はじめに
古事記・日本書紀・万葉集に何か難しいことが書いてあると思う研究者がいる。しかし、当時、学識を得た者しか理解できないことが書かれているはずはない。なぜなら、ほとんど誰にもわからないことを書き起こしても全然おもしろくないからである。いかに秀逸なお笑い芸を完成させても、時代がついて来なければ誰にも相手にされない。一定程度の人の間でわかり合うことができるから、文章や歌謡として残されている。すなわち、世の中が無文字社会であったとき、漢語を使って煙に巻くことは意図されない。学者や官僚が難しい言葉を使ってわかりにくくして自らの保身に動くとは考えられないし、通じにくくして喜びとすることもおよそ想像不可能である。小学生を相手に小難しく話し、わからないか、愚か者め、などとぶって悦楽に至ることはないのである。今日、学者仲間だけで通じることを論じ、それが科学的に証明されるならまだしも、信者の集まりにすぎない学会であったとしたら、さて何をしているのだろうか。記紀万葉時代の人に広く受け入れられる説明、解釈でなければならないということである。当時の人は今この世にはいないから聞いてみることはできないが、受け容れられるかどうかは感覚的にわかる。アハ、とわかることがわかるということである。
一
壬申の乱に向けての前振りに当たる次の記事は、今日まできちんとした理解に至っていない。「或曰」で語られる「虎に翼を着けて放てり」という表現がわかっていない。念のために前後を含めて記す。
四年の冬十月の庚辰に、天皇[天智]、臥病したまひて、痛みたまふこと甚し。是に、蘇賀臣安麻侶を遣して、東宮[天武]を召して、大殿に引き入る。時に安摩侶、素より東宮に好せられたり。密に東宮を顧みたてまつりて曰さく、「有意ひて言へ」とまをす。東宮、玆に、隠せる謀有らむことを疑ひて慎みたまふ。天皇、東宮に勅して鴻業を授けむとしたまふ。乃ち辞譲びて曰はく、「臣が不幸き、元より多の病有り。何ぞ能く社稷を保たむ。願はくは、陛下、天下を挙げて皇后に附せたまへ。仍、大友皇子を立てて、儲君としたまへ。臣は今日出家して、陛下の為に、功徳を脩はむ」とまをしたまふ。天皇、聴したまふ。即日に、出家して法服をきたまふ。因りて以て、私の兵器を収りて、悉に司に納めたまふ。
壬午に、吉野宮に入りたまふ。時に、左大臣蘇賀赤兄臣・右大臣中臣金連、及び大納言蘇賀果安臣等送りたてまつる。菟道より返る。或曰、「虎に翼を着けて放てり」といふ。是の夕に、嶋宮に御します。
癸未に、吉野に至りて居します。是の時に、諸の舎人を聚へて、謂りて曰はく、我今入道脩行せむとす。故、随ひて脩道せむと欲ふ者は留れ。若し仕へて名を成さむと欲ふ者は、還りて司に仕へよ」とのたまふ。然るに退く者无し。更に舎人を聚へて、詔すること前の如し。是を以て、舎人等、半は留り半は退りぬ。
十二月、天命開別天皇[天智]崩りましぬ。(天武前紀)
四年冬十月庚辰、天皇臥病、以痛之甚矣。於是、遣蘇賀臣安麻侶、召東宮、引入大殿。時安摩侶、素東宮所好。密顧東宮曰、有意而言矣。東宮於玆疑有隠謀而慎之。天皇勅東宮授鴻業。乃辞譲之曰、臣之不幸、元有多病。何能保社稷。願陛下挙天下附皇后。仍立大友皇子、宜為儲君。臣今日出家、為陛下欲脩功徳。天皇聴之。即日、出家法服。因以、収私兵器、悉納於司。
壬午、入吉野宮。時左大臣蘇賀赤兄臣・右大臣中臣金連、及大納言蘇賀果安臣等送之。自菟道返焉。或曰、虎着翼放之。是夕、御嶋宮。
癸未、至吉野而居之。是時、聚諸舎人、謂之曰、我今入道脩行。故随脩道者留之。若仕欲成名者、還仕於司。然无退者。更聚舎人、而詔如前。是以、舎人等半留半退。
十二月、天命開別天皇崩。
「虎に翼を着けて放てり」について、大系本に、「いよいよ勢いを増すことの譬喩。」(69頁)、新編全集本に、「ますます勢いをつける、の喩え。」(303頁)、笹山2020.に、「たださえ強い者がいよいよ勢いを増すことのたとえ。」(404頁)と注され、西郷2011.に、「この比喩は吉野に入った大海人がやがて猛威をふるって襲いかかって来るかも知れぬことを不気味に予告する。」(189頁)と評されている。そして、それらはいずれも、漢籍に見える例を真似た表現であるとしている。韓非子・難勢の引く周書に「毋二為レ虎傅レ翼、将二飛入レ邑、択レ人而食レ之。」、魏志・劉曄伝の斐松之注に「崇二其位号一、定二其君臣一、是為レ虎傅レ翼也。」などとあるのを引いたものだというのである。ところが、漢籍の文章、例えば「毋為虎傅翼」(逸周書)の意味は、不肖者が権勢を用いると天下が乱れることを戒める寓話である。となると、天武紀のなかで天武天皇を悪人として見ていることになり、それは「或曰」だからなのか、それとも近江朝の側からの見解なのか、といった疑問が生じている。当然の成り行きとして、漢籍からの引用とすることにためらいも起こっている。
これらの解説や論考は意味をなさない。漢籍から文言を引いたものが書いてあるとして、それで当時の人がどう納得したのかがわからない。当時の人の理解はそっちのけにして文を飾るためだけに書いてあるというのだろうか。日本書紀では特に天皇の代替わりごとに見られる紹介記事など、訓みにくい書き方の修文が行われている。しかし、この箇所のように「或曰」などという言わずもがなの挿入句において、漢籍を引いた文章をひけらかして良しとする魂胆など不明である。文飾を目的とするのに捻くれすぎている。
