古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

古(いにしへ)と昔(むかし)、上代語の語意について

2024年05月29日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 イニシヘ(古)とムカシ(昔)という語については、上代においてどのような過去の概念として捉えられていたのだろうか。現在までにまったく正反対の二つの見解が示されており、意外にも定まっているわけではないようである(注1)
 一つは西郷信綱氏の考えで、もう一つは大野晋氏の考えである。先に西郷氏の見解を見ていく。西郷氏は万葉集の歌を例にとっている。

 むかしこそ 難波田舎なにはゐなかと 言はれけめ 今はみやこき みやこびにけり〔昔者社難波居中跡所言奚米今者京引都備仁鶏里〕(万312)
 昔見し きさがはを 今見れば いよよさやけく なりにけるかも〔昔見之象乃小河乎今見者弥清成尓来鴨〕(万316)
 常磐ときはなす いはは今も ありけれど 住みける人そ つねなかりける〔常磐成石室者今毛安里家礼騰住家類人曽常無里家留〕(万308)
 いは屋戸やどに 立てる松の木 を見れば 昔の人を あひ見るごとし〔石室戸尓立在松樹汝乎見者昔人乎相見如之〕(万309)

 最後の二首は、紀伊国の三穂の石室を見て作る歌三首中のもので連作だが、これらを読んで分るのは、「今」と「昔」との間には断絶があり、「昔」なるものが「今」から、「今」とは異なる時期として対象化されていることである。ムカシという語じしん、ムカフ(向)に由来しており、一つのかなたなる、向う側の時期を指し示しているといっていい。その点ムカシはイニシヘ=往ニシヘ(古)とは、含意するところをおのずと異にする。(西郷2011.111~112頁)

 さらに、次の歌を例示している。

 楽浪ささなみの 志賀しが大曲おほわだ よどむとも 昔の人に またも逢はめやも〔左散難弥乃志我能大和太與杼六友昔人二亦母相目八毛〕(万31、柿本人麻呂)
 いにしへの 人にわれあれや 楽浪ささなみの ふるき都を 見れば悲しき〔古人尓和礼有哉樂浪乃故京乎見者悲寸〕(万32、高市古人、または黒人)

 同じく近江荒都に臨んだ時の作でありながら、ここにはムカシとイニシヘの相違が奇しくも示されている。第一首が、志賀の大わだはこのように淀んでいても、「昔の人」にはもう逢えないといっているのにたいし、第二首は自分を「古の人」なのだろうかと歌っている。作者の名の古人にかけてこう歌ったのかも知れぬが、「昔の人」と「古の人」とはやはり等価ではなく、少くとも「いにしへびとにまたも逢はめやも」、あるいは「昔の人に我あれや」とはいえなかったはずである。(同112頁)

 万32番歌の一・二句は、古訓に「古人ふるひとに われあるらめや〔古人尓和礼有哉〕」と訓んでおり、意が通じ、その訓みが正しい。歌意は、私は「古人」という名を負っていて(注2)、きっとそれを体現するように歳をとった古い人間であるからか、古い都を見ると悲しい、という意味である。フルという音が連ならなければ、この歌を聞いただけで直ちに納得することはできない(注3)
 歌の訓みが誤っているのに言葉の意味を理解しようとすると誤解しか生まない。
 もう一つの大野氏の見解を見ていく。

 いにしへ イニシエ【古】《イニ(往)シ(回想の助動詞キの連体形)ヘ(方)の意。過ぎ去って遠くへ消え入ってしまったことが確実だと思われるあたり、の意。奈良・平安時代には、主として、遠くて自分が実地に知らない遙かな過去、忘れられた過去などの意に多く使われたが、鎌倉時代以後、ムカシがこの意味に広まって来て、イニシヘは古語的・文語的になり、あまり使われなくなった。→むかし・むかしへ》➀過ぎ去ってしまった遠い過去。……②(近い過去だが)過ぎて行って取り返し得ない過去。……➂古式。……(岩波古語辞典124頁)(注4)

