古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

海幸・山幸のさち易について 其の一

2020年08月20日 | 古事記・日本書紀・万葉集
海幸と山幸の説話の概略

 海佐知(海幸)と山佐知(山幸)の話は、全体が三つの筋立てからなる。最初に海幸彦と山幸彦による釣針をめぐる兄弟喧嘩、次に山幸が海神の宮を訪問する話で、この二つが絡み合って一つの流れを作っている。最後が豊玉毘売(とよたまびめ)の出産の話で、これは鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の誕生話としてその後に続いている。本稿では、最初のさち易と釣針を返すように迫られた話を扱う。

 故、火照命(ほでりのみこと)、海佐知毘古(うみさちびこ)と為て、鰭(はた)の広物(ひろもの)・鰭の狭物(さもの)を取り、火遠理命(ほをりのみこと)は、山佐知毘古(やまさちびこ)と為て、毛の麁物(あらもの)・毛の柔物(にこもの)を取りき。爾に火遠理命、其の兄(え)火照命に謂はく、「各(おのおの)さちを相(あひ)易(か)へて用ゐむ」といひて、三度(みたび)乞へども許さず。然れども、遂に纔(わづ)かに相易ふること得たり。爾に火遠理命、海さちを以て魚(いを)を釣るに、都(かつ)て一つの魚も得ず。亦、其の鉤(ち)を海に失ひき。是に、其の兄火照命、其の鉤を乞ひて曰く、「山さちも、己がさちさち、海さちも、己がさちさち。今は各(おのおの)さちを返さむ」と謂ひし時、其の弟(おと)火遠理命の答へて曰く、「汝(なむぢ)が鉤は、魚を釣りしに一つの魚も得ずて、遂に海に失ひき」といふ。然れども、其の兄、強(あなが)ちに乞ひ徴(はた)る。故、其の弟、御佩(みは)かしの十拳(とつか)の剣を破りて、五百(いほち)の鉤を作り、償(つくの)へども取らず。亦、一千(ち)の鉤(ち)を作り、償へども受けずて、「猶ほ其の正本(もと)の鉤を得む」と云ふ。(記上)
 兄(あに)火闌降命(ほのすそりのみこと)、自づからに海幸(うみさち)幸、此には左知(さち)と云ふ。有(ま)します。弟(おと)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、自づからに山幸有します。始め兄弟二人、相謂(かたら)ひて曰はく、「試(こころみ)に易幸(さちがへ)せむ」とのたまふ。遂に相易ふ。各其の利(さち)を得ず。兄悔いて、乃ち弟の弓箭(ゆみや)を還して、己が釣鉤(ち)を乞ふ。弟(おとのみこと)、時に既に兄の鉤を失ひて、訪(とぶら)ひ覓(ま)ぐに由(よし)無し。故、別(こと)に新(にひ)しき鉤を作りて兄に与(あた)ふ。兄受け肯(か)へにして、其の故(もと)の鉤を責(はた)る。弟患へて、即ち其の横刀(たち)を以て、新しき鉤を鍛作(かた)して、一箕(ひとみ)に盛りて与ふ。兄忿(いか)りて曰く、「我が故の鉤に非ずは、多(さは)にありと雖も取らじ」といひて、益(ますます)復(また)急(せ)め責(はた)る。(神代紀第十段本文)
 一書(あるふみ)に曰く、兄(このかみ)火酢芹命(ほのすせりのみこと)、能く海幸を得。弟(おとと)彦火火出見尊、能く山幸を得。時に兄弟、互(かたみ)に其の幸を易へむと欲(おもほ)す。故、兄、弟(おとのみこと)の幸弓(さちゆみ)を持ちて、山に入りて獣(しし)覓ぐ。終に獣の乾迹(からと)だも見ず。弟、兄の幸鉤(さちち)を持ちたまひて、海に入りて魚を釣る。殊に獲らること無し。遂に其の鉤を失ふ。是の時に、兄、弟の弓矢を還して、己が鉤を責る。弟患へて、乃ち以て所帯(はか)せる横刀を以て鉤に作りて、一箕に盛りて兄に与ふ。兄受けずして曰く、「猶吾が幸鉤欲し」といふ。(神代紀第十段一書第一)
 一書に曰く、兄火酢芹命、能く海の幸を得。故、海幸彦(うみさちびこ)を号く。弟彦火火出見尊、能く山の幸を得。故、山幸彦と号く。兄は風(かぜ)ふき雨(あめ)ふる毎に、輙ち其の利(さち)を失ふ。弟は風ふき雨ふると雖も、其の幸忒(たが)はず。時に兄、弟に謂(かた)りて曰く、「吾試に汝と換幸(さちがへ)せむと欲ふ」といふ。弟、許諾(ゆる)して因りて易ふ。時に兄、弟の弓失を取りて、山に入りて獣猟(と)る。弟、兄の釣鉤を取りて、海に入(のぞ)みて魚を釣る。倶(とも)に利を得ず。空手(むなで)して来り帰る。兄即ち弟の弓矢を還して、己が釣鉤を責る。時に弟、已に鉤を海(わた)の中に失ひて、訪(とぶら)ひ獲(もと)むるに因(よし)無し。故、別(こと)に新しき鉤(ち)数千(ちぢ)に作りて与へたまふ。兄怒りて受けず。故の鉤を急め責る、云々(しかしかいふ)。(神代紀第十段一書第三)

