「不改常典」については、これまであまりにも多くの議論が重ねられてきた(注1)。筆者は、それらが不毛であったことを以下に示す。用例として見られるのは続日本紀の詔で、宣命体で書かれているがここでは訓読文のみを示す(注2)。
①元明天皇即位詔(続紀・慶雲四年(707)七月壬子(17日))、前半部分の持統・文武の共治が回顧される部分に登場する。
……関くも威き藤原宮に御宇しし倭根子天皇[持統]、丁酉の八月に、此の食国天下の業を、日並所知皇太子の嫡子、今御宇しつる天皇[文武]に授け賜ひて、並び坐して此の天下を治め賜ひ諧へ賜ひき。是は関くも威き近江大津宮に御宇しし大倭根子天皇の、天地と共に長く日月と共に遠く改るましじき常の典と立て賜ひ敷き賜へる法を、受け賜り坐して行ひ賜ふ事と衆受け賜りて、恐み仕へ奉りつらく、と詔りたまふ命を衆聞きたまへと宣る。……(第三詔)
②聖武天皇即位詔(続紀・神亀元年(724)二月甲午(4日))、元正天皇の詔を引用したなかで、元正に譲位したときの元明天皇の詔が紹介されるなかに登場する。
……霊亀元年に、此の天日嗣高御座の業食国天下の政を、朕[元正]に授け賜ひ譲り賜ひて、教へ賜ひ詔り賜ひつらく、「挂けまくも畏き淡海大津宮に御宇しし倭根子天皇の、万世に改るましじき常の典と立て賜ひ敷き賜へる法の随に、後遂には我子に、さだかにむくさかに、過つ事無く授け賜へ」と負せ賜ひ詔り賜ひしに、.....(第五詔)
③聖武天皇譲位詔(続紀・天平勝宝元年(749)七月甲午(2日))、聖武天皇が元正天皇からの譲位を回顧した元正天皇の詔のなかに登場する。
……平城の宮に御宇しし天皇[元正]の詔りたまひしく、「挂けまくも畏き近江大津の宮に御宇しし天皇の改るましじき常の典と初め賜ひ定め賜ひつる法の随に、斯の天つ日嗣高御座の業は、御命に坐せ、いや嗣になが御命聞こし看せ」と勅りたまふ御命を畏じ物受け賜りまして、……(第十四詔)
フカイノジョウテン(「不改常典」)なる言葉は初めから存在しない。続日本紀の宣命(第三・五・十四詔)に出てくるものの字面を標本化して音読みしたものがフカイのジョウテンである。その漢字の表意する重みとは裏腹に、そのような言葉は当時なかった。訓み方は、「かはるましじきつねののり」である。詔を喋るに当たって用意した原稿が宣命体として続日本紀にそのまま残されているのである。完全に口頭語なのだから、フカイノジョウテンなるものは実体として存在しない。
「かはるましじきつねののり(不レ改常典)」は詔の文言のなかのことであり、話し言葉に文飾されて近江(淡海)大津宮御宇天皇と関係づけられ述べられている。近江(淡海)大津宮に都を置いたのは天智天皇である。その治世において何か関係する事項がないかと日本書紀を調べてみて、天智紀にはこれといってそれと知れる文章は見つからないから、歴史家は空想の翼を広げて自説を展開したり、他説を批判したり、水掛け論に陥っている。得られた諸説は、「(ア)近江令あるいは律令法とする説 (イ)皇位継承に関するものとする説 (ウ)天皇のあり方を定めたとする説」(中村2014.101頁)に分類されている(注3)。
詔の行われた場面、内容からして、(ア)(イ)(ウ)が出てきて当たり前である。天皇の代替わりの時に喋られているのだから、(イ)皇位継承に関わるもの、を中心に据えることが最も理にかなう。①で「不レ改常典」のように「行ひ賜ふ事」というのは、持統天皇が孫の文武天皇に譲位して共治したこと、②で「不レ改常典」のように「授け賜へ」というのは、元明天皇が子孫筋の首皇子(聖武天皇)が大きくなったら継がせるようにということ、③で「不レ改常典」のように「御命に坐せ、いや嗣になが御命聞こし看せ」というのは、元正天皇が甥の聖武天皇に譲位したことを指して言っている。皇位の継承において、親子、兄弟、夫婦ではないちょっと珍しい関係である。
そんな事項が日本書紀の天智天皇関連の記事にないかというと、どうしてこれまで見過ごされてきたのかわからないが、明々白々として存在する。クーデターを起こして蘇我入鹿を殺し、蘇我氏が滅亡した後、皇極天皇は譲位する。
