏)、「漢語「背向」の翻訳語」説(吉井氏)、「正面から外れる方向の、向こうに離れて」説(西宮氏)などが提唱されている。諸説とも、そう思おうと思えばそう受け取れないことはないが、どれも歌によってはしっくり来ない点が残るものばかりである。
 筆者は、「そがひ」という言葉について、単語の語義しか考えていないところに不足を感じる。必ず助詞「に」を伴って動作の状態を表している(注1)と受けとれる点からして、複雑な含意を表すために用いられている語である可能性を予感させるし、万葉集中の言葉の使い方のなかには、言葉遊びともとれる修辞を駆使した言い回しが数多く見られるからである。
 検討のため用法別に列挙する。

「そがひに見つつ」
 武庫むこの浦を 漕ぎ小舟をぶね 粟島あはしまを そがひに見つつ〔背尓見乍〕 ともしき小舟(万358、山部赤人)
 …… 佐保川さほかはを 朝川あさかは渡り 春日野かすがのを そがひに見つつ〔背向尓見乍〕 あしひきの 山辺やまへを指して ……(万460、大伴坂上郎女)
 …… あまさがる ひな国辺くにへに ただ向かふ 淡路あはぢを過ぎ 粟島あはしまを そがひに見つつ〔背尓見管〕 朝なぎに 水手かこの声呼び 夕凪に かぢの音しつつ ……(万509、丹比真人笠麻呂)
 …… とのぐもり 雨の降る日を 鳥狩とがりすと 名のみをりて 三島野みしまのを そがひに見つつ 二上ふたがみの 山飛び越えて 雲がくり かけにきと 帰り来て ……(万4011、大伴家持)
 大君おほきみの みことかしこみ 於保おほの浦を そがひに見つつ〔曽我比尓美都々〕 都へのぼる(万4472、安宿奈杼麻呂)

「そがひに見ゆる」
 なはの浦ゆ そがひに見ゆる〔背向尓所見〕 沖つ島 漕ぎる舟は つりしすらしも(万357、山部赤人)
 やすみしし わご大君の 常宮とこみやと 仕へ奉れる 雑賀野さひがのゆ 背向そがひに見ゆる〔背匕尓所見〕 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波さわき ……(万917、山部赤人)
 此間ここにして そがひに見ゆる〔曽我比尓所見〕 わが背子せこが 垣内かきつの谷に 明けされば はりのさ枝に 夕されば 藤のしげみに ……(万4207、大伴家持)
 朝日さし そがひに見ゆる〔曽我比尓見由流〕 かむながら 御名みなばせる 白雲の 千重ちへを押し別け あまそそり 高き立山たちやま 冬夏と くこともなく 白栲しろたへに 雪は降り置きて ……(万4003、大伴池主)
 筑波嶺つくばねに そがひに見ゆる〔曽我比尓美由流〕 葦穂山あしほやま しかるとがも さね見えなくに(万3391、東歌)

「そがひにしく」
 わが背子を 何処いづち行かめと さき竹の そがひにしく〔背向尓宿之久〕 今しくやしも(万1412)
 いとし妹を 何処いづち行かめと 山菅やますげの そがひに寝しく〔曽我比尓宿思久〕 今し悔しも(万3577、防人歌)