これまでの解釈では、天武天皇(大海人皇子)が吉野へ入ること全体について、その比喩として「虎着レ翼放之」と語らせていると考えられてきた。しかし、日本書紀で「或曰」という形で別伝を伝える場合、すぐ直前のことについてこうも伝えられていると紹介することが多い。
二
紀のなかに「或曰」記事は全部で13例を数える。「時或曰」は直前の文言を承けるに限らないが、「或曰」の単独使用の例では直前の文言についてのみ言及した別伝である。
「或曰」の例
是の時に、其の子事代主神、遊行きて出雲国の三穂 三穂、此には美保と云ふ。の碕に在す。釣魚するを以て楽とす。或曰、遊鳥するを楽とすといふ。(神代紀第九段本文)
我が皇師の虜を破るに逮りて、大きに軍集ひて其の地に満めり。因りて号を改めて磐余とす。或曰、「天皇、徃厳瓮の糧を嘗りたまひ、軍を出して西を征ちたまふ。是の時に、磯城の八十梟帥、彼処に屯聚居たり。屯聚居、此には怡波瀰萎と云ふ。といふ。(神武前紀己未年二月)
時に湯河板挙、遠く鵠の飛べる方を望みて、追ひ尋ぎて出雲に詣りて捕獲えつ。或曰、「但馬国に得つ」といふ。(垂仁紀二十三年十月)
次に茨田連小望が女 或曰、妹。を関媛と曰ふ。三の女を生めり。長を茨田大娘皇女と曰す。仲を白坂活日姫皇女と曰す。少きを小野稚郎皇女と曰す。更の名は長石姫。(継体紀元年三月)
上臣、四つの村抄き掠め、金官・背伐・安多・委陀、是を四つの村とす。一本に云はく、多多羅・須那羅・和多・費智を四つの村とすといふ。尽に人物を将て、其の本国に入りぬ。或曰、「多多羅等の四つの村の掠められしは、毛野臣の過なり」といふ。(継体紀二十三年四月)
高麗の沙門道顕の日本世記に曰く、七月に云云。春秋智、大将軍蘇定方の手を借りて、百済を挟み撃ちて亡しつ。或曰、百済、自づからに亡びぬ。……(斉明紀六年七月)
是歳、播磨国司岸田臣麻呂等、宝の剣を献りて言さく、「狭夜郡の人の禾田の穴内にして獲たり」とまをす。又日本の、高麗を救ふ軍将等、百済の加巴利浜に泊りて火を燃く。灰変りて孔と為りて、細き響有り。鳴鏑の如し。或曰、「高麗・百済の終に亡びむ徴か」といふ。(天智前紀斉明七年是歳)
壬申に、物有りて、形、灌頂幡の如くして、火の色あり。空に浮びて北に流る。国毎に皆見ゆ。或曰、「越海に入りぬ」といふ。(天武紀十一年八月)
乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉に焚けぬ。或曰、「阿斗連薬が家の失火、引りて宮室に及べり」といふ。唯し兵庫職のみは焚けず。(天武紀朱鳥元年正月)
戊申に、雷、南方に光りて、一たび大きに鳴れり。則ち民部省の蔵庸舎屋に天災けり。或曰、「忍壁皇子の宮に失火延りて、民部省を焼けり」といふ。(天武紀朱鳥元年七月)
「時或曰」の例
則ち重ねて誓ひて曰さく、「東にいづる日の、更に西に出づるに非ずは、且阿利那礼河の返りて逆に流れ、河の石の昇りて星辰と為るに及るを除きて、殊に春秋の朝を闕き、怠りて梳と鞭との貢を廃めば、天神地祇、共に討へたまへ」とまをす。時或曰、「新羅の王を誅さむ」といふ。(神功前紀仲哀九年十月)
四十九年の春三月に、荒田別・鹿我別を以て将軍とす。則ち久氐等と、共に兵勒へて度りて、卓淳国に至りて、将に新羅を襲はむとす。時或曰、「兵衆少くは、新羅を破るべからず。更復、沙白・蓋盧を奉り上げて、軍士を増さむと請へ」とまをす。(神功紀四十九年三月)
三
「虎着翼放之」に冠る「或曰」は、その直前の「時左大臣蘇賀赤兄臣・右大臣中臣金連、及大納言蘇賀果安臣等送之。自菟道返焉。」を承けて別の伝えを述べていることを言っている。「或曰」は直前の文が示したことの代りになる言い伝えの場合もあるが、付け足しの評言の場合もある。ここは後者の例である。大臣たちに菟道まで送られたことに関して、「虎に翼を着けて放てり」と評する者がいたということを示している。「或曰」のあり方として、そうよめればそれが正解である。そうはよめないと思ってしまい、韓非子などを持って来てごまかしては錯乱しているのが現状である。
天武天皇のことを勇猛な「虎」に見立てているとされることが多いが、筆者にはそのようには感じられない。他には記序に見られるばかりで例に乏しい。
然れども天の時未だ臻らずして、南の山に蝉のごとく蛻けましき。人の事共給りて、東の国に虎のごと歩みましき。(記序)
この形容は、蝉の脱け殻同様、太安万侶の独自の連想によるものと思われる。虎は自らのなわばりをパトロールして確かなものとしている。天武天皇も、その勢力基盤であった美濃へと向かってから態勢を整えて、なわばりであるべき畿内を巡回して最終的に飛鳥に都している。
では、「或曰」においてどうして「虎」が持ち出されているのだろうか。
天武天皇は、「出家」すると言って近江宮を退去している。剃髪し、袈裟を贈られ、僧侶の姿になったことは天智紀十年十月条に記されている。
