古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

サルタヒコとサルメ

2021年09月23日 | 古事記・日本書紀・万葉集
サルタヒコとサルメノキミの説話

 記紀の天孫降臨の話に、猿田毘古(猨田彦)と猿女君(猨女君)という配役が登場する。ここでは、古事記の話を中心にして、日本書紀(注1)を参照していくことにする。猿田毘古と猿女君の記事は次のとおりである。

 爾くして、日子番能邇邇芸命(ひこほのににぎのみこと)、天降りまさむとする時に、天の八衢(やちまた)に居て、上(かみ)は高天原を光(てら)し、下(しも)は葦原中国を光す神、是に有り。故、爾くして、天照大御神・高木神の命(みこと)を以て、天宇受売神(あめのうずめのかみ)に詔(のりたま)ひしく、「汝(いまし)は手弱女人(たわやめ)に有れども、いむかふ神と面(おも)勝つ神なり。故、専(もは)ら汝往きて問はまさむは、『吾が御子の天降らむと為る道を、誰ぞ如此(かく)して居る』ととへ」とのりたまひき。故、問ひ賜ふ時に、答へ白ししく、「僕(あ)は国つ神、名は猿田毘古神(さるたびこのかみ)ぞ。出で居(を)る所以(ゆゑ)は、天つ神の御子天降り坐すと聞きつる故に、御前(みさき)に仕へ奉らむとして、参ゐ向へ侍(はべ)り」とまをしき。……天宇受売命は、猿女君(さるめきみ)等が祖(おや)ぞ。……
 故、爾くして、天宇受売命に詔ひしく、「此の御前(みさき)に立ちて仕へ奉れる猿田毘古大神は、専ら顕はし申せし汝、送り奉れ。亦、其の神の御名は、汝負ひて仕へ奉れ」とのりたまひき。是を以て、猿女君等、其の猨田毘古の男神(をがみ)の名を負ひて、女(をみな)を猨女君と呼ぶ事是れぞ。
 故、其の猨田毘古神、阿耶訶(あざか)に坐す時、漁(すなどり)為て、ひらぶ貝に其の手を咋ひ合さえて、海塩(うしほ)に沈み溺れき。故、其の底に沈み居たまひし時の名は、底度久御魂(そこどくみたま)と謂ひ、其の海水(うしほ)のつぶたつ時の名は、都夫多都御魂(つぶたつみたま)と謂ひ、其のあわさく時の名は、阿和佐久御魂(あわさくみたま)と謂ふ。
 是に猨田毗古神を送りて還り到りて、乃ち悉に鰭(はた)の広物(ひろもの)・鰭の狭物(さもの)を追ひ聚めて、「汝は天つ神の御子に仕へ奉らむや」と問言(と)ひし時に、諸の魚(いを)皆、「仕へ奉らむ」と白す中に、海鼠(こ)白さず。爾くして、天宇受売命、海鼠に謂ひしく、「此の口や答へぬ口」といひて、紐小刀(ひもかたな)を以て其の口を拆(さ)く。故、今に海鼠の口拆くるなり。是を以て、御世(みよみよ)、島の速贄(はやにへ)献(たてまつ)る時に、猨女君等に給ふぞ。(記上)

 古事記の天孫降臨の話を要約すると次のようになる。天照大御神と高木神は日子番能邇々芸命に詔して、「豊葦原水穂国(とよあしはらみずほのくに)はお前が統治する国であると委任するから命令どおりに天降りしなさい」と命じた。そこで天降りしようとした時、天の八衢に、上は高天原を、下は葦原中国を照らす神がいた。天照大御神と高木神は天宇受売神に、「お前はか弱い女だが、眼力の強い神と面と向かってもにらみ勝つ神だから、ちょっと出かけていって、『我が御子が天降りしようとする道で、通せん坊をしているのは誰か』と問いなさい」と仰った。そのとおりすると、「自分は国つ神で、名は猿田毘古神だ。天つ神の御子が天降られると聞いたので、先導しようと出迎えたのだ」と答えた。
 そこで、天児屋命(あめのこやのみこと)・布刀玉命(ふとたまのみこと)(太玉命)・天宇受売命・伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)(石凝姥命)・玉祖命(たまのおやのみこと)(玉屋命(たまのやのみこと))、あわせて五人の部族長を分け添えて天降りした。そして、例の天の石屋戸の話で招き出した八尺の勾玉・鏡・草薙剣と、また、常世思金神(とこよのおもひかねのかみ)・手力男神(たぢからをのかみ)・天石門別神(あめのいはとわけのかみ)を副えた。「この鏡は私の御魂として、私を祭るように祭り仕えるように」と言い聞かせ、また、「思金神は、今言ったことを弁えて祭事をしなさい」と仰った。そして、それぞれ神の鎮座所と祖先伝承を載せている。
 日子番能邇々芸命は仰せを受け、天の堅固な神座を離れて、天の幾重にもたなびく雲を押し分け、威風堂々と道を選んで、天の浮橋に「うきじまり、そりたたして」、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降りした。天忍日命(あめのおしひのみこと)・天津久米命(あまつくめのみこと)の二人が、天の堅固な靫(ゆき)を背負い、柄頭が握り拳のように膨らんだ太刀を腰につけ、天の黄櫨(はじ)の木で作った弓を手に持ち、天の光り輝く矢を挟んで、天孫の御前に立ってお仕えした。
 日子番能邇々芸命は、「ここは韓(から)の国に相対し、笠沙(かささ)の岬と一直線で、しかも朝日のまっすぐにさしこむ国、夕日のよく照らす国である。だからとてもいいところだ」と仰って、岩盤の上に宮柱を揺るぎなく太く立て、高天原に届くほど千木を高くそびえさせ、お入りになった。
 天宇受売命に、「先導した猿田毘古神は、お前が正体を明らかにしたからお前が送っていけ。そして、その神の名はお前が自分の名に受けて仕えるように」と仰った。それで、猿女君たちは、その猿田毘古之男神の名を負い、女性でも猿女君と呼ぶのである。
 ところで、猿田毘古神が阿耶訶にいたとき、漁をして、ひらぶ貝に手を食い挟まれてしまい、海水に沈んで溺れた。そのときの名を底度久御魂といい、海水が粒立っているときの名を都夫多都御魂といい、海面でその泡がはじけるときの名を阿和佐久御魂という。
 猿田毘古神を送ってから帰ってきてすぐ、大小の魚を追い集めて、「お前たちは天つ神の御子にお仕えするか」と尋ねたとき、魚たちはみな、「お仕えします」と答えるなか、海鼠(こ)だけが答えなかった。そこで天宇受売神は海鼠に向かって、「この口は答えぬ口だ」と言って、紐つきの小刀でその口を切り裂いた。だから、今でも海鼠の口は裂けている。そういったことから、代々志摩から初物の海産物が献上されるとき、それを猿女君たちに下賜されることになっている。以上が話のあらすじである。