 ソガヒはソ(背)+ムカヒ(向)の約とする考えは説得力があり、それが原義であろう(注2)。そこから、背中合わせ、後ろの方の意であると捉えられていた。ところが、「そがひに見つつ」の場合はそれで意が通っても、「そがひに見ゆる」や「そがひに寝しく」の例では文意に合わないと感じられた。そこで、三種の用法を包括する意として、遠く離れた、といった類の意とする説が提出されたのである。近年の用語解説でも、「そがひ」はもともと「背を向けて」の意であったが、物理的な意味から心理的意味合いへと拡張し、さらに物理的、心理的距離感を表すようになったとする説(大浦氏)へとまとめられている。
 ソ(背)+ムカヒ(向)の約であるとする考えはわかりやすい。ところが、その語釈からどんどん離れて行き、ときには否定してしまうところまで展開してしまっている。吉井氏が翻訳語説を提唱するに至ったのも、収束する一点を見出そうとした試みなのだろう。諸説は皆、検討の前提段階で陥穽におちいっている。「そがひ」の語義を一義に収めるために、それぞれの歌の解釈は既定のもので正しいとして出発している。しかし、どうか。「そがひ」の用例は少ない。つまりは、当時の人にとってもあまり馴染みある言葉ではなかっただろう。そんななか、「そがひに見つつ」と「そがひに見ゆる」といったわずかな言い違いで語義が定まりにくくなることはない。かと言って、珍しい「そがひ」という言葉が、遠く離れた、のような語義であっては語構成を辿ることができず、初耳の万葉人は理解できないだろう。無文字時代の人が言葉を使うときには音だけが頼りなのだから、音から言葉の意味を直接、肌感覚として理解できなければならない。理解できなければ伝わらず、それはすなわち、言葉として成り立っていないということである。けれども、「そがひ」という言葉は現に使われていた。
 山部赤人の連作のなかに二つのタイプの「そがひ」が現れる。

 なはの浦ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 漕ぎる舟は つりしすらしも(万357)
 武庫むこの浦を 漕ぎ小舟をぶね 粟島あはしまを そがひに見つつ ともしき小舟(万358)

 現代の研究者は、二例目は武庫の浦で粟島を後ろに見ながら小舟が進むことを表してわかるとしつつ、一例目で縄の浦から沖つ島を漕いで回っている舟を見たら方向としては後ろに当たらないと思い、議論の俎上にあげている。同じ時に歌われた歌のなかの同じ言葉は、ほぼ同じ意味で使われていると思われるからである。だが、今日の議論は、歌の解釈を含めて誤っている。現在通行している釈として、多田2009.の現代語訳を引用する。

 縄の浦から対向に見える沖の島、そこを漕ぎめぐっている舟は釣りをしているらしいことだ。(万357)
 武庫の浦を漕ぎめぐっていく小舟。妻に逢うという粟島を背に見ながら、うらやましくも漕いでいく小舟よ。(万358)(293頁)

 「遥か彼方」と訳し変えてみてもかまわないのだが、それで歌意は汲めているだろうか。
 「そがひ」が背後に見るという意味で問題なく通じる万358番歌においても、「小舟」を故郷の大和の方向へと漕いでいく船とする説と、地元の漁船とする説とに分かれている(注3)。「粟島あはしま」は妻に「ふ」ことへの連想を指摘する説は根強くあるが、それはおかしい。
 アハシマはアハとあるのだから、アハズ(逢はず)の意に通じると見るべきである。万358番歌に「小舟」は二度も出て来ている。直前の万357番歌の「舟」と同じで、地元の漁船のことを言っている。万357番歌の様子からしても、赤人が都の妻に逢うかどうかという意を差し挟んでいる歌とは考えがたい。漁民の仕事と「そがひ」という言葉をモチーフにして詠まれた歌であると定位される。
 万358番歌の、「武庫むこの浦を漕ぎ廻る小舟」とは、同音のムコ(婿、コは甲類)(注4)が通い婚で毎日のように夜這いに来ていることを表し、「粟島あはしま」という逢わないことと関係する島と無関係であることを言っている。毎日のように通いに来ることができて羨ましいなあ、というのである。「粟島あはしま」を背にしたまま、決して目指すことも近づくこともなく、ムコ(婿)であることを続けたいがために武庫の浦で漕ぎ廻っていると見立てている。ラブラブですね、ごちそうさま、と言っている。
 万357番歌でも同様の譬喩が行われている。「沖つ島漕ぎ廻る舟はつりしすらしも」と「なはの浦」とは無関係であり、背反したことが行われていると言っている。沖合にある島のまわりを漕いで廻っている舟では船釣りがされているらしいと推量している。一方の「なはの浦」で行われているであろうことといえば、縄を引く地引網漁であろう。両者の関係は、同じく魚を捕ることでありながら正反対のことである。だから、背中合わせを意味する「そがひ」という言葉が使われている。「そがひ」という言葉を使うことで、どこが背中合わせの背反事項なのか、聞く人の興味を誘っている。謎掛けがおもしろいから歌として作られ、知的好奇心を満足させている。赤人の歌は叙景歌ではなく頓知歌である(注5)
左:地引網図、右:船釣り図(広重・六十余州名所図会・上総・矢さしか浦通名九十九里、嘉永6年、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1308321、同・土佐・海上松魚釣、安政2年、同https://dl.ndl.go.jp/pid/1308360をそれぞれトリミング)
 「そがひ」という言葉の意味はすでに明らかとなっている。原義としては、ソ(背)+ムカヒ(向)の約と考えて間違いない。ただし、それを二者の物理的、心理的方向の関係を指す語とのみ捉えるのは浅はかである。背を向けるとは対象が背後になることばかりでなく、全体の状況として、背反し裏腹な関係になることでもある(注6)。そこまで表しているのが「そがひ」という言葉である。歌の高度な修辞法に巧みに採り入れられている。
 裏腹感を強調した用法は、「そがひに寝しく」がよく表している。

