古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

万葉集巻一・大宝元年紀伊行幸時の歌について

2024年06月17日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 大宝元年の紀伊行幸の際に歌われた歌は、万葉集中に少なくとも二十一首を数えるという。巻一・54~56番歌、巻二・143・144・146番歌、巻九・1667~1679番歌、同・1796~1799番歌が確かなものとされている。
 巻一に載る持統上皇の紀伊行幸にまつわる歌は以下の三首である。これらの歌について深く考察された議論は見られない。他に十八首もありながら、なぜ巻一の編者は紀伊行幸の題詞において三首しか採らなかったのか。当該題詞のもとにいかに枠組まれたのか、疑問さえ呈されていない。

  大宝元年辛丑秋九月に、太上天皇おほきすめらみこと紀伊国きのくにいでます時の歌〔大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸于紀伊國時歌〕
 巨勢こせ山の つらつら椿 つらつらに 見つつしのはな 巨勢の春野を〔巨勢山乃列々椿都良々々尓見乍思奈許湍乃春野乎〕(万54)
  右の一首は坂門人足さかとのひとたり〔右一首坂門人足〕
 あさもよし 紀人きひとともしも 真土山まつちやま 行きと見らむ 紀人羨しも〔朝毛吉木人乏母亦打山行来跡見良武樹人友師母〕(万55)
  右の一首は調首淡海つきのおびとあふみ〔右一首調首淡海〕
  或る本の歌〔或本歌〕
 河上かはのへの つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は〔河上乃列々椿都良々々尓雖見安可受巨勢能春野者〕(万56)
  右の一首は春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆ〔右一首春日蔵首老〕

 現状の解釈では、紀伊へ向かう途中、巨勢山、巨勢の春野、真土山について、その景勝を歌にしたかのように捉えられている(注1)。秋に行幸しているから椿の花の咲く春の野のことは今は偲ぶしかない(注2)、あるいは、真土山は明媚なところで紀州の人は上京の折ごとに愛でられて羨ましい、といったことを歌っていると思われている。しかし、その考え方には無理がある。
 「巨勢こせ春野はるの」は固有名詞であろう。季節が秋であってもコセノハルノである。また、「紀人きひと」であっても、都へ行き来することがなければ「真土山まつちやま」を見ることはない。なのにすべての「紀人」について「ともし」と評している。つまり、何を言っている歌なのか、まったくわかっていないのである。深く考えることなくなんとなくわかった気になり、放置されたままになっている。

 巨勢こせ山の つらつら椿 つらつらに 見つつしのはな 巨勢の春野を(万54)

 作者の坂門人足さかとのひとたりがどのような人であったか、行幸に従駕していたという以外わからない。それでも、坂門さかとという氏であり、巨勢山を登っていく坂の入口に関係があるらしく思われ、そのあたりで歌を詠んだものと推測される。
 峠を越えるために坂を上っていくのは、つらく疲れる。その山道の両側に椿の木が生えていて、それを目にして歌にしたという推測は当たっているであろう。道には道端が二つある。両サイドである。前を向いて歩いていれば、顔の左右のツラ(面)に当たるところに椿が生えている。道の真ん中に生えていたら伐採されるから、自ずと左右のツラに生えていることになる。だから、「巨勢こせ山のつらつら椿」という言い方が妥当になる。それをよくよく見ながら、「巨勢こせ春野はるの」のことを思い描いて慕ってみようよ、と言っている。
 どうして「巨勢の春野」を思慕しなければならないのか、理解に苦しむ。そのため、伝誦歌として万56番歌があり、有名だったから、それに似せた歌が歌われたと思われている(注3)。しかし、この考え方を100%追認することはできない。「河上かはのへの つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢こせ春野はるのは」という歌は、どうして人口に膾炙していたのだろうか。仮に都で歌われたものだとすると、春日老かすがのおゆという人が紀伊に遣わされ、帰京後に道中どうだったか聞かれて歌を歌い、天皇以下居並ぶ群臣たちから拍手喝采を受けたと想定することになる。不可能ではないものの、そのとき記憶されたとしてはたして人々に伝えられるものだろうか。確かにツラツラの部分の言い回しはおもしろいが、それ以上の含蓄を持っているわけではない(注4)。覚えておく必要のないことを口ずさんだものとは考えにくい。
 歌は歌われた時、ほとんどその時にのみ人々の関心を呼び、頭脳に働きかけるものである。奈良時代までの古代の歌は、その刹那的な瞬間芸、一回性の芸術として存在していた。無文字時代の歌だったということである。万54・56番歌に「巨勢こせ春野はるの」という言葉がくり返されている。そこに焦点が当たっているのだから、コセノハルノという言葉に人々の興趣をそそるものがあったと考えるべきであろう。もちろん、コセノハルノは地名であり、固有名詞である。すなわち、固有名詞以上のことを表しているからおもしろがられて使われていると考えられる。要するに駄洒落である。
 コセ(巨勢)のコは乙類である。下二段活用の動詞、コス(遣)の連用形と同音である。希求の助詞コソと同根の語とされ、呉れる、寄こすの意のオコスのオが脱落した形と考えられている。

