古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

神功皇后の新羅親征譚について─新羅(しらき)・百済(くだら)の名義を含めて─

2020年08月12日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 仲哀記や神功前紀に、神功皇后の新羅親征の話が載る。この話は古今問わず評判が悪い。江戸時代の儒学者からは、新羅は何の罪もないのに征服され、財宝を強奪されており、倭の行為は義に悖るものであるとされている(注1)。また、現代では、記紀編纂によって古代国家の足固めをした時代に向けて、推古朝および斉明・天智朝において外交的に新羅に対する敵愾心が起こり、史実に沿わない物語を創り出したのであると考えられている(注2)。しかし、記紀に残る言い伝えが、当時の人々にとって共通認識となっておらず、個人の妄想や「作品」段階にあったとしたら、文字を持たなかった彼らの文化に伝えられることはなかったであろう。
 筆者は、歴史家の議論とは無関係の次元で、新羅親征の話(咄・噺・譚)について検討する。文字を持たなかった時代に、人々が音声言語のヤマトコトバによってなにがしかの事柄を分かち合い、伝え合うことが行われていた。それは事実であるから、今に記紀にこのような話が残されている。その事実を「社会的事実」(デュルケム)(注3)として見極めることを最優先課題にし、他に課題はないものと考える。

 故、備(つぶ)さに教へ覚ししが如(ごと)、軍(いくさ)を整へ船を双(なら)べて度(わた)り幸でます時に、海原(わたはら)の魚(いを)大き小さきを問はず、悉(ことごと)く御船を負ひて渡りき。爾に、順風(おほかぜ)大(いた)く起りて、御船、浪に従へり。故、其の御船の波瀾(なみ)、新羅之国に押し騰(あが)りて、既に国半(くになか)に到りき。是に其の国王(こにきし)畏(お)ぢ惶(かしこ)みて奏言(まを)ししく、「今より以後(のち)、天皇(すめらみこと)の命(みこと)の随(まにま)に御馬甘(みまかひ)と為(な)りて、年毎に船を双べて船腹(ふなばら)を乾さず、柂檝(さをかぢ)を乾さず、天地(あめつち)の共与(むた)無退(とことは)に仕へ奉らむ」とまをしき。故、是を以て新羅国は御馬甘と定め、百済国は渡(わたり)の屯家(みやけ)と定めき。爾に、其の御杖(みつゑ)を新羅の国王の門(かど)に衝き立て、即ち墨江大神(すみのゑのおほかみ)の荒御魂(あらみたま)を以て国守神(くにもりのかみ)と為(し)て、祭り鎮めて還り渡りき。(仲哀記)
 冬十月の己亥の朔にして辛丑に、和珥津(わにつ)より発ちたまふ。時に飛廉(かぜのかみ)は風を起し、陽侯(うみのかみ)は浪を挙げて、海中(わたなか)の大魚(おふを)、悉(ふつく)に浮びて船(みふね)を扶(たす)く。則ち大きなる風順(なびかぜ)に吹き、帆舶(ほつむ)波の随(まにま)に㯭檝(かいかぢ)を不労(いたつ)かずして、便(すなは)ち新羅に到る。時に、随船潮浪(ふななみ)、遠く国中(くになか)に逮(みちおよ)ぶ。即ち知る、天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)悉に助けたまふか。新羅の王(こきし)、是に戦々慄々(おぢわなな)きて厝身無所(せむすべなし)。則ち諸人(もろもろのひと)を集へて曰く、「新羅の、国を建てしより以来(このかた)、未だ嘗て海水(うしほ)の国に凌(のぼ)ることを聞かず。若(けだ)し天運(よのかぎり)尽きて、国、海と為(な)らむとするか」といふ。是の言(こと)未だ訖(をは)らざる間に、船師(ふないくさ)海に満ちて、旌旗(はた)日に耀(かがや)く。鼓吹(つづみふえ)声(こゑ)を起して、山川悉に振ふ。新羅の王、遙(はるか)に望(おそ)りて以為(おも)へらく、非常(おもひのほか)の兵(つはもの)、将に己が国を滅(ほろぼ)さむとすとおもふ。讋(お)ぢて志(こころ)失(まど)ひぬ。乃今(いまし)醒めて曰く、「吾聞く、東(ひむがしのかた)に神の国有り。日本(やまと)と謂ふ。亦、聖(ひじり)の王(きみ)有り。天皇(すめらみこと)と謂ふ。必ず其の国の神兵(みいくさ)ならむ。豈(あに)兵(いくさ)を挙げて距(ふせ)くべけむや」といひて、即ち素旆(しろきはた)あげて自ら服(まつろ)ひぬ。素組(しろきつな)して面縛(みづからとらは)る。図籍(しるしへふみた)を封(ゆひかた)めて、王船(みふね)の前(まへ)に降(くだ)す。 因りて、叩頭(の)みて曰(まを)さく、「今より以後(のち)、長く乾坤(あめつち)に与(ひと)しく、伏(したが)ひて飼部(みまかひ)と為(な)らむ。其れ船柂(ふねかぢ)を乾(ほ)さずして、春秋に馬梳(うまはたけ)及び馬鞭(うまのむち)を献らむ。復(また)海(わた)の遠きに煩(いたか)ずして、年毎に男(をのこ)女(をみな)の調(みつき)を貢らむ」とまをす。則ち重ねて誓ひて曰さく、「東にいづる日の、更に西に出づるに非ずは、且(また)阿利那礼河(ありなれがは)の返りて逆(さかしま)に流れ、河の石の昇りて星辰(あまつみかほし)と為るに及(いた)るを除(お)きて、殊(こと)に春秋の朝(ゐや)を闕(か)き、怠りて梳と鞭の貢(みつき)を廃(や)めば、天神地祇、共に討(つみな)へたはへ」とまをす。時に或(あるひと)の曰(まを)さく、「新羅の王を誅(ころ)さむ」とまをす。 是に、皇后(きさき)の曰はく、「初め神の教(みこと)を承(うけたまは)りて、将に金(くがね)銀(しろかね)の国を授(う)けむとす。又、三軍(みたむろのいくさ)に号令(のりごと)して曰ひしく、『自ら服(こ)はむをばな殺しそ』といひき。今既に財(たから)の国を獲(え)つ。亦、人自ら降服(まつろ)ひぬ。殺すは不祥(さがな)し」とのたまひて、乃ち其の縛(ゆはひつな)を解きて飼部としたまふ。遂に其の国の中(うち)に入りまして、重宝(たから)を府庫(くら)を封(ゆひかた)め、図籍文書(しるしのふみ)を収(とりをさ)む。即ち皇后の所杖(つ)ける矛(みほこ)を以て、新羅の王の門(かど)に樹(た)て、後葉(のちのよ)の印としたまふ。故(かれ)、其の矛、今猶(なほ)新羅の王の門に樹てり。 爰(ここ)に新羅の王波沙寐錦(はさむきむ)、即ち微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を質(むかはり)とし、仍りて金・銀・彩色(うるはしきいろ)、及び綾(あやきぬ)・羅(うすはた)・縑絹(かとりのきぬ)を齎(もたら)して、八十艘(やそかはら)の船に載(のせい)れて、官軍(みいくさ)に従はしむ。是を以て、新羅の王、常に八十船(やそふね)の調(みつき)を以て日本国(わがみかど)に貢(たてまつ)る、其れ是の縁(ことのもと)なり。是に、高麗(こま)・百済(くだら)、二つの国の王(こきし)、新羅の、図籍を収めて日本国に降(まつ)りぬと聞きて、密(ひそか)に其の軍勢(みいくさのいきほひ)を伺はしむ。則ちえ勝つまじきことを知りて、自ら営(いほり)の外に来(まうき)て、叩頭(の)みて款(まを)して曰(まを)さく、「今より以後(のち)は、永く西蕃(にしのとなり)を称(い)ひつつ、朝貢(みつきたてまつること)絶(た)たじ」とまをす。故、因りて、内官家屯倉(うちつみやけ)を定む。是、所謂(いはゆる)三韓(みつのからくに)なり。皇后、新羅より還りたまふ。(神功前紀仲哀九年十月)

