問題とされるべき「軽箭」と「穴穂箭」の記事は、允恭記の割注に見られる。
是を以て百官と天の下の人等、軽太子を背きて、穴穂御子に帰りき。爾に軽太子、畏みて、大前小前宿禰大臣が家に逃げ入りて、兵器を備へ作りき。爾の時に作れる矢は、其の箭の内を銅にせり。故、其の矢を号けて軽箭と謂ふ。穴穂御子も亦、兵器を作りき。此の王子の作れる矢は、即ち今時の矢ぞ。是は穴穂箭と謂ふ。是に穴穂御子、軍を興して大前小前宿禰が家を囲みき。(允恭記)
ここに述べられている「軽箭」、「穴穂箭」について、いったい何を謂わんとしているのか、よくわかっていない。先行研究としても、この点についてクローズアップして本格的に論じたものは、本居宣長・古事記伝、西宮1993.、服部2017.しか管見に入らない(注1)。
和名抄に、「箭 釈名に云はく、笶〈音は矢、夜〉は其の体を簳〈音は幹、夜賀良〉と曰ひ、其の旁を羽〈去声〉と曰ひ、其の足を鏑〈的の音〉と曰ふといふ。或に之れを鏃〈子毒・楚角・才木三反、訓は夜佐岐、俗に夜之利と云ふ〉と謂ふ。唐韻に云はく、筈〈古活反、夜波須〉は箭の弦を前に受くる処なりといふ。」とある。「銅二其箭之内一」とあるからには、「簳」の内側に銅を充填したことを表していると考えられる。もちろん、そのような例は知られない。しかし、それを「軽箭」と名づけ、そのように呼んでいたと確かに記されている。そして、今どきの矢は「穴穂箭」と言っていて、またしても当を得ているとしている。「即今時之矢者也」と誇らしげに書いてある。「軽」や「穴穂」という形容は、それぞれの皇子の名に因んでいることはそのとおりであろう。と同時に、それぞれの箭の特徴を表現しているから、皆が納得してなるほどと思い、正解な名づけであると認めている。そう考えなければこの分注は体を成さなくなる。余計なことを書いて混乱させる必要はない。
西宮1993.に「軽箭」は重いか軽いかの違いの「軽」い「箭」のこととしているが、それでは何のために「穴穂」と対照されているのか不明である。あまりよく飛ばない箭が「軽箭」で、反対によく飛んで殺傷能力の高い箭が「穴穂箭」であると定められるべきである。すると、箭は、鳥の飛翔と関連させて捉えられていることに気づく。「軽」とは、カルガモ(軽鴨)のカル、「穴穂」とは、タカ(鷹)のことを言っていると理解される。
カルガモは留鳥である。季節的な移動は列島のなかで完結している。海峡を渡ることができないでいるらしい。カモよりも小さくて軽いはずなのに、飛翔能力に劣ったものがカルガモである。なぜ比較して小さいのに飛べないのか。中に銅でも熔かしこんでいて重たいからではないか。鋳造品だから遠くへ飛ばないということである。
対して、アナホとは何か。アナという語は、孔とも書かれる。説文に、「孔 通る也。乙に从ひ子に从ふ。乙は子を請ひし候鳥也。乙至りて子を得、之れを嘉美する也。古人、名は嘉、字は子孔」とある。「候鳥」とは渡り鳥のことである。気候に合わせて見られるからそうされているのであろう。ここで頓智を働かせ、ヤマトの人が漢字を目にしてその字の解説である説文を解釈したならば、あな(孔)が開いて通っていて、しかも渡り鳥になるような事柄こそが、「孔」という字に必要十分な条件であると考えたに違いない。それにうってつけの鳥がいる。タカ(鷹)である。
タカは、鷹狩に利用される。嘴が鋭く鉤状をしている。孔を開け穿ち、刳り抜くのにもってこいである。実際、獲物の胸に孔を開け、真っ先に心臓を食べるという。そのことを利用して鷹狩は行われる。獲物をしとめたら、褒美にハトの心臓を与えて獲物の方は鷹匠が確保する。そして、タカは“渡り”鳥である。鷹狩に使われるタカは、調教され、放たれても人のところへ帰るように訓練されている。それを鷹匠用語で「渡り」と言っている(注2)。自然界のタカは渡り鳥ではないが、鷹狩用のタカは、渡り鳥、候鳥である。