 …… の鳥も 打ちめこせね〔宇知夜米許世泥〕 いしたふや 天馳使あまはせづかひ 事の 語りごとも 此をば(記2)
 霍公鳥ほととぎす 初声はつこゑは われにこせ〔於吾欲得〕 五月さつきたまに まじへてかむ(万1939)(注5)
 奥まへて 吾を思へる 吾が背子は 千年五百年ちとせいほとせ 有りこせぬかも〔有巨勢奴香聞〕(万1025)
 白玉の 五百箇いほつつどひを 手にむすび おこせむ海人あまは〔於許世牟安麻波〕 むがしくもあるか(万4105)

 他の動詞の連用形に連なる形のケースが多く、〜してくれる、の意に解されている。その後どうなってもかまわずにすることを表していて、ヤル(遣)の意に極めて近い。ヤルは、遠くへ派遣させたり、先行きがどうなってもかまわないものとして人を遣わせたり、くよくよ考えずに物事を進行させたりすることである。遠くへ行かせる、先へどんどん進めるの意からは、思いを晴らす意の心を遣るという言い方が生まれている。

 夜光る 玉といふとも 酒飲みて 心をるに あにしかめやも(万346)
 忘るやと 物語りして 心遣り 過ぐせど過ぎず なほ恋ひにけり(万2845)
 もののふの 八十やそともの男の 思ふどち 心遣らむと 馬めて うちくちぶりの ……(万3991)

 上代の人たちは、この意を、コセ(コは乙類)という音を聞いた時に感じ取っていたのだろう。心が晴れるところ、だから、巨勢には春野という特定の場所があって当然だと納得し、歌に歌われるのを耳にしておもしろがっていたのである。 
 いま、紀伊への行幸の途上にある。峠を越えようと難儀な行進を続けている。本当にここを登って行ったらその先に紀伊への道は開けているのだろうか、と不安がり、嫌がる気持ちを抱く人もいたことであろう。そんな心配は無用だと、この歌は歌っている。どんどん進めば思いは晴れると地名に謳っているではないか。なるようになる、案ずるより産むが易しなのだ。予定していたよりも遅れがちな鹵簿の歩みを鼓舞する歌として歌われている。

 巨勢こせ山の つらつら椿 つらつらに 見つつしのはな 巨勢の春野を(万54)
 巨勢山で進行が遅くなっているけれど、道の両側に並び生えている椿を、遅い歩みに従ってよくよく見てごらん、そして、ここは巨勢の春野のすぐ近くであることを思い出してごらん、コセノハルノというのは、どんどん進めば心が晴れるところのことだっただろう、何のことはない、どんどん先へ進んでいけば良いことがあるに決まっているじゃないか。紀伊への道を急ごうよ。

 あさもよし 紀人きひとともしも 真土山まつちやま 行きと見らむ 紀人羨しも(万55)
  右の一首は調首淡海つきのおびとあふみ
 
 枕詞「あさもよし」については、麻裳の産地として紀伊国が挙げられるからという説が有力視されている(注6)。この考え方は誤りであろう。そうと知らなければ成り立たなくなってしまうからである。枕詞と被枕詞との関係は、知識の有無とは無関係に成り立っているはずである。無文字時代の人にとって、言葉は誰にでも共有されなくては存立しない(注7)。それが嵩じて、今となっては訳がわからないほどに不思議な連着をもよおしている。そのようなことが成り立つ根拠には、ああ、そういうことかと納得するに足る頓知が控えているに違いないのである。
 誰にでも(子どもにでも)わかる連着の理由は、アサモというものが、喪着として使われていたことによる。キ(キは乙類)には、、そして、(注8)がある。棺を前にするには麻喪あさもを身につけるのがふさわしい。だから、「あさもよし」はキ乙類の枕詞になるのである。次のアサモノミソは、麻喪あさも御衣みその意であろう。

