垂仁天皇の晩年に、多遅摩毛理(田道間守)の登岐士玖能迦玖能木実(非時香菓)探索の話が載っている。話の次第は次のようなものである。長寿を願う垂仁天皇は、時じくのかくの木の実を手に入れようと考えた。そこで、三宅連等の祖先にあたる多遅摩毛理に、常世国へ行って探して来るよう命じた。多遅摩毛理は何年もかけて常世国にたどり着き、入手してようやく持ち帰った。しかし、帰還した時、すでに垂仁天皇は崩御していた。多遅摩毛理はひどく悲しみ、持ち帰った時じくのかくの木の実を飾り立てたもの八個を二つに分け、半分の四個を皇后に献上し、残りの半分の四個を天皇の御陵の地に置き、泣き叫んで死んでしまったというのである。
又、天皇、三宅連等が祖、名は多遅摩毛理を以て常世国に遣して、ときじくのかくの木実を求めしめたまひき。故、多遅摩毛理、遂に其の国に到り、其の木実を採りて、縵八縵・矛八矛を将ち来る間に、天皇、既に崩りましぬ。爾くして、多遅摩毛理、縵四縵・矛四矛を分け大后に献り、縵四縵・矛四矛を以て天皇の御陵の戸に献り置きて、其の木実を擎げて、叫び哭びて白さく、「常世国のときじくのかくの木実を持ちて参ゐ上りて侍り」とまをして、遂に叫び哭びて死にき。其のときじくのかくの木実は、是、今の橘ぞ。(垂仁記)
九十年の春二月の庚子の朔に、天皇、田道間守に命せて、常世国に遣して、非時の香菓を求めしむ。香菓,、此には箇倶能未と云ふ。今、橘と謂ふは是なり。……
明年の春三月の辛未の朔にして壬午に、田道間守、常世国より至れり。則ち齎る物は、非時の香菓、八竿八縵なり。田道間守、是に泣ち悲歎きて曰さく、「命を天朝に受り、遠くより絶域に往る。万里浪を踏みて、遥に弱水を度る。是の常世国は、神仙の秘区、俗の臻らむ所に非ず。是を以て、往来ふ間に、自づからに十年に経りぬ。豈期ひきや、独峻き瀾を凌ぎて、更、本土に向むといふことを。然るに、聖帝の神霊に頼りて、僅に還り来ること得たり。今、天皇既に崩りましぬ。復命すこと得ず。臣生けりと雖も、亦、何の益かあらむ」とまをす。乃ち天皇の陵にまゐりて、叫び哭きて自ら死れり。群臣聞きて皆涙を流す。田道間守は、是、三宅連の始祖なり。(垂仁紀九十年二月〜垂仁後紀九十年明年)
この話が何の話なのかについては、食物史にお菓子の始まりを述べたものであるとする考え(注1)がある一方、神話学に常世国との関連で考えようとする潮流があり、また、歴史学に三宅連の始祖譚としての重要性を指摘する向きもある(注2)。国文学(上代文学)はタヂマモリとタチバナモリとの類音性を指摘したり、新羅国王の末裔である点を重要視している(注3)。新編全集本古事記は、「多遅摩毛理は新羅国王の子孫であり、天皇に対する忠誠心が渡来人にも及んでいることを語る話になっている。」(211頁)という。筆者は、ヤマトコトバを入念に探究し、記紀万葉を読解する立場に立つ。話として自己完結していなければ伝承されているはずはないと考えている。
最初に登場人物を確認しておこう。三宅連等の祖先筋に当たるタヂマモリ(多遅摩毛理、田道間守)である。紀の表記に田道間守とある点から義を考えるなら、田んぼの畦道を守る存在であろうことが見てとれる。朝廷の直轄領である屯倉が置かれたのは、土着勢力がもともと拓いていたところよりも新田開発されたところである。自然のままに水稲栽培に適した水深の浅いところではなく、それまでは水が溜まることがなかったり、水が深いところを田となるように整備したところ、すなわち、畦を整えることではじめてできた田である。ミヤケを名乗る人物の祖先がタヂマモリである所以である。
田んぼの畦道を守り整える道具は鍬である。土を盛り塗って守っている。アゼ(畦、畔)のことはアと言った。須佐之男のいたずらに「田のあを離ち〔離二田之阿一〕」(記上)とある。アという言葉には、畦以外に足のことも指した。「足結〔阿由比〕」(記81)、「足結〔阿庸比〕」(紀106)とある。どうして畦と足とが同じヤマトコトバ(音)で成っていて違和しないのか。それは、ともにクハ(鍬)に関係する語だからである。鍬によって作られるのが畦である。鍬の形は柄に直角的に角度をつけて刃となる面がついている。その様子は、足の脛に対して靴に入る足の甲、足のひらのつき方と同じである。
機械化された畦作り
白川1995.に、「くはたつ〔企・翹〕 下二段。「くは」は鍬。足でいえばかかとから爪先までの部分が、鍬の平らかな刃の部分にあたるので、鍬腹という。かかとから先をまた「くは」といい、「くはゆぎ(曲肘)」「くびす(跟)」などの語がある。遠くを望み見るとき、そこを立てるのが「くはたつ」で、かかとをあげ、背のびしてみることをいう。「くはたつ」は、仏典の訓読語にみえるほかには、用例は殆どない。「くは」は稲作以前の原始農耕の時代からあったと考えてよい。〔華厳音義私記〕「翹 音は交、訓は久波多川」、〔名義抄〕に「肢・竚・尅・翹・企 クハタツ」、〔字鏡抄〕には企・肢の二字のみ録する。」(301頁)とある。語史的には、身体用語としてクハという語があり、後に農具として現れたものがその形になぞらえられてクハと呼ばれるようになったと考えられている。
このことからすると、タヂマモリという人物名は、畦を作っては崩れていないかいつも見守り修繕する人を表していると考えられつつ、足が巧みに働くこと、また、遠くへ行くにはまず先を見渡さなければならないが、そのために企てて背伸びをするのにもってこいであることを示している。名に負う人物として遠い世界へ赴くことが求められているといえる。当然ながら遠路を行くには時間がかかる。その時間という概念をクローズアップさせてみたとき、時間とは無関係なほどに常に畦道を守る人のことが思い起こされている。あるのが当たり前と思われ、時間の概念から解放されているかに見えて、その実、たゆまぬ努力をもってメンテナンスが行われている。見た目が変わらないことを生業の目的とするのがタヂマモリという農道整備者である。だから、天皇としてみれば、その治世、天皇の御代の常にあらむと願うことがあるなら、タヂマモリにかなえてもらおうということになる。そして、ヨ(代、世)の常にあるとされている常世国へと足の達者なタヂマモリを派遣して、それをかなえそうな象徴的なお土産を持ち帰るように指示している(注4)。
それが登岐士玖能迦玖能木実(非時香菓)である(注5)。農道整備に使う鍬は、地面を浅く掘り起こし混ぜ返すのに便利な道具である。表面付近に根の張った雑草を根切りしながら土を耕すことができる。草は腐って作物の肥料となる。また、人肥を下肥にするため、農地に混ぜ込むのにも鍬は用いられる。すなわち、鍬は肥と深い関係にある。足を意味するクハも、足を上げることを蹴鞠にコエ(蹴、コユの連用形)といい(注6)、遠く山越え谷越えて移動するのに役立つ。コエ(肥)をコエ(超)て臭いのきつく凌駕するもの、それもアシ(足)なるアシ(悪)きものではなく、良きもので常に覆いつくすようなものが求められることになる。それが、カクなるもの、香しいものである。
そんな木の実(香菓)があったら持ち帰るようにと言っている。ここで、トキジクノカクノコノミとは何か、という問題に向き合わねばならない。「其登岐士玖能迦玖能木実者、是今橘者也。」(記)、「今謂レ橘是也。」(紀)から、これはミカンの類の橘の実のことであると考えられることが多い(注7)。ただし、お菓子の歴史を研究する側からは、「非時香菓」(紀)と書き示されているからには、日持ちする菓子のことではないかという意見が根強く、お菓子の起源譚であるとされている。持続性、永遠性を求めているのだから、生の菓子に当たるフルーツではなくて、加工された干菓子ではないかというのである。
「橘」とあるからヤマトタチバナ(ニッポンタチバナ)のことを指すとする見方があるが、ヤマトタチバナは古くから自生しており遠く求める必要はない。柑橘類の総称であろうとする説もあるが、ならばどのような品種か見分けられなければならず、また、長く枝に成っていることを「縵四縵・矛四矛」、「八竿八縵」と受け取るように読むのは少し苦しいように感じられる。葉があるのが縵で、葉をもぎ取ったのが矛や竿とするとして、どうしてそのような小細工で分け隔てをするのか、何か説明されるなり自明でなければならないはずであるものの、理解への糸口はこれまでのところ見出されていない。
なにより、記紀の言い方は念を押したような形をとっており尋常ではない。