「鷹を馴らす図」(宮内省式部職編『放鷹』国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213512/226)
本邦で鷹狩が始まったことを記す記事は、仁徳天皇時代のこととして描かれている。
四十三年の秋九月の庚子の朔に、依網屯倉の阿弭古、異しき鳥を捕りて、天皇に献りて曰さく、「臣、毎に網を張りて鳥を捕るに、未だ曾て是の鳥の類を得ず。故、奇びて献る」とまをす。天皇、[百済の王の族、]酒君を召して、鳥に示せて曰はく、「是、何鳥ぞ」とのたまふ。酒君、対へて言さく、「此の鳥の類、多に百済に在り。馴し得てば能く人に従ふ。亦、捷く飛びて諸の鳥を掠る。百済の俗、此の鳥を号けて倶知と曰ふ」とまをす。是、今時の鷹なり。乃ち酒君に授けて養馴む。幾時もあらずして馴くること得たり。酒君、則ち韋の緡を以て其の足に著け、小鈴を以て其の尾に著けて、腕の上に居ゑて、天皇に献る。是の日に、百舌鳥野に幸して遊猟したまふ。時に雌雉、多に起つ。乃ち鷹を放ちて捕らしむ。忽ち数十の雉を獲つ。是の月に、甫めて鷹甘部を定む。故、時人、其の鷹養ふ処を号けて、鷹甘邑と曰ふ。(仁徳紀四十三年九月)
この記事は、本邦にそれまでタカがいなかったことや、百済には居たものを連れて来たことを言っているのではない。本邦で、今まで、網にタカの類がかかったことはないと記されている。渡来人に聞いたところ、人に馴れさせて狩りに使うものを、百済ではクチと言っているという。割注に、「是今時鷹也」とあり、「今時」に「鷹」であると言っている。往時、何と言っていたかは口を緘している。クチは百済語である。ヤマトで外来語のクチという語を採用したわけではなく、タカと言っている。空間的に“渡り”鳥なばかりか、時間的にも“渡り”鳥である。巧みなレトリック表現として“渡り鳥”であることを示唆してくれている。ヤマトコトバのワタル(渡)のワタは海と関係するようである(注3)。
自然科学による種の同定など古代の人は関知しない。飼い慣らして人間の役に立てる存在になった時、hawk という野生動物がタカとしてありありと人の前に現れる。言葉として立ち上がる。大陸の北方地域には、鷹狩に役立ちやすいタカが棲息していたらしく、中華帝国にも伝えられた。鷹狩用の鷹がその技術とともに伝えられ、鷹を捕まえるところからはじまり、養い育て馴れさせ思いどおりに操れるようにすることができるようになった。それを紀の記事はきちんと伝えてくれている。「是鳥之類」と書いてある。鷹狩に使うのは、オオタカ、ハヤブサ、クマタカ、ハイタカなど、「類」の鳥であって一種ではない。鷹狩に使う鳥を、タカと通称することが言葉の使い方として便利なのである。隼狩という語を造っても混乱が生じるだけである。
故、今高く往く鵠の音を聞きて、始めて阿芸登比為き。爾に山辺之大鶙 此は人の名ぞ。を遣して其の鳥を取らしめき。故、是の人、其の鵠を追ひ尋ねて、木国より針間国に到り、亦、稲羽国に追ひ越えて、即ち、旦波国・多遅麻国に到り、東の方に追ひ廻りて、近淡海国に到りて、乃ち三野国に越え、尾張国より伝ひて科野国に追ひ、遂に高志国に到りて、和那美の水門にして網を張り、其の鳥を取りて持ち上り献りき。故、其の水門を号けて和那美の水門と謂ふ。(垂仁記)
「山辺之大鶙」という人名があるから、タカがいたことは間違いない。「和奈美」という地名は、ワナ(罠)+アミ(網)を示している。ハクチョウを捕まえるのに、颯爽とした鷹狩ではなく、鈍くさい罠・網猟が行われている。仁徳紀と併せて考えれば、本邦の自然界にタカはいたが、鷹狩は行われておらず、仁徳朝になって鷹狩技術が伝えられ、人々の意識の上にタカという語がクローズアップされたということになる。
