古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

吉野の国主(国樔・国栖)の献酒歌について

2022年09月04日 | 古事記・日本書紀・万葉集
吉野のクニスの話

 応神天皇時代の逸話として、吉野に住まう国主等くにすら(記)、国樔人くずひと(紀)に関連する記述が、よく似た歌謡を伴って見られる。酒の献上が話の主旨である。記では大御酒おほみきの製造過程から述べている。一方、紀では吉野の国樔人の風俗全般に対するルポルタージュとなっている。

 又、吉野の白檮かしに、横臼よこうすを作りて、其の横臼に大御酒おほみきみて、其の大御酒を献りし時に、口鼓くちつづみを撃ちて、わざを為して歌曰うたひしく、
 白檮かしに 横臼よくすを作り 横臼に みし大御酒おほみき 美味うまらに 聞こしもちせ まろが(記48)
此の歌は、国主等くにすら大贄おほにへ献る時々に、恒に今に至るまで詠む歌ぞ。(応神記)
 十九年の冬十月の戊戌のついたちのひに、吉野宮にいでます。時に、国樔人くずひと来朝まうけり。因りて、醴酒こさけを以ちて天皇に献りて、うたよみしてまをさく、
 白檮かしに 横臼よくすを作り 横臼に める大御酒おほみき 美味うまらに 聞こしもちせ まろが(紀39)
歌ふこと既にをはりて、則ちロを打ちてあふわらふ。今し国樔くずひと土毛くにつものを献る日に、歌ひ訖りて即ち口をち仰ぎ咲ふは、けだ上古いにしへ遺則のりなり。れ国樔は、其の為人ひととなり、甚だ淳朴すなほなり。つねに山のこのみを取りてくらふ。亦蝦蟆かへるを煮て上味よきあぢはひとす。名けて毛瀰もみと曰ふ。其のくには、みやこより東南たつみのすみ、山を隔てて吉野河よしののかはほとりり。たけさがしく谷深くして、道路みちさがし。このゆゑに、京に遠からずと雖も、もとより朝来まうくることまれなり。然れども此より後、しばしば参赴まうきて、土毛を献る。其の土毛は、栗・たけ及び年魚あゆの類なり。(応神紀十九年十月)

 記の記事については、これが古くからの口噛み酒(口醸み酒)(注1)のことであること、献上に際して歌謡に独特の所作が伴っていて、それが儀礼化していたことが論じられてきている(注2)。ここでは、制度化した儀礼は派生的なこととして深くは追わない。すべての展開の基となっている記紀の記述、わけても記48・紀39番歌謡をきちんと読んで、その意味するところを正確に汲み取ることを目標とする。
 これらの記事は、特に歌謡において、いまだはっきりした解釈を得ていない点を残している。キコシモチヲセとあるが、キコシヲスの語中にモチと割り込んだ形になっている(注3)。そのような例は他に見られない。マロガチと言っているが、マロという言い方は平安朝には見られるが、古く自称の言葉とされていた形跡はない(注4)。さらに、古代の酒造りにおいて「横臼」を使っていた事情はよく飲みこめていない。酒なのに飲みこめなくてよいのだろうか。始原を十分に理解しないまま、あやうい議論が横行しているようである。

横臼よくす

 記では紀にない酒造りのための容器作りのことから話が起こされている。「白檮かし〔白檮上〕」の「上」は「生」の誤写かもしれないともされるが、芝生などと同様に、カシ(白檮)の木の生えている場所という意とされている。歌にあるヨクスはヨコウス(横臼)の約で、横に長い臼のこととされている。実体としてよくわからないものの、臼は通常、丸太を立てた状態で年輪の中心のほうをえぐって作られ、それを竪臼とし、対して、丸太を寝かせた状態で横ざまに丸木船を作るように木を刳ったもののことを「横臼」と呼んだのではないかという。この同定は正しいと考える。
 フネは槽だからである。和名抄に、「酒槽 ⽂選酒徳頌注に云はく、槽〈⾳は曹、佐加布禰さかふね〉は今の酒槽なりといふ。」とある。船との違いは、水分が中にあるか外にあるかである。形は同じでも用法が正反対であるものを一つの言葉で表している。いまでも浴槽のことを湯船と言っている。そしてまた、フネだからヨコウスが訛ってヨクスになっているのであろう。クスという音は、クスノキのことを思い起こさせる。「乃ちことあげして曰はく、「杉及び櫲樟くす、此のふたつは、以て浮宝うくたからとすべし。」(神代紀第八段一書第五)と、船の適材と見なされている。
 そんな横臼で発酵させて酒を造っている。醸造のことをいう「む」は「む」と同根の語である。口噛み酒が酒作りの原初形態としてあったから、ヤマトコトバに「む」という言い方となっていると考えられる(注5)。噛んだものを酒槽に入れておくと空気中に漂う酵母が入って発酵し、酒ができた。それは紀にあるように「醴酒こさけ(注6)と呼ばれ、見た目はどぶろくのようなものであったと思われる。和名抄に、「醴 四声字苑に云はく、醴〈⾳は礼、古佐計こさけ〉は⼀⽇⼀宿の酒なりといふ。」とある。もちろん、酵母の侵入を願いながら放置しても、そうはならず腐敗した例も数知れなかったであろう。口噛み酒を製造するのを処女に限った風習は、腐敗を避けたいという願いを投影したものであったろうし、酒の酵母の棲息する特別な場所、酒蔵的なところに置いておくことも案外早くから行われていたかもしれない。また、酒造りに成功した木器には酵母が残り、専用の容器として使い続けることで思うように発酵していたということなのかもしれない。
 いずれにせよ、国主(国樔)は横臼を使っている。臼は本来、杵で搗くための受け具としてある。竪臼に搗くとき、それは脱穀を意味している。それが通常の使用法であるのに対して、口噛み酒を造るときには、まず酒の原料にする米を脱穀し、一度はその臼から出して蒸しあげたのちに人の口に噛まれ、再び臼に還ってくる格好になっている(注7)