 疑問点は読解のヒントになる。①魚が船を背負って渡ったことになっている。②波や潮が新羅の半国(国中)(くになか)に到達している。③新羅の国王が御馬甘(飼部)になっている。④百済国も巻き込まれて渡(わたり)の屯家(みやけ)になっている。⑤天皇はついていた杖を新羅の国王の門のところに衝き立て、⑥墨江大神の荒御魂として国守神にしている。
 それらのことはあろうはずはない。そういう形容をすることによって効果があるから行われている。征服話として話をする側も、その話を聞く側も、なるほどとわかるからそうしていてそう通っている。百済がミマカヒになり、新羅がワタリノミヤケになるという話では話にならないということである。なぜ新羅はミマカヒになったのか。紀では、「其れ船柂(ふねかぢ)を乾(ほ)さずして、春秋に馬梳(うまはたけ)及び馬鞭(うまのむち)を献らむ」としている。馬甘(馬飼)は馬の飼育、生産に当たる。馬を繁殖し、育て、乗馬用、また農耕・運搬用に用いられるようにする役職であった。馬肉はおろか、馬梳や馬鞭を献納するために設けられたはずはない。作為が明らかである。
 新羅はシラキ(キは乙類)と言い、百済はクダラと言う。どうしてそのように訓めるのか。魏志韓伝に見える斯盧(しら)国が中心になってできた国で、キは城、柵のことを意味する上代語で、百済語でも同じであるとされるが、新羅がシラキと自称したのではない。結局のところ、その謂れについては未詳である。ただわかることは、新羅のことをヤマトコトバにシラキと呼んでいたことである。音声にシラキと聞こえている。シラ(白)+キ(木、キは乙類)のことであると連想が働くであろう。
 白木とは何を表すか。材木のうち白っぽい色をしたもの、漆などの塗装を施していないもの、また、トウダイグサ科の落葉高木を指すともされる。樹皮を剥いだだけの状態の木が白木である。これから加工、細工をする。その概念を最も先鋭化したものに、削り掛けがある。
左:削り掛け(川崎市立日本民家園ボランティア様製作品)、右:削り掛け図(喜田川季荘編・守貞漫稿巻26、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592412/29をトリミング)
 ここまで細工ができるのか、と度肝を抜く代物である。可塑性が非常に高い材料が白木である。削り掛けには柔らかいニワトコやヤナギなどが使われた。材としてのニワトコは記に見える。

 此の山たづと云ふは、是今の造木(みやつこぎ)ぞ。(允恭記)

 山たづともいう造木(みやつこぎ)とは、造(みやつこ)=ミ(御)+ヤツコ(奴)の木の義である。隷属民にいかようにもさせてしまう木が造木である。奴隷が細工したかのような神経衰弱性が感じ取れる。木を使って細工されて、造花となっている。木が花に見紛うばかりである。見紛うこと、それが白木の本性である。だから、新羅はすなわち、「見紛ひ」なのであると考えられた。ミ(見、ミは甲類)+マカヒ(紛、ヒは甲類)であり、それは、「御馬甘(飼部)」(ミマカヒ、ミ・ヒは甲類)である(注4)。新羅はシラキという音を担っているのだから、御馬甘(飼部)であることが志向されている。ヤマトコトバに語義の連携を定められた始まりが、新羅親征の話(咄・噺・譚)であり、永く語り伝えられて稗田阿礼の口述に及び、太安万侶が筆記したものを伝写して今日に至っている。これを儒学的な道義性や史学的な真実性をもって推し量り、評価することは、土台無理であり、滑稽なことでもある。
 削り掛けに流々たる細工を見るにつけ、その技を生み出す根源は何か。刀子(ナイフ)である。すなわち、新羅は鉄製利器を持っていた。「金(こがね)銀(しろかね)の国」としているけれど、真相は「鉄(くろがね)の国」である。みな知っていて面白がって呼んでいる。紀で、馬梳や馬鞭をとりあげていた。馬自体でも、馬を飾る馬具でもなく、馬の毛を洗う刷毛と馬の尻を叩く鞭を春と秋に献上すると約束していた。同時に男女の調も貢納するとしていた。刷毛や鞭は白木から作られるのであれば、刀子で上手に細工されたのであろうし、その細々した手仕事は奴隷の仕事だから奴隷もおくると言っているのだと解される。
 記において、百済は「渡屯家(わたりのみやけ)」とされている。クダラの名は居陁(こだ)郡の名が広まったものとも、ク(大)+タラ(村落)の意からともされている。やはり、百済がクダラと自称したのではなく、ヤマトコトバにクダラである。クダラと聞けば、クダ(管)+ラ(等)のことという印象を受ける。管のあるもので朝鮮半島南部から伝えられたものに、ストローがある。稲藁である。稲藁は管の状態を保っているので、保温性に優れる。稲作を行えば大量に得られる。竪穴式住居でも、土間に敷いて暮らすのに快適であり、筵に編めば敷物ばかりか布団にも活用できた。すなわち、稲藁の管は、布団のわたに同じ作用を示す。ということは、ヤマトコトバの観念体系のなかで、百済はワタの役割を求められることになる(注5)
 白川1995.に、「わた〔海(海)〕海をいう。「わたつみ」は海を支配する神で、また海をいう。……「わたつみ」に対してまた「やまつみ」という語があり、山の神霊をいう。……類義語の「うみ」は、池・湖にもいう語で、はるかに語義が広い。」(804頁)とある。「海原」(記)はワタハラ、ワタノハラ、「海中」(紀)はワタナカと訓むのが適当である。

