古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

捕鳥部万と犬の物語について

2023年05月14日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 物部守屋と蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした時の記事は崇峻天皇前紀にある。その際、物部守屋一族が殺されたのち、郎党は散り散りに逃げまぎれて命を保ったが、難波の邸宅を守っていた資人つかひと捕鳥部ととりべのよろづばかりは馬に乗って逃げて山に隠れた。追手が迫ってきたので抵抗し、結局自刃した。故事として、また、捕鳥部万の勇猛さやその飼犬の忠犬ぶりを伝える語り物として捉えられてきた。しかし、これが何を言わんとした話なのか、何のために紀に所載されているのかについて、学術的な検討は行われていない(注1)

捕鳥部万(菊池容斎・前賢故実 巻第一、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778215/59)をトリミング合成)
 なぜ捕鳥部万ばかりが物部守屋の残党狩りにあっているのか。なぜ律令時代の用語の「牒」や「符」という字が選ばれて、正式な討伐であることを示そうとしているのか。なぜ死んだ後にその飼犬の話が後日談としてあって美談化され、そのうえ、似たような別の犬の話が添加されているのか。
 最終的に犬の話に収斂している。桜井田部連膽渟の話は、イヌ(膽渟)という名の人の飼犬が、捕鳥部万の犬と同じような行動をとったという話である。付会的な話を加えてまでして犬の話が記されているのは、一連の話の焦点(笑点)が、古代における犬の観念を表すところにあったことを示唆する。捕鳥部において犬とは、狩猟において鳥を捕まえたときに活躍する猟犬のことをいうのであろう。
 捕鳥部万が「逆心」を抱いていると認める根拠は、「有真香邑ありまがむら」という場所柄に由縁していると考えられる(注2)。アリマガといえば、マガ(禍)が有ると聞こえる。曲がった心があると知れるのである。だから、有真香邑まで来ているのに、「婦宅」に帰らないで通り過ぎて山に隠れ入っている。書きぶりに怪しさが漂っている。おそらく、「婦宅」に入って隠れていたなら、他の残党同様、お咎めなしで済んだであろう。捕鳥部万の話の前に、物部守屋に従っていた者たちの処世が記されている。

 ここ迹見首とみのおびと赤檮いちひ有りて、大連をもと射墮いおとして、大連あはせて其の子等をころす。是に由りて、大連のいくさ忽然たちまちおのづから敗れぬ。軍こぞりてことごとく皁衣くろきぬて、広瀬の勾原まがりのはら馳猟かりするまねしてあかれぬ。是のえだちに、大連の児息眷属やからと、或いは葦原に逃げ匿れてかばねを改め名を換ふる者有り。或いは逃げせてにけむ所を知らざる者有り。

 大連側の残党が掃討されずに済んだ理由について、「合軍悉被皁衣」と説明されている。「勾原」はマガリノハラであり、「馳猟」はカリスルマネスと訓んでいる。本当に狩猟を行っているのではなく、行っているふりをしてごまかしている。「皁衣くろきぬ」を着ている理由については後述するが、身分を偽るための偽装であることに違いない。どうして狩りをする真似をしなければならなかったか。物部守屋軍として参戦したときに、みな弓を持って武装していたからであろう。なぜ弓を持っているのかと蘇我馬子側の兵士に咎められたとしても、いや、ちょっと狩りに出かけていたところだと言い訳ができる。だから、そんな真っ直ぐでない言い分が行われる場所は、ナホ(直)でないところ、つまり、マガリ(勾)のところということになる。ヒロセ(広瀬)にマガリノハラ(勾原)という地名があったからそういう設定にし、話をわかりやすく拵えている。仕えていた物部守屋のところから「まかる」ことになるから「まがり」の地なのかもしれない。
 皁衣を着ていたというのも、それがふだんとは異なる着衣であったとの謂いに違いない。平常着のことは、「直衣なほし」という。間違いや曲がったことを正しくすることは、「なほし」である。同じ音の言葉は概念範疇として同じ意味を表す。それがすべてにおいて当てはまるかどうかはわからないが、無文字文化のなかにあって、言霊信仰の下に暮らしていた人々にとっては、つとめてそうなるように指向して行っていたものと考えられる。当時の人が言葉を理解するに当たって、納得の行くようにわかりやすくなっている。なるほどと思われる言葉遣いをすることは、口承伝達において定着度が格段に高くなる。それがすなわち、言霊信仰そのものに当たる(注3)
 したがって、万の話の舞台もアリマガムラに設定されている。そのアリマガムラを、万は通過してしまった。アリマガムラの婦宅で武装解除してしまえば良かったのに、捕鳥部万は直情であった。職掌柄、鳥を捕まえに山に入ったらしい。そのため、逆心があると見なされて指名手配されるに至った。
 今日、一般的な訓に、「資人」をツカヒビトとしている。書陵部本に「資人ツカヒト」(宮内庁書陵部画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430006/4b1ef89e5dfc44d4b969f2370767674c(10/52))とある。持統紀十年十月条にも、「資人ツカヒト」(北野本、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1142426/39)とあり、ツカヒトが正しいと考える。ツカフという語には、下二段動詞「仕ふ」と四段動詞の「使ふ」がある。使役する立場からいう「使ふ」に対して、使役され、奉仕する者の立場からいうのが「仕ふ」である。中古の用例には、ツカヒビト、ツカヘビトの二様が見られる。また、使者のことはツカヒと言っている。「資人」という字面の呼称は、軍防令に見られる。