 碓 都海、都遂二反、去、女人舂米之器、舂也、築也、刾也、宇須うす(新撰字鏡)
 ⾅〈杵附〉 四声字苑に云はく、⾅〈巨久反、上声の重、宇須うす〉は穀をうすづく器なり、杵〈昌与反、岐禰きね〉は舂く槌なりといふ。(和名抄・木器)

 蒸し米を口に含んで噛んでから臼に入れ、それが濁り酒となるのであれば、元の状態の米にあった粒の性質はなくなり、どろっとしたものに仕上がっている。臼の利用法としては、同じように、蒸し米を入れて餅搗きをすることがある。脱穀に舂いていったん取り出して蒸し器にかけ、蒸しあがったものを再び臼に戻して再び搗く。このとき杵は横杵になっている(注8)
 横臼、横杵を使って、粒の性質を失わしめて粘性を得ることになる。これは、臼のもつウス性の究極のところを示していると言える(注9)。身体の感覚としてわかることは、濁り酒は後味を引いて、餅は物理的に、口の中で粘っている。口は飲食の器官であるとともに発声の器官でもある。歌謡の中に言い含む言葉を含むようになっていることは、五感をもって語感として言葉としていたヤマトコトバの語形成において間違っていないと言えるものである。

「聞こしもちす」

 「聞こしもちせ」は、「聞こし」と「食せ」との間に「もち」というつなぐ言葉が入った形であるとされている。「もち」が入らないキコシヲスという言葉は、「天下」や「国家」を天皇が統治することを表すための言葉として用いられている。万葉集の用例は長歌ばかりである。

 やすみしし わご大王おほきみの 聞こしす〔所聞食〕 天の下に 国はしも さはにあれども ……(万36)
 …… つちならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏むかぶす極み 谷蟆たにぐくの さ渡る極み 聞こし食す〔企許斯遠周〕 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに 然にはあらじか(万800)
 やすみしし わご大皇おほきみ 高照らす 日の皇子みこの 聞こし食す〔聞食〕 御食みけつ国 神風かむかぜの 伊勢の国は ……(万3234)
 高御座たかみくら あま日継ひつぎと すめろきの 神のみことの 聞こし食す〔伎己之乎須〕 国のまほらに ……(万4089)
 天皇おほきみの とほ朝廷みかどと しらぬひ 筑紫の国は あた守る おさへそと 聞こし食す〔聞食〕 四方よもの国には ……(万4331)
 …… 物ごとに 栄ゆる時と 給ひ 明らめ給ひ 敷きませる 難波の宮は 聞こし食す〔伎己之乎須〕 四方の国より 奉る 御調みつきの船は ……(万4360)