便ち内裏の仏殿の南向でまして、胡床に踞坐げて、鬢髪を剃除りたまひて。沙門と為りたまふ。是に天皇、次田生磐を遣して袈裟を送らしめたまふ。壬午に、東宮、天皇に見えて、吉野に之りて脩行仏道せむと請したまふ。天皇許したまふ。東宮即ち吉野に入りたまふ。大臣等侍へ送る。菟道に至りて還る。(天智紀十年十月)
しかし、心の裏に「入道脩行」、「脩行仏道」する気があるわけではない。吉野へ入ったが、寺に入ったわけではない。機会があればすぐにでも還俗するつもり、ないしは最初からポーズをとっているだけである。すなわち、天武の頭が虎刈であると見て取った表現である。話としてうまくできている。
では、どうして「翼」を着けられたとしているのか。
「翼」という字はツバサのことを指すほか、タスケ(輔・助・扶・佐・祐)の意を表す。
集侍る群卿大夫及び臣・連・国造・伴造、并せて諸の百姓等、咸に聴るべし。夫れ天地の間に君として万民を宰むることは、独り制むべからず。要ず臣の翼を須ゐる。是に由りて、代々の我が皇祖等、卿が祖考と共に倶に治めたまひき。朕も神の護の力を蒙りて、卿等と共に治めむと思欲ふ。(孝徳紀大化二年三月)
蓋し此、専扶翼の公卿・臣・連・伴造・国造等が各丹誠を尽して、制度に奉り遵ふに由りて致せることなり。(孝徳紀白雉元年二月)
翼 音弋、ハネ、ナル、タスク、ツバサ、ツツシム、カクル、ウヤマフ、タクハフ(名義抄)
天武天皇(大海人皇子)は、「左大臣蘇賀赤兄臣・右大臣中臣金連、及び大納言蘇賀果安臣等」に送りたてまつられている。左大臣、右大臣、大納言らは重臣である。タスケ(輔・扶・翼)の地位にある。タスケ(翼)の人たちに送られているから、「虎に翼を着けて放てり」と揶揄されている。韓非子に記載の虎に翼の謂れを知っていたかどうかなどどうでもいいこと、「翼」という字の二義をかけた地口である。
なんだ、そんなことか、という話である。
これを、俗に、よめた、わかった、という。
今日の人が、韓非子の引く逸周書を引いて、ああでもない、こうでもないと論じ、「或曰」の「或」はどの立場の人かなどといくら詮索しても、当時の人の考えと交わることはない。
おわりに
日本書紀の執筆者がどれほど漢籍に通じていたかということ以上に考えなければならないのは、同時代に読まれるであろう対象者、読者に通じるように書いてあるかどうかという点である。「或曰」記事は、音声として空中を飛び交った言葉であることを前提として書かれている。実際にそうであったかはともかく、多くの人に共有され得る言葉であることを要件としている。平易で、簡単でなければならない。本稿ではやむを得ず遠回りして先行研究を述べているが、単純なからくりについては本稿の「三」で説明し尽くしている。今日、上代文学や文献史学の研究者の多くは自ら迷路を作って解釈に混迷することをなりわいとしているが、日本書紀の執筆者たちが目にすればきっとびっくりするであろう。
(注)
注1 広告宣伝のキャッチコピーは小学3~4年生程度の子がわかるような平易なものであることが求められる。多くの人に認知されて広まるからである。相手がわからないことを言ったり書いたりしていては商売にならない。明治政府は行政文書に難解な漢語を創作、使用して人民支配の便にしたが、古代においてわざわざ難しくし、誰も読めない歴史書を作って蔵に納めても仕方のないことである。
注2 「なら記紀・万葉プロジェクト」(奈良県 文化・教育・くらし創造部 文化資源活用課)の「ドラマ 日本書紀(第1話「虎に翼をつけて」~古代最大の戦い「壬申の乱」の始まり~)」https://www3.pref.nara.jp/miryoku/narakikimanyo/manabu/drama/drama01/(2023年3月15日閲覧)に紹介されている。
注3 事情は葛西2021.に詳しい。古く伴信友・長等の山風附録一・壬申紀証註に、「こゝも韓子などの語に依りて作るにかとも云ふべけれど、此ところなどは、善さまにこそは潤飾すべきわざなれ、かく悪ざまにものすべきにあらず、此は実に時人の語にて、未然に世の乱を察れりし徴語なりけるに依て、語も書も伝へたりける説にこそはあるべけれ、但し此虎翼の語は、無くても事実には闕ることなきを、など改作のときには削れざりけむ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/991315/1/267~268(2023年3月15日閲覧)、漢字の旧字体は改めた)とある。
葛西氏は、「虎着翼放之」は破格の語序にして慣用表現であるはずの典拠の字句を改変しているから、直接漢籍に結びついた表現ではなく、トラニツバサと読み慣わされるうちに作られた和化表現であると論じている。しかるに、その示すところに新しい見解があるのか筆者には不分明である。
注4 中野2020.の挙例に同じである。
注5 中野2020.、中野2022.は葛西氏の「或曰」の解釈、「直前の内容を承けるとともに、それに対して異なる認識・解釈を提示する場合に用いられる。」(葛西2018.50頁、葛西2021.255頁)とする捉え方に異議を唱えている。主旨は「異説・異伝」ではないというのである。最終的に「虎に翼を着けて放てり」という発言が、天武方によるか近江朝方によるか、そこを議論したいためである。筆者はそのような蒙昧な議論に与したくないので「別伝」という言い方にして説明した。