其登岐士玖能迦玖能木実者、是今橘者也。(記)
天皇命二田道間守一、遣二常世国一、令レ求二非時香菓一。香菓、此云二箇俱能未一。今謂レ橘是也。(紀)
平たく尋常な言い回しから見てみる。「今謂」とする叙述としては他に、記に一例、紀に八例見える。
故、其の所謂る黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ。(故、其所レ謂黄泉比良坂者、今謂二出雲国之伊賦夜坂一也)(記上)
因りて、名けて浪速国とす。亦、浪花と曰ふ。今、難波と謂ふは訛れるなり。 訛、此には与許奈磨盧と云ふ。(因以、名為二浪速国一。亦曰二浪花一。今謂二難波一訛也。訛、此云二与許奈磨盧一。)(神武前紀戊午年二月)
故、時人、改めて其の河を号けて挑河と曰ふ。今、泉河と謂ふは訛れるなり。(故時人改号二其河一曰二挑河一。今謂二泉河一訛也。)(崇神紀十年九月)
褌より屎ちし処を屎褌と曰ふ。今、樟葉と謂ふは訛れるなり。(褌屎処曰二屎褌一。今謂二樟葉一訛也。)(崇神紀十年九月)
故、其の地を号けて墮国と謂ふ。今、弟国と謂ふは訛れるなり。(故号二其地一謂二墮国一。今謂二弟国一訛也。)(垂仁紀十五年八月)
故、時人、其の盞を忘れし処を号けて浮羽と曰ふ。今、的と謂ふは、訛れるなり。(故時人号二其忘レ盞処一曰二浮羽一。今謂レ的者訛也。)(景行紀十八年八月)
故、時人、五十迹手が本土を号けて伊蘇国と曰ふ。今、伊覩と謂ふは訛れるなり。(故時人号二五十迹手之本土一曰二伊蘇国一、今謂二伊覩一者訛也。)(仲哀紀八年正月)
故、時人、其の処を号けて、梅豆羅国と曰ふ。今、松浦と謂ふは訛れるなり。(故時人号二其処一曰二梅豆羅国一、今謂二松浦一訛焉。)(神功前紀仲哀九年四月)
鳥、此の田を以て、天皇の為に金剛寺を作る。是、今、南淵の坂田尼寺と謂ふ。(鳥以二此田一、為二天皇一作二金剛寺一。是今謂二南淵坂田尼寺一。)(推古紀十四年五月)
紀の地名譚の七例は「訛」字が続いており、音の変化を「謂」で表している。推古紀の例は寺の名称変更を示している。それらから推して考えると、記上の例も、坂の名を今はそう呼んでいると言っているだけである。
対して、尋常ではない言いっぷりを見てみる。垂仁記の「是今……也。」とする叙述は、他に記に一例、紀に一例見える。
此の、山多豆と云ふは、是、今の造木ぞ。(此、云二山多豆一者、是、今造木者也。)(允恭記)
酒君、対へて言さく、「此の鳥の類、多に百済に在り。馴し得てば能く人に従ふ。亦、捷く飛びて諸の鳥を掠る。百済の俗、此の鳥を号けて倶知と曰ふ」とまをす。是、今時の鷹なり。(酒君対言、此鳥之類、多在二百済一。得レ馴而能従レ人。亦捷飛之掠二諸鳥一。百済俗号二此鳥一曰二俱知一。是、今時鷹也。)(仁徳紀四十三年九月)
允恭記の例の「山たづ」、「造木」とも今日に伝わる名称ではなく、ニワトコのことであるとされている。勢い込んで「是今……者也。」と口にしているところから、太安万侶が書いた「今」時点で通称とされていたのではなく、聞く相手に対し、言っていることの頓智を悟れ、と促しているように思われる。造と呼ばれる地方の有力者でありながら中央の被支配者層が、木を使って木に似せたものを造った、それが「造木」である。ニワトコは材質が柔らかく、削り掛けと呼ばれる飾り物の材料に使われた。消費経済に慣れてしまった方には、おもちゃのお金のことを考えれば良いであろう。お金でおもちゃのお金(ミヤツコガネ?)を買うのである。
左:削り掛け(川崎市立日本民家園展示品)、右:削り掛け図(喜田川季荘編・守貞漫稿巻26、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592412/29をトリミング)
また、仁徳紀の例は、百済ではたくさんいて、馴らして狩りに使うものでクチと呼ばれている、という言に関して、これは今の鷹のことである、と注している。この場合、 hawk が新しく種として百済からもたらされたということではない。これまで本邦でも棲息していたものの、飼い馴らし調教して狩りに使うことはしていなかったが、今日ではよく利用されるようになっていて、今言う鷹のことを指しているのだ、と説明を施している(注8)。「造木」、「鷹」とも、種の同定をしているのではなく、人間にとってその動植物はどのような役目を果たしているかという点を考え落ちに語っている。すなわち、改められた概念を呈示している。そのことを謂わんがために、「是今……也。」という念を押す言い方が行われている。
概念の転覆(「ひまわり」の概念はプランター内に覆されている)
垂仁記同様、垂仁紀の例でも、最後に「是也。」と強調して終わっている。名称、呼称に変化があったということよりも、以前はその言葉の範疇に収められておらず、新たに認識されてその言葉の概念に組み込まれるようになったと含み伝えるために記されている。田道間守が常世国から持ち帰ったというのはそのとおりだろうから、自生していたヤマトタチバナのことをそのまま言っているのではない。「橘」を柑橘類の総称であると捉えるにしても、それまでの「橘」概念を覆す柑橘類としての「非時香菓」が将来したと考えなければならない。「非時香菓」の出現によって「橘」概念が拡張されている。起爆的に従来の「橘」概念が壊され、新しい「橘」概念が築きあげられたということである。
その可能性の第一は、お菓子の到来である。いわゆる「唐果」である。大陸から到来した「果物」であり、「木実」に当てがわれている。和名抄に、「果蓏 唐韻に云はく、説文に木の上にあるを果〈古火反、字は亦、菓に作る。日本紀私記に古能美と云ひ、俗に久多毛乃と云ふ〉と曰ひ、地の上にあるを蓏〈力果反、久佐久太毛能〉と曰ふといふ。張晏に曰はく、核有るを菓と曰ひ、核無きを蓏〈核は果蓏具に見ゆ〉と曰ふといふ。応劭に曰はく、木の実を菓と曰ひ、草の実を蓏と曰ふといふ。」とある。「唐果」とは、フルーツに似せて作った加工食品、お菓子のことである。加工されて木の実に似せられたお菓子のことをどのような観念のもとに理解すればよいか。李が伝わった時、桃に似ているのでスモモと呼ぶことにしたことがあったようである。フルーツなのだからそれで構わない。今回、なんだこれは? はたして木の実と言えるのか? という代物が伝わっている。允恭記の「造木」と同様の言語活用法が試されている。
和名抄に従うかぎり、木実は、木の上に成っていて「果」または「菓」の字で表され、俗にクダモノと呼ばれているものということになる。一般的に言う橘の実がそのまま食用とされることはないが、近縁種のミカン類は食用となっている。和名抄に、「柑子 馬琬食経に柑子〈上の音は甘、加無之〉と云ふ。」とある。また、橘の実の皮は調味料とされている。和名抄に、「橘皮 本草注に云はく、橘皮は一名に甘皮といふ〈太知波奈乃加波)、一に岐賀波と云ふ〉。」とある。香り高く、甘味を含んだ風味をつけるために、料理に刻みあえている。
すると、ニワトコの枝を使って「木」を造ったように、橘の皮を用いながら「菓蓏」を造作したものが、トキジクノカクノコノミであると言えるのではないか。そして、カクと冠されるのは、香からなのか、斯からなのか、その両方からなのかということになるだろう。今日、柚子などの皮が香りづけに用いられているとおり、乾燥保存されて常時用いられていた(注9)。時季に応じることなく、旬にこだわることのなく造作される果物という意味で、トキジクノカクノコノミと言っている。
和名抄に、「結果 楊氏漢語抄に結果〈形は結ぶ緒の如し、此の間に、亦、之れ有り。今案ふるに、加久乃阿和とかむがふ。〉と云ふ。」(注10)とあるのがそれである。結びつけるような形状にして、揚げ句の果てに成ったもの、油で揚げたお菓子のようである。油で揚げれば泡立ち、その泡のしずくのような不思議な形をしたものができている。三次元的に複雑な形状をしていて泡立つようでありつつ、今にも崩壊して泡の如く消えて行ってもおかしくないものである。ぐるぐるっと巻き結んで拵えているところは、自然界ではなかなか見られそうにない。いかにも人工的なお菓子は、逆の意味で「非時」性があり、なるほどトキジクノカクノコノミとは人間の強欲の末にたどり着いた「結果」なのであると悟ることができる。不老不死というあり得ないことを考えることは、あり得ないものをないものねだりすることであり、世界が反転するほどに訳がわからなくなっている。
