古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

日本書紀写本に見られる傍字について─天武紀上巻の三例試論─

2023年02月20日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 はじめに

 日本書紀は原本が残っているわけではなく、写本の形でしか現存していない。その写本間に細かな違いが見られ、どれが正しいのか校訂が施されている。あるテキスト研究者は、そもそも撰上された時点で一冊しかなかったとは考えられず、複数冊ありすでに細部に違いがあったのではないかと推測している。ただ、それを言い出すと収拾がつかなくなるため、もとのテキストがあることにして、それを定めることで日本書紀を読もうとしている。おそらくそのような営みは、書写段階において、意味が通らないから本が間違っているだろうと思って直しを入れながら写す人によって早くから行われていたということになる。本ある字が何という字か納得がいっていないから、他の本も参照しつつ、字の右や左に「□イ乍」などと記している。そういう箇所は厄介なところということであり、今日の研究者にとっても難解とされることが多いようである。
 その間の事情を示すために、本稿では天武紀上巻の兼右本(注1)から例をとって紹介する。

 「告ラン」(右傍「害 イ又乍」、左傍「造 イ乍」)

 甲申、将入東。時有一臣奏曰、近江群臣、元有謀心。必天下。則道路難通。何無一人兵、徒手入東。臣恐、事不就矣。
(大系本)……まうしてまうさく、「近江あふみ群臣まへつきみたちもとより謀心きたなきこころり。かなら天下あめのしたやぶらむ。すなは道路みちかよがたからむ。いかに一人ひとりいくさくして、徒手たむなでにしてあづまりたまはむ。やつかれおそるらくは、ことらざらむことを」とまうす。(72頁)
(新編全集本)……まをしてまをさく、「近江あふみ群臣まへつきみたちもとより謀心はかれるこころり。かなら天下あめのしたいたらむ。道路みちかよがたけむ。何ぞ一人のいくさくして、徒手むなでにして東に入りたまはむ。しんおそるらくは、ことらざらむことを」とまをす。(307~308頁)
(武田1988.)……まをして、『近江あふみ群臣まへつぎみたちもとより謀心はかりごとり。かならずあめしたげば、すなはち道路みちかよがたからむ。なに一人ひとりつはもの徒手むなでにしてあづまたまはむ。やつこことらざらむことをおそる』とまをしき。(595~596頁)
(西郷2011.)……まうしてまうさく、「近江あふみまへつきみたちもとより謀心きたなきこころ有り。必ず天下あめのしたに告げむ。すなは道路みちかよがたからむ。いかにそ一人のいくさ無くして、徒手たむなでにして東に入りたまはむ。やつかれ恐るらくは、事のらざらむことを」とまうす。(231頁)
(黒板1944.)……奏して曰さく、近江の群臣、元より謀心きたなきこゝろ有り。必ず天下をいつはらむ、則ち道路みち通ひ難からむ。何ぞ一人の兵無くて、徒手たむなであづまに入りたまはむ。臣恐る、事のらざらむことを。(注2)(318~319頁、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1159888/1/163(Retrieved February 5, 2023)

