古事記の中巻、景行天皇条に、ヤマトタケルの東征説話がある。東征を終えて帰る途次、足柄山で「あづまはや」と歎き叫んだからその国を「あづま」というのであるという地名譚が載る。
[倭建命]其より入り幸して、悉く荒ぶる蝦夷等を言向け、亦、山河の荒ぶる神等を平げ和して、還り上り幸す時、足柄の坂本に到りて、御粮食す処に、其の坂の神、白き鹿に化りて来立つ。爾くして、即ち其の咋ひ遺せる蒜の片端を以て待ち打てば、其の目に中りて、乃ち打ち殺しき。故、其の坂に登り立ちて、三たび歎きて詔ひて云はく、「あづまはや」といひき。故、其の国を号けて阿豆麻と謂ふ。(景行記)
蒜類(ニラ?)
話の発端は、足柄の坂本で坂の神が白鹿になって襲ってきたことによる。蒜の食い端で白鹿を迎え打ち、その目に当てて殺し、坂に上って歎いて「あづまはや」と言っている。だからその国のことはアヅマというのだというのである。この命名譚については、景行紀の叙述と違いがある。紀では、碓氷峠において、馳水(走水)で入水した弟橘媛のことを忍び、「私の妻よ、ああ」(あづまはや)と言っている。よって、アヅマノクニというのであると述べられている。記の説話の解釈としては、紀の内容に沿わせて妻を忍ぶ意を含んでいるとするか、記の例においては「中+目」だからアヅマというと言っているのか、といった説があげられている。両者は相容れないもので、議論は解決に至っていない。
時に日本武尊、毎に弟橘媛を顧ひたまふ情有します。故、碓日嶺に登りまして、東南を望みて三たび歎きて曰はく、「吾嬬はや」とのたまふ。嬬、此には菟摩と云ふ。故因りて山の東の諸国を号けて吾嬬国と曰ふ。(景行紀四十年是歳)
「白鹿」は、紀では、その後の信濃の途上に登場する。
則ち日本武尊、信濃に進入しぬ。是の国は、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。巌嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず。然るに日本武尊、烟を披け、霧を凌ぎて、遥かに大山を径りたまふ。既に峰に逮りて飢ゑて、山の中に食す。山の神、王を苦しびしめむとして、白き鹿と化りて王の前に立つ。王異びたまひて、一箇蒜を以て白き鹿を弾けたまふ。則ち眼に中りて殺しつ。爰に王、忽に道を失ひて、出づる所を知らず。時に白き狗自づから来て、王を導きまつる状有り。狗に随ひて行でまして、美濃に出づることを得たまふ。吉備武彦、越より出でて遇ひぬ。是より先に、信濃坂を度る者、多に神の気を得て瘼え臥せり。但白き鹿を殺したまひしより後に、是の山を踰ゆる者は、蒜を嚼みて人及び牛馬に塗る。自づからに神の気に中らず。(景行紀四十年是歳)
白鹿の目に蒜を中てて殺す件は、記の足柄の坂本での出来事と同じである。おもしろいネタをどのように配置するかだけの違いであると考える。
そう捉えたとき、記において足柄の坂本で白鹿を登場させたおもしろさの一つは、足柄という地名のアシガラの清音、アシカラ(注1)という言葉のなかに、シカ(鹿)という音が隠れている点である。
足柄の坂本という場面設定によくかなうと了解されよう。
その鹿の目に蒜を中てて殺してしまった。鹿はその坂の神なのだから、その坂のある場所は、目が見えない状態、真っ暗な状態になってしまった。険しい坂道やその坂を降りたところは薄暗かったから、蒜(ヒは甲類)を使って昼(ヒは甲類)にして白鹿を退治しようとしたところ、なんと、鹿の目に中ってしまったのである(注2)。昼が訪れて明るくなるどころか、さらに見えないほど暗くなってどうしようもなくなった(注3)。だから、這いずるように坂を登り、峠に立って、ああこんなこともあるのかと三回も歎いて「あづまはや」と言っている。だから、その国の名はアヅマというのであると記されている。
記の記述は簡にして要を得ている。
……其坂神、化二白鹿一而来立。
爾、即以二其咋遺之蒜片端一待打者、中二其目一、乃打殺也。
故、登二-立其坂一、三歎詔云、阿豆麻波夜。自レ阿下五字以レ音也。
故、号二其国一謂二阿豆麻一也。
上の3・4行目に、「故」とある。前の文章を承けて、ダカラ〜である、と言っている。3行目から4行目にかけてのつながりに、「故」とある点については周知のとおりで疑問の余地がない。「あづまはや」と云ったから、その国は「あづま」と名づけられているという理屈である。2行目から3行目にかけてのつながりに、「故」とある理由を問うて、「中目(アツマ)」→アヅマ説を唱える根拠の一つにされてもいる。それは強引だということから、新編全集本古事記では「故」を「そして」(228頁)と訳しているが、これは誤りである。坂の神である白鹿を、蒜で目をついて殺してしまい、見えないほど暗いから、坂の上まで登ってご来光を期待して東に向かって「あづまはや」と言っている。
旧来のアツマ(中目)説はかなり苦しい。
アツマとアヅマには清濁の違いがある。稗田阿礼が誦み習わしたものを太安万侶が筆記したものが古事記である。目の古形がマかどうか、「目」単独の形にマと訓んだ例が見られないため不明である。「目のあたり」は顔のうち鼻の左右上方、目の周辺のこと、「目のあたり」は眼前、目の前、直接のことであり、使い分けられている(注5)。そして、稗田阿礼がソノマニアツと誦んでいたとする解釈は、口承伝承においてあり得ないであろう。「中其目」と「其」という指示詞が間に入っている。聞いている人にとって、ソノマニアツ→アツマとは思いつかない。アツソノマなる地名があってその由来譚とするならあり得ても、アツマやアヅマにはならない。肝心の洒落を言うところで、落語家や漫才師が言い淀んで説明調になっていては伝わるものも伝わらない。「其」字が入っているのは、「中目」=アツマ→アヅマと伝える気は微塵もなかったことを物語る(注6)。
山口2005.では、動詞の能動・受動の区別から、正確な訓読を試みている。結論として「爾、即以二其咋遺之蒜片端一待打者、中二其目一、乃打殺也。」部分は次のように訓むべきとしている。
最後の部分がウチコロサエキと訓まないことは筆者も同意見である。倉野1979.に言うとおり、「其の目に中つて、其の鹿を打ち殺されたで意は十分に通じる。」(174頁)のである。そうではあるのだが、山口2005.が、「そもそも、倭建命が鹿を殺したのは、意図的な行動であって、蒜を振り回したら、それがたまたま鹿の目に当たって、鹿が死んでしまったというようなものではない。そのことは、「待打者」という表現からも明らかである。」(114頁)とする点には疑問が残る。
倭建命は、お腹がすいたから足柄山を越えて坂を下ったところで「御粮」を食べていた。近くで摘んだノビルも一緒に食べたのであろう。球根を食べて茎の方を残している。それが「蒜片端」である。そんな柔らかく弱いもので「待打」とはどういうことか。せいぜい束にしておいて鞭のようにピシャリと叩いてお灸をすえる程度のことしか想定していなかったのであろう。ところが、それがたまたま目に当たってしまったので、意図とは異なり、白鹿を「打殺」すことになってしまった。たいへんなことをしてしまったのである。「其坂神、化二白鹿一」なのだから、神さまを殺してしまっている。
山口2005.は、「「中二其目一」を「其の目に中てて」と他動詞に訓むならば、問題の、