 兄の火照命(ほでりのみこと)(火酸芹命(ほすせりのみこと)、海幸彦(うみさちびこ))は海の漁師として、鰭(はた)の広物・鰭の狭物(さもの)を取り、弟の火遠理命(ほおりのみこと)(彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)、火折尊(ほのおりのみこと)、山幸彦(やまさちびこ))は山の猟師として、毛の麁物(あらもの)・毛の柔物(にこもの)を取っていた。あるとき、火遠理命が兄の火照命に、各自の「さち」を交換して使ってみたいと言った。しかし、3度言ったが聞き入れられなかった。それでも、最後にはやっと交換してくれた。ところが、火遠理命が「海さち」で魚釣りをしても、まったく獲れないどころか、「其の鉤(ち)」(釣針)を海に失くしてしまった。兄の火照命は「其の鉤」を返して欲しくなって、各のさちを返そうと言ったが、弟の火遠理命は一匹も釣れないで海に失くしたと答えた。しかし、兄は返せ返せと責めたてたので、弟は腰に佩く十拳剣(とつかのつるぎ)を鋳潰し、リサイクルしてできた500個、1000個の鉤を作って償おうとした。けれども、兄のほうは、もとの鉤でなければ駄目だと責めたてた。以上が他愛もない話のあらすじである。
釣り(山水図、麻布、墨画、奈良時代、8世紀、正倉院宝物、宮内庁HP https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010944&index=19の部分[2]をトリミング)
海幸・山幸(?)(桜ヶ丘5号銅鐸、高井悌三郎氏拓本)(春成秀爾「 銅鐸絵画の原作と改作」『国立歴史民俗博物館研究報告』第31集、1991年。https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=482&item_no=1&page_id=13&block_id=41(11/28))

己がさちさち

 記に、「山さちも、己(おの)がさちさち、海さちも、己がさちさち。今は各(おのおの)さち返さむ」と謂ったとある。新編全集本古事記に、「ことわざのようなものか。山の獲物も、海の獲物も、やはり自分の道具でなくてはうまく得られない、の意。」(125頁頭注)、古典集成本古事記に、「餅屋(もちや)は餅屋」(餅は餅屋)の諺(ことわざ)に同じ。」(97頁頭注)、西郷2005.に、「「餅屋は餅屋」式の諺か。」(130頁)とある。神田・太田1962.に、「猟師も自分の猟具によつて富猟を得る、漁師も自分の漁具によつて富漁を得る、もうお互に道具を返さう。ここに見えるサチの語は、その意味内容の伸縮性(多義性)を利用して、わざと三様に用ゐられたもので、それによつて文を成してゐる。伝統的な一つの手法なのであらうが、一面国語の特徴をよく示すものである。」(279頁頭注)とある(注1)。これらの解説は、論理的な言語解釈を欠いている。
 これはサチカヘの話である。互いの道具を取り換えて使おうとしたことと、取り換えた道具を返してもらおうとしたことの一連の話である。ともにカフ(換)ことを言っている。一般の契約の履行は、商品と金銭をカフ(換)のであれば、甲と乙は相手方に別のものを渡して相手方から別のものを受け取る。そして、一度交換したらそれでその契約は終了するはずである。ところが今回のサチカヘの場合、同じサチというものをカフ(換)と契約条項にある。相手方にサチを渡して相手方からサチを受け取るだけでなく、もう一度サチをカフ(換)こと、つまり、返してもらうこともまた是とされるのである。つまり、1枚の契約書で何度でも履行できることになっている。循環的言辞の特性が、この話の基盤にある。記号で表わせば、「↺」である。導かれて出てくる言葉は、「己(おの)」である。
 「己(おの)」という語は再帰代名詞とされる。各々という展開語が示すとおり、めいめいのことを言っていて、オノだけでは用いられずに、特定者を指示する場合にはオノレ、もとの意味を表す場合にはオノガの形で使われることが多かった。新訳華厳経音義私記に、「己 於乃我(おのが)」、新撰字鏡に、「躬 躳同、居碓反、身也、親也、於乃礼(おのれ)」、名義抄に、「各 音閣、オノオノ、ツクス」などとある。そして、「己(各)(おの)がAB(A=B)」という慣用表現になっている。

 各がじし 人死にすらし 妹(いも)に恋ひ 日に異(け)に痩せぬ 人に知らえず(万2928)
 …… 這ふ蔦(つた)の 各(おの)が向き向き 天雲(あまぐも)の 別れし行けば ……(万1804)
 橘は 己が枝枝 生れれども 玉に貫く時 同(おや)じ緒(を)に貫く(紀125)
 人人己がひきひき此の人を立てて我が功を成さむと念ひて君の位を謀り、……(続紀・天平宝字八年十月、淳仁天皇31詔)
 しののめの ほがらほがらと 明けゆけば 己がきぬぎぬ なるぞ悲しき(古今集637)
 ……おのが世々になりにければ、うとくなりにけり。(伊勢物語二十一)
 今までに 忘れぬ人は 世にもあらじ おのがさまざま 年の経ぬれば(伊勢物語八十六)
 …… 四つにわかるる 群鳥(むらどり)の おのがちりぢり 巣離れて ……(蜻蛉日記・中巻)