穴穂御子のアナホとは、アナ(孔)+ナホ(直)という意と解されたのであろう(注4)。鷹狩のタカのように遠くまで威勢よく飛び“渡り”、方向的にもぶれずにナホ(直)に飛ぶとしている。それが「今時矢」である。人から発射されて敵方の人に狙いを定めて直に飛び射殺すもの、まるで鷹狩のように命中するすぐれもの、それが「穴穂箭」の特徴である。
以上の理解は、無文字時代に行われていたであろう思考過程によく合致するものと考える。名とは呼ばれるものであり、名によって名づけるとは呼ばれるものによって呼ばれることを意味する。それ以上でもそれ以下でもない。すなわち、「軽太子」とは「軽」という地名と関係があるかもしれないが、それだけではなくてどこかに軽率さを持った性格を示した名であろう。そして、銅を矢の箆に仕込めば威力が増すかと考えて試したら、重すぎて通常の弓では飛ばず、結果、戦に敗れたことを述べている。太子の失策を一言で表わしたいのなら、「重箭」ではなくて「軽箭」であることの方が数段、洒落がきつい。言い当てて妙なる言葉づかいこそ、文字を持たずにダイレクトに言葉に向き合った人たちにしっくり来るものであったろう。同母妹の軽大郎女との近親相姦で罪に問われ、そして流罪に処せられたことも、まるでカルガモが行列を作って引っ越すようなことに譬えられて面白がられたに違いない。
カルガモの親子(https://www.wikiwand.com/ja/カルガモ、Alpsdake様撮影)
このように、「爾時所レ作矢者、銅二其箭之内一。故、号二其矢一謂二軽箭一。」、「此王子所レ作之矢者、即今時之矢者也。是、謂二穴穂箭一。」という分注は、それだけで、自らの言葉に依って立ちながら、立派な譚として成立しているのである。
(注)
(注1)古事記伝に、「銅とは、鏃は凡て神代より鉄以て造ることなるを、今新に銅以て造れるなり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/402、漢字の旧字体は改めた)とある。西宮1993.は、「「軽箭」は「矢竹にわづかに銅を詰めただけの俄か作りの矢で、軽いのはよいが殺傷力のない矢」であり、「穴穂箭」は「今日使用の鉄鏃の矢で、手頃な重さで、殺傷力にすぐれた矢」である」(460頁)、「その二種の矢を、「軽箭」は「軽太子」の、「穴穂箭」は「穴穂皇子」の製作にかかるやうに懸けて注文を作成したものである」(同頁)と説明する。そして、「二種の矢の実体と機能を把握することができるならば、 その製作者への懸けやうもより明白となるのであつて、両者の勝敗をこれだけで予知せしめることにもなつてゐるのである。〈注〉の表記形式をとるものは、太安萬侶の筆になる部分であるが、やはり極めてすぐれて文学的な注文であるといふより他はない。」(同頁)と評価している。ここにいう「文学的」とは近代の概念と思われるが、無文字時代の言語活動はそれ自体、現代とそこまで通じるものではない。そして、「軽箭」、「穴穂箭」という名称譚は、勝敗の「予知」を示す記述ではなく、その絶対性を言葉で言い当てている、逆言すれば、言葉とは言い当てたものである。言い当てているから皆が納得してそのとおりと思って流通する、それが言葉である。
一方、服部2017.は、西宮1993.の解釈に対して、「『記』の叙述をリアリズムから推定するような説明には疑問がある。」(3頁)といい、「軽太子が矢の製造に劣ると語られるのは、太子が軍を率いる(臣下とともに戦う)という、臣下を統べる能力の一つが不足していることを示すと考え」(8頁)ている。「軽太子譚における矢製造の割注も、……皇族間の争いを通して天皇の資質を示す記述の一部として『記』の中に位置づけることができる。」(同頁)と総括している。しかし、趣旨がそれだけのこととなると、「軽箭」、「穴穂箭」なる命名譚は特段、必要なものではなくなる。無文字文化の言語活動において伝えられているということは、必要にして十分なことと考えられる。過不足なく伝えて行くしか記憶の連鎖は生じ得ない。覚えていられないことは伝えていくことはできず、納得できないことは覚える気にもならない。