○尓、即以二其咋遺之蒜片端一、待打者、中二其目一、乃打殺也。
という文は、すべて倭建命を主格とする文として、統一的に理解できるのである。この「中」が他動詞では都合が悪いという理由も、特に見当たらないから、アテテと他動詞に訓むべきであろう。」(116頁)とするが、それは都合が悪い。「打」という字が「待打」と「打殺」と二か所に見える。この「打」を別物、つまり、前者が「蒜片端」を使ってであり、後者が他の武具を使ってと考えることは誤りである。目に「蒜片端」が刺さったことが急所を突く形になって図らずも殺してしまったということを言っている。「乃」のスナハチは、前後の時間的つながりが即座にという意味ではなく、それすなわち、の意である。「中二其目一」=「打殺」ということ也、と言っている。最初から倭建命が白鹿を殺そうと意図していて「蒜片端」で臨むことはないであろうし、目を狙っていて殺せたのなら、条件節を表す「者」字は書かれないであろう。例えば次のような文章が想起される。
爾、即以二其咋遺之蒜片端一待打而、因レ中二其目一殺也。
そのようには記されておらず、原文のように記されているのだから、「中」は自動詞としてアタリテと訓まなければならない。何もかも倭建命の思いどおりに事が運んでいたとしたら、どうして「三歎」ことになるのか、降りてきた坂を再び登って戻ったことも意味不明になる。
「白鹿」については、新編全集本日本書紀に、「「白」は神異を表す色。後文にも「白狗」がみえる。」(380頁)と説明する。筆者はアルビノ説をとらない。ふつうに見かける鹿も、月光の下では白く見えることがある。それを言っている。月明りだけでは暗いから、ヒル(昼)を望んでヒル(蒜)で活を入れようとしたら、当たり所が悪くて目に刺さって殺すことになってしまったのである。月明りさえないほどひどく暗くなってしまった。困ったことだ、早く朝が来てほしい。だからご来光を望もうと坂を再度登り、歎いて、東の方を向いて言っている。アヅマハヤ。
倭建命が坂の神の化身、白鹿の襲撃に対してしようとしていたことは、追い払うことを考えていただけであったろう。最初から殺そうと思っていたのであれば、草那芸剣などで立ち向かえばいい。そうしないで「其咋遺之蒜片端」で対処しようとしている。どういうことか。それは「鹿」の話だからである。
且曰はく、「圧乞、戸母、其の蘭一茎」といふ。圧乞、此には異提と云ふ。戸母、此には覩自と云ふ。皇后、則ち一根の蘭を採りて、馬に乗れる者に与ふ。因りて、問ひて曰はく、「何に用むとか蘭を求むるや」とのたまふ。馬に乗れる者、対へて曰はく、「山に行かむときに蠛を撥はむ」といふ。蠛、此には摩愚那岐と云ふ。(允恭紀二年二月)
この文章は、後に皇后となる人に対して闘雞国造が無礼な嘲りをした記事であるが、「蘭」とも呼ばれたノビルのことが記されている。山中で「蠛」とも呼ばれたヌカガを払うために使うと言っている。つまり、カ(蚊)除けにヒル(蒜)は効果があると考えられていた。だから、倭建命はカ(鹿)に対して蒜で対抗しようとしている。カ(蚊、鹿)の洒落である(注7)。
そんな洒落を言っていたのに、目に命中して殺すことになってしまった。「其咋遺之蒜片端」とは、蒜と嚙んだ残骸であったろう。すでに噛んでいるから、「噛む」の已然形、「噛め(メは乙類)」である。「中」ったのは、「鹿目(メは乙類)」である。事柄上、「其咋遺之蒜片端」は「鹿」の「目」に命中し、言葉上、「噛め」は「かめ」にあたっている。カメがカメを攻略してしまったというのが落ちである。驚き桃の木山椒の木、たいへんだぁ、アヅマハヤ、という流れになっている。
ハヤは失われたものへの哀惜を示す助詞である。と同時に、早し、という形容詞の語幹でもある。失われたのは光であり、早くしてほしいのは日の出である。そこで「あづまはや」と「詔云」している。「三歎」と書いてある。どのように歎いたのかについては具体的ではない。三度溜め息をついたことと考えられている。ああ、ああ、ああ、とでも言ったということであろうか。筆者には、「三歎」の音声がはっきり聞こえる。kok・kok・kok(コケコッコー)である。ニワトリは、頸を前へ突き出して歎くが如くに鳴く(注8)。「鶏が鳴く」は「東」にかかる枕詞である(注9)。万葉集には、「鶏が鳴く 東の国の〔鷄之鳴吾妻乃國之〕」(万199)、「鶏が鳴く 東の国に〔鷄之鳴東國尓〕」(万382)、「鶏が鳴く 東の国に〔鷄鳴吾妻乃國尓〕」(万1807)、「鶏が鳴く 東の坂を〔鶏鳴東方坂乎〕」(万3194)、「鶏が鳴く 東の国の〔鷄鳴東国乃〕」(万4094)、「鶏が鳴く 東の国の〔鳥鳴東国能〕」(万1800)、「鶏が鳴く 東をさして〔等里我奈久安豆麻乎佐之天〕」(万4131)、「鶏が鳴く 東男の〔等里我奈久安豆麻乎等故能〕」(万4333)、「鶏が鳴く 東男は〔登利我奈久安豆麻乎能故波〕」(万4331)とある(注10)。
鶏が鳴く(Yasuto Pukeko様「にわとりの鳴き声、コケコッコーの連発」https://www.youtube.com/watch?v=8TX-fMIU9fg)
世界が真っ暗になった時、日の出を求めることの例は、記紀において、アマテラスが天石屋(天石窟)に籠った話が早い。
是を以て、八百万の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、高御産巣日神の子、思金神に思はしめて、常世の長鳴鳥を集め鳴かしめて、……(記上)
時に八十万神、天安河辺に会ひて、其の禱るべき方を計ふ。故、思兼神、深く謀り遠く慮りて、遂に常世の長鳴鳥を聚めて、互いに長鳴きせしむ。(神代紀第七段本文)
「常世の長鳴鳥」は鶏のことである。明け方鳴く習性から、日の出を求めるものと解されて自然である。
以上、古事記のアヅマハヤという発言について検討した。「蒜」と「昼」、「鹿目」と「噛め)」との同音をモチーフにした一口話が語られていた。それを今日的な意味で、地口、洒落遊びなどとして無碍に片づけることはできない(注11)。無文字時代の上代の人にとって、言葉はすべて音声であった。同じ音の言葉は何かしら同じ意味があると思いたがり、その志向をくり広げたことでヤマトコトバの言語体系は確かなものになっていった。音声でしかない言葉が定義され続けてゆくことにより、人々の観念体系は着実に構築、再構築をくり返し、定着へと導かれたのである。たゆまぬ進歩、深化があるから、観念体系として共感、賛同を得ていく。現代の若者言葉が、歴史的には刹那的で、10年もしないうちに死語化するのとは対照的である。そんなヤマトコトバの充実によって、虚構の観念体系を共有することができ、コミュニケーションが円滑に行われ、意思疎通は多重にまで図られた。それによって社会の安定、発展につながっている。ヤマトが一つの社会体制たり得るに至ったのは、ひとえにヤマトコトバの爛熟による普及による。大和地方に発して列島の大半、倭国へと版図を広げた古代ヤマト朝廷とは、ヤマトコトバによって言向け和平して国々をまとめ治めた、精神的には暴力的な政治体制であった。人々の立場から見れば、記紀に残るような話(咄・噺・譚)が作られることによって、ヤマトコトバをよくよく理解しているように感じ取り、自らのアイデンティティの礎とすることができて、ヤマトの民としてなにほどかの自負をもって存立し得たのであった(注12)。
