万葉集巻四の「相聞」の歌である。
西海道の節度使の判官佐伯宿禰東人が妻、夫の君に贈る歌一首〔西海道節度使判官佐伯宿祢東人妻贈夫君歌一首〕
間なく 恋ふれにかあらむ 草枕 旅なる君が 夢にし見ゆる〔無間戀尓可有牟草枕客有公之夢尓之所見〕(万621)
佐伯宿禰東人の和ふる歌一首〔佐伯宿祢東人和歌一首〕
草枕 旅に久しく なりぬれば 汝をこそ思へ な恋ひそ吾妹〔草枕客尓久成宿者汝乎社念莫戀吾妹〕(万622)
現在の一般的な解釈を多田2009.の訳出で確認する。
これでは意が通じない。少しもおもしろくない(注1)。
佐伯宿禰東人が西海道の節度使の判官として単身赴任していた時の歌のやりとりである。アヅマヒトという名の人の妻が、アヅマヒトのことを思うとなると東国の人のことを思うことになる。しかし、当の佐伯東人は今、西海道にいる。妻の夢に出て見えたというのは、ひょっとして東国にいる人のことで、自分のことではないかもしれない。妻は寂しさにかまけて浮気をしかねない様子である。そんなことは嫌だという思いを歌に作って、機知あふれる和歌としたのが万622番歌である。こういう歌を返してもらったら、何言ってんだか、あの人、とにやにやしながらまんざらでもなく思うものだろう。
「汝をこそ思へ」、君のことを私のほうが思うことはあっても、「な恋ひそ吾妹」、決して恋い焦がれてくれるな、と言っている。彼の名はアヅマヒトである。ヤマトタケルは東方遠征の帰り道、足柄の坂で「吾妻はや」と妻を偲んで三度歎いたものだった(注2)。この話はよく知られ、上代の人たちの通念としてあっただろう。だから、男の自分のほうが妻の不在を歎くのが正しいのである。そして、もし「汝」がアヅマヒト、アヅマヒトと恋してしまったら、きっと本当のアヅマヒト、普通名詞の「名」であるアヅマヒト、東国の人に巡り合って恋に落ちてしまい、気持ちは自分から移ってしまうであろうというのである。
「夫の君」である西海道節度使判官佐伯宿禰東人は落ち着かない。最愛の妻が東国の人に取られかねない。セの君なのであるが、妻の言ってきた歌を「諾」と肯定できる状況ではない。だから、「な恋ひそ吾妹」と禁止、否定してかかっている。禁止を表す「莫」が「名」を湧出させることも懸けて作っている。
歌に題詞が付いている。わざわざ書いてあるのは、歌がどういう舞台設定で歌われているのか、きちんと示すためである。すなわち、アヅマヒトという名の人が関わらないのであれば、このような歌は少しもおもしろくない歌、ひいては歌として体を成していないもの、歌とは呼べない代物ということになる。題詞とからめて味わうことで、初めて本当の歌の姿、言語ゲームとしての歌意が伝わる。これまでの解釈はハズレであった。
(注)
(注1)多田氏は講釈を加えている。何をか言わんや。
(注2)拙稿「ヤマトタケルの「あづまはや」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/07b383a718f7e70925f7b5be16a45c5b参照。
題詞の「西海道節度使判官佐伯宿祢東人妻」の「妻」を「め」と訓む釈が目につく。新大系文庫本では「妻」とありながら「夫君」とルビが付いている。「吾妻はや」の逸話に近づけておらず、上代の人の心に届いていない。
(引用・参考文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店、2013年。
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解 2』筑摩書房、2009年。
西海道の節度使の判官佐伯宿禰東人が妻、夫の君に贈る歌一首〔西海道節度使判官佐伯宿祢東人妻贈夫君歌一首〕
間なく 恋ふれにかあらむ 草枕 旅なる君が 夢にし見ゆる〔無間戀尓可有牟草枕客有公之夢尓之所見〕(万621)
佐伯宿禰東人の和ふる歌一首〔佐伯宿祢東人和歌一首〕
草枕 旅に久しく なりぬれば 汝をこそ思へ な恋ひそ吾妹〔草枕客尓久成宿者汝乎社念莫戀吾妹〕(万622)
現在の一般的な解釈を多田2009.の訳出で確認する。
西海道の節度使の判官佐伯宿禰東人の妻が夫の君に贈った歌一首