左:「かくなわ」(奈良女子大学大学院人間文化研究科「奈良の都で食された菓子」http://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/kodai_kashi/nara_kashi.html)、右:「かくのあわ」の失敗例(厨事類記の記事など無視し、豚カツに使った薄力粉の残りに溶き卵と蜂蜜を入れ、象ろうとしたが麺状に保てなかった。ただし、味はクロワッサンにも似ておいしかった)
そのような意味合いを含めて、「橘」という言葉で言いくるめようとしている。そこに第二の可能性が見てとれる。それ自体が果物を求めるものではない樹木の存在、枳である。いつのことかは不明ながら古い時代に列島に持ち込まれている。
枳と 茨刈り除け 倉建てむ 屎遠く放れ 櫛造る刀自(万3832)
名称は、カラ(唐)のタチバナ(橘)の意である。そして、「江南の橘、江北の枳となる」の譬え話はよく知られている。「橘は淮南に生ずれば則ち橘と為るも、淮北に生ずれば則ち枳と為ると。葉は徒に相似るも其の実の味同じからず。然る所以の者は何ぞや、水土異なればなり。(橘生淮南則為橘、生于淮北則為枳。葉徒相似、其實味不同。所以然者何、水土異也。)」(晏子春秋・内篇・雑下)、「江南に橘有り、斉王、人をして之れを取らしめて、之れを江北に樹うるに、生じて橘と為らずして、乃ち枳と為る。然る所以は何ぞ。其の土地之れをして然らしむるなり。(江南有橘、斉王使人取之、而樹之於江北、生不為橘、乃為枳。所以然者何。其土地使之然也。)」(説苑・奉使)とある。端的に言えば、所変われば品変わる、の意である。橘と枳とには互換性があり、枳が本邦に入ってきたとき、それをカラ(唐)のタチバナ(橘)であると認め、「橘」概念が拡張された。
こうして、お菓子のことをカラクダモノと言って木の実の範疇に入れることは、枳を橘の範疇に入れるのとパラレルなことになっている。タヂマモリがトキジクノカクノコノミを飾り捧げる方法は、「縵八縵・矛八矛」(記)、「八竿八縵」(紀)であった。葉がついたものは「鰻」、ついていないものは「矛」や「竿」と解されている。通説では、ミカンの実に葉をつけておくかつけておかないかの差のように考えられているが、そうではなく、カラタチの樹全体に、葉がついているか葉が落ちてしまっているかを指している。柑橘類のなかでも特異な存在として、カラタチには葉を落とす習性がある。葉が完全に落ちていても茎部分に葉緑体があるので生きている。「江南の橘、江北の枳となる」の譬え話も生き生きとしたものになっている。
カラタチは刺が出ていて生垣に利用されている。泥棒を含めた獣除けのために果樹園の周囲にめぐらされた。水田に米が稔るのは、田に水がたまる仕掛けに拠っていて、その田の周りは畦がめぐらされていて稔りを守っていたのと同じである。タヂマモリはその名がゆえに耕作地の周りを守る仕事に徹していた。果樹園に果物が実らない最大の理由は鳥獣による被害である。それを防ぐには畦同様の仕掛けが必要となる。葉が茂って「鰻」があれば果樹園の中を見えなくし、葉がなくても刺や枝が入り組んでいれば「矛」や「竿」の役目を果たす。侵入できない通せん棒、鉄条網、警備具と化している。とげとげしている様は、まるで七支刀のような矛である(注11)。カラタチが生垣になっていれば、果物をよく実らせ、香り高く熟するまで枝につけておけて、美味なるものを収穫することができる。それこそカクノコノミであり、カラタチは果物そのものと等価なのである(注12)。タヂマモリは、常世国で自らが派遣された理由を理解するのに時間を要したようであるが、ヤマトコトバの論理学において、その名を負わなければ果樹園守の任は果たせなかったのであった。結果、カラタチは樹種的には柑橘類であり、フルーツの「橘」概念を刷新させている。「是今橘者也。」(記)、「今謂レ橘是也。」(紀)と記されたのは、頓智力の高い考え落ちであった。
左:カラタチの垣根(川崎市立日本民家園)、右:七支刀復元品(鋳造、平成18年復元プロジェクトチーム制作、橿原考古学研究所附属博物館展示品)
記に、「爾、多遅摩毛理、分二縵四縵・矛四矛一、献二于大后一、以二縵四縵・矛四矛一、献二-置天皇之御陵戸一而、……」とあるのは、「縵八縵・矛八矛」を半分ずつに分配したということである。荻生徂徠・南留別志に、「ふたつはひとつの音の転ぜるなり。むつはみつの転ぜるなり。やつはよつの転ぜるなり」(国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100173233/54?ln=ja)とある。すなわち、「や(八)」としてではなく、「よ(四)」としている。「や」は「よ」の母音交替形でその倍数である。どちらも「弥」字で表すように、極めて数が多いことをいうが、垂仁天皇が当初求めた目的は、御代の常にあらんことであった。程度の甚だしいことを表す副詞に用いられている。
…… 堅く取らせ 確堅く や堅く取らせ 秀鱒取らす子(記102)
霞立つ 長き春日を 挿頭せれど いや懐かしき 梅の花かも(万846)
夕凪に 寄せ来る波の その潮の いやますますに その波の いやしくしくに 吾妹子に ……(万3243)
世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり(万793)
つまり、代(ヨは乙類)(世、齢)の長かりしことを願っていたのであって、同音の乙類のヨ(四)こそふさわしい数であった。それなのに、いやますますの意味でヤ(ハ)ピース(piece)持ち帰って来てしまった。多いほどいいだろうと考えていたから、光陰矢の如しというようにヤが飛ぶように時間がかかり、天皇はすでにこの世を去ってしまっていた。必要にして十分なピース数はヨ(四)であった。だから、大后に四ピースを献上し、残りの四ピースを陵墓へと持って行った。間に合わなかった責任は自分にあると思って後悔し、泣き叫んで死んでしまったという話で終わっている。「常世」なのだからトコ(床)+ヨ(四)、つまり、四角形の牀、胡床のことだとまで頓智が利かなかったのは、タヂマモリをしていながらまだ田が条里制以前のことで、四角四辺がヒントなのだと気づかなかったということである。
以上、タヂマモリの非時香果についての説話を解き明かし、不明部分を一掃した。説話のすべては、ヤマトコトバの言語ゲームの粋の賜物であった。
(注)
(注1)「菓子の文化史」参照。
(注2)中村2015.は、「こうした[田道間守がお菓子の神さまとして祭られるにいたる]後世の伝説の進化は、ある種、物語としての宿命なので是非はないが、本来の田道間守と非時香菓の物語は、どういう意図をもって記述されたのかを探る必要はあろう。」(188頁)といい、垂仁陵を青々と飾るために橘の木が選ばれて、三宅氏の陵墓管掌の役割を確かならしめるためにこの話は創作されたのであろうとしている。
(注3)西郷2005.は、タヂマモリの話の意味合いは、《帰化族》の宮廷への忠誠譚であるとし、また、三宅連の祖のことから、武蔵国橘樹郡に橘樹郷と御宅郷とが並んで見えることが、屯倉(宮廷領)とタチバナとの因縁を想わせるという(355~356頁)。
(注4)「土産」という言葉の出所は未詳であり、いつからある言葉かも定かでない。そのミヤゲ(土産)とミヤケ(屯倉、三宅、ケは乙類)が関係する語なのかも不明ではある。
(注5)「時じ」については、➀絶え間なく〜する、いつでも〜だ、②その時ではない、時節はずれだ、の二つの意味があると考えられている。用例を見ると、いずれかの意味にとれば理解されることが多いため、当初から二つの意味があったように思われている。そして、この「時じくのかくの木実」の場合、➀と②の両方を含んだ重層的な意味合いを表していると指摘されている(佐佐木2007.)。しかし、「時じ」という言葉の原義は、時間という概念から離れることであると捉えたほうがわかりやすい。だからこそ、タヂマモリとは何か、という哲学的な問い掛けが主題を構成するのにふさわしいのである。