オング1991.は、声の文化にもとづく思考と表現の特徴として、「状況依存的 situational であって、抽象的でない」(107頁)とし、「声の文化のなかでは、概念が、状況依存的で操作的な operational 準拠枠において〔概念が状況や操作を指し示すというしかたで〕用いられる傾向がある。こうした準拠枠は、人が生活している生活世界にまだ密着しているという意味で、抽象の度合はきわめて小さい。〔概念の状況依存的、操作的使用という〕この現象をあつかった文献はかなりの量にのぼる。」(107~108頁)と述べている。筆者は古事記はその序に明記されているように、稗田阿礼が口述しているものを太安万侶が書き記したものであると考える。だから、古事記の記述は「抽象的でない」。「軽箭」、「穴穂箭」を説明した割注部分も、太安万侶の創案によるものではなく、そのものずばりが「状況依存的 situational」に成立している“譚” であって、「皇族間の争いを通して天皇の資質を示す」ために添加されたのではない。音声言語はその場限りで消えてしまう。後講釈で辻褄を合わせる話など、無文字文化時代には“話(咄・噺・譚)”として成立しえない。8世紀初頭、天皇制の正統性を主張したいがために古事記は撰録の機会を得たのかもしれないが、その内容は、その目的のために創案されたものではなかった。古事記とはそもそも何かについては、序に書いてあるとおりに捉え、そういうものとして虚心坦懐に“読む”ことがテキストを読む姿勢として正しい。記述言語は創ることができるが、音声言語は述べることしかできない。
(注2)鷹の調教の仕方において、宮内省式部職編『放鷹』は「渡り」を次のように説明する。
渡り 渡りとは、餌を適当の大きさに切り、地上に落し、其の処に鷹を放ち、餌合子又は、丸鳩にて手元に呼び寄するなり。最初は、丸鳩にて呼び、鷹の様子に依り、餌合子にて呼ぶ。初め鷹には大緒を附し、馴るゝに従ひ、距離を延ばし、水縄又は忍縄を鷹に附して行ふ。之れを、呼渡りと云ふ。尚馴るゝに従ひ、木の枝に肉を置き、其場所に鷹を止まらせ、丸鳩又は餌合子にて手元に呼ぶ。之れを、渡りと云ふ。(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213512/204、漢字の旧字体は改めた)
(注3)白川1995.に、「水面などを直線的に横切って、向う側に着くことをいう。此方から向うまでの間を含めていい、時間のときにも連続した関係をいう。「わた」はおそらく海。「わたす」「わたる」は、海を渡ることが原義であろう。」(805頁)とある。
(注4)カルやアナホという言葉は、固有名詞として先に存したのであろう。その語義について納得が進む形で、カルヤ、アナホヤという言葉が対として認められるに至ったものと考えられる。したがって、今日の私たちが理解する上では、言葉の“語源”を探求するのではなく、実際に使っていた当時の人たちの“語感”について思いを致すことが大切である。
(引用・参考文献)
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
西宮1993. 西宮一民『古事記の研究』おうふう、平成5年。
服部2017. 服部剣仁矢「『古事記』軽太子と穴穂御子の対立における矢製造の意味─軽箭穴穂箭─」『都大論究』第54号、東京都立大学国語国文学会、2017年6月。
オング1991. W-J・オング著、桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳『声の文化と文字の文化』藤原書店、1991年。
