古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

十握剣(とつかのつるぎ)を逆(さかしま)に立てる事─その上下の向きについて─

2017年08月16日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 十握剣とつかのつるぎ(十掬剣)が「さかしま」に立つ例は、次の三例である。はじめに、今日、ほぼ定訓とされている形で示す。

 ふたはしらの神、ここに、出雲国いづものくに五十田狭いたさ小汀をはま降到あまくだりて、則ち十握剣とつかのつるぎを抜きて、さかしまつちつきたてて、其の鋒端さきうちあぐみにゐて、大己貴神おほあなむちのかみに問ひてのたまはく、……(神代紀第九段本文)
 是を以て、此のふたはしらの神、出雲国の伊耶佐いざさ小浜をはまくだり到りて、十掬剣とつかのつるぎを抜き、さかしまに浪の穂に刺し立て、其の剣のさきあぐて、其の大国主神おほくにぬしのかみに問ひて言ひしく、……(記上)
 明旦くるつあしたいめの中のをしへに依りて、ほくらを開きてるに、果して落ちたる剣有りて、さかしまくら底板しきいたに立てり。即ち取りてたてまつる。(神武前紀戊午年六月)

 上二例は国譲りの場面で、大国主神を脅す際に立てられている。第三例は、神武天皇の東征で、熊野において霊験あらたかな剣が夢のお告げどおりに立っている。
 大国主神への慎重な脅し方は、「倒」状態で見せることである。大系本日本書紀に、「神武即位前紀戊午年六月条の高倉下の条に武甕雷が韴霊(ふつのみたま)の剣を下し、倒しまに庫の底板に立ったことが出ており、武甕槌系の剣霊の出現の仕方として、尖端を上にして立つ剣が考えられていたのであろう。」(370~371頁)とある。
 尖端を上にするというこの説は、広く認められた考え方である。新編全集本日本書紀には、「剣を逆さに立てることは、武甕雷神が韴霊ふつのみたまの剣を下す(神武即位前紀戊午年六月条……)例にもみられ、刀剣神の出現を意味する。その先に趺坐ふざする行法は、本来神の出現を願う司霊者の行為。「踞」はすわりこむ意。ここは「趺」に同じく、足を組む、あぐらをかく意。アグムは古訓。」(117頁)とある。また、西郷2005.には、「「逆に」というのは、剣はサキで刺すものであるのに、ここは柄の方を波頭に刺してたてたからである。高倉タカクラジが天照大神から霊剣を得る書紀の条……[も]おそらく神剣の示現形式であったのだろう。「逆に」つまり剣鋒を上に刺し立て云々というこの建御雷の姿も、剣を属性とする神の示現の形に他なるまい。」(265頁)とある(注1)
 剣の先を上とするのが「逆」であるとする考えは、本居宣長・古事記伝にすでに見られる。「○逆刺立サカサマニサシタテとは、剣は、サキを以サスものなるに、是は柄の方を刺立サシタツる故に、サカサマと云り、○剣前ツルギノサキは鋒なり、上にも御刀前ミハカシノサキなどあり、【延佳本に、前を麻閇マヘと訓るは、いみしきひがことなり、こは剣鋒に趺坐むは、イトあるまじきことなり、と思へるからの強事シヒゴトなり、凡て近世の人の、漢籍カラブミにへつらへる、なまさかしら心は、みなかくの如し、】書紀には、抜十握 ヲ-植サカサマニサシタテヽツチニ テ鋒端サキニとあり、【是をさへ白井氏などが、其マヘに踞る由に註したるは、いかにぞや、さては鋒字は何の用ぞ、いと可笑ヲカシくこそ、】……然れば書紀に踞其鋒端とあるは、剣鋒にコシ懸坐カケヲルを云る」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920805/1/342、漢字の旧字体は改めた)とある。