絶え間なく恋しく思っているからなのか、草を枕の旅にあるあなたが夢に見えることだ。
佐伯宿禰東人が答えた歌一首
草を枕の旅にも久しくなったので、お前のことをこそ思っている。そんなに恋に苦しまないでくれ。わが妻よ。(95~96頁)
絶え間なく恋しく思っているからなのか、草を枕の旅にあるあなたが夢に見えることだ。
佐伯宿禰東人が答えた歌一首
草を枕の旅にも久しくなったので、お前のことをこそ思っている。そんなに恋に苦しまないでくれ。わが妻よ。(95~96頁)
これでは意が通じない。少しもおもしろくない(注1)。
佐伯宿禰東人が西海道の節度使の判官として単身赴任していた時の歌のやりとりである。アヅマヒトという名の人の妻が、アヅマヒトのことを思うとなると東国の人のことを思うことになる。しかし、当の佐伯東人は今、西海道にいる。妻の夢に出て見えたというのは、ひょっとして東国にいる人のことで、自分のことではないかもしれない。妻は寂しさにかまけて浮気をしかねない様子である。そんなことは嫌だという思いを歌に作って、機知あふれる和歌としたのが万622番歌である。こういう歌を返してもらったら、何言ってんだか、あの人、とにやにやしながらまんざらでもなく思うものだろう。
「汝をこそ思へ」、君のことを私のほうが思うことはあっても、「な恋ひそ吾妹」、決して恋い焦がれてくれるな、と言っている。彼の名はアヅマヒトである。ヤマトタケルは東方遠征の帰り道、足柄の坂で「吾妻はや」と妻を偲んで三度歎いたものだった(注2)。この話はよく知られ、上代の人たちの通念としてあっただろう。だから、男の自分のほうが妻の不在を歎くのが正しいのである。そして、もし「汝」がアヅマヒト、アヅマヒトと恋してしまったら、きっと本当のアヅマヒト、普通名詞の「名」であるアヅマヒト、東国の人に巡り合って恋に落ちてしまい、気持ちは自分から移ってしまうであろうというのである。
「夫の君」である西海道節度使判官佐伯宿禰東人は落ち着かない。最愛の妻が東国の人に取られかねない。セの君なのであるが、妻の言ってきた歌を「諾」と肯定できる状況ではない。だから、「な恋ひそ吾妹」と禁止、否定してかかっている。禁止を表す「莫」が「名」を湧出させることも懸けて作っている。
歌に題詞が付いている。わざわざ書いてあるのは、歌がどういう舞台設定で歌われているのか、きちんと示すためである。すなわち、アヅマヒトという名の人が関わらないのであれば、このような歌は少しもおもしろくない歌、ひいては歌として体を成していないもの、歌とは呼べない代物ということになる。題詞とからめて味わうことで、初めて本当の歌の姿、言語ゲームとしての歌意が伝わる。これまでの解釈はハズレであった。
(注)
(注1)多田氏は講釈を加えている。何をか言わんや。
▷恋と魂逢いと夢─相手との直接の出逢いが妨げられた時、相手の魂との逢会を求めて魂が遊離する状態が恋。魂の遊離は主体の統御を超える作用だから、恋は受動的である。魂逢いが実現すれば、互いに夢を見る。六二一歌では、妻が自分の恋によって、夫を夢見たとうたっている。一方、反対に相手が恋したので、相手が夢に現れたとうたった例もある。→六三九。魂逢いによる夢は、どちらにも及ぶ相互作用だったことがわかる。魂は生命力の本質でもあるから、魂の遊離は持ち主にとっては危険な状態を引き起こしかねない。そこで、六二二歌では、「な恋ひそ我妹」と相手を気遣うことになる。(95~96頁)
(注2)拙稿「ヤマトタケルの「あづまはや」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/07b383a718f7e70925f7b5be16a45c5b参照。
題詞の「西海道節度使判官佐伯宿祢東人妻」の「妻」を「め」と訓む釈が目につく。新大系文庫本では「妻」とありながら「夫君」とルビが付いている。「吾妻はや」の逸話に近づけておらず、上代の人の心に届いていない。
(引用・参考文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店、2013年。
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解 2』筑摩書房、2009年。