 名児(なご)の海を 朝漕ぎ来れば 海中(わたなか)に 鹿子(かこ)そ鳴くなる あはれその鹿子(万1417)

 海のわたの正体は、大小さまざまな魚である。魚は海の「わた」でありつつ、魚には「はらわた」があって、魚とは「わた」なのだと悟ることができる。古典基礎語辞典に、「貝・魚・鳥・人間など、動物一般の内蔵。「腸(はらのわた/はらわた)」「蜷(みな)の腸(わた)」の語形で使われることが多い。特に『万葉集』のワタは、すべて「蜷の腸」の形で出ている。」(1333頁、この項、白井清子)とある。和名抄に、「大腸 中黄子に云はく、大腸〈音は直良反、波良和太(はらわた)〉は伝送の府為(た)りといふ。」、「小腸 中黄子に云はく、小腸〈楊氏漢語抄に保曽和太(ほそわた)と云ふ。〉は受盛の府為りといふ。」、華厳音義私記に、「大小腸 波良汙多(はらわた)」、「腸 音丈、訓胎和多(はらわた)」とある。
 「わた」を名に負うことを自己言及して説明するため、記紀の話に魚が御船を負って渡っている。したがって、ヤマトに対して「わた」の役目を成し遂げることとは、「渡屯家」としてあることが求められていたのである。白川1995.に、「わたる〔渡・度〕 四段。他動詞「わたす」も四段。「わたらふ」は語尾「ふ」をそえた形。「わたり」を名詞形。水面などを直線的に横切って、向う側に着くことをいう。此方から向うまでの間を含めていい、時間のときにも連続した関係をいう。「わた」はおそらく「海(わた)」。「わたす」「わたる」は、海を渡ることが原義であろう。」(805頁)とある。カバーの中にくるまれている弾力のある物質を「わた」と呼んでいる。木綿が到来する以前において、「わた」とは真綿のことである。白川1995.に、「わた〔綿〕 真綿(まわた)・木綿(もめん)の総称。古くは「きぬわた」、すなわち真綿をいう。奈良朝の調綿はみな真綿であった。」(805頁)とある。

 伎倍人(きへひと)の 斑衾(まだらぶすま)に 綿さはだ 入りなましもの 妹が小床(をどこ)に(万3354)

 蚕の繭から生糸をとろうと養蚕したうち、不良になって生糸をとれないと思われた繭玉は、それを伸ばすことでわたにされた。17世紀、明代、宋応星・天工開物に、「造綿(まわたをとる)」の項がある。「凡そ双繭を并せて繰糸とす。鍋底の零余、出種の繭殼を併せて,皆緒を断乱して糸とすべからざるを用ゐて以て綿を取る。稲灰の水煮の過すを用て〔石灰は宜しからず。〕清水を盆内に傾き入れ、手の大指、甲を去りて指頭を浄尽し、四箇を頂開す。四四の数足り、拳を用て頂開すること、又四四十六の拳の数、然して後、小竹弓に上ぐ。此れ荘子の所謂、絖を洴澼する也。」とある。稲藁を焼いた灰が用いられている。稲作と同時期に養蚕は本邦へ伝えられたようである(注6)。真綿を作るのに、「小竹弓」が使われている。神功皇后が海(わた)を渡って新羅の「半国(国中)」に波を至らせている点は、真綿を作るのに「わた」を波立たせていることを例えているのであろう。水中で綿打弓を使った例が報告されている(注7)
 そして、弓一張りの長さを「杖(つゑ)」という単位で表していた。だから、御杖をメルクマールとして、新羅王の屋敷の門のところにつき立てたのであろう。「わた」がここまで来ましたという津波記録ということになる。墨江大神の荒御魂を祭ったとあるのは、和魂(にきみたま)との対であり、荒妙(あらたえ)・和妙(にきたえ)の荒妙に相当する。海の神の総本山が墨江大神であり、養蚕で言えば生糸は和妙、真綿は荒妙に当たるから、その顕彰として荒魂が祭られている。そしてそれはもともとは真綿を打つ弓であった。
「水の中で袋状の真綿を竹弓にかける」(曹1996.2頁)
 すなわち、弓が門のところに立てられて「国守神」となっている。新校古事記に、「「守」は津守・野守・山守などのモリと同じく監視する意で、朝貢を盟約した新羅国を監視する神の意。」(290~291頁)とある。「御杖」が監視カメラになるわけではない。このイメージはフラッシュバックに思い出される話がある。記に、海を渡ってきた少名毘古那神(すくなびこなのかみ)の出現において、その名を知っていた「そほど(曽富騰)」の話である。同じ話は紀にも伝わるが、「そほど」は登場していない。