 万2928番歌の「各がじし」は「己が為為」の意で、めいめいそれぞれの意である。人はそれぞれに死ぬものらしく、彼女に恋をして、日々とてつもなく痩せてしまった、思いは人に知られずに、の意味である。恋というものは、男女が溶け合って一つになることであるが、しかし、実体はめいめいそれぞれ別物のままである。万1804番歌は、這っていく蔦のように、それぞれの向きにすすむ雨雲のように別れて行ったので、の意味である。もとの根の生えている茎もとは一つなのであるが、各方向へ延びて行っていると言っている。紀125歌謡では、枝先に実る橘の実も、枝は一つの幹、株もとから分かれ出たものである。続紀の宣命例、「己が引き引き」は、各自のひいきによっての意である。古今集の「己が衣衣」は、共寝をした男女が翌朝起きて、別々に着ることで別れることを言っている。伊勢物語の「己が世世」の「世」は男女の仲のことで、離別してそれぞれ新しい異性を得て別々の夫婦の暮らしをしていること、「己が様様」は、めいめい自分の生き方をして年をとってしまったことを言っている。蜻蛉日記の「己が散り散り」は、めいめい散り散りばらばらに、それぞれが自ら志す方向へ進むことを指している。
 再帰代名詞オノとは、自分から発して自分へと戻ってくる言い表す語である。記号で表わせば、「↺」のようなブーメラン現象を起こしている。今指しているところからもとをたどっていくと、いま指しているところと同じところを指しているところへ戻る。すなわち、今指しているBはもとのところのAと照らし合わせてみると、A=Bであるということがわかる。この再帰的合致の不思議さを論理学的におもしろがったのが、上代の無文字文化に暮らした人たちである。興味深く思われ、喜んで使っているように感じられる。オノ(己)が再帰を表すから、後に続く語も、「為為」、「向き向き」、「枝枝」、「引き引き」、「衣衣」、「世世」、「様様」、「散り散り」と繰り返されている(注2)
 以上から、「己がさちさち」とは、幸Aと幸Bとは合体することもあるがそれぞれ別々のものである、の意である。すなわち、山幸であれば、矢(幸A)と獣(幸B)とは、射たときには一体化しているけれど、実は別々のものである。海幸であれば、釣針(幸A)と魚(幸B)とは、釣ったときには一体化しているけれど、実は別々のものである。言葉としては同じ言葉でも、実は離れてしまうものだから、それを一つにつなぎとめるにはそれなりの技術が伴わなければならない。海幸と山幸の技術の違いとは、山幸が糸(蔓(つる))をつけずに矢を射て飛ばすのに対して、海幸は糸(蔓)をつけて釣針を水に投ずる点である。山幸彦が間違えたのは、鉤に蔓をつけずに水に放ったことである。失くすのは当然である(注3)
 すなわち、海幸・山幸の話で、山幸彦が初めて釣りをするのにやり方がわからず、ふだんやっている弓矢と同じように釣竿と釣針を取り扱ってしまった。釣糸をつなぐことをしなかった。釣竿で釣針を弾(はじ)いて泳いでいる魚に命中させようと射たのである。釣竿は竹製が多いから、道糸(緡)(みちいと、ライン)を弦にして張れば弾くことができる。鉤には矰と同じように針素の糸がついているから回収できると思っていたが、針素の糸はとても短かった。釣れるはずもなく、ただ釣針を失うにすぎない。子供でもわかることを楽しいお話にしている。

矢(さ)のこと

 矢(箭)のことをサともいう。

 …… 投ぐる矢(さ)の 遠離(とほざか)り居(ゐ)て 思ふそら 安けなくに ……(万3330)
 一発(ひとさ)に胸に中(いあ)てつ。再発(ふたさ)に背(そびら)に中(いた)てて遂に殺しつ。(綏靖前紀)
 便ちに其の襟(きぬのくび)を取りて引き堕(おと)して、射(ゆみい)て一箭(ひとさ)を中(あ)つ。(天武紀元年六月)
 大夫(ますらを)が 得物矢(さつや)手(た)挟み 立ち向かひ 射る円方(まとかた)は 見るに清潔(さや)けし(万61)
 天地(あめつち)の 神を祈りて さつ矢ぬき 筑紫の島を さして行く我は(万4374)
 …… 大夫の 男さびすと 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩き さつ弓を 手(た)握り持ちて ……(万804)
 むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの 山のさつ雄に 逢ひにけるかも(万267)
 山辺(やまへ)には さつ雄のねらひ 恐(かしこ)けど 牡鹿鳴くなり 妻が眼を欲り(万2149)
 荒し男の いをさ手挟み 向ひ立ち かなる間しづみ 出でてと吾が来る(万4430)
 …… 梓弓 末振り起し 投矢(なぐや)持ち 千尋(ちひろ)射渡し ……(万4164)
 葦辺(あしへ)行く 雁の翅(つばさ)を 見るごとに 君が佩(お)ばしし 投箭(なぐや)し思ほゆ(万3345)