そもそも一つのことを記すということは、どのようなレベルであれすでに一つの認識として確たるものである。占いにおいて、たまたま光線の具合で水晶玉のなかに何かが見えると述べることはすでに一つの言説である。それが依頼人の怪我の前兆であると誰かほかの「或」が「曰」ったなら、それは別伝ということになる。
実はこの点は上代の人のものの考え方について知る手がかりでもある。天智紀の例に「灰変為レ孔、細有レ響。」であることは、よく見、よく聞くことをもってはじめてわかる。目をつぶり、耳を塞いでいたら、そのような現象は起こっておらず事実ではないのである。彼らは存在論的にではなく、認識論的に考えていた。神武紀の例に「満めり」ことをもって「磐余」と改名したりしているのはその証拠である。皇師の軍がイハメリか、磯城の八十梟帥がイハミヰタリか、認識として別伝だからきちんと記している。現代の我々自身の考え方はひとまず措いて相互参照的に記述を見比べて行ったとき、上代の人の思惟に近づく可能性が芽生えてくる。
注6 特に歴史研究者の手になる諸書に、言うまでもないこととして述べられている。
注7 天皇を輔弼する意に用いられたタスクの例として、天武天皇をたすけた皇后、後の持統天皇のそれがよく知られる。
二年に、立ちて皇后と為りたまふ。皇后、始より今に迄るまでに、天皇を佐けまつりて天下を定めたまふ毎に侍執る際に、輙ち言、政事に及びて、毗け補ふこと多し。(持統前紀天武二年)
注8 「或曰」で重んじられなければならないのは、「或」ではなく「曰」である。「或曰」をどう訓むかについては、アルニイハク、アルイハイハク、アルヒト(ノ)イハク、アルイハ……トイフなどいく通りか考えられるが、イフ、マヲスの意に変わりはない。誰かが言って言いっ放しではなくて、聞く人がいて理解している。そういう言葉として「曰」以下の別伝が記されている。
中野氏は、「虎着翼放之」の「放」の用法についても検討している。放逐・追放ではなく、放牧・解放の意に近いという。挙例しているのは、「秋、則放二天斑駒一、使レ伏二田中一。」(神代紀第七段本文)、「乃登二三諸岳一、捉二取大蛇一、奉レ示二天皇一。……天皇畏蔽レ目不レ見、却二入殿中一。使レ放二於岳一。」(雄略紀七年七月)である(中野2022.43~44頁)。「虎放之」ならばその例で正しかろうが頓珍漢である。せっかく「翼」を授かったのだから、虎が空を飛ぶことを言おうとしている。「乃放レ鷹令レ捕。」(仁徳紀四十三年九月)、「仍禁レ放二鷹於穴戸堺一。」(白雉元年二月)が近い用例である。当たり前の話であるが、虎はいかに手なずけようが鷹のように狩りに使うことはできない。虎刈であって虎狩なるものはない。「或曰」は洒落のきついことを言っている。当時の人、少なくとも日本書紀の編纂者仲間がその部分を読んだなら、アハハ、うまいこと書いているなと思ったことであろう。
(引用・参考文献)
葛西2018. 葛西太一「壬申紀「虎着翼放之」の解釈─天武像をめぐる「虎に翼」の典拠と転化─」『古事記年報』六十、2018年3月。
葛西2021. 葛西太一「壬申紀「虎着翼放之」の解釈」『日本書紀段階編修論─文体・注記・語法からみた多様性と多層性─』花鳥社、2021年。
北山1978. 北山茂夫『壬申の内乱』岩波書店(岩波新書)、1978年。
倉本2007. 倉本一宏『戦争の日本史2 壬申の乱』吉川弘文館、2007年。
西郷2011. 西郷信綱「壬申紀を読む─歴史と文化と言語─」『西郷信綱著作集 第三巻 記紀神話・古代研究Ⅲ 古代論集』平凡社、2011年。
笹山2020. 井上光貞監訳・笹山晴生訳『日本書紀(下)』中央公論新社(中公文庫)、2020年。
新編全集本 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』小学館、1998年。
大系本 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(五)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
瀧浪2019. 瀧浪貞子『持統天皇─壬申の乱の「真の勝者」─』中央公論新社(中公新書)、2019年。
遠山1996. 遠山美都男『壬申の乱─天皇誕生の神話と史実─』中央公論社(中公新書)、1996年。
遠山2014. 遠山美都男『天武天皇の企て─壬申の乱で解く日本書紀─』角川書店、平成26年。
直木1992. 直木孝次郎『壬申の乱 増補版』塙書房、1992年。
中野2020. 中野謙一「壬申紀述作における漢籍利用─大伴吹負記事を中心に─」『古事記年報』六十二、令和2年3月。
中野2022. 中野謙一「壬申紀の「或曰」─『日本書紀』における「或曰」の検討を通じて─」『学習院大学国語国文学会誌』第65号、2022年3月。学習院大学学術成果リポジトリ http://hdl.handle.net/10959/00005308(2023年3月15日閲覧)
浜田1981. 浜田清次『壬申紀私注 上巻』桜楓社、昭和56年。