 それぞれ例として次の万葉歌をあげている。②は挽歌で、悲しみを誇張するための用法と考えられる。

 ①とりが鳴く 吾妻あづまの国に いにしへに ありけることと 今までに 絶えず言ひる …… とほに ありける事を 昨日きのふしも 見けむがごとも 思ほゆるかも〔鷄鳴吾妻乃國尓古昔尓有家留事登至今不絶言来……遠代尓有家類事乎昨日霜将見我其登毛所念可聞〕(万1807)
 ②いにしへに いもとわが見し ぬばたまの黒牛潟くろうしかたを 見ればさぶしも〔古家丹妹等吾見黒玉之久漏牛方乎見佐府下〕(万1798)
 ➂いにしへの 倭文しつ機帯はたおびを 結びたれ たれといふ人も 君にはまさじ〔去家之倭文旗帯乎結垂孰云人毛君者不益〕(万2628)

 万葉集では「いにしへの」人とは、はるかに離れた存在である伝説上の人物を指し、またそれが遠い中国のことである例もあり、まったく漠としか想像できない過去の人のことも言っている。

 いにしへの大き聖(万339)…魏の徐邈じょばく
 いにしへの七のさかしき人ども(万340)…竹林の七賢
 いにしへやな打つ人(万387)…拓枝伝の味稲うましね
 いにしへの賢しき人(万3791)…孝子伝の原穀(原谷)
 いにしへのますらをとこ(万1801)…葦屋のうなひ処女をとめを争った男
 いにしへ小竹田しのだをとこ(万1802)…同
 いにしへに ありけむ人も 吾がごとか 妹に恋ひつつ 宿ねかてずけむ(万497)
 今のみの 行事わざにはあらず いにしへの 人ぞまさりて にさへ泣きし(万498)
 妹が紐 結八河内ゆふやかふちを いにしへの 皆人見きと ここを誰れ知る(万1115)
 いにしへに ありけむ人も 吾がごとか 三輪の桧原ひはらに 挿頭かざし折りけむ(万1118)
 いにしへに ありけむ人の 求めつつ きぬに摺りけむ 真野の榛原はりはら(万1166)
 いにしへの 賢しき人の 遊びけむ 吉野の川原 見れど飽かぬかも(万1725)
 いにしへの 人の植ゑけむ 杉がに 霞たなびく 春はぬらし(万1814)

 こう見てくると、イニシヘ(古)とムカシ(昔)という語の概念の違いは、大野晋氏の考え方が概ね正しいと理解される。
 なお一例、問題となりそうな歌に万2614番歌がある。

 眉根まよね掻き したいふかしみ 思へるに いにしへびとを 相見つるかも〔眉根搔下言借見思有尓去家人乎相見鶴鴨〕
  或る本の歌に曰ふ、眉根掻き たれをか見むと 思ひつつ 長く恋ひし いもに逢へるかも〔或本哥曰眉根搔誰乎香将見跡思乍氣長戀之妹尓相鴨〕
  一書の歌に曰ふ、眉根掻き 下いふかしみ おもへりし 妹が姿すがたを 今日へふ見つるかも〔一書歌曰眉根搔下伊布可之美念有之妹之容儀乎今日見都流香裳〕(万2614)

 別伝を二首もつこの歌は、昔なじみの人という意味で「いにしへびと」と訓み、家から去っていった夫のことを言うとされている。ただ、中古・中世に例がなく、不審とする向きもある。孤例ということになると、原文の「去家人」は「にし家人いへびと」と訓む可能性も探られるべきであろう。「家人いへびと」は、召し使いの下男や下女のことばかりでなく、夫・妻のことも指して使われている。家を出ていった妻、未練の残る妻に逢ったという意になる。次の例は遣新羅使の歌で、家に残してきた妻のことを指している。

 家人いへびとは 帰りはやと 伊波比いはひしま いはひ待つらむ 旅行くわれを〔伊敞妣等波可敞里波也許等伊波比之麻伊波比麻都良牟多妣由久和礼乎〕(万3636)