天豊財重日足姫天皇四年の六月の庚戌に、天豊財重日足姫天皇、位を中大兄に伝へたまはむと思欲して、詔して曰はく、云々。中大兄、退でて中臣鎌子連に語りたまふ。中臣鎌子連議て曰さく、「古人大兄は殿下の兄なり。軽皇子は殿下の舅なり。方に今、古人大兄在します。而るを殿下陟天皇位さば、人の弟恭み遜ふ心に違はむ。且く、舅を立てて民の望に答はば、亦可からずや」とまをす。是に、中大兄、深く厥の議を嘉したまひて、密に以て奏聞したまふ。天豊財重日足姫天皇、璽綬を授けたまひて、位を禅りたまふ。策して曰はく、「咨、爾軽皇子」と云々。(孝徳前紀皇極四年六月十四日)(注4)
「かはるましじきつねののり(不レ改常典)」と呼ばれるものは明示されている。中大兄は後の天智天皇である。彼は、中臣鎌子(藤原鎌足)に意見を求めている。最も一般的と思われる継承順は、舒明─皇極と夫婦間を継いできたのだから、次は世代を下ってその息子ということになる。その際、別腹の長子に古人大兄がいる。それを差し置いて中大兄が継ぐというのは順序的にどうなのだろうか。だからここは、ひとまず中大兄からみて叔父に当たる軽皇子、すなわち、孝徳天皇に就いてもらい、民の望む施策が行われるようにしたらよいのではないかというのである。中大兄はその教唆にまるごと従い、自分の母親の皇極天皇(天豊財重日足姫天皇)に奏上して計らってもらった。結果、皇極女帝からその弟へと皇位が渡っている。中大兄が継ぐべきところ、イレギュラーな関係の叔父のところへお先にどうぞと譲られている。それを承けたのが続紀の詔に見えている「かはるましじきつねののり(不レ改常典)」なのである。③の詔にあるように、「不レ改常典」であると、中大兄は「初め賜」うているわけである。
助動詞マシジはマジの古形で、「打消された事態に対する様相的・論理的推定を表す。」(小田2015.180頁)もので、「当然……すべきでない」、「……するはずがない」、「……しないはずだ」、「……しないに決まっていよう」といった現代語に相当する。未来における否定の見解を表明していると言ってよいものである。すなわち、「かはるましじきつねののり(不レ改常典)」とは、いつだって当然かわるべきではない決まりごと、という意味である。皇位の継承順は、直系だとか世代順だとかいった形式的な継嗣順とは異次元の、当然そうすべだと判断される時にはそうするという超法規的な決定基準というものがあるということ、それを「かはるましじきつねののり(不レ改常典)」と呼んでいる(注5)。
そんなことを中大兄に入れ知恵したのは藤原鎌足である。往年の名宰相、内臣武内宿禰に擬せられるような人物であった(注6)。優秀な側近がいてはじめてうまく事は運ぶ(注7)。当初の案のように皇極天皇から中大兄にそのまま位が譲られていたら、きっと治まらなかったであろうと推量していたことが透けてみえる言い方として、「かけまくもかしこきあふみのおほつのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのかはるましじきつねののり」という長たらしい常套句はある。そういう機微まで伝えるためには、マシジといった言語技術的に高度なところを含ませて、まつり上げながら言葉に落とし込んでおけばよいのである。「かはるましじきつねののり(不レ改常典)」は頭に「かけまくもかしこき近江(淡海)大津宮御宇天皇」と被る以外にないものである。蘇我氏滅亡後の政権中枢を混乱させずに滞りなく政治を進めることができたのは、臨機応変にイレギュラーな皇位順に継承したこと、その方策は治世のうえで結果的にとても幸いなことであったことを表しているのである(注8)。
(注)