※本稿は、2019年11月稿を2023年6月にルビ形式にしたものである。
是を以て百官と天の下の人等、軽太子を背きて、穴穂御子に帰りき。爾に軽太子、畏みて、大前小前宿禰大臣が家に逃げ入りて、兵器を備へ作りき。爾の時に作れる矢は、其の箭の内を銅にせり。故、其の矢を号けて軽箭と謂ふ。穴穂御子も亦、兵器を作りき。此の王子の作れる矢は、即ち今時の矢ぞ。是は穴穂箭と謂ふ。是に穴穂御子、軍を興して大前小前宿禰が家を囲みき。(允恭記)
ここに述べられている「軽箭」、「穴穂箭」について、いったい何を謂わんとしているのか、よくわかっていない。先行研究としても、この点についてクローズアップして本格的に論じたものは、本居宣長・古事記伝、西宮1993.、服部2017.しか管見に入らない(注1)。
和名抄に、「箭 釈名に云はく、笶〈音は矢、夜〉は其の体を簳〈音は幹、夜賀良〉と曰ひ、其の旁を羽〈去声〉と曰ひ、其の足を鏑〈的の音〉と曰ふといふ。或に之れを鏃〈子毒・楚角・才木三反、訓は夜佐岐、俗に夜之利と云ふ〉と謂ふ。唐韻に云はく、筈〈古活反、夜波須〉は箭の弦を前に受くる処なりといふ。」とある。「銅二其箭之内一」とあるからには、「簳」の内側に銅を充填したことを表していると考えられる。もちろん、そのような例は知られない。しかし、それを「軽箭」と名づけ、そのように呼んでいたと確かに記されている。そして、今どきの矢は「穴穂箭」と言っていて、またしても当を得ているとしている。「即今時之矢者也」と誇らしげに書いてある。「軽」や「穴穂」という形容は、それぞれの皇子の名に因んでいることはそのとおりであろう。と同時に、それぞれの箭の特徴を表現しているから、皆が納得してなるほどと思い、正解な名づけであると認めている。そう考えなければこの分注は体を成さなくなる。余計なことを書いて混乱させる必要はない。
西宮1993.に「軽箭」は重いか軽いかの違いの「軽」い「箭」のこととしているが、それでは何のために「穴穂」と対照されているのか不明である。あまりよく飛ばない箭が「軽箭」で、反対によく飛んで殺傷能力の高い箭が「穴穂箭」であると定められるべきである。すると、箭は、鳥の飛翔と関連させて捉えられていることに気づく。「軽」とは、カルガモ(軽鴨)のカル、「穴穂」とは、タカ(鷹)のことを言っていると理解される。
カルガモは留鳥である。季節的な移動は列島のなかで完結している。海峡を渡ることができないでいるらしい。カモよりも小さくて軽いはずなのに、飛翔能力に劣ったものがカルガモである。なぜ比較して小さいのに飛べないのか。中に銅でも熔かしこんでいて重たいからではないか。鋳造品だから遠くへ飛ばないということである。
対して、アナホとは何か。アナという語は、孔とも書かれる。説文に、「孔 通る也。乙に从ひ子に从ふ。乙は子を請ひし候鳥也。乙至りて子を得、之れを嘉美する也。古人、名は嘉、字は子孔」とある。「候鳥」とは渡り鳥のことである。気候に合わせて見られるからそうされているのであろう。ここで頓智を働かせ、ヤマトの人が漢字を目にしてその字の解説である説文を解釈したならば、あな(孔)が開いて通っていて、しかも渡り鳥になるような事柄こそが、「孔」という字に必要十分な条件であると考えたに違いない。それにうってつけの鳥がいる。タカ(鷹)である。
タカは、鷹狩に利用される。嘴が鋭く鉤状をしている。孔を開け穿ち、刳り抜くのにもってこいである。実際、獲物の胸に孔を開け、真っ先に心臓を食べるという。そのことを利用して鷹狩は行われる。獲物をしとめたら、褒美にハトの心臓を与えて獲物の方は鷹匠が確保する。そして、タカは“渡り”鳥である。鷹狩に使われるタカは、調教され、放たれても人のところへ帰るように訓練されている。それを鷹匠用語で「渡り」と言っている(注2)。自然界のタカは渡り鳥ではないが、鷹狩用のタカは、渡り鳥、候鳥である。