 文中に白井氏とあるのは、白井宗因・日本書紀神代私説(延宝二年)のことか。本居宣長は、自ら「鋒」の字をもって「漢籍カラブミにへつらへる、なまさかしら心」をもって唱えている。見慣れているかたなは片方に刃がついていて、他方が嶺となっている。その場合、「鋒」とあれば確実に先端部を指すと知られよう(注2)。ところが、今問題にしているのは、両刃の剣である。先っぽで刺したり突いたりすることが、この武器の活用法であったとは思われない。刺し突くものとして指向するなら、先端を尖らせたものを作ればいい。剣は、そうではなく、全身が刃である。刃がまわり連なって巡っている点が特徴である。牙のような刃がめぐり連なっているからツルキ(ギ)と呼ばれたのではないか(注3)
 「鋒」という字で表意しようとしているのは、実は全身につるんでいるから、どこの刃の端でも切るのに支障がないことのようである。すべてが鋒となっているものこそ剣であると言えるのである。
 通説のように、剣の刃のあるところに腰掛け坐ると、当然のことながら尻は切り裂けよう。武甕槌神たけみかづちのかみ(建御雷之神)や経津主神ふつぬしのかみ、または天鳥船神あめのとりふねのかみらはヨーガの先達だから、結跏趺坐して浮遊したのでもいうのであろうか。神武紀の例でも、刃の先の方を上にし、例えば頭椎くぶつちの方を土や床板に刺さるような状態を指すとされている。木製のつか(柄)が外れて、なかごが剥き出しにならなければ刺さらないだろう。考古遺物では、稲荷山鉄剣の銘文は剣の刃の切っ先を上にして書かれている。その文字の並びの方向が「さかしま」であると当時の人に認識されていたとは思われない。
左:金錯銘鉄剣(埼玉県行田市稲荷山古墳出土、古墳時代後期、471年。埼玉県立さきたま史跡の博物館ホームページhttps://sakitama-muse.spec.ed.jp/)、右:つるぎ(さきたま稲荷山古墳出土金象嵌銘鉄剣復元品、「工芸文化研究所サイト」様http://kougei-bunka.org/restore.html)
 それとは反対であると筆者は考える。なぜなら、神代紀の例で、頭椎のつち(槌)とつちは同音であり、一致していたら「倒」ではないと語学的に証明できている。「二神」(経津主神・武甕槌神)は「踞其鋒端」したとある。二神が蹲踞しているとは、「鋒」、つまり、両刃の剣の刃の両サイドに控えていることであろう。横綱土俵入りの際、西方か東方か、登場した横綱の両サイドには二力士が控えている。神武前紀戊午年六月条でも、底板に突き刺さっているのを「即取以進之」とある。柄頭が上にあるから「即」抜き取れる。柄が底板を抜いて立っていたら、刃ばかり見えていて取るのに手を拱いてしまう。
 記上に、「逆刺立于浪穂」とある。わざわざ「刺」と接頭して書いてあるものを、柄頭を波頭に入れると考えるのは困難である。「刺」ことができるのは、先が尖っているからである。波頭に刺し立てることが「逆」であると感じられるのは、波頭を「浪穂」と表現したように、青い波の上の方に砕けはじめの白さがある。反対に、「十掬剣」は、木製漆塗りか、革で覆われた把(柄)の黒い部分を上、白い刃の部分が下を向いている。そして、これは両刃剣である。
 神代紀に「鋒端」とある。古訓には「鋒端」にサキとしかない。切っ先のことと解されているが、両刃の剣の切れるところは、至るところ牙のような刃がめぐり連なっていてどこでも切れる。すなわち、いたるところ「鋒」である。新撰字鏡に、「鋒鏠 二作同、孚共反、鋭端、支利きり」とある。錐のように刺さり尖るところは、正面から見ているとどこにもないようでありながら、横から見ると刃の尖端ばかりあることに気づく。古事記では、続いて建御名方神が建御雷神の手を取る場面となる。

 ……かれあれづ其の御手みてを取らむとおもふ」といひき。故、其の御手を取らしむれば、即ち立氷たつひに取り成し、亦、つるぎに取り成しき。故、しかくして、ぢて退しりぞりき。(記上)

 手には建御雷神の本地神の姿、十掬剣が顕れていた。立氷は、垂氷たるひ、すなわち、つららの上下反対の形である。

 十二月廿四日、……日ごろ降りつる雪の今日はやみて、風などいたう吹きつれば、垂氷たるひいみじうしだり、つちなどこそむらむら白き所がちなれ、……(枕草子・第302段)
 朝日さす 軒のたるひは 解けながら などかつらゝの むすぼゝるらむ(源氏物語・末摘花)