サルタヒコとは何か─アメノウズメとの珍妙なやりとり─

 本稿では、猿田毘古神と天宇受売命、猿女君という名が何を表しているのか検討する。猿田毘古神の名義については諸説唱えられているが未詳である。サルと言って気づくのは、猿轡(さるぐつわ)である。猿轡は、声を出させないように手拭いなどを口に噛ませ、後頭部に括りつけるものである。猿轡の猿とは、枢(くるる)の異称、戸の桟のことをいう落とし猿を指すとされている。どちらの咬ませて開かないようにする仕掛けである。
猿轡(唐丸籠で護送の囚人、「新編弘前市史 通史編2(近世1)」https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0220205100/0220205100100020/ht041150)
鉄製の猿落とし(法隆寺西円堂、鎌倉時代、猿落としがその時代のものか不明)
 また、天宇受売命のウズと言う言葉には、髪や冠にさす飾りである髻華(うず)のほかに、雲珠(うず)がある。馬の唐鞍の尻繋(しりがい)(鞦)の交わるところにつける飾りである。植物のサクラの雲珠桜とは鞍馬桜のことをいい、猿を厩の神とする信仰があって(注2)、厩で馬をつなぐ木を猿木という。このように、馬に関する言葉が並んでいるからには、猿田毘古神は、馬の轡のことを指していると理解される。
厩猿(狩野晏川・山名義海模、石山寺縁起模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0055304をトリミング)
唐鞍(的塲勝美・飾馬考、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563720/39をトリミング)
轡(屋代弘賢・古今要覧稿、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2552328/64をトリミング)
 轡は馬具で、馬の口の中に含ませて、端に手綱を結びつけ、馬を御して進む方向を定める。轡は、馬具のなかでも鞍橋(くらぼね)や鐙(あぶみ)よりも早く発明されたものとされている。本邦には4世紀の末頃、朝鮮半島から馬やその技術とともに伝来した。馬の口に喰ませる連結した金属棒の部分を啣(噛)(はみ)、啣の両側につけられる板状の部分を鏡板(かがみいた)(鏡(かがみ))、鏡板から手綱につながる部分を承鞚(水付)(みずつき)(引手(ひって))、鏡板上部の面懸(面繋)(おもがい)を取り付ける部分を立聞(たちぎき)と呼ぶ。昆虫のクツワムシは、轡の音のようにガチャガチャと鳴く虫である。別名をクダマキというのは糸車を繰る音に似ているからという。
 伊勢神宮の内宮があるのは、五十鈴川(いすずがは)のほとりである。猿田彦神社も同じ伊勢市で五十鈴川に程近い。馬の鳴き声はイと記した(注3)。万葉集の戯書と呼ばれる表記法に、「馬鳴」(万2991)でイと訓んでいる。つまり、イスズという地名からは、五十個もの鈴というだけでなく、馬の鈴をイメージすることができる。馬の鈴には馬鈴があるが、鏡板に鈴のついたものもある。ふだん使いの音とすると、クツワムシもするガチャガチャという音である(注4)
鈴付f字形鏡板付轡(模造、和歌山県和歌山市大谷古墳、5~6世紀、東博展示品)
 「五十鈴の川上」とあって、一般にはカハカミと訓まれている。紀第九段一書第一に、「吾は伊勢の狭長田(さながた)の五十鈴の川上に到るべし」とある。「川上」には、カハカミ(川の上流の意)、カハノヘ(ヘは乙類)(川岸、川の上(うへ)の意)、カハヘ(ヘは甲類・乙類、川岸、川岸の辺りの意)、カハノホトリ(川のそばの意)、カハラ(川原、川沿いの平地の意)の訓がある。天孫を送った「槵触之峰(くじふるのたけ)」に対応し、狭長田という狭くて細長い田があるのは、川の上流であろうから、カハカミがふさわしいとされている(注5)。他方、カハノヘというのは川の岸だから、必ず両岸ある。馬の面には左側と右側の両側がある。昔ながらの平面的な日本人の顔とは異なる。古来、猿田毘古神は椿と関係が深いとされる(注6)

 河の上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢(こせ)の春野は(万56)