(注)
(注1)アシガラという地名は、アシカラと清音で呼ばれたこともあったようである。
足柄〔阿志加良〕の み坂たまはり 顧みず 吾は越え行く ……(万4372)
足柄〈阿之加良〉(二十巻本和名抄)
足柄山といふは、四五日かねて、おそろしげに暗がりわたれり。(更級日記)
Axicaracara anata mademo guxi mairaxôtowa zonzuredomo,(足柄から あなた までも 具し まいらしょうとわ 存ずれども、)(天草本平家物語・巻第四)
更級日記の例は、足柄山が森が深く暗いところとして知られていたことを暗示させる。白鹿の目に蒜の端が中ったという話を生み出す条件はそろっていた。
(注2)蒜については、古典集成本古事記に、「葱以上に強い臭気があり、その臭気が邪気を払うのである。白鹿が死んだのもそのためである。」(165頁)、新編全集本日本書紀に、「ニラ・ニンニクなどの類で、その異臭は邪気を払うと信じられた。」(381頁)とある。さらには、王2011.に、「「蒜」で山神を退治するこの記事の成立については、中国から伝来した本草学の知識との関連において考えるべきであろう。」(76頁)とするが、そのような必要はない。記の説話においては、ヒル(ヒは甲類)という言葉がすべてを物語っており、それを「其咋遺之蒜片端」状態であることが話の要点なのである。
そもそも本草学の知識なくして成り立たない話は、無文字にして学究的でない上代の人にとっては、伝え続けていくのに難しく、無用のことであったろう。その必要がないほど、今日の人に比して格段に、生活の知恵に加えて言葉の知恵が豊かであった。実際に臭いによって虫を払うことは、生きるのに必要な観察力を持ちあわせていれば経験上周知のことであったに違いない。常識として通行していたのであって、学問知識として学んだのではなかった。ニワトリをよく観察しているから、「三歎」といった比喩も生まれて、口承上の話として伝えられていっている。蒜の薬効について漢籍による知識があったかどうかについては、悪魔の証明に似てあったともいえるし、なかったとも言える。問いの立て方が本質から外れている。噛んだ後のものでなければここに話として成り立たないからである。
(注3)紀の信濃での蒜による白鹿殺害も、「爰王忽失レ道、不レ知レ所レ出。」と、暗い森から出られなくなって困っている。そして、わずかな光に映る「白狗」を見つけて何とか暗い森から脱出することができたという話に仕上げている。「蒜」=「昼」なるモチーフは記に同じである。ただ、紀の古訓に、「鹿」とある。糸を巻く桛木に似た角の形からそのように呼ばれている。紀の古訓のカセキと訓む例は確かではないとする意見もあるが、記ではシカ、紀ではカセキで正しいと考える。記はアシカラとの洒落に仕立てるため、紀では深い森の木々の枝が縦横にわたるさまを言い当てているからである。シカが森の中でも平気で生活できるのは、桛木のような角で木々の枝に太刀打ちできているという類推思考によっている。目には目を、歯には歯を的な発想である。大型獣のシカは、茂る木々の枝を抜けるすべを心得、自らが森を抜ける道を知っている。獣道である。そのシカを殺してしまい、日本武尊は抜け出るすべを失った。「不知所出。」は、「不知所如。」(垂仁紀四年九月、仁徳前紀、推古紀三十二年四月)を「せむすべ(を)知らず。」と訓み慣わしている例から、「出でむすべを知らず。」と訓むべきかもしれない。一か所を表すトコロよりも、美濃までの経路が問題になっている。小型獣のイヌ(狗)がわずかに漏れる月光に見えた。そこで身をかがめながらイヌの後を追い、抜け出るすべを得て信濃から脱出している。
余談として、「是より先に、信濃坂を度る者、多に神の気を得て瘼え臥せり。但白き鹿を殺したまひしより後に、是の山を踰ゆる者は、蒜を嚼みて人及び牛馬に塗る。自づからに神の気に中らず。」と付け足されている。「踰二是山一者嚼レ蒜而塗二人及牛馬一、自不レ中二神気一也。」とは、「人及牛馬」に虫除けを兼ねて「蒜」を塗っておけば、そこは「昼」だから明るくて遭難せずに済むという話である。これを知恵と呼ばずに何とするか。
なお、蒜と昼では同じヒル(ヒは甲類)でも、アクセントが違うとする反論も予想される。日本書紀の伝本に、「蒜」に上上(熱田本)、「昼」に上平(前田本)と記される。その際には、このコンテクストは話(咄・噺・譚)なのだということを思い出す必要がある。一休さんの頓智話に、「このはし(橋)を渡るべからず」と書いてあった時、真ん中を通ってきて、このはし(端)は渡っていない、と主張して罷り通っていた。
(注4)大系本日本書紀377頁に同様の主旨が述べられている。
(注5)マノアタリには、マナアタリ、マナタリという形もある。
(注6)倉野1979.は、アツ(中)マ(目)説について、「一見甚だ面白い説で蓋然性がありさうに思はれるが、やはり単なる思ひつきの域を出ないであらう。といふのは、⑴アツがどうしてアヅと濁つたか、⑵話の上では記紀共に鹿の目にアテタのではなく、目にアタツタのである。……アツマではなくてアタリマといふことになつて、折角の妙案もナンセンスとなつてしまう。⑶書紀もアヅマハヤの話に続いて、右に述べたやうに蒜で鹿を弾つて眼に中つて殺したといふことが見えてゐるからである。」(175頁)と評している。
また、阪下2002.は、「「目にあててしまったなア」の意だとしても、それがアヅマハヤという語形をとりうるとは考えられない。ヤマトタケルは「三歎」してアヅマハヤといったという。その歎きの深さは、やはり鹿の目にあてたことよりも、弟橘比売、皇子に代って渡りの神への犠牲となった妻のことにかかわると見る他はなかろう。」(36頁)と評している。
(注7)カ(蚊)については、拙稿「「かがなべて」考」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f996baaa37c6a6cf6d9b3991329747e3ほか参照。
(注8)本居宣長・古事記伝に、「三歎は、泥母許呂爾那宜加志弖と訓べし、【……三歎とは、殊に多く云フなる故に、此にも其ノ字を用ひたるにこそあらめ、古言は三遍歎くには非じ、】返す返す歎き賜ふを云なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/133)とある。センスがない。
(注9)枕詞「鶏が鳴く」が「東」にかかる理由については、著名なものに三説ある。西郷2011.は、「第一は、東国のことばが中央のものには解しがたく鳥のさえずりのように聞えたとする説。第二は、鶏が鳴くぞ、起きよ吾が夫の意で吾夫から東国へかけたとするもの。第三は、鶏が鳴くと東方より夜が白みそめるからとするもの等だが、最後の説は論外としてよかろう。」(374頁)とまとめている。筆者は、「論外」とされてしまった第三説にこそ、記のアヅマハヤを理解するのに欠かせない古代語世界の真髄が宿っていると考えている。第一説があやしいのは、「豚が鳴く」でもかまわなくなるからである。第二説があやしいのは、通い婚で鶏鳴をもって帰らせようとする女性の気持ちと東国との関係が理解できないからである。西郷氏は、防人との関係まで指摘するが、別れ惜しい気持ちと、さっさと起きろという気持ちには重なるところがない。