「鷹を馴らす図」(宮内省式部職編『放鷹』国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213512/226)
本邦で鷹狩が始まったことを記す記事は、仁徳天皇時代のこととして描かれている。
四十三年の秋九月の庚子の朔に、依網屯倉の阿弭古、異しき鳥を捕りて、天皇に献りて曰さく、「臣、毎に網を張りて鳥を捕るに、未だ曾て是の鳥の類を得ず。故、奇びて献る」とまをす。天皇、[百済の王の族、]酒君を召して、鳥に示せて曰はく、「是、何鳥ぞ」とのたまふ。酒君、対へて言さく、「此の鳥の類、多に百済に在り。馴し得てば能く人に従ふ。亦、捷く飛びて諸の鳥を掠る。百済の俗、此の鳥を号けて倶知と曰ふ」とまをす。是、今時の鷹なり。乃ち酒君に授けて養馴む。幾時もあらずして馴くること得たり。酒君、則ち韋の緡を以て其の足に著け、小鈴を以て其の尾に著けて、腕の上に居ゑて、天皇に献る。是の日に、百舌鳥野に幸して遊猟したまふ。時に雌雉、多に起つ。乃ち鷹を放ちて捕らしむ。忽ち数十の雉を獲つ。是の月に、甫めて鷹甘部を定む。故、時人、其の鷹養ふ処を号けて、鷹甘邑と曰ふ。(仁徳紀四十三年九月)
この記事は、本邦にそれまでタカがいなかったことや、百済には居たものを連れて来たことを言っているのではない。本邦で、今まで、網にタカの類がかかったことはないと記されている。渡来人に聞いたところ、人に馴れさせて狩りに使うものを、百済ではクチと言っているという。割注に、「是今時鷹也」とあり、「今時」に「鷹」であると言っている。往時、何と言っていたかは口を緘している。クチは百済語である。ヤマトで外来語のクチという語を採用したわけではなく、タカと言っている。空間的に“渡り”鳥なばかりか、時間的にも“渡り”鳥である。巧みなレトリック表現として“渡り鳥”であることを示唆してくれている。ヤマトコトバのワタル(渡)のワタは海と関係するようである(注3)。
自然科学による種の同定など古代の人は関知しない。飼い慣らして人間の役に立てる存在になった時、hawk という野生動物がタカとしてありありと人の前に現れる。言葉として立ち上がる。大陸の北方地域には、鷹狩に役立ちやすいタカが棲息していたらしく、中華帝国にも伝えられた。鷹狩用の鷹がその技術とともに伝えられ、鷹を捕まえるところからはじまり、養い育て馴れさせ思いどおりに操れるようにすることができるようになった。それを紀の記事はきちんと伝えてくれている。「是鳥之類」と書いてある。鷹狩に使うのは、オオタカ、ハヤブサ、クマタカ、ハイタカなど、「類」の鳥であって一種ではない。鷹狩に使う鳥を、タカと通称することが言葉の使い方として便利なのである。隼狩という語を造っても混乱が生じるだけである。
故、今高く往く鵠の音を聞きて、始めて阿芸登比為き。爾に山辺之大鶙 此は人の名ぞ。を遣して其の鳥を取らしめき。故、是の人、其の鵠を追ひ尋ねて、木国より針間国に到り、亦、稲羽国に追ひ越えて、即ち、旦波国・多遅麻国に到り、東の方に追ひ廻りて、近淡海国に到りて、乃ち三野国に越え、尾張国より伝ひて科野国に追ひ、遂に高志国に到りて、和那美の水門にして網を張り、其の鳥を取りて持ち上り献りき。故、其の水門を号けて和那美の水門と謂ふ。(垂仁記)
「山辺之大鶙」という人名があるから、タカがいたことは間違いない。「和奈美」という地名は、ワナ(罠)+アミ(網)を示している。ハクチョウを捕まえるのに、颯爽とした鷹狩ではなく、鈍くさい罠・網猟が行われている。仁徳紀と併せて考えれば、本邦の自然界にタカはいたが、鷹狩は行われておらず、仁徳朝になって鷹狩技術が伝えられ、人々の意識の上にタカという語がクローズアップされたということになる。