 川の両岸に椿が連なって生えている姿は「つらつら椿」である。馬の面(つら)を含めて面は顔の両側にある。両サイドに分かれているものをツラと言っている。したがって、「つらつら椿」は「つらつらに」を導いている。椿の木の利用法としては、椿油、椿灰のほか、材質が硬いので棍棒に用いた。景行紀に、「海石榴樹(つばきのき)を採りて椎(つち)に作り、兵(つはもの)にしたまふ」(景行紀十二年十月)とある。邪気をはらうとされ、正月の上の卯の日の行事に使われた卯杖にも、ヒイラギなどとならんで椿も用いられた。正倉院に、天平宝字二年正月に献上された椿製の杖が残る。ほかに殴りかかる武器には剣がある。後の日本刀のように切れ味鋭いものではなく、打撃によって打ち倒す性質が強い。手で握るところは鍔の下である。棍棒に用いた椿の場合、木の上にもツバ、下にもツバがあることになり、どちらを握っても使うことができ、つらつらな状態になっている。杖にできるぐらいの椿の材は、上下で太さが同じほどに伸びている。
 轡は、馬の口の近くの面に左右それぞれ鏡板(鏡)をつけ、そこにつないだ啣を噛み合わせて真ん中でつながっている。どちらから見ても轡があり、鏡に反射して写っているから、つらつらな状態である。鏡像になるからカガミイタと呼ばれるのであろう。和名抄に、「轡 兼名苑に云はく、轡〈音は秘、訓は久豆和都良(くつわづら)、俗に久都和(くつわ)と云ふ〉は一名に钀〈魚利反〉といふ。楊氏漢語抄に云はく、韁鞚〈薑貢の二音、和名は上に同じ〉は一名に馬鞚といふ。」とある。したがって、「五十鈴の川上」は、イスズノカハノヘと訓むのがふさわしいと考えられる。狭長田は、最上流部の川岸に拓かれた田という可能性よりも、それほど遡らずに蛇行していない両岸に作られている田としたほうがイメージに合致する。光景として馬の面のように長く延びた田である。考古学にf字形鏡板と呼ばれるものに対照される地形である。
 猿田毘古神の名のなかに「田」とある。日本古来の轡は、鏡と啣と承鞚の接続の仕方によって、輪轡式、外鏡式、中鏡式の三種に大別される。古墳時代後期から奈良時代に使われたとされる外鏡式に、鏡板の輪の中に十文字が設けられて、中心のクロス部分に鐶(わ)が懸けられ、それに啣と承鞚がついているものがある。ちょうど漢字の「田」の字のようであり、それをデザインした家紋は角轡(かどくつわ)と呼ばれている。五十鈴の川上の田という話に照らして合致する。猿田毘古神の田は、轡の形に従う(注7)
長方形鏡板付轡(伊勢市塚山古墳出土、6~7世紀、東博展示品)
 紀一書第一に、猨田彦大神の形容に、「其の鼻の長さ七咫(ななあた)、背(そびら)の長さ七尺(ななさか)余り。当(まさ)に七尋(ななひろ)と言ふべし。」とある。形容する数に、盛んに七が出てきている。ナナとナを続けることによって、ナ(名)にまつわることを暗示しているようである(注8)。人に名(固有名詞)はあるが、サルに名は基本的にはない。家で飼っていた犬や農耕牛馬に名をつけることはあっても、野生のサルに名をつけたりしない(注9)。紀では、「且(また)口尻(くちわき)明り耀(て)れり。眼は八咫鏡(やたのかがみ)の如くして、赩然(てりかかやけること)酸醤(あかかがち)に似(の)れり。」(紀一書第一)と表現されている。鍍金が施されていて光り輝いているらしい。立って待っていたのは、紀に、「天八達之衢(あまのやちまた)」、記に、「天(あめ)の八衢(やちまた)」とあるところである。猨田彦大神は、「衢神(ちまたのかみ)」であるとされる。八は大きな数の意で、十字路の交叉点になっていると表現している。轡のつく馬の頭部は面懸(おもがい)で決めてしまう。辻金具を使ってクロスさせている。轡自身も、啣、承鞚、立聞というように、それぞれの方向へ向く金具が束になって交叉している。
 猿田毘古神がいたとき、天宇受売神に様子を探らせに行っている。記に、「汝は、手弱女人に有れども、いむかふ神に面勝つ神ぞ」、紀一書第一には、「汝は是、目人に勝ちたる者なり」と激励されている。これは、天石屋に天照大御神が籠ってしまったときのことを受けているとされる。そのときは、「胸乳(むなち)を掛(か)き出だし、裳(も)の緒(を)をほとに忍(お)し垂れ」(記)た状態になったので、八百万の神が笑い、天照大御神の気を引いて引き出すことに成功している。今回は、「其の胸乳を露(あらは)にし、裳の帯(ひも)を臍(ほそ)の下(しも)に抑(おした)れて、咲噱(あざわら)ひて向きて立つ」(紀一書第一)とある。尻繋の交わるところにつける雲珠が装飾性に優れて注目され、相手を面食らわせるに十分なことの謂いであろう。「臍」と言っているのは、雲珠自体を出臍と捉えているからのようである。
金銅装雲珠(群馬県伊勢崎市出土、古墳時代、6世紀、東博展示品)
 紀一書第一では、天鈿女は猨田彦大神に対して、「汝(いまし)や将(はた)我に先だちて行かむ。抑(はた)我や汝に先だちて行かむ」と問い、「吾先だちて啓(みちひら)き行かむ」との答えを得ている。轡と雲珠とがあったら、馬は轡の方向に進む。知っている人にとっては当たり前である。ところが、ヤマトの人にとっては、馬も馬具も、馬の御し方もはじめてであった。なんとかうまく言い表そうとして、なんとも滑稽な問答になってしまった。馬具の一部が馬具の一部との話し合いをして進む方向を決めている。まるで、子どもが縄跳びのロープを使ってする電車ごっこである。思考において、上位の論理階型からの鳥瞰図を下位のそれに入れ込んでしまっている。わざわざ自己言及的なやりとりをさせているのは、馬の到来の驚きを言葉だけで表したかったからに相違あるまい(注10)
復元された笊内37号横穴墓の馬具(復元研究プロジェクトチーム「福島県内古墳時代金工遺物の研究─笊内古墳群出土馬具・武具・装身具等、真野古墳群A地区20号墳出土 金銅製双魚佩の研究復元製作」『福島県文化財センター白河館 研究紀要2001』福島県教育委員会、平成14年3月。https://sitereports.nabunken.go.jp/86607のⅱ頁をトリミング)
 「将(はた)……、抑(はた)……」とあるのは、前後はどちらかと問うている。祝詞に常套句の「鰭(はた)の広物・鰭の狭物(さもの)」が後文にも出てくる(注11)。魚の胸びれのことを引き合いに出している。人は胴が立っていて、その前側に進み、ときおり背側にバックすることもある。馬の場合、その進む方向は魚のようであり、胴が横になって地面を向いている。腹と背との関係で進む方向を示そうとすると、馬の左右どちら側に立つかで左右どちらへ進むかベクトルが違ってしまう。旗がたなびいたときのように、こちら側とあちら側で見え方が反対になる。そういう文章が提示されている。「五十鈴の川上」は、イスズノカハノヘと訓むことの正しさを教えてくれている。無文字時代には口頭言語だけで言葉をやり取りしていた。その際、相互定義しながら言葉の確実性を増す手法がとられていたわけである。
 猿田毘古神は、阿耶訶でひらぶ貝に咬みつかれている。アザカとは、交合、交叉するところを意味するアザ、建物に校倉造(あぜくらづくり)というのと同じアザのあるカ(処)のことを指すのであろう。猿田毘古神こと、轡が咬みつかれるとは、馬の口に装着されたことを示唆している。馬は臼歯と犬歯との間に歯槽間縁という隙間があり、鉄でできていても噛むこと自体に苦痛は感じないという(注12)
玉珧(中村惕斎・訓蒙図彙、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11446240/39をトリミング)
 ひらぶ貝はタイラガイのこととされる。タイラガイはタイラギともいう。タイラガイという言い方は重言かとも言われる。白川1995.に、「たひらか」は、「ものに高低がなく、広やかであること。「ひら」は「ひろ」と同系の語で、「ひら」は高低のないことをいい、「ひろ」は広がりを主にしていう。「た」は接頭語。土地などの状況から、ことのありさまに及ぶまで、その事態のおだやかで静かなことをいう。「たひらぐ」はその動詞。」(479頁)とある。中村惕斎・訓蒙図彙(1666)に、「玉珧 今按ずるにたいらぎ 海月、馬頬、江跳、並びに同じく西施舌は盖し其の肉柱の名也」とある。馬頬とは、馬の横顔のように、鋭角の三角形に近い形をしている点に由来するようである。そして、馬に食わすほどという比喩があるほど馬は大食いである。動詞の「平(たひ)らぐ」の用法の後代に使われた例に、大量の食べ物を馬のように完食してしまう意がある(注13)。つまり、ひらぶ貝に咬まれるとは、轡が馬の口に嵌められたことを指す。轡の啣は、馬の口のなかにあって、唾液の底に沈んだり(「其沈居底之時」)、唾液が粒立ったり(「其海水之都夫多都時」)、泡を吹いたり(「其阿和佐久時」)と、いろいろな目に遇わされる。馬の唾液に塩味が感じられていたからであろう。
 以上、猿田毘古神が何を表わしているのか検討した。