 故、大国主神、出雲の御大(みほ)の御前(みさき)に坐す時に、波の穂より天(あめ)の羅摩(かがみ)の船に乗りて、鵝(かり)の皮を内剥ぎに剥ぎて衣服(ころも)として、帰(よ)り来る神有り。爾に其の名を問へども答へず。且(また)、従へる諸の神に問へども、皆知らずと白しき。爾に、たにぐくが白して言はく、「此は久延毘古(くえびこ)、必ず知らむ」といふに、即ち久延毘古を召して問ひし時に、答へて白ししく、「此は神産巣日神(かむむすひのかむ)の御子、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)ぞ」とまをしき。故、爾に神産巣日御祖命(かむむすひのみおやのみこと)に白し上げしかば、答へて告らししく、「此は実に我が子ぞ。子の中に、我が手俣(たまた)よりくきし子ぞ。故、汝、葦原色許男命(あしはらのしこをのみこと)と兄弟(はらから)と為りて其の国を作り堅めよ」とのらしき。故、爾より大穴牟遅(おほあなむぢ)と少名毘古那と二柱の神、相並(とも)に此の国を作り堅めき。然くして後は、其の少名毘古那神は常世国(とこよのくに)に度(わた)りき。故、其の少名毘古那神を顕はし白しし所謂(いはゆる)久延毘古は、今には山田の曽富騰(そほど)ぞ。此の神は、足は行かねども尽(ことごとく)に天の下の事を知れる神ぞ。(記上)
 初め大己貴神(おおあなむちのかみ)の国を平(む)けしときに、出雲国の五十狭狭(いささ)の小汀(をはま)に行到(ゆきま)して、飲食(みをし)せむとす。是の時に、海(わた)の上に忽(たちまち)に人の声有り。乃ち驚きて之を求むるに、都(ふつ)に見ゆる無し。頃時(しばらく)ありて一箇(ひとり)の小男(をぐな)有り。白蘞(かがみ)の皮を以て舟に為(つく)り、鷦鷯(さざき)の羽を以て衣にして、潮水(しほ)の随(まにま)に浮き到る。大己貴神、即ち取りて掌中(たなうら)に置きて翫(もてあそ)びたまひしかば、跳(おど)りて其の頬(つら)を囓(く)ふ。乃ち其の物色(かたち)を怪びて、使を遣(まだ)して天神(あまつかみ)に白す。時に、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、聞しめして曰はく、「吾の産みし児(みこ)、凡て一千五百座(ちはしらあまりいほはしら)有り。其の中に一(ひとり)の児、最(いと)悪(つら)くして教養(をしへごと)に順(したが)はず。指間(たま)より漏(く)き墮(お)ちにしは、必ず彼ならむ。愛(めぐ)みて養(ひだ)せ」とのたまふ。此れ即ち少彦名命(すくなびこなのみこと)是なり。(神代紀第八段一書第六)
弓をひく案山子(左:一遍聖絵写・巻一、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591573/20をトリミング、右: 寺島良安・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569720/18をトリミング)
 「そほど」は、案山子のことである。弓をかまえて守る神となっている。
 では、「百済」と書いてどうしてクダラと訓んだのか、ないしは、クダラと呼ばれていたものに「百済」という漢字をあてがうことにどうして違和感を持たずに称呼され続けたのか(注8)。その理由も、稲藁に着目されていたからと考えられる。米を作るには、農民の数多い手間を必要とする。それを文字に例えて、「米」という字が表すように、八十八回手間をかけてできたものであると説かれて久しい。八十八はとても大きな数であり、それだけの回数を経て穀物の米は収穫できる。稲藁はその副産物なのであるが、稲藁を資源として活用するには、さらに集めること、乾かすこと、叩きならすこと、編み込むことといったさらなる手間が要る。つまり、手間は百回に達する。手間が百回済んだ段階で実用でき、価値あるものとして得られるもの、それが稲藁である。だから、百済と書いてクダラと訓めるのである。
 これら白木(しらき)と管等(くだら)のこととして、神功皇后の親征譚は伝えられている。新羅を白木と同義と考え進めて行ったら、同じ韓の国として百済まで一括して語義解釈を完了することになっている。「半国」(記)、「国中」(紀)にまで波や潮が及んだとしているのは、クニナカという音に、ニナ(蜷)が収まっているからであろう。新撰字鏡に、「蜷 奇円反、尓奈(にな)」、「蜷 奇円反、弥奈(みな)」とあり、ニナまたはミナとも言って、好んで食された巻貝である。ミナノワタという言い方が慣用化している。内臓のことをいうワタという言葉の代表格である。

 天(あめ)にある 姫菅原(ひめすがはら)の 草な刈りそね 蜷(みな)の腸(わた) か黒き髪に 芥(あくた)し着くも(万1277)
 鴨じもの 浮寝(うきね)をすれば 蜷の腸 か黒き髪に 露そ置きにける(万3649)
水槽に吸着するカワニナ(井の頭自然文化園)
 ミナノワタは、「か黒し」にかかる枕詞である。焼いた色が黒いからという説が東光治にあるが、真相は、ヤドカリのことをいう寄居虫(かみな)と髪無(かみな)との洒落によっている(注9)。巻貝の中身を取り出してみると、ぐるぐるっと腸のような形になっていて、はらわたに見える。だから、クニナカに、ニナ(蜷)があるとは、クカ(国処)(注10)のど真ん中にミナノワタがあって、腹黒い性格をしていると定められていったのである。白木で見紛うものを作る輩のレッテルづけぴったりである。しかも海の波や潮が押し寄せているというのは、貝のニナを食べるときに、塩味をつけたからである。
 そして、春秋には必ず貢納物が担われて献納されることになっている。実際の問題ではなく、そういう役割が担わされているということである。語の定義として、ニナなのだからそうなくてはならない。
 見てきたことからわかるのは、稲作の副産物の稲藁の活用術、生糸を主目的とする養蚕に伴う真綿の生産術(注11)、鉄製品による木材加工術、など、大それたことではないが副産的な側面の技術事情について語るものとなっている。新技術をもたらしてやまない韓(から)の正体を見破ったぞという不思議な誉れを征服譚(注12)に創作している。
 話の発端は神の託宣であった。

 其の大后息長帯日売命は、当時(そのかみ)、神に帰(よ)りき。故、天皇、筑紫の訶志比宮(かしひのみや)に坐す。熊曽国を撃たむとする時、天皇、御琴を控きて、建内宿禰大臣、さ庭に居て神の命(みこと)を請ふ。是に大后(おほきさき)の、神帰(かむより)したまひて、言(こと)教へ覚し詔(のりたま)ひしく、「西の方に国有り。金銀を本と為て、目の炎耀(かかや)く種種(くさぐさ)の珍しき宝、多(さは)に其の国に在り。吾今其の国を帰(よ)せ賜はむ」とのりたまひき。(仲哀記)
 時に、神有して、皇后に託(かか)りて誨(をし)へまつりて曰はく、「天皇、何ぞ熊襲の服(まつろ)はざることを憂へたまふ。是、膂宍(そしし)の空国(むなくに)ぞ。豈、兵(いくさ)を挙げて伐つに足らむや。玆の国に愈(まさ)りて宝有る国、譬へば処女(をとめ)の睩(まよびき)の如くにして、津に向へる国有り。睩、此には麻用弭枳(まよびき)と云ふ。眼(ま)炎(かかや)く金・銀・彩色(うるはしきいろ)、多に其の国に在り。是を栲衾(たくぶすま)新羅国と謂ふ。若し能く吾を祭らば、曽(かつ)て刃(やきは)に血(ちぬ)らずして、其の国必ず自づから服(まつろひしたが)ひなむ。復、熊襲も為服(まつろ)ひなむ。其の祭りたまはむには、天皇の御船、及び穴門直践立(あなとのあたひほむたち)の献れる水田(こなた)、名けて大田といふ、是等の物を以て幣(まひな)ひたまへ」とのたまふ。(仲哀紀八年九月)