古事記・日本書紀・万葉集に何か難しいことが書いてあると思う研究者がいる。しかし、当時、学識を得た者しか理解できないことが書かれているはずはない。なぜなら、ほとんど誰にもわからないことを書き起こしても全然おもしろくないからである。いかに秀逸なお笑い芸を完成させても、時代がついて来なければ誰にも相手にされない。一定程度の人の間でわかり合うことができるから、文章や歌謡として残されている。すなわち、世の中が無文字社会であったとき、漢語を使って煙に巻くことは意図されない。学者や官僚が難しい言葉を使ってわかりにくくして自らの保身に動くとは考えられないし、通じにくくして喜びとすることもおよそ想像不可能である。小学生を相手に小難しく話し、わからないか、愚か者め、などとぶって悦楽に至ることはないのである。今日、学者仲間だけで通じることを論じ、それが科学的に証明されるならまだしも、信者の集まりにすぎない学会であったとしたら、さて何をしているのだろうか。記紀万葉時代の人に広く受け入れられる説明、解釈でなければならないということである。当時の人は今この世にはいないから聞いてみることはできないが、受け容れられるかどうかは感覚的にわかる。アハ、とわかることがわかるということである。
一
壬申の乱に向けての前振りに当たる次の記事は、今日まできちんとした理解に至っていない。「或曰」で語られる「虎に翼を着けて放てり」という表現がわかっていない。念のために前後を含めて記す。
四年の冬十月の庚辰に、天皇[天智]、臥病したまひて、痛みたまふこと甚し。是に、蘇賀臣安麻侶を遣して、東宮[天武]を召して、大殿に引き入る。時に安摩侶、素より東宮に好せられたり。密に東宮を顧みたてまつりて曰さく、「有意ひて言へ」とまをす。東宮、玆に、隠せる謀有らむことを疑ひて慎みたまふ。天皇、東宮に勅して鴻業を授けむとしたまふ。乃ち辞譲びて曰はく、「臣が不幸き、元より多の病有り。何ぞ能く社稷を保たむ。願はくは、陛下、天下を挙げて皇后に附せたまへ。仍、大友皇子を立てて、儲君としたまへ。臣は今日出家して、陛下の為に、功徳を脩はむ」とまをしたまふ。天皇、聴したまふ。即日に、出家して法服をきたまふ。因りて以て、私の兵器を収りて、悉に司に納めたまふ。
壬午に、吉野宮に入りたまふ。時に、左大臣蘇賀赤兄臣・右大臣中臣金連、及び大納言蘇賀果安臣等送りたてまつる。菟道より返る。或曰、「虎に翼を着けて放てり」といふ。是の夕に、嶋宮に御します。
癸未に、吉野に至りて居します。是の時に、諸の舎人を聚へて、謂りて曰はく、我今入道脩行せむとす。故、随ひて脩道せむと欲ふ者は留れ。若し仕へて名を成さむと欲ふ者は、還りて司に仕へよ」とのたまふ。然るに退く者无し。更に舎人を聚へて、詔すること前の如し。是を以て、舎人等、半は留り半は退りぬ。
十二月、天命開別天皇[天智]崩りましぬ。(天武前紀)
四年冬十月庚辰、天皇臥病、以痛之甚矣。於是、遣蘇賀臣安麻侶、召東宮、引入大殿。時安摩侶、素東宮所好。密顧東宮曰、有意而言矣。東宮於玆疑有隠謀而慎之。天皇勅東宮授鴻業。乃辞譲之曰、臣之不幸、元有多病。何能保社稷。願陛下挙天下附皇后。仍立大友皇子、宜為儲君。臣今日出家、為陛下欲脩功徳。天皇聴之。即日、出家法服。因以、収私兵器、悉納於司。
壬午、入吉野宮。時左大臣蘇賀赤兄臣・右大臣中臣金連、及大納言蘇賀果安臣等送之。自菟道返焉。或曰、虎着翼放之。是夕、御嶋宮。
癸未、至吉野而居之。是時、聚諸舎人、謂之曰、我今入道脩行。故随脩道者留之。若仕欲成名者、還仕於司。然无退者。更聚舎人、而詔如前。是以、舎人等半留半退。
十二月、天命開別天皇崩。
「虎に翼を着けて放てり」について、大系本に、「いよいよ勢いを増すことの譬喩。」(69頁)、新編全集本に、「ますます勢いをつける、の喩え。」(303頁)、笹山2020.に、「たださえ強い者がいよいよ勢いを増すことのたとえ。」(404頁)と注され、西郷2011.に、「この比喩は吉野に入った大海人がやがて猛威をふるって襲いかかって来るかも知れぬことを不気味に予告する。」(189頁)と評されている。そして、それらはいずれも、漢籍に見える例を真似た表現であるとしている。韓非子・難勢の引く周書に「毋二為レ虎傅レ翼、将二飛入レ邑、択レ人而食レ之。」、魏志・劉曄伝の斐松之注に「崇二其位号一、定二其君臣一、是為レ虎傅レ翼也。」などとあるのを引いたものだというのである。ところが、漢籍の文章、例えば「毋為虎傅翼」(逸周書)の意味は、不肖者が権勢を用いると天下が乱れることを戒める寓話である。となると、天武紀のなかで天武天皇を悪人として見ていることになり、それは「或曰」だからなのか、それとも近江朝の側からの見解なのか、といった疑問が生じている。当然の成り行きとして、漢籍からの引用とすることにためらいも起こっている。
これらの解説や論考は意味をなさない。漢籍から文言を引いたものが書いてあるとして、それで当時の人がどう納得したのかがわからない。当時の人の理解はそっちのけにして文を飾るためだけに書いてあるというのだろうか。日本書紀では特に天皇の代替わりごとに見られる紹介記事など、訓みにくい書き方の修文が行われている。しかし、この箇所のように「或曰」などという言わずもがなの挿入句において、漢籍を引いた文章をひけらかして良しとする魂胆など不明である。文飾を目的とするのに捻くれすぎている。