 万3330番歌の「投ぐる矢(さ)の」は枕詞で、遠くまで飛ぶことから「遠(とほ)」にかかるとされている。このサ、サツヤ、サチについて、関連する語であろうとされるが、諸説には見解に細かな相違がある。古典基礎語辞典の「さち【幸】」の「解説」に、「「猟矢(さつや)」「猟弓(さつゆみ)」「猟男(さつを)」のサツが古形で、本来は金属の鏃(やじり)の矢の意。その矢で射とめた獲物。金属の鏃の矢ならば大きい獲物も得られるので、その矢は幸福をもたらすと信じられ、やがて、サツからサチと音が変わるにつれて、サチは幸福の意にまで発展した。同じ幸福の意を表す類義語サキ(咲き、サクの連用形名詞)およびサキハヒ(幸ひ、サキハラの連用形名詞)は、植物の繁茂によって得る幸福・繁栄のことで、狩猟の獲物の豊富さから受ける幸福のサチとは異なる。サチ(サツ)は、 朝鮮語*sat(→sal)(矢)がサツとして日本語に受け入れられたもの。」とし、「語釈」に、「①狩りや漁の道具。弓矢、釣り針など。また、道具のもつ威力。……②狩りや猟(ママ)で得た獲物。また、その獲物が多いこと。……③幸福。しあわせ。」(554~555頁、この項、我妻多賀子。)とする(注4)
 他方、白川1995.の「さち〔幸・獲〕」の項に、「漁猟による獲物を「さち」という。下に名詞が連なるときには「さつ」の形をとる。漁猟の具を「佐都(さつ)弓」〔万八〇四〕、「得物(さつ)矢」〔万二三〇〕のようにいう。狩猟に関係のある語で、「さち」は一種の外来魂、「さちのたま」という。その霊の威力によって海幸・山幸がえられると考えられていた。一般的な幸の意は、のちの転義である。……〔名義抄〕に「幸魂サチミタマ、サキタマ。數奇サチナシ」とみえる。〔神代紀下〕に「利(さち)」というのは獲物。それが「さち」の原義であろう。」(365頁)とある。また、「さ〔箭〕」の項には、「矢をいう古語。投げ矢の意に用いることが多く、「や」とは別系統の語であるが、合せて「そや」ということがある。「そ」は「さ」の転音とみてよい。「そや」には「征箭」の字をあて、〔令義解(りやうのぎげ)、軍防令〕にみえる。朝鮮語の sal の語末の子音が脱落したものであろうかとする説もあるが、「そや」「さつや」「をさ」のような語構成からみて、借用語とはしがたいようである。」(348頁)とする。
 筆者は、狩猟や漁撈において獲物がとれるかどうかに関して、古代の人の気持ちのなかに、言い知れぬ力が働いたはずだという思い込みに抵抗を覚える。神秘的な力・呪術的な力を有するものとして、ヲロチ(蛇)、ミヅチ(蛟)、イカヅチ(雷)、イノチ(命)などの例があげられ、霊威についてチという言葉が認められている。しかし、霊威は霊威でも、神秘的にして呪術的なことをチと呼んでいるのではなく、本当に力があると認められるものについてチと言っているのではないかと考える。サチという語についても、サ(箭)+チ(霊)のつながりと認められても、それは実際に効力のある当たりのいい道具としての矢のことを指すと考える。性能が良いサ(箭)だからサチと言っていると定められなければ、周知のこととして納得されるものではない。また一方、チ(鉤)という語から、サ(接頭語)+チ(鉤)のつながりでもあると想定される。サに実質的な意味は認められないとする説もあるが、勢いのある意をみて取る説もある(注5)。当たりのいい道具としての釣針のことである。効率が良ければ生産性が向上して利益があがる。だから、「利」がサチである。在庫調整といったことは乾燥肉や塩蔵、薫製の技術にありはしようが、蓄蔵が目的ではなく、基本的にとれたら食べるものである。漁猟によってとることは直ちに利益となる。農耕を主体とする生活者は、ふだんから肉や魚を食べているわけではなく、珍しく食卓に並ぶご馳走なのである。それはもっけの幸い、僥倖と言える。漢字の字義に、「幸」の原義である(注6)。だから、サチに「幸」字を当てて正解ということになる。
 得られたものがそのまま利益になっている。種籾をとっておくようなことはしなくてよい。農耕民は、ふだん穀物や蔬菜類を中心に食事をしている。狩猟や漁撈によって得られる動物性蛋白質のことは、サチ(幸)と言って適切である。狩猟民や漁撈民が利益率の低い仕事を手控えて、減収増益をはかるといったことは思考実験としては考えられるが、人々の大半が農耕生活を選んで以降の歴史において、特にそれをヤマトコトバに表現したとは考えにくい(注7)。仏教思想に知られる宗教上の問題は後のことである。狩猟に付随する毛皮の生産業では、モノの価値は稀少性にあるとも考えられる。過剰生産は、サチ(幸)に結びつかない事態も想定できないことはない。とはいえ、食肉の獲得も求められているし、毛皮類は衣類や敷物、馬具に用いれば、やがて傷んで消耗するものであり、古代において受給バランスが緩むことはなかったであろう。トラやヒョウなど革製品は輸入、珍重されており、また、劣化が早く、今日まで残る品は見られない。
 サチという言葉について整理する。矢のうちで投げ矢にするような威力のあるものをサと言っていたので、弓矢の矢の鏃が石鏃類だったものに金属を使う術を知ったときから、弓矢の矢でも威力があると認められて、サツヤ、ソヤ、ヲサと称されるようになった。もともとの投げ矢と弓矢とは、衝撃の威力に違いがあった。投げ矢は今日、スタジアムに槍投げとして見ることができる。棒の先に刃のついた投擲具で、稀に事故のニュースを聞くように、動物に当たって刺されば出血がひどく、大きなダメージとなってまもなく死んでしまう。ただし、投げる姿が獲物に見られて逃げられる可能性も高い。弓矢の矢は竹の箆の先に鏃をつけたもので、軽く細い。当たり刺さっても深手とはならず、その場から逃げていくことが多い。それで構わないのが効率的な狩りである。

 射ゆ鹿獣(しし)の 認(つな)ぐ川上(かはへ)の 若草の 若くありきと 吾(あ)が思はなくに(紀117)
 射ゆ鹿(しし)を 認ぐ河上(かはへ)の 和草(にこぐさ)の 身の若かへに さ寝し児(こ)らはも(万3874)

 「認(つな)ぐ」とは、血の垂れている道筋や足跡をたどって行くことである。獣が疲れて休んだところを猟犬などを使いながらさらに襲ってしとめることになる。神代紀一書第一に、「乾迹(からと)」と記されている。乾いた動物の足跡のことで、何日も前の足跡さえ見つけられていない(注8)
 そんな矢が、技術的に改良されて威力を増した。金属性の鏃が登場して、獲物の肉に深く鋭く刺さり、また、膓抉(わたくり)の鏃が鋭利になって肉に深く捻りこんで入り、抜くことが儘ならなくなって、当たり所が悪ければその場で悶絶して動けなくなるケースが出てきた。当然、その効果を有効に活用するには、弓のほうも強靱化が図られ、反発力の大きな「さつ弓」が作られた。上にあげた綏靖前紀の例に、一発や二発でしとめられたのは、寝ている相手を至近距離から射撃したからである。使い手も熟練して、急所に命中させる率が高い専門職の猟師が選ばれ、「さつ雄」と呼ばれるようになった。