 わが背子を 何処いづち行かめと さき竹の そがひにしく 今しくやしも(万1412)
 いとし妹を 何処いづち行かめと 山菅やますげの そがひに寝しく 今し悔しも(万3577)

 万1412・万3577番歌は挽歌である。後者は、いとしい妻は他の男のところへなど行くことはないだろうと安心して、慢心して、背を向けたまま夜を過ごした。ところが、あれよあれよという間にあの世へ逝ってしまった。その女歌バージョンが前者である。「さき竹の」や「山菅の」が「そがひ」の枕詞となっている(注7)。山菅はスゲの仲間のうちで丈高く伸びるもの、細工物にする材料のスゲを指したのであろう。用途として真っ先に思いつくのは菅笠である(注8)。編まれた大きな菅笠は、頭部ばかりでなく体全体を覆うことができた。すなわち、日差しも雨も防ぐことができ、晴雨両用に用いられた。どう転んでもうまくいくだろうと思って背を向けて寝たのであった。ところが、起きてみると天気は晴れでも雨でもなく、曇りだった(注9)。笠は役目を果たさず背負い持って行くこととなった。荷物が増えてしまった。愚の骨頂である。思惑とは状況が違背していた。想定していたのとは裏腹な天気だったのである。よって、「そがひ」を導き出すのに用いられている。「さき竹」の用途も笠であろう。竹を細く削り割いたものだから、網代に編んで笠にした。「さき竹」は樋に使うような「割り竹」ではない。
左:笠のイメージ(角坊)、右:笠を背負う僧(一遍聖絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591578/1/13をトリミング)
 それら枕詞のおかげで「そがひに寝しく」という句は際立ってくる。二人は仲良しであった。仲良しだったがその晩は仲良しをしなかった。背を向けて寝たけれど仲違いしてなどいない。気持ちとは裏腹なことであった。「そがひに寝しく」という言葉のなかに、「そがひ」という語の意味を自己循環的に二重に込めた使い方をし、結果的に笠に期待していたことが外れるという裏腹な事態に陥っていることを表している。高度なレトリックである。

 大君おほきみの みことかしこみ 於保おほの浦を そがひに見つつ 都へのぼる(万4472)

 万4472番歌は、「八日に、讃岐守さぬきのかみ安宿王あすかべのおほきみたちの、出雲掾いづものじよう安宿あすかべの奈杼麻呂などまろの家に集ひて宴せる歌二首」の最初の歌である。出雲に赴任していた安宿奈杼麻呂が帰ってきたので宴を開き、その場で歌われたものとされる。出雲国に「於保おほの浦」というところがあったようである。勅命で於保の浦を背にして都へ上ると言っている。言葉を逐語的に考えるなら、オホ・・キミの命令は本来、オホ・・ノウラへ行け、居ろ、というもののはずである。ウラ(浦)という言葉はウラ(心)と同音だから、「大君おほきみみこと」の心意は、オホのウラでなくてどうすると一瞬思った。だけれども、背を向けて帰ることは言葉の上で裏腹な状況になるのだから、「そがひ」の一語にまとめ上げることができる。なるほど天皇の命令は「かしこ」いことだ、と頓知解釈を披露している(注10)