これまでの解釈では、天武天皇(大海人皇子)が吉野へ入ること全体について、その比喩として「虎着レ翼放之」と語らせていると考えられてきた。しかし、日本書紀で「或曰」という形で別伝を伝える場合、すぐ直前のことについてこうも伝えられていると紹介することが多い。
二
紀のなかに「或曰」記事は全部で13例を数える。「時或曰」は直前の文言を承けるに限らないが、「或曰」の単独使用の例では直前の文言についてのみ言及した別伝である。
「或曰」の例
是の時に、其の子事代主神、遊行きて出雲国の三穂 三穂、此には美保と云ふ。の碕に在す。釣魚するを以て楽とす。或曰、遊鳥するを楽とすといふ。(神代紀第九段本文)
我が皇師の虜を破るに逮りて、大きに軍集ひて其の地に満めり。因りて号を改めて磐余とす。或曰、「天皇、徃厳瓮の糧を嘗りたまひ、軍を出して西を征ちたまふ。是の時に、磯城の八十梟帥、彼処に屯聚居たり。屯聚居、此には怡波瀰萎と云ふ。といふ。(神武前紀己未年二月)
時に湯河板挙、遠く鵠の飛べる方を望みて、追ひ尋ぎて出雲に詣りて捕獲えつ。或曰、「但馬国に得つ」といふ。(垂仁紀二十三年十月)
次に茨田連小望が女 或曰、妹。を関媛と曰ふ。三の女を生めり。長を茨田大娘皇女と曰す。仲を白坂活日姫皇女と曰す。少きを小野稚郎皇女と曰す。更の名は長石姫。(継体紀元年三月)
上臣、四つの村抄き掠め、金官・背伐・安多・委陀、是を四つの村とす。一本に云はく、多多羅・須那羅・和多・費智を四つの村とすといふ。尽に人物を将て、其の本国に入りぬ。或曰、「多多羅等の四つの村の掠められしは、毛野臣の過なり」といふ。(継体紀二十三年四月)
高麗の沙門道顕の日本世記に曰く、七月に云云。春秋智、大将軍蘇定方の手を借りて、百済を挟み撃ちて亡しつ。或曰、百済、自づからに亡びぬ。……(斉明紀六年七月)
是歳、播磨国司岸田臣麻呂等、宝の剣を献りて言さく、「狭夜郡の人の禾田の穴内にして獲たり」とまをす。又日本の、高麗を救ふ軍将等、百済の加巴利浜に泊りて火を燃く。灰変りて孔と為りて、細き響有り。鳴鏑の如し。或曰、「高麗・百済の終に亡びむ徴か」といふ。(天智前紀斉明七年是歳)
壬申に、物有りて、形、灌頂幡の如くして、火の色あり。空に浮びて北に流る。国毎に皆見ゆ。或曰、「越海に入りぬ」といふ。(天武紀十一年八月)
乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉に焚けぬ。或曰、「阿斗連薬が家の失火、引りて宮室に及べり」といふ。唯し兵庫職のみは焚けず。(天武紀朱鳥元年正月)
戊申に、雷、南方に光りて、一たび大きに鳴れり。則ち民部省の蔵庸舎屋に天災けり。或曰、「忍壁皇子の宮に失火延りて、民部省を焼けり」といふ。(天武紀朱鳥元年七月)
「時或曰」の例
則ち重ねて誓ひて曰さく、「東にいづる日の、更に西に出づるに非ずは、且阿利那礼河の返りて逆に流れ、河の石の昇りて星辰と為るに及るを除きて、殊に春秋の朝を闕き、怠りて梳と鞭との貢を廃めば、天神地祇、共に討へたまへ」とまをす。時或曰、「新羅の王を誅さむ」といふ。(神功前紀仲哀九年十月)
四十九年の春三月に、荒田別・鹿我別を以て将軍とす。則ち久氐等と、共に兵勒へて度りて、卓淳国に至りて、将に新羅を襲はむとす。時或曰、「兵衆少くは、新羅を破るべからず。更復、沙白・蓋盧を奉り上げて、軍士を増さむと請へ」とまをす。(神功紀四十九年三月)
三
「虎着翼放之」に冠る「或曰」は、その直前の「時左大臣蘇賀赤兄臣・右大臣中臣金連、及大納言蘇賀果安臣等送之。自菟道返焉。」を承けて別の伝えを述べていることを言っている。「或曰」は直前の文が示したことの代りになる言い伝えの場合もあるが、付け足しの評言の場合もある。ここは後者の例である。大臣たちに菟道まで送られたことに関して、「虎に翼を着けて放てり」と評する者がいたということを示している。「或曰」のあり方として、そうよめればそれが正解である。そうはよめないと思ってしまい、韓非子などを持って来てごまかしては錯乱しているのが現状である。
天武天皇のことを勇猛な「虎」に見立てているとされることが多いが、筆者にはそのようには感じられない。他には記序に見られるばかりで例に乏しい。
然れども天の時未だ臻らずして、南の山に蝉のごとく蛻けましき。人の事共給りて、東の国に虎のごと歩みましき。(記序)
この形容は、蝉の脱け殻同様、太安万侶の独自の連想によるものと思われる。虎は自らのなわばりをパトロールして確かなものとしている。天武天皇も、その勢力基盤であった美濃へと向かってから態勢を整えて、なわばりであるべき畿内を巡回して最終的に飛鳥に都している。
では、「或曰」においてどうして「虎」が持ち出されているのだろうか。
天武天皇は、「出家」すると言って近江宮を退去している。剃髪し、袈裟を贈られ、僧侶の姿になったことは天智紀十年十月条に記されている。