鉤(ち)のこと

 漁具の場合、チ(鉤)と言っていた。新撰字鏡に「鈞 居唇反、卅斤為鉤也、法也、知伊(ちい)也」とある(注9)。それを使って釣りをして取っていたわけであるが、当たりのいい鉤が生まれた。金属性にすることによってより細く、魚に見えにくく、折れにくくすることができて生産性が向上した。鏃の向上に対照すれば、それは、サなるチができたということである。漁猟において、獲物に接するところになる部分を金属化することでうまくいっている。よって、猟具・漁具の両方とも、言葉の成り立ちは異なれど、サチと呼び得ると考えられるようになっている。しかもその特徴は、獲物に深く突き刺さったり、確実に飲み込まれてとどまる性質を持ち、獲物の身体と確実に一体化することにある。そこで、獲物のこともサチと呼ぶことができると考えられた。そう考えに考えをまとめた話が、この海幸・山幸の「さち易」の話である。
 表面的になら、昔ながらの言い方によって、猟具の「さ(箭)」と漁具の「ち(鉤)」との交換ということにもなる。サチカへは、サ(箭)+チ(鉤)+カヘ(易)である。これが無文字文化の言語感覚の鋭いところであり、言葉自体を以てする頓智である。徴(責)(はた)るほどに返せ返せと言ったのは、返しがついていなかったから「正本鉤(故鉤)」を求めたということである。餌のついた釣針をいったん魚が飲み込んだら引っ掛かって抜けないように、針先の根もとの部分に逆向きにつけたとがったかぎが付いている。鐖(あぐ)と呼ばれ、別名に返し(返り)という(注10)。また、針素(はりす、リーダー)を結びつけてとれないようにするために、針の軸の頭の部分にも引っ掛かりとなる折れ曲がり部分がある。この部分は鉤元(ちもと)といい、また、返しともいう。人と魚の綱引きだから、釣針を中心にしてみれば、いずれにも返しと称されるものがある。
鉤(釣針)部分名称
 剣から作った鉤では駄目で、「正本鉤(故鉤)」でなくてはいけないと言い張っている。500個あっても、1000個あっても、細部に想定と違うところがあるということであろう。“返し”のない釣針であると想像できる。“返し”が付いていなければ、返してくれていることにならない。この“返し”は、上に見た鐖のことか、鉤元のことか、熟慮が求められる。「もとの鉤」ではなく、「すゑの鉤」ないし、「うらの鉤」であると定められよう。そして、ツルギ(剣)からはツルチ(「釣」+「鉤」)はできないと洒落ている。刀剣を水中でいくら振り回しても、傷つく魚はいない。つるんとしているのでは役に立たないと言っている。
 村上2017.に、「釣針が鉄製品として登場するのは弥生時代後期後半である。釣針は、細く短い角棒を研いで丸棒にし、その一端をわずかに鍛え、研いでアグを付け、腰部を曲げて完成する。こうみると鉄製釣針は弥生時代の鉄製品のなかでも最も繊細な技術を要する器種の一つであることがわかる。鉄製釣針は九州で多く出土し、太平洋側の高知にかけて一定の分布域を形成する以外は、各地で単発的な出土状況しか見せない。」(52頁)とある。これが考古学に一般論として語られる金属製釣針の特徴である(注11)
 古代の釣針は、基本的に骨角製のものから、その形を真似た鉄製のものへと共存しつつ進化していっている。なかには銅製のものも見られる。鉄製のものは鍛造品である。古代の鉄製釣針では、釣糸との接点部分の頭の返し(鉤元)がついていないものが多数確認されている。内田2009.に、同様の形状の針は、民俗資料のブリバリにあるとの指摘がある。大型のブリなどを獲るとき、頭部の返しがあると力が一点に集中して針素が切れる恐れがある。そこで、素人にはとても難しそうに見える結び方で、針の軸部へ針素をつなぎ、結び目も見えずに別の糸を使ってきつく結びつけているという。また、餌を縛りつける糸もあったとされている。「[釣針の]軸部へのハリスの結合方法には……工夫がなされていたと考えられる。ハリスをそのまま軸部へ縛りつけるのではなく、軸部にかかる長さのハリスの糸をほぐす。そうしてちょうど茶筅のようになったハリスを軸部を包むようにかぶせ、その上から別の糸できつく縛りつけるのである。今日でも大物をねらう場合には「根つけ」と呼ばれるこの方法が用いられている。縛りつける糸は「寝(ママ)巻き糸」という。」(14頁)とある。鏃と箆との接合に、ジョイントとなる骨角器のほか、糸で巻きつける方法が行われている。根巻糸と呼ばれるものに当たるかもしれず、釣針に応用されたものかもしれない。
釣針(左:金蔵山古墳出土、古墳時代、4世紀後半~5世紀初め、中:上から、スズキ用、マダイ用、チヌ用、メバル用、右:タチウオ用(餌を巻きつける)(現代の瀬戸内海で使用)、倉敷考古館http://www.kurashikikoukokan.com/yomoyama/2014/166.html)
左:もとから作りあげる鉤(鹿角製釣針・未完成品、福島県いわき市大畑貝塚出土、縄文時代後期、前2000~前1000年、いわき市教育委員会蔵、東博展示品)、右:もとから作りあげる鏃(銅鏃未完成品、滋賀県出土、弥生時代後期、1~3世紀、東博展示品)
 陸上で、獲物を捕らえるために使う飛び道具は弓矢である。弓が弓の機能を示すためには、弦(つる)が張っていなければならない。下を本弭(もとはず)、上を末弭(うらはず)という。弭は筈であり、あるのが当たり前だから“有る筈”で、ないとなると当てが外れる。弦は、蔓、釣る、吊るなどと同系の言葉である。釣りは、蔓を垂らして水中の獲物を吊った状態にして捕らえる。線分を言っていて、こちらとあちら、本末、上下の両方に端がある。連(列)(つれ)も、男女や前後、左右の組である。面(つら)は横顔のことで、左右二つ対称にある。つるむとは雌雄の交わりである。釣りの場合、蔓の一方に手、他方に鉤がついている。別物が一体化すること、それをつないで助けるのがツルである。「己がAB(A=B)」を成り立たせるべく、ツルが働いている。
 兄の火照命は十拳剣からリサイクルされた鉤を受け取らなかった。言葉本来の義からすれば、チ(鉤)という語に接頭語サを冠してサチという語ができている。素敵な鉤(ち)、そのサチを失くした。失くしたものは仕方がないから、代わりのもので償おうとしている。500個、1000個用意しても、火照命のほうは、本のものがいい、本のものでないと駄目だといって聞き入れない。なにしろ、「正本鉤」である。モトノチという言い方は、モト(本)+ノチ(後)と聞こえる。ノは乙類である。モト、ノチとも、場所、時間のいずれにも用いる。ノチ(後)を線条的につづくものの末(すえ)の方のこととして空間的な意味で使う例は、上代においてもわずかばかり化石的に残っているとされている。

 鴨川の 後瀬(のちせ)静けく 後も逢はむ 妹には我は 今ならずとも(万2431)
 髦 音毛、後毛、エラフ、太髪髦、タチガミ、ノチ、メサシ(名義抄)