トキ(時)という言葉は、古典基礎語辞典で、「古くは、今あると思ったことが過去となり、やがて来るであろう未来が現前しているというように、次々と移り変わるものとしてトキを意識している。」(827頁、この項、白井清子)と解説されている。それに否定の形容詞を作る接尾語がついているのだから、「時じ」の意味の原型(prototype)は、移り変わりの適時感が失われている点にこそあるだろう。すなわち、動画の停止ボタンがうまく働かないことを表している。ジャストタイムに停止しないことも、ボタン自体が利かないことも、同じく「時じ」という一語に当たる。
(注6)蹴鞠の足の使い方は独特である。渡辺2000.に、「蹴鞠では鞠を蹴上げる足は何故か右足に限られていた。箸を右手で扱うのが正しい作法であるという観念と共通の文化風土の産物であろう。したがって、一人で続けて鞠を蹴上げる場合、サッカーのリフティングのように歩行と同じリズムで、左・右、左・右と交互に蹴ることはできない。蹴鞠の術語ではフットワークを足踏と言う。連続的に鞠を蹴上げる場合の足踏の要領は次のとおりだった。まず、右足で鞠を蹴上げた後、右足を着地する、次に左足を(挙げて)着地し、しかる後に、右足を挙げて鞠を蹴る。つまり、ポン(右蹴)→トン(右着地)→トン(左着地)→ポン(右蹴)→トン(右着地)→トン(左着地)、………、という、日常的な歩行とは異なるリズムの繰り返しになった。これを三拍子と呼んだ。」(9頁)とわかりやすく説明されている。足を意識して動かしている。その際、足首を伸ばすことなく鍬同様にL字形に保った動きを繰り返している。
「蹴」(左:農具の鍬で土、右:身体のクハで鞠)(左:広益国産考、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200018394/170?ln=jaをトリミング、右:ウィキペディア「蹴鞠」、radBeattie様、談山神社の蹴鞠祭、https://ja.wikipedia.org/wiki/蹴鞠)
蹴るの古語は、古くクウ(下二段活用)という言い方があり、「蹴散」(神代紀第六段本文)という例がある。名義抄には、「蹴 化ル、クユ、コユ」とあり、コユは「越ゆ」と同根とされている。蹴る動作と踏む動作がセットになっている。鍬が土を掘り蹴上げるばかりでなく、反対面を使って泥土を押し撫でつけて畦を作ることができるようになっているのと同じことである。
(注7)練り切りの和菓子について、以下のようなものは「みかん」、「かえで」以外に名づけられようがない。
みかんともみじ(練り切り、snapdish様https://snapdish.co/d/yTD1na(2024年5月2日閲覧))
(注8)鷹狩り用の鷹が、空間的に“渡り”鳥であるばかりか時間的にも“渡り”鳥であるように、巧みなレトリック表現としてある点については、拙稿「允恭記の軽箭と穴穂箭について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/41dd83e8fc7373229a8677f48d3202a2参照。
(注9)七味唐辛子にはミカンの皮が入っている。人見必大・本朝食鑑の「蕎麦」の項に、「別に蘿蔔汁・花鰹・山葵・橘皮・番椒・紫苔・焼味噌・梅干等の物を用ゐて、蕎切及び汁に和して食す。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2569413/1/57)と見える。
(注10)和名抄に菓子類と思われる食べ物が記載されている。食べ物のうち菓子に分類されるものは、その嗜好性によるのであろうが、どこまでを嗜好品としてデザートやおやつに食べるかは判断がつきにくい。太田2005.の挙げるものについて、以下に京本の順にて記す。
餅腅 楊氏漢語抄に云はく、裹む餅の中に鵝鴨等の子、并びに雑菜を納れ煮合せて方に截るものは、一名に餅腅〈玉篇に腅は達監反、肴なり〉といふ。
糉〈角黍、粽なり〉 風土記に云はく、糉〈作弄反、字は亦、粽に作る、知末岐〉は菰の葉を以て米を裹み、灰汁を以て之れを煮て爛熟せ令め、五月五日に之れを啖ふといふ。
餻 考声切韻に云はく、餻〈古労反、字は亦、𩝝に作る、久佐毛知比〉は米屑を蒸して之れを為るといふ。文徳実録に云はく、嘉祥三年の訛言に、今玆三日に餻を造るべからず、母子無きを以てなりと曰ふといふ。
餢飳 蒋魴切韻に云はく、餢飳〈部斗の二音、亦、䴺𪌘に作る、布止、俗に伏兎と云ふ〉は油煎餅の名なりといふ。
糫餅 文選に云はく、膏糫は粔籹といふ〈糫の音は還、粔籹は下文に見ゆ〉。楊氏漢語抄に糫餅〈形は藤葛の如き者なり、万加利〉と云ふ。
結果 楊氏漢語抄に結果〈形は緒を結ぶ如し、此の間に、亦、之れ有り、今案ふるに加久乃阿和〉と云ふ。
捻頭 楊氏漢語抄に捻頭〈無岐加太、捻の音は奴協反、一に麦子と云ふ〉と云ふ。
索餅 釈名に云はく、蝎餅、䯝餅、金餅、索餅〈無岐奈波、大膳式に手束索餅は多都賀と云ふ〉は皆、形に随ひて之れを名くといふ。
粉熟 弁色立成に粉粥〈米粥を以て之れを為る、今案ふるに粉粥は即ち粉熟なり〉と云ふ。
餛飩 四声字苑に云はく、餛飩〈渾屯の二音、上の字は亦、餫に作る、唐韻に見ゆ〉は、餅を肉として剉みて麺とし之れを裹み煮るといふ。
餺飥〈衦字付〉 楊氏漢語抄に云はく、餺飥〈博託の二音、字は亦、𪍡𪌂に作る、玉篇に見ゆ〉は衦麺、方に切る名なりといふ。四声字苑に云はく、衦〈古旱反、上声の重〉は摩り展ぶるための衣なりといふ。
煎餅 楊氏漢語抄に云はく、煎餅〈此の間に字の如しと云ふ〉は油を以て熬る小麦の麺の名なりといふ。
餲餅 四声字苑に云はく、餲〈音は蝎と同じ、俗に餲餬と云ふ。今案ふるに餬は食に寄するなり、餅の名と為るは未だ詳かならず〉は餅の名、麺を煎りて蝎虫の形に作るなりといふ。
黏臍 弁色立成に黏臍〈油餅の名なり、黏り作り人の膍臍に似せるなり、上の音は女廉反、下の音は斉〉と云ふ。
饆饠 唐韻に云はく、饆饠〈畢羅の二音、字は亦、〓〔麥偏に必〕𪎆に作る。俗に比知良と云ふ〉は餌の名なりといふ。
䭔子 唐韻に云はく、䭔〈都回反、又、音は堆と同じ、此の間に音は都以之〉は䭔子なりといふ。
歓喜団 楊氏漢語抄に歓喜団と云ふ。〈品の甘物を以て之れを為る。或説に一名を団喜と云ふ。今案ふるに俗説に梅枝、桃枝、餲餬、桂心、黏臍、饆饠、䭔子、団喜は之れを八種の唐菓子と謂ふ。其の見ゆる有るは、已に上文に挙ぐ〉
(注11)拙稿「「八雲立つ 出雲八重垣」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/21dc1a26b1fff042b89ad2c33aea8dce参照。
(注12)カラタチ自体の実のことなどどうでもいいことにされている点が、なるほどと理解に至る考え落ちになっている。頓智にすぐれたおもしろい話として際立つ構成である。このように頭を捻るおもしろ味があるからこそ、本説話は伝承されて来ていたと考えられる。話を伝えることが生きる知恵に直結している。カラタチは、名を捨てて実(果樹園のなかの果樹の実)を取ったことになっている。
(引用・参考文献)
太田2005. 太田泰弘「唐菓子の系譜─日本の菓子と中国の菓子─」『和菓子』第12号、虎屋文庫、平成17年3月。
「菓子の文化史」 「菓子の文化史」(平成22年度)『文化史総合演習成果報告』奈良女子大学大学院人間文化研究科(博士前期課程)国際社会文化学専攻、2011年3月。奈良女子大学HP http://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/index.html(2024年5月2日閲覧)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第五巻』 筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
佐佐木2007. 佐佐木隆『日本の神話・伝説を読む─声から文字ヘ─』岩波書店(岩波新書)、2007年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
次田1980. 次田真幸『古事記(中)全訳注』講談社(講談社学術文庫)、昭和55年。
中村2015. 中村修也「田道間守と非時香菓伝説新考」『言語と文化』第27号、文教大学、2015年3月。文教大学学術リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1351/00003022/(2024年5月2日閲覧)