 日本書紀では「端」字について、確実にハシと訓む例が多い。「瓊端たまのはし」(神代紀第六段一書第二)、「甲端よろひのはし」(允恭紀五年七月)、「縄端なはのはし」(顕宗紀元年二月是月)、「大きなる木のはし……すこしきなる木のはし」(継体紀二十三年四月是月)、「みみかねはしきが如し」(推古紀十二年四月、憲法十条)、「床席しきゐ頭端はし」(天智紀三年十二月是月)などとある。また、一定の幅をもって両側にはしを有するところから、布の単位として「むら」とも訓まれている。究極の使われ方として、「無端事あとなしごと」(天武紀朱鳥元年正月)といった例もある。言=事のつながりに端緒がないことの問い、すなわち、なぞなぞのことである。クイズのように正解が知識の形で与えられているのではない。お題を提示した人の思考の巡りをどこかでほどいて見極め、答えを導くものである。
 「端」をハシと訓む例が多いなか、「鋒端」をサキと訓むとばかり固執してはいけないようである。剣の名所の切っ先のことであるとは言い切れないのである。その箇所に対応する古事記の「剣前」についてみると、一般に、ツルギノサキと訓まれている。「前」をサキと訓んでいることによって、日本書紀のほうも「鋒端」をサキとドミノ式に訓んでいる。しかし、記にある「剣前」の「前」をサキと訓んで正しいかもわからない。
 古事記では、「前」字にサキ、マヘと訓む例が多い。場所を表す場合、「御刀之みはかしのさき」、「気多之けたのさき」、「笠沙之かささの御前みさき」、「訶夫羅かぶらさき」、「甜白檮之あまかしのさき」といった使われ方をしている。細長い物の先端部分、地形の岬の部分など、空間に突き出たところを表している。他方、神さまを祭る場合、「墨江之すみのえの三前みまへの大神おほかみ」、「いつく三前みまへの大神」、「御前みまへに仕へ奉る」、「吾がみまへに」といった使われ方をしている。神さまの前のところでお祭りをすることが求められている。
 場所以外の時間に用いられる場合、「以前さき」といい、また、「其の媛女をとめ等のさきに」、「最前いやさき」というように、列の先頭にいることもサキという。すると、サキとマヘとの間に、語意の違いが見て取れる。front にいて向こうを向いているのがサキ、対面してこちらを向いているのがマヘということになる。
 古事記の「其剣前」は場所性を表しているからサキとしか考えられないと思われている。しかし、その根拠とされる「前」のマヘ・サキ論には盲点がある。古事記で、「前」字には別の訓み方がある。「高志こしみちのくち角鹿つのが」、「床前とこのへ」である。越前国について、その「前」字の意味合いは、都に近いところである。諸国は都のヤマト朝廷に仕え奉るものと想定されていた。当然、都の要求にハイハイと答えるために都の方を向いていなければならない。そっぽを向かれては困る。だから、都から赴く場合、越の国の列としては一番後方に当たるけれど、先頭ではないのに「前」と記され、ミチノクチと訓まれている。
 「床前とこのへ」の例については、縦穴式住居においても、寝るために一段高くした「とこ」(ベッド状遺構)が設えられていたとされている(注4)。用例は三輪山伝説中にある。

 赤土はに以て床前とこのへに散し、へその紡麻うみをを以て針に貫き、其のきぬすそに刺せ。(崇神記)

 「床」のどこが「前」なのか、サキでもマヘでもない。床を取った藁布団か何かの周囲、周辺、辺りということである。その場合、「(ヘは甲類)」を表す。近いところ、あたり、ほとりのことを言う「辺」のことをヘ(甲類)と言っている。「(ヘは乙類)」とは別語である。

 …… 明星あかほしの くるあしたは 敷栲しきたへの とこ去らず 立てれども れども ……(万904)
 蟋蟀こほろぎの が床の辺へに 鳴きつつもとな 起きつつ 君に恋ふるに ねかてなくに(万2310)
 里とほみ 恋ひうらぶれぬ 真澄鏡まそかがみ 床の去らず いめに見えこそ(万2501)
 頭辺、此には摩苦羅陛まくらへと云ふ。脚辺、此には阿度陛あとへと云ふ。(神代紀第五段一書第七)

