はじめに
日本書紀は原本が残っているわけではなく、写本の形でしか現存していない。その写本間に細かな違いが見られ、どれが正しいのか校訂が施されている。あるテキスト研究者は、そもそも撰上された時点で一冊しかなかったとは考えられず、複数冊ありすでに細部に違いがあったのではないかと推測している。ただ、それを言い出すと収拾がつかなくなるため、本のテキストがあることにして、それを定めることで日本書紀を読もうとしている。おそらくそのような営みは、書写段階において、意味が通らないから本が間違っているだろうと思って直しを入れながら写す人によって早くから行われていたということになる。本ある字が何という字か納得がいっていないから、他の本も参照しつつ、字の右や左に「□イ乍」などと記している。そういう箇所は厄介なところということであり、今日の研究者にとっても難解とされることが多いようである。
その間の事情を示すために、本稿では天武紀上巻の兼右本から例をとって紹介する。
「告ラン」(右傍「害 イ又乍」、左傍「造 イ乍」)
甲申、将入東。時有一臣奏曰、近江群臣、元有謀心。必告天下。則道路難通。何無一人兵、徒手入東。臣恐、事不就矣。
(大系本)……奏して曰さく、「近江の群臣、元より謀心有り。必ず天下を害らむ。則ち道路通ひ難からむ。何ぞ一人の兵無くして、徒手にして東に入りたまはむ。臣恐るらくは、事の就らざらむことを」とまうす。(72頁)
(新編全集本)……奏して曰さく、「近江の群臣、元より謀心有り。必ず天下に告らむ。道路通ひ難けむ。何ぞ一人の兵も無くして、徒手にして東に入りたまはむ。臣、恐るらくは、事の就らざらむことを」とまをす。(307~308頁)
(武田1988.)……奏して、『近江の群臣元より謀心有り。必天の下に告げば、則道路通ひ難からむ。何ぞ一人の兵無く徒手にして東に入り給はむ。臣事の就らざらむことを恐る』と曰しき。(595~596頁)
(西郷2011.)……奏して曰さく、「近江の群臣、元より謀心有り。必ず天下に告げむ。則ち道路通ひ難からむ。何そ一人の兵無くして、徒手にして東に入りたまはむ。臣恐るらくは、事の就らざらむことを」とまうす。(231頁)
(黒板1944.)……奏して曰さく、近江の群臣、元より謀心有り。必ず天下を造らむ、則ち道路通ひ難からむ。何ぞ一人の兵無くて、徒手東に入りたまはむ。臣恐る、事の就らざらむことを。(318~319頁、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1159888/1/163(Retrieved February 5, 2023)
井上1987.は、「ある臣が、「近江の廷臣たちは、もともと策謀にたけております。きっと国中に妨害をめぐらし、道路も通りにくくなっていることでしょう。どうして一人の兵士もなしに、素手で東国に入れましょう。ことの成功はおぼつかないのではありますまいか」と申し上げた。」(289頁)と訳している。対して、中村1993.は、天下を害ることと道路を通行できないこととは直接関係しないから、「則」で結ぶはずはなく、「害(異体字)」字をとることはできないと考えている。そう難しいものだろうか。
この部分は会話文である。前提として、「近江群臣」には「元有二謀心一」ものである。狡猾な人間がきっと天下をヤブるだろうと言っているとすると、天下はヤブ(藪)になるから、道路までもヤブ(藪)に包まれて茨の道を進むことが難しいのは理の当然でしょう、と言っている。バルバラの三段論法、草の三段論法のほかにも、駄洒落の三段論法というものがあったと考えられる。「元有二謀心一」は常々奸計をめぐらせようと悪だくみに耽っているという意味で、頓智的悪だくみを見据えた包括的、循環的な形容となっており、言葉自体を証明してみせる正鵠を射た言葉となっている。ニヤリと笑う執筆者の顔が浮かんでくる。