 「聞しもち食せ」を「食す」国の思想の展開形として捉えられることもあるが、御贄の献上を服属儀礼としたから「食す」国と呼ばれるようになったと考えることは、いかにも持って回った推定である(注10)
 キク(聞)という語は、古く、「五感のうち、聴覚を働かせて音声を感知するのが基本的な意味。耳にした音声や言葉をもとに思惟活動に展開すると、(聞いたことから)そのように思う、評判でそれと知るなどの意となる。また、耳にした言葉を意志的に受容する方向に展開すると、(聞いたことを)承知する、受け入れる、(相手の勧めや求めに)従うの意を表す。」(古典基礎語辞典400頁、この項、筒井ゆみ子)ことであった。上代には、①聴覚で音声を感知する、②耳にして知る、③相手の言葉を受容して承知する、相手の勧めや求めに従う、といった語釈が適用される。尋ねる、問いただすの意にはまだ使われておらず、確例を得ていないとされる(時代別国語大辞典238頁)。そのキク(聞)に尊敬の助動詞スが後接して音転したキコス(聞)の場合も、お聞きになる、理解なさる、おっしゃる、の意に用いられている(注11)
 ウマラニは、形容詞ウマシ(甘)の語幹に情態性を表す接尾語ラが付き、さらにニが下接して副詞となったもの(情態副詞)で、おいしい状態で、の意である。つまり、ウマラニキコスは、おいしい状態であるとご理解なさる、の意である。
 つづくモチは動詞モツ(持)が原義で、そこから補助動詞化して、携帯している、大事に保つ、性質・気持ちなどを身にそなえる、の意に用いられた。すなわち、ウマラニキコシモチは、おいしい状態であるとご理解されたそのままに、という意である。
 ヲス(食)は食べる、飲むの尊敬語で、お食べになる、お飲みになる、の意、また、着るの意の尊敬語で、おめしになる、治めるの意の尊敬語で、お治めになる、の意である。すなわち、ウマラニキコシモチヲセは、おいしい状態であるとご理解されたそのままにお飲みになってください、という意味である。こういう言い方をしている当初の段階では、直接的には統治する/される、といった義を含んでいない。解釈され直した時にはじめて、服属儀礼にあてることが適当であることになったのだろう(注12)
 歌の直接の言葉の意味するところは単純である。古代においては、今日ほどには都市化、規格化、自己家畜化は進行しておらず、ヒトは動物的で哺乳類としての性格を保っていた。それでも赤ん坊ではないから、人が吐き出したものを飲むのには勇気がいる。その心理的抵抗について語っているのがこの歌の言葉づかいである。ヤマトの人は吉野の土着民にあった「淳朴」を忘れることがあったということらしい。すなわち、お酒をどうやって作っているか、また、その結果としてできている見た目の気味の悪さは無視して、まずは試しに口に含んでみて、ただ舌の感覚に素直(「淳朴」)になり、そのおいしさに従ってお召し上がりください、と言っている。
 おそらく、口噛み酒のような醸造法は、当時のヤマト朝廷の人たちにとって珍しいものであったのだろう。そして、少し野蛮なものに映ったのであろう。だからわざわざ吉野の土俗民のこととして話にされ、歌にまでなって伝えられている。大嘗祭関連の宮廷儀礼に歌われた歌謡ともともとの歌謡とでは、歌われている景色はまるで違う。式次第の歌ではなく、内容ともども実感をもった味わいのある歌なのである。
 口噛み酒の造り方がヤマト朝廷の人にとって知られていなかったと捉えることは、稲作文化とともに伝わったであろう江南の口噛み酒が、ヤマトの、少なくとも朝廷を中心としたところでは行われなくなっていたことを意味していよう。飲酒をしなかったとは思われないから、別の酒造方法が取って代わっていたということになる。その具体的、発酵学的方法については上田2020.に譲るが、本稿で対象としている記48・紀39歌謡などに見られるものは旧来からのもの、記49歌謡のところにある渡来人、ニホ(仁番)、亦の名をススコリ(須々許理)(応神記)のそれは新しい技法によるものと考えることができる(注13)。たてつづけに酒造法についての歌謡が登場しているのは、さまざまな方法を試しては改変していった、技術革新の華やかな時代を反映していると考えられる。