便ち内裏の仏殿の南向でまして、胡床に踞坐げて、鬢髪を剃除りたまひて。沙門と為りたまふ。是に天皇、次田生磐を遣して袈裟を送らしめたまふ。壬午に、東宮、天皇に見えて、吉野に之りて脩行仏道せむと請したまふ。天皇許したまふ。東宮即ち吉野に入りたまふ。大臣等侍へ送る。菟道に至りて還る。(天智紀十年十月)
しかし、心の裏に「入道脩行」、「脩行仏道」する気があるわけではない。吉野へ入ったが、寺に入ったわけではない。機会があればすぐにでも還俗するつもり、ないしは最初からポーズをとっているだけである。すなわち、天武の頭が虎刈であると見て取った表現である。話としてうまくできている。
では、どうして「翼」を着けられたとしているのか。
「翼」という字はツバサのことを指すほか、タスケ(輔・助・扶・佐・祐)の意を表す。
集侍る群卿大夫及び臣・連・国造・伴造、并せて諸の百姓等、咸に聴るべし。夫れ天地の間に君として万民を宰むることは、独り制むべからず。要ず臣の翼を須ゐる。是に由りて、代々の我が皇祖等、卿が祖考と共に倶に治めたまひき。朕も神の護の力を蒙りて、卿等と共に治めむと思欲ふ。(孝徳紀大化二年三月)
蓋し此、専扶翼の公卿・臣・連・伴造・国造等が各丹誠を尽して、制度に奉り遵ふに由りて致せることなり。(孝徳紀白雉元年二月)
翼 音弋、ハネ、ナル、タスク、ツバサ、ツツシム、カクル、ウヤマフ、タクハフ(名義抄)
天武天皇(大海人皇子)は、「左大臣蘇賀赤兄臣・右大臣中臣金連、及び大納言蘇賀果安臣等」に送りたてまつられている。左大臣、右大臣、大納言らは重臣である。タスケ(輔・扶・翼)の地位にある。タスケ(翼)の人たちに送られているから、「虎に翼を着けて放てり」と揶揄されている。韓非子に記載の虎に翼の謂れを知っていたかどうかなどどうでもいいこと、「翼」という字の二義をかけた地口である。
なんだ、そんなことか、という話である。
これを、俗に、よめた、わかった、という。
今日の人が、韓非子の引く逸周書を引いて、ああでもない、こうでもないと論じ、「或曰」の「或」はどの立場の人かなどといくら詮索しても、当時の人の考えと交わることはない。
おわりに
日本書紀の執筆者がどれほど漢籍に通じていたかということ以上に考えなければならないのは、同時代に読まれるであろう対象者、読者に通じるように書いてあるかどうかという点である。「或曰」記事は、音声として空中を飛び交った言葉であることを前提として書かれている。実際にそうであったかはともかく、多くの人に共有され得る言葉であることを要件としている。平易で、簡単でなければならない。本稿ではやむを得ず遠回りして先行研究を述べているが、単純なからくりについては本稿の「三」で説明し尽くしている。今日、上代文学や文献史学の研究者の多くは自ら迷路を作って解釈に混迷することをなりわいとしているが、日本書紀の執筆者たちが目にすればきっとびっくりするであろう。
(注)
注1 広告宣伝のキャッチコピーは小学3~4年生程度の子がわかるような平易なものであることが求められる。多くの人に認知されて広まるからである。相手がわからないことを言ったり書いたりしていては商売にならない。明治政府は行政文書に難解な漢語を創作、使用して人民支配の便にしたが、古代においてわざわざ難しくし、誰も読めない歴史書を作って蔵に納めても仕方のないことである。
注2 「なら記紀・万葉プロジェクト」(奈良県 文化・教育・くらし創造部 文化資源活用課)の「ドラマ 日本書紀(第1話「虎に翼をつけて」~古代最大の戦い「壬申の乱」の始まり~)」https://www3.pref.nara.jp/miryoku/narakikimanyo/manabu/drama/drama01/(2023年3月15日閲覧)に紹介されている。
注3 事情は葛西2021.に詳しい。古く伴信友・長等の山風附録一・壬申紀証註に、「こゝも韓子などの語に依りて作るにかとも云ふべけれど、此ところなどは、善さまにこそは潤飾すべきわざなれ、かく悪ざまにものすべきにあらず、此は実に時人の語にて、未然に世の乱を察れりし徴語なりけるに依て、語も書も伝へたりける説にこそはあるべけれ、但し此虎翼の語は、無くても事実には闕ることなきを、など改作のときには削れざりけむ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/991315/1/267~268(2023年3月15日閲覧)、漢字の旧字体は改めた)とある。
葛西氏は、「虎着翼放之」は破格の語序にして慣用表現であるはずの典拠の字句を改変しているから、直接漢籍に結びついた表現ではなく、トラニツバサと読み慣わされるうちに作られた和化表現であると論じている。しかるに、その示すところに新しい見解があるのか筆者には不分明である。
注4 中野2020.の挙例に同じである。
注5 中野2020.、中野2022.は葛西氏の「或曰」の解釈、「直前の内容を承けるとともに、それに対して異なる認識・解釈を提示する場合に用いられる。」(葛西2018.50頁、葛西2021.255頁)とする捉え方に異議を唱えている。主旨は「異説・異伝」ではないというのである。最終的に「虎に翼を着けて放てり」という発言が、天武方によるか近江朝方によるか、そこを議論したいためである。筆者はそのような蒙昧な議論に与したくないので「別伝」という言い方にして説明した。