西郷2011.の「アヅマとは何か」論稿は、一 地名起源譚としての「アヅマはや」、二 妻と端の連動、三 二つの辺境 アヅマとサツマ、四 坂・境・峠、五 宮廷と辺境、の章立てから成る。アヅマとは何かと問い立て、言葉とは音なのだと言いながら、「四」以降ばかりか「三」からすでに、書契的な概念範疇、ものの考え方によって説明、了解しようとしている。理屈が先にあって言葉があると考えている。「文字に馴らされてしまった私たちは、書契以前の時代にことばが音としてどのように連動し機能していたかにつき、あまり敏感に反応できなくなっている。古文辞学では言は事なりというが、しかし真に言が事つまり event でありえたのは、ことばがまだ文字というものを知らず、もっぱら音として生きていた世のことであったらしい。文字との結びつきが強まるにつれ、新しい次元がひらける一方、ことばは事であることをやめ、次第に外なる物(thing)へと平面的に同化されてゆく。今の例でいえばつまり妻はしょせん妻であるにすぎず、端との連動関係が弱まり、消えてしまう。……私のいいたいのは、古代の地名起源譚に近づくには、まずことばを文字から切り離しそれを音として受けとめること、音としてそれがいかに迅速果敢に運動していたかをとらえねばならぬということである。」(373~374頁)という自身の着眼は活かされていない。同じ音の言葉がまず先にあり、それを何がしかかかわりを持たせなければとするあまり、ものの考え方の方を変えてみること、その結果、なるほど同じ音の言葉として成り立っていることに疑問がないと納得している。それこそが無文字時代のヤマトコトバの世界であった。語源という概念はそれとは対極にあって無縁である。もとより、語源なるものはどこまで行っても説の域を出ない。西郷2011.には、「アヅマは本来、たんに地理的に都の東の諸国をいうのではなく、都の東に存する辺境の地つまりフロンティアを意味する語ではなかったか。語彙として分析すれば、アヅマのアは接頭語で、この語の本体はツマ、そしてそれはものの端の意に違いない。つまりアヅマとは、大和から見て一つの端なる辺境をさす語であったはずだ。」(371~372頁)とある。菅野2018.にも、「古代語「アヅマ」とは、本来「遠い所・辺境」の意味であった。それを「東」の訓とし、中央の都から遠く離れた東方の僻地の意としたのは、中国正史各書の「東夷伝」の影響であったろう。」(231頁)とある。固有名詞のことなのか、普通名詞のことなのか、はたまた「東夷伝」に鶏鳴の話が出てくるのか、わからないことになっている。
記紀に、「故、号二其地一謂二○○一。」、「故、名之曰二○○一。」などと記される時、話として地名譚がありますよ、おもしろいでしょうとは言っていても、地名の由来の信憑性に固執して論説しているとはとても考えられない。「屎出で、褌に懸りき。故、其地を号けて屎褌と謂ひき。今は久須婆と謂ふ。」(崇神記)とある、今の樟葉という地名譚について、しかめっ面して断じていたのか、とぼけた顔で言い放っていたのか、上代の人の言語感覚に慣れなければ何もわからない。
(注10)「鶏が鳴く 東の国」という形が散見される。この「東の国」という言い方は、行政単位を言っているのではなく、一般的な呼称である。記に、「故、号二其国一謂二阿豆麻一也。」とあるのを、福田2007.は、「東方地域が初めて「国」として組織化されたことも示すのではないか。」(6頁)と捉えているが、万葉集にあるような大らかな言葉づかいであろう。古事記は行政文書ではない。
(注11)デリダ1989.は、「一口に言葉遊びといっても、いろいろあるわけです。しばしば、言語の身体を無傷のままにしておくためになされる言葉遊びもあるのです。つまり、言語に興ずるために、言語を循環させるためになされる言葉遊びですね。そういう言葉遊びは、根底においては、人びとが言語についてもちうる制圧において彼らを安堵させるわけです。……しかし、別種の言葉遊びもあって、これは反対にもっと不安を起こさせるわけです。」(284頁)という。彼の説く「陥入(invagination)」の概念は興味深い。
(注12)近代においても、語族をもって一つの国民国家とする考え方が一般的である。
(引用・参考文献)
王2011. 王小林『日本古代文献の漢籍受容に関する研究』和泉書院、2011年。
大野1982. 大野晋『仮名遣と上代語』岩波書店、1982年。
倉野1979. 倉野憲司『古事記全註釈 第六巻 中巻篇(下)』三省堂、昭和54年。
西郷2011. 西郷信綱『西郷信綱著作集 第4巻─詩論と詩学Ⅰ 萬葉私記・古代の声─』平凡社、2011年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
菅野2018. 菅野雅雄『古事記講話』おうふう、平成30年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
デリダ1989. ジャック・デリダ、高橋允昭編訳『他者の言語─デリダの日本講演─』法政大学出版局、1989年。
古典集成本古事記 西宮一民『新潮古典文学集成 古事記』新潮社、昭和54年。
福田2007. 福田武史「「あづまの国」の成立─倭建命による「東方十二道」平定が果たしたもの─」『萬葉』第199号、平成19年12月。学会誌『萬葉』アーカイブhttp://manyoug.jp/memoir/2007
丸山1981. 丸山圭三郎『ソシュールの思想』岩波書店、1981年。
山口2005. 山口佳紀『古事記の表現と解釈』風間書房、2005年。
(English Summary)
It is stated in Kojiki and Nihon Shoki that PrinceYamatö Takeru shouted "Adumafaya" at the pass after the conquest of eastern area. It is thought that this anecdote was well known to people during the Asuka period. The ancient Japanese, being made up of only voices, was enjoyed through jokes between 蒜 (wild rocambole) and 昼 (daytime) and between 鹿目 (deer’s eyes) and 噛め (bit off). This tells us that we have to study more about language. Ferdinand de Saussure said, “Parler d'idées générales avant d'avoir fait de la linguistique, c'est mettre la charrue devant les bœufs, mais il le faut bien!”
