古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

山部赤人の印南野行幸歌

2024年07月17日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻六の前半に、笠金村かさのかなむら車持千年くるまもちのちとせ山部赤人やまべのあかひとによる長反歌からなる行幸従駕歌がある。ここでは山部赤人の印南野行幸従駕歌について検討する。

  山部宿禰赤人やまべのすくねあかひとの作る歌一首〈并せて短歌〉〔山部宿祢赤人作謌一首〈并短歌〉〕
 やすみしし わご大君おほきみの かむながら 高所知須 印南野いなみのの 大海おほみの原の 荒栲あらたへの 藤井ふぢゐの浦に しび釣ると 海人船あまぶねさわき 塩焼くと 人そさはにある 浦をみ うべも釣りはす 浜をみ 諾も塩焼く ありがよひ 御覧母知師 きよ白浜しらはま〔八隅知之吾大王乃神随高所知須稲見野能大海乃原笶荒妙藤井乃浦尓鮪釣等海人船散動塩焼等人曽左波尓有浦乎吉美宇倍毛釣者為濱乎吉美諾毛塩焼蟻徃来御覧母知師清白濱〕(万938)
  反歌三首〔反謌三首〕
 おきつ波 邊波安美 いざりすと 藤江ふぢえの浦に 船そ騒ける〔奥浪邊波安美射去為登藤江乃浦尓船曽動流〕(万939)
 印南野の 浅茅あさぢ押しなべ さの 長くしあれば いへしのはゆ〔不欲見野乃浅茅押靡左宿夜之氣長在者家之小篠生〕(万940)
 明石潟あかしがた 潮干しほひの道を 明日あすよりは したましけむ 家近づけば〔明方潮干乃道乎従明日者下咲異六家近附者〕(万941)