(注1)参考文献については、下に最小限にあげた近年の著述に引かれる諸論や注、新大系本続日本紀一の補注(382~384頁)など参照のこと。研究しようとする場合、なによりテキストを読むことから始めなければならない。膨大な先行研究の渦に飲まれて事を見失っては元も子もない。「不改常典」が登場するのは詔に昔話を語っているなかである。同時代の奈良時代の状況ばかりから考察していてもわかりはしない。
(注2)新大系本続日本紀を参照されたい。
(注3)北2017.も指摘するところだが、「不改常典」が記されている宣命の文章は、文章の構造が錯綜して多様な解釈ができてしまうからいろいろな説が出てくることとなっている。しかし、逆に言えば、それは口頭語なのだから、聞いている人に、ああ、あのことか、と誰にでもすぐにわかる言葉で喋っているものと考えられる。当時においてはけっして多様には受けとられなかったということである。そうでなければスピーチは成立しない。
(注4)事の次第はつづけて叙述されている。「軽皇子、再三に固辞びて、転古人大兄 更の名は、古人大市皇子。 に譲りて曰く、「大兄命は、是昔の天皇の所生なり。而して又年長いたり。斯の二つの理を以て、天位に居しますべし」といふ。是に、古人大兄、座を避りて逡巡きて、手を拱りて辞びて曰さく、「天皇の聖旨に奉り順はむ。何ぞ労しくして臣に推譲らむ。臣は願ふ、出家して、吉野に入りなむ。仏道を勤め修ひて、天皇を祐け奉らむ」とまをす。辞び訖りて、佩かせる刀を解きて、地に投擲つ。亦帳内に命せて、皆刀を解かしむ。即ち自ら法興寺の仏殿と塔との間に詣でまして、髯髪を剔除りて、袈裟を披着つ。是に由りて、軽皇子、固辞ぶること得ずして、壇に升りて即祚す。」(孝徳前紀皇極四年六月十四日)
(注5)このことは、「改るましじき常の典と立て賜ひ敷き賜へる法」、「改るましじき常の典と初め賜ひ定め賜ひつる法」というように、ノリという言葉に屋上屋が架されているところに表れている。「典」字で表しているノリは、原理原則を超えて実態に即して決めていく超法規性を含めたもの、「法」字で表しているノリは、当座に約束事を決めてそれに従って行動することが求められる法令、規範のことを指していると言える。つまり、「改るましじき常の典」なるものは、時に応じて変わってかまわない許容範囲のようなところを突いたノリなのである。それを広く捉えれば、全体として変わらないのは当然のことである。極端な例で説明すれば、人は社会的動物だから社会が乱れないように守るべきなのは「法」であり、人は動物だから死ぬことはどうしてたって「改るましじき常の」「典」であるということである。
字義において「法」には盟誓の義、「典」には書物の義がある。続紀時代に宣命を記す際に、口約束はころころと変えられるが、書いてあるものは改竄し得ないとする意識を反映したものなのか、筆者の力の及ぶところではない。
(注6)詔にあらわれている。
④文武天皇の、藤原不比等に食封を賜う詔(続紀・慶雲四年(707)四月壬午(15日))
……又、難波大宮に御宇しし掛けまくも畏き天皇命[孝徳天皇]の、汝[藤原不比等]の父藤原大臣[藤原鎌足]の仕へ奉りける状をば、建内宿禰命の仕へ奉りける事と同じ事ぞと勅りたまひて、……(第二詔)
(注7)天智天皇を藤原鎌足がよく輔弼したから治世はうまく機能したのである。そのことを反映した文言が詔に出てくる。「不レ改常典」に関連することだから同じような文言になっている。
⑤聖武天皇の、慶事を祝し恵を垂れる詔(続紀・天平勝宝元年(749)四月甲午朔(1日))
……挂けまくも畏き近江大津宮に大八嶋国知らしめしし天皇が大命として、奈良宮に大八嶋国知らしめしし我が皇天皇と御世御世重ねて朕に宣りたまひしく、「大臣の御世重ねて明き浄き心を以て仕へ奉る事に依りてなも天日嗣は平けく安けく聞こし召し来る。此の辞忘れ給ふな。弃て給ふな」と宣りたまひし大命を受け賜はり恐り、……(第十三詔)
⑥称徳天皇の、藤原永手に右大臣を授ける詔(続紀・天平神護二年(766)正月甲午(8日))