 十握剣(十掬剣)の「鋒端」=「剣前」とはどこかが明らかとなった。すなわち、剣を刺した部分のヘ(甲類)のところである(注5)。記紀ともに、ヘ(乙類)の部分を表すとすると、辺りに当たるところであると述べていることになる。「地」や「浪穂」や「底板」にぴったり当たっているのだから、辺りと考えるのは当たりであると確かめられ、語学的検証となる。よって、次のように訓む可能性が生じる。

 其の鋒端くちさきらうちあぐみにゐて、(神代紀第九段本文)
 其の剣のあぐて、(記上)

 紀の「端」字にはヘ(甲類)という訓が他に見られないため、近縁語のクチサキラとした。
 クチサキラという語は、新訳華厳経音義私記に、「吻 無粉反、脣の両角の頭辺を謂ふなり。くち左岐良さきら」とある。和名抄に、「脣吻 説文に脣吻〈上の音は旬、久知比留くちびる、下の音は粉、久知佐岐良くちさきら〉と云ふ。」、「觜〈喙附〉 説文に云はく、觜〈音は斯、久知波之くちばし〉は鳥の喙なり、喙〈音は衛、久知佐岐良くちさきら、文選序に鷹の之れを礪ぐは是〉は鳥の口なりといふ。」とある。名義抄で、「話 サキラ」とあるのは、巧みな言葉の義で、意味が拡張している。もともとの意味は、口の端、口の脇、鳥のくちばしを言っていた。
 ラは接尾語で、辺りのことをいう。角川古語大辞典に、「ら【等】接尾」に、「②一般的な体言に付いて、ややぼかした表現とする。そのものだけに限らず、同類のものを含めたり、周辺のものにまで及ぼしたりする。」(882頁)と解説する。

 …… ぐはし 花橘はなたちばな 下枝しづえらは 人みな取り 上枝ほつえは 鳥居とりゐらし ……(紀35)
 荒野あらのらに 里はあれども 大王おほきみの 敷きす時は 都と成りぬ(万929)
 大野らに 小雨こさめ降りしく もとに 時と寄りね へる人(万2457)
 吾妹子わぎめこと 二人ふたりわが見し うちする 駿河するがらは くふしくめあるか(万4345)
 ひさかたの あまかはに 舟けて 君待つらは 明けずもあらぬか(万2070)
 富人とみひとの 家の子どもの 着る身み くたし棄つらむ 絁綿きぬわたらはも(万900)