 井上1987.は、「ある臣が、「近江の廷臣たちは、もともと策謀にたけております。きっと国中に妨害をめぐらし、道路も通りにくくなっていることでしょう。どうして一人の兵士もなしに、素手で東国に入れましょう。ことの成功はおぼつかないのではありますまいか」と申し上げた。」(289頁)と訳している。対して、中村1993.は、天下を害ることと道路を通行できないこととは直接関係しないから、「則」で結ぶはずはなく、「害(異体字)」字をとることはできないと考えている。(注3)そう難しいものだろうか。
 この部分は会話文である。前提として、「近江群臣」には「元有謀心」ものである。狡猾な人間がきっと天下をヤブるだろうと言っているとすると、天下はヤブ(藪)になるから、道路までもヤブ(藪)に包まれて茨の道を進むことが難しいのは理の当然でしょう、と言っている。バルバラの三段論法、草の三段論法(注4)のほかにも、駄洒落の三段論法というものがあったと考えられる。「元有謀心」は常々奸計をめぐらせようと悪だくみに耽っているという意味で、頓智的悪だくみを見据えた包括的、循環的な形容となっており、言葉自体を証明してみせる正鵠を射た言葉となっている。ニヤリと笑う執筆者の顔が浮かんでくる。
 もちろん、ただ駄洒落があるからといってそれに従うというわけではない。美濃からの連絡に、山陵を造るからと集められた人夫が武器を持っていたと聞いている。武器と農具には似たところがあり、先端に金属のついた鋤や鍬は戦闘において槍や戈と同等の働きをし得るものである。それらを使って棘のある植物が道路に植えられたのかと思った。無理に進めば怪我をする。そこで先発させた男依らを呼び戻そうとしている。すべて辻褄の合った進行になっている。(注5)
 書写段階を含めた本文校訂の様子を想像してみよう。当初、「害」とあった。中村氏同様、「則」の意が通じないと思った人が「害」の異体字に似ている「告」ではないかと書き換え、それでも「害」とあったことは傍に書き入れていた。しかし、「近江群臣」が「告(ノル)」というのは立場が違う。(注6)天智天皇亡き後、例えば皇太后が「告(ノル)」ならまだしもである。そうなると「告」は誤字ではないかと疑われ、「造」とあったかと推測されて傍に書き込まれた。(注7)以上は憶測で証明することはできないが、読み取ろうと思えば読み取れる。
 いずれにせよ草の三段論法は成立しにくく、駄洒落の三段論法によって理路が光り輝いて見えて意が通じる部分である。

 「逮」(左傍「還 イ乍」)

 即急行到伊賀郡、焚伊賀駅家。于伊賀中山、而当国郡司等、率数百衆帰焉。
(大系本)……すなはすみやかみたして伊賀郡いがのこほりに到りて、伊賀駅家いがのうまやく。伊賀いが中山なかやまいたりて、当国そのくに郡司こほりのみやつこたち数百あまたいくさりまつる。(76頁)
(新編全集本)……すなは急行いそぎすすみて伊賀郡いがのこほりに到り、伊賀駅家いがのうまやく。伊賀いが中山なかやまいたりて、当国そのくに郡司こほりのみやつこたち、数百のいくさりまつる。(313頁)

 いずれも「逮(異体字)」字部分、左傍の「還」字をとっていない。(注8)しかし、行程を表すものとして、ここは「還」字をとるべきではないか。「駅家」を「焚」きながら進んで行っている。「即急行到伊賀郡」にいたる前段を見てみる。

 運湯沐之米伊勢国駄五十匹、遇於菟田郡家頭。仍皆棄米、而令乗歩者。到大野以日落也。山暗不能進行。則壊取当邑家籬為燭。及夜半到隠郡、焚隠駅家。因唱邑中曰、天皇入東国。故人夫諸参赴。然一人不肯来矣。将及横河、有黒雲。広十余丈経天。時天皇異之。則挙燭親秉式占曰、天下両分之祥也。然朕遂得天下歟。
(大系本)<ruby湯沐>ゆのよねはこ伊勢国いせのくににおひうま五十いそ菟田郡家うだのこほりのみやけほとりひぬ。りてみな米をてて、歩者かちびとらしむ。大野おほのいたりてれぬ。やまくらくして進行みたすることあたはず。則ち当邑そのむらいへまがきこほりてひともしとす。夜半よなかいたりて隠郡なばりのこほりいたりて、隠駅家なばりのうまやく。りてむらなかよばひてはく、「天皇すめらみこと東国あづまのくにります。かれ人夫おほみたからもろもろ参赴まうこ」といふ。しかるに一人ひとりへず。横河よこかはいたらむとするに、黒雲くろくも有り。ひろ十余丈とつゑあまりばかりにしてあめわたれり。ときに、天皇あやしびたまふ。則ちささげてみづかちくりて、うらなひてのたまはく、「天下あめのしたふたわかれむさがなり。しかれどもわれつひに天下をむか」とのたまふ。(76頁)