 凡そ帳内ちやうないには、六位以下いげの子及び庶人を取りて為よ。其れ資人しにんには、内八位以上の子を取ること得じ。唯し職分しきぶんに充てむはゆるせ。……

 帳内は親王、内親王に与えられる従者、資人は五位以上、また大臣、大納言の職にある者に与えられる従者である。令は、官人に使用人を付与することを定めている。身辺護衛のために武装する「授刀資人」、「帯刀資人」、「帯杖資人」という称号の者も与えられた。ここで紀に「資人」と令制の用語で記している。物部守屋の単なる近侍者の意味で使われていると解されているが、わざわざそう表記するにはそれなりの理由があると考える。万が窮地に陥った時、「可共語者来」と呼びかけ、「為天皇之楯」と主張している。「天皇之楯」と言うことができるのは、物部守屋が個人的に雇った使用人ではなく、物部守屋が天皇から賜って近侍させている使用人であることを言いたいからである。崇峻前紀のこの記事では、天皇が誰なのかはまだ正式には決まっていない段階であるが、それが誰になろうと、その天皇の楯になって働く所存であると表明しているのである。その意を汲み取らないと、何のために「資人」という漢語をもって記しているのか意味不明になってしまう(注4)
 そして、わざわざツカヒトと訓むのにも理由があるのであろう。ツカ(冢)+ヒト(人)と関係がありそうだとわかる。「古冢」部分に古訓は見えない(注5)。フルハカと訓まれているが、フルツカであろうと考える。葬る観点からハカといい、建造物的観点からツカというとされる。古くから葬られたところという意味であろう。大きく築かれた塚に持って行って追葬、合葬しようとしているとしたほうがわかりやすい。
 そんなツカヒトというに値するものが、実際に遺物として知られている。それは犬面人身をしている。伴信友・比古婆衣に解説されている。
犬石(注6)(伴信友・比古婆江、国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200020137/(107/209)をトリミング接合)
 ……その隼人の狗人となりて仕奉りし状のおもひやらるゝ証あるをこゝにいはむとす。其は大和国添上郡奈保山の元明天皇の陵〈土人王塚といへり〉今そのわたりの字を大奈閉山といふ。其陵辺に建てたる犬石と呼ぶもの三基あり。みな自然なる石の面を平らげて狗頭の人形を陰穿ヱリたる頭は狗の仮面なるべし。身中みな貫き装束て狗の状を表せりと見ゆ。もとは朱をさしたりと見えてところところに剥げ遺れりとぞ。其狗人一枚は立像にて楚とおぼしきものを杖けり上に北字あり。二枚は踞像なり此も手のさま楚を持たらむとは見ゆれど慥ならず。石の長立像なるとは短し。……按ふにこはそのかみ朝廷の大儀に隼人の狗吠して奉仕るときには狗の仮面を被る例なりけるからやがて其像を石に摸して陵域に殉置しめ給へるものなるべし、……そは隼人の宮墻を衛れる意にて陵の四方四隅に建られたりしものにぞあるべき。……此犬石も[元明天皇の]遺勅によりて立られたりしものなるべし。されば此犬石の像を見てそのかみ隼人の狗人となりて仕奉りし姿をおもひやるべし。(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991315/31~32、漢字の旧字体、句読点は適宜補訂した)

 物部守屋の「児息」や「眷属」であってさえも、姓を改め名を換えてお構いなしである。ここに、時の人の言葉が紹介されている。

 時の人、あひかたりて曰はく、「蘇我そがの大臣おほおみの妻は、是れ物部守屋大連のいろもなり。大臣、みだりに妻のはかりことを用ゐて大連を殺せり」といふ。

 蘇我馬子大臣の妻は物部守屋大連の妹であったから簡単に滅ぼすことができたのだと言っている。それは裏を返せば、物部守屋につき従っていた人たちは、何のことはない、そのまま蘇我馬子に寝返ることが許されるということである。奉公先を兄から妹へチェンジしたとすればそれで良しとされる。結果、大連の家来、奉公人、田畑、家屋敷は、そっくりそのまま大臣のものとなった。そのうちの半分を四天王寺領としたと記されている。
 だから、捕鳥部万も、名を換えてそのの家宅に潜んでいれば何の問題もなかった。物部守屋から、その妹で蘇我馬子の妻になった人へと奉公先を代えたと示すに足る表明となるからである。パラレルな関係をもって証にできる。しかし、もともと叛意があるわけではなかったのに、下手に山に隠れたから疑いをかけられてしまった。疲れて山から出てきたとき、一斉に兵士に囲まれている。びっくりして側の「篁藂たかぶる」に逃げ込んで隠れつつ竹に縄をつけ、自分は少し離れて縄を引いて揺すったから、兵士はそちらの方にいるものだと思って向かっている。そこで、その凱声のあがるほうへ矢を射て命中させた。たかぶる声が「篁藂たかぶる」からあがっている。
 上に犬石を提示してにおわせたが、古代において、朝廷で人があたかも犬のような役割を果たした者に隼人はやひとがいる。後に養老令や延喜式にみられる隼人の任務としては、①朝廷における儀式への参加、②吠声を発すること、③竹器の製作にあたること、の3つに大別される(注7)。関連する神代紀の記事や、令、延喜式の条項については、本稿の末尾に列挙した。このうちの③の竹器製作が、「篁藂」を引き動かす技の発露として象徴されている。実際、竹を編む作業を目にすると、うまい人ほど手際よく長いヒゴを右に左に巧みに操って編んでいく。伸びた先の竹が動くところに編み手の手があるのではない。手元で操っているのである。それと同様の真似を捕鳥部万がしている。篁藂のなかで惑わすために竹を操っている。
 延喜式・隼人司条には、ほかに油絹の製作がある。これまで論じられたことはないが、ハヤヒト(隼人)という名のために行われていると考える。ハヤの同音に、甲矢はやがある。伊勢貞丈・貞丈雑記に次のようにある。

一、矢に内向ウチムキと云は、矢を弓につがひて、羽表ハヲモテ我身の方へむきたるを云。外向トムキと云は、羽表我がむかふの方外へ向たる也。内向・外向と云事、的矢に云事也。一手なる故也。外向をば甲矢ハヤに射る也。内向をば乙矢オトヤに射る也。外向は陽也。内向は陰也。陽の矢を先にして、陰の矢を後にする志也。〈内向・外向は、的矢など一手ある矢の事也。内向の事を前向ともいふ。狩詞記に見。〉」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200020574/658)、漢字の旧字体、仮名遣い、句読点は適宜改めた)