……掛けまくも畏き近淡海の大津宮に天下知らしめしし天皇が御世に奉侍りましし藤原大臣、復後の藤原大臣に賜ひて在るしのひことの書に勅りたまひて在らく、「子孫の浄く明き心を以て朝廷に奉侍らむをは必ず治め賜はむ、其の継は絶ち賜はじ」と勅りたまひて在るが故に、……(第四十詔)
(注8)本稿は、古代専制体制における「法治」の恣意性について、述べるましじき論稿である。
(引用・参考文献)
大町2016. 大町健「天智の定めた「不改常典」と「法」」『成蹊大学経済学部論集』第47巻第2号、2016年12月。成蹊大学学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/10928/846
小田2015. 小田勝『実例詳解古典文法総覧』和泉書院、2015年。
北2017. 北康宏『日本古代君主制成立史の研究』塙書房、2017年。
熊谷2010. 熊谷公男「即位宣命の論理と「不改常典」法」『東北学院大学論集 歴史と文化』第45号、2010年3月。東北学院大学学術情報リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1204/00000005/
新大系本続日本紀 青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『新日本古典文学大系12・13・14・15 続日本紀一・二・三・四』岩波書店、1989・1990・1992・1995年。
中野渡2017. 中野渡俊治『古代太上天皇の研究』思文閣出版、2017年。
中村2020. 中村修也「不改常典の成立について」木本好信編『古代史論聚』岩田書院、2020年。
原科2018. 原科颯「「不改常典」法に関する一考察」『慶應義塾大学大学院法学研究科論文集』第58号、2018年。慶応義塾大学リポジトリhttps://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00069591-00000058-0067
水谷2020. 水谷千秋『日本古代の思想と天皇』和泉書院、2020年。
※本稿は2022年9月稿の一部字句を、2024年6月に補正したものである。
①元明天皇即位詔(続紀・慶雲四年(707)七月壬子(17日))、前半部分の持統・文武の共治が回顧される部分に登場する。
……関くも威き藤原宮に御宇しし倭根子天皇[持統]、丁酉の八月に、此の食国天下の業を、日並所知皇太子の嫡子、今御宇しつる天皇[文武]に授け賜ひて、並び坐して此の天下を治め賜ひ諧へ賜ひき。是は関くも威き近江大津宮に御宇しし大倭根子天皇の、天地と共に長く日月と共に遠く改るましじき常の典と立て賜ひ敷き賜へる法を、受け賜り坐して行ひ賜ふ事と衆受け賜りて、恐み仕へ奉りつらく、と詔りたまふ命を衆聞きたまへと宣る。……(第三詔)
②聖武天皇即位詔(続紀・神亀元年(724)二月甲午(4日))、元正天皇の詔を引用したなかで、元正に譲位したときの元明天皇の詔が紹介されるなかに登場する。
……霊亀元年に、此の天日嗣高御座の業食国天下の政を、朕[元正]に授け賜ひ譲り賜ひて、教へ賜ひ詔り賜ひつらく、「挂けまくも畏き淡海大津宮に御宇しし倭根子天皇の、万世に改るましじき常の典と立て賜ひ敷き賜へる法の随に、後遂には我子に、さだかにむくさかに、過つ事無く授け賜へ」と負せ賜ひ詔り賜ひしに、.....(第五詔)
③聖武天皇譲位詔(続紀・天平勝宝元年(749)七月甲午(2日))、聖武天皇が元正天皇からの譲位を回顧した元正天皇の詔のなかに登場する。
……平城の宮に御宇しし天皇[元正]の詔りたまひしく、「挂けまくも畏き近江大津の宮に御宇しし天皇の改るましじき常の典と初め賜ひ定め賜ひつる法の随に、斯の天つ日嗣高御座の業は、御命に坐せ、いや嗣になが御命聞こし看せ」と勅りたまふ御命を畏じ物受け賜りまして、……(第十四詔)