サルメノキミとは誰か

 他方、猿女君という名については、猿女が登場する宮中の儀式から推測されよう。鎮魂祭である。古来、伊勢国の地名との関係が取り沙汰されている記述である。古事記では、地名を借用して馬具について物語っている。
 鎮魂祭は、天皇の霊魂が身体から離れないように強化するお祭りである。神祇令にオホムタマフリと訓があり、ミタマシヅメとは衰える霊魂を奮い起こすことだからという(注14)。貞観儀式等によると、神座に大臣以下が列になって入り、いっせいに八回手を拍つ。そして、御巫(みかんなぎ)が一人舞を舞い、さらに、宇気槽(うけふね)を伏せてその上に立ち、桙で槽を十回撞く。そのたびごとに神祇伯が木綿(ゆう)を結んで葛箱におさめる。このとき、女蔵人(にょくらうど)が御衣を振動させる。つづいて御巫、猿女が倭舞を舞い、中臣、忌部、侍従等も榊を手に庭で舞う。終了後、もとの座に戻って酒肴を賜って終了となる。古語拾遺に、「鎮魂(たましづめ)の儀(わざ)は、天鈿女命の遺跡(あと)なり。」とある。
 猿女に関しては、延喜式・大嘗祭式に、「大臣、若しくは大・中納言一人、中臣、忌部、中臣は左に立ち、忌部は右に立つ、御巫、猨女(さるめ)を率(ゐ)て、左右に前行せよ、大臣は中央に立ち、中臣・忌部は門外の路の左右に列す。」とあり、鎮魂祭式に、「縫殿寮(ぬひとののつかさ)は猨女をして参入(まゐ)らせ……御巫、及び猨女等(ら)、例に依りて舞へ。」と指示されている。猿女は、縫殿寮に所属しており、鎮魂祭のときだけ派遣されて舞を舞っている。「天皇の為(おほみため)に、招魂(みたまふり)しき。」(天武紀十四年十一月)とあり、そのころには行われていたと知れる。この日、法師が「白朮(をけら)」を献上してきたともある。天皇は精力増強を思い立ったのかもしれない(注15)。いずれにせよ、この場で猿女君は、天の石屋を前にした天宇受売命さながらに、舞を舞うこととなっている。
 舞を舞うに際し、髪に髻華(うず)を挿す。草木の枝葉や花を飾りに使った。「唯し元日(むつきつきたち)にのみ髻華(うず)着(さ)す。髻華、此には于孺(うず)と云ふ。」(推古紀十一年十二月)とある。つまり、天宇受売命の、雲珠(うず)を連想させるストリップダンスを改め、同じ音のウズをつけた舞にしたのである。ウズだと聞いて楽しみにして集まった殿方は、とんだ猿芝居に付き合わされたと憤慨したであろう。天宇受女が猿女君の祖である由縁である(注16)
髻華(ウィキペディア「稚児」Mikomaid様「諏訪神社における少女の巫女(富岡市)」https://ja.wikipedia.org/wiki/稚児)
 記に、「亦、其神御名者、汝、負仕奉。」と詔があり、「是以、猿女君等、負其猿田毘古之男神名而、女呼猿女君之事、是也。」とされている。紀一書第一には、「汝宜以所顕神名、為姓氏焉。」と勅があり、「因賜猨女君之号。故、猨女君等男女、皆呼為君、此其縁也。」とされている。これらの記事は、天宇受売命とその子孫が、猿田毘古神の名から猿の一字をもらって猿女君というようになったという話と解釈されている。しかし、記には女と限定し、紀には男女ともという(注17)。君とは臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)のような称号の一つであるが、「姓氏」とあるから今の苗字に当たり、蘇我氏や秦氏、物部氏、大伴氏に当たることをいうようである。すると、例えば、中臣氏のような猿女君氏ということになり、何ともおさまりが悪い。名義において、カテゴリー錯誤を表明しているようである(注18)。名に負うことの意味合いをよくよく考えねばならない。
 猿女を管轄するのは、縫殿寮である。養老職員令に、「頭(かみ)一人。掌(つかさど)らむこと、女王(にょわう)、及び内外(ないぐゑ)の命婦(みゃうぶ)、宮人(くうにん)の名帳(みゃうちゃう)、考課(かうくゎ)のこと、及び衣服(えぶく)裁ち縫はむこと、纂組(さんそ)の事。助(すけ)一人。允(いん)一人。大属(だいぞく)一人。少属(せうぞく)一人。使部(しぶ)二十人。直丁(ぢきちゃう)二人」とある。実際の仕事は人事考課だけではないかと平安時代から疑問視されている(注19)。ところが、延喜式では、鎮魂祭のとき、「猿女」を出すようにと指示がある。いないはずの人がいるとはどういうことかと言えば、人ではなくて猿がいるということである。
 猿の語源について確かなことはわからない。「戯(ざ)る」と関係するのではないかともされる。西郷2005.に、「猿女君の「猿」は猿楽の「猿」、つまり「る」であり、宮廷神事において職掌としてワザヲキ(俳優)を演ずるのにもとづく名だと思う。猿女というこの宮廷の呼称が先にあり、猿田毘古の名はいわばその説話的こだまとして生じたのである。」(86頁)とある。議論は本末転倒しているものの、言葉の関連性をよく捉えられている。ふざけ、たわむれる意味のザレルの変化した形である。子どもや動物がなれてまとわりつき、はしゃいでたわむれることである。サル山を観察してみれば、まさにそうした光景を繰り広げられている。親愛の情の深さゆえか、なかでもメスザルは、群れの順位の上位者に対してもよく毛繕い(グルーミング)をする。繕いものをしているように感じられる。よって、形式的に名前上、縫殿寮に所属することとなっている。言葉の上で違和感がない。
 また、猿は、「然(さ)る」、すなわち、そのようにあることを想起させる。したがって、猿女とは、それらしく振舞うこと、演じること、西郷氏の指摘どおり、俳優を意味する名を負っていたと解釈される。「俳優(わざをき)」は、「隠されている神意……を「き」求める」(白川1995.802頁)存在である。俳優は、ふつうの人なら王から死を賜るであろう諫言をさえ、その演劇的なわざのおかげで生き長らえ、王の側近くで裕福な生活もできた。猿芝居もはなはだしい。他の家臣からすれば、それは人に似ているが、人としての誇りを持たない一段劣る存在である。猿と呼んで過言ではない。
 江戸時代には、岡っ引の異称としても猿という言葉は使われた。奉行所の役人、今の警察官の手先として探索、捕縛にあたった。庶民の顔をしてなれなれしく振舞っておきながら、いざ事件となると情報はお上に筒抜けになっていた。仕事上の人事考課からふだんの素行までチェックしている。監察官は人のようで人でない、小賢しい存在である。猿と呼びたくなる輩たちである。万葉集に猿の歌が1首載る。