※本稿は、2019年9月稿を2021年9月に改稿し、2024年3月にルビ形式にしたものである。
[倭建命]其より入り幸して、悉く荒ぶる蝦夷等を言向け、亦、山河の荒ぶる神等を平げ和して、還り上り幸す時、足柄の坂本に到りて、御粮食す処に、其の坂の神、白き鹿に化りて来立つ。爾くして、即ち其の咋ひ遺せる蒜の片端を以て待ち打てば、其の目に中りて、乃ち打ち殺しき。故、其の坂に登り立ちて、三たび歎きて詔ひて云はく、「あづまはや」といひき。故、其の国を号けて阿豆麻と謂ふ。(景行記)

話の発端は、足柄の坂本で坂の神が白鹿になって襲ってきたことによる。蒜の食い端で白鹿を迎え打ち、その目に当てて殺し、坂に上って歎いて「あづまはや」と言っている。だからその国のことはアヅマというのだというのである。この命名譚については、景行紀の叙述と違いがある。紀では、碓氷峠において、馳水(走水)で入水した弟橘媛のことを忍び、「私の妻よ、ああ」(あづまはや)と言っている。よって、アヅマノクニというのであると述べられている。記の説話の解釈としては、紀の内容に沿わせて妻を忍ぶ意を含んでいるとするか、記の例においては「中+目」だからアヅマというと言っているのか、といった説があげられている。両者は相容れないもので、議論は解決に至っていない。
時に日本武尊、毎に弟橘媛を顧ひたまふ情有します。故、碓日嶺に登りまして、東南を望みて三たび歎きて曰はく、「吾嬬はや」とのたまふ。嬬、此には菟摩と云ふ。故因りて山の東の諸国を号けて吾嬬国と曰ふ。(景行紀四十年是歳)
「白鹿」は、紀では、その後の信濃の途上に登場する。
則ち日本武尊、信濃に進入しぬ。是の国は、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。巌嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず。然るに日本武尊、烟を披け、霧を凌ぎて、遥かに大山を径りたまふ。既に峰に逮りて飢ゑて、山の中に食す。山の神、王を苦しびしめむとして、白き鹿と化りて王の前に立つ。王異びたまひて、一箇蒜を以て白き鹿を弾けたまふ。則ち眼に中りて殺しつ。爰に王、忽に道を失ひて、出づる所を知らず。時に白き狗自づから来て、王を導きまつる状有り。狗に随ひて行でまして、美濃に出づることを得たまふ。吉備武彦、越より出でて遇ひぬ。是より先に、信濃坂を度る者、多に神の気を得て瘼え臥せり。但白き鹿を殺したまひしより後に、是の山を踰ゆる者は、蒜を嚼みて人及び牛馬に塗る。自づからに神の気に中らず。(景行紀四十年是歳)
白鹿の目に蒜を中てて殺す件は、記の足柄の坂本での出来事と同じである。おもしろいネタをどのように配置するかだけの違いであると考える。
そう捉えたとき、記において足柄の坂本で白鹿を登場させたおもしろさの一つは、足柄という地名のアシガラの清音、アシカラ(注1)という言葉のなかに、シカ(鹿)という音が隠れている点である。
足柄の坂本という場面設定によくかなうと了解されよう。
その鹿の目に蒜を中てて殺してしまった。鹿はその坂の神なのだから、その坂のある場所は、目が見えない状態、真っ暗な状態になってしまった。険しい坂道やその坂を降りたところは薄暗かったから、蒜(ヒは甲類)を使って昼(ヒは甲類)にして白鹿を退治しようとしたところ、なんと、鹿の目に中ってしまったのである(注2)。昼が訪れて明るくなるどころか、さらに見えないほど暗くなってどうしようもなくなった(注3)。だから、這いずるように坂を登り、峠に立って、ああこんなこともあるのかと三回も歎いて「あづまはや」と言っている。だから、その国の名はアヅマというのであると記されている。
記の記述は簡にして要を得ている。
……其坂神、化二白鹿一而来立。
爾、即以二其咋遺之蒜片端一待打者、中二其目一、乃打殺也。
故、登二-立其坂一、三歎詔云、阿豆麻波夜。自レ阿下五字以レ音也。
故、号二其国一謂二阿豆麻一也。
上の3・4行目に、「故」とある。前の文章を承けて、ダカラ〜である、と言っている。3行目から4行目にかけてのつながりに、「故」とある点については周知のとおりで疑問の余地がない。「あづまはや」と云ったから、その国は「あづま」と名づけられているという理屈である。2行目から3行目にかけてのつながりに、「故」とある理由を問うて、「中目(アツマ)」→アヅマ説を唱える根拠の一つにされてもいる。それは強引だということから、新編全集本古事記では「故」を「そして」(228頁)と訳しているが、これは誤りである。坂の神である白鹿を、蒜で目をついて殺してしまい、見えないほど暗いから、坂の上まで登ってご来光を期待して東に向かって「あづまはや」と言っている。
旧来のアツマ(中目)説はかなり苦しい。
……古事記では、足柄山で白い鹿を蒜の片端で打つ。その目にあてて、殺したという。ところで目という語の古形はマである。今日でも、マツゲ(目ツ毛)とかマナコとかにマという古形が残っている。だから、原文の「中二其目一」は、ソノマニアツと訓むのであろう。この下に、「故……」とあるのだから、アヅマという名が出て来た原因は、古事記では中レ目にある。中レ目はアツマ(中目)である。アツマからアヅマハヤと言ったとするのが古事記である。(大野1982.336~337頁)(注4)。
アツマとアヅマには清濁の違いがある。稗田阿礼が誦み習わしたものを太安万侶が筆記したものが古事記である。目の古形がマかどうか、「目」単独の形にマと訓んだ例が見られないため不明である。「目のあたり」は顔のうち鼻の左右上方、目の周辺のこと、「目のあたり」は眼前、目の前、直接のことであり、使い分けられている(注5)。そして、稗田阿礼がソノマニアツと誦んでいたとする解釈は、口承伝承においてあり得ないであろう。「中其目」と「其」という指示詞が間に入っている。聞いている人にとって、ソノマニアツ→アツマとは思いつかない。アツソノマなる地名があってその由来譚とするならあり得ても、アツマやアヅマにはならない。肝心の洒落を言うところで、落語家や漫才師が言い淀んで説明調になっていては伝わるものも伝わらない。「其」字が入っているのは、「中目」=アツマ→アヅマと伝える気は微塵もなかったことを物語る(注6)。
山口2005.では、動詞の能動・受動の区別から、正確な訓読を試みている。結論として「爾、即以二其咋遺之蒜片端一待打者、中二其目一、乃打殺也。」部分は次のように訓むべきとしている。
尓くして、即ち其の咋ひ遺せる蒜の片端を以て、待ち打てば〔者〕、其の目に中てて、乃ち打ち殺しき〔也〕。
末尾を受動態ではなく、能動態に訓むのは、受身を表す文字がないからである。また、「中二其目一」は「其の目に中てて」と他動詞として訓むが、それは、右の文章が倭建命を主格とする文として統一されており、全体として倭建命の意図的行動を表していると見るからである。なお、そこにアツマ(中目)という語形が潜在しているという見方には、賛同できない。(119頁)
末尾を受動態ではなく、能動態に訓むのは、受身を表す文字がないからである。また、「中二其目一」は「其の目に中てて」と他動詞として訓むが、それは、右の文章が倭建命を主格とする文として統一されており、全体として倭建命の意図的行動を表していると見るからである。なお、そこにアツマ(中目)という語形が潜在しているという見方には、賛同できない。(119頁)
