古代の湯屋と盟神探湯
古い時代の風呂の実態についての資料は乏しい。西山2004.に、次のようにある。
現在では、ごく一般的に「湯につかる」ことと「風呂に入る」ことは同じ意味で用いられています。本来「風呂」は「蒸風呂」のことですから、かつては「湯につかる」ことと「風呂に入る」ことは全く違った入浴方法だったのです。また、肩までどっぷりと湯につかる入浴方法は近世になってからといわれていますから、それまでは沸かした湯を浴びるだけであり、それを「風呂」とは区別して「湯」といっていました。とはいうものの、「風呂」と「湯」は早くから混用されるようになっていたようです。このように、湯屋とは本来、湯を浴びる場をさしますが、古代の湯屋については建物が残っていませんから詳しくはわかっていません。しかし、いくつかの寺院に残されている『資材帳』に「温室」や「浴堂」などの湯屋を示す記載を見つけることができますから、建物規模やそこで用いられた湯釜などについて知ることができます。(24頁)
和名抄・伽藍具に、「浴室 内典に温室経有り。〈今案ふるに、温室は即ち浴室なり。俗に由夜と云ふ。〉」とある。巷間いわれるように、昔は入浴方法がサウナ形式に限られていたというわけではない。風呂という言葉が蒸し風呂を指し、湯という言葉が湯浴みを指しており、両者が早くから混同されていたとする説は妥当であろう。また、入浴一般を指す語として、西日本では風呂、東日本では湯と呼ぶのがふつうであったとする説や、フロという言葉がムロを語源とし、岩窟を意味するムロが訛ってフロとなり、風呂という字を当てたとの説もあるが当否は定めがたい。季節が良ければ水浴びもしていたろうし、水垢離もしていた。温泉地ではどっぷりと湯につかることもしていただろうし、水蒸気浴や岩盤浴風の熱気浴も条件が合えば行われていたことであろう。
斎戒沐浴にも湯を使った。建武年中行事・六月に、「とのもんれう、御ゆまいらす。御舟にとるなり。めす程にうめたり。そのゝちひの口より七たびまゐらす。」とある。延喜式・木工寮に、「沐槽 長さ三尺、広さ二尺一寸、深さ八寸。浴槽 長さ五尺二寸、広さ二尺五寸、深さ一尺七寸、厚さ二寸」とある。50㎝ほどの深さで湯浴みをしたらしい。死に装束を整える際にも湯を浴びせた。源平盛衰記・巻四十五に、「[重衡卿]「湯かけをせばや」と宣ひければ、[土肥次郎]近所より新しき桶・杓を尋ね出だし、水を上げて奉る。」などとある。
たくさんの薪を使って湯を沸かすのには経済的な制約がつきまとう。天武紀元年六月条に、「沐令」、「湯沐の米」とある。養老令・禄令に、「中宮の湯沐に二千戸」の食封とあってかなり多いとわかる。庶民には鉄の大釜を手に入れることもできない。高度経済成長期以前にはもらい湯も多く行われていた。ここで注目したいのは、どっぷりと湯に入る場合であれ、湯を浴びる場合であれ、五右衛門風呂形式以前のものに懸樋形式のものが確かに見られる点である。今日の給湯タイプ、追い炊きタイプは、いずれもボイラーで湯を沸かしている。浴槽と連絡はしていても別である。安全性や煙の遮断をとるか、熱効率をとるかによって形態に違いが出てくる。絵巻物や建築図面、遺構からその構造は垣間見られる。
左:湯屋(上から、慕帰絵々詞模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590849/28をトリミング、一遍聖絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591575/22をトリミング、是害房絵巻、南北朝時代、14世紀、泉屋博古館蔵、@SenOkuKyoto様https://twitter.com/sorori6/status/1324287421945540609)、中:上から、湯屋指図(上醍醐西風呂指図、国立歴史民俗博物館HP「中世寺院の姿とくらし―密教・禅僧・湯屋―」https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/old/021001/img/photo1.jpg)、湯屋遺構(財団法人向日市埋蔵文化財センター「長岡京跡右京第755・762次調査現地説明会資料 宝菩提院廃寺の湯屋遺構」2003年2月22日。http://pit.zero-city.com/houbodaiin/houbodaiin.htm)、右:排水路の施された湯室(川崎市立日本民家園、佐々木家住宅、長野県南佐久郡佐久穂町畑の名主の家、18世紀。浴びるだけのようである)
慕帰絵詞では、釜で湯を沸かして蒸気を建物内へ送り込んでいるように見え、蒸し風呂形式であったとされている。向かって左の釜は室内へ蒸気を送っている。広さが三帖ほどあろうかと思われる室を蒸気で満たしてサウナのように温めている。右の釜は浴びせ湯用と考えられているが、湯屋の中へ送る配管装置が描かれていない。どこで浴びたのか不明ながら、絵としては蒸気用と浴びせ湯用の二つが描かれいてよいことになっている。
一遍聖絵では、内部を窺うことはできないながら、排水が外へと流れ、庭の造りとして石橋を渡している。湯を浴びた証拠である。今昔物語・巻第二十八・池尾禅珍内供鼻語第二十に、「湯屋ニハ寺ノ僧共、湯不涌サヌ日无クシテ、浴喤ケレバ、〓(貝偏に充)ハヽシク見ユ。」とあり、贅沢なバスタイムぶりが描かれている。
是害房絵巻では、釜で沸かした湯を湯屋へ送る樋が描かれている。このような形態が古くからあったとすれば、この樋こそ、倭建命が渡ろうとして廻された〝水道〟に当たるものと考えられる。煮えたぎるほど熱いから、代わりに弟橘比売が入ろうというのである。もちろん、修辞的表現であり、今日的に言えばそれはなぞなぞに該当する。彼らの言語ゲーム(Sprachspiel)の深奥を知るには、上代の人が湯といかに対したか、そしてどのような観念を抱いていたか、もう少し広範に見る必要があるだろう。湯とどのように接していたかについては、長野県の地獄谷で天然温泉に入るニホンザルがいることからもわかるように、頓に文化的な問題である。
湯が熱すぎる場合、入浴以外にも用いられた。允恭天皇の時代に、盟神探湯をして氏姓を正したという記事が載る。
是に、天皇、天下の氏々名々の人等の氏姓の忤ひ過れるを愁へたまひて、味白檮の言八十禍津日前に、くか瓮を居ゑて、天下の八十友緒の氏姓を定め賜ひき。(允恭記)