口を打って笑う

 「撃口鼓、為伎而、歌曰」(記)、「歌之既訖、則打口以仰咲。」「歌訖即撃口仰咲」(紀)とあり、「今 世に、舌鼓シタツヾミウツと云 しわざか、又上下のクチビルハジキて、音をなすを云か。」(本居宣長・古事記伝、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/271、漢字の旧字体は改めた)、「半ば開いた口を掌で叩いて音を出したものか。」(大系本日本書紀209頁)、「口をまるく開いて、掌で打って音をだすことか。」(土橋1972.214頁)、「鼓を打つような音を口から発し、さまざまな所作をまじえて踊った、ということか。」(佐佐木2012a.69頁)といった説が唱えられ、アイヌのレクッカラという遊戯に似ているともされている。
 また、紀に「咲」とある点について、ワラフことは呪的な行為であり、「寿福を招き寄せる意味をもつ呪法であ」(土橋1976.145頁)る、「書紀に……あるように、歌を歌ってから口鼓を撃ち、仰ぎ笑う習俗が伝わっている。それは、恰も、久米部が舞を舞ってから後に、大いに哂笑しんしようする習俗と相似ているのであって、この国栖歌が舞を伴って歌われた事実を語るのである。」(相磯1962.163~164頁)、「祝福し繁栄を祈る、呪術的な所作だろう。」(佐佐木2020b.53頁)などとされている(注14)
 「此歌者、国主等献大贄之時々、恒至于今詠之歌者也。」(記)、「今国樔献土毛之日、歌訖即撃口仰咲者、蓋上古之遺則也。」(紀)と、後につづく儀式の由来を説くために引かれている。儀式の所作の解説だから、それらしく示されているのである。儀式に形骸化して呪術的なことと化したかもしれないが、もともと吉野の国主(国樔)が呪能を持っていたと捉えることはできない(注15)。都の人にはよくわからないが、吉野の国主(国樔)にはよく知られた動作をして見せたということである。「撃口鼓、為伎」とあって、口鼓を撃つことは「わざ」であったというのだから、なにかの物真似であると考えられる(注16)
 「大贄」(記)、「土毛」(紀)を天皇に献上している。「大贄」の例としては応神記の後の件に、「海人なれや、己が物に因りて泣く」という諺譚がある。魚を献上しようとしたところ、大雀命と宇遅能和紀郎子とが譲り合って右往左往したという話である。「大贄」は魚である可能性が高い。紀の「土毛」は、「栗・菌及年魚之類」であると記されている。献上品の代表格はアユである。
鵜飼と筌(一遍聖絵写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591579/34をトリミング)
 アユの捕獲方法としてよく知られるものに鵜飼がある。吉野に暮らす人々については、神武紀にも記述があり、吉野の国樔部くずらの始祖の様子が活写されており、さらに西には「阿太あだ養鸕部うかひら」の始祖がいるとしている。贄として献上するアユは鵜飼で捕っていた。
 鵜飼漁は、喉元を結わえた鵜をあやつって川にいるアユを食べさせては吐かせて獲物をとる。ウカヒ(鵜飼)の様と対応する人のしぐさはウガヒ(嗽)である。応神記紀に記された口鼓を撃ったり、口を打って仰いで笑うという仕草は、嗽のような鵜飼の鵜のしぐさを真似して定式化したものである。いわば、「ウであるとはどのようなことか」について、「生物種の間の障壁を想像力によって越えること」(ネーゲル1989.279頁)にかなりの程度成功していることを意味する。その域に達してウ(鵜)を熟知しているから鵜飼(鵜使い)は可能となっているのであり、そのことをもってしてヲス(食)の真髄について伝えることとなっていたのであろう(注17)。深く理解が及んでいると思っているからこそ、「蓋上古之遺則也。」(紀)と言ってしらばっくれられるのである。
 鵜飼のしぐさがクローズアップされているのは、その酒が、口噛み酒だからである。口に入れては容器に吐き戻している。嗽をガラガラしてたん壺に吐き出すかのように、「仰咲」ようなことをしては「横臼」に戻している。鵜飼の鵜のしていることと同じである。その様を、貢物献上の歌を歌うときの仕儀としている。収穫したものを自分では食べないで吐き出して酒にして天皇に献上することは、自分たち国主(国樔)は鵜に当たるのだと言っていて、主従関係をそのまま表すことになっている。言葉の上で、思わず「ウッ」と吐露するところに、「」の意を兼ね、レベルをまたいで服属の意思まで表明することになっている。言語のもつ政治性はこんなところからして存在している。国栖奏が服属儀礼であるとされたのはこのヤマトコトバ、ウの一言に由来し、そして帰結している。形而上的に大それたことは何もなく、論理学上、言語レベルが重層化した、ヤマトコトバのただ一音「ウ」に吸い込まれているだけである(注18)。ヤマトのひとたちが、cormorant を鵜飼に使ってそれをウと言葉に定めた事情はすべてを物語っている。他種を真似るわざは、一子相伝ではなく一語相伝されて公開、共有されていた時代なのである。

「まろがち」

 マロガチという語については、自称の名詞マロに助詞ガ、父親のことをいうチが接続したものと考えられてきた。だが、一人称を表わすのに使うマロという語は上代に見られない。他の可能性を検討する。
 マロには、マロネ(丸寝)、マロヤキ(丸焼)という語がある。ひとかたまりに、着衣のまま寝たり、そのまま焼いたりすることと解される。

 …… 敷栲しきたへの 手枕たまくらまかず 紐解かず 丸寝まろねをすれば〔末呂宿乎須礼波〕 いぶせみと ……(万4113)
 〓(魚偏に𤋎)鮒 二合、万呂也支まろやき(新撰字鏡)

 ガチは、アナガチがアナ(己)+ガチ(勝)の意かとされる例がある。それに照らし、マロ(丸)+ガチ(勝)、すなわち、そのままを優先して、の意と解することができる。 

 白檮のに 横臼よくすを作り 横臼に 醸みし大御酒 美味うまらに聞こしもちせ まろがち(記48)

 大意は、横臼を酒槽にしてそこへ吐き出して醸しているお酒を、口に含んでみておいしいとご理解なされたらそれでもって気持ち悪がらずに余計なことを考えないでそのままお飲み干しください、と解することができる。

