古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

欽明紀の「鐃字未詳」について

2024年09月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 日本書紀には字注を入れることがあり、「未詳」と記すことがある。

 にはかにして儵忽之際たちまちに、鼓吹つづみふえおとを聞く。余昌よしやう乃ちおほきに驚きて、鼓を打ちてあひこたふ。通夜よもすがら固く守る。凌晨ほのぐらきに起きて曠野ひろのの中を見れば、おほへること青山あをむれの如くにして、旌旗はた充満いはめり。会明あけぼの頸鎧あかのへのよろひひと一騎ひとうまくすびせる者〈鐃の、未だつばひらかならず。〉二騎ふたうま豹尾なかつかみのをせる者二騎、あはせ五騎いつうま有りて、連轡うちととのひて到来いたりて問ひて曰はく、……〔俄而儵忽之際、聞鼓吹之声。余昌乃大驚、打鼓相応。通夜固守。凌晨起見曠野之中、覆如青山、旌旗充満。会明有着頸鎧者一騎、挿鐃者〈鐃字未詳。〉二騎、珥豹尾者二騎、并五騎、連轡到来問曰、……〕(欽明紀十四年十月)

 この「未詳」との注釈は、日本書紀の筆録者がよくわからないから注として入れたものだとされている。書き写す際に正しいのかどうかわからないということで入れたのだろうと思われている。けれども、雄略紀の例にあるとおり、筆録者が意図的に入れたもの、考え落ちを示すところと捉えたほうがいいだろう(注1)。彼らは筆録者というよりも述作者であり、作文をしているのだから、書きながら意味がわからないと注することは態度としてむしろ不自然である。
 日本書紀について、出典論を重んじ、その書き方手本をもとに再構成しようとする立場の人は、元ネタの漢籍をよく理解しないままに誤ったものであると強引に押しつけてしまう。
 「鐃」とは何か。クスビ、クスミと訓まれている。

 鐃 小鉦也。軍法、卒長執鐃。从金堯声。(説文)
 鐃 似鈴無舌、軍中所用也。(玉篇)
 鉦者、似鈴柄中上下通也。饒者、如鈴無舌有柄、執鳴之而止皷也。(令義解・喪葬令)

 これらの説明を読めば、鐃は二枚合わせて音を出すシンバルや空也上人が首から下げる円形の鉦ではなく、鐸の中に舌のないもので、上に向けて下に柄をさしこんでその柄を持ち、槌で敲いて音を出すものであったと理解されるだろう。現在残るのは銅製部分だけであるが、木製の柄をつけ、それを腰帯なり着物の合わせなりへ挿し込んでいたと考えられる(注2)
 ところが、むしゃこうじ氏は「翹」の誤写説を提唱している。そして、次のような文献をあげている。

 花、以猛獣皮・若鷲鳥羽之、置杠上。若所謂豹尾者、今人謂之面槍。将軍花、不物名、其数或多或少、其義未詳。鈴、行路置駄馬上、或云鐸。(三国史記・巻四十・志・職官下・武官)

 欽明紀の原史料は、猛獣皮のものを「豹尾」としたのに対して鷲羽のものを「翹」 とした可能性があるとし、その「翹」を「鐃」とどこかの段階で誤ってわからなくなり、「饒字未詳」と書き込んでいるのではないかというのである。

 瀬間氏はさらに、推古紀や旧唐書を追加し、梁職貢図の復元模型を補足資料として呈示している(瀬間2024.364頁)。髻花として豹尾と鳥尾が見られ、その鳥尾が「翹」だというのである。

 十九年夏五月五日……是日、諸臣服色、皆随冠色。各著髻花。則大徳小徳並用金。大仁小仁用豹尾。大礼以下用鳥尾。(推古紀十九年五月)
 高麗官之貴者、則青羅為冠、次以緋羅、挿二鳥羽及金銀飾。(旧唐書・巻一百九十九上・列伝第一百四十九上・東夷)