 髦とは、おくれ髪、おくれ毛のことである。上代には髪は結って束ねることが常であった。結い上げるに上がらないのが、生え際のおくれ髪である。遅れて生えているから、もう少しのところまで伸びてはいるものの、結うまでには達していない。
 つまり、モトノチ(正本鉤(故鉤))とわめきたてているのは、もともとのもとにノチ(おくれ毛)の付いた鉤、すなわち、針素(はりす)の付いている鉤を返してくれと言っているとわかる(注12)。関東に主に針素と呼び、関西に鉤素(ちもと)と呼んでいる。鉤元につけるからチモトと言っている。いま、モトノチの話をしている。付いていない“返し”とは、鉤元のことと推定される。そして今日、釣り道具店では、釣針は針素が付いた形で売られている。丈夫だが細くて魚に気づかれにくいものが求められる。それを重りや浮子などとつなげて仕掛けとする。その先の釣竿に至る部分は道糸である。兄の火照命が返してくれと言って聞かなかったのは、代償として十拳剣を鋳潰して作った釣針は裸の釣針で、ノチと呼ぶにふさわしい短い針素が付いていなかったか、付けにくかったからであろう。
 釣糸に何が用いられていたか、証拠となる遺物はほとんど見つからない。民俗からの推測に、麻糸などに柿渋を塗って強化したものがある。釣りは繊細な技で、魚との知恵比べ的な要素がある。魚の目に見つからないように、餌をつけた針の近くの針素は特別に見えにくいものであつらえ、他はとにかく切れずに引きあげるための丈夫な糸にしようと努めた。針素と道糸の別はなく1本であったとする説もあるが、それは無知だったからではなく、釣果を考えたとき、獲物に見つけられて食いつかれないよりも、食いつかれた後、引きちぎられないことが望まれたからであろう。大形の魚を釣りあげようとすれば、合理的な判断である。
 近世中期になって、中国から釣糸にテグス糸(天蚕糸)がもたらされた。それ以前、針素には、馬の尻毛、人の頭髪も用いられたと推測されている。人のおくれ毛が使われたのかもしれない。釣り人から見て道糸よりも先の、末端にある針素は、化石的古語のノチに相当する。火照命は、針素がとても付けられそうにない“返し”のない鉤元のブリバリ様釣針では困ると言っている。500個あっても、1000個あっても代償にならないとむくれている。針素が付けられないから、1つも役に立たないと思った。ノチ(髦)というおくれ毛が付けられないと思い、受け取らなかった。それはそれで理にかなった話である。毛(け、ケは乙類)+鉤(ち)=ケチの話である。

ケチな話

 ケチ(吝)という言葉の語源は不明である。一説に「怪事」の転とするが、ジとヂの混同を不明にしたものでいただけない。意味としては、①縁起の悪いこと、不吉な前兆、②不備、手抜かり、欠点、瑕疵、③金回りが悪い、損得にみみっちい、金銭や物品を出し惜しみする、④物事が貧弱な、粗末な、取るに足らない、⑤ばからしいこと、つまらないこと、⑥料簡が狭い、狭量である、といった場合の言い回しに使われる。日葡辞書に、「Qechi. ケチ(けち) 物事の不吉な前兆.¶Qechigaaru,l,deqita.(けちがある,また,出来た)何事か不吉な前兆がある,または,そのような事が起こっている.」(480頁)とある。文献例に上代、中古に見られない。けれども、口語的にそれを思わせるニュアンスがある。四段動詞「消(け、ケは乙類)つ」である(注13)

 …… 燃ゆる火を 雪もち滅(け)ち 降る雪も 火もち消(け)ちつつ ……(万319)
 松蔭の 浅茅が上の 白雪を 消たずて置かむ ことばかもなき(万1654)
 𤏖熸燼 上二同、字廉反、下、似進・如去二反、謂火滅為𤏖燼火餘木治火、介知宇佐无(けちうさむ)、𤒯㶳 上屢作-(新撰字鏡)
 𤏖熸燼藎𤒯㶳 六形同、子廉反、燼者似進・如云二反、去、謂火滅為𤏖燼火餘木也、火介知乎佐无(けちをさむ)、又保太久比(ほたくひ)
 鑪の中にして銷(ケ)チ錬(ネヤ)シて清浄の金を得つ、(西大寺本金光明最勝王経古点)
 人の火に頭を焼(か)レ、衣を焼(か)ルゝことを被レルトキに救(スクテ反)(ひ)て速(スミヤ)カに滅(ケ)タ令(シ)ム。(同)
 富士の嶺(ね)の ならぬ思ひに 燃えば燃え 神だに消たぬ 空(むな)し煙(けぶり)を(古今集・雑体・1028)
 伊勢の海の ふかき心を たどらずて ふりにし跡と 波や消つべき(源氏物語・絵合)
 「……こよなく思ひ消ちたりし人も、嘆き負ふやうにて亡くなりにき」と、そのほどはのたまひ消ちて、……(源氏物語・藤裏葉)
 大后(おほきさき)、御なやみ重くおはしますうちにも、ついにこの人をえ消たずなりなむことと心病み思しけれど、……(源氏物語・澪標)
 ……この母君のかくてさぶらひたまふを、瑕(きず)に言ひなしなどすれど、それに消たるべくもあらず。(源氏物語・藤裏葉)
 この女房ども、「あはやあやしき者かな」と、きも魂を消ちて思ひける程に、……(平家物語・巻第十一・副被将斬)
 除 ノゾク、ツク、ケツ、サル、ヒラク、ハシ、ヲサム、オク、ハラフ、シリソク、音儲、和地ヨ(名義抄)