 矢の羽に鳥の羽を使う。甲矢はやに使う矢は、外向の矢で、羽表が向いている。鳥の羽は水をはじく(注8)。そんな水をはじくものがあったらいいのにと思う。紙に柿渋を塗り、その上から油を塗れば水をはじく。油紙である。絹の場合、裏をつけるのかとも思うが、「青油笠あをきあぶらぎぬのかさ」(斉明紀元年五月)とあるのが早い例である。雨衣にするのに油絹を用いることは尤もなことである。延喜式・隼人司、「諸司の年料の供進」条にあるのは、竹器の製作と、この水をはじく性格とから演繹された役割と言える。集解に「問。竹笠為何用。答。不見者。私不文。」とあるのは、令に規定がないのに式に定められている理由が、頓智のきかない先生にはわからなかったからである。そして、甲矢に使う矢羽のことを論うことは、隼人の吠声の役割に帰結して正しいとわかる。貞丈雑記には次のようにもある。

一、矢さけびと云は、矢を射て物にあたりたる時に、我首を弓手へなして、あうと声を高くさけぶ事也。すなわち前に記したる矢答の事也。平家物語に頼政がぬえといふ化鳥ケチヤウを射たる事をいひたる条に、えたりやをうと矢さけびしてとあり。又夫木抄に信実の歌、〽道多きなす那須みかり御狩の矢さけびにのがれぬ鹿の声ぞ聞ゆる、と見えたり。狩の時には、顔をあをのけて、ああ〈おゝトアル本モアリ。声似タリ。〉と長くいふ也。……犬追物其外には、頭を左へむきて、あうといふ也。此矢さけびの事、異説多けれども証拠なき偽多し。用がたし。平家物語、夫木抄、狩詞記を以て証とすべし。矢さけびとも矢ごたえとも云なり。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200020574/655、漢字の旧字体、仮名遣い、句読点は適宜改めた)

 矢を射て声をあげたくなる心境は誰しも理解できるであろう。鳥を狩りするときなど、鳥に覚られないように静かに、緊張感をもって行動している。そして射当てて獲れたら、声をあげて誇りたくなる。さらに一斉に犬が吠えて駆けつける。それが②の吠声である。崇峻前紀の話は捕鳥部万のことを語っていた。弓の使い手であった。何人もの衛士を射当てている。「伏地而号」している。隼人的性格が縷述されている。
 竹籠製作の叙述は神代紀に見える(注9)

 老翁をぢ即ちふくろの中の玄櫛くろくしを取りてつちに投げしかば、五百箇いほつ竹林たかはら化成りぬ。因りて其の竹を取りて、大目麁籠おほまあらこを作りて、火火出見尊ほほでみのみことの中にれまつりて、海にる。一に云はく、無目堅間まなしかたまを以て浮木うけきつくりて、細縄を以て火火出見尊をけまつりて沈む。所謂堅間は、是、今の竹の籠なりといふ。(神代紀第十段一書第一)

 この記事から、籠が竹製であることが読み取れる。そして、材料は「竹林」から採取しているとわかる。また、竹は植えられたものであるとも理解できる。「竹林」の記事は第九段にも見える。

 時に竹刀あをひえを以て、其の児のほそのをを截る。其の棄てし竹刀、終に竹林たかはらに成る。故、彼のところを号けて竹屋たかやと曰ふ。(神代紀第九段一書第三)
 Taqebayaxi・ タケバヤシ(竹林) 竹やぶ、あるいは、竹の叢林。(日葡辞書612頁)

 「林」字は、ハヤシと定訓である。白川1995.に、「はやし〔林〕 樹木の生い茂っているところ。「やす」の名詞形。「生やす」は他動詞形であるが、自然にまかせて繁茂したところの意であろう。」(630頁)とするが、上代の人々にとって、他動詞は他動詞なのではないか。すなわち、自然林のことではなく、人工林を意味していると直感されたかと考える。和名抄に、「林 説文に云はく、平地にるる木有るを林〈力尋反、和名は波夜之はやし〉と曰ふといふ。」とある。万葉集にも次のような例が見える。

 梅の花 散らまく惜しみ 我が園の 竹の林に 鴬鳴くも(万824)
 御苑生みそのふの 竹の林に 鴬は しば鳴きにしを 雪は降りつつ(万4286)