 駅家を焼くことは、隠駅家なばりのうまやにつづいて二回目であるとわかる。隠では駅家を焼いてから、天皇が東国へ入るから人夫たちよ、それぞれ集って来なさいと邑の中に呼びかけたが誰も応じて来なかった。そして、大海人皇子(天武天皇)自らちくという遁甲術(?)の占いをすることになっており、天下両分のしるしが出ているとみている。(注9)はじめて天下が分かれていると知ったのである。それまでは、一方的に天下は我が物であると驕っていた。だから、「天皇すめらみこと東国あづまのくにります。かれ人夫おほみたからもろもろ参赴まうこ」などと言って平気なのである。しかし、誰が「天皇」になるかなど「両分」でわからない。なおのこと、人民の気持ちになってみるがいい。米を馬で運んでいたら米は捨てられ馬は接収されてしまった。家の垣根は壊されて松明代わりに使われている。そして駅家が平然と燃やされている。狼藉甚だしい。当国の郡司等は逃れようとするだろう。
 天武天皇の一行は学習した。天下は良い者と悪い者に二分されていると人々は受けとっていると。駅家を焼くような狼藉者のほうには味方しない。だから、敵の近江方がいると思われるほうの駅家を焚き、自分たちは反対側から来たと思わせれば当国の郡司等は従うであろう。そこで、先回りして駅家に火をつけ、すばやく還り戻る。郡司等が火災の報告を受ける頃には反対方向から現れて、まるで狼藉者を退治するためにやって来たと思わせたのであった。この考え方の正しさのほどは、「即急行」している点に表れている。「即」が承けるのは「式」の示すしるしに従うこと、「急行」の必要性は暗がりのなか伊賀の中山に集う人々の目を欺くためであった。

 即急行到伊賀郡、焚伊賀駅家、還于伊賀中山。而当国郡司等、率数百衆帰焉。
(試訓)すなはすみやかみたすに、伊賀郡いがのこほりに到りて伊賀駅家いがのうまやき、伊賀いが中山なかやまかへります。しかして当国そのくに郡司こほりのみやつこたち数百あまたいくさりまつる。

 「唱」(左傍「謂 イ乍」)

 是日、大伴連吹負、密与留守司坂上直熊毛議之、謂一二漢直等曰、我詐称高市皇子、率数十騎、自飛鳥寺北路、出之臨営。乃汝内応之。既而繕兵於百済家、自南門出之。先秦造熊、令犢鼻而乗馬馳之、俾於寺西営中曰、高市皇子、自不破至。軍衆多従。爰留守司高坂王、及興兵使者穂積臣百足等、拠飛鳥寺西槻下為営。唯百足居小墾田兵庫、運兵於近江。時営中軍衆、聞熊叫声、悉散走。仍大伴連吹負、率数十騎劇来。則熊毛及諸直等、共与連和。軍士亦従。
(大系本)……秦造はだのみやつこくまに、犢鼻たふさぎして、うませて、せて、てら西にしいほりうちとなへしめて曰はく、「高市皇子、不破ふはよりいたります。軍衆いくさのひとどもさはしたがへり」といふ。……(88頁)
(新編全集本)……秦造熊はだのみやつこくまに、犢鼻たふさぎせしめて、うませて、てら西にしいほりうちはしめていはく、「高市皇子、不破ふはよりいたりませり。軍衆いくさのひとどもさはしたがへり」といふ。……(323~324頁)

 事前の打ち合わせで「内応うちあひ」することを決めている。秦造熊が騎乗したまま営中に乗り込んだとするのでは、「内応」という言葉が生きて来ない。営中まで馬が乗り入れたわけではなく、秦造熊は営の外から営中に聞こえるように発声したのであろう。「てら西にしいほりうちとなへ(は)しめて」いる。
 後にも「熊のよばふ声」と書いてある。「内応」に対応するように呼応することを言っている。ヨバフは呼び合うことである。秦造熊が何度もくり返し声をあげたのではない。(注10)秦造熊の声を耳にした「営中軍衆」が、秦造熊はそう言っていたと反響するように互いに言い合ったことを含めているのである。動揺が走るさまを如実に示そうとした表現である。翻って考えた時、秦造熊に「俾唱(謂)於寺西営中」こととは、応じるように呼びかけることだからトナフ(唱)という語がふさわしい。イザナキとイザナミのかけ合いはよく知られている。