 クチサキラは、クチサキのどこらへんのことを指すかと言えば、さきらへん、辺りのことを指す。それは、先端というよりも、口角のところを言っているようである。和名抄では形体部・鼻口類と、羽族部・鳥体に記載されている。くちさきが達者とは、おしゃべり上手の人のことをいう。つるぎに近い音の鳥にツルがいる。「鶴の鳴き声」(「m nehanaha」様https://www.youtube.com/watch?v=DN4hAVEUN5U)で瞭然のとおり、しっかり上を向いて鳴いている。上を向いている時が「正」、下を向いている時が「逆」に当たる。ツルギの上下「逆」とは、ツルが泥中の餌をついばんだ時の様子と相同する。
ツル(丹頂鶴自然公園、「メデタイ・ツルタ」様http://www.medetai-tsuruta.jp/spot/sightseeing/naturepark.html)
 今、両刃の剣について見ている。鳥のくちばしは二つ合わさってできている。同じように、刀の背(嶺)を合せたような姿が両刃の剣である。クチサキラと訓むことの正しさの傍証の一である。その二は、クチサキラの最後の二音、キラにある。「鋒端」の「端」字は、日本書紀で、「端正きらぎらし」(神代紀第十段一書第第三)、「端麗きらぎらし」(雄略紀二年十月)、「端厳きらぎらし」(欽明紀十三年十月)などと訓んでいる。キラが二つ合わさった語として成っている。刀の光の反射は振り回すと一度のきらめきであるが、剣の光の反射は二度である。きらぎらしい(注6)。クチサキラという言葉はよく練られた語である。そして、布が幅を持っているがためにその単位を「むら」という助数詞を用いており、そこでも同じくラという音が接尾している。その三である。
 つまり、剣のあまり尖っていない突端を上にするのではなく、ふつうに地面や波頭に上から下へと突き刺して、その突き刺された場所の付近、辺りに、二神は蹲踞したり、趺坐していたということになる。宙に浮くようなことを、「踞」や「趺坐」と書き表すことはない。刃の上に「踞」や「趺坐」することももちろんできない。
「逆手」(「日本護身協会公式ブログ」様https://ameblo.jp/goshin-jp/entry-11318937586.html)
 殊更に「さかしま」と言っている。第一に考えられるのは持ち手のあり方の違いである。順手でなく逆手のことが念頭にあるのであろう。ヤクザ映画に、乗り込んだ先の組事務所の机にどす・・を逆手に持って突き刺すシーンがある。「どす」という語については、おどすの略ではないかとされている。あいくちのことをいう。十握剣も同様に用いられている。実用品というよりも、脅しの材料に用いられている。古事記の「浪の穂」に上から剣を突き刺す場合、波頭の上昇するのとは反対の方向へ、すなわち鉛直方向で下へと剣は向かう。本来の威儀具としての剣の用法の「逆」ということになる。
 神武紀の例では、「ほくら底板しきいた」に逆さに突き刺さっている。これが「逆」である所以は、そこが「ほくら」、つまり、神庫のことを指すからであろう。「ほくら」については、「神庫、此には保玖羅ほくらと云ふ。」(垂仁紀八十七年二月)とあり、ホコラ(祠)へと音転する語である。名義抄に、「秀倉 ホクラ、一に神殿と云ふ」とある。ホクラのホは「浪の穂」のホと同じである。高く抜きんでていて人目に立つ部分である。そして、ホクラは高床式倉庫のことである。
 剣の各部の名称は、刃のある部分が身、それに鞘で包んで保護し、手で握るところはつか(柄)である。顕示するために輝く身を上に掲げる。ツカは下にくる。高床式倉庫も、倉庫の空間に宝物や穀物を納める。そこがクラの(ミは乙類)の部分となり、(ミは乙類)を入れておくわけである。「底板」の下には束柱が立つ床下がある。
 日葡辞書に、次のようにある。

 Tçuca. l, tçucabavira. ツカ.または,ツカバシラ(束,または,束柱) 床板などの下に,それを支えるために立てる小さな柱,すなわち,支柱.¶Tçucauo cǒ.(束を支ふ)ある材の下にこの支柱を立てる.
 Tcuca. ツカ(柄) 刀の柄,または,小刀などの柄.(622頁)

 ものの上下として、ツカ(束、把)が下、ミ(身、実)が上である。それが、いま、ツカが上、ミが下に「逆」に突き刺さっていると言っている。
 以上、ヤマトコトバに書かれてある事柄についてヤマトコトバによって解釈した。現代の研究で散見されるような、「倒植」は漢語であって云々、神話学的に言えば云々、といった小理屈を捏ね回すことはしていない。ヤマトコトバしか知らない人が語り聞く言い伝えに、それ以外の何らの知識による伝承もあり得ない。わからないからである。わからなければ一代限りの話として消えていく。消えずに残されて記紀に記されているのは、ヤマトコトバの話(咄・噺・譚)として理解でき、共有できたからである。おもしろがって伝えている。今日の記紀研究で流行しているように天皇制の正統性を一生懸命に訴えたところで、その場限りで消えて行ったに違いない。つまらないからである。今日のいわゆる学界は、学界であることを保つために自ら基本的なスタンスを踏み違えている。