 竹を植えたから竹林ができている。和名抄に、「篁 孫愐に曰はく、篁〈音は皇、太加无良たかむら、俗に多可波良たかはらと云ふ〉は竹のあつまるなりといふ。」とある。崇峻前紀の用例のタカブルはタカムラに同じで、またタカハラとも言う。そして、それはタカバヤシ、タケバヤシの意である。竹を生やしておいたところに竹が群れをなしているという意味である。
 つまり、だから、ハヤヒト(隼人)という人は、竹をつかさどらなければならないのである。そしてまた、ハヤスという動詞は、賞、囃、といった字を当てる。お囃子をつかさどって、隼人は「俳優わざをき俳人わざひと」となる。その役を担うために、①朝廷における儀式への参加が求められる。言葉に従ってなすべき行動が決められている。
 神代紀第十段一書第二に、「是を以て、火酢芹命ほのすせりのみこと苗裔のち、諸の隼人等、今に至るまでに天皇の宮墻みかきもとを離れずして、よよに吠ゆるいぬして奉事つかへまつる者なり。」とある。それが隼人の吠声の淵源とされている。隼人が犬の吠えるに同じように吠声をたて、儀式を行ったり、行幸の際の合図、ないしは辟邪を司ったとされている。崇峻前紀は、捕鳥部万が犬のように地に伏し、ヨバフことをしている。ヨバフは、ヨブ(喚)に反復、継続の動詞語尾フのついた形である。その際、聞かせるべき相手は必ずいる。くり返し大きな声をあげて相手に向って注意を向けさせようとしていたり、見えないけれど必ずいるはずの答えてくれるべき相手を探している。連用形名詞は求婚することを言う。人が結ばれるためには、言い寄り続けることが求められていたと語学的に知れる。
 ここに、犬の吠え声とは、ワンワン(bow-wow)という鳴き声のことではなく、ウォー(howl)と長く鳴く遠吠えのことであるとわかる(注10)。イヌの遠吠えは、オオカミの遠吠えの記憶を今日に伝え残すものとして知られている。だから、捕鳥部万が一人「号」する時、「可共語者来」と呼びかけていて、呼応を求めている(注11)。そして、「為天皇之楯」と主張している。隼人が使っていた楯については、延喜式・隼人司条に記載されているとおりの遺物が平城宮跡から出土している。楯の文様については、服属儀礼における楯伏舞との関連を見る説が唱えられている(注12)。ここで筆者は、楯のデザインの話ではなく、隼人が果たした犬という存在の観念について考えている。今日でも都会の路傍で日常的に、犬が主人の楯となって主人を守る姿を観察することができる。ペット化が進んでいてよその人にもじゃれつくかに見えるが、猟犬の記憶、さらにはオオカミの記憶としては、主人以外の人に対して敵対行動をとり、飼犬が楯となって守る場合もある。
 つまり、犬とは楯である。その際、誰をご主人様と思うかによって拒絶する相手が変わってくる。延喜式・隼人司条において、「凡そ元日・即位及び蕃客朝等の儀は、……」、「凡そ践祚大嘗の日、……」、「凡そ遠従の駕行には、……」、「凡そ行幸の宿を経むには、……」などとある各条は、すべて天皇を主人として隼人が振る舞うために定められた条項である。だから、「万為天皇之楯」と言っているのである(注13)。隼人石、別名、犬石が墓の周囲に置いてあるのは、墓に葬られた人物を守るためと考えたからである(注14)
 捕鳥部万は、どうして自分を天皇は飼ってくれないのか、求めてくれないのか、そうしないで、却って賊として攻め立ててきわまるようにするのかと嘆いている。そして、殺すことと生け捕りにすることの区別について聞きたいと言っている。自分のことを殺すのか、生けどりにするのかという分岐点を論うに当たり、捕鳥部に飼われている猟犬の発想をしている。狩猟で鳥を捕まえるとき、どういうときに息の根を止めていいか、どういうときに殺さずにゆるくくわえたらいいか、教えてくれと言っている。シカやイノシシなどの獣の場合、殺して構わないであろう。しかし、鳥の場合、必ずしもそうはいかない。キジやツルなどでは殺してもいいが、一部殺さずに飼育する鳥がいる。ハクチョウは「鳥養部とりかひべ」(垂仁二十三年十一月、雄略紀十一年十月、「鳥甘部とりかひべ」(垂仁記)が飼って増やし、愛玩にしたか食べたようである。そして、鷹狩の場合、鷹や隼が獲物を捕まえたとき、猟犬は捕まえた獲物のほうは殺すが、鷹や隼に危害を与えることは決してないように調教されている。「捕鳥部」の犬はそれを弁えている。「数百衛士」もよく考えてみるがいい。この捕鳥部万さまを生かしておけば、「天皇之楯」として十二分に役に立つぞ、その区別が貴様らにわかるか、と舌鋒鋭く啖呵を切っている。
鷹と犬(高階隆兼筆、春日権現験記絵、鎌倉時代、延慶2年(1309)頃、宮内庁ホームページhttp://www.kunaicho.go.jp/culture/sannomaru/syuzou-07.html)
 この事態を収束される術は、凡庸な朝廷有司側には万を黙らせるしかなかった。楯になるといいながら、弓矢を使って命中させてきている。そして今、ワキダメという言葉を使っている。ワキ(腋、脇)+ダメと聞える。つい先ほど万は逃げる時、弓を張っていては邪魔になるからと、「弛弓挟腋」していた。腋にいっぱいに溜めておいたり、腋で弓を引きしぼっていたりするという意味にとれる。物騒な相手である。詭弁を使うソクラテスには死んでもらうより他はない。どこまでも曲がった心を持っていると受け取ったのである。衛士たちは遮二無二、捕鳥部万を射殺そうとした。対して捕鳥部万は奮戦して三十余人を殺した。そして、持っていた剣で弓を三つに寸断した。剣は曲げて使えないようにして川に投げ込み、別の小刀で自頸して果てている。その行為は、軍国主義の精神にかなって勇猛と称えられたこともあった。口論の勝負において負けるが勝ちであることを知らなかった直情な捕鳥部万の失策話である。
 書陵部本の「擬」字の傍訓に、サシマカナヒとある。名義抄の「擬」字の訓に、アテマウケテ、アテハカルという例が見える。つまり、「一衛士」の弓の使い方は、捕鳥部万の走りに合わせるように、前方の空白地帯に照準を合わせて矢を放つやり方である。それを「擬」と書いている。ほかに、アツラフ、ナゾラフ、ハカラフ、マネギルなどとも訓む字である。推し量っておいて期するようになるようにすることを言っている。大系本日本書紀に、「弓に矢をつがえて。サシは目指すこと。マカナフは、目的遂行のために設け扱う意。」(73頁)とあるが、正確さにおいて少し欠けた説明である。新撰字鏡に、「擬 ……魚理・居據二反、依る也。設けて况ふる也。宛て当つる也。向ふ也。度る也。比ぶ也。……万加奈不まかなふ」とある。説文に、「擬 はかる也。手に从ひ疑声」とあって、白川1995.に、「ことを定めかねて、思い度る意である。……どのようにしようかと思案する形であるから、思案しながら行動することを擬という。弓の的を定めるときの行為が、あたかもそれに当たる。」(689頁)とする。これも少々正確さを欠いている。サシマカナフという訓は、ほかに1例見える。

 能く射る人、筑紫国造つくしのくにのみやつこといふもの有り。進みて弓をき、占擬さしまかなひて新羅の騎卒うまいくさもとも勇みほこれるひとを射落す。はなきこと、乗れる鞍の前後橋まへつくらぼねしりつくらぼねいとほして、其の被甲よろひ領会くびに及ぶ。(欽明紀十五年十二月)