 「にし家人いへびと」という場合の「にし」に「へ(ヘは甲類)」がついた形が「いにしへ」である。この「へ」は、「辺」字で表されるように、オキ(沖)、オク(奥)の対義語である。古典基礎語辞典では、ヘについて詳しく考察している。

 上代の例を見ると、「山辺やまへ」「野辺のへ」「海辺うみへ」「川辺かはへ」「谷辺たにへ」「浜辺はまへ」「島辺しまへ」「磯辺いそへ」「岡辺をかへ」など、「へ」は大きな自然の地形や地勢などを表す言葉に下接して使うことが多い。これらの例によると、「へ」は単にものの端や縁へりの意を表すものではなく、それらの土地と他の土地との境界線、という意味が含まれているように思われる。……格助詞の「へ」が上代には、遠く離れた…の方向を意味するのは、「へ」に中心から外れた境界線の意味があったからであろう。なお、時についていう「春へ」「夕へ」などは、元来は他の時間帯との境界に近い時を表していたと思われるが、「古いにしへ」「昔へ」のように漠然と遠く隔たった方向を示すものもある。ただし、「へ」の時間的用法は限られている。(1067~1068頁、この項、白井清子)

 「昔へ」は古今集の例で、「いにしへ」から派生させた語であろう。「いにしへ」がイニ(往)+シ(回想の助動詞キの連体形)+ヘであるとき、境界線の意味を含んでいるなら、境界まで往ってそこへとどまっていると考えることは、それが時間的用法である点からしてなかなか含蓄がある造語法と考えられる。過去へ向かってどんどん遡って進んで行って際限がないとき、それはまったく知らない太古の世界、天地未分のときのこと、どうなっていたかなど誰にもわからない。そこに至る手前にある境界線のところのことをイニ(往)+シ(回想の助動詞キの連体形)+ヘというのであれば、今と同じく天地の分れた世界が広がっている。だが、なにせ現在のこの位置からはとても離れたことなので、話には聞いてはいるが到底確かめようもないこと、先生に聞いてもそうらしいとしか知らないと答えられてしまうことなのである。無責任なことを言うのにもってこいの冠辞になり得る。他方、「昔」の場合は、先生(師)に聞いたらそのとおりだと自信をもって答えてくることである。先生というのは理屈をつける人間で、地口的理屈、駄洒落による解決(注5)がつけばそれでいいという人間のことである。

 いにしへよ しのひにければ 霍公鳥ほととぎす 鳴く声聞きて こひしきものを〔伊尓之敞欲之怒比尓家礼婆保等登伎須奈久許恵伎吉弖古非之吉物乃乎〕(万4119)
 むかしより 言ひけることの 韓国からくにの からくも此処ここに 別れするかも〔牟可之欲里伊比祁流許等乃可良久尓能可良久毛己許尓和可礼須留可聞〕(万3695)