 これら赤人の行幸従駕歌は、一般に、土地の讃美をもって王権讃美に代えた作とされ、柿本人麻呂の吉野讃歌の様式に則ったものと捉える見方が主流となっている(注1)。筆者はすでにいわゆる吉野讃歌が王権を讃美するためのものではないことを明らかにしている(注2)。当該長反歌も、土地の讃美や王権の讃美ではない。第一に、釣りをしたり塩焼きをしたりすることを歌うことがどうして土地の讃美になるのか皆目わからない。第二に、万940・941番歌では家に帰りたい気持ちを歌っていて、訪れている印南野に名残惜しさが感じられず、長歌と反歌の関係性が不明である。第三に、これらの歌は行幸時に歌われていると考えられるが、歌を聞く対象は従駕している人たちで、つまりは都から来ている人たち、ふだんから王権を支えている宮廷人たちであり、辺鄙なところで自画自賛しても何も始まらないからである。
 虚心坦懐にこれらの歌を聞いた時、印南野はこんなところです、よく来ましたねぇ、目的は達成されましたから、さあ、そろそろ帰りましょうよ、と歌っているように感じられる。歌は歌である。理屈を並べて陳述してみてもその場で耳で聞く人の心には届かない。人々が共感する内容が歌われたから、歌として成立しているものと考えられる。それ以外のものはわからない歌であり、記憶されず、記録もされなかっただろう。
「高所知須」(元暦校本万葉集、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0002621・E0002621をトリミング結合)
 長歌には訓みに難がある箇所が見られる。「高所知須」、「御覧」、「邊波安美」の訓みが定まっていない。「高所知須」については、「須」字を西本願寺本で「流」とするが、元暦校本では「須」とし、右傍に「流イ」としながら朱で見せ消ちがあって「須」が正しいと認識されていた。讃美の歌だという色眼鏡で見てしまうと、「高所知」を採って訓みを歪曲し、「たか知らせる」と誤って訓みたがってしまう。そして、「御覧」については、「ます」や「さく」などと訓まれている。フラットな気持ちで向き合わなければ本文校訂はできない。
 まず、「神ながら」という言葉の意味を捉え直す必要がある。「神ながら」という言葉は、「神の性質として。神であるままに。」(岩波古語辞典340頁)の意とされ、天皇が神性を有して支配することを表すための語であると考えられてきた。しかし、「神」という言葉は人知を超えたところにあることを強調する。人間が神となるにはある特殊な状況が求められる。死んだら神になる(注3)。今、挽歌を歌っているわけではない。「神ながら」という言葉は、天皇が神さながらにうまく「高所知須」ことをしているということではなく、「神」がいて当たり前に通じていること、人の意向を超越し、予定調和的にうまくかなっていることを表しているものである。歌の文句の「やすみしし わご大君」という枕詞による掛かり方が、神業的に絶妙な言い回し、あやなす巧みな言い方であると追いかけながら形容している言葉、それが「神ながら」である(注4)。「神ながら」が登場する他の歌を見ても、「蜻蛉島あきづしま やまとの国」や「葦原あしはらの 瑞穂みづほの国」などと常套句が現れている。ただの「わご大君」や「倭の国」や「瑞穂の国」では「神ながら」とは言えない。「やすみしし わご大君」、「蜻蛉島 倭の国」、「葦原の 瑞穂の国」と、形容表現として慣用化していることに対して言葉に神意が顕れているとして、「神ながら」と称しているのである。当たり前に「やすみしし わご大君」という言葉づかいをするように当たり前に「高所知須」ことになっていると言っている。何が当たり前といって、オホキミと呼んだ時点で支配者であることを認めているのだから、どこだって支配するのは当然のことなのである。嫌だ嫌だという意味のいなむと呼ばれているイナミノというところであれ変わりはない。長歌の冒頭、「やすみしし わご大君おほきみの かむながら 高所知須 印南野いなみのの」の歌意はただそれだけである。
 ここまでの検討で、長歌で何を歌いたいかかなり明らかになっている。印南野に行幸しているが、ここは天皇が支配している。ここへは行幸で来ているのであって、敵地へ遠征に来ているのではない。天皇の支配が確立しているところである。わかりきったことを歌にしている。そんなことを歌って何になるか。それはそもそも長歌というものの性質にかかわる。だらだらと尻取り式に語句を並べ、対句をとり入れながら歌い進めている歌を聞き取ることができるのは、最初から聞き手が歌の内容を理解しているからである。もし何か殊更の主張があったら、聞く人は徐々に疲れてきて聞かなくなってしまうだろう。だからこそ、歌に予定調和的な言葉が配されており、よく似合っているのである。
 もちろん、わかっていることをだらだら漫然と述べて話にオチがないというのではおもしろくない。オチを期待してだらだら続く言葉列を聞いている。この歌のオチは「きよ白浜しらはま」である。歌っているのは赤人である。赤人という名を負っていて、色について論じるのにもってこいの人物である。最後のオチ、シラハマへ向け、収斂するために歌の中の語句は散りばめられている。「高所知須」、「御覧母知師」の訓みはこれにより定まる。 
 「高所知須」については、七音に訓もうとして「たかろしめす」(紀州本)といった案が出されている。しかし、無理に七音に訓む必要はない。「神ながら」が予定調和、慣用句を示しているのだから、その点を強調するためには五音で訓むことに支障はないし、かえって効果的でさえある。すなわち、「たからす」と訓めばよいのである。「やすみしし わご大君おほきみの かむながら たからす 印南野いなみのの ……」と歌えば、われらが天皇陛下が支配なさるのは当たり前の印南野のことですがね、と前置きをしていることになる。五音で言い切ることで、イナミノが否もうがどうしようが支配するに決まっているじゃないか、と印象づけることに成功している(注5)。歌のオチはシラ・・ハマであり、タカシラ・・スという訓みの正しさが検証されている。シラの音が掛かっている。
 次に「御覧母知師」について考える。「覧」字は万葉集中に他に六例ある。「梅の散るらむ〔梅乃散覧〕」(万1856)、「行くらむわきも〔徃覧別毛〕」(万2536)、「妹待つらむか〔妹待覧蚊〕」(万2631)、「くるらむわきも〔明覧別裳〕」(万2665)、「乳母おももとむらむ〔於毛求覧〕」(万2925)、「今日か越ゆらむ〔今日可越覧〕」(万3194)である。みな助動詞ラムを表している。
 「御覧母知師」は素直にミラムモシルシと訓めばよい。現在の推量を表す。「ありがよひ らむもしるし」、つまり、いつも通ってきて見ることになっているらしい徴候として「きよ白浜しらはま」はあるのだ、と言っている。「しるし」は名詞、助詞モは不確かさを表している。印南野に来るのははじめてで、今後も通ってきて見るように常態化するかどうかは本当のところはわからないため、不確かさを表す助詞モを伴っている。どうしてそのように奥歯に物が挟まったような言い方をしているのか。簡単である。帰りたいのである。また来ればいいじゃないかと思っている。だから、常に通って見るだろうと言い、その証拠に、きれいなシラハマがあることを示している。地名としてはイナミ(否)だけれど、実態としては支配、領有されることを嫌がってなどいない。完全にヤマト朝廷の版図内である。シラハマ(白浜)があるとおりシラス(知・領)ところなのだからいつでも来れますよ、と言っている。ホームシックの気持ちを歌う反歌(万940・941)との整合性もとれている(注6)。行幸に従っている宮廷人たちの間に帰りたい気持ちが募っていたから、その気持ちを代表して歌にして声をあげている。これまで論者が述べていたように万940・941番歌で私情を詠むことの意味を問題にする必要はない。なぜなら、土地褒めも王権讃美もなく、〈公〉と〈私〉の区別もないからである。長歌から一貫して、ねえ帰ろうよと歌っているだけである。頭をひねって何事であるかを議論する対象ではない(注7)
 第一反歌の「邊波安美」の訓みについては、ヘナミヲヤスミ、ヘナミシヅケミ、ヘツナミヤスミ、ヘナミヤスケミなどが案としてあげられている。澤瀉1960.は「波に対して「安し」と云つた例は無」(73頁、漢字の旧字体は改めた)いとし、鈴木2024.は「赤人の作品中、……「を」はすべて「乎」ないし「矣」で表記され、読み添えとなる例はない。」(155~156頁)と指摘して、ヘナミシヅケミと訓む説を主張する。傾向としてはそうかもしれないが、例外を排除するものではない。
 長歌において、「御覧母知師」を「らむもしるし」と訓むことが確認された。将来的な徴候について語っている。すなわち、この反歌でも、将来の見通しについて安心していられること、以後も波が立たずに気兼ねなく漁に出られることを言おうとしているものと考えられる。それを古語にヤスシ(安・易)という(注8)
 漁をするのに船を出す際、気をつけなければならない波には二通りある。船を出すときの海岸での波と、出てからの波浪である(注9)。海岸に打ち寄せる波は受けても命にかかわらないものの、ひどく水が入ったり船が横倒しになったりしてやり直しになることがある。船出した後の波は操舵の自由を奪われたり、魚がおびえて釣果が乏しかったりする。その両方を対比して言おうとしているから、「おきつ波」と「つ波」と形をそろえているものと考えられる(注10)。よって、ヘツナミヤスミと訓み、「つ波やすみ」の意であると捉えるのがふさわしいだろう。「おきつ波」も「つ波」も、今もそうだがこれからも安らかであるだろう、そう言えるのは、「きよ白浜しらはま」が「らむもしるし」としてあるのだから、という理屈である。もちろん、科学的な言説ではなく、言葉づかいのロジックを語っている。声に出して歌って周囲の人に聞いてもらうのが上代の歌だから、その場で通じて聞いただけで楽しめることを言っているのであった。