 七年の七月の丁巳に、[斉明天皇]かむあがりましぬ。皇太子ひつぎのみこ[中大兄]、素服あさものみそたてまつりて称制まつりごときこしめす。(天智前紀皇極七年七月)
 [菟道稚郎子うぢのわきいらつこ]乃ちまたひときに伏してかむさりましぬ。是に、大鷦鷯尊おほさざきのみこと素服あさのみそたてまつりて、発哀かなしびたまひて、みねしたまふこと甚だぎたり。仍りて菟道うぢの山の上にはぶりまつる。(仁徳前紀応神四十一年二月)
  霊亀元年歳次乙卯の秋九月に、志貴親王しきのみこかむあがりましし時の歌一首〔并せて短歌〕
 …… 玉桙たまほこの 道来る人の 泣く涙 こさめに降り 白栲しろたへの ころもひづちて 立ちまり 吾に語らく ……(万230)

 このような言葉どうしの結びつきは、この歌でさらにくり広げられている。
墳墓(左:餓鬼草紙、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0016937をトリミング、右:一遍聖絵、鈴木久治写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591577/1/20をトリミング)
 「真土山まつちやま」は固有名詞で、もともと地名としてあった言葉である。それを受けて、マツチヤマとはどういうことか謎解きをしている。万葉人の語義解釈、洒落解きである。ヤマ(山)には、山岳の意のほかに山陵の意味もある。真の土でできた山陵、ないしは、真の槌の形をした山陵である。饅頭形にしててっぺんに槌の柄が立っていたとすれば、墳墓の墓標の様子さながらである。紀人きひととは棺人きひと、葬る人のことで、紀伊の棺人はあらかじめ墳墓が用意されていて世話いらずであると、きつい洒落を飛ばしているのである。したがって、四句目の「行きと見らむ」の主語は紀人ではなく、いま行幸に従駕している人々のことを指している。つまり、文句たらたらで進んでいる人に対して、遭難しても大丈夫だ、紀人きひと棺人きひとになってうまいこと葬ってくれる、すでに寿陵として真土山まつちやまが用意されているじゃないか、と言っている。トモシ(羨)という形容詞は、稀少性をもって評価の判断にする語である。ただ少ないことばかりでなく、逢うことや触れることの少なさから心が惹かれること、そこから、そういう経験を有する存在はうらやましい、という意に展開している。行幸先が紀伊国きのくにで、そこの住人は紀人きひとであり、いつでも棺人きひとになってくれる。後の心配はいらないということである。そんなことは他の国へ行く際には見られないことだから、トモシ(羨)であるとしているのである。

 あさもよし 紀人きひとともしも 真土山まつちやま 行きと見らむ 紀人羨しも(万55)
 麻の喪服もうまい具合に合っているのが棺人きひとならぬ紀人きひとで、そんな稀な合致はめずらしくて心惹かれるなあ、なおさらマツチヤマという、いかにも墳墓にふさわしい名の山があって、我らは行きにも帰りにも目にすることだろうよ。ああ、棺人きひとならぬ紀人きひとというめぐり合わせはめずらしいものだなあ。どんなことがあっても後の心配が要らないなんてすごいじゃないか。どんどん先へ進もうよ。

 「大宝元年辛丑秋九月に、太上天皇おほきすめらみこと紀伊国きのくにいでます時の歌」の題詞の下に、行幸の歩みを促す歌が二首並べられている。題詞と歌との関係がすっきりしている。同じ機会に歌われたであろうが、人々を進ませるために歌われたのか定かではない歌は、「或る本の歌」ということになる。

  或る本の歌
 河上かはのへの つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は(万56)
  右の一首は春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆ

 この歌は、万54番歌との類似性からそのもととなったとも、また、歌としてはこちらのほうがうまいとも評されることがある。しかし、それらの観点は度外視して編者は採っているものと推測される。「大宝元年辛丑秋九月に、太上天皇おほきすめらみこと紀伊国きのくにいでます時の歌」であることに違いはないが、趣旨が異なる。皆に統一したい意思とは、紀伊国への行幸の達成である。途中でぼやぼや物見遊山することは、目的達成の妨げになりかねない。だから、「或る本の歌」というように脇へ置かれている。作者は春日老という人である。この人は当時、閲歴からして老人であったようだが、若い頃から「おゆ」という名であった。歩くのが遅いと目され、見物に夢中になって道草を食うなと注意されているようである。
 証拠がある。続紀の記事に次のようにある。

○[九月]丁亥(18日)、天皇すめらみこと紀伊国きのくにみゆきしたまふ。○冬十月丁未(8日)、車駕きよが武漏温泉むろのゆに至りたまふ。○戊申(9日)、従へるつかさ并せて国・郡のつかさどもに階を進め、并せてきぬふすまを賜ふ。また国内くぬちの高年に稲給ふことおのおのしな有り。当年ことしの租・調でう、并せて正税しやうぜいくぼさることからしむ。ひとり、武漏郡のみ本利ほんりならびゆるし、罪人つみひと曲赦きよくしやす。○戊午(19日)、車駕、紀伊より至りたまふ。○己未(20日)、駕に従へる諸国の騎士に当年の調・庸と担夫たんぶの田租とをゆるす。(続紀・文武天皇・大宝元年)