 マロガチという言い方をこのように把握した解釈はこれまで行われていない。言葉として孤例であるが、マロ(麿)+ガ(助詞)+チ(父)のこととしていた通説でも同じく孤例である。文脈的に理解する時、結句を呼びかけとすることはあり得ることであるが、お酒を飲み込むのをためらっている人に対して、口に含んでおいしいのならおいしいのだから大丈夫、おいしさに任せてお飲みなさい、と勧めていると解したほうがすっきりし、意にかなうだろう。歌の前半で製造方法を述べ、「白檮のに 横臼よくすを作り 横臼に 醸みし大御酒」と取りあげている。これから飲もうとするものの説明である。後半の「美味うまらに聞こしもちせ まろがち」は、それをお召し上がりくださいと言っている。後半にくだくだとおいしいでしょう、さあ、お飲みなさいと言っているのは、躊躇して飲み干したがらない理由があるからで、さあさあ飲みなさいと催促しているのであった。

おわりに

 記紀に伝えられている話は、基本的に、無文字時代の人たちの話を伝え残そうとしたものである。記憶には容量があってそんなには憶えられないし、また、生きていくうえでさほど覚えておく必要もない。当たり前すぎることは話すことなく済んでしまい、かといって奇抜で特異なことは一般化せずして十分である。その中間に位置する、いかにも大切で伝えていくべきと考えられることがらについて、話に聞いた時に興味が湧いておもしろがることができるような形にまとめ上げられたものが、記紀に残されている話群である。歴史(hi-story)ではなくて話(咄・噺・譚)(stories)である。特に話(咄・噺・譚)に作られることが求められたのは、新しい技術によって生活が変化したようなことがらであった。暮らしを変えたメルクマールとなっていて、人々には特許技術のように思えていた。大事なことは記憶されて然るべきで、それを自らの文化に位置づけたくなり、それはとりもなおさずヤマトコトバで言い表すことであった。自分たちのコト(事)は自分たちのコト(言)に定めるのである。今日でも、鸚鵡返しや受け売りに話すのではなく、「自分の言葉で話す」ことがアイデンティティの証とされている。上代に特徴的なのは、言葉を発したときに、その言葉が放たれてしまったあとでも、確かにそのとおりであると検証され得るような言葉にまとめあげていた点である。
 吉野のクニスの話でも、口噛み酒の作り方は鵜飼の吐き戻しに等しいことと悟ることができるように構成されている。古事記研究として現代まで残るものはほぼ近世以降のものであるが、感覚が鈍麻していて十分な理解に至っていない。上代の人とは言葉の使い方が異なってしまったからである。言葉の使い方が異なるとは思考が異なるということであり、古事記の話のなかにまったくわからないところが出てきてしまっている。文字文化のもとで花開いた仮名文学以降の文学研究をするのとはわけが違っており、理解するにはむしろ、街の哲学者であることが求められている。古事記には、頓智さえ利けば、当時なら誰にでもわかることが、稗田阿礼によって話されて、太安万侶によって書き留められている。事は日本書紀に所載の話群でも同じである。誰にでもわかることでなければ、文字どおりお話にならない。当時なら誰でもがわかるお話である記紀万葉を相手に、学のある人にしか通じないかのように考える、つまりは、お話にならない“研究”をしていてはならない。