フカイノジョウテン(「不改常典」)なる言葉は初めから存在しない。続日本紀の宣命(第三・五・十四詔)に出てくるものの字面を標本化して音読みしたものがフカイのジョウテンである。その漢字の表意する重みとは裏腹に、そのような言葉は当時なかった。訓み方は、「かはるましじきつねののり」である。詔を喋るに当たって用意した原稿が宣命体として続日本紀にそのまま残されているのである。完全に口頭語なのだから、フカイノジョウテンなるものは実体として存在しない。
「かはるましじきつねののり(不レ改常典)」は詔の文言のなかのことであり、話し言葉に文飾されて近江(淡海)大津宮御宇天皇と関係づけられ述べられている。近江(淡海)大津宮に都を置いたのは天智天皇である。その治世において何か関係する事項がないかと日本書紀を調べてみて、天智紀にはこれといってそれと知れる文章は見つからないから、歴史家は空想の翼を広げて自説を展開したり、他説を批判したり、水掛け論に陥っている。得られた諸説は、「(ア)近江令あるいは律令法とする説 (イ)皇位継承に関するものとする説 (ウ)天皇のあり方を定めたとする説」(中村2014.101頁)に分類されている(注3)。
詔の行われた場面、内容からして、(ア)(イ)(ウ)が出てきて当たり前である。天皇の代替わりの時に喋られているのだから、(イ)皇位継承に関わるもの、を中心に据えることが最も理にかなう。①で「不レ改常典」のように「行ひ賜ふ事」というのは、持統天皇が孫の文武天皇に譲位して共治したこと、②で「不レ改常典」のように「授け賜へ」というのは、元明天皇が子孫筋の首皇子(聖武天皇)が大きくなったら継がせるようにということ、③で「不レ改常典」のように「御命に坐せ、いや嗣になが御命聞こし看せ」というのは、元正天皇が甥の聖武天皇に譲位したことを指して言っている。皇位の継承において、親子、兄弟、夫婦ではないちょっと珍しい関係である。
そんな事項が日本書紀の天智天皇関連の記事にないかというと、どうしてこれまで見過ごされてきたのかわからないが、明々白々として存在する。クーデターを起こして蘇我入鹿を殺し、蘇我氏が滅亡した後、皇極天皇は譲位する。
天豊財重日足姫天皇四年の六月の庚戌に、天豊財重日足姫天皇、位を中大兄に伝へたまはむと思欲して、詔して曰はく、云々。中大兄、退でて中臣鎌子連に語りたまふ。中臣鎌子連議て曰さく、「古人大兄は殿下の兄なり。軽皇子は殿下の舅なり。方に今、古人大兄在します。而るを殿下陟天皇位さば、人の弟恭み遜ふ心に違はむ。且く、舅を立てて民の望に答はば、亦可からずや」とまをす。是に、中大兄、深く厥の議を嘉したまひて、密に以て奏聞したまふ。天豊財重日足姫天皇、璽綬を授けたまひて、位を禅りたまふ。策して曰はく、「咨、爾軽皇子」と云々。(孝徳前紀皇極四年六月十四日)(注4)
「かはるましじきつねののり(不レ改常典)」と呼ばれるものは明示されている。中大兄は後の天智天皇である。彼は、中臣鎌子(藤原鎌足)に意見を求めている。最も一般的と思われる継承順は、舒明─皇極と夫婦間を継いできたのだから、次は世代を下ってその息子ということになる。その際、別腹の長子に古人大兄がいる。それを差し置いて中大兄が継ぐというのは順序的にどうなのだろうか。だからここは、ひとまず中大兄からみて叔父に当たる軽皇子、すなわち、孝徳天皇に就いてもらい、民の望む施策が行われるようにしたらよいのではないかというのである。中大兄はその教唆にまるごと従い、自分の母親の皇極天皇(天豊財重日足姫天皇)に奏上して計らってもらった。結果、皇極女帝からその弟へと皇位が渡っている。中大兄が継ぐべきところ、イレギュラーな関係の叔父のところへお先にどうぞと譲られている。それを承けたのが続紀の詔に見えている「かはるましじきつねののり(不レ改常典)」なのである。③の詔にあるように、「不レ改常典」であると、中大兄は「初め賜」うているわけである。