 以上から、上代におけるイニシヘ(古)とムカシ(昔)という語の概念は、大野晋説が正しいことが検証された。

(注)
(注1)多田2024.は、「ムカシとは、現在とは断絶された過去を意味する。現在にまでつながると意識されるイニシへとは区別される。この理解は、西郷信綱……の所説に拠っており、まったく正反対の理解に立つ大野晋氏の説……は、成り立たないと考える。」(9頁)とし、「昔者むかし娘子をとめありけり。あざなさくらとなむいひける〔昔者有娘子、字曰櫻兒也〕」(万3786題詞)と訓む実験的な試みをしている。万葉集巻十六の題詞、左注に現れる「昔(者)有〔人物〕。……也」の「ムカシとは、物語的な伝誦内容の提示で、聞き手(読み手)の眼前に引き出された過去の時空を意味する。」(同頁)としている。現在とは断絶された過去のことを現在によみがえらせて巻十六の物語的な題詞(左注)を伴う歌はできていると見、後の歌物語の始発的形態であるかのように捉えている。
 一般には、「昔者むかし娘子をとめありき。あざなさくらふ。」(万3786題詞)と訓まれている。この訓みに問題はなく、万葉集は歌集であって物語文学ではない。中古に「昔、男有りけり。」という場合でさえ、そこに現れる「昔」は現在と断絶されているとは考えにくいことは、「昔、神有りけり。」とは言いそうにないことからも確かであろう。「此の剣はむかし素戔鳴尊のみもとに在り。〔此剣昔在素戔鳴尊許。〕」(神代紀第八段一書第三)、「是の矢は、むかし我が天稚彦あめわかひこに賜ひし矢なり。〔是矢則昔我賜天稚彦之矢也。〕」という場合、以前の所有者はスサノヲであった、以前私がアメワカヒコに与えた矢だと、同一の剣や矢について語っており連続性を保っている。多田氏の見解、物語的な題詞(左注)の捉え方には無理がある。
(注2)西郷氏も、「作者の名にかけてこう歌ったのかも知れぬ」(同117頁)と気にはかけている。
(注3)この歌は近江宮を回顧した歌であり、そこは天智天皇(中大兄)が都したところである。蘇我入鹿斬殺時、同じく「古人」という名を持っていた古人大兄皇子は中大兄に関して言葉を残している。「古人大兄、見てわたくしの宮に走り入りて、人に謂ひて曰はく、「韓人からひと鞍作臣くらつくりおみ[蘇我入鹿]を殺しつ。韓の政に因りてつみせらるるを謂ふ。吾が心痛し」といふ。即ち臥内ねやのうちに入りて、かどして出でづ。」(皇極紀四年六月八日)。当時の人たちが共有している意味の積み重ねのなかで歌われた歌である。拙稿「近江荒都歌について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/371240f8c832f38960716305b86a7a42参照。
(注4)古典基礎語辞典に、「遥か遠くに過ぎ去っていて、伝承などで自分がその時点のことを聞いていても確かめることのできない過去をいう。」(137頁、この項、白井清子)と明確化されている。
(注5)今日的な評価からすれば低いものとなるが、上代の人にとっては高い評価を受けていたと思われる。当時用いられていた言語、ヤマトコトバは、きわめて論理学的に使用されていたからである。科学的検証ばかりでなく、文字に頼る典拠調べも知らなかった時代、唯一確からしいと判断することができる論拠は、それがどういう言葉(音)であるかにかかっていた。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
西郷2011. 西郷信綱『西郷信綱著作集 第3巻 記紀神話・古代研究Ⅲ 古代論集』平凡社、2011年。(『神話と国家─古代論集─』平凡社、1977年。)
多田2024. 多田一臣「巻十六 いま何が問題か」『上代文学』第132号、2024年3月。

※本稿の脱稿後、2024年6月に田口尚幸氏の以下の論文を目にした。参照されたい。
「上代におけるイニシヘ/ムカシの使い分け─イニシヘ断絶/ムカシ連続説の妥当性および『伊勢物語』への流れ─」『国語国文学報』第73集、2015年3月。愛知教育大学学術情報リポジトリ
http://hdl.handle.net/10424/5817
「上代におけるイニシヘ/ムカシの使い分け(続)─『常陸国風土記』にイニシヘ断絶/ムカシ連続説を適用することの妥当性─」『愛知教育大学研究報告(人文・社会科学)』第65輯、2016年3月。愛知教育大学学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/10424/6485
「上代におけるイニシヘ/ムカシの使い分け(続々) ―『日本書紀』にイニシヘ断絶/ムカシ連続説を適用することの妥当性―」『国語国文学報』第74集、2016年3月。愛知教育大学学術情報リポジトリ
http://hdl.handle.net/10424/6555
「イニシヘ断絶/ムカシ連続説でわかること─『日本書紀』『万葉集』『常陸国風土記』『伊勢物語』を例にして─」『国語国文学報』第75集、2017年3月。愛知教育大学学術情報リポジトリ
http://hdl.handle.net/10424/7007
「イニシヘ断絶/ムカシ連続説でわかること(続)─上代から中古の『土佐日記』『古今集』『後撰集』『伊勢物語』『竹取物語』への継承─」『国語国文学報』第78集、2020年3月。愛知教育大学学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/10424/00008810

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