渡辺2000. 渡辺融「フットボール、昔と今」『大学出版』第47号、大学出版部協会、2000年10月。大学出版部協会https://www.ajup-net.com/web_ajup/047/web47.shtml(2024年5月2日閲覧)
※本稿は、2020年7月19日稿、2023年4月20日稿を経て、2024年5月2日に図像も含めて手を入れたものである。
又、天皇、三宅連等が祖、名は多遅摩毛理を以て常世国に遣して、ときじくのかくの木実を求めしめたまひき。故、多遅摩毛理、遂に其の国に到り、其の木実を採りて、縵八縵・矛八矛を将ち来る間に、天皇、既に崩りましぬ。爾くして、多遅摩毛理、縵四縵・矛四矛を分け大后に献り、縵四縵・矛四矛を以て天皇の御陵の戸に献り置きて、其の木実を擎げて、叫び哭びて白さく、「常世国のときじくのかくの木実を持ちて参ゐ上りて侍り」とまをして、遂に叫び哭びて死にき。其のときじくのかくの木実は、是、今の橘ぞ。(垂仁記)
九十年の春二月の庚子の朔に、天皇、田道間守に命せて、常世国に遣して、非時の香菓を求めしむ。香菓,、此には箇倶能未と云ふ。今、橘と謂ふは是なり。……
明年の春三月の辛未の朔にして壬午に、田道間守、常世国より至れり。則ち齎る物は、非時の香菓、八竿八縵なり。田道間守、是に泣ち悲歎きて曰さく、「命を天朝に受り、遠くより絶域に往る。万里浪を踏みて、遥に弱水を度る。是の常世国は、神仙の秘区、俗の臻らむ所に非ず。是を以て、往来ふ間に、自づからに十年に経りぬ。豈期ひきや、独峻き瀾を凌ぎて、更、本土に向むといふことを。然るに、聖帝の神霊に頼りて、僅に還り来ること得たり。今、天皇既に崩りましぬ。復命すこと得ず。臣生けりと雖も、亦、何の益かあらむ」とまをす。乃ち天皇の陵にまゐりて、叫び哭きて自ら死れり。群臣聞きて皆涙を流す。田道間守は、是、三宅連の始祖なり。(垂仁紀九十年二月〜垂仁後紀九十年明年)
この話が何の話なのかについては、食物史にお菓子の始まりを述べたものであるとする考え(注1)がある一方、神話学に常世国との関連で考えようとする潮流があり、また、歴史学に三宅連の始祖譚としての重要性を指摘する向きもある(注2)。国文学(上代文学)はタヂマモリとタチバナモリとの類音性を指摘したり、新羅国王の末裔である点を重要視している(注3)。新編全集本古事記は、「多遅摩毛理は新羅国王の子孫であり、天皇に対する忠誠心が渡来人にも及んでいることを語る話になっている。」(211頁)という。筆者は、ヤマトコトバを入念に探究し、記紀万葉を読解する立場に立つ。話として自己完結していなければ伝承されているはずはないと考えている。
最初に登場人物を確認しておこう。三宅連等の祖先筋に当たるタヂマモリ(多遅摩毛理、田道間守)である。紀の表記に田道間守とある点から義を考えるなら、田んぼの畦道を守る存在であろうことが見てとれる。朝廷の直轄領である屯倉が置かれたのは、土着勢力がもともと拓いていたところよりも新田開発されたところである。自然のままに水稲栽培に適した水深の浅いところではなく、それまでは水が溜まることがなかったり、水が深いところを田となるように整備したところ、すなわち、畦を整えることではじめてできた田である。ミヤケを名乗る人物の祖先がタヂマモリである所以である。
田んぼの畦道を守り整える道具は鍬である。土を盛り塗って守っている。アゼ(畦、畔)のことはアと言った。須佐之男のいたずらに「田のあを離ち〔離二田之阿一〕」(記上)とある。アという言葉には、畦以外に足のことも指した。「足結〔阿由比〕」(記81)、「足結〔阿庸比〕」(紀106)とある。どうして畦と足とが同じヤマトコトバ(音)で成っていて違和しないのか。それは、ともにクハ(鍬)に関係する語だからである。鍬によって作られるのが畦である。鍬の形は柄に直角的に角度をつけて刃となる面がついている。その様子は、足の脛に対して靴に入る足の甲、足のひらのつき方と同じである。
機械化された畦作り
白川1995.に、「くはたつ〔企・翹〕 下二段。「くは」は鍬。足でいえばかかとから爪先までの部分が、鍬の平らかな刃の部分にあたるので、鍬腹という。かかとから先をまた「くは」といい、「くはゆぎ(曲肘)」「くびす(跟)」などの語がある。遠くを望み見るとき、そこを立てるのが「くはたつ」で、かかとをあげ、背のびしてみることをいう。「くはたつ」は、仏典の訓読語にみえるほかには、用例は殆どない。「くは」は稲作以前の原始農耕の時代からあったと考えてよい。〔華厳音義私記〕「翹 音は交、訓は久波多川」、〔名義抄〕に「肢・竚・尅・翹・企 クハタツ」、〔字鏡抄〕には企・肢の二字のみ録する。」(301頁)とある。語史的には、身体用語としてクハという語があり、後に農具として現れたものがその形になぞらえられてクハと呼ばれるようになったと考えられている。
このことからすると、タヂマモリという人物名は、畦を作っては崩れていないかいつも見守り修繕する人を表していると考えられつつ、足が巧みに働くこと、また、遠くへ行くにはまず先を見渡さなければならないが、そのために企てて背伸びをするのにもってこいであることを示している。名に負う人物として遠い世界へ赴くことが求められているといえる。当然ながら遠路を行くには時間がかかる。その時間という概念をクローズアップさせてみたとき、時間とは無関係なほどに常に畦道を守る人のことが思い起こされている。あるのが当たり前と思われ、時間の概念から解放されているかに見えて、その実、たゆまぬ努力をもってメンテナンスが行われている。見た目が変わらないことを生業の目的とするのがタヂマモリという農道整備者である。だから、天皇としてみれば、その治世、天皇の御代の常にあらむと願うことがあるなら、タヂマモリにかなえてもらおうということになる。そして、ヨ(代、世)の常にあるとされている常世国へと足の達者なタヂマモリを派遣して、それをかなえそうな象徴的なお土産を持ち帰るように指示している(注4)。
それが登岐士玖能迦玖能木実(非時香菓)である(注5)。農道整備に使う鍬は、地面を浅く掘り起こし混ぜ返すのに便利な道具である。表面付近に根の張った雑草を根切りしながら土を耕すことができる。草は腐って作物の肥料となる。また、人肥を下肥にするため、農地に混ぜ込むのにも鍬は用いられる。すなわち、鍬は肥と深い関係にある。足を意味するクハも、足を上げることを蹴鞠にコエ(蹴、コユの連用形)といい(注6)、遠く山越え谷越えて移動するのに役立つ。コエ(肥)をコエ(超)て臭いのきつく凌駕するもの、それもアシ(足)なるアシ(悪)きものではなく、良きもので常に覆いつくすようなものが求められることになる。それが、カクなるもの、香しいものである。
そんな木の実(香菓)があったら持ち帰るようにと言っている。ここで、トキジクノカクノコノミとは何か、という問題に向き合わねばならない。「其登岐士玖能迦玖能木実者、是今橘者也。」(記)、「今謂レ橘是也。」(紀)から、これはミカンの類の橘の実のことであると考えられることが多い(注7)。ただし、お菓子の歴史を研究する側からは、「非時香菓」(紀)と書き示されているからには、日持ちする菓子のことではないかという意見が根強く、お菓子の起源譚であるとされている。持続性、永遠性を求めているのだから、生の菓子に当たるフルーツではなくて、加工された干菓子ではないかというのである。
「橘」とあるからヤマトタチバナ(ニッポンタチバナ)のことを指すとする見方があるが、ヤマトタチバナは古くから自生しており遠く求める必要はない。柑橘類の総称であろうとする説もあるが、ならばどのような品種か見分けられなければならず、また、長く枝に成っていることを「縵四縵・矛四矛」、「八竿八縵」と受け取るように読むのは少し苦しいように感じられる。葉があるのが縵で、葉をもぎ取ったのが矛や竿とするとして、どうしてそのような小細工で分け隔てをするのか、何か説明されるなり自明でなければならないはずであるものの、理解への糸口はこれまでのところ見出されていない。
なにより、記紀の言い方は念を押したような形をとっており尋常ではない。
其登岐士玖能迦玖能木実者、是今橘者也。(記)
天皇命二田道間守一、遣二常世国一、令レ求二非時香菓一。香菓、此云二箇俱能未一。今謂レ橘是也。(紀)
平たく尋常な言い回しから見てみる。「今謂」とする叙述としては他に、記に一例、紀に八例見える。