四年の秋九月の辛巳の朔にして己丑に、詔して曰はく、「上古治むること、人民所を得て、姓名錯ふこと勿し。今朕、践祚りて、玆に四年、上下相争ひて、百姓安からず。或いは誤りて己が姓を失ふ。或いは故に高き氏を認む。其れ治むるに至らざることは、蓋し是に由りてなり。朕、不賢しと雖も、豈其の錯へるを正さざらむや。群臣、議り定めて奏せ」とのたまふ。群臣、皆言さく、「陛下、失を挙げ枉れるを正して、氏姓を定めたまはば、臣等、冒死へまつらむ」と奏すに、可されぬ。戊申に、詔して曰はく、「群卿百寮及び諸の国造等、皆各言さく、『或いは帝皇の裔、或いは異しくして天降れり』とまをす。然れども、三才顕れ分れしより以来、多に万歳を歴ぬ。是を以て、一の氏蕃息りて更に万姓と為れり。其の実を知り難し。故、諸の氏姓の人等、沐浴斎戒して、各盟神探湯せよ」とのたまふ。則ち味橿丘の辞禍戸𥑐に、探湯瓮を坐ゑて、諸人を引きて赴かしめて曰はく、「実を得むものは全からむ。偽らば必ず害れなむ」とのたまふ。盟神探湯、此には区訶陀智と云ふ。或いは泥を釜に納れて煮沸して、手を攘りて湯の泥を探る。或いは斧を火の色に焼きて、掌に置く。是に、諸人、各木綿手繦を著て、釜に赴きて探湯す。則ち実を得る者は自づからに全く、実を得ざる者は皆傷れぬ。是を以て、故に詐る者は、愕然ぢて、予め退きて進むこと無し。是より後、氏姓自づから定りて、更に詐る人無し。(允恭紀四年九月)
「盟神探湯」とは、熱湯(熱泥、熱斧)に手を入れたり当てたりして爛れたら嘘をついている、火傷しなかったら本当のことを言っている、という嘘発見器の役割を担っている(注1)。これも湯との関わりの一つである。源平盛衰記・巻四十五に、「[重衡卿]「湯かけをせばや」と宣ひければ、[土肥次郎]近所より新しき桶・杓を尋ね出だし、水を上げて奉る。」とあり、ユアミ(湯浴)のことはユガケ(湯掛)ともいう。ユガケは、また、弽(弓懸、韘)と書く弓を射る時に使用する手袋のことも指す。和名抄に、「弽 毛詩注に云はく、弽〈戸渉反、訓は由美加介〉は扶なり、能く射を馭むれば、則ち之れを佩ぶなりといふ。周礼注に云はく、扶〈音は决〉は矢を挟む時、弦の飾りを持つ所以なりといふ。」、文明本節用集に、「弓懸・指懸 ユガケ」とある。
左:弽をして弓を射る(男衾三郎絵巻、鎌倉時代、13世紀、東博展示品)、中・下:弽(弓懸)(上:指懸図(武器袖鏡二編、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200000845/98?ln=jaをトリミング)、右:大洲藩加藤家伝来、江戸時代、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/293410)
すなわち、焼遺(焼津)の野火に対して果たした倭建命の火打嚢の役割を、走水の樋のたぎる急流に対して弟橘比売は手袋をもって果しているという意味である(注2)。氏姓についての判定に限られて行われた盟神探湯は、氏姓が正しければ火傷を負わずに済む秘策があったものと推測される。簡単である。手袋をはめていればいい。熱湯に手を入れても手袋をしている部分は手が火傷したように見えても、なかに入っている人の手本体は火傷せずに済む。皮で作られる弽の手袋は、絵柄に鶉柄や疱瘡でも患ったような模様に仕立てられていた。
ウズラという鳥は、丸く膨らんで、縞模様は皺々に爛れたようでも、さざ波が立っているよう(注3)でも、フクロウとよく似ているようにも見える。つまり、手袋を鶉柄にするのは、言葉どおりに小型のフクロ、テブクロらしく拵えたいからであったと考えられる。言葉が事柄どおりになり、言葉の一貫性が確保されることになる。これこそヤマトコトバの本質であり、言霊信仰のもとに暮らしていた上代の人の意にかなうことである。言葉に言霊が宿るのである。
模様が入った手袋をはめれば火傷を負っているように見える。手前勝手に氏姓を主張していた輩は、丁寧な染めを施した弽をお上から賜わっておらず、そのような裏事情があることも知らない。熱湯の中へ素手のまま入れては、即座に火傷し爛れてしまっていたことだろう。正真正銘の氏姓を持つ人は、お上から氏姓を賜わった時、弽も拝領している。もしもの時はこの手袋を使うようにと言い含められている。もしもの時とはどのような時かは伝えられていなくても、湯掛けが行われると聞かされれば同音の弽のことを思い出されて持参したことであろう。盟神探湯で手を入れるように促されれば、恐れをなして熱湯に手を入れずに嘘を白状するが、本当の氏姓の人に順番が回ってきたときには弽を着けて手を入れ、すぐに爛れたふうの手をあげる。だが、よくよく調べると素手は何ともなくて誇ったという次第になっている。允恭天皇代の「盟神探湯」とは、そういう話である。
クカタチという名義
「盟神探湯」をクカタチと訓むことは訓注により決まっている。允恭天皇代以外には次の例があり、「探湯」や「置誓湯」をクカタチと訓むとする説がある。
九年の夏四月に、武内宿禰を筑紫に遣して、百姓を監察しむ。時に武内宿禰の弟、甘美内宿禰、兄を廃てむとして、即ち天皇に讒し言さく、「武内宿禰、常に天下を望ふ情有り。今聞く、筑紫に在りて密に謀りて曰ふならく、『独筑紫を裂きて、三韓を招きて己に朝はしめて、遂に天下を有たむ』といふなり」とまをす。是に、天皇、則ち使を遣して、武内宿禰を殺さしめむとす。時に武内宿禰、歎きて曰はく、「吾、元より弐心無くして、忠を以て君に事めつ。今何の禍そも、罪無くして死らむや」といふ。……僅に朝に逮ることを得て、乃ち罪無きことを弁む。天皇、則ち武内宿禰と甘美内宿禰とを推へ問ひたまふ。是に、二人、各堅く執へて争ふ。是非決め難し。天皇、勅して神祇に請して探湯せしむ。是を以て、武内宿禰と甘美内宿禰と、共に磯城川の湄に出でて探湯す。武内宿禰勝ちぬ。便ち横刀を執りて、甘美内宿禰を殴ち仆して、遂に殺さむとす。天皇、勅して釈さしめたまふ。(応神紀九年四月)
秋九月に、任那の使奏して云さく、「毛野臣、遂に久斯牟羅にして、舎宅を起し造りて、淹留むこと二歳、一本に三歳と云ふは、去来ふ歳の数を連ぬるなり。政を聴くに懶す。爰に日本人と任那人との、頻に児息めるを以て、諍訟決め難きを以て、元より能判ること無し。毛野臣、楽みて置誓湯して曰はく、『実ならむ者は爛れず。虚あらむ者は必ず爛れむ』といふ。是を以て、湯に投して爛れ死ぬる者衆し。……(継体紀二十四年九月)
或いは小石を沸湯中に置き、競ふ所の者をして之れを探らしめ、理の曲なる者は、即ち手爛ると云ふ。(隋書・倭国伝)
同じようなことが行われているからクカタチをした例と見られる。しかし、これらを比較検討してみても、一向にクカタチの語義について理解に至らない(注4)。研究史上、次のような意見が述べられてきた。
玖訶瓮、玖訶は、書紀に、盟神探湯此ヲ云二區訶陀智一とある如く、熱湯中に手を漬探りて、神に盟ふ事をするを云、【陀智は、役などの、陀智にて、凡て其ノ事に趣くを、某に立とも某立とも云こと昔も今も多し……】(本居宣長・古事記伝、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920821/1/396)