 ケツ(消・銷・滅・除)は、火・雪・霜・罪など、さまざまなものの盛んな勢いを消し去ってしまうことが原義のようである。そこから、火の燃焼を止めたり、明かりを消したり、雪や霜などを氷解させたりすること、すなわち、力を加えて物事を消滅させて存在そのものをなくすこと、覆ったり削ったりして物の形跡すら消失させること、事柄を完全に除き去ってないものにして否定してしまうこと、人や物事を軽視し、おしのけ、圧倒して、無価値なものにおとしめたり、ないがしろにしたり、無視したりすること、そして、心を平静でなくならせ、はげしい驚きや悲しみに陥らせることについていう。そのものが本来持っている価値を不当になくさせ、生彩を失わせ、けなして悪口を言うことに当たる。勢いを削ぐのである。ケチを付けるという言い方は、まさにその用法であろう。筆者は、ケチという言い方は、動詞「消す」の古い形、「消つ」の連用形名詞ケチが、大風呂敷に繰り広げられたものではないかと考える。「消つ」の形は忘れられ、「消す」に乗っ取られて、ケチにのみ命脈を保ったということである。けなされ、くさされ、おとしめられて、勢いがまったく失われるに至れば、興醒めしてやる気がなくなり、つまらなくてばからしくなってしまう。みんなで盛り上がろうとしていた矢先に、お金をちょっと出し惜しみされた日には、ハッピーな気分は台無しになる。ケチによって、サチ(幸)が得られなくなる。景気とは気分の問題である。不完全燃焼のケチが不況への悪循環に導く。とても縁起の悪いことにつながる。
 そのケチなものの代表格が、勢い盛んに燃えていた木に水をかけて消ちて出来た消し炭である。新撰字鏡の「保太久比(ほたくひ)」は、榾杭のことである。燃え尽きないで残った木をいう。「母、吾田鹿葦津姫、火燼(ほたくひ)の中より出で来りて、……」(神代紀第九段一書第五)とある。焼きさしの榾杭とは、炭窯で作った炭ではなく、ケチな品の消し炭である。軽いために浮炭(うきずみ)、また、消熾(けしおき)とも言う。ヤマトコトバには、和炭(にこずみ)と呼ばれた。和名抄・鍛冶具に、「和炭 楊氏漢語抄に云はく、和炭〈邇古須美(にこすみ)、今案ずるに一に賀知須美(かちすみ)と云ふ〉といふ。」とある(注14)。和炭の木炭は、野焼きして途中で水をかけて消す。どこまで炭になっているかムラがあり、榾杭の状態もあった。火付きが良いので着火する際に好まれるが、火持ちは悪い。また、時にはえぶり、爆跳し、立ち消えすることもある。松や栗の木から取られた和炭(消し炭)は、火力としては弱いが、炎の立つ炭で、鍛冶作業に用いられた。別名を鍛冶屋炭ともいう。
左:大炭窯、右:小炭焼き(隅屋鉄山絵巻、「江戸時代 広島藩を支えた鉄の道「芸北加計のたたら」「加計 隅屋鉄山絵巻」と加計・豊平町周辺の製鉄遺跡を訪ねて」「IRON ROAD 和鉄の道」Mutsu Nakanishi Home Page、http://www.infokkkna.com/ironroad/dock/iron/5iron10.pdf)
 江戸末期の先大津阿川村山砂鉄洗取之図には、砂鉄の採取や運搬、鍛冶、製鉄に加え、木炭の製造、運搬の図が描かれている。そこには、「木炭ガマ(カマ)」によるアラ炭の製造ばかりでなく、「小炭焼キ」とある和炭の製造方法が描かれている。にあるとおり、木の幹にあたる太くて真っ直ぐな部分は窯に入れやすいが、捻くれた枝部分は積み上げると隙間だらけで、嵩ばかりで細いものしか得られない。“本格的な”木炭(荒炭)製作には当たらないとして別途処理されたと考えられる。製錬用ばかりでなく、焚き付け用や鍛冶屋用の炭も必要だから、合理的な生産体制である(注15)
 枝部分の積み上げた状態は、称するに「藪」であろう。乱雑に生い茂って踏み入るに入れない印象がある。この語の展開されたものかどうかは不明ながら、ヤフサシ(ヤブサシ)という語がある。

 藪 素口反、上、潤也、沢也、櫢同、也夫(やぶ)、又於止呂(おどろ)(新撰字鏡)
 惜悋 上乎之牟(をしむ)、下夜比左之(やひさし)(新訳華厳音義私記)
 ■(女偏に翏の彡の代わりに氺、「嫪」の異体字カ) 力刀盧報二反、去、婟也、妬也、也不佐志(やふさし)(新撰字鏡)
 心慳(ヤブサ)(ケイ)ク鄙(トヒト)(非)なること無(く)して、常に恵施を行セむ。(西大寺本金光明最勝王経)
 枿 音▲(薩と木の合字カ)、我チ、ケチ、アマリ、木無頭枿 キノキリグヒ、ヒコハエ、伐木𡔜(名義抄)

 内田2010.に、「……ヤフサシとは、料簡が狭く適切な判断を下せない性格を形容している……。この語の古形ヤヒサシ(ヒはヒ乙か)は、おそらく九世紀半ばまでにはヤフサシに変化し、また一方に動詞形ヤフサガルが派生してヤフサシもまた劣勢となり、やがて清濁が移って、中世の語形ヤブサカが生まれる。」(127頁)とある。物惜しみする性質、すなわち、ケチ(吝)のことである。ヤマトコトバはそのように循環して説明されている。新撰字鏡の「藪」にオドロという訓がついている。オドロとは、いばらなどの乱れ茂っていることを言っていて、「棘」や「荊」といった字を当てる。そして、おどろの髪といえば、乱れ髪のことをいう。束ねきれていない髪のことだから、おくれ髪、おくれ毛、髦(のち)のことを指す。
 一方、炭を焼くことは、スミヤキの訛ったような言葉に、スムヤケシ、スミヤカ、スミヤクといった語がある。