 鐃を軍令を伝える小鉦とした場合、「挿」はおかしいから日本書紀編述者(あるいは養老の講書のときの学者(むしゃこうじ1973.228頁))は不審の念を抱いて「鐃字未詳」と表示したものと見ている。そして、「編述者は、高句麗・新羅・倭国の風習を知らなかったが故に未詳とのみ記述するに留まったと考えられる。東夷諸国の風習を知っていれば、雄略紀459割注「擬字未詳。 蓋是槻乎。」のように「鐃字未詳。蓋是翹乎。」とすることが可能だったはずである。」(365頁)と我田引水の議論に進んでいる。
 しかし、記事は百済と高麗(高句麗)とが陣を向かい合わせている戦時のものである。「鐃」ではなくて「翹」であると強く言えるものではない。夜間に高麗側の「鼓吹之声」が聞こえたから、百済側は「打鼓」して応じて守りを固めている。「鼓」を叩くのを止めさせる合図に「鐃」を打った。撤退の合図かもしれない(注3)
 瀬間氏はこの部分、編述者が大幅な潤色を施していると見ている。編述者に中国系渡来人を想定するに至っているが、大幅な潤色が施せるぐらいなら、言葉について鋭敏でよく理解していたことは確かであろう。そして、「鐃」字には古訓としてクスビという訓みが伝えられている。下に図版としてあげたもののことをヤマトコトバとしてクスビと呼んでいたのである。
 「鐃」字は「金」と「堯」から成っている。「堯」は高いという意味である。説文に「堯 高也。从垚在兀上、高遠也。」とある。高い金ならタカガネ、約してタガネとなっておかしくない言葉である。だが、タガネには鏨の意味がある。対して「鐃」をクスビと言っている。クスビはクサビ(楔)とよく似た音である。クサビ(楔)とタガネ(鏨)はともにV字型の打ち込み部分があり形がよく似ている。一体で柄を有するのはタガネ(鏨)であり、刃を鋭利にして木の柄をつけたらノミ(鑿)になる。クサビ(楔)、タガネ(鏨)、ノミ(鑿)の先は一枚で尖っているが、クスビ(鐃)では分れて空洞となっている。ただし、横顔、シルエットとしては皆よく似ており、木の柄をつけたものとしてはノミ(鑿)とクスビ(鐃)は相対していることになる。
左:青銅 獣面文鐃(せいどうじゅうめんもんどう)(商時代、前16~前11世紀、高18.2・15.7・13.7㎝、和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアムhttps://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/005/0050035000.htmlをトリミング)、右:タガネ(鏨)とノミ(鑿)(堺市鉄砲鍛冶屋敷展示品)
 だから、「鐃」という文「字」は、ちょっとどうしてそういう字なのかわからず、クスビという「」はちょっとどうしてそういう名なのかわからないと思い、「鐃字未詳。」と言っているのである。
 この日本書紀編述者=筆録者=述作者は、ヤマトコトバと併せて漢字の形を考えている。「挿鐃」ことに何の疑問も抱いていない。言葉を理解しすぎるほどに理解していて、余裕をもって割注を入れて洒落を飛ばしている。今日までの出典論や日本書紀区分論などは、それ自体としてはともかく、日本書紀をきちんと読むための根拠とするにはおよそナンセンスであり、履き違えた結論を導いている。日本書紀はヤマトコトバを書き表したものであり、対外的に流伝させるために作られたものではない。ヤマトの国の自己満足の史書?であった。

(注)
(注1)拙稿「雄略即位前紀の分注「𣝅字未詳。蓋是槻乎。」の「𣝅」は、ウドである論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/ceb99a8b6b28f3929182489b7d106226、拙稿「雄略前紀の分注「称妻為妹、蓋古之俗乎。」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/81ace50151a5056610d603c79b5a6609参照。
(注2)林1976.の插図9-7(180頁)は「鉦」であるが、その小型のものを「鐃」と呼んだとする。下に示した久保惣記念美術館蔵品も令義解の説明どおり、銅の柄の部分(甬)は中空で舌のない鈴部へ筒抜けになっている。「正面を打ったときと側面を打ったときと、1つのどうで2音、この組み合わせでも6音の音階をもったことになる。宮殿や廟だけでなく、軍征行旅のとき、狩猟の際にも携行して打ち鳴らされたものであろう。林巳奈夫氏によってしょうと呼ぶのが正しいと考証されているが、いまは旧称のままにした。」(和泉市久保惣記念美術館2004.50頁)と解説されている。
(注3)周礼・地官・鼓人の「以金鐃止鼓」の鄭玄注に、「鐃、如鈴、無舌有秉、執而鳴之、以止擊鼓。」とあり、賈公彦疏に、「是進軍之時擊鼓、退軍之時鳴鐃。」などと見える。
鐃(鉦)と桴を持つ騎乗の人(成都青杠坡三号墓画像磚模写、後漢時代末期)

(引用・参考文献)
和泉市久保惣記念美術館2001. 『第三次久保惣コレクション─江口治郎コレクション─ 図版編』和泉市久保惣記念美術館、平成13年。
和泉市久保惣記念美術館2004. 『第三次久保惣コレクション─江口治郎コレクション─ 解説編』和泉市久保惣記念美術館、平成16年。
瀬間2024. 瀬間正之「欽明紀の編述」『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。
林1976. 林巳奈夫編『漢代の文物』京都大学人文科学研究所、昭和51年。
むしゃこうじ1973. むしゃこうじ・みのる「『日本書紀』のいくさがたり─「欽明紀」を例として─」『日本書紀研究 第七冊』塙書房、昭和48年。
劉東昇・袁荃猷編著、明木茂夫監修・翻訳『中国音楽史図鑑』科学出版社東京、2016年。

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