(注)
(注1)上田2020.に、「口噛み酒とは、人間がでん粉原料─たとえば米粉─を噛んで、自分自身の唾液アミラーゼを利用してでん粉を糖分にかえ、生成された糖分を空気中から入ってきた酵母によりエチルアルコールにかえて酒にしたもので、わが国では八世紀に著わされた『大隅国風土記』に記載された口噛み酒が初見である。口噛み酒は東南アジア、南北アメリカなど環太平洋地域に広く分布し、わが国へは漁労文化をもった南方モンゴロイドの中国江南地方の非漢民族である越人により、稲作などとともに口噛み酒の技法がもたらされたものと思われる。」(40頁、漢字の旧字体は改めた)とある。稲作の伝来とは、ただ種籾を持ってきて育てたということではなく、稲作技術ばかりでなくそれを含む文化全体を移り住んだ人が伝えたことであると考えられており、後述する鵜飼もその領域内にある。可児1966.参照。
(注2)延喜式にも規定があり、大嘗祭などにおいて国栖奏が行われ、無形文化財として吉野町の浄見原神社で舞が奉納されている。政事要略所引の西宮記・辰日新嘗会豊明賜宴事に、「……毎度賜太子及群臣。觴行一両巡後、吉野国栖於承明門外歌笛其詞云、賀芝之不爾与古羽須遠、恵利天賀女多於保美岐味良居於世古世丸賀朕。御贄御酒。三献之後、……」と記されている。カシノフニ ヨコウスヲヱリテ カメタオホキミ ウマラキヲセコセ マロガチという形は、記紀所載の詞章とは少しく違っており、記紀に伝えようとしていた内容の大半は伝わらない。本質はわかっていなかったということである。
(注3)新編全集本日本書紀に、「キコスもヲスも飲食するの敬語。モチは二つの動詞を、その行為の同時性においてつなぐ場合に用いる。今日の「~しもって~する」(「食べもって歩く」式の言い方)に当る。」(485頁)とある。佐佐木2010.は、「「もち」は「聞こし」と「食せ」をつなぐ語だと説明されるが、この語を用いた理由は不明。」(70頁)としている。
(注4)マロやキコシモチヲセといった語を深く問わずにわからないものとしてこの歌謡の成立年代を問い、「この歌は国主人が『記』・『紀』成立の遥か以前から伝承してきた歌詞そのままであるとは言い難く、国栖奏が宮廷儀礼化した段階の歌詞が書きとめられていると考えるのが妥当である。……通説的見解に従えば、国栖奏が制度化されたのは天武・持統朝の頃であり、国主の歌が『記』に見える形となったのは七世紀後半であろうと考えられる。」(藤原2007.112頁)とする意見がある。本稿では、後述するように、それら語彙についてきちんと考えた。
(注5)口噛み酒を念頭に言葉が醸成されているとするならば、口に噛んだものを入れておく容器として最適なのは、かめ(メは乙類)ではなかろうかとも思われる。すでに噛んだものを入れるから、四段動詞「噛む」の已然形、「め(メは乙類)」に当たるだろうという推測である。ただし、和名抄では瓦器に、「瓶⼦ 楊⽒漢語抄に瓶⼦〈賀⽶かめ、上は薄経反〉と云ふ。」、「⼤甕 弁⾊⽴⾊に⼤甕〈美賀みか〉と云ふ。本朝式に𤭖〈和名は上に同じ、⾳は⻑、⼀⾳に仗、唐韻に⾒ゆるなり〉と云ふ。」、「甕 ⽅⾔に云はく、関より東に甖〈烏茎反、字は亦、罌に作る〉は之れを甕〈烏貢反、字は亦、瓮に作る、⽑太⽐もたひ〉と謂ふといふ。」などとある。酒を瓶子にとり分けて配膳に供したことによるのか、甕は須恵器技術の伝来を待たねばならず、口噛み酒の時代から大きく遅れるから和名抄に説明されないのか、今のところ不明である。
(注6)紀の「醴酒」について、「醴泉こさけのいづみ」(持統紀七年十一月・八年三月)を媒介にして、「符瑞書に曰く、「醴泉は美泉よきいづみなり。以ておいを養ふべし。蓋し水の精なり」といふ。」(続紀・元正天皇・養老元年十一月、養老改元の詔)の記事と結びつけて瑞祥とする考えがある。「醴」の用字は唐・九成宮醴泉銘によるかとの推測まで行われている。太宗が杖をついたら泉が湧きだして瑞祥だと喜んで撰文させ、欧陽詢の書による碑文となっていて名高い。しかし、時代の遡る日本書紀に、祥瑞として「醴泉」、「醴酒」を扱っていることはない。音が「礼」や「霊」に通じるからとされるが、ヤマトコトバでは「醴」はコ(コは甲類)と発音していて拠りどころを欠いている。
(注7)「横臼」で脱穀は行わずに別の竪臼を使ったとしても、ウスという一つの概念に含まれて人々に認識されている。
(注8)餅搗きに横杵を使う理由としては捏ねる人との距離をとる必要性と、掛け声を伴うパフォーマンス性によるともされている。筆者は、舎利とまで呼ばれる米粒のありがたさを損なわせるよこしまなところを表して正しいから、横杵を使うことに納得していたのではないかとする説を提唱しておく。上代人の観念のなせる業である。
(注9)ウス(臼)という言葉と同音の語にウス(失・消)がある。ウス(失・消)はウスシ(薄)と同根の語とされ、ウス(臼)とは関連づけられて考えられてはいない。とはいえ、臼が内在する性能を完全に発揮すると、米にあった粒の状態は失われる。一度舂いただけでそうなるものではない。もし簡単にそうなるのであれば、何もウス(臼)などというものを考案、活用するには及ばず、叩き石で十分であるとも言える。飛び散ったものが再び中心に戻ってきてまた舂かれるところからしても、それをウスと呼んだのは慧眼であったと考える。そして、一段階ウスヅクばかりでなく餅つきや酒造のように二段階に臼を活用する様子は、ウシ(牛)の反芻に見て取ることができる。今のところ、ウシ(牛)とウス(臼)とが同根の語であるとは認められてはいない。
(注10)吉野の少数民族(疑似民族)については、古事記のなかで、神武・応神・雄略の各天皇条に記載がある。高崎1978.は、神武天皇条にある吉野の河尻到達のところにある「やな打ちて取る人」について、「阿陀アダ鵜養部ウカイベらの祖、贄持子ニエモツコにまず遭遇なさる。このニエ神今食カムイマスケ─一の新嘗ニイナエの祭儀─としての鵜養の伴らの奉仕した本縁を語るものであ」(23頁)るとしている。先に新嘗祭があってポツポツともととなるような話を作って散らばらせたのではない。吉野の国樔部は鵜飼をするときちんと記されている。吉井1992.に、「服属伝承であり、朝儀の権威化という性質は勿論認めなければならないが、吉野の地や吉野の三氏族の伝承が、画期をなす神武・応神・雄略の三天皇にかけて語られていることは、まず天武・持統系の王権にかかわる重要な意味を、吉野とその三氏族が担っていたからであり、国巣奏にのみついていえば、それは服属儀礼であったとともに、固有の祭儀伝承を保持、承認されての宮廷儀礼への参加の資格を与えたという、いわば発生的には、天武天皇の吉野隠栖時における奉仕への褒賞を含めた処置であったと考えられるのである。」(275頁、漢字の旧字体は改めた)とすることも的外れである。理屈をこね回して、頭のいい人のうちのごく少数の人が一生懸命考えた末にようやくわかるかわからないかのことなど、一般受けするものではない。一般受けしなければ人に伝えていこうとする気にはならずに忘れられたであろうし、人に訴えかける力もなくて主張しても相手にされなかったであろう。小難しいことは理解されようはずがない。