故、其の所謂る黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ。(故、其所レ謂黄泉比良坂者、今謂二出雲国之伊賦夜坂一也)(記上)
因りて、名けて浪速国とす。亦、浪花と曰ふ。今、難波と謂ふは訛れるなり。 訛、此には与許奈磨盧と云ふ。(因以、名為二浪速国一。亦曰二浪花一。今謂二難波一訛也。訛、此云二与許奈磨盧一。)(神武前紀戊午年二月)
故、時人、改めて其の河を号けて挑河と曰ふ。今、泉河と謂ふは訛れるなり。(故時人改号二其河一曰二挑河一。今謂二泉河一訛也。)(崇神紀十年九月)
褌より屎ちし処を屎褌と曰ふ。今、樟葉と謂ふは訛れるなり。(褌屎処曰二屎褌一。今謂二樟葉一訛也。)(崇神紀十年九月)
故、其の地を号けて墮国と謂ふ。今、弟国と謂ふは訛れるなり。(故号二其地一謂二墮国一。今謂二弟国一訛也。)(垂仁紀十五年八月)
故、時人、其の盞を忘れし処を号けて浮羽と曰ふ。今、的と謂ふは、訛れるなり。(故時人号二其忘レ盞処一曰二浮羽一。今謂レ的者訛也。)(景行紀十八年八月)
故、時人、五十迹手が本土を号けて伊蘇国と曰ふ。今、伊覩と謂ふは訛れるなり。(故時人号二五十迹手之本土一曰二伊蘇国一、今謂二伊覩一者訛也。)(仲哀紀八年正月)
故、時人、其の処を号けて、梅豆羅国と曰ふ。今、松浦と謂ふは訛れるなり。(故時人号二其処一曰二梅豆羅国一、今謂二松浦一訛焉。)(神功前紀仲哀九年四月)
鳥、此の田を以て、天皇の為に金剛寺を作る。是、今、南淵の坂田尼寺と謂ふ。(鳥以二此田一、為二天皇一作二金剛寺一。是今謂二南淵坂田尼寺一。)(推古紀十四年五月)
紀の地名譚の七例は「訛」字が続いており、音の変化を「謂」で表している。推古紀の例は寺の名称変更を示している。それらから推して考えると、記上の例も、坂の名を今はそう呼んでいると言っているだけである。
対して、尋常ではない言いっぷりを見てみる。垂仁記の「是今……也。」とする叙述は、他に記に一例、紀に一例見える。
此の、山多豆と云ふは、是、今の造木ぞ。(此、云二山多豆一者、是、今造木者也。)(允恭記)
酒君、対へて言さく、「此の鳥の類、多に百済に在り。馴し得てば能く人に従ふ。亦、捷く飛びて諸の鳥を掠る。百済の俗、此の鳥を号けて倶知と曰ふ」とまをす。是、今時の鷹なり。(酒君対言、此鳥之類、多在二百済一。得レ馴而能従レ人。亦捷飛之掠二諸鳥一。百済俗号二此鳥一曰二俱知一。是、今時鷹也。)(仁徳紀四十三年九月)
允恭記の例の「山たづ」、「造木」とも今日に伝わる名称ではなく、ニワトコのことであるとされている。勢い込んで「是今……者也。」と口にしているところから、太安万侶が書いた「今」時点で通称とされていたのではなく、聞く相手に対し、言っていることの頓智を悟れ、と促しているように思われる。造と呼ばれる地方の有力者でありながら中央の被支配者層が、木を使って木に似せたものを造った、それが「造木」である。ニワトコは材質が柔らかく、削り掛けと呼ばれる飾り物の材料に使われた。消費経済に慣れてしまった方には、おもちゃのお金のことを考えれば良いであろう。お金でおもちゃのお金(ミヤツコガネ?)を買うのである。
左:削り掛け(川崎市立日本民家園展示品)、右:削り掛け図(喜田川季荘編・守貞漫稿巻26、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592412/29をトリミング)
また、仁徳紀の例は、百済ではたくさんいて、馴らして狩りに使うものでクチと呼ばれている、という言に関して、これは今の鷹のことである、と注している。この場合、 hawk が新しく種として百済からもたらされたということではない。これまで本邦でも棲息していたものの、飼い馴らし調教して狩りに使うことはしていなかったが、今日ではよく利用されるようになっていて、今言う鷹のことを指しているのだ、と説明を施している(注8)。「造木」、「鷹」とも、種の同定をしているのではなく、人間にとってその動植物はどのような役目を果たしているかという点を考え落ちに語っている。すなわち、改められた概念を呈示している。そのことを謂わんがために、「是今……也。」という念を押す言い方が行われている。
概念の転覆(「ひまわり」の概念はプランター内に覆されている)
垂仁記同様、垂仁紀の例でも、最後に「是也。」と強調して終わっている。名称、呼称に変化があったということよりも、以前はその言葉の範疇に収められておらず、新たに認識されてその言葉の概念に組み込まれるようになったと含み伝えるために記されている。田道間守が常世国から持ち帰ったというのはそのとおりだろうから、自生していたヤマトタチバナのことをそのまま言っているのではない。「橘」を柑橘類の総称であると捉えるにしても、それまでの「橘」概念を覆す柑橘類としての「非時香菓」が将来したと考えなければならない。「非時香菓」の出現によって「橘」概念が拡張されている。起爆的に従来の「橘」概念が壊され、新しい「橘」概念が築きあげられたということである。
その可能性の第一は、お菓子の到来である。いわゆる「唐果」である。大陸から到来した「果物」であり、「木実」に当てがわれている。和名抄に、「果蓏 唐韻に云はく、説文に木の上にあるを果〈古火反、字は亦、菓に作る。日本紀私記に古能美と云ひ、俗に久多毛乃と云ふ〉と曰ひ、地の上にあるを蓏〈力果反、久佐久太毛能〉と曰ふといふ。張晏に曰はく、核有るを菓と曰ひ、核無きを蓏〈核は果蓏具に見ゆ〉と曰ふといふ。応劭に曰はく、木の実を菓と曰ひ、草の実を蓏と曰ふといふ。」とある。「唐果」とは、フルーツに似せて作った加工食品、お菓子のことである。加工されて木の実に似せられたお菓子のことをどのような観念のもとに理解すればよいか。李が伝わった時、桃に似ているのでスモモと呼ぶことにしたことがあったようである。フルーツなのだからそれで構わない。今回、なんだこれは? はたして木の実と言えるのか? という代物が伝わっている。允恭記の「造木」と同様の言語活用法が試されている。
和名抄に従うかぎり、木実は、木の上に成っていて「果」または「菓」の字で表され、俗にクダモノと呼ばれているものということになる。一般的に言う橘の実がそのまま食用とされることはないが、近縁種のミカン類は食用となっている。和名抄に、「柑子 馬琬食経に柑子〈上の音は甘、加無之〉と云ふ。」とある。また、橘の実の皮は調味料とされている。和名抄に、「橘皮 本草注に云はく、橘皮は一名に甘皮といふ〈太知波奈乃加波)、一に岐賀波と云ふ〉。」とある。香り高く、甘味を含んだ風味をつけるために、料理に刻みあえている。
すると、ニワトコの枝を使って「木」を造ったように、橘の皮を用いながら「菓蓏」を造作したものが、トキジクノカクノコノミであると言えるのではないか。そして、カクと冠されるのは、香からなのか、斯からなのか、その両方からなのかということになるだろう。今日、柚子などの皮が香りづけに用いられているとおり、乾燥保存されて常時用いられていた(注9)。時季に応じることなく、旬にこだわることのなく造作される果物という意味で、トキジクノカクノコノミと言っている。
和名抄に、「結果 楊氏漢語抄に結果〈形は結ぶ緒の如し、此の間に、亦、之れ有り。今案ふるに、加久乃阿和とかむがふ。〉と云ふ。」(注10)とあるのがそれである。結びつけるような形状にして、揚げ句の果てに成ったもの、油で揚げたお菓子のようである。油で揚げれば泡立ち、その泡のしずくのような不思議な形をしたものができている。三次元的に複雑な形状をしていて泡立つようでありつつ、今にも崩壊して泡の如く消えて行ってもおかしくないものである。ぐるぐるっと巻き結んで拵えているところは、自然界ではなかなか見られそうにない。いかにも人工的なお菓子は、逆の意味で「非時」性があり、なるほどトキジクノカクノコノミとは人間の強欲の末にたどり着いた「結果」なのであると悟ることができる。不老不死というあり得ないことを考えることは、あり得ないものをないものねだりすることであり、世界が反転するほどに訳がわからなくなっている。
左:「かくなわ」(奈良女子大学大学院人間文化研究科「奈良の都で食された菓子」http://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/kodai_kashi/nara_kashi.html)、右:「かくのあわ」の失敗例(厨事類記の記事など無視し、豚カツに使った薄力粉の残りに溶き卵と蜂蜜を入れ、象ろうとしたが麺状に保てなかった。ただし、味はクロワッサンにも似ておいしかった)