 記に、「帰神」、「帰神」とある「帰」は、神が近寄って憑依することを指している。さまざまに訓まれているが、動詞ヨル(ヨは乙類)と訓むのが妥当であろう。

 神南備(かむなび)の 神依板(かむよりいた)に する杉の 念(おも)ひも過ぎず 恋の繁きに(万1773)

 神霊を招き寄せるために叩き鳴らしたとされる板のことである。琴頭(ことがみ)に置いたことから琴の板ともいう。杉の板が白木であることは言うまでもない。神が帰(よ)っているのに依って、「言教覚」に依って、「順風」に依って行っている。蜷の腸がよれているのに準じている。
 「金銀を本と為て、目の炎耀(かかや)く種種(くさぐさ)の珍しき宝、多(さは)に其の国に在り。」(記)、「眼(ま)炎(かかや)く金・銀・彩色(うるはしきいろ)、多に其の国に在り。」(紀)なる国があるという。紀では名まで記されている。「栲衾(たくぶすま)新羅国」である。「栲衾(たくぶすま)」は、「新羅」を導く枕詞とされている。栲衾(たくぶすま)とは、栲の布で作られた夜具のことである。栲(たく)と楮(こうぞ)とのあいだの種の分類は厳密なものではなかったとされ、それらの類の樹皮から繊維をとり、それで寝具を作っている。一般には、栲の色が白いことから、シラの音にかかるとされている。

 栲衾 白山風(しらやまかぜ)の 寝なへども 子ろがおそきの あろこそえしも(万3509)
 栲衾 新羅へいます 君が目を 今日か明日かと 斎ひて待たむ(万3587)
 栲衾 志羅紀(しらき)の三埼を、国の餘ありやと見れば、国の餘あり。(出雲風土記意宇郡)
 好く我が前(みまへ)を治め奉らば、我爾(ここ)に善き験を出して、比々良木(ひひらぎ)の八尋鉾根(やひろほこね)底付かぬ国、越売(をとめ)の眉(まよ)引きの国、玉匣(たまくしげ)かがやく国、苫枕(こもまくら)宝有る国、白衾(たくぶすま)新羅の国を、丹浪(になみ)以て平伏(ことむ)け賜ひなむ。(播磨風土記逸文・爾保都比売命)

 大系本日本書紀に、「古くタクフスマが新羅の産物として知られた事実があり、一方タクフスマの連想させるシロと新羅のシラの音の類似とから枕詞となったものか。」(397頁)とある。しかし、この解釈は浅薄である。栲の樹皮を採ってどのようなものにし、何にするものなのか考えられていない。

 柚富(ゆふ)の郷 郡の西にあり。此の郷の中(うち)に栲(たく)の樹(き)多(さは)に生ひたり。常に栲の皮を取りて、木綿(ゆふ)に造れり。因りて柚富の郷といふ。(豊後風土記・速見郡)