 あな醜(みに)く 賢(さかしら)をすと 酒飲まぬ 人をよく見れば 猿にかも似る(万344)

 記に、天宇受売女命について、「手弱女人に有れども、いむかふ神に面勝つ」とあるのは、王に対しては俳優であり、家来に対しては通信簿、いわゆる閻魔帳をつける係だからである。そうと知っていれば、怯み、口を慎み、おとなしくなる。まるで猿轡を食まされたかのようにである。

 大伴(おほとも)の 名に負ふ靱(ゆき)帯(お)ひて 万代(よろづよ)に 憑(たのみ)し心 何所(いづく)か寄せむ(万480)
 隼人(はやひと)の 名に負ふ夜声(よごゑ) いちしろく 吾が名は告(の)りつ 妻と恃(たの)ませ(万2497)

 「名に負ふ」という考え方について2首例示した。第1例の大伴氏は、靫負部(ゆげいべ)・舎人部など軍事集団を統率する氏族として、朝廷の王権確立のために戦ってきた。それは、名前のオホトモにも表れていて、トモとは鞆のことである。鞆は、弓を引く力が強すぎて、弦が弾けて左手の一の腕に当たって怪我をしないよう着ける防具のことである。したがって、オホトモは弓の名人なのである。また、隼人は、城門の外で夜警に当たるときに犬の吠え声を発することになっているが、名前のハヤヒトのハヤは、お囃子のハヤである。大声で囃さなければ、盛り上がるものも盛り上がらない。すると、猿女君の場合、名に負うとは、猿は人ではないから名前などはないのが本来で、女性を猿女君と呼ぶのも、男性を猿女君とするのも、偽の偽は真でいっこう差支えがないということになる。なにしろ、文献記録に、猿女君某を名乗った人は誰一人記録されていない。
 むろん、猿女君は名前であり、建前上は名負氏である(注20)。名に負う職掌を司っているとは、天皇に仕え奉る関係があることを示す。本居宣長に、政は祭事(まつりごと)ではあるが、本来は奉仕事(まつりごと)であって、天下の臣・連・伴緒(とものお)は、天皇の大命を拝してそれぞれの職を全うすることで仕え奉る、だから天下の政というとしている(注21)。そのとおりであろうが、それを可能にした心性のベクトルは何だろうか。絶対主義国家の王権神授説になぞらえていうなら、それは、王権なぞなぞ説とでも呼ぶべきものであったろう。すなわち、天皇家の人に名がないのは、天孫が稲、つまり、ご飯ないしお酒を表し、おかず、つまり、菜(な)(魚)ではないからである。茶碗の飯(めし)を手に持ち、反対の手に箸を持って菜を取って食べる。飯が主、菜が副の関係である。これをパラレルに展開したのが古代の氏姓制であり、名のある人々は天皇(すめらみこと)の命(みこと=御言)に召されたわけである。なぞなぞの素っ頓狂な知恵によって煙に巻いて、古代の朝廷は支配の正当性を確かにしていたといえる。その一端に実態不明の名、猿女君はあり、論理矛盾をおかしたままに体制にまぎれこませているものなのであった。

(注)
(注1)紀では、神代紀第九段一書第一に記載がある。

 已(すで)にして降(あまくだ)りまさむとする間(ころ)に、先駆者(さきはらひ)の者(かみ)還りて白さく、「一の神有りて、天八達之衢(あまのやちまた)に居り。其の鼻の長さ七咫(ななあた)、背(そびら)の長さ七尺(ななさか)余り。七尋(ななひろ)と言ふべし。且(また)、口尻(くちわき)明り耀(て)れり。眼は八咫鏡(やたのかがみ)の如くして、赩然(てりかかやけること)赤酸醤(あかかがち)に似(の)れり」とまをす。即ち従(みとも)の神を遣して往きて問はしむ。時に八十万の神有り。皆目(ま)勝ちて相問ふこと得ず。故、特(こと)に天鈿女(あまのうずめ)に勅して曰はく、「汝(いまし)は是、目の人に勝ちたる者(かみ)なり。往きて問ふべし」とのたまふ。天鈿女、乃ち其の胸乳(むなぢ)を露にし、裳の帯(ひも)を臍(ほそ)の下に抑(おした)れて、咲噱(あざわら)ひて向きて立つ。是の時に、衢神(ちまたのかみ)問ひて曰く、「天鈿女、汝為(かくす)るは何の故ぞ」といふ。対へて曰く、「天照大神の子(みこ)の幸(いでま)す道路(みち)に、如此(かく)居(を)るは誰そ。敢へて問ふ」といふ。衢神対へて曰く、「天照大神の子、今し降行(くだ)りますべしと聞く。故、迎へ奉り相待つ。吾が名は是、猨田彦大神(さるたひこのおほかみ)」といふ。時に天鈿女、復(また)問ひて曰く、「汝、将(はた)我に先(さき)だちて行かむや。将抑(はた)我や汝に先だちて行かむや」といふ。対へて曰く、「吾、先だちて啓(みちひら)き行かむ」といふ。天鈿女、復問ひて曰く、「汝は何処(いづこ)にか到らむとする。皇孫(すめみま)何処にか到りまさむとする」といふ。対へて曰く、「天神の子は筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯(くじふるのたけ)に到りますべし。吾は伊勢の狭長田(さながた)の五十鈴の川上に到るべし」といふ。因りて曰く、「我を発顕(あらは)しつるは汝なり。故、汝以て我を送りて致りませ」といふ。天鈿女、還り詣(いた)りて報状(かへりことまを)す。皇孫、是に天磐座(あまのいはくら)を脱離(おしはな)ち、天八重雲(あめのやへたなぐも)を排分(おしわ)けて、稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて、天降ります。果(つひ)に先の期(ちぎり)の如く、皇孫は筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯に到します。其の猨田彦神は、伊勢の狭長田の五十鈴の川上に到ります。即ち天鈿女命、猨田彦神の所乞(こはし)の随(まにま)に、遂に以て侍送(あひおく)る。時に皇孫、天鈿女命に勅したまはく、「汝、顕しつる神の名を以て姓氏(うぢ)とすべし」とのたまふ。因りて猨女君(さるめきみ)の号(な)を賜ふ。故、猨女君等の男女(をとこおみな)、皆呼びて君と為(い)ふ。此れ其の縁(ことのもと)なり。(神代紀第九段一書第一)