 往路で二十もかかっている。何か問題が生じたのか記されていないが、例えば豪雨による崖崩れなどに遭遇して逗留を余儀なくされていたかもしれない。そんなとき、無聊を慰めるためにこの歌が歌われていたのではないか。河が流れていれば、河には岸が両サイドにあり、だからツラ(面)は二つあるから「つらつら」にあるのであり、「つらつらに」あれば「つらつらに」見ることになるだろうが、足止めを食っているのなら文句を言わないで、ここは良いところだ、見ても見ても飽きないところだと無理やりに褒めて、人々の不満の捌け口になるような歌が歌われたのだろう。いきり立った気持ちは和んで、腰を落ち着かせることとなった。だが、これは「紀伊国きのくにいでまの歌」ではあっても、行幸の列の進行を歌ったものではないことになる。だから、万54番歌を生む本歌であっても「或る本の歌」としてしか収まらないのだった。
 このように読み解くことによってはじめて、万54〜56番歌は、その題詞のもとで三首採られていることに合点が行き、編者の意図ともども理解することができるのである。

(注)
(注1)「五四は、交通の要衝「巨勢山」の景物を、春野を表現に呼びこむことでほめた歌、五五は、その地から先の国境いの山「真土山」を、現地の人を呼びこむことでほめた歌。……旅先の土地や景物を楽しんでうたいながらも、過ぎ行く重要な地の土地ぼめを行ない、安全な羈旅を願う古くからのしきたりの上にも立っている。……地名はうたいこまれるだけで、すでに祭られたことになる。愉楽の中にも、こうして、過ぎて来た道を、今過ぎる道も、そして先行く道も安まるのである。」(伊藤1983.229〜230頁)などと、ツッコミどころ満載の評論が行われている。
(注2)シノフという言葉は、賞美する、の意のほかに、遠方の人、故人などを思慕する、慕う、の意があるが、同じ場所のめぐる季節について使われたとする確例は見られない。
(注3)山田孝雄・萬葉集講義に、「上の「巨勢山」の歌[万54]の意の本づく所はこの歌[万56]によめる如きものにして、上の歌はこの歌の如きを本としてよめるものなるべし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1880297/1/142)とあるように、万56番歌が先に伝誦されていて、それを踏まえて万54番歌が紀伊へ向かう途上で歌われたとする考え方は広く行き渡っている。森1987.は、万56番歌に作者の春日蔵首老の名が明記されているからには、同じ紀伊行幸時に詠まれた歌であったとしている。
(注4)有間皇子事件の岩代の浜松のような強烈な印象を与えることはない。
(注5)三句目は「吾にもが」と訓まれることが多い。「吾にこせ」は木下1993.の案で、新編全集本萬葉集が採っている。
(注6)村瀬1986.
(注7)ある村だけで通じるいわゆる方言のようなものや、特定の技能に関する専門用語のようなものは、誰にでも通じるものとは言えないが、文字に定着させる術がないという条件からすれば、永続するには危うい言葉であったと考えられる。残り伝えられる言葉に秘匿性、秘儀性がないということについては、人は言葉で考え、言葉を共有することによって人であるという基本的な位置づけを顧みた時、古代における暮らしの全般、相聞、祭祀、権力など再検討されるべき課題は多いことを示唆している。
(注8)白川1995.に「き〔棺〕 ……「き」が「おく」、また木の意ならば、キは乙類である。」(265頁)とある。

(引用・参考文献)
伊藤1983. 伊藤博『万葉集全注 巻第一』有斐閣、昭和58年。
木下1993. 木下正俊「万葉集存疑訓注─枕詞「味凝」のことなど─」『萬葉』第146号、平成5年4月。萬葉学会HP https://manyoug.jp/memoir/1993
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集8 萬葉集➂』小学館、1995年。
福井1960. 福井久蔵、山岸徳平補訂『枕詞の研究と釈義 新訂増補版』有精堂出版、昭和35年。
村瀬1986. 村瀬憲夫『万葉の歌─人と風土─9 和歌山』保育社、昭和61年。
森1987. 森「春日老歌論─「つらつら椿」をめぐって(一)─」犬養孝編『萬葉歌人論─その問題点をさぐる─』明治書院、昭和62年。

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