 栲から「木綿(ゆふ)」が作られている。衾と呼ばれた今の布団の中わたの素材である。上に提示した削り掛けのもわもわしたものに当たる。つまり、「栲衾(たくぶすま)」が「新羅」にかかるのは、これからもわもわした状態の中わたにすることが可能な白木のことを思い浮かべて掛かると思われていたのである。だからこそ、記では、託宣が得られたのは夜のことと設定され、「即ち火を挙げて見れば、既に崩(かく)りましぬ。」(仲哀記)となっている。
 そんな削り掛け的な中わたの新羅、稲藁のストローの保温効果を示す百済のことを、神功皇后の新羅親征譚は語っている。それらの国々はもとよりカラクニ(韓国)である。絡繰り、唐紙などというように、カラという語には、中に大層な仕掛けがあるように思われながら実は大したことないものが入っていることを言っている。託宣に「金銀を本と為て、目の炎耀(かかや)く種種(くさぐさ)の珍しき宝」、「眼(ま)炎(かかや)く金・銀・彩色(うるはしきいろ)」などと財宝があるように伝えられているが、そのようなことのあろうはずはない。もし仮にそのように本当に信じられていたなら、神功皇后に限らず歴代の君主が新羅へ親征していておかしくない。みな、中が空洞のカラの国だとわかっている。金銀はメッキ(鍍金)だと知られているのである。どこに宝があるか。タ(手)+カラ(韓)だから手の中にある。手が持っている技能にある。削り掛けを作るような下請け町工場的な技能を持っていた。
 そもそもどうして新羅を征討しようということになったのか。それは、熊襲を含めた西方征伐の一環である。標的とされたのが、「西」にある国である。託宣がそのように下ったからである。「西方有国。金銀為本、目之炎耀、種種珍宝、多在其国。吾今帰‐賜其国。」(仲哀記)、「朕西欲求財国。若有事者、河魚飲鉤。」(神功前紀仲哀九年四月)などとある(注13)。しかし、方向的に新羅は西方なのだからそう呼んでいるとするのは少し違う。西を討とうとして見させたところ、「西海(にしのみち)に出でて国有りやと察(み)しめたまふ。還りて曰さく、「国見えず」とまをす。」(神功前紀仲哀九年九月)とあり、他の人に見させたら、「西北(いぬゐのかた)に山有り。帯雲(くもゐ)にして横さに絙(わた)れり。蓋し国有らむか」(同)と報告されてそれと認めるに至っている。橿日宮(かしひのみや)付近から見させているから、それが新羅のこととするなら西北とあるのが正しくて西とは言い難い。それでも、当初の託宣に「西」とあるからそういうことにしており、半島側も話の上で自分たちを「西蕃」と位置付けることになっている。
 ターゲットが「西」と定められたのであった。そして、託宣として、「水田(こなた)、名けて大田」の物で神への捧げものとするようにと言われている。そこで、「神田(みとしろ)」を作っている。「西」を討つのに「水田」が求められている。その理由は、上に貝のニナ(蜷)が求められていたのに同じく、田に棲息する同じく巻貝のニシ(螺)、タニシ(田螺)を挙げていると考えられる。和名抄に、「小辛螺 七巻食経に云はく、小辛螺〈仁之(にし)〉といふ。楊氏漢語抄に云はく、蓼螺子といふ。」とある(注14)。西に行くのだから螺が求められ、区別のつきにくい蜷の話、それも「わた」の話になって盛り上がっている(注15)。両者の見分け方の壺は、蓋(かい)の閉まり方にある。貝(かひ)の蓋(かい)について注目が集まっている。天蓋などのおおう物をカイと音で表したようである。このことは、早くからカイと音便化している船の櫂(かい)との連想を誘っている。当該神功前紀にも「㯭檝(かいかぢ)」とあり、万葉集にも「早漕ぐ舟の 賀伊(かい)の散(ちり)かも」(万2052)とある。和名抄でも、「棹 釈名に云はく、旁に在りて水を撥ぬるを櫂〈直教反、字は亦、棹に作る。楊氏漢語抄に加伊(かい)と云ふ〉と曰ひ、水中に櫂し且(また)櫂を進む也といふ。」とある。この櫂の意にカイというヤマトコトバが存する点について、音便とする説は時代的に早すぎて疑問、被覆形カに接尾語イのついた露出形とする説もあるが母音融合を起さなかった理由が疑問とされ、理解されるに至っていない。筆者はここに、貝(かひ)との区別のために蓋(かい)との連動によって櫂(かい)という語の湧出したとする説を提唱する。
船形埴輪(宮崎県西都市西都原古墳群出土、古墳時代、5世紀、東博展示品。舷側上の突起は櫂の支点となるものである。)
 これら淡水生の巻貝が数を増やすこととは、生育環境に恵まれることを表している。水田稲作が広まったから、これらの貝や水に近しい環境を好む昆虫が生きやすくなり数が増えている。貝の腸(わた)がたくさん食べられることとは、すなわち、海(わた)を渡ることが格段に容易になってきたことを表しているのであろう。貝(カイ)が増えたのは、櫂(かい)が増えたことと、ヤマトコトバにおいて相即の関係にあるということである。「水田」を営んで神に「貝」が捧げられるほどになるということは、生産力が向上して櫂をたくさん作ることができることに同じなのである。それがニナ(蜷)であれば海(わた)を渡りやすく、ニシ(螺)であれば西の宝有る国を服属させることに同じなのである。因果関係として、生産力の向上が朝鮮半島への出兵につながったのか、朝鮮半島からの技術移入によって生産力が向上したのかという視点ではなく、両者の連関関係をまるごと示唆する逸話として、新羅親征譚は形作られていると考えられるのである(注16)
 最後に、新羅親征譚を支えているのが墨江大神である点について考える。墨江大神が航海の神であることは知られている。墨江は「定墨江之津。」(仁徳記)、「泊於住吉津。」(雄略紀十四年正月)と記され、整備された良港である。しかし、その言葉、その用字は、江が墨のように黒いことを物語る。全体的に暗くなると、船を走行に決して好ましいものではない。夜になるのにつれ、暗くなるのが早いから発着に不利になるのではないかと考えられてしまう。しかし、国際港でもあった墨江津にそのような心配は無用である(注17)。なぜなら、多数の常夜灯が設けられていたからである。数多くの常夜灯がいろいろな方向から照らしていれば、江が黒ければかえって見やすいことになる。ここに、墨江大神の正体も知れる。
 次に水底(みなそこ)に滌(すす)く時に成れる神の名は、底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、次に底筒之男命(そこつつのをのみこと)。中に滌く時に成れる神の名は、中津綿見神(なかつわたつみのかみ)、次に中筒之男命(なかつつのをのみこと)。水の上に滌く時に成れる神の名は、上津綿津見神(うはつわたつみのかみ)、次に上筒之男命(うはつつのをのみこと)の命。此の三柱の綿津見神は阿曇連(あづみのむらじ)等(ら)が祖神(おやがみ)と以ちいつく神なり。故、阿曇連等は、其の綿津見神の子、宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)の子孫(あなすゑ)なり。其の底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は墨江(すみのえ)の三前(みまへ)の大神(おほかみ)なり。(記上)
「是は、天照大神の御心(みこころ)ぞ。亦、底筒男・中筒男・上筒男、三柱の大神ぞ。此の時に、其の三柱の大神の御名(みな)は顕(あらは)れき。今寔(まこと)に其の国を求めむと思はば、天神(あまつかみ)・地祇(くにつかみ)と、亦、山の神と河・海の諸(もろもろ)の神とに、悉(ことごと)く幣帛(みてぐら)を奉り、我が御魂(みたま)を船の上に坐(いま)せて、真木(まき)の灰を瓠(ひさこ)に納(い)れ、亦、箸とひらでとを多く作りて、皆々(みなみな)大き海に散し浮(う)けて、度(わた)るべし」(仲哀記)
  爾に其の御杖(みつゑ)を以て、新羅の国主(くにのあるじ)の門(かど)に衝(つ)き立て、即ち墨江大神の荒御魂(あらみたま)を以て、国守(くにもり)の神と為(し)て祭り鎮めて還り渡りき。(仲哀記)
左:港の明かり(「関西の釣り」様https://memenet.co.jp/kantsuri/bait_fishing/11170/)、右:蛍の光(蛍遊の水辺・由加、倉敷市郊外、日刊Webタウン情報おかやまhttps://tjokayama.jp/trip/hotaru_yuga20200605/)
 航海神の墨江大神は、底筒男・中筒男・上筒男の三柱からなる大神である。ここに「筒」と形容されるものは何かについては諸説ある(注18)。本稿で、話の底流に、螺や蜷があることについて見てきた。田が増えたことでトンボやカエルなども増えたのと同様、螺や蜷も増えた。そして、それらを人間が食べるばかりでなく、ホタルの幼虫も好んで食べて大量に発生した。結果、夜間に明かりが灯ることになっている。星のことを古語にツツといい、それは、蛍の光に準えられる。月明かりとは別の明かりである墨江津にある多数の常夜灯を形容するのに、ツツという語をもってするのは言葉の上で合理的である。ミナノワタ(蜷腸)が「か黒き」に掛かる枕詞であれば、スミノエ(墨江)という黒いところに関係するに違いないとわかるからである。ホタルが行き交ってそこらじゅうを照らす様は、夜間に船を操舵する際に水底、水中、水面のすべてを見定めさせるように光っているように見える。多数光っているから、底筒男・中筒男・上筒男といった表現に至っている。航海神として海を渡るのに持って来いの神にして、「わた」について語っていた新羅、百済などを征する話だから墨江大神が持ち出されていたのであった。
 以上のことが、神功皇后の新羅親征譚の主題である。ヤマトコトバに言葉の定義を展開していった話なのである。それ以上でもそれ以下でもない。逆にこの話がヤマトコトバの観念体系に及ぼした影響こそ甚大で、この話を現実のこととして推し定めることが行われた。斉明・天智朝の、白村江での敗戦へとつながる出兵である(注19)。そのとき、言=事であるという定式は崩れてしまった。ヤマトコトバは自らの立脚点を踏みそこねたのである。それは同時に、文字文化を導入する引き金を自ら引いてしまうことにもなった。記紀万葉のテキストは、無文字時代のヤマトコトバの爛熟の跡を留めたものなのである。