(注)
(注1)梶川1997.、神野志2001.など。
(注2)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2be68298a70ce0aab17ace7832ecd2e0、「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/b28999093cc2e134e55a0f0751b4602e参照。
(注3)「現人神あらひとがみ」(景行紀四十年是歳)、「現人之神あらひとがみ」(雄略紀三年四月)、「現人神あらひとがみ〔荒人神〕」(万1020・1021)といった例もあるが、人の形となって現れた神という意味合いが強く、神の万能性を述べたものではない。景行紀の例は、蝦夷えみしに対する威圧のための方便としてその子であるとヤマトタケルが言い放った言葉、雄略紀の例は一事主神ひとことぬしのかみが人の姿となって現れて言った言葉として登場している。万1020・1021番歌の例は、「住吉すみのえの 現人神あらひとがみ」とあり、海神である住吉神を指しており、あるいは人の形に作って船霊として祀られていたものかもしれない。
 また、「あきつ神〔明津神〕」(万1050)と歌の冒頭にあって「わご大君」に被さっているのは、「久邇くにあらたしきみやこたたふる歌二首〈并せて短歌〉」のもとに詠まれた歌で、古の神代の言い伝えによりながら遷都していることを歌ったものだから、神が人の形となって現れていると形容するために冠せられているものと考えられる。拙稿「恭仁京遷都について─万葉集から見る聖武天皇の「意」─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/d0d5cf0a4d2b25a651a0ebd895f8f7da参照。
(注4)天皇が支配することを讃美して「神ながら」と形容しているとしたら、一介の下級役人の分際で評論していることになりはなはだ不遜である。拙稿「「言挙げ」の本質にについて」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/7c75b6111e2415c0f4fc7b72704f61d4、「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/61bf39dd1ec35148ebc105c4de9f0abd参照。
(注5)神野志2001.や廣川2023.は、「高知らす」や「高知る」、「高知ります」には、「宮」、「高殿」、「大御門」「御舎みあらか」などの言葉を伴って、建物の高さ、壮大さを表すはずであると指摘している。続紀・神亀三年九月条に、「従四位下門部王・正五位下多治比真人広足・従五位下村国連志我麻呂等一十八人を以て造頓宮司とす。播磨国印南野に幸せむとしたまふ為なり。」なる記事があるものの、「頓宮」は仮殿以上のものではない。印南野には立派な離宮は存在しない。そんなところで「高知らす」と口を滑らせている。破格の五音で歌うことで、豪華な別荘もないところにいつまでも留まることに対する疑問の念を表明としてふさわしい。
(注6)第二・第三反歌は、長歌の主題を受け継ぎ、内容を要約するという一般的な反歌のあり方とは異なっていると考えられ、それが定説化している。そのうえでの辻褄合わせの考えが梶川1987.、伊藤1996.、稲岡2002.、清水2005.、阿蘇2007.、神野志2013.、廣川2023.、鈴木2024.に見られる。みな長歌の意が酌めていない誤読である。「行幸の時の歌であっても、……[私情を社会化して]歌うべきものであったというべきなのであり、私情までをからめてとり込んであることを、『万葉集』の世界の本質として見るべきなのである。」(神野志2013.22頁)、「[万940・941番歌の]「望郷の心」も〈君臣の共感〉に裏打ちされたものであると理解できる。」(廣川2023.38頁)、「プロパガンダ的なパフォーマンスという意味が明らかにな[り、]……有徳の天子として喧伝される必要があった。」(鈴木2024.169頁)などと大風呂敷を広げてみても、歌から離れた空理空論でしかない。
(注7)歌は歌われて周囲の人々に聞かれることで成り立っている。印南野に行幸したご一行の気持ちを表すために「山部宿禰赤人の作る歌一首〈并せて短歌〉」が歌われている。題詞に書いてあること以上/外の事柄、例えば聖武天皇は偉いなあ、といったことは歌われていない。歌詞にないことを読み取ろうとすることは、「こくご」の科目では御法度、零点である。
(注8)ヤスシの意味として、物事のなりゆきに障害や不安がないから安心していられる。その感覚には時間の感覚を含んでいて将来不安がないことをいう。これからも平穏無事だと思えなければヤスシにならず、夜も寝られない。