最後の部分がウチコロサエキと訓まないことは筆者も同意見である。倉野1979.に言うとおり、「其の目に中つて、其の鹿を打ち殺されたで意は十分に通じる。」(174頁)のである。そうではあるのだが、山口2005.が、「そもそも、倭建命が鹿を殺したのは、意図的な行動であって、蒜を振り回したら、それがたまたま鹿の目に当たって、鹿が死んでしまったというようなものではない。そのことは、「待打者」という表現からも明らかである。」(114頁)とする点には疑問が残る。
倭建命は、お腹がすいたから足柄山を越えて坂を下ったところで「御粮」を食べていた。近くで摘んだノビルも一緒に食べたのであろう。球根を食べて茎の方を残している。それが「蒜片端」である。そんな柔らかく弱いもので「待打」とはどういうことか。せいぜい束にしておいて鞭のようにピシャリと叩いてお灸をすえる程度のことしか想定していなかったのであろう。ところが、それがたまたま目に当たってしまったので、意図とは異なり、白鹿を「打殺」すことになってしまった。たいへんなことをしてしまったのである。「其坂神、化二白鹿一」なのだから、神さまを殺してしまっている。
山口2005.は、「「中二其目一」を「其の目に中てて」と他動詞に訓むならば、問題の、
○尓、即以二其咋遺之蒜片端一、待打者、中二其目一、乃打殺也。
という文は、すべて倭建命を主格とする文として、統一的に理解できるのである。この「中」が他動詞では都合が悪いという理由も、特に見当たらないから、アテテと他動詞に訓むべきであろう。」(116頁)とするが、それは都合が悪い。「打」という字が「待打」と「打殺」と二か所に見える。この「打」を別物、つまり、前者が「蒜片端」を使ってであり、後者が他の武具を使ってと考えることは誤りである。目に「蒜片端」が刺さったことが急所を突く形になって図らずも殺してしまったということを言っている。「乃」のスナハチは、前後の時間的つながりが即座にという意味ではなく、それすなわち、の意である。「中二其目一」=「打殺」ということ也、と言っている。最初から倭建命が白鹿を殺そうと意図していて「蒜片端」で臨むことはないであろうし、目を狙っていて殺せたのなら、条件節を表す「者」字は書かれないであろう。例えば次のような文章が想起される。
爾、即以二其咋遺之蒜片端一待打而、因レ中二其目一殺也。
そのようには記されておらず、原文のように記されているのだから、「中」は自動詞としてアタリテと訓まなければならない。何もかも倭建命の思いどおりに事が運んでいたとしたら、どうして「三歎」ことになるのか、降りてきた坂を再び登って戻ったことも意味不明になる。
「白鹿」については、新編全集本日本書紀に、「「白」は神異を表す色。後文にも「白狗」がみえる。」(380頁)と説明する。筆者はアルビノ説をとらない。ふつうに見かける鹿も、月光の下では白く見えることがある。それを言っている。月明りだけでは暗いから、ヒル(昼)を望んでヒル(蒜)で活を入れようとしたら、当たり所が悪くて目に刺さって殺すことになってしまったのである。月明りさえないほどひどく暗くなってしまった。困ったことだ、早く朝が来てほしい。だからご来光を望もうと坂を再度登り、歎いて、東の方を向いて言っている。アヅマハヤ。
倭建命が坂の神の化身、白鹿の襲撃に対してしようとしていたことは、追い払うことを考えていただけであったろう。最初から殺そうと思っていたのであれば、草那芸剣などで立ち向かえばいい。そうしないで「其咋遺之蒜片端」で対処しようとしている。どういうことか。それは「鹿」の話だからである。
且曰はく、「圧乞、戸母、其の蘭一茎」といふ。圧乞、此には異提と云ふ。戸母、此には覩自と云ふ。皇后、則ち一根の蘭を採りて、馬に乗れる者に与ふ。因りて、問ひて曰はく、「何に用むとか蘭を求むるや」とのたまふ。馬に乗れる者、対へて曰はく、「山に行かむときに蠛を撥はむ」といふ。蠛、此には摩愚那岐と云ふ。(允恭紀二年二月)
この文章は、後に皇后となる人に対して闘雞国造が無礼な嘲りをした記事であるが、「蘭」とも呼ばれたノビルのことが記されている。山中で「蠛」とも呼ばれたヌカガを払うために使うと言っている。つまり、カ(蚊)除けにヒル(蒜)は効果があると考えられていた。だから、倭建命はカ(鹿)に対して蒜で対抗しようとしている。カ(蚊、鹿)の洒落である(注7)。
そんな洒落を言っていたのに、目に命中して殺すことになってしまった。「其咋遺之蒜片端」とは、蒜と嚙んだ残骸であったろう。すでに噛んでいるから、「噛む」の已然形、「噛め(メは乙類)」である。「中」ったのは、「鹿目(メは乙類)」である。事柄上、「其咋遺之蒜片端」は「鹿」の「目」に命中し、言葉上、「噛め」は「かめ」にあたっている。カメがカメを攻略してしまったというのが落ちである。驚き桃の木山椒の木、たいへんだぁ、アヅマハヤ、という流れになっている。
ハヤは失われたものへの哀惜を示す助詞である。と同時に、早し、という形容詞の語幹でもある。失われたのは光であり、早くしてほしいのは日の出である。そこで「あづまはや」と「詔云」している。「三歎」と書いてある。どのように歎いたのかについては具体的ではない。三度溜め息をついたことと考えられている。ああ、ああ、ああ、とでも言ったということであろうか。筆者には、「三歎」の音声がはっきり聞こえる。kok・kok・kok(コケコッコー)である。ニワトリは、頸を前へ突き出して歎くが如くに鳴く(注8)。「鶏が鳴く」は「東」にかかる枕詞である(注9)。万葉集には、「鶏が鳴く 東の国の〔鷄之鳴吾妻乃國之〕」(万199)、「鶏が鳴く 東の国に〔鷄之鳴東國尓〕」(万382)、「鶏が鳴く 東の国に〔鷄鳴吾妻乃國尓〕」(万1807)、「鶏が鳴く 東の坂を〔鶏鳴東方坂乎〕」(万3194)、「鶏が鳴く 東の国の〔鷄鳴東国乃〕」(万4094)、「鶏が鳴く 東の国の〔鳥鳴東国能〕」(万1800)、「鶏が鳴く 東をさして〔等里我奈久安豆麻乎佐之天〕」(万4131)、「鶏が鳴く 東男の〔等里我奈久安豆麻乎等故能〕」(万4333)、「鶏が鳴く 東男は〔登利我奈久安豆麻乎能故波〕」(万4331)とある(注10)。

世界が真っ暗になった時、日の出を求めることの例は、記紀において、アマテラスが天石屋(天石窟)に籠った話が早い。
是を以て、八百万の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、高御産巣日神の子、思金神に思はしめて、常世の長鳴鳥を集め鳴かしめて、……(記上)
時に八十万神、天安河辺に会ひて、其の禱るべき方を計ふ。故、思兼神、深く謀り遠く慮りて、遂に常世の長鳴鳥を聚めて、互いに長鳴きせしむ。(神代紀第七段本文)
「常世の長鳴鳥」は鶏のことである。明け方鳴く習性から、日の出を求めるものと解されて自然である。
以上、古事記のアヅマハヤという発言について検討した。「蒜」と「昼」、「鹿目」と「噛め)」との同音をモチーフにした一口話が語られていた。それを今日的な意味で、地口、洒落遊びなどとして無碍に片づけることはできない(注11)。無文字時代の上代の人にとって、言葉はすべて音声であった。同じ音の言葉は何かしら同じ意味があると思いたがり、その志向をくり広げたことでヤマトコトバの言語体系は確かなものになっていった。音声でしかない言葉が定義され続けてゆくことにより、人々の観念体系は着実に構築、再構築をくり返し、定着へと導かれたのである。たゆまぬ進歩、深化があるから、観念体系として共感、賛同を得ていく。現代の若者言葉が、歴史的には刹那的で、10年もしないうちに死語化するのとは対照的である。そんなヤマトコトバの充実によって、虚構の観念体系を共有することができ、コミュニケーションが円滑に行われ、意思疎通は多重にまで図られた。それによって社会の安定、発展につながっている。ヤマトが一つの社会体制たり得るに至ったのは、ひとえにヤマトコトバの爛熟による普及による。大和地方に発して列島の大半、倭国へと版図を広げた古代ヤマト朝廷とは、ヤマトコトバによって言向け和平して国々をまとめ治めた、精神的には暴力的な政治体制であった。人々の立場から見れば、記紀に残るような話(咄・噺・譚)が作られることによって、ヤマトコトバをよくよく理解しているように感じ取り、自らのアイデンティティの礎とすることができて、ヤマトの民としてなにほどかの自負をもって存立し得たのであった(注12)。