穴穂御子のアナホとは、アナ(孔)+ナホ(直)という意と解されたのであろう(注4)。鷹狩のタカのように遠くまで威勢よく飛び“渡り”、方向的にもぶれずにナホ(直)に飛ぶとしている。それが「今時矢」である。人から発射されて敵方の人に狙いを定めて直に飛び射殺すもの、まるで鷹狩のように命中するすぐれもの、それが「穴穂箭」の特徴である。
以上の理解は、無文字時代に行われていたであろう思考過程によく合致するものと考える。名とは呼ばれるものであり、名によって名づけるとは呼ばれるものによって呼ばれることを意味する。それ以上でもそれ以下でもない。すなわち、「軽太子」とは「軽」という地名と関係があるかもしれないが、それだけではなくてどこかに軽率さを持った性格を示した名であろう。そして、銅を矢の箆に仕込めば威力が増すかと考えて試したら、重すぎて通常の弓では飛ばず、結果、戦に敗れたことを述べている。太子の失策を一言で表わしたいのなら、「重箭」ではなくて「軽箭」であることの方が数段、洒落がきつい。言い当てて妙なる言葉づかいこそ、文字を持たずにダイレクトに言葉に向き合った人たちにしっくり来るものであったろう。同母妹の軽大郎女との近親相姦で罪に問われ、そして流罪に処せられたことも、まるでカルガモが行列を作って引っ越すようなことに譬えられて面白がられたに違いない。
カルガモの親子(https://www.wikiwand.com/ja/カルガモ、Alpsdake様撮影)
このように、「爾時所レ作矢者、銅二其箭之内一。故、号二其矢一謂二軽箭一。」、「此王子所レ作之矢者、即今時之矢者也。是、謂二穴穂箭一。」という分注は、それだけで、自らの言葉に依って立ちながら、立派な譚として成立しているのである。
(注)
(注1)古事記伝に、「銅とは、鏃は凡て神代より鉄以て造ることなるを、今新に銅以て造れるなり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/402、漢字の旧字体は改めた)とある。西宮1993.は、「「軽箭」は「矢竹にわづかに銅を詰めただけの俄か作りの矢で、軽いのはよいが殺傷力のない矢」であり、「穴穂箭」は「今日使用の鉄鏃の矢で、手頃な重さで、殺傷力にすぐれた矢」である」(460頁)、「その二種の矢を、「軽箭」は「軽太子」の、「穴穂箭」は「穴穂皇子」の製作にかかるやうに懸けて注文を作成したものである」(同頁)と説明する。そして、「二種の矢の実体と機能を把握することができるならば、 その製作者への懸けやうもより明白となるのであつて、両者の勝敗をこれだけで予知せしめることにもなつてゐるのである。〈注〉の表記形式をとるものは、太安萬侶の筆になる部分であるが、やはり極めてすぐれて文学的な注文であるといふより他はない。」(同頁)と評価している。ここにいう「文学的」とは近代の概念と思われるが、無文字時代の言語活動はそれ自体、現代とそこまで通じるものではない。そして、「軽箭」、「穴穂箭」という名称譚は、勝敗の「予知」を示す記述ではなく、その絶対性を言葉で言い当てている、逆言すれば、言葉とは言い当てたものである。言い当てているから皆が納得してそのとおりと思って流通する、それが言葉である。
一方、服部2017.は、西宮1993.の解釈に対して、「『記』の叙述をリアリズムから推定するような説明には疑問がある。」(3頁)といい、「軽太子が矢の製造に劣ると語られるのは、太子が軍を率いる(臣下とともに戦う)という、臣下を統べる能力の一つが不足していることを示すと考え」(8頁)ている。「軽太子譚における矢製造の割注も、……皇族間の争いを通して天皇の資質を示す記述の一部として『記』の中に位置づけることができる。」(同頁)と総括している。しかし、趣旨がそれだけのこととなると、「軽箭」、「穴穂箭」なる命名譚は特段、必要なものではなくなる。無文字文化の言語活動において伝えられているということは、必要にして十分なことと考えられる。過不足なく伝えて行くしか記憶の連鎖は生じ得ない。覚えていられないことは伝えていくことはできず、納得できないことは覚える気にもならない。