(注11)キコスに統治する、の意に使われることがあるのは、聞いて理解することは知ることだから、シル(領、知)の意へと展開して行ったと考えるのが妥当であろう。「統治する者には、様々な声や音を、間違いなく聞く能力が求められたということでもある。」(『万葉語誌』122頁、この項、新谷正雄)と捉えるのは、説明として飛躍が甚だしい。
(注12)吉野の国主等(国樔人)の伝承は、服属伝承であることを前提にたくさんの議論が行われてきた。いったん色眼鏡をかけてしまうと、本来の記述が醸し出しているニュアンスに気づくことはない。先入観をもってそう読みたいからそう読むというのは、ドグマに支配された暗黒時代さながらである。
(注13)古代の酒造法は、近代の工業製品のように、技術的に単線的な発展をしていたとは考えられない。ヤマトと、吉野という一辺境地との地域的な差異の表れとして語られていると見たほうが正しい。しとぎによる酒造法が別にあったらしく、また、大陸の餅麹による方法もその頃にはヤマトで行われていたかもしれない。推測以上のものではないが、考え方として提示しておく。
(注14)大嘗祭や新嘗祭などに贄を献じて古風な歌笛を奏することになり、類聚国史七一・朝賀、日本後紀逸文・天長九年正月条に「吉野国栖歌笛」とあるので「笛」が加えられて再編成されたものとされている。宮中儀礼の制度化のはじまりにこの国栖奏は位置づけられており、その制度化の時期は天武・持統朝の頃であると考えられている。居駒2003.は、「散文叙述は歌から導かれるもので……歌そのものが国主の御贄貢献物語と言ってよい。」とし、「吉野国栖による御贄貢献と歌舞の奏上は、神武の大和平定以来、天皇への服属忠誠を表す儀礼的行為であって、古事記は国栖の歌舞の始まりを応神朝とし、国主の御贄貢献物語を構成したわけである。」(249頁)としている。
 クニスの歌舞の歴史を整頓し見渡してみればそれらしく思えるのかもしれないが、本末転倒と言わざるを得ない。後の時代に儀礼化したところから、時間を遡って適当に話を作って記紀に組み込んだと考えるのは、結果的に“嘘”になるような作り話をしたということになる。ことことであることを志向していた上代の人が、そのようなでたらめを行うものではない。通説的な見方では、天皇へ献上することつながりで大嘗祭儀礼にクニスのことがたまたまチョイスされたというものである。しかし、採り入れられたとするならそのときすでに一定の形としてあったということになり、それが今記紀に見える形ということのようである。拍子をとるのに笛が加えられることは音楽的な趣向から考えられようが、採り入れるに当たって字句を大幅に改変したとして、さて何の都合から変えたのか、あるいは逆に記紀に付会させたのか、根拠をあらわしていちいち証明しようと努めなければならない。証拠がないことについて臆測を膨らませることは、自由ではあるが勝手なことで、上代のこととは無関係な現代の創作譚である。
 記紀に記されていることは、大贄を献上する際にお酒の歌にのせて独特な所作をとったということである。いちばん単純に考えられる事情は、都へクニスが特産物を持ってきて楽しい宴を開いてくれたから、朝廷の人は吉野の山奥では手に入らない物資をお土産に持たせて帰らせていたということであろう。互酬が行われれば定例的に訪れるようになりうる。
(注15)吉野の瑞祥性が天皇に特別な呪力を付与したとする考え方が行われている(例えば、伊藤2016.)。もしそうなら、朝貢するにあたって天皇に呪術をかけ、それが効いて政権は転覆させられる。そういうことやその危険性についても触れられておらず、「淳朴」などと書いてあるから彼らに特殊な能力を見出すことはできない。修験道や神仙思想を投影することは誤りである。
(注16)この物真似は深層に及ぶものであったと考えられる。「他種を真似るわざ」(奥野2021.)ほどでなければ、する意味がない。「なりきる」模倣を超えて「なり入る」模倣をするに至っていたと考えられる。
(注17)拙稿「上代語誌「ヲス(食)」・「ヲスクニ(食国)」」参照。ヲスクニ(食国)を詠う万葉歌に吉野関連のものがあるのはその所為である。(注14)参照。
(注18)ベンヤミンによれば、言語以前の読み方は「まったく書かれなかったものを読む」ことであるが、模倣の能力が言語と文字にも侵入し、人間がする模倣的な行いの最上位に位置するようになって、記憶するのに最適な共有サーバーを提供することとなった(ベンヤミン1996.81頁。»Was nie geschrieben wurde, lesen.« Dies Lesen ist das älteste: das Lesen vor aller Sprache, aus den Eingeweiden, den Sternen oder Tänzen. Später kamen Vermittlungsglieder eines neuen Lesens, Runen und Hieroglyphen in Gebrauch. Die Annahme liegt nahe, daß dies die Stationen wurden, über welche jene mimetische Begabung, die einst das Fundament der okkulten Praxis gewesen ist, in Schrift und Sprache ihren Eingang fand. Dergestalt wäre die Sprache die höchste Stufe des mimetischen Verhaltens und das vollkommenste Archiv der unsinnlichen Ähnlichkeit: ein Medium, in welches ohne Rest die früheren Kräfte mimetischer Hervorbringung und Auffassung hineingewandert sind, bis sie so weit gelangten, die der Magie zu liquidieren.)。文字に関してはあまり深入りする必要はないところだが、一般論として、言語と文字はそれ自体だけで「書かれなかったもの」からは遊離、独立してメタバース(仮想空間)を構成するになり、それぞれに特徴的な演算が可能となる。メタバースのなかで演算式を展開したり分解している限り、「書かれなかったもの」、ここでは歌謡の意味するところや、「撃口仰咲」(紀)ことが何かを「読む」ことはできない。ベンヤミンの、人間は模倣の能力を駆使してさまざまな活動をしてきているのであって、それ以上の機能など持ってはいないのかもしれないという言説(同76頁。Vielleicht besitzt er keine höhere Funktion, die nicht entscheidend durch mimetisches Vermögen mitbedingt ist.)は、人類の文化・文明を考えるうえで大いに参照されなければならない。「書かれなかったもの」へ遡るには、類似を見てとっていた人類が、それをとり巻く環境のなかで五感をどのように通じさせていたのか、それぞれの言葉を再定位して再確認することが最重要課題である。