 「占擬」と記している。当てるべき騎卒は馬を駆って自在に動いている。その馬の動きの先を「占」いながら矢を飛ばしている。届くときまでの時間差を考慮に入れて、相手がどのへんに移動しているかを「度」っているのである。矢の描く放物線に風の流れを併せつつ、騎卒の移動予想を兼ね考えて発射している。的が定まっているのではなく、クレー射撃のように的が動いていることを含めて考えた言葉、それがサシマカナフである。そのような弓の使い方は、矢場の射芸ではなく、基本的に狩猟の際のものである。捕鳥部に対して、自分が先んじて走って行って足を止め、鳥を捕る時のような弓の使い方をしたのが「一衛士」であった。
 河内国司は、「牒」を立てて申し上げている。令制で諸司に書面で奏すときのやり方である。対して朝廷は、「符」を作り下して命令している。書面に書いた内容が改竄されないように、印を押している。押してあるからオシテフミである。押手の意で、昔は手を押したからとされている。取引の際に手形があり、事を起こすときには血判状というのもある。昔からそういうことをしている。当然、このやりとりは後の時代に修文されたもので、崇峻朝に行われていたとは考えられていない。そのとおりであるが、なぜこのやり方をわざわざここに記す必要があったのか、それが問題である。

 ……官印つかさのおしてを押して天下あめのした諸国くにぐにふみあかちて告げ知らしめ、……(官印乎押天天下乃諸国仁書乎散天告知之米)(続紀、淳仁天皇、天平宝字八年九月、28詔)

 すべては犬の話に仕立てられている。オシテフミ(符)の押手とは、人の手形、手のひらの形に押してある文書のことである(注15)。それをどうしても言いたかったからであろう。犬の手にはうまい具合に肉球があって、人の手のように五本指の手形とよく対照しうるものである。つまり、犬に「お手」をさせるものが、オシテフミ(符)という次第である。印肉のつくところが肉球に相当するということである。捕鳥部万がけっして「お手」をすることがなかったことを余韻として伝えている。
左:犬のオシテフミ(符)(サムティCM「あなたのそばに」篇https://www.youtube.com/watch?v=XlaTFTnW5r4(0:12/0:30))、右:印(右:法隆寺印、飛鳥時代、7世紀、左:鵤寺倉印、平安時代、9~10世紀。いずれも銅製鋳造、法隆寺献納宝物、東博展示品)
 だから、話を展開させるのに、ここにわざわざ「符」といった小道具を仕立てている。そしてまた、命令として、「斬之八段、散-梟八国」としている。「八」は八百万やほよろづというように数の多いことを表す。処罰する相手の名は「万」である。「万」をずたずたに斬って串に刺して曝せと言っている。そしてまた、死に際に弓を「みきだ」に截断していた。それと同じことをして、それを超えて相手にダメージを与えるように斬り刻みたい。「三」には「三」をもって、目には目を言わせてくれようと思っている。紙に書いたものをたくさんの数に分けるとするなら、目に見える形で示すために、その紙自体を切り刻むとわかりやすい。何しろ、ほとんどの人は文字が読めない。数多いことを示す数である「八」段にずたずたにするには、紙を半分になるように三回折り、それを折り目ごとに重ねた形で三回切ると、全部で八枚の紙片に分かつことができる。紙を折ることを想定しているのは、捕鳥部万が剣を「おしまげる」ことをしていたからである。剣を曲げるなどもってのほかのまがことである。目には目をもって対処して、まがことを脱してなほき世の中を取り戻したい。よって、朝廷は刀子のあるべき姿として、汚れた血を紙で拭うようにまっすぐに切り分けるとともに、万の体を八つに斬り分けて八国に分配させて梟刑に処している。相手は捕鳥部にしてタケル(「八十梟帥やそたける」(神武前紀戊午年九月)、「熊襲梟帥くまそたける」(景行紀十二年十二月)的存在だったのだから、梟刑がふさわしいというのが一つの理由である。
 第二に、クシザシ(捶籤)に対してはクシザシ(梟)が正しい対処法であると捉えられたものと考えられる。

 故、素戔嗚尊すさのをのみことねたみてなねのみことみたやぶる。春は廃渠槽ひはがち、及び埋溝みぞうめ毀畔あはなち、又重播種子しきまきす。秋は捶籤くしざしし、馬伏うまふせす。凡て此の悪しきわざかつむ時無し。(神代紀第七段一書第三)

 「捶籤」は串を刺して田の所有権を主張することである。他人の土地に串を刺して自分の土地だと言い張ろうとしている。犬がいるということは、それだけで他人を寄せ付けないことになる。噛まれると嫌だし、吠えられると怖くなって近寄れない。他人の土地に犬が入ってきて居座られたらたまらない。茅渟県は天皇直轄地であったから、そこに捕鳥部万が犬として足跡をつけていくことは、押手をして点札をしるしているようなものであり、かつ、犬に踏み込まれてしまい、自分の土地なのに怖くて入れなくなることなど許されるものではないと思ったのだろう。目には目をの対処法として、梟刑にしようとしたということである。
 「梟」字は、和名抄に、「梟 説文に云はく、梟〈古尭反、布久呂布ふくろふ、弁色立成に佐計さけと云ふ。父母を食ふ不孝の鳥なり。爾雅注に、鴟梟は大小を八別する名なりと云ふ〉は鴟といふ。」、説文に、「梟 不孝鳥也。日至に梟を捕りて之れを磔す。鳥に从ひ頭は木の上に在り」とある。串刺しにしてさらし首の磔にすべき鳥がフクロウだから、この字が用いられている。フクロウの特徴に、夜行性で首が270度回り、音もなく飛んでネズミを捕まえ、また、顔盤と称されるように顔がお面のようになっていて、集音効果があるとされている。ヤマトコトバにフクロフといっている意味は不明である。羽毛でまるまると膨らんでいて、敵が現れた時などさらに膨らませたり、逆に細く見せることもある。特にこの記事で「梟」をフクロフと訓むわけではないものの、お面をつけたようになっている点は隼人石のようであるし、後文のムクロという語と音が似ていて、執筆者が苦労して用字を選んだものと考えられる。
 話では次に犬の件が語られている。「万養白犬」と「桜井田部連膽渟所養之犬」の話が並んでいる(注16)。捕鳥部万が飼っていた犬が白い理由については、瑞祥を示すものか、身の潔白を示す表象とされているとも推測される。白い犬の記事としては、紀に次のようなものが見える。