オング1991.は、声の文化にもとづく思考と表現の特徴として、「状況依存的 situational であって、抽象的でない」(107頁)とし、「声の文化のなかでは、概念が、状況依存的で操作的な operational 準拠枠において〔概念が状況や操作を指し示すというしかたで〕用いられる傾向がある。こうした準拠枠は、人が生活している生活世界にまだ密着しているという意味で、抽象の度合はきわめて小さい。〔概念の状況依存的、操作的使用という〕この現象をあつかった文献はかなりの量にのぼる。」(107~108頁)と述べている。筆者は古事記はその序に明記されているように、稗田阿礼が口述しているものを太安万侶が書き記したものであると考える。だから、古事記の記述は「抽象的でない」。「軽箭」、「穴穂箭」を説明した割注部分も、太安万侶の創案によるものではなく、そのものずばりが「状況依存的 situational」に成立している“譚” であって、「皇族間の争いを通して天皇の資質を示す」ために添加されたのではない。音声言語はその場限りで消えてしまう。後講釈で辻褄を合わせる話など、無文字文化時代には“話(咄・噺・譚)”として成立しえない。8世紀初頭、天皇制の正統性を主張したいがために古事記は撰録の機会を得たのかもしれないが、その内容は、その目的のために創案されたものではなかった。古事記とはそもそも何かについては、序に書いてあるとおりに捉え、そういうものとして虚心坦懐に“読む”ことがテキストを読む姿勢として正しい。記述言語は創ることができるが、音声言語は述べることしかできない。
(注2)鷹の調教の仕方において、宮内省式部職編『放鷹』は「渡り」を次のように説明する。
渡り 渡りとは、餌を適当の大きさに切り、地上に落し、其の処に鷹を放ち、餌合子又は、丸鳩にて手元に呼び寄するなり。最初は、丸鳩にて呼び、鷹の様子に依り、餌合子にて呼ぶ。初め鷹には大緒を附し、馴るゝに従ひ、距離を延ばし、水縄又は忍縄を鷹に附して行ふ。之れを、呼渡りと云ふ。尚馴るゝに従ひ、木の枝に肉を置き、其場所に鷹を止まらせ、丸鳩又は餌合子にて手元に呼ぶ。之れを、渡りと云ふ。(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213512/204、漢字の旧字体は改めた)
(注3)白川1995.に、「水面などを直線的に横切って、向う側に着くことをいう。此方から向うまでの間を含めていい、時間のときにも連続した関係をいう。「わた」はおそらく海。「わたす」「わたる」は、海を渡ることが原義であろう。」(805頁)とある。
(注4)カルやアナホという言葉は、固有名詞として先に存したのであろう。その語義について納得が進む形で、カルヤ、アナホヤという言葉が対として認められるに至ったものと考えられる。したがって、今日の私たちが理解する上では、言葉の“語源”を探求するのではなく、実際に使っていた当時の人たちの“語感”について思いを致すことが大切である。
(引用・参考文献)
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
西宮1993. 西宮一民『古事記の研究』おうふう、平成5年。
服部2017. 服部剣仁矢「『古事記』軽太子と穴穂御子の対立における矢製造の意味─軽箭穴穂箭─」『都大論究』第54号、東京都立大学国語国文学会、2017年6月。
オング1991. W-J・オング著、桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳『声の文化と文字の文化』藤原書店、1991年。
※本稿は、2019年11月稿を2023年6月にルビ形式にしたものである。