助動詞マシジはマジの古形で、「打消された事態に対する様相的・論理的推定を表す。」(小田2015.180頁)もので、「当然……すべきでない」、「……するはずがない」、「……しないはずだ」、「……しないに決まっていよう」といった現代語に相当する。未来における否定の見解を表明していると言ってよいものである。すなわち、「かはるましじきつねののり(不レ改常典)」とは、いつだって当然かわるべきではない決まりごと、という意味である。皇位の継承順は、直系だとか世代順だとかいった形式的な継嗣順とは異次元の、当然そうすべだと判断される時にはそうするという超法規的な決定基準というものがあるということ、それを「かはるましじきつねののり(不レ改常典)」と呼んでいる(注5)。
そんなことを中大兄に入れ知恵したのは藤原鎌足である。往年の名宰相、内臣武内宿禰に擬せられるような人物であった(注6)。優秀な側近がいてはじめてうまく事は運ぶ(注7)。当初の案のように皇極天皇から中大兄にそのまま位が譲られていたら、きっと治まらなかったであろうと推量していたことが透けてみえる言い方として、「かけまくもかしこきあふみのおほつのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのかはるましじきつねののり」という長たらしい常套句はある。そういう機微まで伝えるためには、マシジといった言語技術的に高度なところを含ませて、まつり上げながら言葉に落とし込んでおけばよいのである。「かはるましじきつねののり(不レ改常典)」は頭に「かけまくもかしこき近江(淡海)大津宮御宇天皇」と被る以外にないものである。蘇我氏滅亡後の政権中枢を混乱させずに滞りなく政治を進めることができたのは、臨機応変にイレギュラーな皇位順に継承したこと、その方策は治世のうえで結果的にとても幸いなことであったことを表しているのである(注8)。
(注)
(注1)参考文献については、下に最小限にあげた近年の著述に引かれる諸論や注、新大系本続日本紀一の補注(382~384頁)など参照のこと。研究しようとする場合、なによりテキストを読むことから始めなければならない。膨大な先行研究の渦に飲まれて事を見失っては元も子もない。「不改常典」が登場するのは詔に昔話を語っているなかである。同時代の奈良時代の状況ばかりから考察していてもわかりはしない。
(注2)新大系本続日本紀を参照されたい。
(注3)北2017.も指摘するところだが、「不改常典」が記されている宣命の文章は、文章の構造が錯綜して多様な解釈ができてしまうからいろいろな説が出てくることとなっている。しかし、逆に言えば、それは口頭語なのだから、聞いている人に、ああ、あのことか、と誰にでもすぐにわかる言葉で喋っているものと考えられる。当時においてはけっして多様には受けとられなかったということである。そうでなければスピーチは成立しない。
(注4)事の次第はつづけて叙述されている。「軽皇子、再三に固辞びて、転古人大兄 更の名は、古人大市皇子。 に譲りて曰く、「大兄命は、是昔の天皇の所生なり。而して又年長いたり。斯の二つの理を以て、天位に居しますべし」といふ。是に、古人大兄、座を避りて逡巡きて、手を拱りて辞びて曰さく、「天皇の聖旨に奉り順はむ。何ぞ労しくして臣に推譲らむ。臣は願ふ、出家して、吉野に入りなむ。仏道を勤め修ひて、天皇を祐け奉らむ」とまをす。辞び訖りて、佩かせる刀を解きて、地に投擲つ。亦帳内に命せて、皆刀を解かしむ。即ち自ら法興寺の仏殿と塔との間に詣でまして、髯髪を剔除りて、袈裟を披着つ。是に由りて、軽皇子、固辞ぶること得ずして、壇に升りて即祚す。」(孝徳前紀皇極四年六月十四日)
(注5)このことは、「改るましじき常の典と立て賜ひ敷き賜へる法」、「改るましじき常の典と初め賜ひ定め賜ひつる法」というように、ノリという言葉に屋上屋が架されているところに表れている。「典」字で表しているノリは、原理原則を超えて実態に即して決めていく超法規性を含めたもの、「法」字で表しているノリは、当座に約束事を決めてそれに従って行動することが求められる法令、規範のことを指していると言える。つまり、「改るましじき常の典」なるものは、時に応じて変わってかまわない許容範囲のようなところを突いたノリなのである。それを広く捉えれば、全体として変わらないのは当然のことである。極端な例で説明すれば、人は社会的動物だから社会が乱れないように守るべきなのは「法」であり、人は動物だから死ぬことはどうしてたって「改るましじき常の」「典」であるということである。