(注2)12世紀の梁塵秘抄に、「御厩(みまや)の隅なる飼ひ猿は、絆(きづな)離れてさぞ遊ぶ、……」(353)とあり、13世紀末の一遍聖絵にも、厩につながれた猿の姿が見られる。一説に、インド・中国から、猿は厩の守り神であるという思想が伝わったからであるとされる。筆者は語学的立場から、猿轡と馬の轡との共通テーマに由来を求めている。轡を食ませることとは、有無を言わせないこと、すなわち、黙らせること、飲食をさせないこと、ある方向へ向かって行かせる(連行する)ことを意味する。
(注3)橋本1960.47~50頁参照。
(注4)管見では、山口県上ノ山古墳や、愛知県志段味大塚古墳出土の轡の鏡板は、それぞれ七、ないし五個の鈴をつけた青銅製で、珠文、珠点で飾られている。張2008.によると、鹿角かと思われる有機質製の棒状鏡板(鑣)(はみえだ)に鈴がつくものも見られるという。
タイワンクツワムシ(多摩動物公園)
(注5)西宮1990.参照。しかし、神が降臨する場所としては、紀第九段本文に、「二(ふたはしら)の神[経津主神・武甕槌神]、是に出雲国の五十田狭(いたさ)の小汀(をはま)に降到(あまくだ)り、」などとあって、川の上流が望ましいわけではなさそうである。拙稿「五十鈴の川上」参照。
(注6)古賀2006.、戸井田1973.参照。
(注7)ハート形や楕円形とされる鏡板も、「田」の字ではないかと見ればそう見えてくる。
 また、ニホンザルの顔を見て、伝統的な日本人同様、平面的であると捉えるのは大きな誤りであろう。サルの顔の特徴は、食べ物を口に入れて頬張ることができるように、猿頬と呼ばれる袋を左右の頬に持つ点である。猿頬がサルの顔らしさ、その特異な点と見えたとき、そこにツラ(面)が現れる。「つらつら椿」との関連性が浮かび上がってくる。
ニホンザルの頬嚢(日本モンキーセンター様「飼育の部屋」2019年6月24日記事、大島様撮影)
(注8)名無しの意味からナナ(七)が出たのかもしれない。轡の鏡板に打たれる鋲をナナコと呼ぶ可能性もなくはない。鈴木2004.は、魚々子とは魚の卵のことで、円文をぎっしりと詰めて使うものゆえ、古墳時代のそれは魚々子とは呼ばないのではないかという。今日、そう呼ぶのはふさわしくないから、当時もそう呼ばれていなかったとするのは当て推量である。かといって、筆者は、鋲止めをナナコと呼んでいたと強く主張するものではない。ただし、ナナコがナ(中)+ナ(ノの意)+コ(子)との洒落であった場合、なぞなぞ的には、クツワというワ(輪)の中に丸い輪となる大きめの鋲の点があれば、ナナコと呼ばれていて不思議ではない。猿田毘古の話に海鼠(こ)の話が続いていることもあって面白いものがある。ナマコは子なのか親なのか、コと呼ばれていたなら子のつもりだろうが、子に子が生まれるコノコという珍味もある。「海鼠(こ)」のコの甲乙は確例を持たないが、子(児)(こ)に同じく甲類と目される。
 なお、三大珍味として、三河のこのわた、長崎のからすみ、越前のうにが挙げられている。延喜式・内膳司条には、「供御月料」として「熬海鼠(いりこ)」や「海鼠腸(このわた)」が見える。同「諸国貢進御贄」には、旬料として「志摩国御厨鮮鰒、螺、……味漬、腸漬、蒸鰒、玉貫、御取、夏鰒……、雑魚……」、年料として「深海松(ふかみる)」が見える。宮内省式の「諸国例貢御贄」にも、志摩からは「深海松」を出すことになっている。
(注9)農家のお馬さん同様、猿回し(猿曳、猿芝居)にとってみれば、曲芸に使う猿は大切な生き物であることに変わらない。「次郎」などといった愛称が付けられて自然である。それを観客側がしっかりと覚えようとするかというと何ともいえない。他方、厩猿に名がつけられて呼ばれていたか、文献資料があるのか管見にしてわからない。厩の守り神と尊ばれていたとすると、ペットのように名づけられていたのか疑問である。
(注10)言葉(音)だけですべてを言い表すことは難しい。文字があれば頼ることができるし、絵や図で示すこともできる。それを口頭の言葉だけで口づてに伝えることは、言葉自身を自ら説明する自己言及にならざるを得ない。ベイトソン2000.参照。以下、天孫降臨のなぞなぞ話が一段とユーモアに富むのは、メッセージとコンテクストとのレベルの差を自覚的、意図的に行き来する遊びをしていることによる。
 なお、いくつか出土している蛇形状鉄器について、旗竿金具であったとする意見が埴輪出土によって定説化しつつある。筆者は、馬が旗を立てる意味について計りかねている。一部復元した埴輪の姿が本当に正しいのか、疑問を抱く。「将(はた)~や、抑(はた)~や」の修辞法から考えられるのは、馬という乗物がどちらへ進むものなのか、それを聞いているのであろう。すなわち、旗竿を最初に立てたとき、ボロ布のような旗は反対に靡いていたのではなかろうか。ポマードで塗りつけたような鬣の旗と相対した姿である。さあ、お立会い、どちらへ進むのでしょう? そして、歩きだすと図のように竿がくるりと回って尻尾の方へたなびき、鼻先の方向へ進むことがわかった。前後ろが定かではないことは、埴輪の鞍に特徴的に見られる前輪・後輪ともに直立した鞍橋(くらぼね)からもわかる。この狭いところにどう跨ったらいいのか不可解である。古墳時代の鞍のつくりは、朝鮮半島由来であると説明されている。『行田市文化財調査報告書第20集─酒巻古墳群─』参照。
左:酒巻14号墳出土埴輪(古墳時代、6世紀後半、行田市郷土博物館蔵、行田市ホームページhttps://www.city.gyoda.lg.jp/41/03/10/bunkazai_itiran/sakamaki14goufunsyutudohaniwa.html)、右:蛇行状鉄器(奈良県磯城郡田原本町団栗山古墳出土、古墳時代、5~6世紀、東博展示品)
(注11)祝詞にも登場する「鰭の広物・鰭の狭物」という表現は、食用となって神に捧げるに値する水族全体を表す。「鰭の広物・鰭の狭物」が全体集合で、「諸魚」はその部分集合、「海鼠」はそれに対する補集合となる。仮に海老や蛤や雲丹があれば、「諸魚」の集合に入る。食用に適さないものや毒のある水族もいるものの、それはそもそも最初から除外されている。「鰭の広物・鰭の狭物」と祝詞を唱えて神さまに捧げるのに毒があってはいけない。ウヲ(イヲ)は、和名抄に、「魚 文字集略に云はく、魚〈語居反、宇乎(うを)、俗に伊乎(いを)と云ふ〉は、水の中を連れ行く虫の惣名也といふ。」とあり、泳ぐ特徴を持った魚類を指している。毒があっても含まれる。国譲りの条に、「天(あめ)の真魚咋(まなぐひ)」とある。
 また、仲哀記の、太子(ひつぎのみこ)、後の応神天皇と気比大神(けひのおおかみ)との名易えの話にも、名(な)における中(な)と魚(な)との交換という頓智話が載る。拙稿「古事記の名易え記事について」参照。天皇家に苗字がないということと、天皇には名がなくて薨去後に諡で呼ばれるとする考えでは、意味合いの次元が異なっている。記に、太子は禊のために角鹿(敦賀)を訪れており、天皇に即位するための大嘗祭の禊を思わせる。天皇になると名がなくなり、魚(菜)を受けるようになるということを加味して表しているのかもしれない。後の名が、「御食津(みけつ)大神」、「気比大神」とあるのは、食(け)+霊(ひ)の意とされる。食膳のケ(食)となったナ(菜・肴)のことを言っている。
(注12)拙稿「「五十鈴川上」と馬鍬─雄略紀、𣑥幡皇女説話を中心に─」参照。なお、啣については、1本の金属棒では自由が利かずに馬に苦痛があるらしく、中間を輪につないだ2本のものがふさわしいと知られていたようである。