 陽神をかみ、先づとなへてのたまはく、「妍哉あなにゑや可愛少女をとめを」とのたまふ。陰神めかみ、後にこたへて曰はく、「妍哉あなにゑや可愛少男をとこを」とのたまふ。(神代紀第四段一書第一)

 前項で、「唱」をヨバフと訓んでいた。なばりの邑の中に「よばひてはく」とあり、きっと応答があるだろうと思って呼びかけていた。一方、ここでは、高市皇子が不破から来て多くの軍衆がそれに従っている、とフェイクニュースを流しているだけである。言葉自体に勧誘の意はない。だから「唱」はトナフと訓んで正しい。
 場所は法興寺のはずれである。寺では日常的に読経が行われる。経を唱えれば伽藍の外にも聞こえてくる。門前の小僧は聞こえてくる声だけを頼りに覚えてしまい、自然と教化されることとなる。それになぞらえた状況を引き起こすことで、大伴吹負おほとものふけひは飛鳥の旧都を平定した。智将らしさを際立たせるのに十分な表現となっている。
 その役目のために立てられたのは秦造熊はだのみやつこくまという人物である。犢鼻たふさぎとは、大きな牛、特牛ことひのうし(こってうし)の鼻のような形に見えるふんどしのことである。和名抄に、「褌 方言注に云はく、袴にしてまた無きは之れを褌〈音は昆、須万之毛乃すましもの、一に知比佐岐毛能ちひさきものと云ふ〉と謂ふといふ。史記に云はく、司馬相如、犢鼻褌を著くといふ。韋昭に曰く、今、三尺の布にて之れを作り、形は牛の鼻の如き者なりといふ。唐韻に云はく、衳〈職容反、鍾と同じ、楊氏漢語抄に衳子は毛乃之太乃太不佐岐(ものしたのたふさぎ)と云ひ、一に水子と云ふ〉は小褌なりといふ。」、「特牛〈犅〉 弁色立成に云はく、特牛〈俗語に古止比ことひと云ふ〉は頭の大きな牛なりといふ。」とある。敗残兵に扮させるため不思議な姿で馬に乗せて走らせている。(注11)熊なのか、牛なのか、馬なのかわからないけれど、たとえ一声であっても大きな吠え声が響き渡ることは確実である。タフサギは、たふにとまったさぎのこととも受けとれる。トナフ(唱)は、高い声で周囲によく通るように声を張って発声することだから、搭という高いところから高い鳴き声の鷺が鳴いてよく聞こえることとよくマッチしている。(注12)ヤマトコトバを駆使していて、練り上げられた文章に仕上がっている。

 おわりに

 言葉は互いに通じ合って言葉として成り立っている。20世紀の終わりごろ、ソグド語を話す最後のソグド人家族がいた。その家族のなかでしかソグド語は話されていなかったが、その家族の間では言葉として通じ合っていた。日本書紀に書き残された言葉も、その当時としては互いに通じ合う言葉であったろう。本稿でとりあげた「害」・「還」・「唱」も、そう表記することでニュアンスをきちんと伝えようとしたものであった。時代が経過し言葉が変わり、ものの考え方にも移ろうところがあり、往時のことがよくわからなくなっている。けれども、伝えられて来たのには何かしら訳があるのではないかと思いながら丹念に探っていくと、言葉について当時の人の抱いていた精巧な感性が浮かび上がり、意外なほど整然と腑に落ちるものである。我々は何のために日本書紀を読むのか。現代の我々のものの考え方を押し付けるためではなく、当時の人々のものの考え方を教えてもらうためであろう。