 たまきはる うちの限りは たひららけく 安くもあらむを 事も無く  も無くもあらむを ……(万897)
 さは 多くあれども ものはず 安く寝る夜は さねなきものを(万3760)

 第一例に「平らけく 安くもあらむ」とあり、当該反歌、万939番歌の用例と合致した使い方である。
(注9)波に風浪とうねりの違いがあることは知られていたであろうが、船を出して「鮪釣」、マグロ釣りをするのに支障があるものとして山部赤人という都会人が考えている。歌の言葉に沖の波と波打ち際の波とを対比させて歌にしている。
 なお、東1935.は、マグロは瀬戸内海にいないから別の魚を候補にあげている。しかし、この歌は忠実に叙景しているとは認められないから、通例のとおりマグロと考えるのが妥当である。「浦をみ」を「うべ」の根拠としている。船を漕ぎ出して沖釣りをする際、魚種を「浦」の様子から想定することはできないではないか。
(注10)「おきつ波」に対して「なみ」のケースが多いものの、「おきつ波」と「つ波」の形も存在する。

 …… 吾妹子わぎもこや が待つ君は おきつ波 来寄きよ白玉しらたま つ波の する白玉 求むとそ ……(万3318)

(引用・参考文献)
阿蘇2007. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第3巻』笠間書院、2007年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 三』集英社、1996年。
稲岡2002. 稲岡耕二『萬葉集(二)』明治書院、平成14年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
澤瀉1960. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第六』中央公論社、昭和35年。
梶川1997. 梶川信行『万葉史の論 山部赤人』翰林書房、1997年。
神野志2013. 神野志隆光『万葉集』の「歴史」世界─巻六をめぐって─」『萬葉』第214号、平成25年3月。萬葉学会HP https://manyoug.jp/memoir/2013
神野志2001. 神野志幸恵「赤人の印南野行幸歌」坂本信幸・神野志隆光編『セミナー万葉の歌人と作品 第七巻 山部赤人・高橋虫麻呂』和泉書院、2001年。
清水2005. 清水克彦『万葉論集 第二─石見の人麻呂他─』世界思想社、2005年。
鈴木2024. 鈴木崇大『山部赤人論』和泉書院、2024年。(「山部赤人の神亀三年印南野行幸従駕歌」『東京大学国文学論集』第9号、2014年3月。東京大学学術機関リポジトリhttps://doi.org/10.15083/00035090)
東1935. 東光治『万葉動物考』人文書院、昭和10年。
廣川2023. 廣川晶照「山部赤人「播磨国印南野行幸歌」について」『美夫君志』第106号、令和5年4月。

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