 偬倊 二同、作弄反、去、倥倥也、須牟也介志(すむやけし)、又伊止奈志(いとなし)(新撰字鏡)
 悇憚 上丁姑反、惶遽也、於地加志古美須弥也久(おちかしこみすみやく)(新撰字鏡)
 故、天上(あめ)に住むべからず、亦、葦原中国にも居るべからず。急(すみやか)に底根(そこつね)の国に適(い)ね。。(神代紀第七段一書第三)
 因りて復(また)兵(いくさ)を縦(はな)ちて忽(すみやか)に攻めたまふ。(神武前紀戊午年十二月)
 何ぞ遽(すみやか)に兵(いくさ)を興して、翻(かへ)りて失滅(け)たまはむ。(敏達紀十二年是歳)(注16)
 他国(ひとくに)は 住み悪しとそいふ すむやけく 早帰りませ 恋ひ死なむとに(万3748)
 君をわが 思ふ心は 大原や いつしかとのみ すみやかれつつ(詞花和歌集・恋下・233)

 スミヤク(速)は、心がはやる、気が急く、いら立つの意である。万葉集の例は「住み」と、詞花集の例は、大原の縁語で「炭焼く」と掛けている。確かに野焼き(小炭焼キ)で作る消し炭の作業は、全体に燃えあがらせておいてすぐに消して作るものだから、炭窯で作るのと違って早々にできる。使用時も、すぐに発火して炎も立てるが、消えるのも速い。急遽的な炭である。「偬倊」の訓にイトナシとあるのは、暇無しの意であるが、糸無しの鉤のこと、針素のついていない「五百鉤」、「一千鉤」のことに当たっているようである。佩帯の十拳剣を鍛冶屋さんに渡して焼き切ったり叩いたりして加工して作るには、木炭、それも和炭が必需品である。砂鉄から製錬して鋳造したのではない。「正本鉤」でないのは、銅鏃とは異なり、鋳型どおりのものではないとの謂いかもしれない。
 火照命はとても機微なところにケチを付けている。本邦における鋳鉄技術としては、銅の鋳造ははやく弥生時代から行われているが、鉄の鋳造は平安時代まで下る。鉄器の長所はとても硬いところにある。鋭利な刃物や農工具の先端、甲冑の札板などに用いられた。硬く作りたいからこそ鍛造技術が求められる。鋳造でにゅるっと作られたものに硬いものはできない。基本的には炭素含有量の問題が大きい。今日でも、鍛造で作られるものと鋳造で作られるものには用途に大きさ差がある。和炭という消し炭で作ったリサイクル品をケチなものだと言っている。同じくニコと形容されるケ(毛)のことは、ニコゲ(毳)である。和名抄・鳥体に、「毳 考声切韻に云はく、毳〈川苪反、爾古介(にこげ)〉は細く弱き毛也といふ。」とあり、鳥の毛の細くて柔らかくて短い毛のことをいう。人の髪の毛のうちでは、柔らかくて短いものはおくれ髪、おくれ毛、髦(のち)である。
後れ毛(髦(ノチ、メサシ)、「海外輸入子供通販ショップ チェリッシュ」様(http://www.cherish-kids.jp/SHOP/SBR015.html))
 名義抄の「髦」字の訓に、メサシとあった。おかっぱ頭の前髪を目のところまで伸ばして切り揃えた髪である。目を刺すような次第だから呼ばれている。もう少し伸びたら結い上げる。メサシで思い浮かぶのは、鰯の目刺しである。鰯の目刺しは季節の風物詩に見られる。節分の夜、魔除けの意味で、戸口に柊の葉の棘々したものとともに鰯の頭を焼いたものを刺して立てている。焼くと臭いから魔物の侵入を防ぐことができると信じられたのであろう。その起源は知られないが、さほど古いものとは思われない。焼嗅と書かれ、ヤイカガシ、ヤッカガシ、ヤキカガシ、ヤキサシなどという。カカシ(案山子)の古形、カガシが嗅がしに由来することとの意味の合致から、同源のように思われている。カガシは、臭気あるものによる害獣除けで、焼いて作った。魚を焼くのだから、調理用の消し炭(和炭)で焼かれたのであろう。案山子は、今日よく見られるような人形仕立てのものが後に登場している。鳴子やししおどしのような音による威嚇も古くから利用されていた。節分のヤイカガシなどの語は、後代に作られたもので、ヤキサシ(焼刺)という名がふさわしいように思われる。ヤキサシのイ音便化はヤイサシで、それは、イ音便化はしなかったヤヒサシ(吝)によく似ている。消し炭は乱れた藪のようで棘々していて立ち入れず、火をつけて焼かれて臭気をたてて作られている。「小炭焼キ」は柊鰯と同じ効果である。焼きさして中途で消され、消ちた炭が作られる。案山子は鳥おどしである。オドロ(藪)という語は、岩波古語辞典に「アクセントの点から考えてオドロ(驚)とは別。」(227頁)とあるが、語として別仕立てでも洒落として立派に成立している。
柊鰯(天草本百鬼夜行絵巻、江戸時代後期、19世紀、「天草テレビ」http://www.amakusa.tv/news_hyaki.html)
 記紀の海幸・山幸の「さち易」の話は、モト+ノチの話だから、だいぶ後になってその兆候は表に顕れる。記に、火遠理命は海宮で呪法を教えてもらって帰ってきて、「おぼ鉤」、「すす鉤」、「まぢ鉤」、「うる鉤」と言って火照命を呪っている。紀では、「貧鉤(まぢち)」(神代紀第十段本文)、「貧鉤、滅鉤(ほろびち)、落薄鉤(おとろへち)」(同一書第二)、「大鉤(おほぢ)、踉䠙鉤(すすのみぢ)、貧鉤、癡騃鉤(うるけぢ)」(同一書第三)、「貧鉤、狭狭貧鉤(ささまぢち)」(同一書第四)などとある。記の意をとれば、鬱悒(おぼ)、踉䠙(すす)、貧(まぢ)、癡騃(うる)の意であろう。詛い言とともに本物を返されて、ずっと以前にちょっとケチを付けた火照命は、呪詛の言葉が本物の真実となって不幸に陥るという話に終わっている。時間的な意味で、ノチに悪い結果となって発現する。日葡辞書に、「Qechi」に「物事の不吉な前兆」とあげられていた理由が、説話のなかに循環的に語られているのである。
(つづく)

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