 筑波嶺つくばねに そがひに見ゆる 葦穂山あしほやま しかるとがも さね見えなくに(万3391)

 万3391番歌は東歌で、地名の語呂に基づいた頓智の歌である。ツクバネとは羽根突きのこと、通常、身体の前で羽根を突くものである。背面で操作することは、バドミントンでさえよほどの上達者以外には見られない。この歌では体の後ろ、背中側で羽根を突くことが思考実験され、言葉遊びをしている。ふつう硬い板を使って羽根を突くところ、アシホという名の示す葦の穂のような柔らかなもので突くことなんて、まるで体の後ろ側で羽根突きをするのと同じことだと譬えているのである。何か悪いことをしたわけでもないのにハンディを負った罰ゲームを強いられているが、その理由は見られないのに、と嘆いている。譬喩で体の後ろ側のことにしているが、それはまた、ちゃんと羽根突きをしようと思っている相手に対して違背する状況でもある。ちゃんと対峙してよ、アシホヤマさん、ということである。その二つの意味を重ね合わせて「そがひ」という言葉で表している。
 以上、「そがひ」という言葉の使われ方について、短歌六例に限り瞥見した。見てきたように、「そがひ」は二者の関係を言う言葉でありながら、「そがひに」は二者の関係を言いながら全体状況に対する譬喩表現を担うことになっている。論理学に長けた人たちの使う高等言語であり、語義を平板に定めて歌意(文意)を理解しようと努めても解決には至らない。現代では行われることのない言葉づかいが上代に行われており、多くの論者がさまざまな語義説をくり出しても釈然としないところが必ず残るのはその所為である。巧みな修辞術のアイテムとして機能している言葉であり、万葉時代のものの考え方を深く知る上でこの上ない素材である。他の六例はみな長歌である。「そがひ」という言葉がそれらの歌全体の意味合いを左右する肝となっているものと思われ、個々の歌を詳しく検討する必要がある。それぞれの文脈のなかでどのように状況が裏腹になっているかが課題である。後考を俟つ。

(注)
(注1)次の例では、「しなふ(撓)」の連用形名詞に助詞「に」がつき、姿態のしなやかなさまを萩の木の茂りたわみ靡く様子に譬えている。

 ゆくりなく 今も見がし 秋萩の しなひにあらむ いもが姿を(万2284)

(注2)「ソガヒはソキアヒ(離き合ひ)の縮約形であり、互いが離反する、背反する、対峙する意である」(坂本1980.49頁)とする異説も見られる。ただ、ソク(離、退)は離れる、遠のく、の意の自動詞で、アフ(合)を連接させることは考えにくい。
(注3)解釈史、ならびに万葉集の「小舟」についての詳細な解説は、坂本2008.参照。
(注4)母音交替形の「もこ(婿)」のコは甲類であることが、「聟 毛古もこ、又加太支かたき」(新撰字鏡)から知られている。。
(注5)赤人歌を叙景にすぐれた歌とする理解はいまだ蔓延しているが、例えば、知らない土地の景色を巧みに言い回した歌が披露されたとしても、ツーリズムとは何かさえ知らずに暮らしている人たちの心に響くはずはないだろう。すなわち、アララギ派が赤人歌に見たものとは、端的に言えば、近代ツーリズムに洗脳された理解でしかなかったのである。そしてまた、歌枕的な解釈をもって理解しようとする試みも、平安時代に成立、定着した文学、文芸を前提に据えたもので、時代考証に錯誤がある。中古以降の文学、文芸は、書かれた歌、描かれた絵など、記録物を媒介としている。基本的に無文字の社会に生きた上代人は、視覚に頼ることなく聴覚のみですべてを掌握しようと努めた。ヤマトコトバのシステムである。舶来の新技術もことごとくヤマトコトバに作られ、今となってはどうやって考え出したのだろうと不思議に思う言葉が目白押しになっている。伝来した織物技術として、ハタ(機)、ヒ(梭)、仏教関係でいえば、ホトケ(仏)、テラ(寺)、焼成品なら、カハラ(瓦)、スヱノウツハモノ(陶器)といった言葉が作られている。いわゆる和訓として認められ、ヤマトコトバとしてあたかももとからあるような顔をして使われている。言葉を声に出して言ったとき、それだけで何を言っているのかすべてをわかり合える世界、それが上代の言語空間であった。
(注6)その点、ソムク(背)という語と一脈通じていると言えよう。「素直に考えれば、後ろに見るという行為は、そもそも論理的に成立し得ない。」(永藤2009.134(5)頁)という考え方をしていたら、なぞなぞは一問も解けないだろう。
(注7)藤田2011.は、「さき竹」、「山菅」について自然観察の結果とする説を唱えている。自然科学的観点は、上代の人に行われていたことが皆無であったとは言わないが、多くの人に認められなければ言葉として成り立たない。タケやスゲが倒れていることなど知ったことではないのである。
(注8)ヤマスゲ(山菅)と歌に詠まれるとは、言葉として確固たるものと認められていたということである。クサ(草)から範疇としてヤマスゲを析出したことは、人々にとって意味あるものとして言語化する営みが行われたということである。植物学などない時代、人は利用するために自然を見ている。「ある語の意味とは、言語におけるその語の使用である。(Die Bedeutung eines Wortes ist sein Gebrauch in der Sprache.)」(L.Wittgenstein, Philosophische Untersuchungen §43)という説法(erklären)は箴言のようにいくらでも応用が利く。
(注9)死者を雲に見立てる発想は万葉集中に見られ、死ぬことを「雲隠くもがくる」とも言った。
(注10)このような使い方が行われていることから考えると、言葉の論理学に通じる人たちにとっては、「そがひ」という言葉は興味深いものとして歓迎されていたのではないかと感じられる。万葉歌は、いかにレトリックを駆使するかという側面も有していたから、当時歌を作りたがる人にとっては格好の言葉であったかも知れない。