(注)
(注1)江戸時代の解釈の傾向は、次の文章に見て取れる。本居宣長・古事記伝に、「〇此大后の韓国征伐コトムケ賜へりし事を、儒者どもなどのアゲツラひて、新羅そのかみ皇国にアタせしことも聞えず、何てふ罪も無かりしに、故なくウチ給ふは、只宝貨タカラモノムサボ賜へるにて、不義のミシワザ、無名のミイクサぞなど申すなるは、たゞ己が私チヒササトリを以て、物の義理コトワリを定むる例の漢国心カラクニゴヽロにして、マコトの道を知ざるものなり、抑此御征伐ミコトムケは、皇神の御心よりオコりて、コトゴトに神の御所為ミシワザなれば、必如此カクあるべき義理コトワリあることにて、其義理コトワリイト微妙タヘなる物なれば、さらに人の能測識エハカリシルべき限に非るを、左右言論カニカクニイヒアゲツラふは、いとも可畏カシコ負気オフケなきヒガゴトなり、【神の御所為ミシワザなりと云を虚誕妖妄なりと云む、これ又漢国の私をのみタノむならひにて、まことの道を知ことあたはざる者の常言なり、(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/215、漢字の旧字体は改めた。)
(注2)一例として、直木1988.に、「神功伝説には 四世紀末ないし五世紀初頭の歴史的事実と合致しない部分が多く、六世紀以降、とくに推古天皇以後の史実との関係が深いこと、したがって伝説の主要部分は、このころに成立したものと考えるべきである」(100頁)とある。思想大系本古事記は、紀に所載の、「即以微叱己知波珍干岐質」は三国史記、三国遺事に載る史実を伝えたものであるとしている。
(注3)デュルケム1978.は、「社会的事実とは、固定化されていると否とを問わず、個人のうえに外部的な拘束をおよぼすことができ、さらにいえば、固有の存在をもちながら所与の社会の範囲内に一般にひろがり、その個人的な表現物からは独立しているいっさいの行為様式のことである。」(69頁、傍点は省いた。)、「それら[社会的事実]は、行動、思考および感覚の諸様式から成っていて、個人にたいしては外在し、かつ個人のうえにいやおうなく影響を課することのできる一種の強制力をもっている。したがって、それらの事実は、表象および行為から成っているという理由からして有機体的現象とは混同されえないし、もっぱら個人意識の内部に、また個人意識によって存在している心理的現象とも混同されえない。」(54頁)とする。
(注4)このことは、今日では駄洒落であると思われるかもしれないが、音声言語でしかなかったヤマトコトバにとっては免れようもない事実である。言葉の音が同じであるならば同じ意味を表す、それが言(こと)=事(こと)とする言霊信仰に生きていた上代の人々の観念体系であった。人々がそう考えることを当然視していれば、そう考えることが法や制度や道徳のように個人の外側にあって個人を拘束することになり、社会的事実として働いている。今日の人のものの見方から、客観的に国際情勢がどうあろうがそんなことはおかまいなしである。
(注5)万葉集の義訓風に考えるなら、「百済」とあれば百回済度すること、何度も何度も済(わた)ることと理解できる。たくさんの「わた」があるとは、藁の管(くだ)があることに同じだから、クダ(管)+ラ(等)と呼んで誤りでないことになる。同様に、「新羅」とあれば新しい羅(うすぎぬ)のことで、白く透き通る絹製の反物、匹(き、キは乙類)のことと思われて、それはクワコではなく新種の白い蚕の賜物だから、シラ(白)+キ(匹)と呼んで誤りでないことになる。
(注6)布目1988.に、「同時伝来の可能性は多分にありうることと思われるが、それも、今は断定できる段階ではない。」(78頁)としている。
(注7)曹1996.。
(注8)足利2012.に、日本書紀の刊本の「百済」の左傍訓「ラク」から、クダラクとも訓まれていたとして、仏教とのかかわりから観音の住むという補陀落(ふだらく)が訛ってクダラク→クダラとなったとする説を唱えている。仏教の公伝は6世紀のことで、それ以前から百済がフダラクと呼ばれていたとは考えにくい。そもそも神功紀の傍訓が古いものかわからず、そのうえ、「百済」をクダラクと訓むためのものかわからない。最も蓋然性の高い解釈は、左傍の「ラク」は、「高麗百済」をカラクニと訓むためにカ「ラク」ニと施されているというものであろう。
「ラク」(日本書紀、慶長15年刊、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544344(14/44))
(注9)東1935.、拙稿「十月(かむなづき)について」参照。
(注10)「陸(くぬが)」(孝徳紀大化元年八月)、「北陸(くぬがのみち)」(崇神紀十年九月)とあるクヌガはクニカ(国処)の転とされている。金光明最勝王経音義に、「陸 久何(くが)」とある。
(注11)紀において、神功皇后は邪馬台国の女王卑弥呼に準えられている節がある。魏志倭人伝に、「禾稲、紵麻を種(う)え、蚕のために桑をうえ、緝(あつ)め績(つむ)ぎ、細紵(ほそあさのぬの)、縑(かとり)、緜(わた)を出だす。(種禾稲紵麻、蚕桑緝績出細紵縑緜。)」とあり、稲作と麻栽培、ならび養蚕が行われていたことが記されている。そのとき、蚕の品種、ならびに絹織物を仕上げていく織機において、後の時代に移入されたものとは異なるものであったか。「縑(かとり)」は固織りの約とされ、中国での「縑」とは異なるとされる。緜は綿の異体字であり、きぬわたのことか。また、「男子は皆露紒(ろかい)、木緜(ゆふ)を以て頭に招(かか)げ、(男子皆露紒、以木緜招頭、)」ともあり、その「木緜」は栲の皮を剥いで作った繊維の木綿(ゆふ)のことであろう。したがって、「縑緜」と続けられているのは、袷に綿を入れていたことを言っているのかもしれない。蚕の種類により、極細の糸を得るには至らず、目の粗い「縑(かとり)」(固織り)ばかりであり、固く織るのは中わたを入れるのに必要だったからでもあり、うまい具合に真綿用に回される繭も多くあったということに着地しよう。百済が渡の官家となったとあることは、それを裏付けているということになる。布目1995.参照。
(注12)好太王碑文に「来渡海破……」とあり、三国史記に西暦393~405年まで倭と新羅は戦いをくり返したとされている。戦況についてはいくつかの解釈が行われている。記紀の説話に描かれていることは、それらに依ったものかもしれないが、縒られている政治的、軍事的事柄から、中わたの話へと廻らえている。結局のところ、語り廻らうべき関心事は、日々の生活に役立っている中わたである。毎日新商品が店頭やネット上に並び、新しい生活様式にシフトできる時代ではなかった。文字を持たない文明が次代に伝えたいのは、身の回りの生活がそれによって成り立っている有難い点であったろう。
(注13)「既にして皇后、則ち神の教の験(しるし)有ることを識(し)ろしめして、更(また)神祇(あまつかみくにつかみ)を祭祀(いはひまつ)りて、躬(みづか)ら西(にしのかた)を征(う)たむと欲(おもほ)し、爰に神田(みとしろ)を定めて佃(たつく)りたまふ。時に儺河(なのかは)の水を引き、神田を潤さむと欲し、溝(うなて)を掘り迹驚岡(とどろきのをか)に及(いた)りしに、大磐(おほいは)塞(ふさが)りて溝を穿(うか)つこと得ず。」(神功前紀仲哀九年四月)、「皇后、還りて橿日浦(かしひのうら)に詣(いた)りまして、髪(みぐし)を解き海に臨みて曰はく、「吾、神祗の教を被(かがふ)り、皇祖(おほみおや)の霊(みたまのふゆ)を頼(かがふ)り、滄海(あをうなはら)を浮渉(わた)りて、躬ら西を征たむと欲す。……」とのたまふ。」(神功前紀仲哀九年四月)、「是に高麗・百済二国の王、……「今より以後(のち)、永く西蕃(にしのとなり)と称(い)ひつつ、朝貢(みつきたてまつ)ること絶たじ」とまをす。」(神功前紀仲哀九年十月)、「時に、麛坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)、天皇崩りまし、亦皇后、西征(にしのかたをう)ちたまひ、并せて皇子新に生れませりと聞きて、……」(神功紀元年二月)とある。
(注14)ニシが食されていたことは、関根1969.参照。出雲風土記に「蓼螺子」とあり、タデニシ、ニガニシなどと訓まれている。タデニシという言い方は、タ(田)+デ(助詞)+ニシ(螺)がとれるタニシのことと類推される。また、ニナ(ミナ)は、今日のカワニナやタニシなどの淡水産巻貝の総称とも言われている。
タニシの酢味噌和え(YOSHIKOTO.HATTORI様「サバイバル節約術」HPの「タニシ<田螺>」http://www43.tok2.com/home/hatlee/0000/07_shell/tanishi/0000.html)
(注15)両者の区別としては、殻口を手前へ向けたとき、殻口の近くに横筋(殻底肋)がないのはタニシ、2~12本あるのがカワニナ、また、殻口をふさぐ蓋が、タニシはきっちり閉まり、カワニナは閉まり切らずに体(軟体部)見えるという。(「日淡こぼれ話」https://tansuigyo.net/m/diary.cgi?no=1235参照。)
(注16)新羅親征説話については、一定の史実を伝説に拵えられたものであるとする説、旧辞をまとめる際に当時の新羅との外交関係の起源を盛り込もうとしたとする説、さらに下って記紀の成立年代に朝鮮半島とのかかわりからナショナリズムをくすぐるように創話されたとする説などがあったが、すべて近現代の言語活動の呪縛のなかで考えられていたにすぎない。
(注17)墨江津(住吉津)は住吉大社の門前あたりに位置し、数千年前からラグーンになっていて、天然の良港であったとされている。
日下2012.カバー
(注18)底筒男(底箇之男)については、ソコ(底)+ツ(助詞)+ツ(津)+ノ(助詞)+ヲ(男)とする説、ツツは粒の古語とする説、ツツを星の意とする説、ツツはツチ(ツ(助詞)+チ(霊))で霊威とする説、ツツを筒と解して製鉄における送風筒の神格化とする説などがある。名義について想像しているだけで話のなかでどのように活躍するものなのかまで踏み込んだ解釈は見られない。
(注19)拙稿「中大兄の三山歌について」参照。
 言い伝えの話と、記紀に載る諸伝との関係において確実な点は、先にヤマトコトバでの話が言葉の合理性にかなう形で作られていたということである。そして語り伝えられるなか、7世紀時点で、あるいはそれよりも以前から、新羅を目の敵にする姿勢が導かれていった。今日の歴史学者が時に妄想するように、7~8世紀時点の国際情勢を反映し、逆流して話が後から作られたのではない。そう言い切れるのは、話が後からでっち上げられたとすると、音声言語としてのヤマトコトバの観念体系が揺らいでしまうからである。言=事であると措定することが、ヤマトコトバの役割にしてその存在基盤でさえあった。不完全性定理(ゲーデル)の完全なる遂行こそ、ヤマトコトバが立脚する縁(よすが)であった。