(引用・参考文献)
相磯1962. 相磯貞三『記紀歌謡全註解』有精堂出版、昭和37年。
居駒2003. 居駒永幸『古代の歌と叙事文芸史』笠間書院、平成15年。
伊藤2016. 伊藤循『古代天皇制と辺境』同成社、2016年。
上田2020. 上田誠之助『新版 日本酒の起源─カビ・麴・酒の系譜─』八坂書房、2020年。(初出は1999年)
上田1997. 上田誠之助「“しとぎ”と古代の酒(その2)─国栖の醴酒を中心に─」『日本醸造協会誌』第92巻第10号、1997年。J-STAGE https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan1988.92.725
奥野2021. 奥野克巳「他種を真似るわざ」床呂郁哉編『わざの人類学』京都大学学術出版会、2021年。
可児1966. 可児弘明『鵜飼─よみがえる民俗と伝承─』中央公論社(中公新書)、昭和41年。
河合2019. 河合香吏「五感によって把握される「もの」」床呂郁哉・河合香吏編『ものの人類学2』京都大学学術出版会、2019年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
佐佐木2012a. 佐佐木隆校注『古事記歌謡簡注』おうふう、平成22年。
佐佐木2020b. 佐佐木隆校注『日本書紀歌謡簡注』おうふう、平成22年。
志水1990. 志水義夫「国栖奏の歌─麻呂賀知をめぐって─」『湘南文学』第24号、1990年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
土橋1972. 土橋寛『古代歌謡全注釈 古事記編』角川書店、昭和47年。
土橋1976. 土橋寛『古代歌謡全注釈 日本書紀編』角川書店、昭和51年。
西宮1979. 西宮一民『新潮日本古典集成 古事記』新潮社、1979年。
林屋1960. 林屋辰三郎『中世芸能史の研究』岩波書店、昭和35年。
藤原2007. 藤原享和「献酒儀礼歌」『古代宮廷儀礼と歌謡』おうふう、2007年。
『万葉語誌』 多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。
吉井1992. 吉井巌「国巣と国栖奏─神武天皇伝承と吉野─」『天皇の系譜と神話 三』塙書房、1992年。
ネーゲル1989. トマス・ネーゲル著、永井均訳『こうもりであるとはどのようなことか』勁草書房、1989年。
ベンヤミン1996. ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健二郎編訳「模倣の能力について」『ベンヤミン・コレクション2 エッセイの思想』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1996年。(原著:ÜBER DAS MIMETISCHE VERMÖGEN

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