もちろん、ただ駄洒落があるからといってそれに従うというわけではない。美濃からの連絡に、山陵を造るからと集められた人夫が武器を持っていたと聞いている。武器と農具には似たところがあり、先端に金属のついた鋤や鍬は戦闘において槍や戈と同等の働きをし得るものである。それらを使って棘のある植物が道路に植えられたのかと思った。無理に進めば怪我をする。そこで先発させた男依らを呼び戻そうとしている。すべて辻褄の合った進行になっている。
書写段階を含めた本文校訂の様子を想像してみよう。当初、「害」とあった。中村氏同様、「則」の意が通じないと思った人が「害」の異体字に似ている「告」ではないかと書き換え、それでも「害」とあったことは傍に書き入れていた。しかし、「近江群臣」が「告(ノル)」というのは立場が違う。天智天皇亡き後、例えば皇太后が「告(ノル)」ならまだしもである。そうなると「告」は誤字ではないかと疑われ、「造」とあったかと推測されて傍に書き込まれた。以上は憶測で証明することはできないが、読み取ろうと思えば読み取れる。
いずれにせよ草の三段論法は成立しにくく、駄洒落の三段論法によって理路が光り輝いて見えて意が通じる部分である。
「逮」(左傍「還 イ乍」)
即急行到伊賀郡、焚伊賀駅家。逮于伊賀中山、而当国郡司等、率数百衆帰焉。
(大系本)……即ち急に行して伊賀郡に到りて、伊賀駅家を焚く。伊賀の中山に逮りて、当国の郡司等、数百の衆を率て帰りまつる。(76頁)
(新編全集本)……即ち急行みて伊賀郡に到り、伊賀駅家を焚く。伊賀の中山に逮りて、当国の郡司等、数百の衆を率て帰りまつる。(313頁)
いずれも「逮(異体字)」字部分、左傍の「還」字をとっていない。しかし、行程を表すものとして、ここは「還」字をとるべきではないか。「駅家」を「焚」きながら進んで行っている。「即急行到伊賀郡」にいたる前段を見てみる。
運湯沐之米伊勢国駄五十匹、遇於菟田郡家頭。仍皆棄米、而令乗歩者。到大野以日落也。山暗不能進行。則壊取当邑家籬為燭。及夜半到隠郡、焚隠駅家。因唱邑中曰、天皇入東国。故人夫諸参赴。然一人不肯来矣。将及横河、有黒雲。広十余丈経天。時天皇異之。則挙燭親秉式占曰、天下両分之祥也。然朕遂得天下歟。
(大系本)<ruby湯沐>
日本書紀は原本が残っているわけではなく、写本の形でしか現存していない。その写本間に細かな違いが見られ、どれが正しいのか校訂が施されている。あるテキスト研究者は、そもそも撰上された時点で一冊しかなかったとは考えられず、複数冊ありすでに細部に違いがあったのではないかと推測している。ただ、それを言い出すと収拾がつかなくなるため、本のテキストがあることにして、それを定めることで日本書紀を読もうとしている。おそらくそのような営みは、書写段階において、意味が通らないから本が間違っているだろうと思って直しを入れながら写す人によって早くから行われていたということになる。本ある字が何という字か納得がいっていないから、他の本も参照しつつ、字の右や左に「□イ乍」などと記している。そういう箇所は厄介なところということであり、今日の研究者にとっても難解とされることが多いようである。
その間の事情を示すために、本稿では天武紀上巻の兼右本から例をとって紹介する。
「告ラン」(右傍「害 イ又乍」、左傍「造 イ乍」)
甲申、将入東。時有一臣奏曰、近江群臣、元有謀心。必告天下。則道路難通。何無一人兵、徒手入東。臣恐、事不就矣。
(大系本)……奏して曰さく、「近江の群臣、元より謀心有り。必ず天下を害らむ。則ち道路通ひ難からむ。何ぞ一人の兵無くして、徒手にして東に入りたまはむ。臣恐るらくは、事の就らざらむことを」とまうす。(72頁)
(新編全集本)……奏して曰さく、「近江の群臣、元より謀心有り。必ず天下に告らむ。道路通ひ難けむ。何ぞ一人の兵も無くして、徒手にして東に入りたまはむ。臣、恐るらくは、事の就らざらむことを」とまをす。(307~308頁)
(武田1988.)……奏して、『近江の群臣元より謀心有り。必天の下に告げば、則道路通ひ難からむ。何ぞ一人の兵無く徒手にして東に入り給はむ。臣事の就らざらむことを恐る』と曰しき。(595~596頁)
(西郷2011.)……奏して曰さく、「近江の群臣、元より謀心有り。必ず天下に告げむ。則ち道路通ひ難からむ。何そ一人の兵無くして、徒手にして東に入りたまはむ。臣恐るらくは、事の就らざらむことを」とまうす。(231頁)