字義において「法」には盟誓の義、「典」には書物の義がある。続紀時代に宣命を記す際に、口約束はころころと変えられるが、書いてあるものは改竄し得ないとする意識を反映したものなのか、筆者の力の及ぶところではない。
(注6)詔にあらわれている。
④文武天皇の、藤原不比等に食封を賜う詔(続紀・慶雲四年(707)四月壬午(15日))
……又、難波大宮に御宇しし掛けまくも畏き天皇命[孝徳天皇]の、汝[藤原不比等]の父藤原大臣[藤原鎌足]の仕へ奉りける状をば、建内宿禰命の仕へ奉りける事と同じ事ぞと勅りたまひて、……(第二詔)
(注7)天智天皇を藤原鎌足がよく輔弼したから治世はうまく機能したのである。そのことを反映した文言が詔に出てくる。「不レ改常典」に関連することだから同じような文言になっている。
⑤聖武天皇の、慶事を祝し恵を垂れる詔(続紀・天平勝宝元年(749)四月甲午朔(1日))
……挂けまくも畏き近江大津宮に大八嶋国知らしめしし天皇が大命として、奈良宮に大八嶋国知らしめしし我が皇天皇と御世御世重ねて朕に宣りたまひしく、「大臣の御世重ねて明き浄き心を以て仕へ奉る事に依りてなも天日嗣は平けく安けく聞こし召し来る。此の辞忘れ給ふな。弃て給ふな」と宣りたまひし大命を受け賜はり恐り、……(第十三詔)
⑥称徳天皇の、藤原永手に右大臣を授ける詔(続紀・天平神護二年(766)正月甲午(8日))
……掛けまくも畏き近淡海の大津宮に天下知らしめしし天皇が御世に奉侍りましし藤原大臣、復後の藤原大臣に賜ひて在るしのひことの書に勅りたまひて在らく、「子孫の浄く明き心を以て朝廷に奉侍らむをは必ず治め賜はむ、其の継は絶ち賜はじ」と勅りたまひて在るが故に、……(第四十詔)
(注8)本稿は、古代専制体制における「法治」の恣意性について、述べるましじき論稿である。
(引用・参考文献)
大町2016. 大町健「天智の定めた「不改常典」と「法」」『成蹊大学経済学部論集』第47巻第2号、2016年12月。成蹊大学学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/10928/846
小田2015. 小田勝『実例詳解古典文法総覧』和泉書院、2015年。
北2017. 北康宏『日本古代君主制成立史の研究』塙書房、2017年。
熊谷2010. 熊谷公男「即位宣命の論理と「不改常典」法」『東北学院大学論集 歴史と文化』第45号、2010年3月。東北学院大学学術情報リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1204/00000005/
新大系本続日本紀 青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『新日本古典文学大系12・13・14・15 続日本紀一・二・三・四』岩波書店、1989・1990・1992・1995年。
中野渡2017. 中野渡俊治『古代太上天皇の研究』思文閣出版、2017年。
中村2020. 中村修也「不改常典の成立について」木本好信編『古代史論聚』岩田書院、2020年。
原科2018. 原科颯「「不改常典」法に関する一考察」『慶應義塾大学大学院法学研究科論文集』第58号、2018年。慶応義塾大学リポジトリhttps://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00069591-00000058-0067
水谷2020. 水谷千秋『日本古代の思想と天皇』和泉書院、2020年。
※本稿は2022年9月稿の一部字句を、2024年6月に補正したものである。