 時に白きいぬ、自づからまうきて、みこを導きまつるかたち有り。狗に随ひてでまして、美濃に出づることを得つ。(景行紀四十年是歳)
 時に、火炎ほのほの中より白き狗、あからしまに出でて、大樹臣おほきのおみふ。其の大きさ、馬の如し。大樹臣、神色変たましひおもへりほのかはらずして、刀を抜きてりつ。即ち文石あやしの小麻呂をまろ化為りぬ。(雄略紀十三年八月)

 紀の執筆者は、もっぱらイヌという音を意識している。その「万養白犬」は、「横臥枕側、飢-死於前」ことになっている。横さまに臥すことは寝る体勢をとることで、その頭の前で死んでいる。寝ることは「ぬ」(下二段動詞)、死ぬことも「ぬ」(ナ変動詞)である。

 垣越しに 犬呼びこして 鳥狩とがりする君 青山の しげき山辺に 馬やすめ君(万1289)
 …… 世の中は かくのみならし 犬じもの 道に臥してや 命過ぎなむ(万886)
 大原の 古りにし郷に 妹を置きて 我れねかねつ いめに見えこそ(万2587)
 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寐宿ねにけらしも(万1511)
 …… 隠沼こもりぬの したへ置きて うち嘆き 妹がぬれば ……(万1809)
 後れ居て 吾はや恋ひむ 稲見野いなみのの 秋萩見つつ なむ子ゆゑに(万1772)
 明日よりは 印南いなみの川の 出でてなば 留まる吾は 恋ひつつやあらむ(万3198)
 まことまさに遠く根国ねのくにね。(神代紀第五段本文)

 死ぬことは、姿が見えなくなることだから、婉曲的に死ぬことをイヌ(去・往)(万1809)と言っている。人は死ぬとき、横になって眠るような姿態をとる。だから、イヌという言葉が両方の意味を表すことは、実はとてもわかりやすい。動詞イヌ(寝・去・往)を名詞のイヌ(犬)が体現している。さらに桜井田部連膽渟の例では、主人を墓に葬らせることに成功した犬は、「乃起行之」となっていて、行き去ってしまっている。イヌ(去)ことをしている。まるで、辞書の用例として載っている一連の例文をもって一つの話にまとめられたかのようである。語学的にとても丁寧な解説である。ヤマトコトバは、ヤマトコトバをもってして、言葉を了解的に循環説明し、納得の域に達せしめている。わかりやすくておもしろくてためになる。そんな話(咄・噺・譚)が披露されている。ここに至って、何のためにこの話が記載されているかといった問いは、もはやナンセンスにして愚問であったとわかる。この件はいわば辞書であり、辞書的説明が説話の形を整えて記載されている。当時の人がこの話を聞いて知ったであろうことは、イヌ(犬・寝・往)という言葉の本意であった。
 餌香川原の話でムクロについて述べられている。「頭身」、「身」、「身頭」と書いていずれもムクロと訓んでいる。ムクロという語は、ム(身)+カラ(幹)の母音交替形とされている。身の胴体の部分、また後代に、首のないものや死骸のことを指すという。「被斬人」の「頭身既爛」とあるとき、頭と身(胴体)はかろうじてつながっているものと思われる。「但以衣色、収-取身者」のとき、遺骸に手をつけてしまうから、またたく間に首根っこのところで身と頭は外れてしまう。それでも衣の色でこのご遺体はどなたのものであるかと特定し、胴体部分と頭部とをいっしょに棺に収めたと書いてある。すなわち、きちんと人として葬っていると知れる。「身者」の「者」字は、助字ではなくてヒトの意であると考えられる(注17)
 逆に言うなら、人が誰であるかは、顔によって判別されるということである。顔こそが人である。隼人石(犬石)が犬面人身であったこととは対照的である。隼人とは人ではなく犬であり、顔を持たない存在であった。そのような捕鳥部万を処するためには、奇妙なお面をつけたようなフクロウ的刑罰こそがふさわしいと知れる。それが梟刑にしようとした第三の理由であった。そしてまた、「万養白犬」の神妙な忠犬ぶりに、「哀不忍聴いとほしが」ることになっている。犬は飼い従わせる家畜でありながら、心情的に人間に近い友として立ち現れる。つまり、犬とは、人間にとってアンビバレントなものであり、そのことをここに認めている。人間とは、このようなアンビバレントな感情に左右され続ける特異な存在なのだと認識させられている。捕鳥部万奮戦記は、人間の精神性の深さを物語る傑作であった。

(注)
(注1)上代文学では、松下1979.多田1988.神野志1992.に推論がある。ほかに、仏教史の立場から石井2015.がある。

 崇峻……即位前紀は、仏法受容をきっかけとする蘇我馬子と物部守屋の対立、および戦いの場面が含まれていることもあってか、仏教漢文の用法が目立つ。
  万衣裳弊垢、形色憔悴、持弓帯剣、独自出来。有司遣数百衛士囲万。々即驚匿篁叢。以縄繋竹、引動令他惑己所入。衛士等被詐、指揺竹馳言、万在此。万即発箭、一無不中。……
 このうち、「衣裳弊垢、形色憔悴」とある個所については、これまで指摘されていないが、『法華経』信解品の窮子の譬喩の部分に「爾時長者、将欲誘引其子、而設方便、密遣二人形色憔悴無威徳者、……(長者)即脱瓔珞細軟上服厳飾之具、更著麁弊垢膩之衣」……とあるように、長者が貧しい生活になじんでしまった息子に近づくために、「形色憔悴」した二人を派遣し、さらに自らも豪華な服装を脱ぎ捨てて「弊垢膩之衣」を着たという個所に基づいている。
 「指揺竹(揺れる竹を指して)」のうち、「指」を「~に向かって」の意で用いるのは誤用であることは、森が指摘している。また、「一無不中(一つとして中らざる無し)」は、「無一不中」の誤りだ。
 すなわち、この戦闘場面を書いたのは、『法華経』を暗唱し、仏教漢文になじんでいる人物、しかも初歩的な誤りを含む漢文しか書けない人物ということになる。この戦闘の後に建立された飛鳥寺や四天王寺の縁起であれば、戦いにおいて守屋を倒したことを述べれば十分であり、捕鳥部万の戦闘についてこれほど詳細に描く必要はないため、戦記のようなものが寺などで語られていた可能性もある。(209~210頁)