(注)
(注1)最近論じられたものとして、岩田2017.がある。基本的にこれまでの考え方を踏襲している。

 [記紀]両伝とも、十掬(握)剣を抜き、逆さまにして、その上に「趺坐あぐみ(踞)」をして坐したとある。「前」は、空間的にはある位置を中心に据えた、その前方部を指すが、『古事記』では、「御刀之前」(神代記 迦具土殺害)、「甜白檮之前」(垂仁記)など細長い「もの」の尖端を表わす意が見られる。「気多之前」(神代記  稲羽素菟)、「御大之前」(同 少名毘古那)、「笠沙之御前」(同天孫降臨)、「訶夫羅前」(神武記)は岬の意で、空間において突き出した先端部をいうと考えられる。逆さまというのは、刃の先端を上に向けて立てたということ。その上に座ることは、通常なら考えられない行為である。『古事記」ではさらに、それが「浪の穂」の上で行われたとある。(44頁)

 「通常なら考えられない行為」が想定されていることが十掬剣や建御雷神の凄さであると仮定して検証がなされている。当たり前の話であるが、「通常なら考えられない行為」は、通常考えられないのだから、上代においても考えられない。よくわからない話が残されているのは、今日の人にとってわからない話にすぎず、当時の人にはわかっていた話である。冷静になってきちんと読み直すことが求められている。「さかしま」という強調や、「端」や「前」と記されている意味合いについて検討する必要があるということである。
 岩田2017.は、「「剣」で「もの」を刺す行為は本来、刃を対象に向けて行使する。それが「逆」であることは力が対象とは逆、この場合は上方に向かっていることを意味する。」、「「剣」の刃が上を向いている状態であることを示す「さかしま」という表現は、「剣」の霊威が対象(建御雷神の場面では刺し立てる場所)とは逆の方向に向くことを意味する。」(52頁)と言う。その前提で「もの」の表現方法について議論を展開している。「もの」をいかに表現するかといった、言葉が後付けされるとの考えは本末転倒である。言葉で/が切り取ることによって世界は存在している。無文字文化において、抽象的な思考が行われて形而上学たることはあり得ない。
(注2)刀の名所については、「王曰、天子之剣何如。曰、天子之剣、以燕谿・石城鋒、齊代為鍔、晋衛為脊、周宋為鐔、韓魏為夾。……」(荘子・雑篇・説剣第三十)の高山寺本鎌倉初期訓点に、「鋒」にサキ、「鍔」にヤキハ、「脊」にミネ、「鐔」にツミハ、「夾」にツカとある。これは、片側に刃の付いた刀である。両刃剣に「脊(背)」となる峰は見えない。日葡辞書に、「mine.ミネ(嶺・峰) 山の頂上.¶catanano mine. (刀の峰)刀(catana)の背のとがった所.」(407頁)とある。
(注3)拙稿「剣大刀(つるぎたち)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/8feb7ca2873a817c4911725835dd577a参照。
(注4)小泉2005.参照。
(注5)岩波古語辞典に、「へ【辺・端・方】(一)〘名詞〙《最も古くは、「おき(沖)」に対して、身近な海浜の意。また、奥深い所に対して、端(はし)・境界となる所。或るものの付近。また、イヅヘ(何方)・ユクヘ(行方)など行く先・方面・方向の意に使われ、移行の動作を示す動詞と共に用いられて助詞「へ」へと発展した》①海の岸辺。……②端(はし)にあたる場所。……③近い所。ほとり。あたり。……(二)〘接尾〙①…の方。方向。……②《時間に用いて》大体その頃。……」(1179頁)とある。
(注6)推古天皇が、「姿色みかほ端麗きらぎらしく、進止みふるまひ軌制をさをさし。」(推古前紀)と形容されるのは、右から見ても左から見ても美人であり、秩序立って乱れないことを言っている。豪族間の左派、右派どちらからみても同じであって、ヲサ(長)たる人としてふさわしかったということを表す文章としてふさわしく、文章としてふさわしいのは実態としてそうであったということを表すのにふさわしいことが、語学的に証明される。

(引用・参考文献)
岩田2017. 岩田芳子『古代における表現の方法』塙書房、2017年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
角川古語大辞典 中村幸彦・阪倉篤義・岡見正雄編『角川古語大辞典 第五巻』角川書店、平成11年。
小泉2005. 小泉和子『室内と家具の歴史』中央公論社(中公文庫)、2005年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第三巻』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『日本書紀①』小学館、1994年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編・訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1992年。

※本稿は、2017年8月稿を2024年6月にルビ形式にしたものである。

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