(注13)上代の「平らぐ」という動詞には、平らになる、鎮まる、治まる、という自動詞と、平らにする、鎮める、治める、平定する、という他動詞の意がある。食べ物を大量に喰らう意の用例は見られないが、ヲス(食)という動詞に、食う、の意ばかりか、治める、統治する、の意があることから推量すると、口語的、ないしはジョーク的な言葉の用法として、タヒラグに食べる義があったとして不思議ではなかろう。馬のことなのだから、よく食べ、軍事力を発揮して鎮圧・平定し、馬鍬をひいて田は平坦になる。
(注14)シヅムは、白川1995.に、「水に沈む。また沈静することから、鎮定の意ともなる。」(390頁)とある。漢字の鎮は犠牲をもって神意を安んずることをいう。斎い鎮められた神霊が、その地の守護神となって鎮定されて沈静化する。荒御魂(あらみたま)が和御魂(にきみたま)となるということのようである。一方、フルは、「小さくふり動かす。ゆり動かすことによって、その生命力がめざめ、発揮されると考えられる。」(同668頁)とある。気絶した人を介抱する際、身体を揺すって声をかけるものである。鎮魂祭は、遊離しようとした魂を本体に復帰させることがミタマシヅメ、沈滞している魂を振り動かすことがミタマフリに当たり、両者を統一した儀式なのであると説明されている。同じく魂に関する儀式であり、結果的に目指すところは同じであるが、相反する作用ではないかと思われる。それを一語に包み込んでしまったとするところは、なま物としての言葉の感覚からは俄かには納得し難い。後考を俟ちたい。
(注15)新谷2009.には、天武紀の記事は、病気平癒を願った仏教的、道教的な施術であり、後に王権儀礼となる鎮魂の祭儀とは別物であるとの指摘もある。鎮魂祭と神楽舞については、雨宮2014.、中本2013.参照。鎮魂祭と神楽と猿楽と猿との関連については、後考を俟ちたい。
猿女(貞享三年大甞会悠紀主基両殿図、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815815/2をトリミング)
(注16)藤澤2016.は、古事記のこの話について、サルタビコは漁労神で力能を失い、ウズメが名を貰ってサルメとなって天孫に「仕奉」ることになったとする服属物語であるとしている。上代の文献を現代の解釈によって“神話”化されている。しかるに、漁労の能力を失ったら漁民は暮らしていけない。政治的な背景があっても生活できなくなるのでは、何のための征服なのかわからなくなる。win-win の関係があるなり、植民地支配のように絞るだけ絞るには、うまい具合に漁労し続けてもらわなければならない。もとより、筆者は、古事記のこの話について、馬具の話と思っており、漁民の話とは考えていない。古墳時代の“歴史”を逸話化するにおいて、漁労の話などしてもありきたりである。新しい技術による新しい生活様式をもたらした馬具のことを伝えようとしている。
(注17)記紀間の記述の相違について、どうしてそのような違いが生れたのか、詳らかに説明された議論は管見に入らない。西宮1979.に、「宮廷で舞楽奉仕する女性に「君」をつけて呼ぶことに不審を起す(通常、女から男に対して「君」という)ものがいたから、その事情を説明したもの。「猿田毗古」という男神の名を貰ったからだというわけ。」(92頁)、新編全集本古事記に、「女が、男神である猿田毘古神の名を受け継いで、猿女君と名乗っているのはの意。猿女君の名で宮廷に奉仕するのは女性。」(119頁)、思想大系本古事記に、「紀などに「男女」とあるのは、氏族の猿(猨)女君をさしているが、記の「女を」以下の表現は職掌名としての猨女君を意味する。」(357頁)とある。事の本質、サルに固有名詞をもって呼ぶことがないことへの言及がなされていない。
(注18)ライル1987.参照。
(注19)思想大系本律令の補注は、振るったものになっている。「本[縫殿]寮の職掌のうちの「裁縫衣服、纂組」は、義解のように「此擬御服幷為賞賜」と恰も実際に裁縫を担当するかの如く解すると、直ちに「裁縫衣服人、文不見也」(朱説)という疑問が出る。掌の「裁縫衣服纂組」は後宮の縫司の掌と同文であり、穴記も「勘掌女之縫司所一レ縫也。非当司別縫作也」としている。……なお、官司名と職掌との関係を考えると、本寮は宮内省の主殿寮、後宮の殿司、東宮坊の主殿寮のような殿舎関係の職掌が無い。或いはかつて中務省の前身が存在しなかった当時は本寮も無く、後宮の縫司の前身、もしくはその製品を納めて置く建物が、「縫殿」とでもよばれていたのであろうか。」(519頁)。同様の疑問は、虎尾2007.の補注にも引き継がれている。ミシュランの調査員ならずとも、存在をカモフラージュせずに覆面調査はできない。
 なお、真福寺本では、「猿田毗古」・「猿女君」から、「猨田毗古」・「猨女君」へと用字が変化している。太安万侶は、サルには固有名がないということを、表記において言外に表そうとしている。西宮1979.は、「「猿」を「猨」としたのは、「おおざる」は「能クうそぶク」(『玉篇』)という性質を連想してのことか。」(92頁)と指摘する。
(注20)松木2006.によれば、「名に負ふ」という表現は、音韻の親近性、つまり、語呂合わせに、単なる名称の一致以上の意味を見出そうとする姿勢があり、名称・呼称としての狭義の名が、その由来・評判等をコトとして背負っていることを意味するという。上代の言葉に対する感覚から整理すると、基調には筆者が提唱している“言霊信仰”がある。言=事であることを意図的に指向することを指す。そうしなければ言語活動がカオスとなる。したがって、名がコトを負うのは必然なことなのである。無文字文化のなかにあって他に証拠性を持たないから、音の親近性、語呂合わせや駄洒落は非常に重要なことになる。言葉を言葉が証明する仕掛けになっている。
 そしてまた、人間の自己は、自分自身との相互作用を含めた社会的相互作用のなかで、状況の定義と再定義を通じながら形成されていく。ミード1973.や、ブルーマー1991.など、社会心理学の古典を参照されたい。名づけることと名づけられること、名のることとそれを聞くことの繰り返しによって、自己は社会のなかに構成されていくかに見える。これを直ちに権力との関係で考えようとする試みは、近代の「国家」・「国民」といった思考の枠組に毒されている。呼ばれるものが「名」であった。
(注21)本居宣長・古事記伝に、「マツリゴトは、凡て君の国をヲサメ坐す万事の中に、神祇カミを祭賜ふが最重事ナカニモオモキコトなる故に、【他国ヒトノ にも此意あり、皇国ミクニサラなり、】其ホカ事等コトヾモをもカネ祭事マツリゴトと云とは、誰も思ふことにて、誠に然ることなれども、猶ヨクに、言の本は其由にはアラで、奉仕事マツリゴトなるべし、そは天下の臣連八十伴緒オミムラジヤソトモノヲの、天皇の大命をウケタマはりて、オノオノワザ奉仕ツカヘマツる、是下のマツリゴトなればなり、さて奉仕ツカヘマツるを麻都理マツリと云由は、麻都流マツルノベ麻都呂布マツロフとも云ば、即君に服従マツロヒて、其事をウケタマはりオコナふをいふなり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/468、漢字の旧字体等は改めた。)とある。
 吉村1996.は、「大化二年八月(癸酉)詔に「祖子おやこより始めて、奉仕つかへまつる卿大夫・臣・連・伴造・氏氏の人等、〈或本に云はく、名名の王民といふ〉」とあるように、臣・連・伴造ばかりかうじをもった人々は天皇に仕え奉る関係があり、氏人が百姓として存在したこともほぼまちがいない。こうした位相から「陛下きみ千秋万歳ちよよろづよ及至いたるまでに、いさぎよく四方の大八島をしらしたまひて、公卿・百官・諸の百姓・・等、ねがはくは、忠誠をつくしていそひてつかへまつらむ」(白雉元年〔六五〇〕二月甲申条)の寿詞の論理を理解することが可能となる。……十七条憲法の君─臣─民の関係を使っていえば、臣は君に対して、民は君に対して仕奉する関係があったのである。」(82頁)とある。百姓も氏を持っていたということである。