(注)
(注1)アシガラという地名は、アシカラと清音で呼ばれたこともあったようである。
足柄〔阿志加良〕の み坂たまはり 顧みず 吾は越え行く ……(万4372)
足柄〈阿之加良〉(二十巻本和名抄)
足柄山といふは、四五日かねて、おそろしげに暗がりわたれり。(更級日記)
Axicaracara anata mademo guxi mairaxôtowa zonzuredomo,(足柄から あなた までも 具し まいらしょうとわ 存ずれども、)(天草本平家物語・巻第四)
更級日記の例は、足柄山が森が深く暗いところとして知られていたことを暗示させる。白鹿の目に蒜の端が中ったという話を生み出す条件はそろっていた。
(注2)蒜については、古典集成本古事記に、「葱以上に強い臭気があり、その臭気が邪気を払うのである。白鹿が死んだのもそのためである。」(165頁)、新編全集本日本書紀に、「ニラ・ニンニクなどの類で、その異臭は邪気を払うと信じられた。」(381頁)とある。さらには、王2011.に、「「蒜」で山神を退治するこの記事の成立については、中国から伝来した本草学の知識との関連において考えるべきであろう。」(76頁)とするが、そのような必要はない。記の説話においては、ヒル(ヒは甲類)という言葉がすべてを物語っており、それを「其咋遺之蒜片端」状態であることが話の要点なのである。
そもそも本草学の知識なくして成り立たない話は、無文字にして学究的でない上代の人にとっては、伝え続けていくのに難しく、無用のことであったろう。その必要がないほど、今日の人に比して格段に、生活の知恵に加えて言葉の知恵が豊かであった。実際に臭いによって虫を払うことは、生きるのに必要な観察力を持ちあわせていれば経験上周知のことであったに違いない。常識として通行していたのであって、学問知識として学んだのではなかった。ニワトリをよく観察しているから、「三歎」といった比喩も生まれて、口承上の話として伝えられていっている。蒜の薬効について漢籍による知識があったかどうかについては、悪魔の証明に似てあったともいえるし、なかったとも言える。問いの立て方が本質から外れている。噛んだ後のものでなければここに話として成り立たないからである。
(注3)紀の信濃での蒜による白鹿殺害も、「爰王忽失レ道、不レ知レ所レ出。」と、暗い森から出られなくなって困っている。そして、わずかな光に映る「白狗」を見つけて何とか暗い森から脱出することができたという話に仕上げている。「蒜」=「昼」なるモチーフは記に同じである。ただ、紀の古訓に、「鹿」とある。糸を巻く桛木に似た角の形からそのように呼ばれている。紀の古訓のカセキと訓む例は確かではないとする意見もあるが、記ではシカ、紀ではカセキで正しいと考える。記はアシカラとの洒落に仕立てるため、紀では深い森の木々の枝が縦横にわたるさまを言い当てているからである。シカが森の中でも平気で生活できるのは、桛木のような角で木々の枝に太刀打ちできているという類推思考によっている。目には目を、歯には歯を的な発想である。大型獣のシカは、茂る木々の枝を抜けるすべを心得、自らが森を抜ける道を知っている。獣道である。そのシカを殺してしまい、日本武尊は抜け出るすべを失った。「不知所出。」は、「不知所如。」(垂仁紀四年九月、仁徳前紀、推古紀三十二年四月)を「せむすべ(を)知らず。」と訓み慣わしている例から、「出でむすべを知らず。」と訓むべきかもしれない。一か所を表すトコロよりも、美濃までの経路が問題になっている。小型獣のイヌ(狗)がわずかに漏れる月光に見えた。そこで身をかがめながらイヌの後を追い、抜け出るすべを得て信濃から脱出している。
余談として、「是より先に、信濃坂を度る者、多に神の気を得て瘼え臥せり。但白き鹿を殺したまひしより後に、是の山を踰ゆる者は、蒜を嚼みて人及び牛馬に塗る。自づからに神の気に中らず。」と付け足されている。「踰二是山一者嚼レ蒜而塗二人及牛馬一、自不レ中二神気一也。」とは、「人及牛馬」に虫除けを兼ねて「蒜」を塗っておけば、そこは「昼」だから明るくて遭難せずに済むという話である。これを知恵と呼ばずに何とするか。
なお、蒜と昼では同じヒル(ヒは甲類)でも、アクセントが違うとする反論も予想される。日本書紀の伝本に、「蒜」に上上(熱田本)、「昼」に上平(前田本)と記される。その際には、このコンテクストは話(咄・噺・譚)なのだということを思い出す必要がある。一休さんの頓智話に、「このはし(橋)を渡るべからず」と書いてあった時、真ん中を通ってきて、このはし(端)は渡っていない、と主張して罷り通っていた。
(注4)大系本日本書紀377頁に同様の主旨が述べられている。
(注5)マノアタリには、マナアタリ、マナタリという形もある。
(注6)倉野1979.は、アツ(中)マ(目)説について、「一見甚だ面白い説で蓋然性がありさうに思はれるが、やはり単なる思ひつきの域を出ないであらう。といふのは、⑴アツがどうしてアヅと濁つたか、⑵話の上では記紀共に鹿の目にアテタのではなく、目にアタツタのである。……アツマではなくてアタリマといふことになつて、折角の妙案もナンセンスとなつてしまう。⑶書紀もアヅマハヤの話に続いて、右に述べたやうに蒜で鹿を弾つて眼に中つて殺したといふことが見えてゐるからである。」(175頁)と評している。
また、阪下2002.は、「「目にあててしまったなア」の意だとしても、それがアヅマハヤという語形をとりうるとは考えられない。ヤマトタケルは「三歎」してアヅマハヤといったという。その歎きの深さは、やはり鹿の目にあてたことよりも、弟橘比売、皇子に代って渡りの神への犠牲となった妻のことにかかわると見る他はなかろう。」(36頁)と評している。
(注7)カ(蚊)については、拙稿「「かがなべて」考」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f996baaa37c6a6cf6d9b3991329747e3ほか参照。
(注8)本居宣長・古事記伝に、「三歎は、泥母許呂爾那宜加志弖と訓べし、【……三歎とは、殊に多く云フなる故に、此にも其ノ字を用ひたるにこそあらめ、古言は三遍歎くには非じ、】返す返す歎き賜ふを云なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/133)とある。センスがない。