(注)
(注1)兼右本の影印から一字ずつ取り出し、罫線や返り点などは消去する加工を行った。もともとモノクロ印刷であるため、字の重なり等は確かめられない。
(注2)丸山1953.もそう訓んでいる。
(注3)中村氏は、そもそも大海人皇子と近江朝廷方の争いは皇統の争いとして認識されていたはずで、大海人皇子の臣の立場で、近江の群臣が天下を「害」すると言うのは不遜で、臣下の分を越えており、近江朝廷方が自己防衛しても「天下を害する」ことには当たらないとし、「害」字説を否定している(87頁)。しかし、「逮(還)」字のところで述べるとおり、大海人皇子は、式をもって占ってみてようやく「天下両分」であると気づいている。
(注4)バラバラの三段論法とは、論理学的に真であるとされるものである。有名な例に、「人は死ぬ。ソクラテスは人である。よってソクラテスは死ぬだろう。」がある。草の三段論法とは、ベイトソン1992.がメタファーの三段論法について命名を提唱するものである。「草は死ぬ。人は死ぬ。よって人は草である。」というもので、論理学的にどうであれ、「あらゆる前言語的領域で観念アイデアのつながりを伝えあう主なコミュニケーション様式にちがいない」(55頁)。この例でいえば、人は草のようにはかないものであるという比喩に使われ、古事記でも、人の数の増えるのを草の生い茂るのに譬えて「青人草あをひとくさ」(記上)という言葉が表れている。
(注5)前後は次のようになっている。

 是月、朴井連雄君、奏天皇曰、臣以有私事、独至美濃。時朝庭宣美濃、尾張、両国司曰、為造山陵、予差定人夫。則人別令執兵。臣以為、非為山陵、必有事矣。若不早避、当有危歟。或有人奏曰、自近江京至于倭京、処々置候。亦命菟道守橋者、遮皇大弟宮舎人運私粮事。天皇悪之、因令問察、以知事已実。於是、詔曰、朕所以譲位遁世者、独治病全身、永終百年。然今、不獲已応承禍。何黙亡身耶。六月辛酉朔壬午、詔村国連男依、和珥部臣君手、身毛君広曰、今聞、近江朝庭之臣等、為朕謀害。是以、汝等三人、急往美濃国、告安八磨郡湯沐令多臣品治、宣示機要、而先発当郡兵。仍経国司等、差発諸軍、急塞不破道。朕今発路。(上掲部分)天皇従之、思欲返召男依等。

(注6)「告」をノルではなくツグと訓めばよいとする考えもあるが、「必ず天下にげむ。」という言い方は成り立つだろうか。「ぐ」は言葉で知らせ伝えることで、発言を表す際、特に相手に対しての伝達である点に重きが置かれている。多くの人にふれ示す布告の意に用いた例は上代に見られない。ある程度の識字能力を持つようになって書状やお触書を含めた通信手段を獲得してから、広く人々に知らせる意へも拡張使用されたと考えられる。
(注7)「造」と考えた人は、天下を造ること、オホアナムヂとスクナビコナの国作りのようなこと、「謀心」はスサノヲのような悪さを平気ですることと捉えたと思われる。黒板氏の「イツハラン」という新訓は造反の意を表すものとして生まれよう。対して新編全集本の、「「造」は至ること。『尚書』盤庚中に「咸造」、孔伝「造ハ至也」とある。近江朝廷の群臣たちは悪だくみの心で天下の道に進んでくるだろう。そうなると、吉野側の前進する道は通りにくかろう、の意。」(308頁)とする見立てはかなり苦しい。仮名日本紀は「造」字を採り、「かならす天下を造すなはちみちかよひかたからん」(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100085012/viewer/1111)(Retrieved February 5, 2023)とするも肝心の仮名書きがない。
(注8)仮名日本紀は「還」字を採り、「いかの中山にかへりますしかるに当国の」(同https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100085012/viewer/1114)(Retrieved February 5, 2023)としている。
(注9)西郷2011.は、「占うとは天の告げを知ることである。その告げによって自分こそ天下を得るのだとの主観的確信に達し、それに基づく行動のきっかけ﹅﹅﹅﹅を手に入れることが、不安に充たされたこうした状況下でいかに大きな意味をもつかに思い至らねばなるまい。」(249~250頁)とし、隠駅家を焼いた時には一人も寄って来なかったが、伊賀駅家を焼いて伊賀の中山に至った時には大勢味方してきたのだとしている。西郷氏は、天武が妄想したと妄想している。「天下両分之祥也﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅。然朕遂得天下。」と言っている。この言のなかであやふやな「」とあるところに力点を置くことはできない。
(注10)浜田1983.は秦造熊が馬上から怒鳴り続けたとする(70~71頁)が当たらない。
(注11)河村秀根・書紀集解に「著犢鼻裸体也示急遽之状」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1157934/1/153(Retrieved February 5, 2023)、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注12)熊、牛、馬、鷺のいずれであれ、仲間がいないところで一頭、一羽が吠えたり鳴いたりするとき、同類の間で呼びかけ合っているとは認められないから、「唱」をヨバフと訓むことに適さない。唱えられた音読のお経を聞いて、何を言っているのかわからないままに何ごとかありがたいことであると思う気持ちに似て、「営中軍衆、聞二熊叫声一、悉散走。」という結果になっている。
 なお、熊、牛、馬、鷺の発声をもってトナフ(唱)ことと見立てていたかを究めるには、声のコミュニケーションを動物学的に理解することよりも、当時の人々にどう捉えられていたかという動物の文化史的考察や、トナフ(唱)という言葉の語誌研究が必要となる。ここでは次の二例を示すにとどめる。