そのような意味合いを含めて、「橘」という言葉で言いくるめようとしている。そこに第二の可能性が見てとれる。それ自体が果物を求めるものではない樹木の存在、枳である。いつのことかは不明ながら古い時代に列島に持ち込まれている。
枳と 茨刈り除け 倉建てむ 屎遠く放れ 櫛造る刀自(万3832)
名称は、カラ(唐)のタチバナ(橘)の意である。そして、「江南の橘、江北の枳となる」の譬え話はよく知られている。「橘は淮南に生ずれば則ち橘と為るも、淮北に生ずれば則ち枳と為ると。葉は徒に相似るも其の実の味同じからず。然る所以の者は何ぞや、水土異なればなり。(橘生淮南則為橘、生于淮北則為枳。葉徒相似、其實味不同。所以然者何、水土異也。)」(晏子春秋・内篇・雑下)、「江南に橘有り、斉王、人をして之れを取らしめて、之れを江北に樹うるに、生じて橘と為らずして、乃ち枳と為る。然る所以は何ぞ。其の土地之れをして然らしむるなり。(江南有橘、斉王使人取之、而樹之於江北、生不為橘、乃為枳。所以然者何。其土地使之然也。)」(説苑・奉使)とある。端的に言えば、所変われば品変わる、の意である。橘と枳とには互換性があり、枳が本邦に入ってきたとき、それをカラ(唐)のタチバナ(橘)であると認め、「橘」概念が拡張された。
こうして、お菓子のことをカラクダモノと言って木の実の範疇に入れることは、枳を橘の範疇に入れるのとパラレルなことになっている。タヂマモリがトキジクノカクノコノミを飾り捧げる方法は、「縵八縵・矛八矛」(記)、「八竿八縵」(紀)であった。葉がついたものは「鰻」、ついていないものは「矛」や「竿」と解されている。通説では、ミカンの実に葉をつけておくかつけておかないかの差のように考えられているが、そうではなく、カラタチの樹全体に、葉がついているか葉が落ちてしまっているかを指している。柑橘類のなかでも特異な存在として、カラタチには葉を落とす習性がある。葉が完全に落ちていても茎部分に葉緑体があるので生きている。「江南の橘、江北の枳となる」の譬え話も生き生きとしたものになっている。
カラタチは刺が出ていて生垣に利用されている。泥棒を含めた獣除けのために果樹園の周囲にめぐらされた。水田に米が稔るのは、田に水がたまる仕掛けに拠っていて、その田の周りは畦がめぐらされていて稔りを守っていたのと同じである。タヂマモリはその名がゆえに耕作地の周りを守る仕事に徹していた。果樹園に果物が実らない最大の理由は鳥獣による被害である。それを防ぐには畦同様の仕掛けが必要となる。葉が茂って「鰻」があれば果樹園の中を見えなくし、葉がなくても刺や枝が入り組んでいれば「矛」や「竿」の役目を果たす。侵入できない通せん棒、鉄条網、警備具と化している。とげとげしている様は、まるで七支刀のような矛である(注11)。カラタチが生垣になっていれば、果物をよく実らせ、香り高く熟するまで枝につけておけて、美味なるものを収穫することができる。それこそカクノコノミであり、カラタチは果物そのものと等価なのである(注12)。タヂマモリは、常世国で自らが派遣された理由を理解するのに時間を要したようであるが、ヤマトコトバの論理学において、その名を負わなければ果樹園守の任は果たせなかったのであった。結果、カラタチは樹種的には柑橘類であり、フルーツの「橘」概念を刷新させている。「是今橘者也。」(記)、「今謂レ橘是也。」(紀)と記されたのは、頓智力の高い考え落ちであった。
左:カラタチの垣根(川崎市立日本民家園)、右:七支刀復元品(鋳造、平成18年復元プロジェクトチーム制作、橿原考古学研究所附属博物館展示品)
記に、「爾、多遅摩毛理、分二縵四縵・矛四矛一、献二于大后一、以二縵四縵・矛四矛一、献二-置天皇之御陵戸一而、……」とあるのは、「縵八縵・矛八矛」を半分ずつに分配したということである。荻生徂徠・南留別志に、「ふたつはひとつの音の転ぜるなり。むつはみつの転ぜるなり。やつはよつの転ぜるなり」(国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100173233/54?ln=ja)とある。すなわち、「や(八)」としてではなく、「よ(四)」としている。「や」は「よ」の母音交替形でその倍数である。どちらも「弥」字で表すように、極めて数が多いことをいうが、垂仁天皇が当初求めた目的は、御代の常にあらんことであった。程度の甚だしいことを表す副詞に用いられている。
…… 堅く取らせ 確堅く や堅く取らせ 秀鱒取らす子(記102)
霞立つ 長き春日を 挿頭せれど いや懐かしき 梅の花かも(万846)
夕凪に 寄せ来る波の その潮の いやますますに その波の いやしくしくに 吾妹子に ……(万3243)
世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり(万793)
つまり、代(ヨは乙類)(世、齢)の長かりしことを願っていたのであって、同音の乙類のヨ(四)こそふさわしい数であった。それなのに、いやますますの意味でヤ(ハ)ピース(piece)持ち帰って来てしまった。多いほどいいだろうと考えていたから、光陰矢の如しというようにヤが飛ぶように時間がかかり、天皇はすでにこの世を去ってしまっていた。必要にして十分なピース数はヨ(四)であった。だから、大后に四ピースを献上し、残りの四ピースを陵墓へと持って行った。間に合わなかった責任は自分にあると思って後悔し、泣き叫んで死んでしまったという話で終わっている。「常世」なのだからトコ(床)+ヨ(四)、つまり、四角形の牀、胡床のことだとまで頓智が利かなかったのは、タヂマモリをしていながらまだ田が条里制以前のことで、四角四辺がヒントなのだと気づかなかったということである。
以上、タヂマモリの非時香果についての説話を解き明かし、不明部分を一掃した。説話のすべては、ヤマトコトバの言語ゲームの粋の賜物であった。
(注)
(注1)「菓子の文化史」参照。
(注2)中村2015.は、「こうした[田道間守がお菓子の神さまとして祭られるにいたる]後世の伝説の進化は、ある種、物語としての宿命なので是非はないが、本来の田道間守と非時香菓の物語は、どういう意図をもって記述されたのかを探る必要はあろう。」(188頁)といい、垂仁陵を青々と飾るために橘の木が選ばれて、三宅氏の陵墓管掌の役割を確かならしめるためにこの話は創作されたのであろうとしている。
(注3)西郷2005.は、タヂマモリの話の意味合いは、《帰化族》の宮廷への忠誠譚であるとし、また、三宅連の祖のことから、武蔵国橘樹郡に橘樹郷と御宅郷とが並んで見えることが、屯倉(宮廷領)とタチバナとの因縁を想わせるという(355~356頁)。
(注4)「土産」という言葉の出所は未詳であり、いつからある言葉かも定かでない。そのミヤゲ(土産)とミヤケ(屯倉、三宅、ケは乙類)が関係する語なのかも不明ではある。
(注5)「時じ」については、➀絶え間なく〜する、いつでも〜だ、②その時ではない、時節はずれだ、の二つの意味があると考えられている。用例を見ると、いずれかの意味にとれば理解されることが多いため、当初から二つの意味があったように思われている。そして、この「時じくのかくの木実」の場合、➀と②の両方を含んだ重層的な意味合いを表していると指摘されている(佐佐木2007.)。しかし、「時じ」という言葉の原義は、時間という概念から離れることであると捉えたほうがわかりやすい。だからこそ、タヂマモリとは何か、という哲学的な問い掛けが主題を構成するのにふさわしいのである。
トキ(時)という言葉は、古典基礎語辞典で、「古くは、今あると思ったことが過去となり、やがて来るであろう未来が現前しているというように、次々と移り変わるものとしてトキを意識している。」(827頁、この項、白井清子)と解説されている。それに否定の形容詞を作る接尾語がついているのだから、「時じ」の意味の原型(prototype)は、移り変わりの適時感が失われている点にこそあるだろう。すなわち、動画の停止ボタンがうまく働かないことを表している。ジャストタイムに停止しないことも、ボタン自体が利かないことも、同じく「時じ」という一語に当たる。