然るに、探湯の二字の朝鮮訓は湯が kuk で、探が chat であるから、甚だよく似て居る。朝鮮語 kuk は羹の意義もあるが、羹と湯とは又通じて用ひられる。……又、探の朝鮮語 chat の古音は tat で、これも国語探ぬの語源らしく思はれる。それ故、クカダチは日朝両語に通ずる古語で、「湯を探る」の義であらうと考へる。(金澤庄三郎著『国語の研究』同文館、明治43年、218頁。国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1087718/1/118)
クカタチという上代日本語の意味は「潜判」で、熱湯に手を潜らせて裁判をすることである。尤も、斧を真赤に焼いて掌にあてる例もあるが、允恭記に「くか瓮を居ゑて」、允恭紀に「探湯瓮を坐ゑて」とあるように、釜に熱湯をたぎらせて手を潜らせるのが通例である。……具体例は種々あるが、要は、申立てが是か否かを判定するための手段に着目した命名がクカタチである。そして、手が爛れれば「嘘」であり、爛れなければ「真言」であるというのである。が、目的は「嘘」発見にあるのであって、「真言」発見が目的なのではない。(西宮1998.12頁)
西宮氏は、「味白檮の言八十禍津日前」はクカタチのメッカなのではないかと考え、嘘の証拠となる神がコトヤソマガツという神名を持っているのだとし、その神名が鎮座する地名ではないかとしている。だが、応神紀や継体紀の例もクカタチであるとすると、その仮説はほとんど意味を持たなくなる。また、クカタチの本来の目的は、氏姓の乱れを正すもの、嘘の姓の主張を暴くものであった。手袋を賜っていなければ、熱湯に素手を入れることになって火傷し、嘘をついている証拠が露呈した。当時は無文字時代で、氏姓を授けられたかどうかは人々の記憶にしかないから、天皇の代が替わると嘘を言ってもすぐにはバレないのである。どういう時に嘘が通りやすくなるかといえば、似ている二者の一方が真で、他方が偽である状況においてである。応神紀で、武内宿禰と甘美内宿禰とは兄弟だから姿が似ている。その点を強調するように、上掲の引用部分で中略した箇所に、筑紫でのこととして武内宿禰とよく似た人物の話が挟まれている。
是に、壱伎直の祖真根子といふ者有り。其の為人、能く武内宿禰の形に似れり。独武内宿禰の、罪無くして空しく死らむことを惜びて、便ち武内宿禰に語りて曰はく、「今し大臣、忠を以て君に事ふ。既に黒心無きことは、天下共に知れり。願はくは密に避りて朝に参赴でまして、親ら罪無きことを弁めて、後に死るとも晩からじ。且、時人の毎に云はく、『僕が形、大臣に似れり』といふ。故、今我、大臣に代りて死らむ。以て大臣の丹心を明らめたまへ」といひて、則ち剣に伏りて自ら死りぬ。時に武内宿禰、独大きに悲びて、窃に筑紫を避りて、浮海よりして南海より廻りて、紀水門に泊つ。僅に朝に逮ることを得て、乃ち罪無きことを弁む。(応神紀九年四月)
似ていることは古語に「似る」という。「偶はる」の音便形である。二つ揃って類をなして並んでいるものは似ているものである。タウバルは同音に「賜る」があり、「賜はる」の転である。何を「賜る」ことがあったかといえば、「姓名」であり、弽(手袋)であっただろう。どちらが本物なのかを見極めるにはクカタチが有効な手段であった。継体紀の例では、日本人と任那人との間で混血が起こり、どちらの人なのかわからなくなっていることについてクカタチで定めようとしている。もちろん、日本人と任那人のハーフが「似る」からといって、その昔、弽を「賜る」ことがあったわけではない。その作法も、「投レ湯」と熱湯風呂に押し入れることになっており、「死者衆」ことになってしまっている。本来のクカタチであれば、手を少し火傷する程度の苦しみであったはずである。ゲームのルールは似て非なるものであり、タウバルことのない規則に縛られている。すなわち、継体紀の例は、話にならない話が行われているということである。よって、本来のクカタチからは逸脱しているわけであるが、話としてはタウバルことと関わって錬成されているものと理解できる。
クカタチは手袋をもって嘘か真言か見定める手段であった。そのフクロたるものは、柑橘類の実が累乗的に袋に包まれていく様相をもって示されている。その実のことは橘、垂仁天皇条に「登岐士玖能迦玖能木実(非時香菓)」と言われるものである。そして、橘の仲間のうちに、枝の棘が傑出している枳殻という種がある。唐の橘だからカラタチと呼んだ(注2)。棘を有効活用して果樹園の防護柵となることで、他の果実の結実を守って貢献する道を選んだと考えられた。発想の転換である。橘はトキジクノカクノコノミだから、同じ形の言葉にすればカクタチということになろう。香しい橘という意を表している。その香しさを音声面で転換した形をアナグラムで考えるならクカタチということになる。いい香りを匂わせるのではなく、くさい臭いを取り去ることとアナロジカルに対応している。たとえば、洗濯物の臭いを消すには煮沸が有効である。「探湯瓮」は煮沸脱臭用の鍋に相当している。
ミカンの包みの構造
「味白檮の言八十禍津日前(味橿丘の辞禍戸𥑐)」という場所は、その名からしてなかなかに興味深いところである。記紀でアマカシ、ウマカシと異なって訓まれている。どちらかが正しいとして訓みを統一しようと考える向きがある(注5)が、氏姓が見極められないことを正そうとする場所としてふさわしいのは、アマカシなのかウマカシなのかよくわからない地名であると直観される。カシの実はドングリであり、よく煮て十分にアク抜きをすることで食べることができた(注6)。アクが抜けて加工を施せば、あまい、ないしは、うまいと評されても必ずしも間違いではないことになる。地名としてもアマカシとウマカシと両様に呼ばれていたらしく、いずれも可とされていたのだろう。とはいえ、言葉と事柄との同一性、合一性を徹底させようとした上代の人たち(上代語人、ヤマトコトバ人)にとって、論理にほころびを生じかねないポイントで少々気になる場所であったのだろう(注7)。