そもそも一つのことを記すということは、どのようなレベルであれすでに一つの認識として確たるものである。占いにおいて、たまたま光線の具合で水晶玉のなかに何かが見えると述べることはすでに一つの言説である。それが依頼人の怪我の前兆であると誰かほかの「或」が「曰」ったなら、それは別伝ということになる。
実はこの点は上代の人のものの考え方について知る手がかりでもある。天智紀の例に「灰変為レ孔、細有レ響。」であることは、よく見、よく聞くことをもってはじめてわかる。目をつぶり、耳を塞いでいたら、そのような現象は起こっておらず事実ではないのである。彼らは存在論的にではなく、認識論的に考えていた。神武紀の例に「満めり」ことをもって「磐余」と改名したりしているのはその証拠である。皇師の軍がイハメリか、磯城の八十梟帥がイハミヰタリか、認識として別伝だからきちんと記している。現代の我々自身の考え方はひとまず措いて相互参照的に記述を見比べて行ったとき、上代の人の思惟に近づく可能性が芽生えてくる。
注6 特に歴史研究者の手になる諸書に、言うまでもないこととして述べられている。
注7 天皇を輔弼する意に用いられたタスクの例として、天武天皇をたすけた皇后、後の持統天皇のそれがよく知られる。
二年に、立ちて皇后と為りたまふ。皇后、始より今に迄るまでに、天皇を佐けまつりて天下を定めたまふ毎に侍執る際に、輙ち言、政事に及びて、毗け補ふこと多し。(持統前紀天武二年)
注8 「或曰」で重んじられなければならないのは、「或」ではなく「曰」である。「或曰」をどう訓むかについては、アルニイハク、アルイハイハク、アルヒト(ノ)イハク、アルイハ……トイフなどいく通りか考えられるが、イフ、マヲスの意に変わりはない。誰かが言って言いっ放しではなくて、聞く人がいて理解している。そういう言葉として「曰」以下の別伝が記されている。
中野氏は、「虎着翼放之」の「放」の用法についても検討している。放逐・追放ではなく、放牧・解放の意に近いという。挙例しているのは、「秋、則放二天斑駒一、使レ伏二田中一。」(神代紀第七段本文)、「乃登二三諸岳一、捉二取大蛇一、奉レ示二天皇一。……天皇畏蔽レ目不レ見、却二入殿中一。使レ放二於岳一。」(雄略紀七年七月)である(中野2022.43~44頁)。「虎放之」ならばその例で正しかろうが頓珍漢である。せっかく「翼」を授かったのだから、虎が空を飛ぶことを言おうとしている。「乃放レ鷹令レ捕。」(仁徳紀四十三年九月)、「仍禁レ放二鷹於穴戸堺一。」(白雉元年二月)が近い用例である。当たり前の話であるが、虎はいかに手なずけようが鷹のように狩りに使うことはできない。虎刈であって虎狩なるものはない。「或曰」は洒落のきついことを言っている。当時の人、少なくとも日本書紀の編纂者仲間がその部分を読んだなら、アハハ、うまいこと書いているなと思ったことであろう。
(引用・参考文献)
葛西2018. 葛西太一「壬申紀「虎着翼放之」の解釈─天武像をめぐる「虎に翼」の典拠と転化─」『古事記年報』六十、2018年3月。
葛西2021. 葛西太一「壬申紀「虎着翼放之」の解釈」『日本書紀段階編修論─文体・注記・語法からみた多様性と多層性─』花鳥社、2021年。
北山1978. 北山茂夫『壬申の内乱』岩波書店(岩波新書)、1978年。
倉本2007. 倉本一宏『戦争の日本史2 壬申の乱』吉川弘文館、2007年。
西郷2011. 西郷信綱「壬申紀を読む─歴史と文化と言語─」『西郷信綱著作集 第三巻 記紀神話・古代研究Ⅲ 古代論集』平凡社、2011年。
笹山2020. 井上光貞監訳・笹山晴生訳『日本書紀(下)』中央公論新社(中公文庫)、2020年。
新編全集本 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』小学館、1998年。
大系本 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(五)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
瀧浪2019. 瀧浪貞子『持統天皇─壬申の乱の「真の勝者」─』中央公論新社(中公新書)、2019年。
遠山1996. 遠山美都男『壬申の乱─天皇誕生の神話と史実─』中央公論社(中公新書)、1996年。
遠山2014. 遠山美都男『天武天皇の企て─壬申の乱で解く日本書紀─』角川書店、平成26年。
直木1992. 直木孝次郎『壬申の乱 増補版』塙書房、1992年。
中野2020. 中野謙一「壬申紀述作における漢籍利用─大伴吹負記事を中心に─」『古事記年報』六十二、令和2年3月。
中野2022. 中野謙一「壬申紀の「或曰」─『日本書紀』における「或曰」の検討を通じて─」『学習院大学国語国文学会誌』第65号、2022年3月。学習院大学学術成果リポジトリ http://hdl.handle.net/10959/00005308(2023年3月15日閲覧)
浜田1981. 浜田清次『壬申紀私注 上巻』桜楓社、昭和56年。