(黒板1944.)……奏して曰さく、近江の群臣、元より謀心有り。必ず天下を造らむ、則ち道路通ひ難からむ。何ぞ一人の兵無くて、徒手東に入りたまはむ。臣恐る、事の就らざらむことを。(318~319頁、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1159888/1/163(Retrieved February 5, 2023)
井上1987.は、「ある臣が、「近江の廷臣たちは、もともと策謀にたけております。きっと国中に妨害をめぐらし、道路も通りにくくなっていることでしょう。どうして一人の兵士もなしに、素手で東国に入れましょう。ことの成功はおぼつかないのではありますまいか」と申し上げた。」(289頁)と訳している。対して、中村1993.は、天下を害ることと道路を通行できないこととは直接関係しないから、「則」で結ぶはずはなく、「害(異体字)」字をとることはできないと考えている。そう難しいものだろうか。
この部分は会話文である。前提として、「近江群臣」には「元有二謀心一」ものである。狡猾な人間がきっと天下をヤブるだろうと言っているとすると、天下はヤブ(藪)になるから、道路までもヤブ(藪)に包まれて茨の道を進むことが難しいのは理の当然でしょう、と言っている。バルバラの三段論法、草の三段論法のほかにも、駄洒落の三段論法というものがあったと考えられる。「元有二謀心一」は常々奸計をめぐらせようと悪だくみに耽っているという意味で、頓智的悪だくみを見据えた包括的、循環的な形容となっており、言葉自体を証明してみせる正鵠を射た言葉となっている。ニヤリと笑う執筆者の顔が浮かんでくる。
もちろん、ただ駄洒落があるからといってそれに従うというわけではない。美濃からの連絡に、山陵を造るからと集められた人夫が武器を持っていたと聞いている。武器と農具には似たところがあり、先端に金属のついた鋤や鍬は戦闘において槍や戈と同等の働きをし得るものである。それらを使って棘のある植物が道路に植えられたのかと思った。無理に進めば怪我をする。そこで先発させた男依らを呼び戻そうとしている。すべて辻褄の合った進行になっている。
書写段階を含めた本文校訂の様子を想像してみよう。当初、「害」とあった。中村氏同様、「則」の意が通じないと思った人が「害」の異体字に似ている「告」ではないかと書き換え、それでも「害」とあったことは傍に書き入れていた。しかし、「近江群臣」が「告(ノル)」というのは立場が違う。天智天皇亡き後、例えば皇太后が「告(ノル)」ならまだしもである。そうなると「告」は誤字ではないかと疑われ、「造」とあったかと推測されて傍に書き込まれた。以上は憶測で証明することはできないが、読み取ろうと思えば読み取れる。
いずれにせよ草の三段論法は成立しにくく、駄洒落の三段論法によって理路が光り輝いて見えて意が通じる部分である。
「逮」(左傍「還 イ乍」)
即急行到伊賀郡、焚伊賀駅家。逮于伊賀中山、而当国郡司等、率数百衆帰焉。
(大系本)……即ち急に行して伊賀郡に到りて、伊賀駅家を焚く。伊賀の中山に逮りて、当国の郡司等、数百の衆を率て帰りまつる。(76頁)
(新編全集本)……即ち急行みて伊賀郡に到り、伊賀駅家を焚く。伊賀の中山に逮りて、当国の郡司等、数百の衆を率て帰りまつる。(313頁)
いずれも「逮(異体字)」字部分、左傍の「還」字をとっていない。しかし、行程を表すものとして、ここは「還」字をとるべきではないか。「駅家」を「焚」きながら進んで行っている。「即急行到伊賀郡」にいたる前段を見てみる。
運湯沐之米伊勢国駄五十匹、遇於菟田郡家頭。仍皆棄米、而令乗歩者。到大野以日落也。山暗不能進行。則壊取当邑家籬為燭。及夜半到隠郡、焚隠駅家。因唱邑中曰、天皇入東国。故人夫諸参赴。然一人不肯来矣。将及横河、有黒雲。広十余丈経天。時天皇異之。則挙燭親秉式占曰、天下両分之祥也。然朕遂得天下歟。
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