いつも香しいはずの橘の香りがなくなるとは、時が経つということに近似的である。時間が経過して誰が正当に氏姓を負っているのかわからなくなっていた。それを正すために煮沸法がとられた。呼び名として、カク(香)の転倒したクカ(注8)を冠するのがふさわしいとされた。タチは「判」(西宮一民説)、「裁判の断」(新編全集本日本書紀説)、誓いを立てるという「タチ」(青木周平説)など考えられているが、時間が「経」てしまうことと悪い臭いの香り、すなわち、クカの「断(絶)」の謂いをも絡めまとめたタチなのではないか。すなわち、トキジクノカクノコノミの反転世界に「盟神探湯」は位置づけられている。ドングリを菓子とするには何度も煮てはアク抜きを徹底する必要があるが、橘はすでに菓子として完成している。音読みの「菓子」に似て非なるものが「白檮(橿)」ということになり、両者は対比して考えていたようである。「菓子(果子)」という熟語は本邦に成り漢土に伝えられたとされ、音の曲がりを楽しんで(裏漉しして(?))いる話として構成したものと考える。
縄文人のドングリ食展示(橿原考古学研究所附属博物館展示品)
以上、盟神探湯という語は、ひとり孤立して成り立っていた(注9)のではなく、調理法や洗濯法と関わりながら措定された言葉であったと考えられることについて述べた。
(注)
(注1)盟神探湯については、神に誓って正邪を判断する神聖裁判であると捉えられることが多い。ただし、今でも「神に誓ってそう言えるか?」と問い詰めることはあるものである。要点は熱いものに手を入れて試すことにある。
前之園2013.は、「盟神探湯における正邪の判定は、火傷を負ったか否かによって決めるのではなくて、火傷の具合や程度などをもとにして決定されたと推定される。」(213頁)と、湯起請についての山田1996.80~81頁の見解を引きながら考察する。そして、火傷の治療薬として脂膏を利用していたことから物部氏が管掌しているとも想像の翼を広げている。しかし、中世の事象を参考にして今日の常識を及ぼすことで、上代に風習であったらしい盟神探湯とは何かを探ることができるとは考え難い。
(注2)拙稿「タヂマモリの「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」説話について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/907c50649208fe40efc292d37cc88f32参照。
(注3)雄略記に、「ももしきの 大宮人は 鶉鳥 領布取り懸けて 鶺鴒 尾行き合へ 庭雀 群集り居て ……」(記101)とある。薄いショールである領布の形容にウズラが用いられている。さざ波が立っているように見えることを表しているのであろう。
(注4)同様のことは大陸でも行われていたとして、「扶南王范尋、……嘗煮水令沸、以金指環投湯中、然後以手探湯。其直者、手不爛、有罪者、入湯即焦。」(捜神記・巻二)の例が引かれることが多いが、それをクカタチと呼んだのはヤマトコトバにおいてである。朝鮮語由来説の弱点は、同様の例が半島に行われ、kukatati に近い音で呼ばれていたとは知られていないところである。
(注5)西宮1998.は、ウマサケはおいしい酒のことであるが、アマサケは甘酒という別物であるように、形容は厳密にあるだろうと考えている。そして、美味いと言えるカシの実は皆無であり、甘いと呼べるカシの実は唯一イチイガシがあるからそこからアマカシと言っていたのだとしている。言葉に遊びを想定していない。
(注6)強烈なアクのある種類のカシの実であっても、天日乾燥ののち製粉して水に晒すことでアクは抜けるから、その方法で食べられることが民俗事例で知られている。その場合、週単位、月単位の時間がかかる。時間をかけず日単位で食べるには、粒の状態のものを煮てアクを捨てつつ潰して細かくし、あるいは裏漉しし、さらに煮出してアクを捨てることをくり返すことでアクが次第に消えてゆき、早めに口にすることができる。この方法は、現代のお菓子作りに通ずるものがある。
(注7)だからといって、ニガカシ、シブカシ、エグカシといった地名にすれば正しいということにはならない。なぜなら、カシの実を実際に食べているからで、そのような命名では食べられないものと位置づけられてしまう。言=事であるはずところを曲げてしまう嘘について述べるのではなく、無秩序を侵入させる出鱈目、法螺話になってしまう。盟神探湯はあくまでも嘘についての言説である。嘘について語ろうとする姿勢から、ヒノサキとヘノサキと音韻に微妙な違いを見せている。人々は事柄をうまく仕業して生きており、言葉についても巧みに捻り出して暮らしていたのであった。
(注8)一般には、「潜く」という語をもって説明されているが、水に「潜く」ことを説明はできても、冷水や常温水、ぬるま湯ではなく、熱湯や熱泥であることを示さない。
(注9)クカタチというヤマトコトバがあり、その意訳として「盟神探湯」と書き、訓注を施したと考えるとすっきりするだろう。
(引用・参考文献)
青木2015. 『青木周平著作集 上巻 古事記の文学研究』おうふう、平成27年。(「『古事記』『日本書紀』における盟神探湯の意義」『日本における神観念の形成とその比較文化論的研究 國學院大學21世紀COEプログラム研究報告』2005年3月。)
尾崎1966. 尾崎暢殃『古事記全講』加藤中道館、昭和41年。
金井2022. 金井清一『古事記編纂の論』花鳥社、2022年。
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第六巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
清水2010. 清水克行『日本神判史─盟神探湯・湯起請・鉄火起請─』中央公論使者(中公新書)、2010年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
竹野1960. 竹野長次『古事記の民俗学的研究』文雅堂書店、昭和35年。
時野谷1988. 時野谷滋「盟神探湯の基礎的研究」下出積與編『日本古代史論輯』桜楓社、昭和63年。(時野谷滋『飛鳥奈良時代の基礎的研究』国書刊行会、平成2年。)
西宮1979. 西宮一民校注『新潮日本古典集成 古事記』新潮社、昭和54年。
西宮1998. 西宮一民「「味白檮の言八十禍津日前」考」『高岡市万葉歴史館紀要』第8号、平成10年。
西山2004. 西山和宏「古代寺院の湯屋」奈良文化財研究所飛鳥資料館『飛鳥の湯屋』飛鳥資料館発行、平成16年。
前之園2013. 前之園亮一『「王賜」銘鉄剣と五世紀の日本』岩田書院、2013年。(「宋書南斉書・名代・猪膏から見た氏姓成立と盟神探湯」『学習院史学』第38号、2000年3月。学習院大学学術成果リポジトリhttp://hdl.handle.net/10959/981)
黛1996. 黛弘道「允恭天皇の盟神探湯」『東アジアの古代文化』88号、大和書房、1996年7月。
山田1996. 山田仁史「盟神探湯・湯起請・鉄火─日本における神判の系譜(一)─」『東アジアの古代文化』85号、大和書房、1995年11月。