(引用・参考文献)
雨宮2014. 雨宮康弘「神楽の成立と変遷─鎮魂祭を中心として─」『専修史学』第56号、2014年3月。
『行田市文化財調査報告書第20集─酒巻古墳群─』 『行田市文化財調査報告書第20集─酒巻古墳群─』行田市教育委員会、1988年。
古賀2006. 古賀登『猿田彦と椿』雄山閣、平成18年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第四巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
思想大系本律令 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『日本思想大系3 律令』岩波書店、1976年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新谷2009. 新谷尚紀「大和王権と鎮魂祭─民俗学の王権論─折口鎮魂論と文献史学との接点を求めて─」『国立歴史民俗博物館研究報告』152号、2009年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
鈴木2004. 鈴木勉『ものづくりと日本文化』奈良県立橿原考古学研究所附属博物館、2004年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
張2008. 張允禎『古代馬具からみた韓半島と日本─ものが語る歴史15─』同成社、2008年。
戸井田1973. 戸井田道三『歴史と風土の旅─みかんと猿田彦─』毎日新聞社、昭和48年。
虎尾2007. 虎尾俊哉編『延喜式 中』集英社、2007年。
中本2013. 中村真人『宮廷御神楽芸能史』新典社、平成25年。
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広瀬1989. 広瀬鎮『猿と日本人─心に生きる猿たち─』第一書房、平成元年。
西宮1979. 西宮一民『新潮日本古典集成 古事記』新潮社、昭和54年。
橋本1960. 橋本進吉「駒のいななき」『国語音韻の研究』岩波書店、昭和35年。
藤澤2016. 藤澤友祥『古事記構造論─大和王権の<歴史>─』新典社、平成28年。
ブルーマー1991. ハーバート・ブルーマー著、後藤将之訳『シンボリック相互作用論』勁草書房、1991年。
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松木2006. 松木俊曉『言説空間としての大和政権─日本古代の伝承と権力─』山川出版社、2006年。
ミード1973. G.H.ミード著、稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳『精神・自我・社会』青木書店、1973年。
吉村1996. 吉村武彦『日本古代の社会と国家』岩波書店、1996年。
ライル1987. ギルバート・ライル著、坂本百大・宮下治子・服部裕幸訳『心の概念』みすず書房、1987年。

(English Summary)
Sarutabiko, Amënöuzume, and Sarumenökimi appear in the story of Tenson Korin(天孫降臨), in Kojiki and Nihon Shoki. Sarutabiko and Amënöuzume are asking strange questions about how to get directions. In this article, we will consider a new technology about herness on which this story is based. It was an interesting story that horses as vehicles were brought from the continent to ancient Japan without knowledge which direction they were going to go. And we will clarify the identity of persons who were not sure about the actual situation, being monkeys and humans named Sarumenökimi.

※本稿は、2017年3月稿を2021年9月に整理したものである。

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