 法華経・信解品から引いたのではないかとする見解は、早く江戸時代、河村秀根・書紀集解に見える(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1157934/1/12)。いわゆる出典研究では、書くに当たって横に書籍を置いて表現を潤色するのに役立てたと思われるものを出典として扱っている。日本書紀と少し似ているからといっても引き写したとはせず、すなわち、記憶によって書いたとみられるものは「出典」からは除外して考えることとなっている。結果、日本書紀の出典として「仏典関係に於て確実なものは……金光明最勝王経であると云ふべきである。」(小島1962.374頁、漢字の旧字体は改めた)とされている。
 日本書紀をつらつら読めばわかるとおり、雑多なエピソードが入り混じって全体は話のオムニバスのようになっている。日本書紀を〝正史〟であると頭ごなしに捉えては実態に即さない。当時の人の思考の枠組のうちにあって話(咄・噺・譚)として成り立っていることが書き残されている。捕鳥部万の話は「書いた・・・」時に創作されたわけではなく、捕鳥部万のコトについて伝えられていたから採録・書記されたのである。「戦記のようなものが寺などで語られていた」のを日本書紀執筆者がとり上げたのではなく、アネクドートとして捕鳥部万のコトが広く巷で話されていたからそれを書き留めた。無文字時代に互いに話されて伝えられたコトは限られていたであろうが、その一つとして、つまりは結構大事なこととして捕鳥部万のコトが位置づけられていた。その内容は何か、伝えたいコトは何か、真正面に探ったのが本稿である。列伝的奮戦記でも縁起的逸話でもなくて、人間とは何かの話であるのが本来であった。飛鳥時代に人間とは何かを考えるほど思想的にすぐれた人物が誰なのか、自ずと推測はつくであろう。
 現在、アカデミズムにおける論じられ方には、「仏教漢文になじんでいる人物、しかも初歩的な誤り・・を含む漢文しか書けない・・・人物」といった視点を有している。日本書紀に書き表そうとしたのは「日本語」である。「指」や「一無不中」と書いて「日本語」人に通じるのであれば、「鳰」という国字が「日本語」人の間でカイツブリのことだとわかり合えるのと同様に〝正しい〟「日本語」文である。当時の中国の俗語的な言い回しは仏教漢文と共通することもあり、書きぶりから得られる情報は書きぶり以上のものにならない。α社の書き方教本とβ社の書き方教本のどちらを使ったかというだけのこと、その作文に対して採点する姿勢で臨み、肝心の内容について問おうせずに何が得られようか。その理由はアカデミズム自身で内在している。
 日本書紀に書いてある字面と似ている字面を漢籍や仏典に求めることはAIに置き換えられるであろう。記紀万葉に書き残されていることは、実際に上代に使われていたプラクティカルな言葉であって、アカデミックなものではなかったに違いあるまい。現在、数百人になって閉塞している以上に学者の数が全国で一桁であった上代、学者にしかわからない言葉で歌や文章を書いてもどうなるものでもない。
(注2)後文の捕鳥部万が逃げて頼った茅渟県の邑について、通説では「有真香邑」をアリマカムラと訓んでいる。現在、貝塚市の阿理莫ありまか神社のあるところを古跡地とするが、延喜式・神名帳・和泉郡の「阿理莫神社」は「安幕」と作るものがあり、アリマと訓んでいる。桜井田部連膽渟の話の設定は、河内国の餌香川原ゑがのかはらである。犬の話をわざわざ二つ並立させて述べ立てているからには、「香」字はともに濁音で訓むべきであり、アリマガムラが正しいと考える。おそらく、アリマという地名が先にあり、それを、アリマ+ガ(助詞)+ムラ(邑)として話をこじつけたものであろう。特に根拠に基づいているわけではない地名をネタにして、話にまとめていると考える。地名という固有名詞は、人名という固有名詞同様、呼ばれることによってその名を獲得する。記紀万葉に地名が見られる場合、いわゆる〝語源〟とは相容れない性格を有することが多い。地名説話を繙けば、およそ馬鹿馬鹿しい話ばかり目にすることになる。
(注3)幸田露伴・音幻論ほか、音韻そのものに言葉の原義を探ろうとする試みがある。語源的発想に基づくものである。それとは逆に、言葉を発しているうちに、音の共通点から上代の人が何かを汲み取ろうとしていたという傾向の存在を指摘している。
(注4)山尾1968.、岸1975.に、万の「天皇の楯」発言を、蘇我馬子軍に参加していない用明天皇の太子、彦人皇子のことを「天皇」であると定め、万は彦人皇子に仕えていた、あるいは、彦人皇子は物部守屋の難波の宅に寄寓していたとする見方がある。しかし、彦人皇子を天皇と思って楯となると公言していたとするなら、崇峻紀にその名が記されるであろう。筆をなめなめ一文入魂した日本書紀筆録者に敬意を表したい。
(注5)紀中に「冢墓」(雄略紀九年五月)は古訓にハカとある。その個所は新墓地である。和名抄に、「墳墓 周礼注に云はく、墓〈莫故反、暮と同じ、豆賀つか〉は塚塋の地なりといふ。広雅に云はく、塚塋〈寵営の二音〉は葬地なりといふ。方言に云はく、墳〈扶云反〉、壟〈力腫反〉は並びに塚の名なりといふ。」とある。
(注6)現在、那富山墓内「隼人石」と呼称される。
(注7)中村1998.による。
(注8)尾脂腺から出る脂を塗っているが、電子顕微鏡レベルで観察すると羽の表側に微細に空気の層ができているから、表面張力で水滴になってはじかれているのだという。
(注9)小林1964.は、竹器の製作が隼人に結びつけられていることの不思議について考察している。竹籠に代表される竹器の製作は、少なくとも5世紀以前の日本において普及しており、隼人が独自の技術を持っていたわけではないことから、しいて考えるなら、特技のない隼人に竹細工が奨励されたのではないかと考えられ、それは延喜式の時代に形成されたのではなく、日本書紀編纂以前に発足していたのであろうと推論している。結局のところ、どうして結びついているのかよくわからないという。
(注10)拙稿「犬の遠吠え」参照。
(注11)通説に、「共に語るべきひときたれ。(可共語者来。)」と訓まれている。その意は、語り合うに値する者は出て来てくれということになる。そして、そんな相手に、殺すか生け捕りにするかの分別を聞きたいと言っていると解されている。筆者は、「共に語るひときたるべし。(可共語者来。)」と訓んだ。捕鳥部万は、生殺の区別を問い質したいと言っているのではない。まともに相対することをしないで、好き勝手な論理で魔女狩りのようなことをする姑息な相手、当たり前のことを弁えていない相手に対して、議論できる者があるなら堂々と出て来てみたらいい、と大見得を切っている。その台詞である。出て来いと言いつつ出て来られないだろうと言っているのであって、語ろうと手をあげる相手を求めているわけではない。
(注12)中村1998.。
(注13)大系本日本書紀、新編全集本日本書紀に、万4373番歌の「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つわれは」とあるのと同じ思想であるとするが、どういう思想なのかはっきりとは言明されていない。古代において、律令に明文化されて人々は一元的に天皇の支配に組み込まれている。しかし、それ以前からも、まへつきみたちつかさつかさおほみたからが「仕へ奉る」対象である御主人さまは天皇ばかりであった。そういった伝統を持たないで、いきなり中国から律令を取り入れて定めても広まることはない。普及、受容の可能性をもって、本邦なりに唐令を改めて作成、補訂している。
(注14)隼人石(犬石)に「北」などと方角を示す文字が刻まれている点について、中国の四神や十二支神と思想的な関係があるとも考えられている。
(注15)谷川士清・日本書紀通証に、「符称押手者ハ塗朱墨於手掌。押以為信。今所謂手印也。券契称手形、亦此遺名。……」(国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/img/4274264(10/46))とある。
(注16)「犬」にウヌという傍訓が付されることがあった。和名抄には、「犬〈犬子附〉 兼名苑に云はく、犬は一名に尨〈莫江反〉といふ。爾雅集注に云はく、㺃〈音は句、恵沼ゑぬ、又た犬と同じ〉は犬の子なりといふ。」ともある。後考を俟ちたい。
(注17)文末の助字に、「者」は「諸」に通用の助字で、「乎」や「焉」に同じ形容の辞、また、ヤ、カと訓む詠嘆、呼びかけの助字とされている。この個所で、漢籍から引いているのか詳らかでなく、不読とする理由も今のところわからない。飯田武郷・日本書紀通釈に、「収取其身者。これまて河内国の言上ならは。テヘリとも云へきなれと。〈古本にしか訓たり。〉なほ次の詞も一つゝきの詞なれは。者は叶はす。按に首字の誤にて。収取其身首。とありしものなるへくなほゆ」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920832/340、漢字の旧字体は改めた)とする見解もある。