※本稿は、「走水と弟橘比売の物語」のうち盟神探湯関係部分を抽出し、訓義について拡充したものである。デジタル資料は2023年4月25日に確認した。
古い時代の風呂の実態についての資料は乏しい。西山2004.に、次のようにある。
現在では、ごく一般的に「湯につかる」ことと「風呂に入る」ことは同じ意味で用いられています。本来「風呂」は「蒸風呂」のことですから、かつては「湯につかる」ことと「風呂に入る」ことは全く違った入浴方法だったのです。また、肩までどっぷりと湯につかる入浴方法は近世になってからといわれていますから、それまでは沸かした湯を浴びるだけであり、それを「風呂」とは区別して「湯」といっていました。とはいうものの、「風呂」と「湯」は早くから混用されるようになっていたようです。このように、湯屋とは本来、湯を浴びる場をさしますが、古代の湯屋については建物が残っていませんから詳しくはわかっていません。しかし、いくつかの寺院に残されている『資材帳』に「温室」や「浴堂」などの湯屋を示す記載を見つけることができますから、建物規模やそこで用いられた湯釜などについて知ることができます。(24頁)
和名抄・伽藍具に、「浴室 内典に温室経有り。〈今案ふるに、温室は即ち浴室なり。俗に由夜と云ふ。〉」とある。巷間いわれるように、昔は入浴方法がサウナ形式に限られていたというわけではない。風呂という言葉が蒸し風呂を指し、湯という言葉が湯浴みを指しており、両者が早くから混同されていたとする説は妥当であろう。また、入浴一般を指す語として、西日本では風呂、東日本では湯と呼ぶのがふつうであったとする説や、フロという言葉がムロを語源とし、岩窟を意味するムロが訛ってフロとなり、風呂という字を当てたとの説もあるが当否は定めがたい。季節が良ければ水浴びもしていたろうし、水垢離もしていた。温泉地ではどっぷりと湯につかることもしていただろうし、水蒸気浴や岩盤浴風の熱気浴も条件が合えば行われていたことであろう。
斎戒沐浴にも湯を使った。建武年中行事・六月に、「とのもんれう、御ゆまいらす。御舟にとるなり。めす程にうめたり。そのゝちひの口より七たびまゐらす。」とある。延喜式・木工寮に、「沐槽 長さ三尺、広さ二尺一寸、深さ八寸。浴槽 長さ五尺二寸、広さ二尺五寸、深さ一尺七寸、厚さ二寸」とある。50㎝ほどの深さで湯浴みをしたらしい。死に装束を整える際にも湯を浴びせた。源平盛衰記・巻四十五に、「[重衡卿]「湯かけをせばや」と宣ひければ、[土肥次郎]近所より新しき桶・杓を尋ね出だし、水を上げて奉る。」などとある。
たくさんの薪を使って湯を沸かすのには経済的な制約がつきまとう。天武紀元年六月条に、「沐令」、「湯沐の米」とある。養老令・禄令に、「中宮の湯沐に二千戸」の食封とあってかなり多いとわかる。庶民には鉄の大釜を手に入れることもできない。高度経済成長期以前にはもらい湯も多く行われていた。ここで注目したいのは、どっぷりと湯に入る場合であれ、湯を浴びる場合であれ、五右衛門風呂形式以前のものに懸樋形式のものが確かに見られる点である。今日の給湯タイプ、追い炊きタイプは、いずれもボイラーで湯を沸かしている。浴槽と連絡はしていても別である。安全性や煙の遮断をとるか、熱効率をとるかによって形態に違いが出てくる。絵巻物や建築図面、遺構からその構造は垣間見られる。
左:湯屋(上から、慕帰絵々詞模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590849/28をトリミング、一遍聖絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591575/22をトリミング、是害房絵巻、南北朝時代、14世紀、泉屋博古館蔵、@SenOkuKyoto様https://twitter.com/sorori6/status/1324287421945540609)、中:上から、湯屋指図(上醍醐西風呂指図、国立歴史民俗博物館HP「中世寺院の姿とくらし―密教・禅僧・湯屋―」https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/old/021001/img/photo1.jpg)、湯屋遺構(財団法人向日市埋蔵文化財センター「長岡京跡右京第755・762次調査現地説明会資料 宝菩提院廃寺の湯屋遺構」2003年2月22日。http://pit.zero-city.com/houbodaiin/houbodaiin.htm)、右:排水路の施された湯室(川崎市立日本民家園、佐々木家住宅、長野県南佐久郡佐久穂町畑の名主の家、18世紀。浴びるだけのようである)
慕帰絵詞では、釜で湯を沸かして蒸気を建物内へ送り込んでいるように見え、蒸し風呂形式であったとされている。向かって左の釜は室内へ蒸気を送っている。広さが三帖ほどあろうかと思われる室を蒸気で満たしてサウナのように温めている。右の釜は浴びせ湯用と考えられているが、湯屋の中へ送る配管装置が描かれていない。どこで浴びたのか不明ながら、絵としては蒸気用と浴びせ湯用の二つが描かれいてよいことになっている。
一遍聖絵では、内部を窺うことはできないながら、排水が外へと流れ、庭の造りとして石橋を渡している。湯を浴びた証拠である。今昔物語・巻第二十八・池尾禅珍内供鼻語第二十に、「湯屋ニハ寺ノ僧共、湯不涌サヌ日无クシテ、浴喤ケレバ、〓(貝偏に充)ハヽシク見ユ。」とあり、贅沢なバスタイムぶりが描かれている。
是害房絵巻では、釜で沸かした湯を湯屋へ送る樋が描かれている。このような形態が古くからあったとすれば、この樋こそ、倭建命が渡ろうとして廻された〝水道〟に当たるものと考えられる。煮えたぎるほど熱いから、代わりに弟橘比売が入ろうというのである。もちろん、修辞的表現であり、今日的に言えばそれはなぞなぞに該当する。彼らの言語ゲーム(Sprachspiel)の深奥を知るには、上代の人が湯といかに対したか、そしてどのような観念を抱いていたか、もう少し広範に見る必要があるだろう。湯とどのように接していたかについては、長野県の地獄谷で天然温泉に入るニホンザルがいることからもわかるように、頓に文化的な問題である。
湯が熱すぎる場合、入浴以外にも用いられた。允恭天皇の時代に、盟神探湯をして氏姓を正したという記事が載る。
是に、天皇、天下の氏々名々の人等の氏姓の忤ひ過れるを愁へたまひて、味白檮の言八十禍津日前に、くか瓮を居ゑて、天下の八十友緒の氏姓を定め賜ひき。(允恭記)