(注6)蹴鞠の足の使い方は独特である。渡辺2000.に、「蹴鞠では鞠を蹴上げる足は何故か右足に限られていた。箸を右手で扱うのが正しい作法であるという観念と共通の文化風土の産物であろう。したがって、一人で続けて鞠を蹴上げる場合、サッカーのリフティングのように歩行と同じリズムで、左・右、左・右と交互に蹴ることはできない。蹴鞠の術語ではフットワークを足踏と言う。連続的に鞠を蹴上げる場合の足踏の要領は次のとおりだった。まず、右足で鞠を蹴上げた後、右足を着地する、次に左足を(挙げて)着地し、しかる後に、右足を挙げて鞠を蹴る。つまり、ポン(右蹴)→トン(右着地)→トン(左着地)→ポン(右蹴)→トン(右着地)→トン(左着地)、………、という、日常的な歩行とは異なるリズムの繰り返しになった。これを三拍子と呼んだ。」(9頁)とわかりやすく説明されている。足を意識して動かしている。その際、足首を伸ばすことなく鍬同様にL字形に保った動きを繰り返している。
「蹴」(左:農具の鍬で土、右:身体のクハで鞠)(左:広益国産考、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200018394/170?ln=jaをトリミング、右:ウィキペディア「蹴鞠」、radBeattie様、談山神社の蹴鞠祭、https://ja.wikipedia.org/wiki/蹴鞠)
蹴るの古語は、古くクウ(下二段活用)という言い方があり、「蹴散」(神代紀第六段本文)という例がある。名義抄には、「蹴 化ル、クユ、コユ」とあり、コユは「越ゆ」と同根とされている。蹴る動作と踏む動作がセットになっている。鍬が土を掘り蹴上げるばかりでなく、反対面を使って泥土を押し撫でつけて畦を作ることができるようになっているのと同じことである。
(注7)練り切りの和菓子について、以下のようなものは「みかん」、「かえで」以外に名づけられようがない。
みかんともみじ(練り切り、snapdish様https://snapdish.co/d/yTD1na(2024年5月2日閲覧))
(注8)鷹狩り用の鷹が、空間的に“渡り”鳥であるばかりか時間的にも“渡り”鳥であるように、巧みなレトリック表現としてある点については、拙稿「允恭記の軽箭と穴穂箭について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/41dd83e8fc7373229a8677f48d3202a2参照。
(注9)七味唐辛子にはミカンの皮が入っている。人見必大・本朝食鑑の「蕎麦」の項に、「別に蘿蔔汁・花鰹・山葵・橘皮・番椒・紫苔・焼味噌・梅干等の物を用ゐて、蕎切及び汁に和して食す。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2569413/1/57)と見える。
(注10)和名抄に菓子類と思われる食べ物が記載されている。食べ物のうち菓子に分類されるものは、その嗜好性によるのであろうが、どこまでを嗜好品としてデザートやおやつに食べるかは判断がつきにくい。太田2005.の挙げるものについて、以下に京本の順にて記す。
餅腅 楊氏漢語抄に云はく、裹む餅の中に鵝鴨等の子、并びに雑菜を納れ煮合せて方に截るものは、一名に餅腅〈玉篇に腅は達監反、肴なり〉といふ。
糉〈角黍、粽なり〉 風土記に云はく、糉〈作弄反、字は亦、粽に作る、知末岐〉は菰の葉を以て米を裹み、灰汁を以て之れを煮て爛熟せ令め、五月五日に之れを啖ふといふ。
餻 考声切韻に云はく、餻〈古労反、字は亦、𩝝に作る、久佐毛知比〉は米屑を蒸して之れを為るといふ。文徳実録に云はく、嘉祥三年の訛言に、今玆三日に餻を造るべからず、母子無きを以てなりと曰ふといふ。
餢飳 蒋魴切韻に云はく、餢飳〈部斗の二音、亦、䴺𪌘に作る、布止、俗に伏兎と云ふ〉は油煎餅の名なりといふ。
糫餅 文選に云はく、膏糫は粔籹といふ〈糫の音は還、粔籹は下文に見ゆ〉。楊氏漢語抄に糫餅〈形は藤葛の如き者なり、万加利〉と云ふ。
結果 楊氏漢語抄に結果〈形は緒を結ぶ如し、此の間に、亦、之れ有り、今案ふるに加久乃阿和〉と云ふ。
捻頭 楊氏漢語抄に捻頭〈無岐加太、捻の音は奴協反、一に麦子と云ふ〉と云ふ。
索餅 釈名に云はく、蝎餅、䯝餅、金餅、索餅〈無岐奈波、大膳式に手束索餅は多都賀と云ふ〉は皆、形に随ひて之れを名くといふ。
粉熟 弁色立成に粉粥〈米粥を以て之れを為る、今案ふるに粉粥は即ち粉熟なり〉と云ふ。
餛飩 四声字苑に云はく、餛飩〈渾屯の二音、上の字は亦、餫に作る、唐韻に見ゆ〉は、餅を肉として剉みて麺とし之れを裹み煮るといふ。
餺飥〈衦字付〉 楊氏漢語抄に云はく、餺飥〈博託の二音、字は亦、𪍡𪌂に作る、玉篇に見ゆ〉は衦麺、方に切る名なりといふ。四声字苑に云はく、衦〈古旱反、上声の重〉は摩り展ぶるための衣なりといふ。
煎餅 楊氏漢語抄に云はく、煎餅〈此の間に字の如しと云ふ〉は油を以て熬る小麦の麺の名なりといふ。
餲餅 四声字苑に云はく、餲〈音は蝎と同じ、俗に餲餬と云ふ。今案ふるに餬は食に寄するなり、餅の名と為るは未だ詳かならず〉は餅の名、麺を煎りて蝎虫の形に作るなりといふ。
黏臍 弁色立成に黏臍〈油餅の名なり、黏り作り人の膍臍に似せるなり、上の音は女廉反、下の音は斉〉と云ふ。
饆饠 唐韻に云はく、饆饠〈畢羅の二音、字は亦、〓〔麥偏に必〕𪎆に作る。俗に比知良と云ふ〉は餌の名なりといふ。
䭔子 唐韻に云はく、䭔〈都回反、又、音は堆と同じ、此の間に音は都以之〉は䭔子なりといふ。
歓喜団 楊氏漢語抄に歓喜団と云ふ。〈品の甘物を以て之れを為る。或説に一名を団喜と云ふ。今案ふるに俗説に梅枝、桃枝、餲餬、桂心、黏臍、饆饠、䭔子、団喜は之れを八種の唐菓子と謂ふ。其の見ゆる有るは、已に上文に挙ぐ〉
(注11)拙稿「「八雲立つ 出雲八重垣」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/21dc1a26b1fff042b89ad2c33aea8dce参照。
(注12)カラタチ自体の実のことなどどうでもいいことにされている点が、なるほどと理解に至る考え落ちになっている。頓智にすぐれたおもしろい話として際立つ構成である。このように頭を捻るおもしろ味があるからこそ、本説話は伝承されて来ていたと考えられる。話を伝えることが生きる知恵に直結している。カラタチは、名を捨てて実(果樹園のなかの果樹の実)を取ったことになっている。
(引用・参考文献)
太田2005. 太田泰弘「唐菓子の系譜─日本の菓子と中国の菓子─」『和菓子』第12号、虎屋文庫、平成17年3月。
「菓子の文化史」 「菓子の文化史」(平成22年度)『文化史総合演習成果報告』奈良女子大学大学院人間文化研究科(博士前期課程)国際社会文化学専攻、2011年3月。奈良女子大学HP http://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/index.html(2024年5月2日閲覧)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第五巻』 筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
佐佐木2007. 佐佐木隆『日本の神話・伝説を読む─声から文字ヘ─』岩波書店(岩波新書)、2007年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
次田1980. 次田真幸『古事記(中)全訳注』講談社(講談社学術文庫)、昭和55年。
中村2015. 中村修也「田道間守と非時香菓伝説新考」『言語と文化』第27号、文教大学、2015年3月。文教大学学術リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1351/00003022/(2024年5月2日閲覧)
渡辺2000. 渡辺融「フットボール、昔と今」『大学出版』第47号、大学出版部協会、2000年10月。大学出版部協会https://www.ajup-net.com/web_ajup/047/web47.shtml(2024年5月2日閲覧)
※本稿は、2020年7月19日稿、2023年4月20日稿を経て、2024年5月2日に図像も含めて手を入れたものである。