(引用・参考文献)
石井2015. 石井公成「『日本書紀』における仏教漢文の表現と変格語法(上)」『駒澤大学仏教学部研究紀要』第73号、2015年3月。駒澤大学学術機関リポジトリhttp://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/34878/
岸1975. 岸雅裕「用明・崇峻期の政治過程」『日本史研究』第148号、1975年1月。
神野志1992. 神野志隆光『柿本人麻呂研究』塙書房、1992年。(「行路死人歌の周辺」『論集上代文学 第四冊』笠間書院、1973年。)
小島1962. 小島憲之『上代日本文学と中国文学 上─出典論を中心とする比較文学的考察─』塙書房、昭和37年。
小林1964. 小林行雄「隼人造籠考」『日本書紀研究 第一冊』塙書房、昭和39年。(『小林行雄考古学選集 第3巻』真陽社、2017年。)
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
多田1988. 多田一民「古代文学に見る「軍語り」─捕鳥部万の奮戦譚をめぐって─」『国文学 解釈と鑑賞』第53巻第13号、至文堂、1988年12月。
中村1998. 中村明蔵『古代隼人社会の構造と展開』岩田書院、1998年。
日葡辞書 土田忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
北條2000. 北條朝彦「元明天皇陵内陵碑・那富山墓内「隼人石」・桧隈墓内「猿石」の保存処理および調査報告」『書陵部紀要』第51号、平成12年3月、書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Publication/000/000005100000/fbcd731e0be44f9f91a67f144086b262(宮内庁書陵部陵墓課編『書陵部紀要所収 陵墓関係論文集ⅴ』学生社、2004年。)
松下1979. 松下宗彦「「捕鳥部万」考 下」『国文白百合』第10号、白百合女子大学、昭和54年。
山尾1968. 山尾幸久「大化改新論序説(上)」『思想』第529号、岩波書店、1968年7月。
ウィトゲンシュタイン2020. L・ウィトゲンシュタイン著、鬼界彰夫訳『哲学探究』講談社、2020年。

(English Summary)
We have "Tötöribe-nö-Yörödu story" at Emperor Susyun era in Nihon-Shoki. It tells us about what a dog(inu) for humans is. That is to say, it suggests what it means to be human.

※本稿は、2018年9月稿を2021年9月に整理、2023年5月に加筆したものである。インターネット公開デジタル資料は2023年5月1日に確認した。

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