四年の秋九月の辛巳の朔にして己丑に、詔して曰はく、「上古治むること、人民所を得て、姓名錯ふこと勿し。今朕、践祚りて、玆に四年、上下相争ひて、百姓安からず。或いは誤りて己が姓を失ふ。或いは故に高き氏を認む。其れ治むるに至らざることは、蓋し是に由りてなり。朕、不賢しと雖も、豈其の錯へるを正さざらむや。群臣、議り定めて奏せ」とのたまふ。群臣、皆言さく、「陛下、失を挙げ枉れるを正して、氏姓を定めたまはば、臣等、冒死へまつらむ」と奏すに、可されぬ。戊申に、詔して曰はく、「群卿百寮及び諸の国造等、皆各言さく、『或いは帝皇の裔、或いは異しくして天降れり』とまをす。然れども、三才顕れ分れしより以来、多に万歳を歴ぬ。是を以て、一の氏蕃息りて更に万姓と為れり。其の実を知り難し。故、諸の氏姓の人等、沐浴斎戒して、各盟神探湯せよ」とのたまふ。則ち味橿丘の辞禍戸𥑐に、探湯瓮を坐ゑて、諸人を引きて赴かしめて曰はく、「実を得むものは全からむ。偽らば必ず害れなむ」とのたまふ。盟神探湯、此には区訶陀智と云ふ。或いは泥を釜に納れて煮沸して、手を攘りて湯の泥を探る。或いは斧を火の色に焼きて、掌に置く。是に、諸人、各木綿手繦を著て、釜に赴きて探湯す。則ち実を得る者は自づからに全く、実を得ざる者は皆傷れぬ。是を以て、故に詐る者は、愕然ぢて、予め退きて進むこと無し。是より後、氏姓自づから定りて、更に詐る人無し。(允恭紀四年九月)
「盟神探湯」とは、熱湯(熱泥、熱斧)に手を入れたり当てたりして爛れたら嘘をついている、火傷しなかったら本当のことを言っている、という嘘発見器の役割を担っている(注1)。これも湯との関わりの一つである。源平盛衰記・巻四十五に、「[重衡卿]「湯かけをせばや」と宣ひければ、[土肥次郎]近所より新しき桶・杓を尋ね出だし、水を上げて奉る。」とあり、ユアミ(湯浴)のことはユガケ(湯掛)ともいう。ユガケは、また、弽(弓懸、韘)と書く弓を射る時に使用する手袋のことも指す。和名抄に、「弽 毛詩注に云はく、弽〈戸渉反、訓は由美加介〉は扶なり、能く射を馭むれば、則ち之れを佩ぶなりといふ。周礼注に云はく、扶〈音は决〉は矢を挟む時、弦の飾りを持つ所以なりといふ。」、文明本節用集に、「弓懸・指懸 ユガケ」とある。
左:弽をして弓を射る(男衾三郎絵巻、鎌倉時代、13世紀、東博展示品)、中・下:弽(弓懸)(上:指懸図(武器袖鏡二編、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200000845/98?ln=jaをトリミング)、右:大洲藩加藤家伝来、江戸時代、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/293410)
すなわち、焼遺(焼津)の野火に対して果たした倭建命の火打嚢の役割を、走水の樋のたぎる急流に対して弟橘比売は手袋をもって果しているという意味である(注2)。氏姓についての判定に限られて行われた盟神探湯は、氏姓が正しければ火傷を負わずに済む秘策があったものと推測される。簡単である。手袋をはめていればいい。熱湯に手を入れても手袋をしている部分は手が火傷したように見えても、なかに入っている人の手本体は火傷せずに済む。皮で作られる弽の手袋は、絵柄に鶉柄や疱瘡でも患ったような模様に仕立てられていた。
ウズラという鳥は、丸く膨らんで、縞模様は皺々に爛れたようでも、さざ波が立っているよう(注3)でも、フクロウとよく似ているようにも見える。つまり、手袋を鶉柄にするのは、言葉どおりに小型のフクロ、テブクロらしく拵えたいからであったと考えられる。言葉が事柄どおりになり、言葉の一貫性が確保されることになる。これこそヤマトコトバの本質であり、言霊信仰のもとに暮らしていた上代の人の意にかなうことである。言葉に言霊が宿るのである。
模様が入った手袋をはめれば火傷を負っているように見える。手前勝手に氏姓を主張していた輩は、丁寧な染めを施した弽をお上から賜わっておらず、そのような裏事情があることも知らない。熱湯の中へ素手のまま入れては、即座に火傷し爛れてしまっていたことだろう。正真正銘の氏姓を持つ人は、お上から氏姓を賜わった時、弽も拝領している。もしもの時はこの手袋を使うようにと言い含められている。もしもの時とはどのような時かは伝えられていなくても、湯掛けが行われると聞かされれば同音の弽のことを思い出されて持参したことであろう。盟神探湯で手を入れるように促されれば、恐れをなして熱湯に手を入れずに嘘を白状するが、本当の氏姓の人に順番が回ってきたときには弽を着けて手を入れ、すぐに爛れたふうの手をあげる。だが、よくよく調べると素手は何ともなくて誇ったという次第になっている。允恭天皇代の「盟神探湯」とは、そういう話である。
クカタチという名義
「盟神探湯」をクカタチと訓むことは訓注により決まっている。允恭天皇代以外には次の例があり、「探湯」や「置誓湯」をクカタチと訓むとする説がある。
九年の夏四月に、武内宿禰を筑紫に遣して、百姓を監察しむ。時に武内宿禰の弟、甘美内宿禰、兄を廃てむとして、即ち天皇に讒し言さく、「武内宿禰、常に天下を望ふ情有り。今聞く、筑紫に在りて密に謀りて曰ふならく、『独筑紫を裂きて、三韓を招きて己に朝はしめて、遂に天下を有たむ』といふなり」とまをす。是に、天皇、則ち使を遣して、武内宿禰を殺さしめむとす。時に武内宿禰、歎きて曰はく、「吾、元より弐心無くして、忠を以て君に事めつ。今何の禍そも、罪無くして死らむや」といふ。……僅に朝に逮ることを得て、乃ち罪無きことを弁む。天皇、則ち武内宿禰と甘美内宿禰とを推へ問ひたまふ。是に、二人、各堅く執へて争ふ。是非決め難し。天皇、勅して神祇に請して探湯せしむ。是を以て、武内宿禰と甘美内宿禰と、共に磯城川の湄に出でて探湯す。武内宿禰勝ちぬ。便ち横刀を執りて、甘美内宿禰を殴ち仆して、遂に殺さむとす。天皇、勅して釈さしめたまふ。(応神紀九年四月)
秋九月に、任那の使奏して云さく、「毛野臣、遂に久斯牟羅にして、舎宅を起し造りて、淹留むこと二歳、一本に三歳と云ふは、去来ふ歳の数を連ぬるなり。政を聴くに懶す。爰に日本人と任那人との、頻に児息めるを以て、諍訟決め難きを以て、元より能判ること無し。毛野臣、楽みて置誓湯して曰はく、『実ならむ者は爛れず。虚あらむ者は必ず爛れむ』といふ。是を以て、湯に投して爛れ死ぬる者衆し。……(継体紀二十四年九月)
或いは小石を沸湯中に置き、競ふ所の者をして之れを探らしめ、理の曲なる者は、即ち手爛ると云ふ。(隋書・倭国伝)
同じようなことが行われているからクカタチをした例と見られる。しかし、これらを比較検討してみても、一向にクカタチの語義について理解に至らない(注4)。研究史上、次のような意見が述べられてきた。