(注9)枕詞「鶏が鳴く」が「東」にかかる理由については、著名なものに三説ある。西郷2011.は、「第一は、東国のことばが中央のものには解しがたく鳥のさえずりのように聞えたとする説。第二は、鶏が鳴くぞ、起きよ吾が夫の意で吾夫から東国へかけたとするもの。第三は、鶏が鳴くと東方より夜が白みそめるからとするもの等だが、最後の説は論外としてよかろう。」(374頁)とまとめている。筆者は、「論外」とされてしまった第三説にこそ、記のアヅマハヤを理解するのに欠かせない古代語世界の真髄が宿っていると考えている。第一説があやしいのは、「豚が鳴く」でもかまわなくなるからである。第二説があやしいのは、通い婚で鶏鳴をもって帰らせようとする女性の気持ちと東国との関係が理解できないからである。西郷氏は、防人との関係まで指摘するが、別れ惜しい気持ちと、さっさと起きろという気持ちには重なるところがない。
西郷2011.の「アヅマとは何か」論稿は、一 地名起源譚としての「アヅマはや」、二 妻と端の連動、三 二つの辺境 アヅマとサツマ、四 坂・境・峠、五 宮廷と辺境、の章立てから成る。アヅマとは何かと問い立て、言葉とは音なのだと言いながら、「四」以降ばかりか「三」からすでに、書契的な概念範疇、ものの考え方によって説明、了解しようとしている。理屈が先にあって言葉があると考えている。「文字に馴らされてしまった私たちは、書契以前の時代にことばが音としてどのように連動し機能していたかにつき、あまり敏感に反応できなくなっている。古文辞学では言は事なりというが、しかし真に言が事つまり event でありえたのは、ことばがまだ文字というものを知らず、もっぱら音として生きていた世のことであったらしい。文字との結びつきが強まるにつれ、新しい次元がひらける一方、ことばは事であることをやめ、次第に外なる物(thing)へと平面的に同化されてゆく。今の例でいえばつまり妻はしょせん妻であるにすぎず、端との連動関係が弱まり、消えてしまう。……私のいいたいのは、古代の地名起源譚に近づくには、まずことばを文字から切り離しそれを音として受けとめること、音としてそれがいかに迅速果敢に運動していたかをとらえねばならぬということである。」(373~374頁)という自身の着眼は活かされていない。同じ音の言葉がまず先にあり、それを何がしかかかわりを持たせなければとするあまり、ものの考え方の方を変えてみること、その結果、なるほど同じ音の言葉として成り立っていることに疑問がないと納得している。それこそが無文字時代のヤマトコトバの世界であった。語源という概念はそれとは対極にあって無縁である。もとより、語源なるものはどこまで行っても説の域を出ない。西郷2011.には、「アヅマは本来、たんに地理的に都の東の諸国をいうのではなく、都の東に存する辺境の地つまりフロンティアを意味する語ではなかったか。語彙として分析すれば、アヅマのアは接頭語で、この語の本体はツマ、そしてそれはものの端の意に違いない。つまりアヅマとは、大和から見て一つの端なる辺境をさす語であったはずだ。」(371~372頁)とある。菅野2018.にも、「古代語「アヅマ」とは、本来「遠い所・辺境」の意味であった。それを「東」の訓とし、中央の都から遠く離れた東方の僻地の意としたのは、中国正史各書の「東夷伝」の影響であったろう。」(231頁)とある。固有名詞のことなのか、普通名詞のことなのか、はたまた「東夷伝」に鶏鳴の話が出てくるのか、わからないことになっている。
記紀に、「故、号二其地一謂二○○一。」、「故、名之曰二○○一。」などと記される時、話として地名譚がありますよ、おもしろいでしょうとは言っていても、地名の由来の信憑性に固執して論説しているとはとても考えられない。「屎出で、褌に懸りき。故、其地を号けて屎褌と謂ひき。今は久須婆と謂ふ。」(崇神記)とある、今の樟葉という地名譚について、しかめっ面して断じていたのか、とぼけた顔で言い放っていたのか、上代の人の言語感覚に慣れなければ何もわからない。
(注10)「鶏が鳴く 東の国」という形が散見される。この「東の国」という言い方は、行政単位を言っているのではなく、一般的な呼称である。記に、「故、号二其国一謂二阿豆麻一也。」とあるのを、福田2007.は、「東方地域が初めて「国」として組織化されたことも示すのではないか。」(6頁)と捉えているが、万葉集にあるような大らかな言葉づかいであろう。古事記は行政文書ではない。
(注11)デリダ1989.は、「一口に言葉遊びといっても、いろいろあるわけです。しばしば、言語の身体を無傷のままにしておくためになされる言葉遊びもあるのです。つまり、言語に興ずるために、言語を循環させるためになされる言葉遊びですね。そういう言葉遊びは、根底においては、人びとが言語についてもちうる制圧において彼らを安堵させるわけです。……しかし、別種の言葉遊びもあって、これは反対にもっと不安を起こさせるわけです。」(284頁)という。彼の説く「陥入(invagination)」の概念は興味深い。
(注12)近代においても、語族をもって一つの国民国家とする考え方が一般的である。
(引用・参考文献)
王2011. 王小林『日本古代文献の漢籍受容に関する研究』和泉書院、2011年。
大野1982. 大野晋『仮名遣と上代語』岩波書店、1982年。
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新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
菅野2018. 菅野雅雄『古事記講話』おうふう、平成30年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
デリダ1989. ジャック・デリダ、高橋允昭編訳『他者の言語─デリダの日本講演─』法政大学出版局、1989年。
古典集成本古事記 西宮一民『新潮古典文学集成 古事記』新潮社、昭和54年。
福田2007. 福田武史「「あづまの国」の成立─倭建命による「東方十二道」平定が果たしたもの─」『萬葉』第199号、平成19年12月。学会誌『萬葉』アーカイブhttp://manyoug.jp/memoir/2007
丸山1981. 丸山圭三郎『ソシュールの思想』岩波書店、1981年。
山口2005. 山口佳紀『古事記の表現と解釈』風間書房、2005年。
(English Summary)
It is stated in Kojiki and Nihon Shoki that PrinceYamatö Takeru shouted "Adumafaya" at the pass after the conquest of eastern area. It is thought that this anecdote was well known to people during the Asuka period. The ancient Japanese, being made up of only voices, was enjoyed through jokes between 蒜 (wild rocambole) and 昼 (daytime) and between 鹿目 (deer’s eyes) and 噛め (bit off). This tells us that we have to study more about language. Ferdinand de Saussure said, “Parler d'idées générales avant d'avoir fait de la linguistique, c'est mettre la charrue devant les bœufs, mais il le faut bien!”
※本稿は、2019年9月稿を2021年9月に改稿し、2024年3月にルビ形式にしたものである。