 また、清範律師せいはんりしの、犬のために法事ほふじしける人の講師こうじしやうぜられていくを、清照法橋せいせうほつけう、同じほどの説法せほふなれば、いかがすると聞きに、かしらつつみて誰ともなくて聴聞ちやうもんしければ、「ただ今や、過去くわこ聖霊しやうりやうは蓮台の上にてひよとえ給ふらむ」とのたまひければ、……(大鏡・道長・雑々物語、平安時代後期)
 吽〈牛(クム)喉反(ホユル)声(ムモ)也〉 咩〈羊(ヒツシ)声(ヘイ、メイ)也〉 吠〈犬之音(ヘイ、ヒヨ)也〉 嗎〈馬之音(ミ)也〉(悉曇要集記、1075年)

(引用・参考文献)
井上1987.井上光貞監訳『日本書紀 下』中央公論社、昭和62年。
兼右本 天理図書館善本叢書和書之部編集委員会編『天理図書館善本叢書和書之部第五十六巻 日本書紀兼右本三』天理図書館出版部、昭和58年。
黒板1944. 黒板勝美『訓読日本書紀 下』岩波書店(岩波文庫)、昭和19年。
西郷2011. 西郷信綱「壬申紀を読む─歴史と文化と言語─」『西郷信綱著作集 第3巻 記紀神話・古代研究Ⅲ 古代論集』平凡社、2011年。
新編全集本 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』小学館、1998年。
大系本 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(五)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
武田1988. 武田祐吉『訓読日本書紀』臨川書房、昭和63年。
中村1993. 中村宗彦「『日本書紀』訓釈十題」『山邊道』第37号、天理大学国語国文学会、平成5年3月。天理大学学術情報リポジトリhttps://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3066/(Retrieved February 10, 2023)
浜田1981. 浜田清次『壬申紀私注 上巻』桜楓社、昭和56年。
浜田1983. 浜田清次『壬申紀私注 下巻』桜楓社、昭和58年。
丸山1953. 丸山二郎「日本書紀の或る「造」字の讀みかた」『駒澤史学』第1号、1953年1月。駒澤大学学術機関リポジトリhttp://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/20265/KJ00005093037.pdf(Retrieved February 10, 2023)
ベイトソン1992. グレゴリー・ベイトソン&メアリー・キャサリン・ベイトソン著、星川淳訳『天使のおそれ─聖なるもののエピステモロジー─』青土社、1992年。

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