玖訶瓮、玖訶は、書紀に、盟神探湯此ヲ云二區訶陀智一とある如く、熱湯中に手を漬探りて、神に盟ふ事をするを云、【陀智は、役などの、陀智にて、凡て其ノ事に趣くを、某に立とも某立とも云こと昔も今も多し……】(本居宣長・古事記伝、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920821/1/396)
然るに、探湯の二字の朝鮮訓は湯が kuk で、探が chat であるから、甚だよく似て居る。朝鮮語 kuk は羹の意義もあるが、羹と湯とは又通じて用ひられる。……又、探の朝鮮語 chat の古音は tat で、これも国語探ぬの語源らしく思はれる。それ故、クカダチは日朝両語に通ずる古語で、「湯を探る」の義であらうと考へる。(金澤庄三郎著『国語の研究』同文館、明治43年、218頁。国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1087718/1/118)
クカタチという上代日本語の意味は「潜判」で、熱湯に手を潜らせて裁判をすることである。尤も、斧を真赤に焼いて掌にあてる例もあるが、允恭記に「くか瓮を居ゑて」、允恭紀に「探湯瓮を坐ゑて」とあるように、釜に熱湯をたぎらせて手を潜らせるのが通例である。……具体例は種々あるが、要は、申立てが是か否かを判定するための手段に着目した命名がクカタチである。そして、手が爛れれば「嘘」であり、爛れなければ「真言」であるというのである。が、目的は「嘘」発見にあるのであって、「真言」発見が目的なのではない。(西宮1998.12頁)
西宮氏は、「味白檮の言八十禍津日前」はクカタチのメッカなのではないかと考え、嘘の証拠となる神がコトヤソマガツという神名を持っているのだとし、その神名が鎮座する地名ではないかとしている。だが、応神紀や継体紀の例もクカタチであるとすると、その仮説はほとんど意味を持たなくなる。また、クカタチの本来の目的は、氏姓の乱れを正すもの、嘘の姓の主張を暴くものであった。手袋を賜っていなければ、熱湯に素手を入れることになって火傷し、嘘をついている証拠が露呈した。当時は無文字時代で、氏姓を授けられたかどうかは人々の記憶にしかないから、天皇の代が替わると嘘を言ってもすぐにはバレないのである。どういう時に嘘が通りやすくなるかといえば、似ている二者の一方が真で、他方が偽である状況においてである。応神紀で、武内宿禰と甘美内宿禰とは兄弟だから姿が似ている。その点を強調するように、上掲の引用部分で中略した箇所に、筑紫でのこととして武内宿禰とよく似た人物の話が挟まれている。
是に、壱伎直の祖真根子といふ者有り。其の為人、能く武内宿禰の形に似れり。独武内宿禰の、罪無くして空しく死らむことを惜びて、便ち武内宿禰に語りて曰はく、「今し大臣、忠を以て君に事ふ。既に黒心無きことは、天下共に知れり。願はくは密に避りて朝に参赴でまして、親ら罪無きことを弁めて、後に死るとも晩からじ。且、時人の毎に云はく、『僕が形、大臣に似れり』といふ。故、今我、大臣に代りて死らむ。以て大臣の丹心を明らめたまへ」といひて、則ち剣に伏りて自ら死りぬ。時に武内宿禰、独大きに悲びて、窃に筑紫を避りて、浮海よりして南海より廻りて、紀水門に泊つ。僅に朝に逮ることを得て、乃ち罪無きことを弁む。(応神紀九年四月)
似ていることは古語に「似る」という。「偶はる」の音便形である。二つ揃って類をなして並んでいるものは似ているものである。タウバルは同音に「賜る」があり、「賜はる」の転である。何を「賜る」ことがあったかといえば、「姓名」であり、弽(手袋)であっただろう。どちらが本物なのかを見極めるにはクカタチが有効な手段であった。継体紀の例では、日本人と任那人との間で混血が起こり、どちらの人なのかわからなくなっていることについてクカタチで定めようとしている。もちろん、日本人と任那人のハーフが「似る」からといって、その昔、弽を「賜る」ことがあったわけではない。その作法も、「投レ湯」と熱湯風呂に押し入れることになっており、「死者衆」ことになってしまっている。本来のクカタチであれば、手を少し火傷する程度の苦しみであったはずである。ゲームのルールは似て非なるものであり、タウバルことのない規則に縛られている。すなわち、継体紀の例は、話にならない話が行われているということである。よって、本来のクカタチからは逸脱しているわけであるが、話としてはタウバルことと関わって錬成されているものと理解できる。
クカタチは手袋をもって嘘か真言か見定める手段であった。そのフクロたるものは、柑橘類の実が累乗的に袋に包まれていく様相をもって示されている。その実のことは橘、垂仁天皇条に「登岐士玖能迦玖能木実(非時香菓)」と言われるものである。そして、橘の仲間のうちに、枝の棘が傑出している枳殻という種がある。唐の橘だからカラタチと呼んだ(注2)。棘を有効活用して果樹園の防護柵となることで、他の果実の結実を守って貢献する道を選んだと考えられた。発想の転換である。橘はトキジクノカクノコノミだから、同じ形の言葉にすればカクタチということになろう。香しい橘という意を表している。その香しさを音声面で転換した形をアナグラムで考えるならクカタチということになる。いい香りを匂わせるのではなく、くさい臭いを取り去ることとアナロジカルに対応している。たとえば、洗濯物の臭いを消すには煮沸が有効である。「探湯瓮」は煮沸脱臭用の鍋に相当している。
ミカンの包みの構造
「味白檮の言八十禍津日前(味橿丘の辞禍戸𥑐)」という場所は、その名からしてなかなかに興味深いところである。記紀でアマカシ、ウマカシと異なって訓まれている。どちらかが正しいとして訓みを統一しようと考える向きがある(注5)が、氏姓が見極められないことを正そうとする場所としてふさわしいのは、アマカシなのかウマカシなのかよくわからない地名であると直観される。カシの実はドングリであり、よく煮て十分にアク抜きをすることで食べることができた(注6)。アクが抜けて加工を施せば、あまい、ないしは、うまいと評されても必ずしも間違いではないことになる。地名としてもアマカシとウマカシと両様に呼ばれていたらしく、いずれも可とされていたのだろう。とはいえ、言葉と事柄との同一性、合一性を徹底させようとした上代の人たち(上代語人、ヤマトコトバ人)にとって、論理にほころびを生じかねないポイントで少々気になる場所であったのだろう(注7)。