(引用・参考文献)
足利2012. 足利健亮『地図から読む歴史』講談社(講談社学術文庫)、2012年。
日下2012. 日下雅義『地形からみた歴史─古代景観を復原する─』講談社(講談社学術文庫)、2012年。(『古代景観の復原』中央公論社、1991年。)
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『新校古事記』おうふう、2015年。
関根1969. 関根真隆『奈良朝食生活の研究』吉川弘文館、昭和44年。
曹1996. 曹建南「中国杭嘉湖地方における真綿造りとその習俗」『繊維製品消費科学』37巻12号、1996年12月。国立研究開発法人科学技術振興機構・科学技術情報発信・流通総合システムhttps://doi.org/10.11419/senshoshi1960.37.620
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
デュルケム1978. E・デュルケム、宮島喬訳『社会学的方法の規準』岩波書店(岩波文庫)、1978年。(原著Émile Durkheim, Les Règles de la méthode sosiologique,1895.)
直木1988. 直木孝次郎『古代日本と朝鮮・中国』講談社(講談社学術文庫)、1988年。
布目1988. 布目順郎『絹の東伝─衣料の源流と変遷─』小学館、1988年。
布目1995. 布目順郎『倭人の絹─弥生時代の織物文化─』小学館、1995年。
東1935. 東光治『万葉動物考』人文書院、昭和10年。

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