(引用・参考文献)
池上1986. 池上啓「ソガヒについて」『学習院大学上代文学研究』第11号、1986年3月。
大浦2014. 大浦誠士「そがひ【背向】」多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。
小野1979. 小野寛「「そがひに」考」『論集上代文学 第九冊』笠間書院、昭和54年4月。(『大伴家持研究』笠間書院、昭和55年。)
垣見2012. 垣見修司「そがひ追考」『高岡市万葉歴史館紀要』第22号、2012年3月。
坂本1980. 坂本信幸「赤人の玉津島従駕歌について」『大谷女子大学紀要』第15号第2輯、昭和55年12月。
坂本2008. 坂本信幸「山部宿祢赤人が歌六首(巻3・三五七〜三六六)について」萬葉語学文学研究会編『萬葉語文研究』第4集、和泉書院、2008年12月。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解Ⅰ』筑摩書房、2009年。
西宮1992. 西宮一民「上代語コトムケ・ソガヒニ攷」『皇学館大学』第30輯、平成4年1月。(『古事記の研究』おうふう、1993年。)
永藤2009. 永藤靖「万葉・「ソガヒに見る」考」『文化継承学論集』第5号、明治大学大学院文学研究科、2009年3月。
中村1989. 中村宗彦「「越中立山縁起」・「そがひに見ゆる」考」『天理大学学報』第160輯、平成元年2月。
藤田2011. 藤田富士夫「万葉集の「そがひ」に関する若干の考察」『人文社会科学研究所年報』第9号、敬和学園大学、2011年5月。敬和学園大学機関リポジトリhttps://keiwa.repo.nii.ac.jp/records/701
藤田2012. 藤田富士夫「万葉集「敬和立山賦」の「そがひ」に関する実景論的考察」『人文社会科学研究所年報』第9号、敬和学園大学、2012年。敬和学園大学機関リポジトリhttps://keiwa.repo.nii.ac.jp/records/720
古舘2007. 古舘綾子「「そがひに見ゆる」考─赤人紀伊国行幸歌を中心に─」『大伴家持 自然詠の生成』笠間書院、2007年。
山崎1972. 山崎良幸「「そがひに見ゆる」考」『万葉歌人の研究』風間書房、昭和47年。
吉井1981. 吉井巌「万葉集「そがひに」試見」『帝塚山学院大学日本文学研究』第12号、昭和56年2月。(『万葉集への視角』和泉書院、1990年。)

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