いつも香しいはずの橘の香りがなくなるとは、時が経つということに近似的である。時間が経過して誰が正当に氏姓を負っているのかわからなくなっていた。それを正すために煮沸法がとられた。呼び名として、カク(香)の転倒したクカ(注8)を冠するのがふさわしいとされた。タチは「判」(西宮一民説)、「裁判の断」(新編全集本日本書紀説)、誓いを立てるという「タチ」(青木周平説)など考えられているが、時間が「経」てしまうことと悪い臭いの香り、すなわち、クカの「断(絶)」の謂いをも絡めまとめたタチなのではないか。すなわち、トキジクノカクノコノミの反転世界に「盟神探湯」は位置づけられている。ドングリを菓子とするには何度も煮てはアク抜きを徹底する必要があるが、橘はすでに菓子として完成している。音読みの「菓子」に似て非なるものが「白檮(橿)」ということになり、両者は対比して考えていたようである。「菓子(果子)」という熟語は本邦に成り漢土に伝えられたとされ、音の曲がりを楽しんで(裏漉しして(?))いる話として構成したものと考える。
縄文人のドングリ食展示(橿原考古学研究所附属博物館展示品)
以上、盟神探湯という語は、ひとり孤立して成り立っていた(注9)のではなく、調理法や洗濯法と関わりながら措定された言葉であったと考えられることについて述べた。
(注)
(注1)盟神探湯については、神に誓って正邪を判断する神聖裁判であると捉えられることが多い。ただし、今でも「神に誓ってそう言えるか?」と問い詰めることはあるものである。要点は熱いものに手を入れて試すことにある。
前之園2013.は、「盟神探湯における正邪の判定は、火傷を負ったか否かによって決めるのではなくて、火傷の具合や程度などをもとにして決定されたと推定される。」(213頁)と、湯起請についての山田1996.80~81頁の見解を引きながら考察する。そして、火傷の治療薬として脂膏を利用していたことから物部氏が管掌しているとも想像の翼を広げている。しかし、中世の事象を参考にして今日の常識を及ぼすことで、上代に風習であったらしい盟神探湯とは何かを探ることができるとは考え難い。
(注2)拙稿「タヂマモリの「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」説話について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/907c50649208fe40efc292d37cc88f32参照。
(注3)雄略記に、「ももしきの 大宮人は 鶉鳥 領布取り懸けて 鶺鴒 尾行き合へ 庭雀 群集り居て ……」(記101)とある。薄いショールである領布の形容にウズラが用いられている。さざ波が立っているように見えることを表しているのであろう。
(注4)同様のことは大陸でも行われていたとして、「扶南王范尋、……嘗煮水令沸、以金指環投湯中、然後以手探湯。其直者、手不爛、有罪者、入湯即焦。」(捜神記・巻二)の例が引かれることが多いが、それをクカタチと呼んだのはヤマトコトバにおいてである。朝鮮語由来説の弱点は、同様の例が半島に行われ、kukatati に近い音で呼ばれていたとは知られていないところである。
(注5)西宮1998.は、ウマサケはおいしい酒のことであるが、アマサケは甘酒という別物であるように、形容は厳密にあるだろうと考えている。そして、美味いと言えるカシの実は皆無であり、甘いと呼べるカシの実は唯一イチイガシがあるからそこからアマカシと言っていたのだとしている。言葉に遊びを想定していない。
(注6)強烈なアクのある種類のカシの実であっても、天日乾燥ののち製粉して水に晒すことでアクは抜けるから、その方法で食べられることが民俗事例で知られている。その場合、週単位、月単位の時間がかかる。時間をかけず日単位で食べるには、粒の状態のものを煮てアクを捨てつつ潰して細かくし、あるいは裏漉しし、さらに煮出してアクを捨てることをくり返すことでアクが次第に消えてゆき、早めに口にすることができる。この方法は、現代のお菓子作りに通ずるものがある。
(注7)だからといって、ニガカシ、シブカシ、エグカシといった地名にすれば正しいということにはならない。なぜなら、カシの実を実際に食べているからで、そのような命名では食べられないものと位置づけられてしまう。言=事であるはずところを曲げてしまう嘘について述べるのではなく、無秩序を侵入させる出鱈目、法螺話になってしまう。盟神探湯はあくまでも嘘についての言説である。嘘について語ろうとする姿勢から、ヒノサキとヘノサキと音韻に微妙な違いを見せている。人々は事柄をうまく仕業して生きており、言葉についても巧みに捻り出して暮らしていたのであった。
(注8)一般には、「潜く」という語をもって説明されているが、水に「潜く」ことを説明はできても、冷水や常温水、ぬるま湯ではなく、熱湯や熱泥であることを示さない。
(注9)クカタチというヤマトコトバがあり、その意訳として「盟神探湯」と書き、訓注を施したと考えるとすっきりするだろう。
(引用・参考文献)
青木2015. 『青木周平著作集 上巻 古事記の文学研究』おうふう、平成27年。(「『古事記』『日本書紀』における盟神探湯の意義」『日本における神観念の形成とその比較文化論的研究 國學院大學21世紀COEプログラム研究報告』2005年3月。)
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新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
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時野谷1988. 時野谷滋「盟神探湯の基礎的研究」下出積與編『日本古代史論輯』桜楓社、昭和63年。(時野谷滋『飛鳥奈良時代の基礎的研究』国書刊行会、平成2年。)
西宮1979. 西宮一民校注『新潮日本古典集成 古事記』新潮社、昭和54年。
西宮1998. 西宮一民「「味白檮の言八十禍津日前」考」『高岡市万葉歴史館紀要』第8号、平成10年。
西山2004. 西山和宏「古代寺院の湯屋」奈良文化財研究所飛鳥資料館『飛鳥の湯屋』飛鳥資料館発行、平成16年。
前之園2013. 前之園亮一『「王賜」銘鉄剣と五世紀の日本』岩田書院、2013年。(「宋書南斉書・名代・猪膏から見た氏姓成立と盟神探湯」『学習院史学』第38号、2000年3月。学習院大学学術成果リポジトリhttp://hdl.handle.net/10959/981)
黛1996. 黛弘道「允恭天皇の盟神探湯」『東アジアの古代文化』88号、大和書房、1996年7月。
山田1996. 山田仁史「盟神探湯・湯起請・鉄火─日本における神判の系譜(一)─」『東アジアの古代文化』85号、大和書房、1995年11月。
※本稿は、「走水と弟橘比売の物語」のうち盟神探湯関係部分を抽出し、訓義について拡充したものである。デジタル資料は2023年4月25日に確認した。